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2022年12月3日

『老子』を読む [十三]

井嶋 悠

第51

 道、これを生じ、徳、これを畜(やしな)い、物、これを形づくり、器、これを成す。生ずるも而も有とせず、為すも而も恃まず、長たるも而も宰たらず。是を玄得と謂う。

◇私学の教育理念は「道」である。公立は国に仕える、とすれば「国」=「道」とならざるを得ない。怖ろしいことになる一面については歴史が証している。とは言え私学も同様な部分はある。理念の形骸化、例えば宗教上の主義はお題目となる。その宗教を伝えるのが人であり、言葉であることで壁にぶつかる。しかし、そこに音楽が加わることで生徒・人々の心に深く沁み入る。音楽の持つ神的力。音楽に形はない。そして音楽は恃まない。ぼんやりとした無限、夢幻の世界。道。

第52

 天下に始め有り、以って天下の母と為すべし。既にその母[道]を得て、以って其の子[万物]を知る。…其の穴[耳や目や口の感覚器官。欲望の入り口]を開き、其の事を済せば、終身救われず。小を見るは明と曰(い)い、柔を守るを強と曰う。其の光[知恵の光]を用いて、其の明[母としての明智]に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺す無し。

◇母、道を具体的に伝えるのは教師である。その教師に求められる信念と徳。言葉だけの上っ面の信念、似非徳は、10代の感性は直観的に分別する。管理職と現場の調和と乖離がもたらす不信。

私学より公立の方が、ますますもって微妙で、複雑ではないか。

第53

 我れをして介然[微細]として知有らしめば、大道を行くに、唯だ施(ななめ)なる[脇道](小賢しい知恵)を是れ畏れん。大道は甚だ夷(たい)[平]らかなるも、而も民は径(こみち)を好む。

◇学校教育も然り。大道を行くしか正道はない。では、大道とは何か。明瞭な答えを最善とし、蒙昧な中に答えを求めようとする姿勢ではないか。しかし、時は古来同じに刻まれているにもかかわらず、余りに速過ぎる。あたかも高速回転の作業場での日払いの労働のようである。大義がない。またしても宗教が脳裏をかすめる。

第54

 善く建てたるは抜けず、善く抱けるは脱せず。子孫は以って祭祀して止まず。[絶えることはない]

◇地盤や背景をも考えず、或る観念のおもむくままに時代潮流に乗っただけの学校は、結局は滅びるであろう。
新しい学校、新しい教育には洞見が求められる。

第55

 含徳の厚きは、赤子(せきし)に比す。・・・・・・未だ牝牡の合を知らずして而も全の作(た)つは、精の至りなり。終日号(さけ)びて而も嗄(か)れざるは、和の至りなり。和を知るを常[常道]と曰い、常を知るを明と曰う。生を益(ま)すを祥[吉祥の前兆→不吉]と曰い、心気を使う[煽り立てる]を強[無理強い]と曰う。

◇学校説明会でいきり立って学校を自讃する校長は多い。内部の者でさえ不安になったり、自責の念に駆られることさえある。言葉の怖ろしさ。「嬰児への復帰」。無心と調和。言葉と沈黙への意識。初等教育、中等教育の重さに思い到る。【66制+2年】の正当性を再自覚する。