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2019年7月1日

雨 七夕 日本・韓国・中国

井嶋 悠

雨は聴くもののように思える。 幼い頃、夕立や雷雨の夜、当時まだ使われていた蚊帳の中に入って寝ころびながら雨を想像し、遠雷を独り聞いて、どこか心静まっていた。もっとも、間近な雷には静まる余裕などなかったが。
この身勝手な恍惚は今もあって、蚊帳はないが、とりわけ深夜の、雨と遠雷の音は想像を巡らせる。

緑雨、紅雨とか小糠雨、霧雨とか、見ているように思えるが、私たちはその雨を見ていながら、つまるところ天に想い及ぼし、耳をひたすら働かせ、想像しているのではなかろうか。
日本語で雨に係る言葉は400種以上あるとかで、その中に「神立(かんだち)」と言う語があるように。
※「神立」:神様が何かを伝えていると信じられていた「雷」を指す言葉から転じて、夕方、雷雨の意。  
この感性は、雲がないのに細かい雨が降ってくることを「天泣(てんきゅう)」ということと通ずるように思う。

」三好達治(1900~1964)の有名な詩に『大阿蘇』というのがある。その後半部は以下である。 その最終2行はことのほか耳にする詩句である。そこで使われている「蕭々(しょうしょう)と」は、耳であろうか、眼であろうか。耳でもあり眼でもあり、眼でもあり耳でもあるように思える。阿蘇の放牧された馬を覆う天の声としての雨。そこから醸し出される寂寥の気。 あたかも眼前の雨を介し、耳をそばだて音楽を聴くように。

空いちめんの雨雲と  
やがてそれはけじめもなしにつづいている  
馬は草を食べている  
草千里浜のとある丘の  
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている  
たべている  
彼らはそこにみんな静かにたっている  
ぐっしょりと雨に濡れて 
いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている  
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう  
雨が降っている 雨が降っている  
雨は蕭々と降っている  

※「蕭々」:(雨が降ったり、風が吹いたりして)肌寒く、寂しさを感じる様子
【備考】この最後2行で使われている「が・は」は、助詞の使い分け説明にしばしば引用されている。

このように雨は、歌や詩の中で、切ない寂しさを表現するのによく使われる。 歌謡曲から二つ例を挙げる。
一つは、『雨の酒場で』(作詞:清水 みのる、歌;ディック・ミネ、石原 裕次郎、1954年)の1番
並木の雨の ささやきを   
酒場の窓に ききながら   
涙まじりで あおる酒  
「おい、もうよせよ」飲んだとて  
 悩みが消える わけじゃなし   
酔うほどさびしく なるんだぜ

もう一つは、『長崎は今日も雨だった』(作詞:永田 貴子、歌:内山田洋とクールファイブ、1969年)の3番
頬にこぼれる なみだの雨に   
命も恋も 捨てたのに   
こころ こころ乱れて   
飲んで 飲んで酔いしれる   
酒に恨みは ないものを   
ああ長崎は 今日も雨だった

もう一つ、私の好きな詩から。
北原 白秋(1885~1942)の全八連の詩『落葉松』から3つの連を抄出する。 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

例外的にそうでないものもある。同じく北原白秋の童謡(1925年)『あめふり』 あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかい うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン

しかし、上記引用した歌詞、詩歌の根底には、対象への、また自己への愛がある。そして先人・古人の感性に思い到る。哀しと愛(かな)しの表裏性。 そして雨は涙へと導く。「雨に濡れる」「涙に濡れる」。涙雨。 この雨―かなしみ更にはその涙、との発想は、日本的音楽[演歌]で多く採り入れられていて、そういう意味で日本的なのかもしれない。
それは日本を構成する主な民族、大和民族の自然への心が生みだした農耕につながる、「甘(かん)雨(う)」「慈雨」との美しい言葉とも重なっているように思える。
今回、雨の呼称を調べていて「男梅雨」「女梅雨(あめ)」なる言葉を知った。前者の意味は「雨が降るときは激しく振り、雨が止むときはすっきり晴れる」で、後者は「しとしととした、雨脚の弱い梅雨」とのことだそうだが、これも男女へのいかにも日本的な感覚だと思う。

先に記した涙雨の意味は「涙のようにほんの少しだけ降る雨」とのことなのだが、やはり新たに二つの表現を知った。「酒(さい)(催)涙雨(るいう)」「洗車(せんしゃ)雨(う)」。
共に七夕、織女(織姫)と牽牛(彦星)に係る雨とのこと。後者は、7月6日に降る雨のことで、牽牛が織女と会うため牛車を洗い準備している様を。
前者は、当日雨で二人が会えなくなり流している涙とのこと。きっと、当日、「鉄砲雨」「ゲリラ豪雨」が二人を襲ったのだろう。
実に微笑ましい神話伝説の世界に私たちを誘う。
ところが、これが韓国に行くと、当日雨だとそれは二人の再会のうれし涙で、次の日も雨ならば二人が別れを惜しむ涙とか。
これが韓国の国民性なのかどうか分からないが、やはり微笑ましさに溢れている。

ここで、中国・台湾・韓国・日本での節句の一つである七夕について、良い機会なので確認しておく。 『源流の説話』[出典:ウキペディア「七夕」]
――こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。 ――

催涙雨、何と夢をかきたてる言葉。 カササギ(鵲)、日本では北九州のごく一部地域以外見られない鳥だが、韓国では度々、それも群生して飛ぶ優美な姿を目にした。そのカササギと織女と牽牛の永遠の愛。 百人一首の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」を想い起こす人も多いかと思う。

今日、源流の中国でさえ、七夕はあの惰性的でさえある「バレンタインデー」的様相になっているようで、日本も観光客誘致や商戦広告に使われることも多く、古人の想いから離れつつある。 それは時の流れとしてやむを得ないのかとも思うが、星座を見て、古代東西の人々の想像力と叡智に思いを馳せるように、底流の神話文化に心を向け、東アジア文化(或いは共同体?)について考えるのも、今の時代だからこそ必要なことのように思うが、どうだろうか。

梅雨になって、久しぶりに、深夜、床の中で雨の音に触発された。国土の6割が山岳で森林である日本の、雨があって水明であり、稲作である、そんな日本文化を考えてみた。

2019年6月20日

    [教 育 私 感 ] 33年間の中高校教師体験と 74年間の人生体験から  

井嶋 悠

                       はじめに

私の限られた経験だが、教育者は教育を語る、語り合うことを甚だ好む傾向にある。教職意識が高い(強い?)と言うことなのだろう。私も30代40代頃は、そういう意味では教育者の一人だったかと思う。しかし、公私流転の人生にあって50代後半からそれが疎ましく思うようになった。なぜなら、教育そのものが分からなくなったからである。 これでも中等教育での、国語科教育は当然のこと、他に日本語教育、国際教育としての海外・帰国子女教育、外国人子女教育、更には国際理解教育に手を染めた。ほんの一部の人々とは言え、私に良い評価を与えて下さる方もなくはない。それは今も生きる支えになっている。
しかし、私が語ると私の中で騙(かた)るに堕してしまいそうなところがある。だから?時折、居直り的に発言が激しくなることが多い。私的には本質的(ラディカル)発言と思ってはいるのだが。
例えばどんな発言(提言)かが問われるかとは思うが、以前の投稿と重なるので立ち入らない。

ただ、一つ新しい問題について触れる。 学校教育の無償化が新たな或いは更なる歪みを生みだすことは、既に指摘されている。無償化[要は家庭経済の負担減]の前に、塾産業撤廃案をなぜ打ち出さないのか。それこそ、小学校前から大学までの初等・中等・高等教育の「教育」について、また教師の在りようについて、学力観、学歴観は言わずもがな、人生観、社会観まで途方もなく大きな課題を突きつける契機となるように思えるのだが、やはり一笑に付されるだけだろうか。

高齢者運転問題で、テレビのインタビューや何かの折に知る、自身の運転或いは体力への自信等を言う高齢者。その人々を無性に腹立たしく思う同世代の、日常的に運転しなければ生活できない地域に住んでいる私の心の自然な動きなのか、教育について整理する時機が来ていると思うようになった。 33年間と74年間の体験からの私の言葉として。このブログ投稿の基底にある自照自省。
その時、私の脳裏を過ぎった言葉(キーワード)は「屈折」である。 その屈折、意味、用法から三つに分類されるとのこと。以下それを引用する。
① 相手に対する感情が複雑に入り混じっているさま[例語:愛憎ないまぜの]
② 性格が素直でなくいじけているさま[例語:素直でない、へそ曲がり]
③ 考え方などが偏っていたり狭かったりすること[例語:偏狭な、料簡が狭い]

何年か前のこと、旧知の方とただ漫然とした会話をしていたとき、その方が「どうしてそんなに屈折してるの?!」と笑顔で切り裂いて来た。そこでは、この人とはもう会うことはないなと思った私がいたが反論する私でなく、どこか同意する私がいた。そして、今も相当な力で心の、頭の中に留まっている。正に屈折?
なぜ同意できたのか。生まれ持った要素(井嶋親族で共通する要素との意味も含め)として直覚したのかもしれない。しかし、今改めて思うに“私”と言う人生がその要素を培ったと言えるのではないか。 先の分類に従えば、その方の私への用法は、三つの意味が微妙に重なっているように思える。「ように思える」では落ち着きが悪過ぎる。
そこで、20代後半に高校時代の恩師により教職に導かれた一人として、教育観に翳を落した或いは逆に陽を当てた、と私が思う、幼少時からの「事実」を客観的に振り返ってみることにした。 良いとか悪いと言った善悪単純二分法ではなく、そもそも人間は屈折の動物とさえ思うからこそ幼子(おさなご)を慈しむし、多くの動物を愛おしむと考えている、そんな「私」の屈折を炙り出してみたい。 そのことで、家庭であれ、学校であれ、私の「教育」感(観)が視えて来る、そんな期待を寄せて。

教 育 私 感
33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から
Ⅰ 初等教育[時代]

小学校前半までは、京都・賀茂川の近くで、虫採り、魚採り等遊びの天才だった向かいの中学生を英雄視し、彼を真似た痛快な思い出が幾つもある、昔ならどこにでもいた一人である。ただ、違ったのは、小学校入学前後から父親の地方赴任に伴う母子家庭だった。母親は純粋な人だったが、家庭的なことが全くと言っていいほどに駄目でいつも心は外に向いていた。そのことによる私の心の隙間を埋めてくださったのは、近所に住む伯父(父の兄)伯母と6歳年上の従姉妹であった。

大人事情は世の常とは言え、後に分かることだが、父母の離婚話が進行中のこともあって、小学校後半時から東京の伯父伯母(父の姉)宅に預けられた。伯父の社会的地位によるのだろう、その家は邸宅(おやしき)と言うにふさわしく、お手伝いさん夫婦が住み込んでいた。 母は結婚前の職種、看護婦となり、関東の地で独り生活を始めた。母への慕情が募り始めたとの記憶はない。ただ、何かぎくしゃくしたような不自然なものがあったように記憶の片隅にある。

伯母の能楽[主に小鼓]や茶道(茶室があった)への傾倒も手伝ってか、伯父の関係者、能楽関係者等々、それも30代から40代の人たちの出入りが非常に多かったが、子どもは私一人だった。伯父伯母に子どもはなかった。時に月に何度もその人たちによる夕食の会が行われ、活気を呈する家だったが、お手伝いさんの心遣いもあって、独り夕食を台所でとることもしばしばであった。しかし、寂しいとの心情はなく、こんなものだと思っていたのだろう。
庭も広く、また当時まだ普及していなかったテレビもあり、小学校の同窓生もそれらがあってしばしば遊びに来ていたが、私の中ではほとんど記憶が残っていない。
ただ、伯父方の親戚家族が時折来て、その中で幼少の男の子二人、特に兄の方、の子守的なことをしたのは、懐かしい思い出として今もある。

私の中では、どちらかと言うと大人社会にいた3年間のような印象が強い。 その象徴的事件?に、泥酔と二日酔いの小学校5年生(11歳時分)での体験がある。先述の大人たちの夕食会で、酒を大いに勧められ、嬉々として?受け容れた結果である。大人たちからすればかっこうのおもちゃがごとき相手だったのだろう。その時も、お手伝いさんが苦笑しながら介抱してくれた様子が薄っすらと残っている。

そういった酒食の会では、男女の性の話題も多く、或る時、その人たちが話題にしていた単語の意味が分からず素朴に質問したところ、場を一瞬凍らせたことが今も残っている。しかし、今日の小学校での或いは広く学校での「性教育」の現状ではお笑いぐさであろう。
森 鷗外の、自身の6歳からドイツに留学する21歳までの性に係る経験を描いた『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で性欲的生活の意・47歳時執筆発行)では、6歳から12歳の間にあって、既に幾つか兆しを直覚していて、私がいかに奥手か、また感受性に乏しかったが分かる。
このことは、ここ年々、人生最大の難題であり、本質的問題は「性」ではないか、と老いと共に性に対し時に嫌悪感さえ抱くこともある複雑さを持ち始めた私の、遅さにつながっているように思える。
鷗外は先の著の最後の方で「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。」と記しているが、以下の老人男女のことは正にその現実なのかもしれない。
老人介護施設職員の談話で、80代と90代の男女が、下半身を露出してベッドに在った旨聞いたときの、私の途方もない衝撃、驚愕。

この晩熟(おくて)は、3年間と言う限られた中とはいえ、血気盛んな大人たちと、それも開放的な夜の時間にいたことがかえってそうしたとも思ったりもするが、やはり個人生来のゆえなのかもしれない。
自身の生来と後の周囲の環境によるこの自覚は、現在の年少者への性教育について必要との理屈(説明)は理解できるのだが、今もって違和感がある。私の「理解」と言う理屈(論理)の言葉の一つ。
保守性のあらわれ?とは言え、性教育推進者が革新的とも思わないが。 併せて、中学校に進学して一層重い課題となるジェンダー教育の端緒は、今どのように意識して為されているのだろうか。

転校した小学校は、東京都大田区内の分校的な小規模校であった。一学年25人×2クラスの50人ほど。 発する言葉の音調は、当然京都弁。今から60年余り前のこと。
今様に関西弁(特に大坂弁或いは河内弁?)が、広く認知されていない時代、子どもたちにとって不思議で、可笑しな響きに聞こえたのだろう。 イジメではないが、他意のないからかい、笑いの対象になることもあった。
そこで、クラス担任の女性のM先生の放課後東京音調補習がなされることとなった。私の東京弁学習。小規模校ならではの補習?
因みに、私の発する日本語は、その特訓に加えて、20代の2年間の東京放浪生活と国語科教育での読み、話すでの共通語(標準語)指導が加わって、時に聞く人にとって奇妙な日本語となっている。

すべての人々の生活語は方言、と言っても未だに東京弁=共通語(標準語)社会の日本にあって、だからこそ生活と生と言葉での方言の魅力は誰も否めない。それも読むことより聞くことに於いて。(読むのは至難である)
海外・帰国子女教育に係わる中で知った「言語臨界説」、11歳前後でその人の生涯の主言語(第1言語)が決まるとの説に立てば、私の日本語はあの小学校での環境、補習が方向性を決めた、とも言えなくはない。もちろんこれはM先生を非難しているのではない。
その延長上と言うのもおかしな、或いは甚だ偏見に満ちた勝手なことなのだが、男性が話す大阪弁(広く関西弁)は、私の中での特別な人〈例えば、上方歌舞伎俳優や笑福亭 仁鶴氏レベルの落語家、また私が敬意を表する人たち〉を除いて、印象が良くない、少なくとも心地良さはない。
一方で、谷崎 潤一郎の『細雪』の姉妹の会話の言葉は鮮烈で、実に美しいと思った。

尚、この時代に塾は在ったのかどうかと言うほどの存在で、当然のことながら行ってなかった。ただ、稽古事(京都時代、ピアノとバイオリンを習っていた)は、転校で途切れた。これは父母と伯父伯母との考え方の相違のようで、後に憂き世日々の中にあっていかに音楽が大きな力を持つかを実感することになるに及び、残念な気持ちが湧いた。それは今もある。

小学校、次項に記す中学校教育での。英語教育〔個人的には狂(・)育の感さえある〕等“主要”5教科教育との表現での主要の呪縛から脱け出し、音楽教育は言うにおよばず、美術教育、書道教育、保健体育教育、技術家庭教育の充実を強く願う。人生と言う巨大な時間の滋養の土壌として。これは思春期前期の中学校に進学するに及んでますます重要性が問われることになる。 その意味でも、少子化、高齢化は時機を得ていると常々確信している。学校制度の一大改革である。

2019年6月2日

「跡」に想う

井嶋 悠

日本の一大転換期、鎌倉時代に書かれた軍記物語『平家物語』の冒頭部分は、現18歳以上のほとんどの国民が知っている名調子である。
私自身、教えている時でさえいささかの観念的理解でしかなかったと思うが、歳を重ね、様々な人々と出会い、森羅万象のほんの一端を知り、冒頭文にある中国と日本の歴史上人物について誰一人知らなくとも、しみじみと、しかも重く、深く心に沁(し)み込んで来るものがある。
中高校時代の「知る」ことと、加齢を経て「味わう」ことを思えば、“教科書を学ぶ”も“教科書で学ぶ”もそれぞれに一理あることが視えて来る。

その冒頭部は以下である。

「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇(せんおう)の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌(いさめ)をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣淸盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」

「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。」
生々流転、無常の世、日々刻々の自己を謙虚に受け止め生きること、その至難さを切々と知らされる。
「人生100年時代」とかで、相も変らぬ能天気さで喧伝する政治家、それに追従するマスコミに、苛立てば苛立つほど、虚しさ症候群は悪化の一途をたどるではないか。閑話休題。

これまた高校で必ずと言っていいほどに見る松尾 芭蕉『奥の細道』の一節。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。(中略)泰衡等が旧跡は衣が関隔てて南部口をさし堅め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。―国破れて山河あり、城春にして草青みたり―と、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡 」

 注:「大門の跡」;毛(もう)越寺(つうじ)の南大門(正門)のことか。   
  :―  ―の部分、杜甫の五言律詩『春望』の冒頭   
  :「笠打ち敷きて……侍りぬ」(口語);笠を敷いて座り、いつまでも懐旧の涙にくれていた。

芭蕉は、江戸時代に弟子の曽良と、徒歩で出掛けたが、私は、令和時代に妻と、高速道路を利用して車で、毛越寺と中尊寺に出かけた。
世界遺産登録で混雑も予想されたが、平日だったこともあって、思いのほか静かであった。
毛越寺境内に茶店があり、五月の爽やかな風を受けながら、もりそばを食した。腰のあるそばで、香りをほのかに残し、江戸っ子の「そばは飲み物」と言う妻も満足げであった。30代とおぼしき夫婦二人で店を切り盛りしているようで、二人とも口数少なくもの静かで、一層心和むひとときが過ごせた。 ふと、数十年後のこの夫婦の図を、私たち40年間の夫婦姿と重ね思い浮かべながら。心洗われる時間。

毛越寺は9世紀の僧・慈覚大師[円仁]が開山とのこと。寺の栞には境内の見どころとして、先の芭蕉の句[句碑]も含め17か所が記載されている。 内7か所は[跡]で、背丈10㎝ほどの叢に、それぞれの建物の礎石が見える。 何気なく見ているうちに或る感慨に襲われた。
「もし、多くがそのまま(は難しいかとは思うが)或いは再建されて目前にあったらどうだろう?」と。 それはそれで感動が起こるのだろうが、跡を見つめることで想い巡らされる、「講堂」を出入りする僧侶たち、「南大門」を行き来する人々、子どもたち、店や家々を想像することの快に思い及ぶ。 現在の時を離れて、跡でない時代のどこかに、3人称入り込んでいる私。フラッシュバックするかのように巡る人々の姿、貌そしてその人たちの生。

芭蕉は、中尊寺で藤原家の「兵」の「夢の跡」を見、杜甫は安禄山の戦いでの家族との離別に、悠久の自然と時間を対比することで涙した。
しかし、私は勝手に思い巡らせた人々の生を、[哀しみ]と[愛(かな)しみ]をないまぜ眺め、自身に立ち返る、そんな偶然の時を得た。無常観をここで言うつもりはない。
以前にも引用した、吉田兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」ではないが、それにも通ずる(と思う)、栄枯盛衰、もの・ことがいついかなる時であれ、すべてに在る美と真への想い。その想いへの眼差しが焙(あぶ)り出すその人の生き方、歴史への見方。と自身を措いて頭を巡る。
芭蕉が、杜甫が涙したそれとは違う感情。すべての人に名があるが“無名”と言われる人々への慈しみからの涙に近い情愛と自省に浸った私。

木材を切り出し、石を掘り出し、運び、建築家の指導を得、僧侶や武家たちとの協働で創られて行く寺院に最も間近に勤しむ市井の人々。それを支えた信仰と人々の信頼関係。その美しい時空を思い浮べる。 実際はどうだったのだろうか。
奈良時代、文化の栄華が咲き誇った。それにどんな人々が、どれほどに、莫大な時間を費やしたのだろうか。
信仰を基底に、天皇への絶対的崇拝と信頼があってこその東大寺大仏殿であり、法隆寺であり……。一方で知らされる、山上 憶良が表わした『貧窮問答歌』での市井の人々の姿。また防人の哀しみ。
身分、階級、階層を越えた途方もない数の人々の一大協働(ハーモニー)としての文化。

ここ数年来、世界文化遺産とか日本文化遺産とかが賑やかに報道される。過程があっての結果、無名があっての有名、と重々承知していてもついつい結果に、有名に眼が向いてしまう私。
「一将功成りて万骨枯る」の遺産であっては文化に値しない。
私は現職時代数校で、それぞれ「将」も「功」もことわざに出るほどの大きさはないが、直接に、間接にこの先人の言葉を身近に接し、学校文化をその面から知らされた。公私立の違いとは全く関係なく。

私が今生活する那須の原では、明治時代の元勲貴族たちの功として、疏水の開拓や洋風の館(やかた)群が、日本文化遺産として登録された由。結果としてのそれらに眼を奪われるだけでなく、この機会に、元勲たちへの敬意と同時に、地を掘り、山から水を引き、大地を潤わせ、豊かな農作を実現した、その現場の人々に想い及ぼしたいと願う。

高校時代、或る先生が授業(先生が誰か曖昧で、何の授業であったか覚えていない失礼なことなのだが)の関連でこんなことを言われた。55年以上前のことながら鮮明に私の中に残っている。ただ残っているだけであるが。
――或る建築家が、随行者たちと鉄道での旅の途次、鉄橋を渡った折、こう言ったそうだ。「この鉄橋は僕[私]がつくったんです」と。随行者たちは感嘆したそうな。しかし、この建築家にはその後、仕事の依頼が来なくなった。――

慈覚大師が、開山、再興した寺院は、関東地方に209寺、東北地方に331余りの寺に及ぶと言う。恐らく大師への帰依、心からの信頼感と大師の人柄が、人々にそうすることを求めさせたのだと思う。(大師は唐での数年間の苦難等、多くの難儀を経た高僧であったが、温厚な人柄であった旨伝えられている。)

一方、中尊寺はどうなのか。 岩手平泉の地に、砂金と北方貿易で栄耀栄華を極めた藤原家。それを象徴する金色堂。 中尊寺は、藤原 清衡が合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために大伽藍を造営した、と中尊寺の栞にある。 また、「判官びいき」との言葉まで生み、日本人から愛され続けている源 義経。その義経を兄・頼朝から守った三代藤原秀衡の死後、子息四代藤原泰衡は守り切れず、藤原家滅亡に向かわせた、その歴史を思えば、藤原家の人々と臣下と市井の人々の絆は篤かったであろうことが推測される。
しかし、復元された金色堂等、或る感銘はもちろんあるが、毛越寺で沁み入ったものが湧き出で来なかった。それは、今日的観光繁栄に圧倒されたからかもしれない。 当時の武家の、時に凄惨とさえ思える生き様に触れ、その世界に生きた武家たちの苦渋、忍耐、克己に思い及ばすことなく、ただ私には到底できないと逃げ込み、市井の幸いを思うだけであった。

今日、日本との限られた枠組みではなく、世界はカネ・モノ文明を邁進している。だからなおのこと、教育への明確な眼差しが求められている。
「個の教育」「一人一人の個を大切に育てる」。このことを否定する人はいない。しかし、果たして今、それはどうであろうか。
例えば、英語教育が言われれば、それまでにあった他の時間を削り、英語教育に向かわせ、小学校で昼食時間を15分か20分で議論すると言うとんでもないことを聞く。何のためにそれをするのか。時代に乗り遅れて経営難に陥らないために……。
あれほど期待された「横断的総合的学習」は疾うに消え去り、学習の大半を塾に頼り(思考力、表現力をみたいとのことで、これまで以上に作文表現、発話表現が求められる入試が果たされつつあるが、どれほどの学校が自前で対応できているのだろうか)、結果がすべてでひたすら時を削って行く。
そうかと思えば、子どもや若者を受け容れる側の学校や会社等の大人たちは彼ら彼女らの想像力の欠如を嘆き、基礎学力についての侃々諤々(かんかんがくがく)は今も続いている。そして世は少子化、高齢化である。

中尊寺で見かけた中学校修学旅行とおぼしき生徒たちの忙しいこと忙しいこと。不登校等で参加しなかった生徒たちもあるかもしれない。イジメを受けている生徒たちもいるかもしれない。出会った生徒たちの中に、そういった生徒に思い巡らせている生徒たちもあるかもしれない。しかし、弾ける笑い声。 中尊寺、金色堂までは、上りの坂道を20分ほど歩くのだが、随所に売店、ご朱印授かり所がある。
私などそのことを知らず、金色堂等目的地に向かい、ご朱印は帰路としていたから良かったものの、正直に初めからしていれば7,8か所になっていただろう。弁慶堂とか、薬師如来とか少し変えてあるだけで、すべては中尊寺である。だから一枚で良いとも言える。一枚300円×1か300円×7か8。えらい違いだ。 先の中学生たちの中に、本堂へ行く随分手前の売店で、早々に何かおみやげらしきものを買っていたが、大丈夫だったかしらん?それとも誰かを想い、いの一番に購入したのだろうか。

毛越寺と中尊寺への小旅行。思いもかけず、毛越寺の「跡」が、私にあらためて想う心地良さと重さを教えたように思える。

2019年5月26日

若い時の純粋から老いの純粋へ

井嶋 悠


19世紀のフランスの、恋多き男装の麗人作家にしてフェミニストのジョルジュ・サンド(1804~1876)が、老いについてこんなことを言っている。

――老年を下り坂と考えるのは全く誤りである。人は歳をとるにつれてだんだん高く、それも驚くほど大またで上へ上って行く。――

彼女の生涯は72年間で、時代が違うとはいえ、私は現在74歳であるから、高齢化日本にあってなおのこと彼女の言葉には考えさせられる。自照自省の大きなきっかけとなる言葉である。

最近、高齢者の自動車事故・事件加害者が増えている。中には、自身の過失を認めない者もいる。一人で歩くことさえままならないにもかかわらず。 彼女が言う真逆の老人たちである。運転に自信気の笑みを浮かべインタビューに応える輩(やから)も含め。

老いは若い時代の延長上にある。当たり前のことである。老いを終焉と考えるから頭の中がもつれる。老いは一つの経過点に過ぎないと考えればいいのである。難しい極みだが。私には仏教信仰はあるが、仏教徒ではない。しかし、人類誕生以来、だれも死の後を知らないはず?だから、経過点と考えることは許されるのではないか。因みに、私は死後、肉体は土となり、霊魂は宇宙を駆け廻ると思いたい派であるが、未だ不十分段階だ。人間、次の指標があると生き甲斐があるというものだ。閑話休題。

若い時は苦悶の連続で、先人に言わせればその苦悶が人生の肥やしになると。時が経ち顧みれば、美的哀調さえ醸し出した他人事のようになるが、当時は悪戦苦闘の日々である。しかし、時[時間]の力、老いと共に自然に、或いは意図的に苦悶は削ぎ取られ、澄明さが増して来る。恬淡にして枯淡の境。と言うのは一つの理想で、多くは残滓が何やかやと心底に蠢(うごめ)き、頭をもたげようとしているではないか。おぬしはいずれかと問われれば、まだまだ後者である。だから私は一休禅師に親愛の情を寄せる。

仏教では「五慾」「十悪」との、人間探索の言葉がある。
五慾での、「食慾」「色慾」「睡眠慾」「財慾」「権力慾」、「十悪」での殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語等々。これらは何も仏教に限ったことではない。
人間をとらえようとする時、最もと言っていいほどに複雑にして厄介なことが、「色欲」-「邪淫」ではないか。それは、人間にあって最善、最上に位置付けられる「愛」と、時に表裏に論ぜられるがゆえに。
「エロス」・「エロティシズム」。
現代日本語としてある「エロ・エロい」から、時を、葛藤を経て、老いに向かう道程(みちのり)で直覚し、自問し始める「エロス」「エロティシズム」への昇華。そこでの新たな葛藤…。
ただ、私が使う「エロス」・「エロティシズム」について、澁澤 龍彦(1928~1987・フランス文学者・評論家・小説家)の書『エロティシズム』から引用、補足しておく。

「セクシュアリティとは生物学的概念であり、エロティシズムとは心理学的概念である」
「(プラトンの言葉を引用する形で)エロスとは神がかりであり、魂の恍惚であり、一種の狂気である」
「ドン・ファンの純粋を求める姿勢を、カザノヴァのような、陽気で野卑な漁色家のそれと混同してはなるまい。現実原則に逆らって、永遠の女性(母親像)を求めつつ、つねに裏切られている男の心理を、精神分析学でドン・ファン・コンプレックスと呼んでいる(以下略)」

白人の白は白ではないと思う。アジア人の白こそ白だと思う。タイに行った時、透き通る白い膚をした若いタイ女性を数多く見て感嘆した。日本人も、中国人も、韓国朝鮮人も然りである。 雪白(せっぱく)を思わせる寒色なのだが温もりで包まれた暖色の白。微塵の汚れも感じさせない人肌の白。純白。

作家の優劣は女性描写で決まる、との言説に昔接した記憶がある。なるほど、だから夏目漱石は一流なのだと思ったから、この記憶は間違いないと思う。 作家を志すなら好きな作家のすべての作品を筆写せよ、と説く人があったが、私には作家への志はなかったから頭でその言葉を聞いていた。今にして思えば、作家云々とではなく、人生として、漱石の女性描写だけでも筆写しておれば、私の人生、もう少し彩りが備わったかなと思ったりもする。
かてて加えて、美術・工藝の世界で、完成された作品以上にその作家たちの素描に魅かれる私がいる。例えば、ルネッサンス時の画家たち、シュールレアリストの画家、彫刻家、陶芸家たちにそれを見る。

神田の古本屋街を特に何かを探し求めると言うのではなく彷徨っていて、1994年3月号の『芸術新潮』、特集「常識よさらば―日本近代美術の10章」なるものに目が留まった。店頭に雑然と並べてある雑誌の一冊である。価格は100円。
その中の一章[彫刻史に仲間外れにされた人形・置物]と、もう一章[貧乏画家の飯の種は何だったのか?]で、釘付けにされた二つの作品(写真)。
一つは、人形作家・平田 郷陽(二代)(1903~1981)の『生人形・粧』と、一つは、洋画家・渡辺 与平(1888~1912)の挿絵「キッス」。 前者から放たれている清楚な妖艶。後者の赤子をあやす女性の無償の愛の姿。

『粧』は、浮世絵に材を得て、江戸時代後期の20代半ばの商家の新妻をイメージして創作された由。 丸髷に、「顔は弥生の桜花の吉野の山に馨れるが如く、眉は中秋の新月の明石の浦に出づるに似たり」(興津 要『日本の女性美』所収「目の美しさ」より江戸期の作家・曲亭 馬琴の言葉を孫引き)で、目は無表情の下向き加減、「口紅は、矢張り、指先で軽く溶いて月の輪形に下唇にさし」(同上書での「くちびる・くち紅」の項での『おつくり上手』(平山芦江著・大正5年刊)より孫引き)、右足の膝からほんのわずか大腿下部がのぞく左立て膝姿とその足指。家事を重ねていることを示すふくよかな、左手は左膝に静かに置かれ、右手は挿したかんざしに添えられている。着物は麻の単衣で幽かに両の乳房が見て取れる。
何という清楚なエロティシズム。美。

後者は、明治時代に正岡 子規によって創刊され、夏目 漱石が『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を発表した俳句雑誌『ホトトギス』に掲載された挿し絵。一筆書きがごとき見事な筆致で、赤子を慈しむ母をとらえている。プロの画家としての技がきらめき躍動する線と面、そして対象への愛に、私は思わず魅き寄せられた 。
その二つに共通するものとは何だろうか。
一つは、女性への慈愛の眼差し。
一つは、余計な装飾がどこにもない、必要にして十分なものだけで構成され、決定的美が醸し出されていること。

幾つもの呻吟を経て、己が人間的心から、何をどれほどに削ぎ落としていくことができるか。
若木の樸(あらき)から老木の樸へ。青い樸から玄(くろ)い樸へ。
歳を経ているがゆえに錯綜する幾つもの葛藤。苦悶。 だからこそ、ジョルジュ・サンドの先の言葉、一休禅師が最後に愛した盲目の女性森女に言った辞世の言葉とも言われる「死にとうない」が、響いて来る。

やはり老いは難しい。 高齢化社会をひた進む日本。個人の集合体としての社会が、今までの考え方、発想で通ずるとすることでの大きな不安と危険を思ったりする。言葉だけの同情の氾濫世情。 老いの一人の戯言、杞憂ならいいが。

2019年5月15日

日日是好日・一期一会

井嶋 悠

小学校の運動会で、50メートル(だったと思う)徒競走は、ゴールまで誰よりも速く走ろうと一目散だった。今もこの種目は行われているのだろうか。
一時、足が速い遅いで順位をつけるのはいかがなものかというので、順位をつけない学校も出たそうだが、今はどうなのだろうか。
障害の有無とは関係なく、子ども心理としては順位がある方が楽しいというか、張り合いがあるように思うが、勝って驕り、負けていじけたりするのはいただけないとの上でのこととして。
なにせ小学校でさえ、「学級崩壊」がある時代だから。なんともはやではある。

年を経て、老いの段階に入り、小学校同期会などに参加すると、欠席者の生死とか入院の有無、また出席者でも先ずは健康の話題から入り、今通院していないと言うと感嘆の声すら漏れる。
ところで、歳を取ると、幼い時のゴールに向かう姿勢が180度変わるというのは、人生、遅きを善しとする天が送った暗示なのだろうか。

今の生活ぶりを恥じて、参加したくとも遠慮する人もなくはない。それをおかしなものだと言うのは簡単で、いわゆる“上から目線”、同情の危ういところである。
一切の例外なしに、その多少とは関係なく(そもそも多少とは、何をもって言うのかも含め、人がとやかく言うことではない)お国に身を投じて来たのにもかかわらず、その国は老人を、美辞麗句だけで結局は放置、捨て置いていると言えば言い過ぎだろうか。
或る近しい人は「老人はさっさと死ねということなんだろう」と言っている。

私自身でさえ憤る、老人側の“老い”を錦の御旗がごときにした身勝手な言(ふる)行動(まい)、倫理観・独善観のあることは重々承知して言うが、
例えば、 車が無ければ生活が成り立たない[生きて行けない]地域があちこちに在る現状の一方で高齢者運転事故の多発。これを解決するには、それらの地域の公営バス[コミュニティ・バス]の濃やかな普及しかないが、実状はどうだろうか。私の現居住地でも然りである。
また、老人養護施設入所に際して、或いは老人医療に際して、負担が1割であれ2割であれ負担自体の発想が解せないのだが、どうしてあれほどに経費を当然のように徴収するのだろうか。
備考ながら、韓国の50代の知人ががん手術の後、医療費負担が5%になった旨聞いて愕然としたし、日本の1級障害者に対して医療費還元の有無が市町村によって異なるのも不可思議に思う。

世界に冠たる借金超大国日本の、政府、行政側の反応はほぼ決まっている。「予算がない」。 国家防衛、国家名誉を口実に、自衛隊に(自衛隊に係る憲法論争が喧(かまびす)しいが)膨大な予算が使われ、併行して「思いやり予算」への現アメリカ政府のますますの要求に“ゴルフ”で応え、名誉ある日本を担う、と自尊する政治家とりわけ国情を左右する首相、大臣が外交と称する外遊での巨大な出費とその成果に、無関心に或いは麻痺しつつある私たち。
以前、現首相の外遊経費について、某前国会議員が情報公開を請求し、それに関して以前にこのブログに投稿したが、どうしてマスコミはそのことに触れないのだろうか。それとも、既に追求があったことを私だけが知らないだけなのだろうか。(私は定期的に新聞を読まない上に、週刊誌、月刊誌もほとんど読まないので、私の無知は十分に予想される。)

本末転倒も甚だしい『愛国心』。日本と言う国は、そういう国なのだろうか。

「平和」との語彙で捉えれば、なぜ本末転倒なのかとの疑義が出されると思うが、私が抱く平和とは、先ず国民一人一人の心の平和、安寧であって、〇○国の、××国の脅威による自衛、との視点からの戦争と平和の、その平和ではない。順序が逆なのである。 だからなおさらのこと、アメリカの核の傘の下とか在日米軍の現状に、甚だしい疑問を持つ。
私は、浅薄な性善説や性悪説、また自民族・自国絶対の寂しさに陥らぬように留意しているつもりだが、最近の日本・アメリカや中国・ロシアを見ていると、私の留意をことごとく覆しているように思える。
北朝鮮問題で、私の旧知の韓国人に今もって親族が北にいる人がいるが、その人たちは今の動きを、各国首脳の更には一部ヘイト的言説をどのように受け止めているのだろうか。
このことは、やはり旧知の香港人[中国人と自称せず、香港人と称する人は多い]にも思い及ぶ。

古代中国の思想家、例えば老子とか孔子は『小国寡民』の前提に立って、人間に、社会に叡智を発し、それは今もって、少なくとも私たち日本人の力、栄養となっている。
日本は、国土面積の4割が森林・山岳地帯(要は人の生活地域は国土の6割)で、年々少子化、高齢化は進み、GDP等世界の経済領域で、過去は過去のこととなりつつある。過去の栄光を再び浴することこそ使命と考える人(とりわけ政財界人?)は多い。
しかし、だからこそ経済大国復活を目標とせず、且つ現状を善しとする危険な道に埋もれることなく、未来構想を持つに、今は千載一遇の機会と私には思えてしかたがない。 これは、余りに非国民発想、或いは精気をどこかに置いて来てしまった老人発想なのだろうか。

日日(にちにち)是好日(こうにち)。[この読み方には、ひびこれこうじつ等幾つかあるがここではこの読み方にする]
これは、10世紀唐の時代の雲門禅師の言葉で、出典は、公案集(禅師が弟子に問い掛け、答えを求める事例を集めた書)の『碧(へき)巌(がん)録』。
この言葉の要(かなめ)は「好」にある。
禅思想では、善悪、美醜、高低、長短といった相対の視点を持たない。これは老子も言っているところである。そのもの、ことがすべて、一切なのである。だから「好」を良いとか悪いの意で取るとこの禅師の言葉は矛盾する。
その日その時がすべてなのである。だからこそ、いついかなる、どのようなこと、ものであれ、それらに対して愛しみ、慈しむ心が芽生えると言うのである。

「好」との漢字は、甲骨文では[母]+[子]の会意文字で、それが[女]+[子]の会意文字となった旨、漢和辞典の「解字」で説明され、続けて「母親が子どもを抱くさまから、このましく、うつくしいの意味を表す」とある。 母性は女性専有のものではなく男性にもある。逆も然りである。しかし、出産し、母親となるのは女性だけである。 このことを知れば、子どもを抱く母の、純粋で、絶対的慈愛を思わずにはおれない。その時間が好日である。そこに東西異文化はない。絶対愛。永遠と表裏の無の境。
と、直覚できるのだが、私は今もって心身は、全く別の方向、相対世界にどっぷり浸(つ)かっている。

この感覚を、先述した日本の在りように当てはめてみる。 アメリカがあって、中国があって、ロシアがあって、韓国があっての日本ではない。日本は日本である。もちろん、これはすべての国に当てはまることである。
釈迦が言う「天上天下唯我独尊」の本来の意味。自身が、自国が一番偉いとの相対的考え方ではなく、それぞれの自己、自国を唯一とする禅思想に通ずる考え方。
一人一人の心の平和、安寧がすべてとする世界、地球である。『国際連合』の理念に通ずることだが、それが機能していない。なぜか。
大国意識[指向]×小国意識[指向]、指導×従属での恩義と安心から、それぞれの思惑が働いて、最後の最後に「拒否権」とのエゴが貌をもたげ、結局は大国間競争に堕する。
日本は禅思想が12世紀以降、急激に広がり、浸透し、今も或いは今だからこそ人々の心を捉えているにもかかわらず、悪しき渦中に巻き込まれている。否、自身から渦中に飛び込み指導(リーダー)云々と頻りに言う。
一部の、その中に私もいるが、現代日本人は、敗戦、占領下を経て、70有余年経った今も、日本が自律し、自立[独立]した国と思っていないのではないか、とさえ勘ぐってしまう。
因みに、老子は先のことの記述の後に次のように言っている。

――生じて有せず、為して而(しか)も恃(たの)まず(何かをあてにしない)、功成って而も居らず――

その時、その一瞬がいかに大きな意味を持つか。 私など、顧みれば後悔先に立たずばかりの小人以外何者でもないが、だからこそ先人(古人)の言葉に、同じ人間の“気”を感じ、どこか安堵し、前を向こうとする。

「一期一会」は、茶道の心得を言った言葉が源である。それは以下である。

――茶の湯の交会は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり。――

いずれか或いは共々、人生の、そして教育[教えるということ]の「座右の銘」にしている人は多いのでは、と思う。

2019年4月26日

日韓の“溝”を考える―日本語教師・韓国語教師の声が持つ意味―

井嶋 悠

どんな領域にあっても研究と現場があり、そこに身を置く人がいるが、時に両領域に関わりを持つ人も少なからずいる。
例えば、私が身を置いた中等教育私立学校国語科教育でもそうである。研究に軸足を置く人、教育に軸足を置く人。と言う私は態よく言えば後者、と言うか後者しか考えられなかった一人で、だから(と言うことにしておく)前者の教師たちからは蔑まれることも多々あった。しかし、私はその人たちを疑問視していた。端的な例を挙げる。

「教育原理」とか「国語科教育法」といった大学での講義は、教職資格(免許)への必修科目であるが、実際教師になって、そこで講義をしていた人たちがどれだけ実践し得るか、甚だ疑問であることを何度思ったことだろう。いわんや、学校と一口に言っても多種多様である。公立もあり私立もあり、且つ、授業前に生徒が教師におしぼりを用意する学校もあれば、授業をする教師など在って無きがごとき学校もあるのだから。

 

日韓[韓日]の溝を報ずる記事が日常化している。中には、国交断絶を物申す活字もある。それも「有識者」と言われる人たちの手になるものである。日韓双方において。
別に今に始まったことではないのだから、その内“知恵者”が落としどころに収め、次代に委ねようということになるのだろうが、それを受け取る方こそとんだ迷惑な話である。日本で言えば、自身の生活保障、老後等々福祉での不安材料いっぱいでそこまで考えられん!と苛立つ若者が多くてもおかしくない。
ましてや、最近政治離れは加速し、“優しい”青年たちが増え、権力者たちはほくそ笑んでいるのだから怖ろしい話である。

2千数百年にわたる交友、そして軋轢も経て来た一衣帯水の隣国同士なのだから、他にない人間的叡智があって然るべきではないか。否、隣人を愛することは遠地の人を愛することより難しい、ということの具体例なのだろうか。

この問題、当時の中国やロシアの南下侵略政策、また欧米列強と日本の世界情勢を教えられて来たが、しかし私の中で、私の母国が、1910年の日韓併合から36年間、韓国[朝鮮半島]を植民地支配(言い方を換えれば、韓国・朝鮮文化の破壊と自文化の強制)したという事実(とげ)がどうしても離れない。
植民地支配の事実を認めても、善政もあったとの発言は何度も発せられているが、発した・ている人たちはどれほどに自身の事として引き入れているのだろうか。
このことは、私の最初の勤務校がプロテスタントのミッションスクールで、校是の「愛神愛隣」が常に説かれ、その「愛隣」は「愛神」と同じく聖書の一節「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」で、それを自覚させられることが多かったからなおのこと、自省度が強まる。

 

私たち『日韓・アジア教育文化センター』主催での国際会議実施に際して、この近現代史の問題は常にあり、日韓相互でセンターの主点が「日本語教育・国語教育」であることを理由に、避けて通って来たことは否めない。例えば、こんなことがあった。

日本側の或る委員から、「近世通信使」をテーマにできないかとの提案があった。賛意は得られたのだが、韓国・慶州で既にそれをテーマにした横断幕が公道に掲げられていた。
韓国は、少なくとも私たちより先に深謀遠慮を働かせていたのである。

1945年から20年後の1965年、『日韓基本条約[日韓条約]』が、両国によって調印された。
今、日韓で溝が、広がり深まって来ている最大の課題が、この条約へのとらえ方で、日本は「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」とし、韓国側は、慰安婦問題、徴用工問題等で、具体的に疑義を唱えて、相互に非難合戦を展開していることは周知である。
しかし、その間でも、日本への、韓国への観光客は多く、韓国での日本語学習者数は約55万人で、内60%強が中等教育の生徒である。
因みに、全体数で言えば、中国が約95万人、インドネシアが約75万人で、韓国は第3位である。

政治が恣意的であってはならないのは自明で、歴史の事実が重要であることは言をまたない。この条約も歴史の事実である。では、一体何が、この問題をこじらせているのか。
その条約の概要を、「高橋 進氏・政治学者・2007年」[『知恵蔵』所収]のまとめを転写する。

――1965年6月に、日本と韓国との間で調印された条約。これにより日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。韓国併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した。同条約は15年にわたる交渉の末に調印されたが、調印と批准には両国で反対運動が起きた。両国間交渉の問題点は賠償金であったが、交渉の末、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄した。――

なぜこの人のまとめを、との異論を唱える人もあるかとは思うが、有識者ではない私にとって、例えば、『朝鮮を知る事典』(平凡社・1986年)「日韓条約」の項での梶村 秀樹氏の説明が、より広角的な説明で視野の広がりを思うが、長くなることもあり上記を引用した。

ただ、傍線をした箇所についての内容、影響等確認はどうしても避けられぬところであろうが、ここではこの条約そのものを論ずるのが目的ではなく、条約成立経緯での両語の背景、根底に在ること、要は「ことばと人」に係ることであり、今日社会で多く報ぜられていることには立ち入らない。

人が文化であり、同時にその文化に生きる。それは永代の人々の中で培われる。このことは国際(グローバル)化に伴っての、日本人の国際結婚とその子どもの誕生等から、日本に新たな試練を与えている。なぜなら彼ら彼女らは二つの文化保持者で、いずれどちらかの国籍を選択するのだから。

その文化は、自国内においても多種多様で、当然人々も多種多様である。そして、人は不図した折に、日頃無意識下に在る自文化について思い入ろうとすることがある。自照自省。
他(異)国・地域の文化・人と接していればなおさらである。入ってみれば自己確認の一つ。
私たち『日韓・アジア教育文化センター』の歴史からすれば、日韓異文化を肌で思うことが多々ある。例えば、Japanese smile と Korean smile の違い。

ここでは、日本の「水明」の文化と韓国の「怨(オン)・恨(ハン)」の文化を確認することで、日韓条約と“溝”に思い及ぼし、私の内を整理してみたい。

私はここ数年来、神社仏閣を訪ねることを愉しみにしている。先月末、上京の機会があり、品川・荏原地域の七福神を4時間余りかけて巡った。現居住地を歩くのと違って視覚変化の人為性がそうさせるのか、4時間余りの歩行はそう苦痛ではなく踏破できた。
(これを日頃都会に生活している人に言うと、自然豊かな中での散策こそではないか、といぶかしがられる。まだまだ人間成熟に達し得ていないのかとも思ったりするが、はてさてどうなのか。)
この参詣は今流行(はやり)の「ご朱印」集めが目的ではない。目的があるようでなく、しかし参ると何か心落ち着き、静態時間わずかながら、自身の事より近親者の貌を浮かべた祈願の心が湧いてくる。これまでにはなかったことである。
行けば先ず手水舎(ちょうずや)で手・口を浄める。(もっとも、人影と併せてそれすらない場所もあるが)その瞬時、身も心も一切が浄められたように思える。己が穢れを、世俗に浸かる己が悪を、一瞬浄める感慨。

この水は、今では水道水が多いのだろうが、本来は石清水、湧水を引いたものであろう。またそうでなければ、霊験さが下がる。そこに直感する自然との一体感。瞬時の永遠の刻(とき)への想い。

かのイザナギの命は、黄泉の国に最愛のイザナミの命を探し求め、女神との約束に逆らい、穢れを見、追われ、地上に出、中洲で禊(みそ)ぎを行い、左目を洗い(そそぎ)生まれたのが天照大命であり、右目から月読の命、鼻から素戔嗚(すさのお)の命であったことは、日本の神話『古事記』に詳しい。
「水に流す」ことで、穢れを、悪を浄めたのである。

しかし、いつの頃からか「水に流す」は、利己的にしか使われなくなった。
天然水が人工水になったからなのか(もっとも、今では飲用は天然水がほとんどとなりつつあるが)。それともあまりにも水に恵まれた日々にあるがために何かに麻痺したからなのだろうか。近代化、或いはあれかこれかではなくあれもこれもの多忙な、気忙しい日々刻々は、自己確認、自省の余裕を持てなくしたからなのだろうか。……。

そんな時、おそらく小学校教諭の言葉ではないかと推察される、「水に流す」に関して、次のような文章に出会った。最近の子どもたちの様子を三つに整理し指摘している。
(1)ずいぶん前にあったトラブルや、集団の中の「力関係」をずっとひきずっている子が多い。
(2)「あの子はああいう子で、自分はこういう子」と決めつけてしまっている子が多い。
(3)なかなか仲間とわかり合おうとしないし、「課題」とも正面から向き合おうとしない。

この筆者は、ではどうすれば良いか、教師自身の課題として三項目[対話・討論の保障、批判的学び・共同学習の指導、教師自身の親や同僚への発信による自己更新の必要]を挙げている。ここでは詳細は措くが、この文中の「子」を「国」(或いは国民)に代えるとどうであろうか。

 

日韓条約締結への過程で、またその後の手紙等での謝罪で、禊ぎの心が相手[韓国]の人々に伝わっていたのだろうか。事実を認め、それを言葉にし、金銭解決ですべては終わるとの合理[実務]が、時に双方で、優先されたのではないか。しかも政治的言語として。
日本は言霊を伝統とする国であり、「以心伝心」「不立文字」の禅思想が、浸透した国である。その上で、相手にどれほどに心を尽くし、言葉[条約事項]を伝え合おうとしたか、私は不安を思わざるを得ない。
かてて加えて、「関東大震災」(1923年)での朝鮮人虐殺が象徴する、日本人の朝鮮人蔑視が、無意識下に潜んでいたのではとの推察は、あまりにも無茶な暴言として一蹴されるのだろうか。

それらが重なり合うことで、気づかぬままにボタンの掛け違い[異文化衝突]があったのではないか。

 

韓国は、被支配側であった。その韓国は「怨(オン)・恨(ハン)」の文化と言われる。私たちはその文化をどれほどに承知しているだろうか。先にも記した「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」との日本側の言葉に、私だけなのかもしれないが、自信が持てない。
それは、「怨」と「恨」の微妙にして複雑な感性を見るからなのだが、それは言い訳に過ぎないのだろうか。それでもそこに【人とことば】の至難さを思わざるを得ない。
今、漢和辞典[『漢語新辞典』大修館]で両語の字義を確認してみる。

「怨」:①うらむ ②そしる ③わかれる

「恨」:うらむ(不平に思う。怒りにくむ。悲しむ。くやむ。)

この字義が韓国の基本文化である、と言われ韓国人は得心するだろうか。そうだとすれば余りにも一面的に他国・地域文化を捉え過ぎているのではないか。至難さはここにある。文字化された字義と人の心。
先も引用に使用した『朝鮮を知る事典』では、次のように説明されている。

――朝鮮語で、発散できず、内にこもってしこりをなす情緒の状態をさす語。怨恨、痛恨、悔恨などの意味も含まれるが、日常的な言葉としては悲哀とも重なる。挫折した感受性、社会的抑圧により閉ざされ沈殿した情緒がつづくかぎり、恨は持続する。(以下、略)――

上記、1行目から2行目にかけての一文にある「含まれるが」の「が」、「悲哀とも」の「とも」に、得心への至難さが滲み出ている。
高校時代の恩師の導きで、中高校国語科教師に33年間身を置く中で得た、「かなしみ」の三重性「悲しみ」「哀しみ」「愛しみ」の日本語性に通ずることとして。

韓国人が、長い歴史の中で、常に抑圧、支配されて来たことについては、親しい韓国人日本語教師から静かに指摘されたことがある。彼ら彼女らの抵抗意識の源泉でもあるのだろう。韓国でのキリスト教徒の多さをここに求める論調もある。
『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を語る―』〔国際文化財団(韓国)編 1987年 サイマル出版〕は、韓国の大学で国文学、社会学、歴史学等を専門とする韓国人研究者が、9つの項目で、鼎談(ていだん)形式で語り合っている書である。
その中の第4章「怨」と「恨」には「文化創造のエネルギー」との副題がついていて、3人の国文学者が語り合っている。抵抗意識と同時に、創造のエネルギーを言うのである。
別の親しい韓国人日本語教師から「怨・恨を説明するのは難しい」と聞いたことがあるが、先の専門家の鼎談を読めば韓国人は自ずと得心するのであろう。
しかし、日本人の私には、自身の言葉として消化するにはまだまだ未熟で、概念的理解に留まる危惧を持つ。(もちろんこれは翻訳の問題ではなく、私個人の問題として言っている。)

その上で、鼎談者の発言から考えさせられた幾つかを引用し、それらを通して私自身の中の棘(とげ)が少しでも抜けて行くことを願っている。
以前、大韓民国民団の某民団長から「あなたはいい韓国人に恵まれた」と言われた、その韓国人日本語教師の方々にあらためての深い感謝をもって。

先ず二つの語の特性を次のように言う。[下記《  》部分が引用部分、尚、書は、“です・ます調”であるが、引用に際し“である調”に換えてある。]、

《「恨」は内面化された感情であり、「怨」は外向性の感情である。》
そして、《その「恨」の理解のために、「結ぶ」と「解く」両面から考えなくてはならない。》
尚、この「結ぶ」と「解く」については、《春が解くであり、冬が結ぶ》と具体例を挙げている。
そして、その両極の形として、
《結ぶが感情と情緒の両面においてとりわけ悪化したものが怨恨で、逆に感情と情緒を解いたものが「神明(シンミョン)」または「神風(シンパラム)」である。》この伝統的考え方に立って、現代文学の主流は、
《恨の結ぶと解くは「喪失」と「回復」に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断を素材とする作品に現われた故郷喪失意識などである。》
この《絶望的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱く》のだが、
《同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在している。》

 

“溝”を埋める方法は、様々な切り口が考えられるが、私の場合、『日韓・アジア教育文化センター』に到る事実とそれ以降の事実から、言葉(日本語)から考えてみた。
その時、研究者の声と併行して、日々、韓国の中等教育・高等教育で生徒学生の声と、また大人として社会と向かい合っている中・高・大韓国人日本語教師の、(とりわけ「知日派」の―この用語は他の用語、親日・克日・嫌日・反日と同様、慎重な使い方が必要であるが、ここでは知日とする)声の重みに思い到る。

このことは、同時に、日本で日本人として韓国語教育と向かい合っている知韓派教師たちにも同じ事が言えるのではないか、と中等教育での第二外国語履修方法、内容、制度また教師資格等日本とは大きく違う上に、日本での中・高・大韓国語教育現状の一端しか知らない私だが、思うのである。

2019年4月19日

桜・観桜

井嶋 悠

我が家にはソメイヨシノとヤマザクラとシダレザクラがある。どれも心ほのぼのする樹で、愛(いと)しい情愛を寄せている。贅沢なことである。
一週間ほど前、ソメイヨシノは7分咲きほどで、後二種は未だ蕾状態であった。ところが三寒四温の一方の極みとでも言おうか、先週10日、昼頃から夕方まで雪が降った。積雪は1㎝ほどだが、桜の花弁と枝に重ね合った。
厚い雲を通して射す薄光を背に、淡い桜色と枝の黒茶色と静かに注ぐ雪。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀 友則)の陽射しを、桜の叙情と美と思っていたからなおのこと、初めての感銘を知った。
およそ風流とか風雅とは縁遠い私だが、その打ちひしがれたようにも思え、しかしじっとたたずむ姿に、かな(悲・哀・愛)しみの美が過ぎった。加齢(来月高齢者運転表示のための講習)の為せる美感なのかもしれない。もっとも、この感銘が風流風雅とつながるのかどうか分からないが。

桜は菊と併せて日本の国花で、その桜は今では、中国や韓国、また欧米の世界に広がっている。これも日本発の国際化であろう。そこに関わった自然をこよなく愛おしむ多くの日本人たち。
因みに、他国の国花について、中国は現在検討中で牡丹・梅・菊・蓮・蘭が候補だそうで、台湾は梅、韓国は木(むく)槿(げ)である。
両「中国」で梅が選ばれているのは、古代国際化の奈良時代[青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり(小野 老(おゆ))]の花と言えば梅であったことを思い起こすと歴史の感慨を持つ。

日本は南北約3000㎞の長い列島国で、“桜前線”の北上は1月の沖縄に始まり、5月から6月の北海道へ、と約6か月にもわたって移動する。桜=入学式と言う固定観念の勝手を思う。
遠い昔に何かの機会・時期があって長い歴史を持っていたり、観光施策等で知名度が広がったりして、名所は全国到る所にあり、そのような場所は人の群れでごった返し、観桜繁華街と化す。中でも、高齢化時代を迎え、老人の出掛け率は相当な数に昇る。
近来の特徴と思うのだが、重厚なカメラや三脚を携えた老人[主に男性]が、列を為してと言わんほどに並び、機械音痴の私など、その人たちは、自身の眼で味わうより、レンズを通して美的考察?をしている時間の方がよほど長いのでは、と思ったりする。事後の制作?も含め、趣味を持つことの素晴らしさは思うが、あまり増えて来ると、偏屈な私など意地でも撮るまいと思ったりする。

蛇足ながら、この老人と言う表現、具体的には今日やはり70歳以上かと思う。従って65歳から69歳までは或る種空白のような微妙さを思ったりする。先日「お年寄り夫婦の火災死」との文言報道に接し、私たちと同年齢であることを知り、複雑な思いだった。

そして樹下宴席。これなど、有名地では早朝から席取りで競い、これはこれで他人無用のちょっとした呑み屋街と化す。

【余談】ブルーシートがござ替わりはいただけないと思うのだがどうだろう?江戸時代の版画(浮世絵)にあるような紅い毛氈で、とまでは言わないが。レッドシートなどどうだろう?

今では、桜を味わいたいなら、敢えて知られていない場所、つまり近所の公園等無名の場所、に出かけたり、花屋で満開の枝を買って来て家庭内で雰囲気を醸し出したりするようだ。また、最近「エア花見」飲食店なるものも盛んになっているとのこと。自然を前にしての人為(人工)の時代、現代。

私の観桜“繁華街”体験を2つ記す。
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」は、与謝野 晶子の代表的な歌の一つで、私自身、この“艶”なる漂いに魅かれる一人である。
もうずいぶん昔のことだが、八坂神社から清水への道を歩んだところ、そんな情緒を味わうどころか、人と土産物店や露店等に圧倒された。
同様に、私が小学校前半時代にあっては(後半は東京に転校)、葵祭も祇園祭も時代祭も、時空に余裕があったように思うし、20代になって父親(京都人)の影響から正月料理のために年末に出かけた錦市場も、当時はまだ地域の台所であったように、私の記憶にはある。
これは単に郷愁なのか、現状は国際的観光地の避けて通れない宿命なのか。また、先の歌は与謝野晶子のあくまでも創作[虚構]なのか、或いは時代が進むということはこういうことなのか。
いずれにせよ、何かそこにひっかかるものがある。昔は良かった、ではなく。

福島県三春町の国の天然記念物「三春の滝桜」は、一本のシダレザクラの大樹で有名で、昨年夫婦で訪ねた。自宅から車で2時間ほどのところにある。
桜の大きさはチラシによると、高さ13,5m  幹回り8,1m  枝張り 東へ11m 西へ14m 南へ14、5m 北へ5,5m、の滝の名にふさわしい雄大さで、樹齢1000年以上とされている。
当然、ここも人、人、人で、駐車場からその桜に辿り着くまでに左右に飲食、土産、植木の店が並ぶ。
確かにその誇り高い桜に感動するが、どこか落ち着かない私たちがいて、行った見た帰るといった滞在。
ただ、帰路、近くの人もまばらな公園の横を通った時に見掛けた桜空間が、心に染み入ることに、思わず夫婦で笑みがこぼれた。この笑みは一体なんなのだろう?

私は、吉田兼好が『徒然草』の有名な「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」で始まる137段の、以下の言葉に、私なりの人生、日々の生活から心に過ぎることと重なる。私自身が、兼好の言う「よき人(身分教養のある人)」ぶって「片田舎の人」を蔑(さげす)むのではなく。

[以下、研究者の口語訳を転写する]

――身分教養のある人は、いちずに風流人ぶった態度もなく、またおもしろがる様子も淡泊である。片田舎の人に限って、何事もしつこくもてはやすものなのだ。花見のときは、花のもとに人を押し分け身体をねじるようにして割り込み、よそ見一つせず見守って酒を飲み、連歌をして、そのあげくには大きな枝を考えもなく折り取ってしまう。――

《私注》ここで言う連歌は当時流行していたとのことで、今で言えば「カラオケ」だろうか。
次のような説明に出会った。

――明治に入ると、桜が植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されて桜も焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り、1886年には荒川堤の桜並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着。(以下略)――

それが一つの起点となって国内国外に広がり今があるとのこと。破壊から新たな創造へ……。
明治の初め、近代化の始動期にあって、桜は焚き木にされたということである。富国強兵、殖産興業を国是として、滅私奉公的愛国による自然を忘れた施策の一つとしてとらえるのは間違いだろうか。
このことは、幕末維新で権力を掌握した新政治家たち、その後の膨張主義志向、そして太平洋戦争での敗北、戦後の諸外国からの援助や朝鮮動乱特需、ベトナム戦争特需等があっての復興にもかかわらず、不遜な自意識過剰の私たちの先人にさえ思い及ぶ。
昭和の二つの大きな転機、1945年と1960年~70年にかけて、に私たちはどれほどに先人の叡智を知り、自省し、先見の明を持ち得ていただろうか。

桜は100~200種もあると言われるが、ソメイヨシノが代表格であろう。そのソメイヨシノ、寿命が60年~100年とのこと。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門の尽力については、先に引用したが、今年は2019年、その新名所定着から109年。東京オリンピック・パラリンピックの来年、110年の節目を迎える。
何かと節目をつける世相、政治に倣うわけではないが、桜の寿命と併行して、日本の寿命を過去と現在と未来から再考すべき時が来ているのではないか。
既に「反近代(化)」の潮流は、近代化の源流であるヨーロッパにあっては、とりわけ第1次世界大戦(1914年~1918年)後、深まりつつあると言うではないか。西洋偏重、尊崇を言うのではない。「対岸の火事」を花火でも見るような自身の無知、無恥、軽薄さを思うのである。

最近、成熟は爛熟となりいずれ腐食する旨の、日本の或る政治家の発言を何かで知った。
「一億総活躍社会」「男女協働社会」の実態と自画自賛の能天気、教育無償化の負の側面への放置、個の教育の実態と嘘。10代から20代の自殺増加への対症療法で良しとする自己満足、賃金格差の偏リ、高齢者福祉での“ビジネス”との用語が平然と使われる非先進性、若者への将来不安を煽り「自己責任」で片づける責任転嫁、毎年繰り返される災害での自然への畏敬を忘れた同情的その場しのぎ、自由を言葉巧みに標榜しながら管理化への拍車、外国の脅威を盾に組まれる膨大な軍備費等々。
にもかかわらず先進国の、経済大国?の、矜持による外交成果の膨大な費用[税金]を使っての、摩訶不思議な誇示そこに見て取れる国民への愚弄、国税の私物化。
確実に腐食に差し掛かっているとしか思えない。近代化は、社会に、人々に幸いをもたらすと信じられて来た。今、果たしてそう言えるだろうか。
やはり「日本の近代化は、西洋社会、中でもイギリス、フランス、ドイツと違って、上からの近代化」との指摘が響いて来る。
「上からの」の途方もない重み、「上」の人々の独善的で偽善的権力性。
もう100年も前に夏目漱石が喝破した「内発的」ではない「外発的」の限界。要は日本の底が、確実に見え始めている。

政治世界での、オレがオレがの、与党の「○○一強」とか、暴言、妄言、はたまた野党の同じ穴の貉(むじな)。その滑稽さがゆえにますます募る虚しさ。この感性で次代を担う若者に何を託そうと言うのだろうか。
このことは、外国人労働者、外国人観光客誘致での、人を人として見ていないとも思える、拝金主義=資本主義の害毒、にも明らかに見出せると言っては過言であろうか。
尚、甚だの蛇足ながら、私は共産主義国家を善しとするほどの安直さはない。

桜の、冬を耐え、あの黒い幹、枝から、可憐な桜色を生みだしている姿をあらためて静かに見つめたい。
個も、国も、そしてその基盤となる教育も、実利を求める効率と「上からの」に身を委ねた画一指向の安心感から、本質的(ラディカル)な自省、脱却が求められているように思えてならない。
それとも、漱石が言ったように「できるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。」と感知、認識するのが生きる事の真髄なのだろうか。

 

2019年4月2日

国技にして伝統文化大相撲への私的な思い~ONがあって、OFFがあって、の生~

井嶋 悠

 

私は相撲ファンの一人である。正しく言えば「大相撲」ファンである。と言っても、通でも何でもなくただ観るのが好きなだけである。だからテレビ観賞で、大相撲“道”を出したり、己が通ぶりをひけらかし、薀蓄(うんちく)をこれみよがしに垂れ流す、要はしゃべり過ぎの、「野暮」な解説者やアナウンサー、またテレビ局[NHK]が招いたゲストが出て来ると、うんざりし、失望し、苛立つ。もっともこれは相撲に限ったことではないが。

先日、大関昇進伝達式で貴景勝関が述べた「武士道と相撲道」をとやかく言うつもりはない。それは競う側の一人の力士の意思であり、ここで言っているのは、あくまでも観客の一人である私の、個人的な思いである。

大相撲には日本の、神話、宗教、芸能、更には芸術が織り成す印象(イメージ)がある。だからスポーツ・運動競技の一つのように言われることに違和感がある。いわんや格闘競技と言われればなおさらである。
掃き清められた土俵、天上から吊るされた伊勢神宮を模した屋根(木材は伊勢神宮の御神木が使われている)、鍛えられ光彩を放つ力士の肉体、床山の職人技大銀杏(いちょう)の髷(まげ)姿に華やかな化粧まわし、横綱だけがしめることのできる注連縄(しめなわ)、彼ら力士の凛(りん)とした立ち姿、浄めと更には土を程よい状態に保つとも言われる純白の塩、行司の能装束を彷彿とさせる衣装、呼び出しの醜名(しこな)を導く声、響く拍子木の透明音。
それらが見事なまでに一体化した時空。その静と動の日本の統合美。

モンゴル相撲(ブフ)や韓国相撲(シルム)との類似点、例えば競技内容とか仏教との関係、も言われるが、別物だと思う。法令等に定められているわけではないが、大相撲を「国技」と表現することの相応しさ。日本の神代からの伝統文化の一つである。
尚、モンゴルの国技は『ブフ』であり、韓国は『テコンドー』とのことで、ブフの全体像を知ればやはり似て非なるもので、大相撲は大相撲である。
因みに、アメリカの国技は、同様に法令等で定められているわけではないが、アメリカン・フットボール、バスケット・ボールそして野球とのこと。この日米異文化を思い浮かべるだけでも興味は尽きない。

 

大相撲の神話的要素、宗教的要素を知ると、大相撲の奥深さを実感し、日本人として一層身近に感ぜられる。と言う、私自身それらについて知らないことは多く、是非この機会に確認し、大相撲を私の内にもっと引き寄せたい。
だからと言って、最初に記した人々の仲間になる気は毛頭なく、最近その大相撲に危うさを思うことがあり、そのことにつながる「芸能性」(或いは娯楽性)のことに辿り着きたく思っている。競う側と観る側が、互いに、またそれぞれに長く心地良い関係であり続けることを願って。
その意味では、スポーツ[sport]の語源が、娯楽、愉しみであることに相通ずるものがあるかと思う。

相撲の源流は、今ではほぼ実在したと言われる第11代天皇垂(すい)仁(にん)天皇の時代、3世紀後半から4世紀前半にかけてと言われる。それは『日本書紀』で確認できる。
その個所の概要は以下である。

【当時、力自慢の當麻蹶速(たぎまのくえはや)の存在を知った垂仁天皇が、誰か彼の相手になる者はないかと聞いたところ、出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という者がいることを知り、大和に呼び寄せ対戦させた。結果、當麻蹶速は肋骨や腰の骨を折られ死んでしまった。垂仁天皇は、勝者野見宿禰に褒美として當麻蹶速の土地を与え、以後臣下に彼を加えた】

現代感覚では、いささか酷(むご)い闘い(競い)ではあるが、當麻蹶速は日ごろから生死を問わず戦うことを願っていたことでもあり、また古代人の闘いの感覚からすれば天皇の褒賞は自然な事だったのだろう。

ところで、日本書紀時代未だ仮名はなく、すべて漢字で表記されていて[万葉仮名]、その文中二か所、興味深い表記がある。一つは「力士」、一つは「角力」で、前者を「ちからびと」と、後者を「すまひ・すもう」と訓読みさせている。

この伝説が、事実であるとすれば(神話・伝説でも構わないのだが)、大相撲に熱い情愛を注がれていた昭和天皇の意向で、天皇即位の大正15年(1926年)に創設された「天皇賜杯」の原点は、垂仁天皇に遡ることとなる…。正に無形にして有形文化財である。

それ以降、事実資料の有無、多少はあるものの、奈良・平安時代には[相撲節会]として、鎌倉・室町・安土桃山時代には武士の訓練としても引き継がれつつ、江戸時代に大きく開花することとなる。

江戸時代との名称がついそうさせてしまうのだろうが、文化面で見ても中心は上方と江戸の二地域で、相撲もそうである。ただ、寺社の知恵(策略)と幕府が一体となった勧進相撲の発達や私たち多くが知る横綱谷風 梶之助また雷電 為右衛門の登場も手伝って、隆盛を極めたのは時代の後半になってからなので、ここでは江戸での相撲が私の中にある。

先日東京・佃島を散歩したのだが、ごく一部に古い入り江が残り、静かな街並みに何軒かの佃煮屋が残っていた。その街並みを囲むようにマンションが林立していたが、これぞ江戸情緒の面影を残す現代の東京なのだろう。ただ、元をただせば佃煮は大坂(浪花)の人々の「下(くだ)りもの」である。

小学校後半の3年間、大学院1年で中退しての懶惰(らんだ)な2年間の放浪生活、の京都の血が流れている私にとって、東京は5年程しか生の場所でしかないにもかかわらず、江戸に親愛感があり、食べ物も江戸風を良しとする(最近は加齢とともに変わって来てはいるが)、上方人からすれば奇妙奇天烈論外人の一人である。
尚、カミさんは3代続く生粋の江戸っ子だが、これは全くの偶然の業(わざ)である。

「江戸の三男(をとこ)(注:“おとこ”とせず“をとこ”とする昔の人の感性を羨ましく思う)」とは、粋でいなせの、当時、女性はもちろん、男性からも好まれた、真の「色男」三職を指す。それは、火消しの頭、与力そして力士を言ったそうだ。
「一年を二十日で過ごすいい男」。年二場所、一場所十日間で過ごしていた(と言っても、武家や豪商のおかかえ、ひいき筋、たにまちがあってのことであるが)力士のことである。
女性は見物自体が禁制であったが、力士の体格、強靱さに憧れも強く、それに錦絵が女性たちの想像力を大いに刺激したようだ。

蛇足ながら、今日のアイドルとブロマイドを、私は詳しくはないが、そこはかとなく思い浮かべると、当時三職に頬を染めたうら若き女性が、今の時代にやって来たらどう思うだろうか。昔は昔今は今よ、とさらっと流すような気もする。粋にこだわれば。

粋と言えば九鬼 周造(哲学者・1888~1941)の著『「いき」の構造』を先ず挙げる人が多いかと思うが、その九鬼は「いき」の三要素を[媚態][意気地][諦め]とし、論説している。
私は、眉間に皺寄せ四苦八苦して文字を追うのだが、私を江戸の魅力に導いた一人である杉浦 日向子(東京生まれの漫画家・江戸考証家。1958~2005、癌のため46歳で早逝)は、或る書で「よく読めばごく当たり前のことを言っている」と、さらりと流している。さすがとしか言いようがない。

相撲は力士なくしては成り立たない。もちろん力士だけでも成り立たない。力士を育てる親方(元力士)、おかみさん、行司、呼び出し、床山。また諸先輩、母校の恩師等々。
それらを束ねる管理性、そして文化性、芸能性の源流となる総本山『公益財団法人日本相撲協会』。
本場所をはじめ多くの興行や諸体制の主体は協会で、地方巡業場所も協会と地元の興行主[勧進元]の連携で行われている。その協会は、基本的に親方衆[理事]が中心で、監事や横綱審議委員会のような外部委員[識者]が随時参画し、運営されている。

公益財団法人は、税制上優遇措置を受け、且つ補助金が国より与えられる。日本相撲協会の場合、年間約2000万円とのこと。
従って、如何に興行収益を上げるかが協会にとって重要課題となる。10年程前の資料では、協会の総収入が165億円(内、NHKからの放送料は30億円)、支出は206億円とのことで赤字だが、この段階では国技館の改造経費も含まれ、更には協会の資金運営への文科省の監査等もあり、現在赤字はほぼ解消されているのではないかと考えられる。
過去には、待遇改善要求から力士がストライキをしたとの歴史があるが、現在は報酬や手当、また保障等、厚遇されているといっても過言ではないと思う。

力士の日々精進しなければならない仕事(労務)が、三つある。一つは稽古、一つは食事、一つは睡眠。すべては、本場所で後悔を残さず、無心で闘うための鍛練の時間である。と言えば窮屈なことだが、それが力士たる男を磨く基となる。
中学を卒業して、その大相撲の世界に入る者もいる。現大関高安はその一人だが、今はほとんどが高校へ進むのでそのような人物は稀かとも思う。
昔よく使われた“金の卵”との言葉を思い出すと同時に、外国人が懸命に生活・文化の壁を越えようとしながらも望郷の念、父母への思慕に陥るのが痛いほど伝わって来る。凄い意志力を思う。
ひたむきの精励の上に、資質と機会と出会いに恵まれた彼らの一部が、めでたく十両以上の関取となる。横綱が遥か高い山の頂であることが分かる。

彼らの年間実働時間(日数)を確認してみる。
本場所(6場所・2か月毎) 15日×6=90日 それに本場所に向けた稽古の総仕上げを場所前10日とすれば+60日で、150日。
地方巡業(春夏秋冬場所後)の日数が2018年で77日(74都市)。移動日を入れると1都市での巡業に3日は要するだろう。とすれば、74日(都市)×3日=222日。
上記を単純に合計すれば、力士の本業として要求される日数は、372日で既に1年を超えている。地方巡業を少なく見積もって200日としても350日。
非常な偏見で言えば、地方巡業は大相撲の浸透と力士顔見世、その上での稽古と言うことなのだろうか。
因みに、横綱を筆頭に、「三役」ともなると、何かと公的な交遊、厚誼の場も多いという。
世は[働き方改革]ブーム!?(と記したのは、国民全体を見る視野が欠けていて、偏向、独善の官僚性と政治家が好む言葉遊びを思うからである)だが、大相撲は視野にあるのだろうか。
ここ数場所の怪我による力士の多さは、この現状と関係がないと言えるのだろうか。私には到底そうは思えない。

先日、無念な形で引退した横綱稀勢の里が、引退会見で「経験を活かして、怪我に強い力士を育てたい」と言っていたが、既に行われている近代的トレーニング以外にどういう秘策があるのだろうか。

プロである(アマチュアでも同じだと思うが)競技者は等しく人間であって、[OFF]があって[ON]があり、[ON]があって[OFF]がある。心を整理し高め、身体に休養を与える時間[OFF]と、自身の課題に沿った集中稽古と身体トレーニング[ON]の切り替えが大きな成果につながる。

権力指向者や教職者に多用傾向がある「使役」助動詞「せる・させる」のことが過ぎる。
日本相撲協会は、力士にさせているのである。国技との、伝統文化との大義を掲げ、且つ地方巡業でも本場所並みの高い入場料を取って。
本場所の3階席はそうでもない、と反論されそうだが、そういう発想が、娯楽性を逆手に取った商業主義、拝金主義ではないのか、と私は思う。
やはり相撲を好いていた娘を、死の少し前に国技館での本場所マス席に連れて行ったが、年金生活事情から可能だった席は、マス席の最後方だった。

〔帰路、入り口を出たところで、娘が、臥牙丸関とその付け人たちと撮った写真は貴重な宝物である。〕

それとも、協会をそういう方向にさせているのは、日本社会と言うことなのだろうか。
因みに、現職時代、この使役助動詞を使うことに抵抗感、違和感があった。だからお前はダメ教師なんだと言われるかもしれないが。
もっと力士の息吹きや肉体の艶が直に感じられる席で、力士の激闘に酔ってこその、娯楽性、芸能性のではないのか。憂き世から離れたひとときの陶酔。降臨して来た神々との共感。日本の神様たちは、酒を愛し、満面の微笑みの寛容さで佇むとの印象があるからなおさらだ。

[満員御礼]の垂れ幕が、最近頻繁に、或いはほぼ連日下がっているが、画面には空席が多く目立つ。どういうからくりかは、大人は承知しているが、そこにも拝金主義が見え隠れする。
国技としての誇り、主役の力士たちへの配慮、より多くの人々の伝統愛促進を、真っ当な願望とするならば、日本相撲協会のできることが、3項目ある。

◎本場所を4場所に戻し、地方巡業を半分にする。

◎入場料金を下げる。

◎値下げや場所数減でのマイナス補填を次の方法で行う。

★税金の投入[少子化、高齢化社会が進むにつれ、日本人であることが
年々窮屈になって来ている。国連関連機関による『世界幸福度ランキン
グ』2019年の総合得点では、1位フィンランド、2位デンマーク、3位ノル
ウエーと続き、アメリカが19位、韓国が54位、中国が93位で、日本は昨
年の54位から58位に下がった。
あれだけ税金類を徴収し、物価は上がり、一体、この国はどこへ行こう
としているのだろうか。政治の貧困が露わになりつつある。58位と知っ
て驚かない私がいる。
あまりのムダが多過ぎる。核の傘借用等ための軍備費、在日米軍への阿
諛(あゆ)迎合費、政治家の摩訶不思議で独善的政治費[税金]の使い方
等々。
文化、教育、福祉に予算(税収入)を十分に割かず、財源不足を言い訳
に痛みとか称して国民負担増発想の圧政の国はいずれ滅びる。もう滅び
に入っていると言う人も少なからずいる。
大相撲に、伝統文化に、税金を投入することにためらう国は寂しい。]

 

★NHKの放送料増額[今では権威化、権力化を邁進し、守銭奴化したN
HK。報道、ドキュメンタリー、スポーツ中継、大河ドラマでの技術・
スタッフの秀逸性への自負は棄てたのだろうか。なぜ民放の模倣が増え
ているのだろうか。国営放送ではないのだから、なぜ受信した分だけ払
う合理性に眼を向けないのだろうか。受信料に係る最高裁判決で「義
務」との表現が出て以来、尊大さが強くなりつつあるように思えるの
は、私だけなのだろうか。
併せて【三権分立】も怪しくなりつつあるよう思うが、今は措く。]

 

少子化、高齢化の実状と世に多くある不幸な事実(例えば、子ども・老人の貧困、男女協働の言葉先行・10代から20代での自殺の急増等)、それらの元凶とも言える施策の貧困を直視し、世界共生・協働時代、浅薄な愛国心ではなく、自立した「小国主義」日本であって欲しい。それでこそ日本の国技である伝統文化大相撲は栄え、末永く残ると頑なに信じている。

 

 

 

 

2019年3月14日

自由律俳人の幾つかの作品鑑賞 俳句再発見・再学習 最終回[二]

~「自由」の心地よさ、為難さ~

井嶋 悠

良い機会なので自由律俳句を、上田 都史の書での引用句や他の書から、幾つか味わってみた。共感もあれば困惑もあった。抄出し、寸感[各句※部分]を添え、数回にわたる[俳句再発見・再学習]拙稿を終えたい。
自由の伸び伸びした世界への夢想の快、自由を知情意で己が血肉とする難しさを思いながら。

自由律俳人を言う場合、河東 碧(へき)梧桐(ごとう)(1873~1937)を源流に、その碧梧桐を師とする荻原 井泉水(1884~1976)そして井泉水を師とする種田 山頭火(1882~1940)そして尾崎 放哉(1885~1926)らを、大きな流れとしてとらえているようなので、はじめにその4人の句を幾つか抄出する。

【河東 碧梧桐】

『蔭に女性ありのびのびのこと枯柳』
※艶なる句とも思ったりするが、だめだ。

『相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり』
※私が描くのは、相撲取りと船と時化の妙なのだが……。

『草をぬく根の白さ深きに堪へぬ』
※「堪へぬ」の語感が、園芸に心傾く私には感慨深い。

 

【荻原 井泉水】

『夏の日寂寞(せきばく)と法堂をきざむ斧(おの)のおと』
※『閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声』を思い浮かべた。

『水車ことかたと浪音に遠きこころ哉』
※独り静かに想い馳せる時間。

『窓を絶えずよ番(つが)い蜻蛉の流るる日』
※やはり秋空を背に泳ぐ赤とんぼがふさわしい。

『かつこう鳴けば淋しかつこう彼方に答え』
※この4句の中で最も好きな句。

 

【種田 山頭火】[『定本 種田山頭火句集所収【草木塔】』より抄出]
抄出に際しては、私なりに山頭火を感じ且つ共感したものを幾つか選んだ。

《山頭火の背景・略歴
家業の破産、妻子との離別、弟の自殺、自殺未遂等、辛酸をなめ、42歳で得度し、雲水姿で諸国を乞食で漂泊し句作に勤しむ。享年58歳。》

以下、◎はとりわけ響いた句。

◎『分け入っても分け入っても青い山』
※爽快な自然と激する一人の男。青山到るところに在り…。

『鴉啼いてわたしも一人』 ※前書きに「放哉居士の作に和して」とある。

『木の葉散る歩きつめる』 ※「つめる」に迫り来るものを思う。

『しぐるるや死なないでゐる』
※どこかしら漂う自棄的な山頭火に心動かされ。

『けさもよい日の星一つ』 ※「星一つ」か。さすがだ。

『枝をさしのべてゐる冬木』 ※山頭火の慈愛と生きようとする姿。

◎『雨ふるふるさとははだしであるく』
※故郷のあるようでない私だが直感的共振する。

◎『ゆふ空から柚子の一つをもらふ』
※野暮な愚者の感想など全く必要のない句。

『ひつそりかんとしてぺんぺん草の花ざかり』
※「ひっそりかん「ぺんぺん草」。詩人。

◎『てふてふうらからおもてへひらひら』
※ひらかなと擬態語の絶妙なハーモニー

『けふもいちにち風をあるいてきた』
※思わず山頭火の写真の貌が浮かぶ。

『しようしようとふる水をくむ』
※「しようしようと」「くむ」の孤愁の響き。

◎『お月さまがお地蔵さまにお寒くなりました』
※辛酸を経たが故の優しさ溢れる句。

『どうしようもない私が歩いている』
※この自虐性がますます酒に向かわせる壮絶な孤独。

◎『笠にとんぼをとまらせてあるく』
※孤独の中の心和むひととき。瞬間の安らぎ。

◎『まっすぐな道でさみしい』 ※ロマンと表裏為す孤独。

◎『生えて伸びて咲いてゐる幸福』 ※開花した花々の微笑みが視える。

『ひとりひつそり竹の子竹になる』
※「ひつそり」が卑俗性を消している…。

『重荷を負うてめくらである』
※やはり今の時代では使えない言葉であることを思いつつも。

『ともかくも生かされてゐる雑草の中』
※乞食漂泊者でない限り分からない実感。

『よい道がよい建物へ、焼場です』 ※強烈な静寂が漂う。

『日かげいつか月かげとなり木のかげ』
※我が身を白日の下で確認したいができない生の宿命。

『草のそよげば何となく人を待つ』
※悟道に向かう山頭火と野卑な小人振りの私。

『何を求める風の中ゆく』
※[何を・風の中]と[求める・ゆく]が導く爽快な想像。

『あるけばかつこういそげばかつこう』 ※自然と共に生きること。

◎『みんなかへる家はあるゆふべのゆきき』
※前書きに「大阪道頓堀」とある。

『こころおちつけば水の音』
※山頭火は己が境涯を「淡如水」と言っている。

◎『わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし』
※秋の醸し出す世界と人。

◎『月からひらり柿の葉』 ※ただただ美しい幻想世界。

『やつぱり一人はさみしい枯草』
※「やつぱり」・・「は」・・「枯草」に滲み出る山頭火の人恋しさ。

◎『しみじみ生かされてゐることがほころび縫ふとき』
※どれほどに驕り高ぶる人を見て来たことか。

『足は手は支那に残してふたたび日本に』
※前書きに「戦傷兵士」とある。

『だまってあそぶ鳥の一羽が花のなか』
※山頭火の鳥との一体化の瞬時の快。

『風の中おのれを責めつつ歩く』
※途方もなく多い共感者を思い浮かべる。

『死はひややかな空とほく雲のゆく』
※西に向かっていく雲を追うばかりの人の性。

『そこに月を死のまへにおく』 ※生があるがゆえの死へのもがき。

『枯枝ぽきぽきおもふことなく』 ※孤愁。

◎『窓あけて空いつぱいの春』
※冬になると、冬が近づくと過ぎる北国(雪国)の人々の心。

『霜しろくころりと死んでゐる』 ※前書きに「行旅病死者」とある。

『どこでも死ねるからだで春風』 ※この覚悟があってこその春の風。

◎『寝床まで月を入れて寝るとする』 ※独りだが至福のいっとき。

『死ねない手がふる鈴をふる』 ※前書きに「老遍路」とある。

◎『しみじみしづかな机の塵』 ※sImIjIm IsI・・・tIrIの絶妙。

『鳥とほくとほく雲に入るゆくへ見おくる』 ※孤独がゆえの心の余裕。

『いちにち物いはず波音』 ※地球の久遠と独りの人と。

『しんしん寒の夜の人間にほふ』 ※「にほふ」は人間?寒の夜?

『おちついて死ねさうな草枯るる』
※「死ぬることは生れることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じない
ではゐられない。」との言葉が句の後にある。

『かへりはひとりの月があるいつぽんみち』 ※月は山頭火の後ろにあるのだろうか、前だろうか。

『なければないで、さくら咲きさくら散る』 ※読点一つの絶妙な効果。

◎『空腹(すきぱら)を蚊にくはれてゐる』
※ユーモアは心に余裕がないかぎり生まれない…。

『ひろびろひとり寝る月のひかりに』 ※ひろびろひとり寝る、孤独を知り得た者だけの直情。

◎『蠅を打ち蚊を打ち我を打つ』 ※仏教帰依者だからこその説得力。

『夕焼雲のうつくしければ人の恋しき』
※妻子?弟?それともとにかく人だろうか。

『蛙になりきつて跳ぶ』
※同一化の愛とそれを客観的に視るおかしみの自身。

 

【尾崎 放哉】[村上 護編『尾崎放哉全句集』より抄出。]尚、略歴は前回記したので省略する。
抄出に際しては、下記[Ⅰ・Ⅱ]二つの時期での、私なりに放哉を感じ且つ共感したものを選んだ。
以下、◎はとりわけ響いた句。その◎をつけた句のみ寸評を記した。

Ⅰ.俗世の時代(1915年~1923年)

○児等と行く足もと浪がころがれり

○浜つたひ来て妻とへだたれる

○休め田に星うつる夜の暖かさ

◎妻が留守の障子ぽつとり暮れたり
※「ぽつとり」が響く静けさと無心の放哉

◎夜店人通り犬が人をさがし居る ※私は猫より犬を好む。

○嵐の夜明け朝顔一つ咲き居たり

◎昼深深と病室の障子
※北條民雄のことで長島・愛生園に行ったことを想い出す。

◎犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼
※犬の眼は実に慈愛と孤独に満ちている。

 

Ⅱ.遁世以後(1924年~1926年)

◎ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる ※何と平安の時間。

○一日物云はず蝶の影さす

◎たつた一人になり切つて夕空
※「なり切つて」に詩人ならではの魂を直感する。

◎昼寝起きればつかれた物のかげばかり ※昼寝の功罪。

○空に白い陽を置き火葬場の太い煙突

○氷がとける音がして病人と居る

◎落葉木をふりおとして青空をはく
※天空を見上げてこそ可能な描写。

◎何か求むる心海へ放つ
※昔海と言う漢字には母があった、を思い出す。

○仏にひまをもらつて洗濯してゐる

◎こんなよい月を一人で見て寝る
※快を詠っているのだろうか、それとも寥だろうか。

○灰の中から針一つ拾ひ出し話す人もなく

○今日も生きて虫なきしみる倉の白壁

○ふところの焼芋のあたたかさである

◎なんにもない机の引き出しをあけて見る
※独りぼっちのひととき、しかし心落ち着くとき。

◎風が落ちたままの駅であるたんぼの中
※まさに絵画である。幻想的絵画。

○ころりと横になる今日が終つて居る

○海が少し見える小さい窓一つもつ

○なん本もマツチの棒を消し海風に話す

◎をそい月が町からしめ出されてゐる ※月は放哉?

○切られる花を病人見てゐる

○障子あけて置く海も暮れ切る

○入れものが無い両手で受ける

◎静かに撥が置かれた畳
※和服の女性の面影と三味の余韻が一層引き立たせる。

○墓のうらに廻る

○掛取も来てくれぬ大晦日も独り

◎肉がやせてくる太い骨である ※人間であることの驚愕。

◎やせたからだを窓に置き船の汽笛
※「窓に置く」との表現の静けさ、寂しさ。

○春の山のうしろから烟が出だした ※辞世の句とのこと。

 

【蛇足補遺③】

私は、山頭火に辛苦をひたすら受け止める者が為し得る濾過された情を、放哉に才智ゆえの孤独な知を直覚する。と言う私は、あまりにも浅薄な感傷の情と切り貼り的知で今日まで来たように思える。
私は放哉の知より、山頭火のぎりぎりの情に魅かれる。しかしそれに近づくことさえ私にはできない。

【現代俳人の作品から】

[藤井 千代吉] 『蝶になれば僕たち花園に住めるね』(1987年)

[松宮 由多可] 『引き算の平生それから先の雪囲(ゆきかこい)』(1990
年)

[和田 美代]  『明日はひらく音するように蓮を描く』(1990年)

[古川 克巳]  『自閉症児とくらい鶏いて木が友だち』(1988年)

 

【蛇足補遺④】

―自作の試み―

人生の後半「苦」を重ねられた恩師で、個人的に親愛の情を寄せていた方が亡くなった時、その方の苦しみ、抗いの幾つかの言葉を思い出して。

『疲れたと言って逝ってしまわれた』

 

【蛇足補遺⑤】

今更ながら、私たち日本人の底流にはひらかなが脈々と流れていることを、今回体感した。
短歌を「三十一(みそひと)文字」とも言うが、俳句同様、人によっては、31音、17音と音数で定型を説明する。確かに、漢字・仮名時にはローマ字さえ使う日本語にあっては、その方が誤解を招かないかとは思うが、日本人の私たちは、心ではひらかなで読み、聞いている。(聞くの場合、同音異義語の多い日本語
だから確認すること多々あるが)表意としての文を表音文字に瞬時に置き換え感じ考える。
こんな(人によっては当たり前のことだろうが)ことを思ったのは、自由律俳句の不安定さを感じながら読んでいて「自由な律」に、定型俳句と同様の音楽性を感じたからである。
俳人[詩人]の俳人[詩人]たる所以。その音楽性に引込まれて行く読者、私たち。
本文中で引用した上田 都史の「自由律で俳句を書く」との言葉が、改めて思い出される。

芭蕉・蕪村・一茶そして自由律俳句を主題に4回の再発見、再学習の投稿をした。
カタカナ言葉を連ねるが、ボーダレス[レスト]、インターナショナリズム[リスト]、ナショナリズム[リスト]といった難しいことを離れ、単に一人の日本人で、33年間、中高校国語科教師であった私にとって、今回の投稿は、日本を再自覚する機会ともなった。
どういう形であれ外国人の存在は、ごく当たり前になり、今年4月以降、外国人労働者が日本経済を支えるため一層増えることになる。
また「ダブル(ハーフ)」も、年々各分野で大きな活躍、仕事をする人が増え、22歳での「国籍選択」で日本を採るのか、もう一方を採るのか、或る意味日本が試されている。
次代を創る若い人たちは、日本の舵をどのような方向に持って行くのだろうか。

 

 

2019年2月24日

自由律俳句『咳をしてもひとり』 俳句再発見・再学習 最終回[一]~「自由」の心地よさ、為難さ~

井嶋 悠

束縛、制約があっての自由。束縛も制約もないところでは自由という言葉自体ありようがない。人間は2,3歳ころから束縛、制約を自覚し始め、歳を増すごとにその度数は上がり、自由に憧れ、自由を求め始め、悟得者以外多くの人は死で解放され自由を得る。しかし、その時本人が自覚したかどうかは、人類誕生以来誰も?知らない。

俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の代表句の一つ『咳をしてもひとり』が、高校の教科書に採り上げられていた時、説明に困った覚えがある。10代後半の生徒にどう得心まで持って行くのか。俳人の略歴を先に説明すれば、その先入観、知性と理性で句を味わうと言う本末転倒を思うから。もっとも、生徒自身の中で、自身の心を含めた諸状況、環境から、瞬時にこの句に移入した者もあったかもしれない。しかし、それを教室と言う場で自身から、或いは教師が言わせることは、私には辛く痛みの経験があり考えられない。

『古池や 蛙とびこむ 水の音』とか『菜の花や 月は東に 日は西に』とか『痩せ蛙 まけるな一茶 是に有り』なら、想像もいろいろでき、その想像を素にあれこれ問答し、私は10代の感性を愉しみながら、全体像に迫ることができるが、『咳をしてもひとり』はそうは行かない。
現職時代の私の授業に係る想像力無さを白状していると言われればそうで、私の心に強い響きで飛び込んで来たのがここ数年のことである。想像力は生の積み重ねの多少で変質、培養するのかもしれない。そこに放哉の生涯全体から想像できることを重ねると、到底私にはできない勝手な憧憬の意も込めて、共感する私が今居る。

ここで放哉の略歴を記す。
1885年 鳥取県生まれる
1909年 東大法学部卒業
高校は旧制一校で、卒業までの間で、夏目漱石の英語講義を聞き、傾倒する。また、後の俳句の師となる荻原 井泉水に出会う。(井泉水については、後で触れる)
1923年 大学卒業後、或る保険会社に就職し、後に別の保険会社に転職するも、1923年免職。妻去る。
1924年~1926年
自由律俳句への造詣を深める一方で、京都・神戸・福井・小豆島の寺男になるが、金の無心、酒癖の悪さ、東大出の誇示等、各地での評判は甚だ不評で、最後の小豆島で病死。享年41歳。

【備考】

放哉の歴史の中で、死の2年前、数か月の間だったようだが、社会奉仕団体『一燈園』(京都・山科)で修養を積んだことには心が動く。
一燈園は1904年に開かれた、己が懺悔をもって無所有奉仕の生を実践し学ぶ所で、現在も平和の願行の一環として、近隣の便所掃除奉仕を続けていると言う。この修養については、放哉が随筆『灯』の中で書いているが、自身が言う「大の淋しがりや」の彼としては、なかなか厳しい時間だったようだ。
尚、ここには小中高校もあり、一燈園の考えに共感する子ども[保護者]が在籍していることを初めて知り、元教師としても関心が向いた。

放哉のような俳句を「自由律俳句」と呼んでいる。「自由」な「律」の「俳句」。
律;①おきて ②一定の標準により測る ③音楽の調子、リズム

俳人であり俳句研究者でもある上田 都史(1906~1992)は、その著『自由律俳句とは何か』(1992年刊)の中で、こんなことを言っている。

「自由律を書くのではなく、自由律で俳句を書くのである。」と。

そして動物生存地境界線を応用して、数字的な面から俳句の規定を試みている。それによれば、17音を基準(標準)として12音から22音までを俳句としている。氏は放哉への傾倒者であったが、その基準に照らせば『咳をしてもひとり』は9音で、俳句として認めないと言う。
おもしろい俳句定義の試みではある。[あ・んとうなずく]なんか面白そうだが…。
もちろん季語や切れ字といった束縛も制約もない。

そもそも俳句とはいったい何なのかとこの年齢になってあらためて思う。5・7・5と17音並べれば、まずは俳句となるのか。川柳とはどう違うのか。俳句は元来俳諧と言われ、その諧謔性、風刺性において、両者はどう違うのか。考え始めたら際限ない。いつもの袋小路である。やはり先人の知恵を借りるのが一番だ。

俳句は、和歌(やまとうた)の一つの形連歌から派生し、短歌31音[みそひと文字]の前半部を独立させた詩である。と、考えれば先ず『古今和歌集』(905年)の仮名序に触れておきたい。

【その冒頭部分】(適当に漢字を交えた)

――やまとうたは、人の心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるもの、きくものにつけて言ひ出だせるなり。花になくうぐひす、水すむ蛙(かはず)の声をきけば、いきとしいけるものいづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男(をとこ)女(をむな)のなかをも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。――

言う。自然の彩り、躍動を見て、歌心(ごころ)が芽生えない人などありようか。歌は天地に、霊界にそして人間界すべてに美と慈しみを奏でる、と。
歌を何も和歌や詩に限定する必要はない。歌を言葉と置き換えて何が問題だろう。或る西洋の詩人が、言っていた。「一語が人の喉をかっ切る」と。もちろん逆も絶えずある。「一語が愛を生みだす」。「ああ」否「あ」だけでも、一語で詩となることもある。
聴き手、読み手と話し手、書き手との想像力の対話が決める言葉の軽重。言葉の無限の力。
因みに、最も軽いのが政治家や官僚の、或いは一部のマスコミ人の垂れ流す言葉。
では重い言葉、心に突き刺さってくる言葉の共通性とは何だろう。

【蛇足補遺①】

以前投稿したオノマトペの世界、[onomatopoeia]に綴られたpoem・詩的世界。もっとも、人によってはその原初性から否定する人もあるが、私はそれには与しない。

とは言え、俳句が主題なのだから俳句に沿って、先の言葉[歌]を考えてみたい。
芭蕉と幼なじみで同じ伊賀藩に仕え、後に芭蕉を師として敬慕した服部 土(ど)芳(ほう)が著した、芭蕉が確立させた俳句[俳諧](蕉風)論『三(さん)冊子(ぞうし)』の冒頭から一部分を抄出する。

――それ俳諧といふこと始まりて、代々利口のみに戯れ、先達つひに誠を知らず。(中略)亡師芭蕉翁、この道に出でて三十余年、俳諧実(まこと)[実質の意・反対は虚名]を得たり。(中略)まことに代々久しく過ぎて、このとき俳諧に誠を得ること、天まさにこの人の腹[真の俳人の出現の意]を待てるなり。――

ここでは「まこと」が、三つの意味で使い分けられている。
一つは、真実の姿。一つは、実質としての名声。一つは、実にといった副詞用法。
では、その核である真実の姿の「誠」とは何なのか。

芭蕉44歳時、東海道・吉野・須磨・明石への旅をまとめた俳文紀行『笈(おい)の小文(こぶみ)』の冒頭から抄出する。

――(中略)西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも、風雅におけるもの、造化に随(したが)ひて四時を友とす。(中略)夷狄(いてき)を出で、鳥獣を離れて、造化に随ひ、造化に帰れ、となり――

最後の「造化に随ひ、造化に帰れ」の人の在るべき姿への警鐘とも言える言葉。命あるもの、自然一切、万物を創造した神への人としての謙譲の自覚。その時に生ずる全霊を傾けた己が言葉。それを受け止める他者。両者間に厳としてある誠。誠実。
近代俳人の言葉を借用する。

――(中略)言葉には表すことのできない感動を発する俳句に出会ふ。(中略)作者の人間全体を感じてしまふのである。それはまるで肉体的な衝撃さへあたへる。――(石田 波郷〈1913~1969〉)

しかし、それは俳句に限らない。先にも触れたように日々の生活の中で私たちは、この言葉の力をどれほどに痛感しているか、ことさら言うまでもないだろう。にもかかわらずなぜ俳句なのか。やはり俳人の言葉が必要だ。

――(中略)光の印象は稲妻のやうに刹那的に輝くものである。それを捉へるには短くして鋭い詩形でなければならぬ。力の印象は疾風のやうにとっさに発するものである。それを捉へるには緊張したる言葉と強いリズムとを以ってしなければならぬ。ここに於いて、私は俳句といふ詩形を選ばねばなくなる。印象の詩として存立する純なる芸術は俳句であると思ふ。――

こう言ったのは、自由律俳句での先駆的俳人であり尾崎 放哉や種田 山頭火らを育てた荻原 井泉水(せいせんすい)(1884~1976)である。

ここには自由であること、拠るべき定型がないこと、の清々しさと苦しさの両極で揺れる自由律俳人の姿が出ているように思える。
読み手である私(たち)は、その瞬間の言葉を受け止めなくてはならない。しかし、私にはそれが思うに任せない。年輪は重ねたにもかかわらず想像力はいや増すどころか狭小化しつつある、と言えばそれまでであるが、日本の「律」に染まりきっている私がいるのかもしれない。

5音、7音は古来日本人の無意識下での自然なリズム(生命感)であることは多くの人が認めるところである。幼稚園児でさえあの天使の指をたたみながら5・7・5と数え、例えば(交通)標語等を創り出す。
その音楽性と助詞[てにをは]の言葉日本語が組み合わさって、私たちを何か自ずととりあえずの段階かもしれないが理解の方向に導いたり、理解できたような錯覚に陥らされたりするようにも思える。

【蛇足補遺②】

この5音7音について、南太平洋[南アジア・ポリネシア地方]の、或る部族に同傾向がある旨のことを以前聞いて、日本の4つか5つのルートを経て到達した人々が培った「原文化」への関心に、わくわくした気持ちで想像を広げたことがある。

自由の難しさ。定型・規範の安心感。また「際」のもどかしさ、煩わしさ。
例えば帰国子女を[(小さな)国人]と呼称する大人たちと当事者の戸惑いにも通ずることとして。

この日本人ならではの?心の微妙な揺れと自由律俳句について、先の上田 都史は先に引用した同じ書の中で次のように述べている。

――心の表現に誠実でありたいと希うから五七五調十七音から離れるのでる。離れざるを得ないのである。心を第一義として心のおもむくままに書くから、その形式は定型を離れるのである。それが、自由律俳句である。――

私が、『咳をしてもひとり』に、かつてになかった感銘を受けた理由を、上記の先人たちの言葉に重ねた時、どうなのか。私は、放哉のぎりぎりの言葉、全人的言葉としての誠を、先の略歴を知れば知るほど、感じずにはおれない。酒と学歴矜持で人間(じんかん)を放棄し、憐れを拒否し、自己絶対心の虚栄に生きた人間の孤独。
私には到底為し得ないがゆえのある種の羨望にも似た感情も込めた共感からの、彼の孤愁。

私は、或る時期から「理解」との言葉の使用には慎重になっている。理知性の強さを思うからで、だからと言って、吟味、考究のない感性をすべてとも思わない。それは「分かる」との語でもそうである。
放哉の『咳をしてもひとり』は、受け手の私の全人性から得心できたのではないか、と今思っている。