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2023年11月7日

多余的話(2023年11月)  『半周おくれのセミナー報告』

井上 邦久

長年なじんできた「華人研」という会の名称を今年から変更して、
Think Asia Seminar (TAS: www.kajinken.jp)としました。
中国も含めたアジア全域に視野を広げたい、という思いは強くても容易ではなく、身の丈の範囲でボツボツやっています。何とか年を越えて、来年も寺子屋サイズで質疑応答にたっぷり時間を確保していきたいと思います。

年始は「台湾の書店から見る100年」、
2月は大坂町人文化の拠点「懐徳堂」を軸にしたテーマ、
3月には昨年同様の趣向で「崑劇・昆曲」の実技と解説を予定しています。

第二土曜日の午後2時から公私にご多用な皆さんに梅田まで足を運び、2,000円の参加料を払っていただけることが運営の基盤になっています。次にご多忙な講師の方々に申し訳程度の薄謝で登壇願えることが文字通り有難いことです。
幹事・スタッフが100%のボランティアで会の準備やHPを更新することで支えています。

3月の「変面・実技と解説」に続いて、4月からの流れを大まかに伝えさせていただきます。

4月、長年にわたり環境問題、とりわけ中国の環境政策について、調査や研究を続けてこられた中島弁護士に報告をお願いしました。
運営者の理解と参加者への説明が不十分であったため、中国の環境がテーマと言えば10年くらい前までの「おどろおどろしい」環境破壊をイメージして来られた方が多かったかも知れません。逆に言えば、現在の環境政策についてのお話はステレオタイプではなかったので却って意外な発見があったかも知れません。

上海近郊へ進出した製造企業が、操業後の環境規制の強化で移転を余儀なくされる例に多く接してきました。酷い環境破壊は報道されても、徐々に改善されている実態を採り上げるメディアは少ないので、中島弁護士からのリアルな報告は貴重でした。印象的だったのは、「住民からの環境破壊に対する訴訟案件は多いが、司法判断が出ることは少ない。だが係争中に行政が問題案件を先に解決してしまう」ケースの紹介でした。
裁判で白黒をつけない、責任の所在は外部から追及されない、ただし住民の環境状態は一義的に改善されている・・・。
不思議な「三方よし」ではないかと、自分なりに解釈しました。また住民の怒りの根源には高邁な理念もあるでしょうが、それ以上に化学工場などの新設によって所有する住宅価値が下がるのを嫌うことの方にあるようです。
中国ではすでに無産階級の割合が小さくなっている現実も環境問題を考える一つの視点ではないかと思いました。
続いて7月、厳善平教授に安徽省の農村から大学進学や留学を果たした体験に基づく『三農政策』をざっくばらんに語って頂きました。
案内チラシにも活用した写真は、厳先生が撮影したもので現実を鋭く切り取った画像として、示唆に富む解説の材料にされました。
今年も春節明けに発布された2023年一号文件(中共中央 国务院关于做好2023年全面推进乡村振兴重点工作的意见)の分析と20年余りにわたり党・政府一号文件(その年の最重要政策とされる建前)に農業政策が掲げられてきた意味、それだけ重視された農業問題がどのように変化したか(或いはしなかったか)について詳しい資料に準拠して解説されました。
人口動態、戸籍政策、所得格差、権利格差、移動実態の視点から、農業問題が中国の根幹に関わるものでありながら、それでいて長く軽視されてきた事情を知りました。メディアから伝えられる機会の少ない農村戸籍と都市戸籍の二本立て制度の目的、その戸籍制度が撤廃されたとする報道と実態の違い(戸籍ではなく住民票の移動の自由のみ)についても刮目させられました。
華人研時代から例会のテーマとして、第一次産業に注意を払わず、第二次産業、第三次産業に偏った企画を続けたことを反省させられました。
酷暑の夏は一休みして、
9月に「トキ」の再生について遠来の森康二郎さん(京大農学部→環境庁・省→日中トキセンター)に語って頂きました。絶滅した日本野生のトキの再生と日中間の協力を終始見届けてきた体験と東アジアの歴史・地理を俯瞰しながらトキの未来に思いを馳せる視点が印象的でした。
中国と日本の間に位置する朝鮮半島で、最後にトキが確認されたのは38度線の休戦ライン付近の湿地であったという話から、北朝鮮で発見される可能性にも想像の翼が拡がりました。
泥鰌や蛙を餌とするトキには、農薬を多く使用しない湿地が必要条件の一つなので、第一次産業政策と背中合わせの生き物かも知れません。
トキの生息地である中国西北地域から少し北に位置する黄土高原の一隅で、30年にわたり植林緑化や地域産業育成の活動を継続しているNGO「緑と地球のネットワーク(GEN)」副代表高見邦雄さんから直近の現地報告を10月に聴きました。
経済合理性重視のなかで、手作りのNPOや「国進民退」傾向が加速するなかでのNGO活動の居心地の悪さについて個人的には危惧と疑問を感じていました。黄土高原にこつこつと苗を育てていた土地が地元行政機関に召し上げられて緑地公園になる、高層マンション群が、すぐ近くまで押し寄せている、風力発電の装置が林立している・・・というリアルな報告内容もありました。
それらの状況に対して高見さんは長年にわたり中国社会で体験してきた変化への対応力、現地の人に密着してきた親和力、商品作物栽培などで培った経済力について穏やかに説明されました。併せて中国での活動と日本での学習を並行して行うことを通じて築いたネットワークの持続力を知り、多くの老若男女に身近な公園や里山での体験講習を通じて、生態系に眼を向ける機会を作る啓発力を感じました。
地球の表土を傷つける行為(戦争・乱開発・災害・・・)が、 続く中でのセミナーで、報告者各位から全球的な視野と生態系への理解に溢れた報告を聴き、丁寧な質疑応答によって意識と情報の深耕ができました。四名の「語り部」に感謝します

2023年10月22日

多余的話(2023年10月)  『小伝馬町』

井上 邦久

火照るような酷暑が10月になり一気に気温が下がると朝夕の風が爽やかに感じるようになりました。東京、日本橋小伝馬町の寶田恵比寿神社のべったら市の頃になりました。下町小伝馬町での勤め人だった日々や行き交った人々を懐かしく思い出す季節です。

大阪本社の中国貿易室を入社三か月でお払い箱になり、東京支社中国プラント室に異動しました。1970年代の初頭の中国は「洋躍進」と称された勢いで大型プラント契約を重ねた時期でした。繊維原料となるプロピレンやアクリルニトリル等のプラントを受注した結果、各プラント50人前後の技術実習員の受け入れ要員として、「中国語を話せるはずの猫の手」を必要としていました。着任した翌日に川崎へ移動し、上海金山石化の実習団に挨拶をして同宿、その翌日からはヘルメット・作業服・安全靴の出で立ちで化学工場での三交替シフトに組み込まれていきました。
機械設備や化学反応の専門用語どころか、日常会話さえも覚束ない中国語レベルだったので化学メーカーの技術者や中国人実習員に迷惑をかけ続けました。休日の箱根へのバス旅行での通訳も一種の辛い修行でした。にこやかに語るバスガイドの「こちら小田原の名物は提灯・蒲鉾・梅干です」といった案内をブッツケで訳しようもなく、絶望的になったことを50年後の今でも悪夢のように思い出します。

その前年の秋には瞿秋白研究を卒業論文に選び、遺書とも偽作とも云われる『多余的話(言わずもがなの記)』の解読に取り組んでいました。その学生が工場現場で「猫の手」勤め人になっている変化に我が事ながら「これでいいのかな?」と不思議に思っていました。
当時の中国政府の外貨準備計画が甘かったせいか、プラント契約の破棄も含めて新規発注に急ブレーキがかかり、中国プラント室は解体。当然ながら戦力外通告を受けた後、樹脂製品の国内物流業務に再配置されました。そこはベテランの女性社員がフィルムやトレイの受発注をテキパキとこなす部署であり、中国語の需要は皆無。簿記や算盤に疎い者は「猫の手」としても使って貰えませんでした。悶々と地下鉄小伝馬町駅の階段を数えながら上り下る毎日でした。

昼間の「借りてきた猫」は夕方からは鯨のように飲み虎になりました。小伝馬町・人形町・神田がホームグラウンド。この先どうしたものか、色々な人の話を聴いて考えました。螺旋進化論や花田清輝の楕円の思想にかぶれ、今の仕事はjobなのか、businessなのか、はたまたworkなのか? 結論の出るはずもない二十代半ばの迷走迷妄でした。
その頃、中国では文化大革命が終息、鄧小平が再登場し1978年に「経済改革・対外開放」政策を打ち出しました。地方分権・外資導入に対応すべく社内の中国シフトも再燃しました。
その流れで大阪の貿易営業部に釣り揚げられ、上司から「猫の手」ではなく「自家用車(自前の通訳)」と呼ばれ、着任時にはすでに広西壮族自治区の鉱山開発地域への出張、次は杭州小交易会、更には秋の広州交易会参加と続くスケジュールが自分の与り知らぬところで決まっていました。
それからは目を白黒させる暇もなく、北京・青島駐在まで10年間をノンブレスで走り続けました。春・秋の広州交易会に20回連続で参加して、広州の市場経済の萌芽、深圳特区の開発、それを先導して稼ぎまくる香港を定点観測できたことは貴重な体験でした。 

小伝馬町の隣の通油町に生まれた長谷川時雨の『旧聞日本橋』には幕末から明治の伝馬町牢屋の名残、大丸呉服店の賑わいや黒塀が連なる小伝馬町の問屋などが丁寧に定点記録されています。
50年前にこの本を手にしていたら小伝馬町での徘徊にも潤いが添えられたことでしょう。末妹の長谷川春子は戦時下の女流画家を束ねて時局に迎合、戦後は画壇から距離を置かれたようです。時雨自身も海軍委嘱の活動で奔走し、文芸慰問団として台湾・海南島まで赴いています。
『旧聞日本橋』は長谷川時雨より一世代若い沢村貞子の『私の浅草』とともに東京下町の風情や生業などが、炊き立ての飯に茄子の古漬けが添えられた朝餉のように、飾り気なく味わい深く描かれた貴重な庶民の記録だと思います。
この二人は関東大震災の体験もしています。

大震災から100年目の今年、森達也監督と地方史研究の辻野弥生氏がほぼ並行して調査準備を重ねて映画と書籍に表現した『福田村事件』を観てから読みました。大震災直後の9月6日午前10時頃、千葉県福田村(現野田市)で起こった惨劇を森監督はいつものドキュメンタリースタイルではなく、実に見事な劇映画に仕上げています。
9月1日の公開前から多くのメディアによって「今こそ伝えるべき」「よくぞ作品にしてくれた」と激賞され、上映期間や映画館が今も増えているようです。称賛することに異存はない作品ですが、自らも含めて、自発的に言挙げできず、森監督の作品や辻野氏の著作に追従している印象が残ります。そんな中、『福田村事件』は釜山映画祭で高い評価を得たと知り、彼我の懐の深さの違いを感じました。
森監督はオウム真理教をドキュメンタリーにしていますが、何故小伝馬町駅が地下鉄サリン事件に巻き込まれたか不詳です。

2023年9月12日

多余的話(2023年9月) 『送り火』

井上 邦久

毎年9月の初めは京都深草の石峰寺での若冲忌を綴ることが多い。今年はTAS(華人研)の例会に重なり、法要に参加する代わりに、事前に寺が所蔵する若冲作品の内覧会に出向いた。

8月に寺のお宝(住職と作品)が人気美術番組に紹介されたこともあり、初日早朝から長蛇の列ができたとメディア敬遠派の住職はとまどい気味だった。若冲への関心が薄かった1950年代から作品収集を続けたプライス夫妻が春から夏に逝去したことも話題になった。ジョー・プライス氏がシレっと「日本で巡り合った最良の作品は、ワイフの悦子」と惚気ていたことを思い出す。
プライス氏が初来日した頃に生まれた草刈正雄の半生にスポットを当てたNHK「ファミリーヒストリー」が反響を呼んだ。国鉄時代、日豊本線の下り準急列車は小倉を出ると行橋、そして中津に停車した。行橋でバスの車掌だった母親と米軍に接収された築城基地の米軍兵士との出会いがあり正雄が授かった。まもなく父親は朝鮮半島に向かい戦死した、ことになっていた。

筆者は生まれ故郷の中津から転々と移住し、山口県徳山市で中学から高校の初めを過ごした。髪を伸ばし始めた頃に資生堂が男性化粧品MG5を売り出した。
銀と黒の市松模様の意匠と、斑の猟犬を連れた京都生まれの団次郎がブランドイメージを担った。草刈正雄は弟分として登場し、二人は「日本人ばなれした」容姿のモデル・俳優として注目を集めた。脚の長さは違っても、草刈正雄は同世代であり、同郷(小倉・行橋・中津は豊前国)なので気になる存在であった。
彼の出自に戦争とOccupied Japanの影を感じていた。
番組の調査の結果、母親から聞かされ本人も信じ込んでいた「戦死した父親」は、朝鮮半島から米国に生還し、再婚して10年ほど前まで存命であったという残酷な事実が知らされた。言葉を失った感のある草刈正雄の表情に俳優のそれとは異なる印象を感じた。

朝鮮半島で緊張が増していた頃、台湾を密出国し、1949年9月30日に天津に上陸した朱實(俳号:瞿麦)老師は今春に大往生された。納骨式が老師の誕生日でもある9月30日に上海で催される。とても残念ながら今回の上海への渡航は断念し、東京在住の一人息子さんの朱海慶画伯に欠礼のお詫びをして二人で老師を偲んだ。朱實老師については『上海の戦後・人びとの模索・越境・記憶』(勉誠出版)などに小文を寄稿してきた。ここでは台湾に帰郷できた時、亡父母の墓前で作られた句「掃苔や幾星霜の祈り込め」を紹介するに留めたい。

7月上旬から7週間、経過観察や定期検査の通院と食材購入の他は外出を控えてきた。恒例の高校野球大会もテレビで観戦した。その中で8月16日は久しぶりに京都、佛教大学紫野キャンパスで夕方から行われた「送り火」特別講座に参加した。八木透教授による梵語のウランバナ(盂蘭盆会)由来説から送り火の意味まで興味深いお話を聴いた。十五世紀末、足利義政の愛息早世を弔う「大文字」を起源とする送り火についての想像力に満ちた解説には説得力があり、控えめな姿勢が魅力的だった。

江戸慶長年間から途切れることなく続いた行事が1943年~1945年に灯火管制の為に中止となり、代わりに白い体操服の人や児童が山に上り「大」の人文字を作ったとの説明があった。担ぎ上げる人手も少なくなり、燃やす松明も松根油(crude tall oil)用途を優先されたのかも知れないと愚考した。
灯火管制は1945年8月20日で解除され、1946年8月16日から送り火は再開されたとされる。(なお、1950年の福岡市、小倉市、行橋市では板付基地防御のため灯火管制が行われたとある。)

講演後はスライドやビデオを鑑賞しながら下鴨茶寮の弁当、佐々木酒造の清酒を楽しんだ。20時過ぎに大文字から順に点火されて、いよいよ左大文字の番になった。裏庭の正面近くの山に筆順通りに火が連なっていった。

この世を留守にしていった人たちを静かに見送ることができた。

毎年8月15日正午、炎天下[井上邦久1] 甲子園球場の選手や売り子の動きが止まる静寂の中で黙祷をする習慣であった。これからは佛教大学での送り火を追悼の習慣にしたいと思った。
「死ぬときは箸置くように草の花」(軽舟)・・・代表作ということになっている、と作者は控えめに書き、続けて母もいちばん好きだと言っていた、と大切なことをさらりと綴っている。・・・
              (小川軽舟『俳句とくらす』中公新書より抜粋)

前から句集を編んだらどうかと亡母から言われてきたが、菲才の凡句を集めるとマイナスの二乗となるので控えてきた。今回は朱實老師や軽舟氏には瞑目願って、手向けの拙句を並べます。

「藻刈舟流転の果てに櫂を置き」
「夏の朝拾い残した母の骨」
「送り火は彼岸に向かう澪標」[


 [

 [邦井2]

2023年8月9日

『老子を』読む(十九)最終

                          第76章~第81章

井嶋 悠

第76

 人の生まるるや柔弱、其の死するや堅強なり。万物草木生まるるや柔脆(じゅうぜい)、其の死するや枯槁(ここう)[干からび]なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。・・・・強大なるは下に処(お)り、柔弱なるは上に処る。

◇教師は毎年生徒を送り出し、新しく迎える。教師は齢を重ねて行くだけである。優れた教師は、毎年新しい生徒を前に自問自答し、若い感性を取り込んで行く。

第77

 天の道は、余り有るを損じて、而して足らざるを補う。人の道は則ち然らず。足らざるを損じて、以って余り有るに奉ず。

◇学校での競争原理とは何か。知識の優れた者を善しとし、足りない者を不可[不善]ちすることなのか。多くは否と否定するであろうが、結果としての評価の根底に「試験」(テスト)がある限り、夢のまた夢か。

『推薦入試』の在りようを再考、再検討すべき時かもしれない。あまりに形骸化し過ぎている・・・・・。

第78

 天下水より柔弱なるは莫し。而も堅強を攻むる者、これに能く勝る莫し。

 弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。・・・・正言は反するが若し。

◇学校が堅強になればなるほど魅力は下がる。何となれば、権威主義の傲慢がはびこり始めた証しだから。このことは「東大」を頂点とした世間知を見れば一目瞭然である。

第79

 大怨(たいえん)[深刻な怨み言]を和すれば、必ず余怨(よえん)有り。安(いずくん)んぞ以って善と為すべけんや。

 徳有る者は契を司り[割符の管理者]、は徹を司る。[税の取立人]。天道は親(しん)[えこひいき]無し、常に善人に与す。

◇人が、生徒が集まる所、常に対立、怨有り。善き学校、教師は生徒の「割符:その善き存在の証し」を持ち、承知し、己が私的えこひいき「親」なく司って行く。

第80

 小国寡民、什(じゅう)伯(はく)の[たくさんの]器(き)有るも而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而して遠く徒(移)らざらしめば、・・・・・甲兵有りと雖も、これを陳(つら)ぬる所[見せびらかす時]無からん。・・・・其の居に安んじ、

其の俗を楽しましめば、隣国相い望み、鶏犬の声相い聞こえゆるも、民は老死に至るまで、相い往来せざらん。

◇国内外の学校交流を奨励する学校は多い。己が欠けていることを知り、励みとするも、己が優位の意識を持てば、いかがばかりであろう。しかし、謙虚さがあれば、やはり交流は盛んであって然るべきだろうか。

「井の中なの蛙大海を知らず」と言うが「深窓の令息、令嬢」というのもある。

第81

 信言は美ならず[実のあることばは飾り気がない]、美言は信ならず。善なる者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。

 聖人は積まず。尽(ことごと)く以って人の為にして、己は愈々(いよいよ)有り。尽くを以って人に与えて、己は愈々多し。

 天の道は、利して而して害せず、聖人の道は、為して而して争そわず。

◇有名無実の学校にいることほど虚しいものはない。怠惰な惰性でもなく、虚無の日々でもなく、心ひ一つに己が学校時間に在ることの幸いを実感したいものである。

2023年8月6日

多余的話(2023年8月) 『三農政策』

井上 邦久

7月末の日経新聞に『中国経済の現状と展望』と題する論文が連載されました。著名な研究者の考察であり既読の方も多いと推測しますが、屋上屋を重ねるお節介を承知の上で簡単な紹介を試みます。

(7/27)㊤ 津上俊哉氏「不振企業延命の副作用拡大」

(7/28)㊥ 梶谷 懐氏「積極財政と年金拡充が急務」

(7/31)㊦ 西村友作氏「国家DX戦略で成長目指す」

年齢もキャリアも三者三様であり、論述の切り口も各様であった。

㊤:「巨額投資も効率が低下し負債残高が急膨張・隠れた政府保証が富の配分をゆがませる」と指摘。ゾンビ企業が淘汰されず、無効な保証の金利コストが4.8兆元、GDP比4.0%と試算されている。

㊥:「苦境の地方政府が地方債発行を巡り不正・地方政府に対策を丸投げする制度を見直せ」と主張。住宅価格の下落と国有地使用権の譲渡収入の急減少、年金制度の不備が不動産バブルの一因とする。

㊦:「デジタル中国」建設へ政府が強い指導力を発揮中・挙国体制のイノベーションが発展のカギ、としている。焦点をデジタル経済に絞り、経済発展の「量」から「質」への転換を習近平総書記による強い指導で目指すと指摘。

㊤㊥㊦いずれも添えられた試算表・グラフ・概念図が主要テーマのイメ―ジを明示している。

㊤㊥は、過去の中央と地方の「丸投げ」と「持たれあい」の結果として問題化している「現状」を示し、当面の処方箋を提示している。  

㊦は、過去の矛盾の延長線上としての「現状」分析よりも、強力な指導力の下での挙国体制による「展望」に力点を置いているようだ。

過去には、その時々の個別の矛盾や問題は、大きな「成長」の波に吞み込まれて先送りされてしまった印象がある。現在、個々の問題は全体に繋がり、相互に影響を及ぼすだけの存在感がある。そしてそれらの問題を凌駕できるほどの「成長」は望むべくもないと思う。 
今回の企画は、中国経済を多面的に論じるに相応しい論者を選び短期集中の連載としている。それによって、各人の立ち位置と個性を浮かび上がらせる構成ではないかと推察した。
まさに「多余的話」で恐縮ながら、㊤は「習政権」という表現を用い、数字を駆使した印象が強かった。㊦は「習近平総書記」「習氏」を主語としたカタカナ語句の多い文章のように感じた。
㊦の最終章の「22年のデジタル化浸透度は第3次産業の44.7%に対し、第2次産業が24.0%、第1次産業が10.5%だ」に着目した。  

7月第二土曜日、Think Asia Seminar(華人研)の例会で、同志社大学の厳善平教授に中国の三農政策について話して頂いた。冒頭に幹事から三農(農業・農村・農民)問題が、戸籍、貧困、教育、農民工、男女間差別など多くの課題に外延し且つ内包すること、それにも関わらず会として第一次産業をテーマとするのは第160回目にして初めてであることを伝え、遅きに失した反省のメッセージとした。

(→ www.kajinken.jp →「最近のセミナー」ご参照下さい)

・胡錦涛政権以降に三農政策が党・政府のメインテーマ化(1号文件)
・農業税撤廃、教育無償化、医療浸透、農村戸籍撤廃、土地流動化
→「これだけ頑張っても農民の収入は低く、権利も弱い」

・統計上は食糧生産が増加しつつも、農産物の輸入が着実に増加→食品価格が相対的に下がり、エンゲル係数が都市/農村共に低下
・モノ輸出は大幅黒字、農産物輸入赤字で貿易摩擦を緩和している
・農村居住者数:1978年に総人口の82%→2022年、1/3に減少
→第一次産業従事者:70%→24%。若者の農業離れと高齢化
・農家は請負権を譲り小作料収入とする。大規模企業経営化が進む。

多くの変化が印象に残った。㊦が指摘する第1次産業へのデジタル化浸透度が増加するか?それを考える背景の一端も知り得た。以上、
お節介な記事の紹介とセミナーの簡単な報告とします。

7月8日の例会以降に能動的な活動の余裕がなかったこともあり、先賢からの受け売り話に終始して恐縮です。

此処からは長年の戒めを外して私事を綴らせて頂きます。
北九州・山口に線状降水帯が発生した直後、7月10日早朝に実母危篤の連絡があり、山陽新幹線の運行回復を待って徳山へ移動。
病院に駆けつけた時には小康状態で循環器系医師による説明のお陰で一息入れました。持久戦を前提とした善後策を講じて帰阪。茨木に戻って休んでいた夜、再度「急変」の電話があり訃報となりました。 
心の整理はあとにして、再度徳山に移動して、妹一家のケアとサポートをしながら、家族葬で見送りました。16歳で離別してから長い時間を経て今回は物理的にも「LONG GOODBY」となりました。
生きている間に触れることができたことと、通夜を勤めることで独占できたことが最後の幸運でした。毎月の拙文を丁寧に読み込んでくれた熱心な読者をなくしました。忌中、暑中、喪中が続くなか、欠席や欠礼を重ねています。
茨木で静かに過ごしながら、空洞化した心を無理に励起することなく、放ったままにしています。

2023年7月9日

『老子』を読む(十八)

井嶋 悠

第71

 知りて知らずとするは上なり。知らずして知るとするは病(へい)[欠点・短所]なり。夫れ唯だ病を病とす、是を以って病あらず。

×「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れを知るなり。」(論語)の合理主義

◇どこまでも人間自覚を毅然と持つ謙虚さ。老子の謙虚さの無限性と孔子の謙虚さの現実性。在るべき教師像。

 学校が持つ現実の合理性と、教え育むことが持つ無限としての知への、感性の練磨の悦び。

第72

 自ら知りて[明知]自ら見わさず、自ら愛して自ら貴しとせず。故に彼[法家の厳罰主義]を去てて此れ[無為自然]を取る。

◇自らを信じない者に限って、事が起こると抑え、罰則をつくろうとする。時間は限られている中、この発想は一見正当と思えるが、長い未来を考えれば愚策である。信頼関係のためには「上」が「自」を誇るべきではない。学校にあって、常に上である教師ゆえの低い所に在る教師。

第73

 天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召(まね)かずして自ずから来たし、繟(せん)然[泰然]として善く謀る[為し遂げる]。天網恢恢[広大]、疏[粗い]にして失せず[漏らさず]。無為自然[天]の大きさ。

◇教師は生徒の範であり反。その調和を意識化した時に生まれる学校の誉、伝統。大らか過ぎず、細か過ぎず。

第74

 常に殺[死刑]を司る者有りて殺す。夫れ殺を司る者に代わりて殺すは、是れ大匠(たいしょう)[大工の名人]に代わりて削るなり。

◇教師が生徒を処罰することの難しさ。宗教系私学の二重の難しさ?

第75

 民の治め難きは、其の上[お上]の為すこと有る[あれこれ干渉する]を以って、是を以って治め難し。

 唯だ生を以って為すこと無き者は、是れ生を貴ぶ[生命を尊重し重視する養生一派]より賢(まさ)る。

◇理想の学校としての、それぞれがそれぞれの自然態に委ねて営まれ、そこに生徒教師それぞれの、両者の調和が醸し出される姿。

2023年7月7日

多余的話(2023年7月) 『乞巧奠(きっこうでん)』

井上 邦久

水無月の夏祓いが過ぎれば年の半分が過ぎたことに気付かされる。線状降水帯が発生し、集中的な大雨や水害が報道される毎日。以前は馴染みのなかった線状降水帯という現象が天気図に表示されると、これは天の帯状疱疹ではないかと思えてくる。

そんな中でもこの夏初めての朝顔が一輪咲いた。2009年から上海・北京、その後の横浜のベランダで育てた朝顔のDNAが繋がったと思い込んでいる。定点観測のように明石海峡の画像をほぼ毎日送ってくれるW氏から、アサガオ(朝顔・蕣)の生薬由来の漢語表現という「牽牛花」を教わり、七夕への連想が蔓のように延びていった。

春の頃に、京都今出川の冷泉家時雨亭文庫の後継者が決まったという記事があり、七夕には乞巧奠の主宰者となる人かなと想像した。たまたま、改称したばかりのThink Asia Seminar(華人研)のHP、『燕山夜話』の7月号「中国古代的婦女節」に漫文を「ひとそえ」した。
古代の織姫伝説を近代の女工哀史に繋ぐ牽強付会の漫文を綴りながら、手芸技術(巧)の上達を願う(乞)、乞巧奠の起源を再認識できた。古代中国の習わしを現代の京都に繋いでいる冷泉家という存在には畏れ入るばかりである。時雨亭文庫には歌の家の務めとして「古今和歌集」や「明月記」などが護られている。

東京日日新聞(現在の毎日新聞社)の昭和13年7月27日号に、「世紀の記録・本因坊名人引退碁」という大見出しの独占記事が多くの写真とともに報じられている。江戸時代から続く本因坊家第21世本因坊秀哉が毎日新聞社に本因坊の名跡を譲った上で、引退することになり、予選を勝ち抜いてきた木谷實七段と「世紀の一戦」に臨む、と伝える内容である。
その観戦記の執筆を川端康成が務め、解説役を呉泉六段(呉清源)が担った。家の芸を伝承する碁打ち名人と近代囲碁の実力棋士との勝負ということで江湖の注目を集めたようだ。

川端康成文学館での福田淳子昭和女子大学教授による講座でこの一戦の時代背景や毎日新聞による将棋名人戦の創設に続く、囲碁の最高権威を独占する戦略を教わった。観戦記は米国やドイツなどでも注目を集める一方、同じ時期の新聞資料には「オリムピック中止」「漢口暁の猛爆撃」「ソ満国境線緊張(張鼓峰事件)」などの大活字が眼をひく。観戦記の見出しにも「木谷の鋭鋒 果然爆弾を投ずる!」「木谷戦車隊中央に突入」「敵中の伏兵生還」などの見出しが躍って盤上の戦も時代の空気を煽る文字で修飾されている。 

練度の高い福田教授の資料によると、川端康成は昭和13年12月28日までの全64回の観戦記を素材にした小説『名人』に仕上げた。大戦を挟む20年近い期間に改稿を繰り返していることが分かる。
また戦後の全集版には観戦記の見出しは削除されている由。

引用された川端康成自身の「観戦記には読者をひくための舞文も多く、感傷の誇張がはなはだしく・・・」の文言に注目したい。「舞文」(ぶぶん)とは「字典」などによると、自分勝手に言葉をもてあそんで、自分に有利な文章を書くこと。舞文弄法の四字成語となると、自分勝手な解釈で法律を濫用すること、とある。
観戦記の見出しや記事をすべて川端康成が書いたか、記者が手を加えたかは不詳だ。しかし、川端は昭和20年春、沖縄戦の頃に鹿児島県鹿屋基地に派遣され、訓練中の事故を知り、特攻を前にした学徒兵に接している。そして舞文と捉えられかねない寄稿もしている。
観戦記から小説『名人』に到るまでの改稿には、鹿屋体験が反映したかもしれない。(鹿屋体験について、従来の年譜には見当たらなかったが、昨年『生命の谺 川端康成と「特攻」』多胡吉郎:現代書館が上梓され、詳しい報告と考察を知ることができた)。鹿屋での戦争体験が戦後の『山の音』などの作品に水琴窟のように響く気がする。

昨今、各国で重要な法律が施行されている。本国会のスルーパス的な法案成立率に驚かされる。マカオ「国家安全維持法改正案」は昨年8月からのパブリックコメント収集や立法院審議を経て漸く成立(『東亜』7月号 塩出浩和氏の連載「マカオは今vol.76」に詳しい)。
中国でも次々に安全保障目的の法律が公にされているが、5月1日から施行された「徴兵規則」については余り耳目を引いていない気がする。従来の志願制・選抜制からの転換であり、農村出身者ではなく大学生がターゲットになっているようだ。
それぞれの為政者による「弄法」がないか注視するとともに、それを伝えるメディアに「舞文」がないか気をつけたい

藤原定家の『明月記』は本の名と、戦中から8月15日後の上海で生活体験をした堀田善衛の評論を通じて、「紅旗征戎非吾事(吾が事に非ず)」の一文で知られている。源平合戦・源氏内訌・承久大乱を同時代人として体験した定家が、戦の世を「非吾事」と諦観したのか、はたまたこれにも「舞文」の要素があるのか・・・

七七事変の日を前にした「言わずもがなの記(多余的話)」の愚考拙文は反故の類いであり、どの文庫にも収まることはあり得ない。  

2023年6月7日

多余的話(2023年6月) 『読書会』

井上 邦久

第4土曜日朝からの講読会は感染症の拡大時期も毎月継続した。米寿の老師による対面解説や板書説明が講読会の存続価値であり、楽しみでもあるので、オンライン開催への移行はしなかった。
全5集、150編余りの文章を毎月1編のペースで読み継いで、今は第3集の半ばを過ぎた処、先はまだまだ長い。再校正を施した原文と訳文に加え、関連する画像や時代背景の説明文を「ひとそえ」して、HP(http://www.kajinken.jp)に継続掲載している。

博覧強記の鄧拓は古い時代の引用が多いので、古文の読解が壁になる。予習段階での各人の試訳への添削指導の多くは、古文に関するものとなる。先日も「皆さん方は辞書を利用して熟語解釈をしようとする。現代文はまだしも古文の場合は一つ一つの字に注意をすべき。
辞典ではなく先ず字典を開きなさい」とお小言を頂戴した。1960年代社会の閉塞感に風穴を開けようと仕掛ける鄧拓の意図が、昨今の権威主義の復活とともに時代を越えてリアルに感じられる。

茨木市立図書館の掲示に読書会の案内があった。3月の課題は、『インビジブル』(坂上泉)。罌粟を通じて摂津と大陸が繋がれる世界を描いた作品を採り上げていたので読書会に初参加した。続く4月の課題は井上靖の『氷壁』ということで、こちらも地元茨木に縁が深い作家なので下調べをした。
図書館に併設されている富士正晴記念館で井上靖の特集展示が催されていたことを思い出した。
うろ覚えの記憶で、井上から富士宛ての就職紹介の書簡や井上が富士のノートに国鉄茨木駅から間借り先への略図を描いたノートを複写したいと申し込んだ。富士・井上両家の著作権継承者の承諾が必要とのことで、各確認先を教えてもらい往復葉書で要請した。
富士家からはすぐに応諾返信葉書が届いたが、司書の方は両家からの応諾が揃わなければ駄目と職務に忠実だった。一か月後に井上家からも丁重なお詫びとともに応諾の連絡が届き、できれば収蔵品に加えたいとの要請があった。御礼代わりに届けた。
敗戦直後も茨木駅近くに井上靖が住んでいたことが、本人直筆の略図により確認できた。後年、『闘牛』での芥川賞受賞から、『氷壁』などの新聞小説で流行作家になるずっと前のことである。ノーベル文学賞の発表毎に話題になる村上春樹に似た存在でもあったようだ。

1945年8月16日の大阪毎日新聞に井上靖記者が記事を書いたことは夙に知られている。その日付が印象に残るばかりで、どんな内容か知らずにいた。1907年旭川生まれなので記事執筆当時は38歳、ただ29歳で新聞社に入り、中国戦線に従軍もしているので、記者としての実績はそれほど長くない。また入社してすぐに「麻雀でいえば『オリタ』」と書いているように、毎日新聞社の懸賞小説受賞が縁で入社してからも猛烈な記者ではなかったようだ。その井上靖記者の

「玉音ラジオに拝して」 忝けなさ・にじむ感涙・脈打つ決意 一億祖国再建へ
 
と題する記事が表裏一枚だけの紙面の裏頁トップに掲載されている。
中之島図書館でマイクロフィルムから複写してもらったが、タイトルはまだしも細字の記事は滲んで読みにくかった。
毎日新聞社大阪本社に電話で問い合わせると、3回目に転送された部署から打てば響くような対応で、複写の入手方法を懇切に教えて貰えた。約束の時間に訪れると、予めセットされたパソコン前に案内され記事の確認と拡大複写サイズを懇切に相談してくれた。
記事は二つに分かれている。
初めて耳にした「玉の御聲」に畏まり、ひたすら勿体なく、申し訳なさを繰り返す前半。後半では、大阪毎日新聞社内部の対応説明を綴ったあと、「一億団結して己が職場を守り、皇国再建へ新発足すること、これが日本臣民の道である、われわれは今日も明日も筆をとる!」と結ばれている。

一方、同じ毎日新聞西部本社版では、空白の多い紙面が8月20日まで続いた。
公的機関からの発表と事実の推移のみを載せ、戦時下のストック原稿は使わないことにした由。
大阪毎日紙では16日にも「特攻百首」の黒枠欄に時世の歌を載せている。西部本社で空白の多い紙面作りを指揮編集したのは、高杉孝二郎編集局長だった。
「昨日まで鬼畜米英を唱え、焦土決戦を叫び続けた紙面を、同じ編集者の手によって180度の大転換をするような器用なまねは到底良心が許さなかった。”国民も今日から転換するのだ“など、どの面下げていえた義理か」と後に高杉氏は振り返ったという。
この間の経緯については、池田一之『新聞ジャーナリズムの思想・行動』に詳しい。

高杉の弁が誰に向けられているか?開戦のとき、疑いもなく勇ましい紙面を作った猛烈記者としての高杉自身に対してかも知れない。彼は職を辞し、浪人生活の後、千葉の小新聞で働いたという。
「白紙」による意思表示は10年前まで愛読していた『南方周末』などでも見たことがある。

2023年5月11日

『老子』を読む (十七)

井嶋 悠

第66

 民に上たらんと欲すれば、必ず言を以ってこれに下り[謙譲・謙下]、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以ってこれに後(おく)る。
其の争わざる[不争]を以って、故に天下能くこれと争う莫し。

◇権力を持つと己を誉め、自負し、いつしか傲慢になる。その時当事者は感覚が麻痺していて何も気づかない。言葉には愛を込めて言うが、そこに響くのはことさらの仕業でしかない。校長も同じである。そんな人をどれほどに見て来たことだろう。

第67

 我れに三宝有り、持してこれを保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らず。仏・法・僧

◇学校としての三宝とは何だろうか。自由への責任・自己の小なることの自覚・己が夢への抑制された欲望

第68

 善く士たる者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与(とも)にせず。[不争の徳]
「百戦百勝は、善の善なるものにあらず」[孫子]「戦わずして敵兵を屈服させるを、善の善なるもの」

◇私学経営は、管見ながら四苦八苦である。少子化の時代、ますます競争の時代である。それに巻き込まれるのは子どもであり、保護者である。何という残酷。その意味、公立高校の伝統校の泰然とした強さ。そういう私学(中高校)は、あるやなしや。進学、国際、英語。高齢化を迎えての日本の寂しさ。

第69

 禍いは敵を軽んずるより大なるは莫(な)し。敵を軽んずれば、ほとんど吾が宝[三宝:慈・倹・天下の先と為らず]を喪わん。故に兵を抗(あ)げて相い如(し)けば、哀しむ者勝つ。

◇他者への愛。それがあっての競争原理と競争有る処に必ず有る[かなしみ]の自覚。学校の在るべき姿。

第70

 我れを知る者希なるは、則ち我れ貴し。是を以って聖人は褐(かつ)[粗末な上着]を被(き)て玉を抱く。

◇近代的な校舎、行き届いた最新設備が善い学校の証しか。誰しも思い、或る時間が経ちその世界を当たり前となった時、建物、設備より大切なものがあることに気づく。モノは有限であり、ココロは無限である。現代の難しい課題ではある。

2023年5月6日

多余的話(2023年5月)  『八十八夜』

井上 邦久

立春から八十八夜余りのこの頃は、朝の冷え込みと昼の陽ざしが体内時計をきりりと調整してくれます。夏も近づき、若葉が繁る一日、大山崎山荘へ。小径を囲む青モミジの先端にヘリコプターのような種子が一杯でした。天王山の眼下に流れる宇治川・木津川を遡ると、宇治・田原の茶摘みの季節です。
5月3日の日経朝刊は、静岡・京都・福岡の新茶(一番茶)の初値を伝えていました。生育時の気温が高めで品質が良く、贈答・土産用の需要が高まる中での初取引会は、静岡で対前年比37%高、宇治では65%高と、ここでも「コロナ後」への期待が高まっています。
とは言え、ペットボトル用の二番茶を除く高級煎茶の国内需要は急須に淹れて飲む習慣が薄れてジリ貧、「日本食ブーム、抹茶輸出に活路」と将来を予測しています。開港開国の頃から生糸とともに緑茶の対欧米輸出が盛んだったことを知らぬ茶舗の小学生だった頃には、無邪気に茶摘みの歌を口にしていました。
「摘めよ、摘め、摘め、摘まねばならぬ、摘まにゃ日本の茶にならぬ」の歌が外貨獲得や産業振興の応援歌だと知ったのはずっと後のことでした。150年ぶりに日本茶の輸出が盛んになるのでしょうか。

上海から関西空港に降りた友人が「明前茶」を持参してくれました。清明節の前に若葉を摘んだ新茶である「明前龍井」を数年ぶりに賞味できました。
山東省青島に住んでいた1990年の初夏、茶舗の黒板に白墨で書かれた「好消息!新茶上市!」を見て、前年の動乱から一年が過ぎたことを実感した印象は今も鮮明です。
新緑、新茶、新生姜、新玉葱・・・と新鮮な春の楽しみが続きますところが、昨今は「新」ならぬ「シン・〇〇」が大流行です。なぜか「シンゴジラ」は「新ゴジラ」ではなく、その真の意味が不明です。
・・・2022年12月末日、ゼロコロナから全員コロナを経て日常が回復し始めた北京にて、と「おわりに」に記された『シン・中国人――激変する社会と悩める若者たち』(ちくま新書)を読み始めた3月に、偶然中国在住の友人からこの本の推薦があり、「シン」の中国語訳を著者の斎藤淳子さんに訊ねてもらいました。すぐに丁寧な以下回答、

・・・正直、この本の題は今日の日本国内向けにつけたものです。中国で中国語表現するなら、多分こうはしなかったと思います。ですから、答えは、「訳出は無いです」。
日本語では、「新」しく、「真」実の、そして「深」く、更に「心」にも迫る、という思いを込めています。みんなの知らない新しい人々(の心に迫る真実かつ深いレポ)の意味かな。・・・を受け取りました。
この新書にも引用されている厳善平教授には、7月華人研例会で、『中国のアキレス腱だった三農問題の変容―20年連続の「中央1号文件」は何をもたらしたか―』の報告をして頂くことになっています。

斎藤淳子さんの報告にも、盛沢山のポップな事象の通底音のような古くて新しい三農問題が流れている印象があります。
社会の格差、食糧安全保障、ジェンダー、農民工、合計特殊出生率、そして環境問題の根幹に農村・農民・農業の三農問題がありそうだと、貴州や四川の山間の農村や都市近郊の豊かな農村を巡りながら感じてきました。
「シン」とともに「リアル」という単語がよく使われている印象があります。晃洋書房から出版されたばかりの兪敏浩編著の12編からなる『中国のリアル―人々は何を悩み、何を追い求めているのか』を執筆者のお一人から届けていただきました。
女性の地位、LGBTQ+、プロテスタント教会、民族問題、留守児童、ボランティア、中小企業主、退役軍人などをテーマに、移り変わる中国のリアル、その社会に生きる人々のリアルを綴っています。

編著者による「まえがき」から長めの抜粋をすると、
・・・民主主義の欠如、貧富の格差の問題を抱えていても結局中国という国家は大多数の中国人にとっての生活の場なのである。だからこそ中国の人々の生活環境と日常は、中国という国の社会のしくみを理解するための「みちびき」となりうる。さらに等身大の中国人について学ぶことで、生活者としての中国人、苦悩と希望が交差する人間社会という中国のもつ普遍的な一面にも気づけるだろう。・・・とあります。
この真摯で高邁な出版理念が成功しているか?「あれもこれも」ではなく「あれとこれと」に焦点を絞ることができているか?それらを評価する力はないにしても、「リアル」を追及する手法を教えて貰ったことは確かです。

移動規制が徐々に緩み、久しぶりにリアルに会える人たちも増えてきました。停滞していた心身に「喝」を入れて頂いています。その一つに教育関係者が口にした「窮山悪水」という四字成語があります。色々な解釈ができるでしょうが、貧しい環境では水も濁ってくる、というリアルな例えでした。
せっかくの銘茶も、濁った水では台無しであり、良い環境の名水が必須、或いは茶葉が無くても良質の水を飲めれば心身に良さそうです。
ただ「上善如水」と勝手に解釈して新酒を水のように呑むことはほどほどに致します。