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2021年1月19日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第五章 卒業式

生きる過程で意識されて来る人権について、後年の基礎を授けてくれた中学校の3年間が終わりを迎える。3年間は瞬くうちに過ぎて行った。私の前に様々な人が現われ、私を刺激し、考える種を植え付けて行った。
しかし、卒業式を迎える前に、中学時代最後の難関が待ち受けていた。卒業の4か月ほど前だった、私は金銭を“彼ら”から強要された。

その頃、一部の男子生徒の間で、教室の机の上での硬貨[小銭]によるおはじき賭博が流行っていた。硬貨は、当時1円、5円、10円で、相手の硬貨を自身の硬貨で机外に落とすのである。賭博とまで言ったのは、落としたらその硬貨は自身のものになるからである。だから、それをする生徒たちは教師に見つからないよう注意を払わなくてはならず、興じるのは放課後であった。その場には、ほぼ常に彼らの姿があった。負けが増えれば元手が必要になる。当然の成り行きである。

私が教室横の廊下を家に帰るべく歩いていたその時、彼らは教室から出て来て声を掛けた。
「金、貸してくれやっ」
私は拒否した。貸したら最後、返ってこないことは明白であるが、そのことよりもただただ彼らの行為を拒む私がいた。私は羽交い絞めにされ(何度目だろう!?)、彼らはあの入学式よろしくいささかの殴打をした。その時である。廊下の端の方に一人の女子生徒がこちらに眼を向けていた。彼らにも分かった。彼らはあわてて教室内に入った。私は解放され帰宅した。

教師からの私への事情確認はなく、彼らにはあったのかどうか知らないが、翌日、彼らの一週間の停学[自宅謹慎]が発表された。女子生徒が職員室に駆け込んだのである。もし女子生徒が駆け込まなかったら、事は何も起こらなかったかもしれない。女子生徒を責めているのではない。彼女は当たり前のことをしたに過ぎないのだから。彼らが私に小銭を要求したことなど誰にも、家でも、いわんや教師にも、言わなかっただろうから。ただ、処分を発することでのその後について、彼らが私に何をするか、教師は恐らく何も考えていなかったことは想像できた。

その時点で、私は彼らにとって決定的にして最終的?な敵(かたき)となったのである。入学式の一件の息が怒涛の如く吹き返したのである。私にとっては、今回のことも逆恨みとしか思えないのだが、彼らの地域のことがどうしても離れず、混乱していた。彼らの屈折した行動の背景また虐げられた歴史が、頭を瞬間過ぎり、彼らの我がまま勝手な、しかも犯罪である行為との間で、私の心は揺れた。彼らの行為は犯罪であると断じ切れなかった私がいた。悔しく悲しかった。

この感覚は、教師になって日独ハーフ[ダブル]の、やんちゃを繰り返していた男子生徒との出会いで持ち得たものと似ている。
最後の在職校は、日本の或る私立中高校と世界ネットワークのインターナショナルスクールの一校との、日本で最初の協働校であった。ここで学んだことは、実に多岐にわたった[とりわけインターナショナルスクール側の生徒、保護者、教職員から多くのことを学んだ]が、ここでは一人のインターナショナルスクール生徒の彼のことだけにする。

彼が下校時、女子生徒に嫌がらせをしていた時、思わず彼を地に押さえつけ、彼女を解放した。その直後、インターナショナルスクール側の校長及び日本側を含めた二人のカウンセラー、彼のクラス担任そして私を含め彼の言い分を聞く機会がカウンセリングルームで持たれた。
彼は、時に涙を浮かべ、堤防が決壊したかのように話し続けた。彼は言うのである。彼の第1言語である英語で。
確かに自分は成績も良くないが、一生懸命していた。しかし、先生方は誰も理解しくれず成績は「F」ばかりだった[成績評価はABCDFの5段階で、Fはfault欠点である]と。彼の言葉に揺れる私がいた。彼が話し終わった時、私は何も話さず、握手の手を差し出した。彼は少し驚いた表情で受け入れてくれた。それがすべてで、彼とは10年以上経った今も交流がある。
彼は2児の父親になっている。夫人は日本人の幼稚園の先生である。彼のドイツ人の母親は苦笑して言っていた。「日本型モーレツサラリーマンになるとは」と。
その時の心持ちと先の彼らへの心情が似ているのである。もちろんこれも感傷的同情ならば彼らまた彼にとっては唾棄すべきこと、との心情をどこかで承知してのことであるが。私には、握手を求め無言で謝罪するしか彼に応ずる手立てはなかったのである。

ところで、私の英語力は私の公立中学校高校時代のネーティブスピーカーとの会話などなかった読み書き英語の中位程度であった。それから30有余年後、彼から気づかされた先のこと以外に、相当の集中力をもってすれば、悪評高い[公立英語]だけであっても彼が語った上記のことは分かるということだった。ちょっとうれしく、誇らしかった。

「ハーフ」と「ダブル」の言葉遣いに関して補足する
ハーフの場合、私の中で二つの文化の対立イメージがあるが、ダブルの場合、並立イメージが感じられ、そのためハーフではその葛藤とそこからの屈折を想像し、ダブルは共存からの心地良さに似た快を想像する。彼の言い分を聞くに、葛藤と屈折を感じたのでハーフを先に置いた。現在、社会ではダブルの方が優勢になりつつあるように思うが、まだまだであろうか。

彼らの停学処分の1週間が経ち、彼らは復学し、私を徹底的に恨んだ。彼らの私を見る眼には、憎しみ以上に殺気を感じた。年が変わり、卒業式がより具体的に私たちの前に示されつつあった或る日、彼らは私を校舎裏に呼び出し、一言言った。
「殺したるからなっ」
私は彼らならやりかねないと直感し、担任教師に相談した。そして卒業式を迎えることになるのである。
学校として教師間での話し合いが進められたのであろう。数日後、クラス担任から自宅に電話連絡があった。
「式会場から正門までは、在校生等で人の垣根ができることになりますので、正門を出た所にどなたか若い男性の待機をお願いします。合流後、直ぐに帰宅をお願いします。」と。
これで彼らは、解散後私を拘束できないというわけである。そこで旧知の若い人にお願いし当日を迎えることになった。

彼らにしてみれば、予定していた行動の機会を、人垣と大人の防御で失うこととなり、私への敵意は一層強くなることが予想されたが、仕方がない。幸いにも自宅の場所は知られていない。生徒名簿はあるが、さすがにそれから自宅を見つけ出すほどまでには執着していなかったのだろうか、直接訪問或いは自宅近くでの待ち伏せもなかった。他にもいろいろと彼らとして為すべきことがあったのかもしれない。いかんせん卒業式の日は、ほぼ毎年と言っていいほどに教師への「復讐」が、繰り広げられる学校ではあったので。他の中学校でもあったようだが。この日それがあったかどうかは定かではない。

高校に進学後、私は電車通学となり、彼らの記憶も過去のこととなりつつあった。そんな折、一度電車駅の構内の階段で彼らのリーダーとすれ違ったことがあった。しかし、多くの人が行き交う中であり、私を激しくにらみつけるだけで事なきを得た。それ以降今日に到るまで一度も会っていない。
彼らの卒業後については、それぞれ彼らにとって決して好ましいとは思えない境遇のようだと伝え聞いたことがある。また第三章で記した彼女と彼がどうなったのかも知らない。