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2022年10月24日

『老子』を読む 十二

井嶋 悠

第46

 罪は欲すべき[欲望]より大なるは莫(な)く、禍(わざわ)いは足る[満足]を知らざるより大は莫く、咎[罪過]は得る[貪る]を欲するよりいたましきは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る。

◇学校教育における「常に足る」という状態は、どんなことを指すのだろうか。公立、私立の別、また公立校の伝統の多少、私立校のとりわけ宗教系学校が掲げる理念。そこからどういう姿が抽出できるのだろうか。例えば、生徒が一人一人人生の重荷を抱え込み始めても、日々に充足な学校時間を体感し、校門を出る……。中等教育の、初等教育や高等教育にない困難さに思い到る。

第47

 聖人は、行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す。

 「脚下照顧」己が内を視よ。
 「見性成仏」己を知ることが仏を知る。
 「春は枝頭にありてすでに十分」

◇今日、学校教育で頻りに掲げられる「国際」。考え、経験し、知れば知るほど曖昧模糊、実態が見えなくなる国際。名目だけに堕してしまう形式化。英語教育の充実、国際交流の取り組み、海外子女の受け入れ校としての帰国子女教育等々。一期一会の生徒と日常化が形骸化に堕してしまう学校[教師]の現実。日毎に問われる学校力のための教師の一体化。
権力者は不安感、危機感を持つ時、民衆(生徒)の眼を外に向けさせる。ここに異文化はない。

第48

学を為せば日々に益(ま)し、道を為せば日々に損ず[減らす・減る]。これを損じて又た損じ、以って無為に至る。無為にして為さざるは無し。

◇伝統を持つ学校は、泰然と構える。伝統の重み。その伝統校も初めがあった。歴史の時間を積み重ねることで成就される伝統。あれもこれもの忙しさの危険。一心不乱の日常化の難しさ。

第49

 聖人は常に心無く、百姓の心を以って心と為す。[善不善すべて善とし善を得、信不信すべて信とし信を得る。]百姓は皆其の耳目を注ぐとも、聖人は皆これを閉ざす。「無知無欲」

◇優れた教師は己が価値観を生徒に押しつけない。生徒のすべての心を得ようとする。それを為し得るのは、己を無知とすることにある。しかし、生徒たちはそこに物足りなさを思う。そのためにも優れた人物は、日々刻々無知無欲を積み重ねなくてはならない。至難である。大人の世界でこそ通ずることなのかもしれない。それでも、私学の宗教系学校でその宗旨も知らずに入学して来る親子もあるのが現実である。

第50

 生に出でて死に入る。生の徒[柔弱]は十に三有り、死の徒[剛強]も十に三有り。人の生、動いて死地に之(ゆ)くも、亦た十に三有り。其れ何の故ぞ。其の生を生とすることの厚きを以ってなり。
(猛獣から攻撃されない・甲兵とならない)其の死地無きを以ってなり。[生命に執着するという死の条件がない]

◇学校は母性の世界である。しかし、一方で父性を求める。その調和が理想の学校へと導く。老子は「無」を言う。無は母性父性すべてを呑み込んだ世界である。カソリック系のとりわけ女子生徒に、在学中の受洗者が多いのもそれがゆえかもしれない。

2022年10月1日

『老子』を読む(十)

井嶋 悠

第41

 反(かえ)る者は道の動なり。弱き者は道の用なり。天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。

◇学校では、休憩の時空が必要だ。階段を昇り、踊り場で休み、四方を展望し己れを見つめ、来た道を顧みる。直線階段は集中トレーニングの一時的なもの、螺旋階段の持つ意味が問われる。しかし、多くの学校は、学び、学び、学びの直線指向で、長期休暇もあれもこれもの学習。学校嫌いが増えて然るべきだろう。そして、教師も疲れている。学校の教師と塾の教師は別の人で、生徒は常に同一人物と言う恐るべき現実、事実。ハンドルに“遊び”がないと事故になる。昔の人は余裕があった。曰く「よく学べ、よく遊べ」

第42

 万物は陰を負いて陽を抱き、沖(ちゅう)気(き)(和気)以って和を為す。
 強梁者は其の死を得ず。

陰陽:天地 「陰」:
「陰」女・静・柔・内・月・夜
「陽」:男・動・剛・外・太陽・昼

◇「学校」をイメージするとき、「陰」が色濃く映る。「教師」をイメージするとき、「陽」が色濃く映る。

{これは個人的なものなのだろうか。

母のように優しく静かに内に抱き込む学校。それに気づかせられる夜。走り抜ける動的で剛毅朴訥な姿。小学生は言う。「ちょっとでも学校へ行きたい。」中学生は言う「学校?」高校生は言う「ん!?」…?
学校は、教師は「母性」の世界だと思う。だから、男性教員の存在意義があり、学校は、男女参画協働社会の雛型だと思う。男子校であれ、女子校であれ。やはり学校は社会の素であると重ねて思う。教師の役割の大きさに気づかされる。

第43

 不言の教え、無為の益は、天下これに及ぶこと希なり。

◇学校教育の最終理想像として、「不言の教え、無為の益」は可能か。この矛盾の自己の内での葛藤、克服こそ学校教育の道標と言えるように思える。雄弁の極としての沈黙の力、活動の極としての不動の存在感。
そういう教師に出会ったことはほとんどない。

第44

 足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず。以って長久なるべし。[知足の計・止足の計]名誉より己が身。国家より自己、外より内。

◇学校は集団を求め、塾は個人を求める。学校における個と集団はいつも難しい問題として現われる。その点、塾は明快に個人である。教えることでの合理性は塾にあるが、教育の本質としての人格の陶冶を思うとき、教育の本源を求める教師は、生徒が直感的に嗅ぎ分け、使い分けている。しかし、現役時代果たしてそれだけの心の幅が、あったかどうか、甚だ心もとない。個と教育から視た学校、塾、自己の確立があっての社会、脚下照顧があっての国際との考えで、逆ではない。
ただ、どこをもって「足る」のか。難しい。いろいろな場面で「足る」を言うことでの過度の問題。

第45章

 大成は欠くるが若(ごと)く、その用は弊(すた)れず。・・・・・大巧は拙きが若く、大弁は訥なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。静清[清澄]は天下の正なり。

◇教育は、日々刻々動の世界ではあるが、静の世界だと思う。それは儒教も同じではと思う。最悪の教師は、己が自身で「大成」「大巧」「大弁」を意識する人である。生徒の感性はそれを見事に見抜く。心一杯ではなく、どこかに隙間を持っている時の方が、授業は円滑にいく。「教室で斃れてこそ本望」と胸張る人は多いが、果たしてどうなのだろうか。

2022年8月17日

『老子』を読む(九)

井嶋 悠

第36

 ……将にこれを奪わんと欲すれば、必ずしばらくこれを与えよ。是れを微(び)名(めい)(微妙に隠された明智)と謂う。柔弱は剛強に勝つ

◇生徒には必ずと言っていいほどに“点取り虫”がいる。結果がすべての合理的発想とも取れなくはないが、中には、「誰々に勝った」と誇る者もいる。しかしこのような人物は概ね嫌われ者である。ただ、世間では優秀者として見られ、本人は頓着しない?
試験など無くし、語学以外は大学のようにレポート形式にすれば良いと言う人もあるが、はたしてどうだろうか。
これを実践し、評価できる教師は、はたしてどれぐらいいるだろうか。私にはそんな器量はなく、せいぜいで、授業復習試験と論述試験の相乗りだったが、それとて採点と受講生徒人数で、生徒から採点苦情が出ないよう、四苦八苦していた。

第37

 道は常に無為にして、而も為さざるは無し。……無名の樸《道》は、夫れ亦将に無欲ならんとす。欲あらずして以て静ならば、天下将に自ら定まらんとす。

◇今もって事細かな校則を作り、それを生徒指導の名目で教師を“指導”する学校は少なからずある。流行は時代と共に変化するから対応も一苦労だろう。もっとも、流行は繰り返すとも言うが。実際、校則を作り、それを遵守させる方が、教師は楽とも思える面は無きにしも有らずだが、幸か不幸か?私は自由校に勤務した。その中で、例えば服装、女子校で最も効果的なのは、生徒自身がいうに生徒同士の批評だそうだ。
或る「学力」の低い生徒が集まっている学校(女子校)の教師が言うのには、それを実施したらとんでもないことになる、と言っていた。
この言葉、生徒の、自己尊重―学力(或いは学習評価)の悪循環を表わしているように思え、私の幸いを思ったことがあった。

【下篇】徳経

第38

 上徳は徳とせず。[徳=得。生来及び以後の中で身に着けた能力:道教の無為にみる実践性、儒教に見る道義性]是を以って徳あり。下徳は下徳は徳を失わざらんとす。是を以って徳なし。上徳は無為にして、而して以て為すとするなし。上仁はこれを為して、而して以て為すとするなし。
……道を失いて而して後に徳あり。徳を失いて而して後に後に仁あり、仁を失いて而して後に義あり、義を失いて而して後に礼あり。……前識(さかしらの智恵)なる者は、道の華[あだ花]にして、而して愚の始めなり。

◇社会が不安定になり、諸事にほころびが生じ始めるとしきりに標語やスローガンが街路や壁に登場する。だからそれを見ると、今何が問題かが分かる。
学校も同様である。ただ、そこには2種類ある。一つは、学校応募者の減少や質的マイナス変容での危機感が、出始めると何かと外に向けて広報を出す。無為無言で「待つ」心の余裕がなくなるのだろう。
もう一つは、学内生徒間等で諸問題が出ると、教室や廊下にそれに係る掲示が増える。その時、生徒会(自治会)が積極的な役割を果たすが、内容によっては教師たちとの協働性による成果となり、学内は良い雰囲気になる。ただ、自由指向の現代社会にあっての「義」《人としての正義》「礼」《人としての礼儀》は、「徳」や「仁」との精神性とは違って難しい問題である。
儒教、仏教、キリスト教…に基づく学校は多いが、道教に基づく学校と言うのはあるのだろうか。『道家道学院』という、教室的な学校は、全国に何か所かあるようだが。やはり、道教は「教」と言っても宗教のそれではない?

第39

 夫れ貴(たっと)きは賤しきを以って本と為し、高きは下(ひく)き以って基(もとい)と為す。是を以って侯王は自ら孤(孤児)・寡(独り者:寡徳。寡人。)・不穀(ろくでなし・不善)と謂う。此れ賤しきを以って本と為すに非ずや、非ざるか。故に数々の誉れを致せば、誉なし。琭琭(ろくろく)(立派な)として玉の如く、珞珞(らくらく)として石の如きを欲せず。…………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これを致すは一(いつ)[道]なり。

◇謙称としての「弊校」、敬称としての「貴校」。第2章の「美の美たるを知るも、これ悪(醜)のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ。」との、老子の考えからすれば、この謙称も敬称も「一」に帰さなくてはならない。日本人の感覚としてどうなのだろうか。私個人は、内容では老子で、形式では日本語表現なのだが。

第40

 大器は晩成し、大音(たいおん)は希声(きせい)、大象(たいしょう)は形無しと。道は隠れて名なし。夫れ唯だ道は、善(よ)く貸し且つ善く成す。←未完[形ができあがればそれで用途は限られる。永遠の積極性、無尽性。

◇卒業はそこで終わるのではない。一休みして再び歩み始める、その新たな起点である。人生には限りがあるが、道は永遠である。「明道は昧(くら)きが若(ごと)く、進道は退くが若く、夷道(平坦な道)は類(るい)なる(起伏)が若し。」
そのおぼろげな道をおぼろげにでも自覚させ、伝える場としての学校。学校は所謂学校がすべてではない。到る処に様々な学校がある。しかし、一人では手に負えないから、仮の場所として学校は在ると考えれば、随分と気が楽になるのではないか。後は、教師の、大人の、国の問題である。

2022年8月2日

『老子』を読む(八)

井嶋 悠

第31

 夫れ兵は不祥の器、物或いはこれを悪(にく)む。…君子、居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。

 吉事は左を貴び、凶事は右を貴ぶ。…人を殺すことの衆(おお)きには、悲哀を以ってこれを泣き、戦い勝てば、葬礼

を以ってこれに処(お)る。

◇生徒にとって学校は戦いの場とも言える。何と戦うのか。学習?クラブ活動?人間関係?その結果さまざまな弊害も生まれる。それは思春期前期後期の非常に微妙な心の状態、身体変化の中高生ならではのところもある。
自身の中で「勝った」と確信した時、彼ら彼女らは葬礼への態度を持ち得るであろうか。それぞれの時に於いて一心に戦っている生徒ほど相手の心への慮りが増える生徒がいる。教師にそれだけの心を持ち得る者があろうか。
そうして考えてみると、「受験戦争」との言葉のあまりの巨きさに、改めて気づかされ、例えば高校野球の監督会議で頻りに不正行為[勝つためには手段を選ばず]への注意がなされることの寂しさに思い到る。

第32

 道は常に無名なり。樸は小なりと雖も、天下に能く臣とするもの無きなり。

 はじめて制して名有り。名亦た既に有れば、夫れ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知らば、殆(あや)

うからざる所以なり。

◇小学校一年生の初々しさは何物にも換え難い。あの眼の輝き。先生を絶対と視る透き通った心そのままの眼。樸。しかし、周りには別の樸がひしめき合い、我先にと競い合い、彼ら彼女らは優劣を知り始める。疲れて止ろうとすると大人たちはついつい叱咤激励する。彼ら彼女らに不安定な波が立ち始める。かなしいことだ。
小学校一年生の担任教師は、ベテラン教師でないと務まらない。区別、差別を存分に知った教師の吸引力。

しかし、今、保育所・幼稚園を経て、果たしてその像はどうなのだろうか。小学校高学年で既に学級崩壊が、始まっているというではないか。

なぜそのようなことになったのか、なるのか、大人達こそ立ち止まって熟考すべき時なのではないか。

第33

 人を知る者は智[知恵者・知者]なり。自ら知る者は明[明智・明察]なり。人に勝つ者は力有り。自ら勝つ

者は強し。足るを知る者は富む。強(努)めて行う者は志有り。

◇学校は、知恵者を育てるのではなく、明智な人物を意図的に育むのが本来ではないか。知識に溢れた人が優秀と言う学力観ではなく、学ぶこと一つ一つに自身を映し出すことで生じる学力。そのためには「静」の時間が、必要だ。忙しくすることを善しとする大人から距離を保つべきだ。わずかな時間で良い、じっと自身を視る。
そのことで他者との関係に平衡性が生まれる。例えばイジメは平衡性の意図的破壊であり、だから犯罪である。それを教師が生徒にすることさえある。子どもは誰を信じ、平衡感覚を培えば良いのか。

第34

 大道は汎として其れ左右すべし。万物はこれを恃(たの)みて生ずるも、而(しか)も辞[ことば]せず。…常に無欲なれば、

小と名づくべし。万物これに帰するも、而も主と為らざれば、大と名づくべし。…聖人の能く其の大を成すは、

其の終に自ら大と為らざるを以って、故に能く其の大を成す。

◇学校は静かに構え、生徒を受け容れなくてはならない。学校は器である。器が常に動けば不快な気分になる。

器を形成するのは、一人一人の教師、大人である。しかし言葉を弄ぶ教師が多過ぎる。先生って、そんなに偉いの?私は何度思ったことだろう。私はその教師だった。だから私は老子に魅かれる。

第35

 大象(たいしょう)を執れば、天下往く。安、平、大(泰)なり。

これ(道)を視るも見るに足らず、これを聴くも聞くに足らず、これを用いて尽くすべからず。

◇(学校)教育の主眼は、一人一人の人格形成にある、と言って否定する者はないと思うが、それが難しい。何

を以って、そのときどきの年齢に応じた人格陶冶の成果を表わし得るかが、具体的であるようで抽象的で分かり

にくい。そこに教科学習と言う具体性の必要性があるのだろう。そして私たちは「主要五教科」とか「芸能科」などと、老子が聞いたら卒倒するようなことを当然のごとく言い、している。

小学校中学校で、音楽・美術・体育・技術家庭・書道の充実を、自身の子ども体験からも、希望する大人は多い。私案の「中等教育と高等教育」の変革は、その点での、またいろいろな場面で使われる[総合]や[国際]との用語の再考になるのでは、独り自負している。

2022年7月2日

『老子』を読む(七)

井嶋 悠

第26

 重きは軽きの根たり、静かなるは躁(さわ)がしきの君たり。

 軽ければ則ち本を失い、躁がしければ則ち君を失う。

◇「先生」と呼称される職業は多い。教育者、宗教家、医師、弁護士、政治家……。いずれも弁が立つ。弁が立つのも善かれ悪しかれ、と大人同士の時間が限られている学校世界ではとりわけ思う。雄弁家を不得手とする子どもたち(中高生)は多いのではないか。ただ、女子と男子で傾向は違うように思えるので一概には言えないが。10代から視た父性と母性…。或いは思春期前後期と「先生」。

第27

 善く行くものは轍迹(てっせき)なし。

 聖人は、常に善く人を救う、故に人を棄つることなし。…是れを明(明智)に因ると謂う。故に善人は不善人

の師、不善人は善人の資なり。

◇良い学校、優れた教師が、これである。しかし、現実の多く(或いはほとんど)は、言葉[理念]で終始するか、進学実績を競う学校も多い。教師の個人性に委ねられている場合は多々ある。絶対評価との見地に立って、全員をAにする教師がいた。私には、生徒[人]に大小高低長短等区別がないことの前提は得心できるが、その教師の真意は未だに分からないままでいる。

第28

 雄を知りて、雌を守れば、天下の谿となる。天下の谿となれば嬰児に復帰す。

白[光明]を知りて、黒[暗黒]を守れば、天下の法[模範・徳]となる。天下の法となれば無極[茫漠・無限定の世界]に復帰す。

栄を知りて、辱を守れば、天下の谷となる。天下の谷となれば樸に復帰す。素朴

◇公立学校はもとより、私立学校も教師になるには、採用試験を受けなくてはならないのが今日である。(私など例外中の例外である。だから若い人には常に私の轍を踏まぬよう注意して来た。)その試験はなかなか難関でもある。とりわけ公立学校採用試験に合格するのは、希望者の中でも学力優秀者が多い。
先日、教員希望者が減少し、質の低下を招く旨の危機感を表わす報道があった。教育委員会か文科省の役職人の発言なのだろうが、相も変らぬ官僚性で馬鹿馬鹿しいそのままだ。量より質。デモシカ時代は疾うに終わった。
この質、公立での、多様な私立での「良質」は千差万別。例えば「天下り」教師を見れば明白だ。無風、温室育ち(世間知らず)の、時には情報(知識)お化けの若者が、教師になって、多様な学校に赴任し、たまたま水が合えば順風満帆なのだろうが、その率は少ないと思う。
企業や官庁等も含め、学校卒業(終了後)1~2年の“モラトリアム”時間が、必要なのではないか。
度々主張、提案している《体験からの小中高大改革:6・6+2の14年間で20歳終了(中等教育修了)、大学の教養課程廃止、専門学校・大学の徹底した専門化等々》案、良い樸が生まれ、社会は落ち着くと思うのだが。

第29

 天下は神器、為すべからず。……聖人は、甚を去り、奢を去り、泰(泰侈)を去る。

◇どこの学校でも「個性の伸長」を言う。私の偏りなのだろうが、その時、積極性・主体性→アメリカ的個性、のイメージを描いてしまう私がいる。我ながらおかしいと思う。
こんな経験をした。「船頭多くて舟山に登る」。それを自然な巧みさで操るのがベテラン教師。もっとも、学校世界(大学も含め)、主体性への固執が最も強いのは教師世界かもしれない。山に登るどころか解体、雲散霧消し、まとまる話もまとまらない。墨守世界としての学校。これも体験からの話題。
教師で単純明快、理路整然としているのは、予備校と進学塾かもしれない。

第30

 果(勝)ちて矜(ほこ)ることなく、果ちて伐(ほこ)ることなく、果ちて驕ることなく、果ちてやむを得ずとす。

 物は壮(さかん)なれば則ち老ゆ、これを不道と謂う。不道は早く已(や)む。

◇学校の盛衰は教師にかかる。或る学校は進学で誇り、或る学校はスポーツで誇り、或る学校は更生で誇る。誇れる結果を導くのは教師であり、それを支える学校組織である。公立学校にない私学の多様と言っても過言ではない。
しかし、私が最初に勤めた学校[女子校]は、近年進学(全員が付設の大学か、他の大学に進学する。進学校を標榜していないが、進学実績は相当なものである。それは、彼女たちの自我意識と塾・予備校に因るものである。)の結果を意識的に公表しなくなった。学内改革である。その改革は、明治時代の創立理念に戻る、ということであり、結果としての進学であり、社会での彼女たちの働き、存在である。言ってみれば本末転倒を糺し正そうということである。
これをもって、その学校は終わったとの軽薄極まる感想を持つ者は、卒業生を含め内外にあるだろう。
どこか、現代日本の縮図を見るようである。

2022年6月4日

『老子』を読む(六)

井嶋 悠

第21

 孔徳の容は、惟(た)だ道に是れ従う。道の物たる、惟(こ)れ恍惟れ惚たり、……其の中に精有り、その精甚だ真、其の中に信有り。

◇10代で、教科試験等の解答が複数あると言われると大概は不安で、「試験ではどう書けば良いのか」と詰問し、「どちらでも良い」とでも応えようものなら、相当信頼を失う。何となれば、それで“客観的”評価が可能なのか、となるからである。国語ともなれば尚更で、そこで教師はそのような問題は出さない。仮に無理して出すとしても授業を基に出すが、優れた生徒はそこを突いて来る。
で、両方正解とする。広い?視野で言えば、試験とはその程度のものなのかもしれないが、生徒は真剣である。進路に係るのだから。記号式の問題が、一見客観的に見えるのは、それがあるからだろう。その微妙さの最たるものが「解釈」や「小論文」問題である。生徒は教師が予想した解答を遥かに越えて、あれこれ細かく書く者も多い。四苦八苦した印象批評で、細かく減点して評価する教師は多い。反応を予測し、質問にできるだけ客観的に応える準備をしておかなくては墓穴を掘る。
ただ、多くの生徒は諦めか従順なのか怖いのか…まず聞いてこない。聞いて来るのは相当優秀な生徒か、1点2点に過敏な生徒である。
言葉という客観を介しての、阿吽の情、行間の情。いずれも理知で裏付けされた感性である。国語のおもしろさに行くまでには、相当の人生経験が必要なのかもしれない。

第22

 企(つまだ)つ者は立たず。跨ぐ者は行かず。自ら見(あら)わす者は明らかならず。自らを是(ぜ・よし)とする者は顕われず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。

◇学校世界は閉鎖的で権威的とはかねがね言われてはいるが、教師(多くは高校大学に多いように思うのだが)

で、ひどく勘違いしている人たちに会って来た。但し、これはあくまでも自照自省に立ってのことである。その人たちは、どれほどに私を、人を不愉快にさせたことだろう。しかし老子の教えと無縁な人は、その自己顕示に惑わされ、酔い、ひとときは世間から英雄的に扱われる事例は多い。
と、書くこと自体己が小人性を露呈しているのだが。それでも今もって許せない人はいる。
ところで、幻惑され、陶酔に浸る人が、女性に多いように思うのだが、これはやはり差別の発想だろうか。

↕ ↕第23

 曲なれば則ち全し[曲全の道]、枉(ま)がれば則ち直し、窪めば則ち満つ。破るれば則ち新たなり。少なければ則ち得られ、多ければ則ち惑う。

◇教師は謙虚であることに常に細心の注意が必要である。それでなくとも、「子どもは人質」「教師は教室で殿様・独裁者」と揶揄される教育の世界なのだから。ただ、その謙虚であること=東洋的ではなく、あくまでも日本的ではないかと思う。しかしその考え方は、消極的と負的に言われる時代。時代の変容?それにして声を大にした言葉が多過ぎやしないか。都会の喧騒、孤独。

第24

 希言は自然なり。[無言の言・不言の言]。無為の益。信(誠実)足らざれば、乃ち信ぜられざること有り。

◇「教育」への愛、情熱を持つ人こそ、教師の教師たる根拠であろう。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし、脚下照顧ない教師も多い。どこまでも「センセイ」なのである。生徒を前に延々と喋るのである。饒舌(字的には冗舌の方)。多言。要はおしゃべり。そんな教師を多く見て来た。生徒も生徒、馬耳東風を決め込む“賢い”生徒。苛立ちを具体的行動で現わさざるを得なくなった生徒。
学校世界独特な大人と子どものタテ社会。パワハラが多くで告発されているが、学校社会で聞くのは教師世界でのそれだけのように思える。
寡黙の重み、威風感。ヒトがヒトの中味を知る手立ては、生徒―教師でも同様。先ず直覚そして言葉。

第25

 物有り混成し、天地に先んじて生ず。…天下の母と為すべし。吾れ其の名を知らず、これに字して道と曰う。……人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る[模範とする]。

《中国:木・火・土・金・水〈五行思想〉》

◇日本の教育は、何故をもって日本の、或いはその背景に脈打つ東洋の、中国の古代思想を再考しないのだろうか。英語は戦後国際語の地位を確立しているからやむを得ないとしても、儒教や道教の考え方、感じ方が日常に溢れているにもかかわらず、欧米の教育思想が尊重されている。
その眼で、教育(学校)と自然、子どもの人間形成について考えを及ぼすことこそ現代の課題ではないか。
私自身、インターナショナル・スクールとの協働校でIB(国際バカロレア)なるものを知り、その一端を担い[日本語]眼が開けたが、10年前(2000年)に導入された「横断的総合的学習」の理念と、相通ずることではないか、と思った一人である。しかし、その後「横断的総合的学習」は基礎学力の低下を招いていると批判され、今では見るも無残に無くなっている。そもそも小中高での基礎学力自体曖昧なことで、なぜ導入時にそれを検討しなかったのか、無責任を承知で思う。
このような西洋偏重のその場しのぎの対症療法で、国際社会で日本が生きる道を見出すことはあり得ないのではないか。江戸時代の人の「読み書きそろばん」「お天道さま」との言葉が過ぎる。

2022年3月19日

『老子』を読む(四)

井嶋 悠

途方もない迫力で心に迫って来ます。人生に一冊で老子を挙げる人が少ないことが得心できます。私もそうなりたいです。
今回は11章から15章です。

第11

 有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。 
←埴(つち)をうちて以って器を為る。その無に当たって、器の用なり。
「無用の用」(『荘子』)

◇学校は、他の組織社会同様、その学校創設目的に合った教職員が構成し、そこに共振する生徒・保護者が集まる。そこに有用無用はない。しかし、現実はそれぞれの有用な人のみに視線が向く。これは「個を活かす」との教育の根本から乖離している。しかし、私たちにそれほどの余裕(ゆとり)があるだろうか。もし、この余裕が学校に満ちれば、教職員を含めた不登校(登校拒否)は確実に減るのではないか。

第12

 五色(青・黄・赤・黒・白)は、人の目をして盲ならしむ。五音は人の耳をして聾ならしむ。

 聖人は、腹を為して目(感覚)を為さず。故に彼れを去(す)てて此れを取る。

◇学校にはそれぞれの創設理念がある。公立校も然りである。しかし、少子化、学校間競争の過剰や公益性を無視し、なりふりかまわぬほどの生き残りを、或いは統合と称する一方の消滅を図る。私学で、一時期?生き残りのため、何が何でも進学実績を、男女共学化を目指すことが露わになった。その内、何校が現在正常な学校の態を為しているだろうか。
人間の平等、個の尊厳を言うならば、学校格差を無くす根源的解決をなぜ考えないのか不思議でならないのか、かねて来思っていたが、現実のヒト社会に、いかにそれが夢物語であるかを思い知らされて来た。今も、である。

第13

 寵辱(ちょうじょく)(寵愛と屈辱)には驚くが若し。大患(たいかん)を貴ぶこと身の若くなればなり。が身我が命あっての世事と治世。

 吾に大患有る所以の者は、吾に身有るが為なり。吾に身無きに及びては、吾に何の患い有らん。

◇当然のことながら教師も多種多様である。“デモ・シカ”教師もあれば、“サラリーマン”教師もいる。後者の表現があること自体、教師は聖職者との意識の表われかもしれない。
「子ども(生徒)のためには死んでも構わない」旨言った、校長がいた。言われた私は「どうぞ、頑張ってください」と応じ、ますます嫌われた。
私は、その校長の言葉に酔う性と権威性を苦手としていたので、皮肉でそう応えたのであって、校長がいかに生真面目であるかの証しにもなったのかもしれない。
その校長、その後、いろいろな学校を渡り歩く人生を送るのだが、その根幹は常に同じだった。その根幹、私など辛くて到底耐えられない。そのような類のヒトは他にもいたが、決して多くはなかった。
と言いながら、あの「サッカー部」顧問時代は、一体何だったんだろうと回顧することがある。

第14

 「夷(視れども見えず」「希(聴けども聞こえず)」「微(とらうるも得ず)」。この三つのものは詰を致すべからず。故(もと)より混じて一と為る。その上は明らかならず、その下は昧(くら)からず。⇔『無状の状・無物の象・惚恍。』

これを迎うるともその首(こうべ)を見ず、これに随うともその後(しりえ)を見ず。

古えの道を執りて、以って今の有を御すれば、能く古始(始源)を知る。

◇他人に個人的なことを質問されるのは、非常な緊張を強いられる。自身の中に明快な答えが即座に出せるほどに持っていればいいのだが、
私の場合、なかなかそうも行かない。その一つが「先生は、どうして国語の先生になったのですか。」ここには二つの苦難があって、一つはなぜ先生に?であり、もう一つはなぜ国語なのか、である。要は非常に不謹慎な教師なのだ。
それがあってか、大人同士の会話で「先生」と呼ばれることが、今もって円滑に私の中に入って来ない。

国語は曖昧な教科と言えばそうである。あの文法でさえ、また漢字でさえそうで、正解が幾つかある。いわんや、読解問題でも微妙なことは常である。作文となれば尚更である。それが明解な正解を求める生徒にはイラつかせる。評価の客観性と主観性に関して、国語科評価は微にして妙で、だから甚だ後付ながら私は国語を選んだとも言える。
その面白さを生徒が味わうことで、国語はすべての教科の基層的滋養になれるのでは、と我田引水している。それは、現代(表現・作品)を現代人としてだけで視るのではなく、古代人の眼を意識する広さを以って。
ところで、入学試験での、考える力を測る論述形式問題導入。今更何を、の主題ながら、各教育現場の評価する側の教師は、この一連の動き、報道をどうとらえているのだろうか。

第15

 古えの善く道を為す者は、微妙玄通、深くして識るべからず。

 此の道を保つ者は、盈(み)つるを欲せず。⇔「持してこれを盈たすは、その已むるに如かず」

微妙玄通。予として、猶として「猶予」(ためらう)。柔弱不争。

◇微妙玄通の哲人には、温厚篤実なイメージが色濃くある。教師も然りである。私自身、それぞれの職場でそのような人物と何人か出会った。私自身、気が短く、深謀遠慮に乏しいことを、その時々に自覚するだけであった人間だったので、なおさらそのような人物を尊崇した。そして、その人物たちは等しく己が宗教を持っていた。それは、仏教であり、キリスト教であった。宗教の巨(おお)きさを身をもって実感しつつも、私はその宗教の門の前でうろうろするだけであった。今、無宗教徒であり、であった自身を顧み、宗教にどこか惹かれつつも、このまま生涯を終える私なのだろう、とそこはかとなく思っている。
その中の何人かは既に天上に昇られているが、何人かの方とは今も交流が続いている。

2022年2月10日

『老子』を読む(三)

井嶋 悠

第6章から第10章までです。

第6

 谷神は死せず、これを玄牝と謂う。玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。天地の根……尽きず。

◇第1章に重なるが、私が直接に間接に経験した学校世界、教師世界は教師の性を問わず、母性が満ち溢れている。生命の源泉は女性で、男性は守護者であるにもかかわらず優位を保とうとする。その時、賢い女性は多くを語らず、黙してじっと相手を見つめる。それは教師対生徒でも同じである。母性=女性、父性=男性との領域に留まるかぎり、作為的男女平等がはびこるかぎり、学校は社会の良きモデルとはならない。

第7

 天は長く、地は久し。(「天長節・地久説」)。[天は永遠であり、地は久遠である。]
無私なるを以って、故に能く其の私(し)を成す。

◇教師の世界は閉鎖的だと言われるが、人間集まる限り大なり小なりそうではないか。と言うのは、個の特性を思えば、積極的な人、消極的な人がある。そこに善悪はない。それを積極性云々とあたかも積極性=優、消極性=劣、的に評価する教師が多いのは理に反する。私は「私が、私が、私は、私は」と言う人物が苦手だ。

典型的アメリカ人と言われていた、インターナショナル・スクールの或る男性教師の「そういう世界に疲れた。日本が良い。」は、私の中で非常に印象的に残っている。日本=優、良といったことではなく。

第8

 上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず。「不争の徳」。
処世術と他者への「濡弱(じゅじゃく)謙下(けんか)」(穏やか・しなやか・へりくだる)「従順柔弱」

⇔孔子における「仁」、キリストにおける「愛」、釈迦における「慈悲」夫れ唯だ争わず、故に尤(とが)め(間違い、お咎め)無し。

◇教師は生徒を評価しなくてはならない。その評価の是非は生徒自身そして保護者に委ねられる。権威性の強い教師の評価を善しとする生徒の、また保護者の心理とはどういうものなのだろうか。自身は権威性など無縁だと思っている教師は、生徒にとって、保護者にとってどのような存在なのだろうか。好ましいのか、頼りないのか。

第9

 功遂げて身の退くは、天の道なり。⇔持(じ)盈(えい)、持満の戒め。(功成り名遂げて・成名)

◇難しい問題である。功遂げた、と誰が決めるのか。本人である。ヒトは欲望の塊でもある。教師も然りである。だから定年と言う強制を仕組まざるを得ないのかもしれない。社会からの或る意味、追放?

聖職者としての意識の高い教師はどうなのだろう。カソリック系の学校の修道女で教職にある人の中に、神に仕えることがすべてと当然のように、思い日々過ごしている。その人たちは子どもたちと接している毎日が退く時だ、と考えているのではないか。そして日の終わりに祈りを捧げ、眠り、朝を迎える。

ひどく人間臭い修道士に会ったことがあるが、多くの修道士はどうなのだろう。
プロテスタント系は、知る限りに於いて、非常に理知的で、人間的で、思春期の子どもたちにとって難しい。
仏教系の学校での教職にある僧侶は、どう思い、過ごしているのだろうか。化身との言葉は、教育でどのように生かされているのだろうか。

第10

 「玄徳」の教え。

 営(まど)える魄(うつしみ)(人の身体にかかわる精気:×精神にかかわる精気「魂」)を安んじ、一(いつ)(道)を抱きて、能く離るることなからんか。気を専らにし柔を致し、能く嬰児ならんか。……生ずるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、長たるも而も宰たらず、是を玄徳と謂う。

◇このような教師との出会いは少ない。これと真逆の校長には何人か出会った。その何人かは上司として。彼らは(すべて男性であった)言葉では魂魄を言い、嬰児の如くたらんを言うが、「私が・は、校長だ」だった。
では、その人たちを反面教師としていた私はどうだっただろうか。苦しい自問で、自答は詳らかにできない私である。ただ、一つ、私の中ではっきりしているのは、教頭にも校長にもなりたいと思ったことは一度もなかった。あの「外交性」が、或いは八方美人性が、私には到底できないと思ったから、ただそれだけである。

2022年1月17日

『老子』を読む(二)

井嶋 悠

今回は『老子』の第2章から第5章までです。

第2

 美の美たるを知るも、これ悪(醜)のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ。
有無。難易。長短。高下(高低)。音(楽器の音色)声(肉声)。前後。
聖人は無為(無為を為す)のことに拠り、不言の教えを行う。
辞(ことば)せず。有せず。恃まず。居らず。(栄光・誉)去らず。

◇絶対評価と相対評価。凡々たる人間教師が絶対評価することの難しさ。「秀」としたいが、何をもってそうできるか。平生評価と試験(レポート等提出を含め)評価、例え25人学級でも可能か。それが1学年3クラスとして75人。絶対評価に挑むことで高まる教師力?
偏差値評価の再学習の必要?或いは「ヒトがヒトを評価する」ことの必然性と成績評価について。
教師と生徒、その一期一会は可能か。平凡な教師と非凡な教師、と考えた時、私が出会った非凡な教師は唯一人?

第3

賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争そわざらしむ。
無為を為せば、即ち治まざるなし。←民をして無知無欲ならしめ、その知者をして敢えて為さざらしむ。

◇教育における欲望とは何か。上になること。競争という欲望。そこで問われる学力観。塾・予備校の学力観は、社会の、学校社会の学力観があって成り立つはずであるが、今逆転しているのではないか。
敢えて塾・予備校を廃し(禁止)すれば、そこに何が起きるだろうか。教師一人一人の、学力観、競争観が問われることになるのではないか。その時こそ、客観的且つ総合的入学試験改革が視えて来る。

第4章

道は虚しきも、これを用うればまた満たず。淵(えん)として万物の宗たるに似たりその光を和らげて、その塵に同す。⇔「和光同塵」

◇真に優れた者は、際立ったことを為さない。50年ほど前、数学の研究者を目指す、長崎県の離島出身の人物と出会い、懇意になった。温厚篤実、実に穏やかな人物であった。親しく話さない限り、彼が途方もない優秀な道程を歩み、だからこそ苦悶することもあった人物であることを誰も気づかなかっただろう。彼は10年後任地で没した。

第5

 天地は仁ならず、万物を以って芻狗(すうく)と為す。聖人は仁ならず、百姓を以って芻狗と為す。多言はしばしば窮す。⇒「学を絶てば憂いなし」、中を守るに如かず。

◇「あの学年は、クラスは云々だった」と学年やクラス概評を教師はよくするが、これほど“個”を切り捨てた表現はないとも言える。
多言(おしゃべり)は醜い。生徒は黙って瑞々しい感性で見抜いている。生徒たちの馬耳東風。先の話題も多言の一変形。

2021年12月22日

『老子』《老子道徳経》を読む

井嶋 悠

小学校時代は前半が母子家庭、後半は伯母夫婦宅預り、中学時代は反抗期に加えて新しい母との折り合い悪く、また学校では被差別部落問題が絡んでの暴力事件の多発、高校は某国立大学附属に進学するも勉学、生き様の要領の悪さも手伝って「青春?嘘でしょ?!」の日々、悲惨な浪人一年、高校教師の訳のわからぬ大学評価の煽りを食らっての、との責任転嫁よろしく鬱陶しい大学生活、というかほとんど登校せずの日々、にもかかわらず試験や卒論は二人分を、時には三人分を請け負い、父の私の非社会性?を案じてか大学院進学を奨め、何も考えずに受験したところ何と合格!しかし大学院入学直後からの全共闘時代。ノンポリよろしく遠巻きに見たり、時に先輩後輩からデモ、アジ、占拠の勧誘もあったりで、ただただ直感的共感にもかかわらず優れた闘士に倣って?1年で自主退学。その後、家を飛び出し東京での放浪生活。

かような劣等人があろうことか、教師に到る道程で経験した四つの不可思議を記す。

27歳での、第一の不可思議。

高校時代のアルコール依存症の恩師(国語科)の突然の電話で、西宮にある大学併設の名門女子中高校国語科の、半年間契約の非常勤講師に。
続いて第二、第三の不可思議。

非常勤講師の一年延長、更には延長後の翌年に専任教師に。真っ当に職に就いたのが30歳。
授業や生徒指導は、知的に高度な生徒に鍛えられ、校務は先輩教師に“お仕置き部屋”での説諭も度々、更には保護者会なるものの存在感も教えられ、「なでしこジャパン」草創期の女子サッカー部顧問(監督)に10年ほど心身一途の打ち込み。
夜はほぼ毎日の痛飲。もっとも教師仲間の酒席は、生徒と同僚と保護者の品定め会で、“放浪”経験者としては、ほとほと嫌になり喧嘩も重なり数年後に一抜けし、女性教職員の私の将来を案じての愛情あふれる憂慮が功を奏したか、33歳にして結婚。

その後、体よくいえば時々の感情、意思の高揚に導かれ、幸いにもいろいろな人々の支えと何よりも私を知る人々から「よくぞ離婚されずに済んだな」と讃えられるカミさんの理解と協力を得て、最初の勤務校に17年間奉職するも、夢を追い、吹聴者に欺かれたのも含め、生涯三校の私学を渡り歩く。
とりわけ二校目では理想[国際の標榜、個性重視等々]と現実[塾あっての学校運営、大学進学がすべての進学教科指導粉骨砕身教師=優秀教師等々]を全身で知らされ、2年で白旗。
カミさんと二人の子どもを抱えての2年間の浪人生活。時に年齢40代後半。

第四の不可思議。

インターナショナル・スクールと日本私学一条校が協働する日本最初の学校に。
そこで10年。しかし、権威と独善を正義とする2代目校長を含めた一部日本人教師との軋轢と憤慨。60歳半年前に退職し、不登校高校生を集めた某私立高校に非常勤講師勤務。

そこに父親の遺産問題並びに我が家の住宅ローン問題、実母と継母との疲れる関係が重なって江戸っ子カミさんの英断。転居先は栃木県北部。先ずカミさんが。娘と私は数年後追いつく。

その娘、後で知る中学校時代の教師のネグレクト(いじめ)、持ち前の意地と理解ある教師の支えもあって乗り越え、高校へ。しかし、自身の意思で進学した公立高校の、学校の、教師のいい加減さに幻滅し、在籍校の指示[「進路変更」]通りの退学届けを提出。通信制高校へ。そこで卒業。
母の元に行き、某有名私立大学通信課程に合格。これは彼女の資質の発揮。
彼女の死について、「後で知った」から社会への告発をしなかったわけではない。すべては、娘本人、母の希望であり、かつまた私の性向を知ってのこと。何度か告発しようかとも思ったが、周囲の、相手の反応等も予測が立ち、母曰く「必ずその教師には天罰が下る」に矛先も緩む。

その中学2年次の教師による傷は深く、悪戦苦闘の日々が濃い心身の疲労感へと変貌へ。母娘2人3脚で続く、車で往復3時間ほどの病院通い。娘が心休まる医師との出会い。
しかしそれも空しく、2012年4月 娘、悪戦苦闘空しく他界。享年23歳。

いろいろな事が起こるは世の常……。
私は私で人生の自照、自省の始まり。2000年前後から始めた『日韓・アジア教育文化センター』のNPO法人活動(2019年、法人を撤退)が、生きる意思の支えに。

老子の断片が頭を過ぎるようになり、精読へと私を誘う。そこで始めた「教育」経験者の私の「[老子]を読む」がこれ。

老子道徳経[上篇]

第1

道・名
無欲は妙(微妙な始源)、有慾は徼(きょう)(表面的現象世界)
玄(深淵)のまた玄は衆妙の門

無名=道=始源→→→有名=天地=母[母胎]→万物

◇学校は母性社会だと思う。包み込む社会。女性の母性と男性の母性が融合する場所。有名進学校、受験塾・予備校は父性社会だと思う。断ち切る社会。

◇キリスト教主義の全国の中高校教員研修会(於:御殿場)に参加した時の二つの印象的なこと。
・結石持ちが多いのは女子校教師
・昼休みにソフトボール等運動を積極的にするのは女子校教師

◇男女共学化が進む中で、男子校が共学になるのと、女子校が共学になるのでは、教師の対応困難さが違う。
そして男性は母性を憧憬し、女性は父性を憧憬する。その調和が、平和を、動的な静態を生み出す。