ブログ

2021年11月27日

自殺

井嶋 悠

新型コロナ禍にあって、日本では自殺が、それも若い人の、増えているという。
日本の自殺は、ほんの数年前まで世界の、とりわけ先進国と言われる中にあって、上位一桁内にあった。様々な対策等が公・民で行われ減少し、ここ1,2年は世界10位外にまでなっていた中での増加である。コロナ禍がもたらす社会、個人への負の波及の大きさは、終息後すぐに解決するとは思えない。

そもそも「自殺」という言葉は、実におぞましく、忌々しい。どこにも救いがない。
私の知る、不登校[登校拒否]に陥った生徒を主体にした高校で、一人の生徒が自殺した。その時、その高校創設に尽力された或る教員が絞り出した言葉。「つくづく無力を実感した。」
その学校は、現在、この先の見えない社会にあって一層の必要性を痛感すると同時に、大きな壁を前に暗然としている旨聞いた。
私自身がかつて携わった学校も類似の課題の前にあり退職者が増えている。

「自分から積極的にそうすることを表わす」『新明解国語辞典』「自ら」、自身に刃を突き付ける行為。己への怨嗟(えんさ)。自殺。
或る人は生死一如として「自死」と言う。そこには静謐さが漂うが、私はそれを採らない。自殺の激情に怖れおののき、己の小人性の再認識を促す「殺」に得心性を持つ。理解ではない。
この発想には、自身の若い時代の苦悶、また近しい人の自殺からの、やはり体験が大きく影響していることは否めない。

因みに、英語では[suicide]で、この語根の[cide]は「殺し」を意味しているとのこと。最近見聞きする機会が多い「genocide」(民族大虐殺)ジェノサイドのcide《サイド》である。

こうしてみれば、殺の非人間性に導かれ、自殺と言うことへの躊躇は否定しがたいが、それでも私の中では、自死ではなく自殺である。

自殺は、しばしば倫理上の問題として採り上げられる。
欧米社会でのユダヤ教をも視野にしたキリスト教圏、アラブ圏のイスラム教にみる唯一絶対神の考え方からすれば、神から与えられた命を蔑(ないがし)ろにするとの意味合いにおいて当然非難の対象であり否定されるべき行為であろう。
慈悲と無の自覚の宗教、仏教にあっては、当然、死への洞察は多いが、自殺までに言及することはほとんどない。それが仏教慈愛の所以なのかもしれないが、その寄る辺なさが自殺への無抵抗感覚を増殖しているとも思える。信仰者が驚嘆する無宗教の脆さかもしれない。

そういった中にあって、19世紀のドイツの思想家、ショウペンハウエルは、冒頭「私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教の宗教の信者達だけである。」にはじまる、その著『自殺について』の中で次のように述べる。

――キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである。――

――深刻な精神的苦悩は肉体的苦悩に対して我々を無感覚にする、……我々は肉体的苦悩を軽蔑するのである。否、もしかして肉体的苦悩が優位をしめるようなことでもあるとしたら、それこそ我々にとっては一種心地良い気保養なのであり、精神的苦悩の一種の休止である。ほかならぬこういう事情が自殺を容易なものにしている。即ち並はずれて激烈な精神的苦悩に責めさいなまれている人の眼には、自殺と結びつけられている肉体的苦痛などは全くもののかずでもないのである。――

ショウペンハウエルは自説の肉付けに、古代ギリシャの思想家の言説を引用しているが、それらの中で2つ孫引きする。

「神は人間に対しては、かくも多くの苦難に充ちた人生における最上の賜物として、自殺の能力を賦与してくれた。」

「善人は不幸が度を超えたときに、悪人は幸福が度を超えたときに、人生に訣別すべきである。」

そして、今日も多くの!?人が逡巡し、中には決行の準備をしている……。

「自らの思想の立脚点を「ふつうの人」の立場におき、「自分」が生きていくことの意味を問い続ける」(著者紹介文より)、1947年生まれの文筆家勢(せ)古(こ)浩爾氏に『日本人の遺書』という著作がある。氏はその中で、様々な死を迎えた、あるいは追った80名ほどの人を採り上げ、その人たちの遺書に言及している。
遺書は死を前提にして書かれる、いわばその人の人生の集成が凝縮された文で、その背景を氏は以下の12に分類している。

〇煩悶  〇青春  〇辞世  〇戦争  〇敗北  〇反俗  
〇思想  〇疲労  〇憤怒  〇絶望  〇悔悟  〇愛情

ことさらにこの書を採り上げたのは、上記[疲労][絶望]に、このコロナ禍に生きる一人としてとりわけ心引き寄せられたからである。少なくとも私には、この二つの章で採り上げられた人々の言葉が、今に重なってあるように思えた。その中から3人引用する。

◇金子 みすゞ(童謡詩人)26歳で自殺
 死に際しての遺書が三通あり、その内母宛の遺書を引用する。

  「主人と私とは気性が合いませんでした。それで、主人を満足さ
  せるようなことはできませんでした。主人は、私と一緒になって
  も、ほかで浮気をしていました。浮気をしてもとがめたりはしま
  せん。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかった
  からでしょう。(中略)今夜の月のように私の心も静かです。
  (後略)

その金子 みすゞを介して、勢古氏は次のように言う。
「人間評価の便宜として、強い人とか弱い人ということはある。けれど人間は、その意味をほんとうには知らない。なんのための強さであり、弱さであるかを、知らない。なぜ自殺をすることがよくないことなのかを、ほんとうにはいえない。」
私は「今夜の月のように私の心も静かです」に、みすゞの激情の沪過された清澄な心を思う。

◇太宰 治(作家)39歳で情死
妻への遺書は有名で、とりわけ「あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです」の一節はしばしば引用される。
勢古氏はその一節について次のように書く。
「もしこれが本心ならば、それはほとんど、生きて行くのが嫌になったからです、という意味であろう。「小説を書く」ことはすなわち、生きること、だったはずだからである。」
太宰は、懶惰(らんだ)を自認していた。と同時に売れっ子作家でもあった。自殺を否定し、責める人はこの一事をもって、きっと太宰を非難し、嫌悪するであろう。いわんや妻がありながらの情死である。
しかし私は、太宰の心情に響くものを持ち、一方でマスコミの有名人への過干渉を批判的に思う。

◇秋元 秀太(大学生)19歳で自殺

彼の遺書は一篇の詩である。だからそのまま転用する。彼が死を意識したのは、当時いた合宿所での金銭問題での混乱からであって、彼の不祥事だったかどうかは誰も分からない。

   ――もうつかれた
     人にうたわれることにも/人をうたがうことにも
     もっと好きなことにのめりたかった/もっといろんなことが 
     やりたかった
     でも もうつかれた
     こんな弱い自分にいやけがさした/
     もっともっと強い人間になりたかった
     親を泣かせた自分がキライだ
     死ぬのはこわい
     罪はかんたんにつぐなえるものではない
     もっとおやじと楽しいさけをのみたかった
     みんなごめん
     みんな大好きだ/もっといっしょに居たかった
     強い心がほしかった――

私にも「青春」があり、「煩悶」があり、「憤怒」があり、いささかの「反俗」精神もあった。しかし、怠惰な私は決意することなく時を打っちゃり76歳を迎えた。その年齢から来る「疲労」を、時に「絶望」さえ交えながら思うことはある。
生きることを自身に問うにふさわしい新たな時機を迎えているのかもしれない。

2021年10月6日

日本から米国へ、韓国から日本へ ―大谷 翔平選手・春日王元幕内力士-

井嶋 悠

Ⅰ:大谷 翔平選手

以下のアメリカ大リーグにかかわる発言は、下記書物からの引用転載で、その部分は「 」で示している。伊東 一雄・馬立 勝著の『野球は言葉のスポーツ―アメリカ人と野球―』

私には夢が一つある。いや、この年齢となればよほどの環境変動がない限り、あったの方が正しい・・・。
それは、アメリカ大リーグの試合[公式試合ならどのような組み合わせでも構わない。ただジャイアンツは避けたい。日本のジャイアンツが嫌いなので。]を観ることである。但し、希望条件があって芝生の外野席で、陽光を燦燦と浴び、好きな所に座り、アメリカのビールを片手に、あのパサパサのパンのホットドッグとポテトチップをほおばることのできる球場でなくてはならない。
現職時代、出張でロスアンジェルスとサンフランシスコに行ったことがあったが、あそこ(カリフォルニア)の陽光は、現地の日本人が言うには、カリフォルニアは年中春で、言わば人を確実に鈍化させるほどに平和と温和さを兼ね備えた陽光の地である、と。だから屋外球場であることが最前提である。これについて、シカゴ・カブスのオーナーは言っている。

「野球とは陽光を浴びてプレーすべきもので、電灯の光のもとでプレーするものではない。」

こんな言葉もある。

「屋根付き球場は自然の中で楽しむ本来のスポーツから外れた、ビジネスとしてのスポーツの要請から生まれた施設だ。野球を室内競技に変えた不自然さが生んだ、まことに不自然きわまる出来事だった。」

(編著者の言葉)


観覧するチームに日本人選手がいればもちろん応援したいので、一応国旗を携えて行く。

もっとも夏のナイターもまんざらではないことは経験上否定しないが、やはり陽光の方がいい。そうかと言って高校野球を観に行きたいとは思わない。理由は単純である。あの野球があってその学校があると言う営業性があまりに多いのと、高校生=純粋無垢との性善説が苦手なのである。だからそれらの逆が登場すると結構テレビ観戦に向かう。

妻は、高校野球には大いに関心を示すが、プロ野球にはとんと興味がない。かてて加えて海外旅行など全くと言っていいほどに関心はない。しかしパサパサのパンを非常に好む習癖があるから、この企画には恐らく乗ってくるかも、と想像するが確率は限りなくゼロに近い。

そんな似非プロ野球ファンと言うか少しは知っている程度で、それも選手名で言えば田中 将大君で私の知識は休眠状態にある。
そんなところに、選手として人格として欠点がないのが欠点との印象を持つ大谷 翔平君の出現である。エンゼルス初期の頃のインタビューで、今までの野球生活の中で、最も記憶に残る試合は何か問われ、しばらく考えた後、小学校時代にピッチャーをしていたことです、とか、日本人の取材で趣味はと聞かれ、岩手には何にもないしなーと応える、見事なまでに余裕がある20代なのだ。彼の行くところすべてにほのかな笑みの気が漂う。
ホームラン王を争っているレゲーロ選手も言うように、母の胎内に神の手で送り込まれたとしか、それも可能な限り人間らしく振舞うどこにでもいる人間として、送り出したとしか思えない今シーズンなのだ。来シーズンも、そしていつか地球を立ち去るまで成長して欲しいと思わざるを得ない。その時こそ彼は真に天才の「天」と言う語を自己のものとし、人間として余生を送るだろう。
尚、ここで天才との言葉を使っているが、「天才とは1%の才能と99%の努力」との、確かエジソンだったかの、言葉を思いながら使っている。

今も根強くあると幾つかの場面で言われる、アメリカの人種差別[有色人種蔑視、侮蔑の感情をもってアジア人と一括りにする発想]またパールハーバー襲撃を憎悪し続ける心が、アメリカ中南部を中心にあったとしても大谷選手は軽々とそれらを乗り越える天性を備えている。否、乗り越えるといった人為性ではなく馬耳東風であるように思える。

イチロー[鈴木 一朗]氏も、10有余年のアメリカ大リーグ生活の中で、多くの記録を塗り替えた選手だが、私には大谷選手とは全く別なものを思う。
イチロー氏はどこか古武道士の印象が漂い、それは日本代表チームを「サムライ」と言うに近いもので、やはり天賦の才に恵まれたのであろうが、私の中では天才が放つ陽明性、少年性がないのだ。
巨人でプレーしたことがあるレジ―・スミス氏がこんなことを言っているそうだ。

「ベースボールはプレー(遊び)だが、野球はワーク(働き)だ」と。

大谷選手は日本人の好む「道」とは無縁で、どこまでも遊びの域に貫かれている。遊びの天才と野球道の天才。そして私は野球に「道」を求めたいとも思わないし、だから「サムライ」との名づけにも違和感を持っている。
野球は老若男女が人生とは?といった哲学に心かき乱されることなく一心に楽しめる娯楽であると私は思うし、だから陽光が必要不可欠なのである。ホームランは当然賞賛に値するも、その丁度裏返しの三振王でも何ら責めない。アメリカのアメリカたる所以と思う。

大谷選手は、来季の契約でアメリカ的に莫大な契約をするのだろうが、イチロー氏は既に億万長者に到達している。そして、大谷選手はカード一枚に何億もの金を畳み込む天才性を想像するが、イチロー氏の場合何十冊もの整理された通帳に留めおくそんな天才性を思ったりする。一野次馬としては、大谷選手の契約更改で彼が何を言うか興味津々である。イチロー氏の時はどうでもよかった。尚、初めに引用した同じ人物[オーナー]の言葉に次のものがある。

「大リーグ野球はビジネスというにはスポーツでありすぎ、スポーツというにはビジネスでありすぎる。」

尚、大リーグへの先駆者とも言える1968年生まれの、大リーグ在籍12年の野茂 英雄氏がいるが、大谷選手とは26歳の年齢差があり、私自身西鉄黄金時代のあの奔放性とか大洋のホーム球場での野次は絶品とか野球そのものとは関係がないことだけに興味があっただけのことで、ここで氏には立ち入らない。

野球はアメリカの国技の一つで、その国技で当事者たるアメリカ国民を熱狂させた二人。とりわけ大谷選手への熱狂。彼には、異文化理解も異文化間葛藤もほとんどない、なかったのではないか。体中の感性がアメリカに融合した外国人の大谷選手。またそれを支えた日本人通訳の水原 一平氏の気配りと謙虚さ。
国技の国アメリカから日本の野球に入る選手も多いが、それはあくまでも「助っ人」としてである。
大谷選手は一日本人として、アメリカの国技に熱風を、アメリカに限らず世界に吹き込んだのである。

Ⅱ:春日王関

では、日本の国技と言われる大相撲(法令上国技として登録されているわけではないが、古代からの歴史と伝統から国技として扱われている)ではどうか。多くの日本人を熱狂させた外国人力士はいるだろうか。高見山関を思い浮かべる人もあるだろうが、大谷選手ほどの熱狂さはなかった。
やはりモンゴル勢かとは思うが、相撲協会、NHKまたそれに肩入れする人にとって、大相撲はあくまでも聖なる競技であり、当然「道」の完遂こそ目指すべきこととして見られるのでどうしても?がつく。
例えば、将来それらの記録を破る力士はないだろうと言われる白鵬関。横綱前半期は、その片鱗を感じさせたが、後半期はあくまでも勝つことを至上とすることで批判を一身に受けた。
そこでは結果がすべて、勝てば官軍風潮の、現代社会の世相から抜け出すことができず、白鵬にいいように振り回された感を私は持っている。

それは相撲をどうとらえるかということであろう。私は、ここ何年か前から、相撲協会、NHKの姿勢に疑問を持っている。場所数の問題。地方巡業の在り方、財政問題等、私が想う伝統文化の姿ではない、商業性もっと強く言えば拝金性に陥っているように思えてならない。
白鵬関は今年(2021年)7月場所の千秋楽で照ノ富士関と競ったが、結果は白鵬関でも、内容は同じくモンゴル出身の照ノ富士関に横綱の風格を思ったのは私だけだろうか。
その相撲はスポーツとして扱われるが、はたして例えば野球とは同じスポーツではないように思えてならない。それは相撲SUMOで、しかも大相撲である。

モンゴル人力士は26人で、内直近の横綱5人の内モンゴル人が4人占めている。
しかし、ここでは『日韓・アジア教育文化センター』として、また二国間交流史の最も長い隣国、一衣帯水の国韓国からの挑戦者を思い起こしたい。

韓国には、4,5世紀からの歴史を持つ、韓国(朝鮮)相撲伝統競技「シルム」があり、そのシルムの漢字表記が「角力(すもう)」であるとのこと。これからも近似性に考えが及ぶが、ただシルムは組手から始め、相手を倒すことで勝負が決まる。韓国からの現時点で唯一の力士が、シルム出身の元幕内力士春日王関である。
以下、経歴等『ウキペディア』から適宜引用転載する。

春日王 克昌(かすがおう かつまさ、1977年生まれ– 現44歳)は、韓国・ソウル市出身。本名キム・ソンテク(金成澤、김성택)
3歳の時に父を亡くし、ソウル市から仁川市に移り、母子で裕福ではない生活を送る。小学校4年生の時にシルムにテコンドーから転向した。中学校、高校、大学でシルムに精進し、大学3年生の時に大統領旗統一壮士大会無差別級で優勝した。
その後20代春日山(元幕内・春日富士)に誘われ1998年春日山部屋からの誘いに応じ、大学を退学し入門。
稽古熱心で素直に指導を受ける努力家であったため、相撲文化の吸収も早く、時を経ずしてネイティブ並みの日本語を話すほどになった。
順調に出世して2000年1月場所に幕下昇進、幕下優勝も経験して、初土俵以来23場所後の2002年7月場所には十両に昇進し、初の韓国出身関取となった。十両3場所目の2002年11月場所では十両優勝を遂げ、翌2003年1月場所の新入幕では早々に10勝5敗の好成績を挙げて敢闘賞を受賞した。
この活躍を受けて、一旦は「日韓共同未来プロジェクト」の名のもと2003年にソウル市の蚕室(チャムシル)体育館(ソウルオリンピックの会場の一つ)で戦後初の「大相撲韓国公演」を開催することが決定されたが、中国などでのSARS流行にともなう渡航自粛で延期となった。
延期されていた韓国公演は2004年2月14~15日にソウル市の奨励体育館で、同年2月18日にプサン市の社稷(サジク)体育館で開催された。
この際の春日王の番付は十両であったため、本来なら海外公演には参加できないところ、相撲協会の特別の配慮で参加できることとなり横綱朝青龍以下の幕内力士40名に春日王を加えた41名の力士により行われた。
横綱春日王は土佐ノ海関らとともに、ソウル市内や釜山市内にある地元初等学校や日本人学校小学部を親善訪問して生徒たちに稽古をつけたりした。
また公演のプログラムでは、観衆に対し大相撲について解説するスピーチを行なったり、本人以外全て幕内力士で構成されたトーナメントで横綱朝青龍を破るなど善戦し、地元の観客を大いに沸かせた。
その後、膝の怪我から十両と幕内を往復する中、2011年十両優勝を果たした。しかし、その年に起こった八百長問題に連座し、引退。

【人物像】について、やはりウキペディアから一部を引用する。

  ◎性格が非常に温和で、土俵や稽古場を離れると良く人に気遣い
   が行き届き、ニコニコと笑顔を絶やさずに人当たりがよく、来
   日わずか数年とは思えないほど流暢な日本語を話すことなどか
   ら、後援会や春日山部屋周辺住民をはじめとしてファンの人気
   は絶大で、好調時はもちろんのこと本場所で連敗が続いた場合
   には、部屋にファンからの激励の手紙やファックスが多数舞い
   込む。

   ◎早くに父親を亡くし、幼少時から母親が掃除婦などをしながら
   身を粉にして自分を育てるのを見てきたため、母想いは人一倍
   である。初来日して春日山部屋での稽古を見るなどして相撲の
   迫力に触れ「ここで成功すれば、親孝行できるのではないか」
   と考えたのが角界入りを決心した動機であり、またその後の精
   進の原動力になっている。
  入門後は一切無駄遣いをせずに貯めたお金で母親のために住宅を
   購入してプレゼントしたほか、母親が入院・手術した際にはす
   ぐに飛行機で里帰りして見舞い、万一手術後の予後が芳しくな
   い場合には日本に呼び寄せて近くで看護したいと願い出てい
   る。

  ◎力士養成員(幕下以下のいわゆる「取的(とりてき)」)時代
  から、部屋が主催する地元川崎市内の教育機関や地域奉仕への催
  事に精力的に参加し、2002年6月11日に川崎市役所を表敬訪問し
  た際には、川崎市長から「春日王関は地元の誇り」とまで言わし
  めている。反面、ひとたび土俵に上がると真剣そのものでプロ気
  質に富んでおり、今まで何回も怪我をしてきたものの決して泣き
  ごとは言わず、観客の見つめる本場所の土俵上では多少の怪我程
  度では絶対にサポーターや包帯を付けないという信念の持ち主で
  もある。

春日王は八百長に連座し引退した。それから10年が経つ。罪を犯せば罰がある。その罪はその人の死後まで消えることはないのだろうか。私はそうは思わない。そこに罰に生きる重みがある。
春日王の人柄が、上記の言説通りならば、その苦しみは本人が最もよく心に留めているはずだ。
今、実績のある彼の働きが求められているのではないか、と【日韓・アジア教育文化センター】の一人として思うし、センターで得た韓国人の友人たちも同じではないかとさえ思う。
日韓関係は、1965年の日韓基本条約ですべて解決済みと日本側は言う。しかし、韓国は謝罪を求め、日本はその話しは済んだはずだと言う堂々巡り。ここにはいわゆる「政治」が跋扈(ばっこ)しているように思えてならない。そして中にはそのことから嫌韓、反韓日本人になる人もある。同時に韓国でも嫌日、反日に油を注ぐ人は絶えないのではないか。

韓国の映画技術は、また入場料を取って観せる姿勢は日本より勝っていると思う。韓国ポップ音楽に、韓国ドラマに心酔している人も多い。東京・新大久保、大阪・鶴橋を歩けば韓国に浸っている若者を数多く見ることができる。
モンゴルや西側諸国もいいが、かてて加えて主にシルムに励む若者にも眼を注いで欲しい。
そのことで、力士の粋な浴衣姿、個性あふれる化粧まわし、行司の装束の絢爛(けんらん)豪華、天井から吊り下げられた伊勢神宮の形式をかたどった屋根等、力士の取り組みの勝ち負けだけではない、いろいろな発見が改めて気づかされるだろう。そのことで何千年の文化交流史にみる共通性、相違性に気づかされ、間欠泉ではない真の友好国関係に貢献するのではないか。

隣人を愛すことは難しい。しかし、今時の若者は清々(すがすが)しい、と思いたい。

2020年8月17日

夏萩[宮城野萩] ―日本の美意識再学習 ①―

井嶋 悠

田舎(と言っても市であり、首都圏の大人たちにとっては憧憬の場所でもあるようだが)に転居して13年が経つ。年々、妻と愛犬以外の会話は限られ一層静かな生活を過ごしている。そんな中でのコロナ禍、自問することがこれまで以上に増えている。加齢の為せることとは言え、あの「自粛」或いは禍の中の騒々しさが加速させているのかもしれない。と言っても多くはその時々の断片に過ぎず、自答など到底及ばない。若い時とは意味の違う貴重な時間を無駄にしている。しかし思いがけない発見もする。

庭の夏萩の花弁に、ただただ単に大愚としか言いようのない政治家の厚顔無恥に辟易し、記録的長期の梅雨下の豪雨被害に自然と人の壮絶な関係に思い及ぼし、それでも日本が母国であることに感謝するという何ともアンビバレントな日々にあって、先日一瞬無我の境に導かれた思いをした。
何年か前、背丈50センチほどの苗を植えた夏萩。宮城野萩。今では枝垂れを上に伸ばせば2メートル余りの広がりに成長し、何本もの細い枝に1センチほどの純白の花弁を背に、数ミリの紅がかった紫の花弁が連なっている。その姿の圧倒的存在感。私と萩が占める1メートル四方の絶対静寂空間。可憐との言葉が私を覆う。

可憐:ひ弱そうな感じがして、無事でいられるよう、暖かい目で見守ってやりたくなる様子。[『新明解国語辞典 第五版』]

高校教師時代に毎年必ずと言っていいほどに講読していた、『枕草子』の「うつくしきもの」の段が甦る。清少納言がここで言う「うつくしきもの」「をかしげなる」「らうたし」「うつくしむ」といった形容語は、私の中で可憐に通ずる。昔、「愛し」を[かなし]と読んだように。

「うつくしきもの 瓜に描きたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うち傾きて、ものなど見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられてありくも、うつくし。をかしげなるちごの、あからさまに抱きてあからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。雛の調度。蓮の浮葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。
(以下、略)」

やはり教師時代の思い出、アメリカの現地校に在籍していた帰国女子生徒が、日本に一時帰国し、アメリカの友人に、小さな文房具のあれこれお土産に持ち帰ったときの驚愕的喜びの話が甦る。

萩の花尾花葛花撫子の女郎花また藤袴朝顔の花

萩は「秋の七草」の一つである。先に記した夏萩とはやや趣・様態の違う山萩と思われるが、やはり赤みがかった紫の小さな花弁が群れて咲く。
その七草を決定したのは、奈良時代前期8世紀前半の『萬葉集』の歌人、山上憶良である。

『萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花(おみなえし)また 藤(ふじ)袴(ばかま)朝顔の花』
     [注:尾花;すすきの穂花  朝顔の花;今言う桔梗]

これらは研究者に言わせるに、当時の民衆及び山上憶良の好みの花々で、貴族階級は梅・橘といった外来の花樹だったそうで、そのことが貴族階級の一人であった憶良らしさを表わしていると説明する。
だからこそ『銀(しろがね)も 金(くがね)も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめもや』《歌意:銀も金もまた玉とても子に勝るものが他にあろうぞ》が、憶良を代表する一首であることに私たちは得心するのだろう。
そして萩の花が最初に挙げられている。七つの花に共通する淡彩。
ここで「女郎花」の文字に眼を留めたい。女郎=売春婦・遊女との理解。
ところが、古代にあっては、「女郎」は「上臈(じょうろう)(身分の高い人の孫娘、身分の高い婦人)」から転じた言葉で、時に宗教性を有する女性の意であることが、『日本語国語大辞典』から教えられる。
これに関して、近世/近代文学・文化研究者である佐伯 順子氏(1961年~)が、自身博士課程在籍中に著し、多くの人々に賞賛された『遊女の文化史』(1987年刊)で、彼女は次のように書く。

「性」と(とりわけ10代の)コロナ禍の問題を重ねる人もあり、今、改めて人と性を再考する時機ともなり得るのではとの思いもあって、少々長くなるが引用する。

――遊女、彼女たちこそは、今や俗なるものの領域におとしめられてしまったかにみえる「性」を「聖なるもの」として生き、神々と共に遊んだ女たちであった。その舞い、歌う姿の中に、今日、音楽と言われ。あるいは演劇、文学と言われる「文化」の営みの多くが、まだ「文化」とは自覚されぬままに、若々しい姿をあらわしていたのである。しかし、自ら遊ぶ女として、聖なる力を宿していた遊女たちは、やがて遊郭の中に囲い込まれ、さげすみと憧憬というアンビバレントな社会感情を身に受けつつ、ついに遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う「文化」人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく……この変貌の過程はそのまま、人々が「神遊び」の背後に認めていた「聖なるもの」を見失い、快楽のみを独立して求めたゆえに、「遊び」の意味内容から「聖」が脱落して、低俗な性と高尚な文化、という価値観として正反対の概念が生ずる様相を呈しているのである。――

一つ家に遊女もねたり萩と月

(注・「一つ家」は、研究者によっては字余りを承知で芭蕉の他の用例から「ひとついえ」と読んでいるようだが、もう一方の読み方「ひとつや」の方が、素人の私ながら落ち着く。)

この句は『奥の細道』に収められ、新潟県と富山県の境にある難所・親不知の宿での作とされている。しかし、随行者の曾良の日記にも、また芭蕉の他の書にもなく、旅を終えての編纂時に、芭蕉が虚構として加えたと言われている。要は創作であり、それがゆえに旅の途次とは違った芭蕉の心が想像される。

この句の背景に係る地の文の一部分を引用する。

――今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男(お)の子の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関まで男(おのこ)の送りて、あすは故郷にかへす文したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白浪の寄する汀に身をはふらかし《さまよわせ》、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り《夜ごとに違う客と契りを交わす》、日々の業因《前世の所業》いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて、(中略)【朝を迎え、その女性から道案内を涙ながらに請われるが、「神明の加護かならずつつがなるべし」断り、旅を続ける。しかし芭蕉の心は「哀(あわ)れさしばらく止まざりけらし。」であった。そして『一つ家に 遊女もねたり 萩と月』と曾良に書きとどめさせる。――

芭蕉は、1644年伊賀の上野に武士の子として生まれ、28歳時に江戸に移り住み、1694年大坂で亡くなっている。そして奥の細道は芭蕉の死後1702年に刊行されている。
一方で、1584年に大坂、1589年に京都、そして1612年に江戸で遊郭が公設されている。

芭蕉にとって、山上憶良の秋の七草の歌も、聖と俗の世界・遊郭も承知のことであり、そこで彼の心を覆うものは「哀れさしばらく止まざり」である。そこには「いき」も「通」もない。
芭蕉が描いた、遊女、萩の花、月光はすべて女性性の心象として浮かび上がって来る。その世界を思い描くとき、私は「が」でも「は」でも「と」でもなく、「も」を持って来た芭蕉の感慨に魅かれる。一夜明ければそれぞれがそれぞれに次の時間を持ち、おそらく再び相まみえることはないであろう。今宵だけの5人の共有の時間。一層募る彼女たちへの哀しみ。生の重みをかみしめる芭蕉。

心的時間がいかに限られているかを実感する中、身辺の小さなものに日本の美しさを見直していけたらと、日本に生を得た一人として思う。

2020年4月10日

井嶋 悠

桜は心を和ませる。その折、足元に野に咲くすみれを見出せば至福の時である。春は柔和な静だ。
桜は日本人としばしば対となる。そこに日本人の何が秘められているのだろう。
桜の黒ずんだ幹、枝が、冬を越え、桜色の花弁を生み出す。大地と自然の厳しさと優しさ。5枚の花弁は大きからず小さからず、微妙に重なり、満開時は群れをなし一樹(いっじゅ)一花(いちか)のごとし。色は日本の伝統色(名)桜色。濃からず淡からず。花茎にいつまでも執着せず、花開き数日もすれば、春風に乗って舞い落ちていく。幽かに、時には春嵐の吹雪のように。同じく伝統色(名)水色(人によっては水浅葱(あさぎ)色というかもしれない)の空を背に。散りばめられた白雲の添景。運が良ければ群れ為す桜花から響き渡る鶯の声。

童謡「さくらさくら」

さくら さくら
やよいの空は
見わたす限り
かすみか雲か
匂いぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん

「匂い」との言葉に現代人が失ってしまったものを感じたりする。もっとも、現代っ子はこの歌自体知らないだろう。学校でこの類の歌を知る機会がないそうだから。明治時代の滝 廉太郎の『春』はどうなのだろう?

森山 直太朗作詞・作曲『さくら』(2003年)は、若者を中心に愛唱されていて歌詞は以下である。

僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を
さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ
どんなに苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる
さくらさくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って
さらば友よ 旅立ちの刻(とき)
変わらないその想いを 今
今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉
移りゆく街はまるで 僕らを急かすように
さくら さくら ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる瞬間(とき)を信じ
泣くな友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ
さくら さくら いざ舞い上がれ
永遠(とわ)にさんざめく光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散る道の上で

この歌は卒業(式)の思いを歌っているとのことで、孤独を意識する現代人の叙事歌とも言え情況が違うが、卒業から随分経った今、私は童謡「さくらさくら」の情緒に、さくらを、春を直覚する。ただ、この直覚は「生」を前提としていて、「死」を意識することも増えた老いにあっては郷愁的感慨とも言える。

と言うのは、「さくら」の歌詞に接したとき、初め私は死を、それも自死を思ったからである。私の中では、卒業→別れ→死、桜散ると結ばれ、それが私の現代人の叙事歌との表現になっている。その精神構造を裏付けるかのように、春(新暦4月5月)は自殺が多い。
その日本は以前ほどではないが、先進国にあって自殺が多い国でもある。

この自殺について付言すれば、「(悲・哀・愛)かなしみ」の重層としての自殺の批判者にはなれない、非合理を大切にしたいと思う私は、日本の自殺の多さに、自然、四季(南北に長い列島国日本とは言え)が培った感性の為せる業ではないかと思う。儒教国韓国の自殺の多さとは原因、背景が違うように思える。

平安時代の歌人紀 友則は歌っている。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」    

前半の柔和で光明な春溢れる姿に比し、後半は死を見つめる眼差しを感ずる。自然の新生の春と老いの或いは人の、生より死を意識せざるを得ない命との対比。
海外の地は、限られた時季の限られた街しか知らないが、この春の美、感性はやはり日本独特だと思う。
同じく平安時代の在原 業平の歌「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」に通ずることとして。

桜色は数百種あると言われる桜樹(さくらぎ)の原点とも言うべき山桜の色を表わしているとのこと。白色に限りなく近い桜色。ここでピンクと言ったり桃色と言ったりするのは野暮そのものだが、私の限られた語彙では白色に限りなく云々としか言いようがない。

江戸時代の古代文学研究者で、こよなく桜を愛した本居 宣長のやはり著名な歌。

「敷島の やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花

「やまと心」とは、日本人の心ということだろうが、それが「朝日ににほふ 山ざくら花」と言うのだ。
私は「武士道」とも「大和魂」とも無縁な一人の日本人だが、だからこそこの表現に魅かれる。それも奈良県吉野の群れ為す山桜ではなく、かすみに煙る小高い山に一本咲き誇る山桜を思い浮かべ、私の描く日本人像と重なている。

そもそも宣長は、武士道も大和魂も言っていない。後世のそれも明治時代後半以降の帝国主義化、軍国化する中で、日本精神、大和魂そして「武士道とは云ふは死ぬことと見つけたり」との『葉隠』のこの一節だけが、作為的に利用されたのではなかろうか。あの散華との独特な言い回し。
宣長は母性の人だった。だからこそ「もののあはれ」の美を、源氏物語に、日本人に見出し、それを知ることこそ人の心を知ることであると説いたのであろう。
そう思い及ぶとき、「朝日ににほふ 山ざくら花」との秀逸な表現が心に迫り来、山あいに在って優しく、厳然と己が存在をかすみの中に主張している世界に私を導く。

平安時代後期から鎌倉時代にかけての歌人西行法師は「願はくは 花のしたにて 春死なむ その如月の 望月のころ」と歌い、念願通りその季に生を閉じたと伝えられる。

やはり桜は日本人にとって特別の花だ。日本には国花はないとのことだが、桜は国花にふさわしい。菊を言う人もあるようだが、天皇、皇室云々とは関係なく、桜の方がふさわしい。

日本人は、人は孤独であるとの自覚(それがたとえ感傷的なものだとしても)、どこまでも自然と一体であることの安堵(時に脅威)を、そこから醸し出される和み[平和]への希求を古代より学ばずして知り得ていると思える。それが大和民族の特性なのか、アイヌ等少数民族を含めた日本全体の特性なのかは不勉強でまだ私には分からないが、日本が誇ることとして言い得るように思えてならない。
だから今日の近代化の一面である、工業化、カネモノ化、軍国化、人の疎外化、またネット社会の功罪等、なぜか大国指向の日本は、大きな不安に覆われていると言っても過言ではない。老いの杞憂ならお笑い種で済むのだが、そうとも思えない私をどうしても打ち消すことができない。

これを書いている今、日本は、世界は、コロナ・ウイルスでとんでもない局面に立たされている。

2020年3月29日

東アジア  その1 範囲と心持ち

井嶋 悠

アジアに自身の根拠を置く人々[企業関係者、実業家、研究者、教育関係者等]の任意の或る研究会で、何年か前、『日韓・アジア教育文化センター』の活動の成果を話す機会を得たことがある。当日、使用機材の不具合も手伝って不本意なものとなり、参加者の一人から「どうしてアジアではないのか」と強い調子で問われ、私は間髪入れず「東アジアです」と応え、一層場を気まずくしたことが、今も心にこびりついている。
そして、あらためて東アジアとはどこを言うのか、「東」という方角以外に、中でも心の部分で今も共有し得ることはあるのか、が気にかかり始めている。

岡倉 天心(1863~1913)は、英文書『東洋の理想』(1903年・ロンドンにて刊行)の冒頭で、以下のように朗々と言う。(夏野 広・森 才子訳)

――アジアは一つである。
ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明―孔子の共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁さえも、究極と普遍をもとめるあの愛のひろがりを一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教をうみだすことを可能にさせ、また彼らを、地中海やバルト海の沿岸諸民族―特殊的なものに執着し、人生の目的ではなく手段をさがしもとめることを好む民族―から区別しているものである。――

最後の2行は不勉強ゆえ実感的に理解できないが、日本の芸術を論ずることを目的としたこの書を思えば、それまでの表現に共振する私がいる。
そしてそれを端緒にして、例えば「東アジア人」なる表現が、現代に不相応な区別性は措いて、可能なのか思うのである。もちろんそう思うこと自体ナンセンスと一蹴されることも含めて。
ただ、この思いは机上の空想といったことではなく、『日韓・アジア教育文化センター』での交流活動を続ける過程で常に脳裏にあったこととして、である。すなわち、センターの構成員である、日本・韓国・中国(ここで言う中国とは、本土漢民族及び香港人である)・台湾の人々である。

そもそも東アジアを構成している国・地域はどこなのか。
ここにA4判の世界地図帳がある。その一項に見開き2ページで「東アジア」が提示されている。国、地域によっては一部分ではあるが、掲示されている諸国を東から挙げてみる。

・日本・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国・台湾・フィリピン北部・ロシア連邦東部・モンゴル・ベトナム・ラオス・タイ北部・ミャンマー・バングラデッシュ・ブータン・ネパール・インド北東部・カザフスタン

私は呆然と立ち尽くし、これは東アジアではないと思う。そこで東アジアを表題にする書にあってはどうとらえているのか、手元の二書で確認してみる。

一書は、『東アジア』[「現代用語の基礎知識」特別編集・自由国民社刊・1997年]。その中の第1章「東アジアとは」で、小島 朋之氏は、次のように記している。

――東アジア地域は民族、宗教、言語、歴史、文化、経済発展、政治体制など、いずれの面においても多様であり、「アジアは一つ」など簡単にはいえない。――として、

――本書では「東アジア」を、日本に隣接する朝鮮半島、中国大陸と台湾および香港、その周辺地域としてのモンゴルに絞ってみたい。――

もう一書は、『世界のなかの東アジア』[慶應義塾大学東アジア研究所・国分 良成編・2006年]。

その中の最初の章「東アジアとは何か」で、国分 良成氏は、日本を基点に、慶應大学の特性でもある経済視点から次のように記している。

――ASEAN[東南アジア諸国連合]+日中韓が主流となりつつあり(中略)ASEANは東南アジアで日中韓は北東アジアで、共通の集合部分は東アジアである。

――ヨーロッパの場合はキリスト教がベースにあるということは間違いない。そうした意味でアジアは何をベースにするのだろうか。…東アジア共同体の構想作業は始まったばかりで、これからさまざまな障害にぶつかりながら紆余曲折を経験することになるでしょう。――

『日韓・アジア教育文化センター』活動のキーワードは【日本語】であり、それと表裏を為す【日本文化】で、共通言語は日本語である。それは、東アジアで日本語を学んでいる人、教えている人を介して、日本を映し出し、日本を検証したいとの思いであるが、同時に東アジア諸国諸地域にとって日本が他山の石となることへの期待でもある。

例えば、海外帰国子女教育に携わった経験から言えば、この問題はとりわけ1960年代以降、日本の経済発展に伴って生じて来た教育課題であり、それへの対応、試行錯誤は東アジア諸国の教育施策に有用なものとなるであろうし、より一層日本の課題として戻ってくるはずだとの思いである。事実このことは、以前海外帰国子女教育の日本のプロジェクトで、韓国の文科省[教育部]の人と同席する機会があった。とは言え、この相互性での日本の一方性の批判を想像するが、これまでに培われた絆に甘え先に進む。

日本の東は太平洋である。その昔、日本が終着であった。西から、南から、或いは北から、様々な人々(民族)が、それぞれの文化を携えて渡来し、或る者は離れ、或る者は定着した。そして統一国家大和を形成し、少数民族は制圧され、大和民族が成立した。
21世紀の今、千数百年の間に沁み込んだ心に何度思い到ることだろう。私はそこに東アジアを見たいのである。

中国・朝鮮半島の長い通路を経て到達し、再開花し、更に発展し、時に日本の固有化した、仏教、思想、美術、文学等々の文化の宝庫を見る。正倉院には、確かにギリシャからシルクロードを経て渡来した美術品が蔵されているが、その前に私の中では東アジアがある。

先日、「アジアン・インパクト」との主題の美術展を訪ね、その印象は既に投稿したが、その展覧会でも「アジアン」は中国、朝鮮半島であり、それに衝撃(インパクト)を受けた日本人芸術家の展示であった。
やはり私の東アジアは、先の小島氏以上に絞って、中国・朝鮮半島・台湾そして日本であり、広くアジアを思い描く際にも、先ずその核となっている。

そのような東アジアの日本に生を享けた幸いを思う。
他国他地域について、その地の歴史も環境も十全に知らずして軽々に発言することは厳に慎まなくてはならないが、東アジアの国々地域は、それぞれ或る転換期にあるように思えるが、どうなのだろう。

東京オリンピックが延期されるほどに、コロナウイルスが全世界で猛威を振るい、亡くなった人の数は尋常ではない。私には驕り高ぶっている人類への「天罰」、といった宗教的視点はないが、無責任との誹りをここでも承知しながら、何か考えさせられることは否めない。

東アジアも然りである。

黄河文明をかえりみ、現在の中華文明を厳しく諫め、世界の現在を見ようとする中国のドキュメンタリー映画『河殤(かしょう)』(1988年上映・「殤」:とむらう者のない霊魂の意)の書籍版を読んだ。[現在、映像そものを観られる機会は、同じく中国の亡命者へのインタビューで構成されるドキュメンタリー映画『亡命―遥かなり天安門―』(2010年)同様、ないとのこと]。そこでは厳しい内省の姿が描かれている。

香港人との表現が象徴するように香港問題は多くの香港人を、外国人を覚醒化し、先日の台湾での総統選挙も複雑な台湾の現在の様相が顕在化した。
韓国は南北問題で見通しが立っていないように思え、北朝鮮は唯我独尊が如く猛進している。
そして日本の大国指向は、小国主義志向を善しとする私には、到底考え及ばないような展開が随所でなされ、落胆と絶望、不安が襲っている。
やはり東アジアの基層にある心[精神]を静かに問い直す時ではないか、と『日韓・アジア教育文化センター』の事績を振り返り思う。

コロナ・ウイルス問題も、世界各国が胸襟を開き、叡智を集め、一国主義に陥ることなく原因を解明し、他者への敬意と謙虚さをもって共有して欲しいと願う。

私自身はアジアの心を考える東に息する一人として、もう少し研鑽を積めればと思っている。



2020年3月7日

父としての自覚 ―再び母性・父性について―

井嶋 悠

父親なるものなって40年が経つ。よくぞ私ごときが父として来られたもんだと慰め、褒める私がいる。一昨年、長男の結婚式で、長男が“感謝の言葉”セレモニーで言った「今日まで自由にさせてくれてありがとう」との言葉が妙に残っている。
これは親子の信頼関係での言葉なのか、それとも「親はなくとも子は育つ」の彼なりの柔和な棘的表現なのか。息子のあれこれを知る私たち両親としては、前者であることを素直に取らなくてはならない。

母の方はかなりの自覚をもって子どもに接していたが、私の場合、何か父としての自覚といったこともなく、自然な流れで三人の父となったように思える。
年齢順で言えば、妻が腹膜炎に罹り妊娠七か月で死を迎えた長女。その3年後の長男。そしてその4年後の次女。
ただ、次女は中学時代の担任教師の、何人かの女子生徒を自身側に取り入れての「ネグレクト」に会い、その後の高校での教師、学校不信甚だしく、紆余曲折の人生、23歳で早逝した。したがって現在、長男は一人っ子のようなものである。
その次女の一件では、憤怒すること、同業ゆえなおさらで、今も決定的に刻まれていて、そのことに於いては、自照自省そして自覚著しく、更には私自身の学校、教師への不信感また自己嫌悪が増幅している。これらについては、以前に投稿したのでこれ以上立ち入らないが、一言加える。

社会的告発は本人、母親の、私の気質を知ってのこともあり、しなかった。したとしても経験上、学校、教育委員会の反応は、ほぼ想像がつくのでなおのことしなかった。しかし断然教師に非があると思っている。このことは、後日、別の教師から娘に直接謝罪があったことからも、決して親のエゴではないと信じている。

このように子どもに関して曲折を経験し、ここ何年か死を考え始める年齢となり、父とは一体何者ぞ、と私の父をも思い起こし、考えることが増えて来ている。

私の父は医者であった。大正6年生まれの京都人である。50歳ごろまでは勤務医であったが、それ以降享年80歳まで開業医であった。尚、戦時中は長崎勤務の海軍軍医であった。
父を尊崇する声は聞いていたが、名医であったかどうかは分からない。ただ勉強家には違いなかった。或る時、こんなことを言っていた。「ワシのような医者は、ワシで終わりだ。」
その意味することは、患者に対して、挨拶ができていないとその場で叱正し、耳学問で自己診断する患者には診察前早々追い返す等我を通すのである。そういった医者が、今も世に成り立っている自身を自覚してのことだった。

父の医者としての道程は、晩年期を除いて安泰ではなかった。要領よく兵役を逃れた者や長崎被爆での軍上層部また医師等特権階級の権力行使による戦後に備えた功利的生き方への反発は、戦後の生き様に決してプラスには作用することはなかった。そのため出身大学内人事、更には権力にへつらう人たちのしがらみの中、孤軍奮闘せざるを得なかったようだ。

そういった生き様は、「子を持って知る親の恩」そのままの親不孝者であった私でさえ、心に深く刻まれ、私の今日までに或る影響を及ぼしていると思う。例えば、結婚後、どうしても許せないとの、結局は同じ穴のムジナにもかかわらず、家族への不安、迷惑をかえりみることなく突っ走ること幾度かあった。

父は家庭にあっても、漢字「父」の成り立ちから意味する統率者然とし、家父長意識そのままに君臨していた。家族はどこか腫れ物をさわるような立ち居振る舞いの様相を呈していた。この緊張感溢れる家族生活も、私が小学校4年時での離婚、中学からの継母を迎えての新生活、そして妹の誕生といった変化に、父の加齢も加わって徐々に変容して行ったが、それでも父たる存在感は大きかった。
ところがである。私の長男と長女の生は、父らしからぬ父と変貌させた。痛々しいほどに二人に愛を注ぐ父がいた。父は祖父になったのである。古来の父性の父から母性の人になった。
その父が亡くなって23年が経ち(だから長女の死は知らない)、今では私が祖父となるかもしれない心模様をあれこれ想像する立場になっている。
私は、風貌、体型また志向性格において、その相似を妻や親戚の者から指摘されるが、父のような父とは全く異にしているように思う。父とは自立するまでの30有余年があまりに違い過ぎるからもある。

やはり、ここにあって父性・母性を考えたくなる私がいる。再び整理してみる。
『新明解国語辞典 第五版』の説明は以下である。何ともそっけないと言うか、窮しているというか。
  父性:父親(として持つ性質)  
  母性:女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親とし
     ての本能的性質。

次に、中村 雄二郎著『述語集』の、「女性原理」の項を参考にする。引用は、著者の言葉をあくまでも尊重し、適宜私の方で要約して記す。

(西洋の心理学者E・ノイマンの考えに立ち)
  母性:元型としての太母(グレート・マザー)は、包み込むこと
     の意味する、相対立する二つの側面を同時に持っている。
一つは、生命と成長を司って、懐胎し、出産し、守り、養
い、解放する一面、つまり生命の与え手の面である。
もう一つは、独立と自由を切望する者たちにしがみつき、彼
らを解放せずに束縛し、捕獲し、呑み込む一面、つまり怖る
べき死の与え手の面である。
無意識・感情

父性:断ち切ること、分割すること。
意識・理性

現代は母性の時代とも言われ、だから一部の父親、男性が(女性も?)「父性の復権」を言う。
しかし、どれほどに男性性・女性性について私たちは共有しているだろうか。「らしさ」の曖昧性、或いは固定性、大人の一方的刷り込み。
男女協働社会を考えれば、男女のそれぞれの性(らしさ)に係る自照、自問、自覚がより求められ,その上で共有があって然るべきではないかと思う。常識の呪縛から離れなくてはならない。父権制、家父長制の中で培われた常識。この裏返しとしての女性の常識。

それは、男女共同・協働意識とその現実化にあって、先進国中最下位に近い位置にある日本の緊要の課題である。いわんや先進国の矜持があるからには。

では、私自身はどうなのか。何も言えない。言えることは、男に生まれ、男の子として育ち、男性として社会人となり、ご縁があって結婚し、父となり、死を迎え、居士を与えられ(多分・・)、無と無性の世界に彷徨う・・・だけである。ジェンダー問題への思慮など言わずもがなである。

確かな男女協働社会を構築するには、どのような「らしさ」が常識としてあるべきか、学校、社会で大いに話題にして欲しいものだ。私のような無自覚な男を、父をなくして行くためにも。

2020年2月22日

和光同塵 [老子] ―若い人たちに読んで欲しい『老子』ー

井嶋 悠

和光同塵、紀元前4世紀古代中国の思想家(思索家)老子が著した『老子』に出て来る〈2回登場する〉言葉である。実に美しい言葉だと思う。人によっては彼を詩人としてみるようだが、中国の詩の規則[押韻や平仄等]に無知な私でも、なるほどと思わせる一節でもある。この言葉の個所の一つを引用する。
引用に際しては、口語文(書き下し文)の中でさえ難しい漢字は仮名に変えている。

知る者は言わず、言う者は知らず。その穴[欲望を誘い出す耳目などの感覚器官]を塞(ふさ)ぎて、その門を閉ざし、その鋭を挫(くじ)いて、その粉を解き、その光を和らげて、その塵に同ず。これを玄同[不可思議な同一:通俗的立場を乗り越えた境地]という。

平安、平和な光溢れる郷土を想い、国[祖国・母国]の姿に思い到る。
因みにこの「玄」、同書第1章で、【常に無欲にして以ってその妙[深遠で分かりにくい世界の意]を観(み)、常に有欲にして以ってその徼(きょう)[表面的ではっきりした現象世界の意]を観る。この両者は、同じきに出でてしかも名を異にす。同じきをこれを玄といい、玄[あらゆる思考を絶した深い根源的世界の意]のまた玄は衆妙[もろもろの微妙な始原の意]の門なり。]と説かれる、すべての根源を表した、老子の鍵となる語である。ここにおいても老子の詩人性が見て取れる。

私はこの老子[書『老子』に表された老子]を敬愛する。また羨望し、親愛する。そして、とりわけ次代を担う若い人に読んで欲しいと思う。孔子の『論語』とは違う文学性、論語が持つ倫理性の強い文学性とは違うものを思うからなおさらである。
昔、中国の人々は言っていたそうな。「家を出るときは孔子を着、帰れば老子に着替える」と。ここには老子の、すべての人間が持つ馥郁とした人間性と詩人性があるように思える。

なぜ若者か、幾つか例を挙げ、その理由を記す。と同時に詩人性も味わって欲しい。
そもそも老子は言う。

「人の生まるるや柔弱、その死するや堅強なり。万物草木生まるるや柔脆(じゅうぜい)[柔らかく脆(もろ)い]、その死するや枯槁(ここう)[枯れる、干からびる]なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。(中略)強大なるは下に処(お)り、柔弱なるは上に処る。」

ここで書いていることは、この年齢(74歳)になっての、痛烈な自省であり、自戒である。若い時こそ地に水染み入るがごとく吸収できるが、歳を重ねる毎に心も脳も硬化し、多くは頭だけが、それも核心に到ること少なく、働き、いわんや心に到達することなく過ぎ去り、徒に時は経ち、そうこうしているうちに跡形もなく消え去ってしまう。

因みに、老子は「上善は水のごとし。水善く万物を利してしかも争わず」と言っている。

「強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る」に、先の和光同塵で引用した「知る・言う」を重ねてみると、上に立つ者の在りようが見事にとらえられていることに気づくではないか。学校で、社会で。少なくとも私はそうでない人たち、己を誇示し昂ぶる人たち、に多く出会って来た。

そして老子は「樸(あらき):切り出したままでまだ加工しない木材」を、素晴らしいもの、美しいものの喩えとしてしばしば用いる。だから嬰児(えいじ)が讃えられる。
とは言え、若い時(とりわけ10代から20代)は純粋であることの裏返しとして、迷い、苦悶も多い。そこで老子は言う。

「美の美たるを知るも、これ悪[醜いの意]のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ、云々」と。

絶対と相対。すべては相対と思うことで軽くなる肩の荷。いわんや現代は長寿化時代である。時間は十分にある。ないのは社会の、大人のゆとりと、それぞれの場で何らかの権力を有している人の慈愛、慈悲の眼差しである。

だから老子は続けて言う。「聖人は無為のことに拠り、不言の教えを行う。」

私(たち)が抱く聖人への憧れは受け身であり、非生産的である。ここにも若い人の可能性が見出せる。尚、「大器晩成」も老子の言葉である。

更に老子は自身の言葉の背景に、原理としての母性を置く。

「谷(こく)神(しん)は死せず」、これを玄雌(ぴん)という。玄雌の門、これを天地の根(こん)という。」

【口語訳:谷間の神は奥深いところでこんこんと泉を湧き起こしていて、永遠の生命で死に絶えることがない。】

あまりの牽強付会であり、加齢があってこそ共感かもしれないが、それでも或いはだからこそ若い感性で味わって欲しいと思う。

《補遺》
老子は実在しなかったという人もあるようだが、多くは実在したと言われている。ただ生没年等は不明で、中には複数で存在したという人もあるとか。

5世紀に中国で確立した民間信仰、民俗宗教の「道教」では、老子が教祖[神]として崇められている。尚、中国で発展した宗教として、「仏教」「道教」「儒教」がある。
ところで、このような伝説上の人物となると、後世の人はその人物像[姿・形・風貌]を想像力豊かに作り上げることが多い。老子も例外ではない。こんな具合だ。

―身長は九尺(中国古代では1尺は約22センチメートル)、鼻は高く秀で、眉の長さ五寸(1寸は約2センチメートル)、耳の長さ五寸、額に三本のしわがあり、足には八卦の模様をそなえ、神亀に腰かけ、白銀を階段とした金楼玉堂の内にあり、五色の雲を衣とし、重畳の冠をかむり、立派な剣を腰にする。―

2020年2月2日

「アジアン・インパクト」 《Ⅰ》 日本語教育の可能性

井嶋 悠

1か月余り前になるが、東京都庭園美術館で開催されている美術展に行った。東京都区内目黒駅から徒歩10分ほどにある。
東京は、疲労困憊する街だが同時に不思議な魅惑に満ち溢れている。文化に係ることでないものはないと言っていいほどに魔性溢れる街だ。と言う私には年齢もあって住む気力はない。
限られた都区内の都市空間、東京大空襲からも再興し、随所にある自然と芸術の総合空間。この庭園美術館もその一つである。

これらの多くは、江戸時代の高級武士や明治時代の宮家の賜物で、時代が時代なら私が如き平民が立ち入れるところではない。ありがたいことである。格差、貧困問題の現状にあって不謹慎との誹りを免れ得ないかとも思うが、高齢者割引料金で半額の500円は、あの爽やかな時間、しばしば見かける芸術を身構え、知を誇るかのような時間ではなく、自然態で浸る時間ならば決して高いとは思えない。
作品群を気の済むまで眺め、庭園の椅子に身と心を委ねれば、2時間、3時間は瞬く間だ。
高齢化時代の昨今、芸術、自然鑑賞体験の高齢者は甚だ多く、そんなゆとりの時間の競争率は激しいが、今回は幸いにも訪れる人は少なく、心和む時空間となった。

美術展の主題が『アジアン・インパクト』、副題が『―日本近代美術の「東洋憧憬」―』である。
1910年前後から1960年前後までの間で、古代中国・朝鮮(李朝)の諸作品に影響(イン)衝撃(パクト)を受けた何人かの日本人作家と、アジアを幻想する3人の現代日本人作家の作品が、以下の主題に基づいて展示されている。

 Ⅰ  アジアへの再帰 
 Ⅱ  古典復興
 Ⅲ  幻想のアジア

作品分野は、絵画・彫刻・陶磁器・漆工・竹、藤工藝にわたる。

私は在職中、校務で欧米、アジアの幾つかの都市に出かけた。訪問は一都市長くて2日前後であって、都市の一部分しか体験していないが、思えば幸いな機会であった。欧米の場合、どこか気構える私があったが、アジアは、まるで里帰りするような心持ちを何度も経験した。言葉[現地語]が分からないので、一昔前の読む書く中学高校英語を思い出し会話を図るのだが、欧米の場合、顔がこわばっている私がいて、アジアの場合、親愛的になっている私がいる。
アジアとの響きは私を心落ち着かせる。なぜなのか、おそらくアジア人のアジア人への甘えなのだろうが、未だによくわからない。ただ、それを追いかけていくと、何かがあるようにも思える。
その際、これまでの中高校国語科教師からの日本語教育と【日韓・アジア教育文化センター】の活動体験が、考える具体的契機となるように思い、今回の副題とした。

2006年、【日韓・アジア教育文化センター】主催で、「第3回日韓・アジア教育国際会議」を、特別講師に韓国の池 明観[韓国の宗教政治学者。1924年生まれ。1970年代の韓国民主化運動に携わり、「T・K生」の名で、日本にも発信し続け、後に『韓国からの通信』との書名で岩波書店より刊行]先生を招聘し、上海で開催した。その時の3日間の会議内容[項目]は以下である。

  特別講演「東アジアの過去・現在・未来」 池 明観先生
  東アジアでの日本語教育の現在 
           [韓国・上海・台湾そして日本の役割]
  日本の高校での国際理解教育
  上海日本人学校での国際教育
  東アジアでの海外帰国子女教育

同時に、上海・香港・台北・ソウルから各1名、日本から3名の、計17名による高校生交流を実施し、共通語を日本語とする彼ら彼女らの姿をドキュメンタリー映画として制作した。題名は『東アジアからの青い漣』(制作者:日本の2人の映像作家)

私たちは、アジアそれも東アジアにこだわった。東アジアに生を享けた者として、アジアを、世界を東アジアから考えてみたかったからである。
東アジアの底流に流れる心を見出すことは可能なのか、可能ならば今もそれを共有し得るのか。その時、日本語教育はどのように機能し得ているのか。

尚、東アジアは東アジアで、東亜ではない。東亜を名称に入れた組織関係者には申し訳ないが、私の中で東亜は大東亜につながり、私たち先人の過去の過誤と重なるからである。
旧知の韓国民団長の「大東亜共栄圏は、その理想にあってはよかった」との言葉も、一応肯定する私ながら、その理想にあっては、ということ自体に日本の純粋性があり得たのか甚だ疑問であるからである。机上の空論としての観念論であったのではないか、と或る自省からも思う。
いわんや現代東アジア情勢に身を置く一人としては、である。

展覧内容に戻る。
先に記したように、展覧会の意図は既に記したが、展示作品、作家は例えば以下の作品群である。ここに取り出す人々は、私の中でとりわけ心引き寄せられた作品の、それも数人の作者である。

Ⅰ.アジアへの再帰における、
雲崗の石窟と日本画家川端 龍子(りゅうし)(1885~1966)や杉山 寧(やすし)(1909~1993)、チャイナドレスと洋画家岡田 謙三(1902~1982)、静物画に採り入れられたアジアと陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)や洋画家岸田 劉生(1891~1929)といった人々の作品

Ⅱ.古典復興における、
中国古代青銅器と鋳造工芸家高村 豊(とよ)周(ちか)(1890~1972・詩人高村 光太郎の弟)、中国陶磁器と陶芸家石黒 宗麿(1893~1968)や中国五彩陶器と富本 憲吉(1886~1963)、また竹工芸家飯塚 琅玕(ろうかん)斎(さい)(1890~1958)、李朝白磁さらには日本の民藝運動ともつながる陶芸家河井 寛次郎(1890~1966)、古代中国漆器と漆工芸家松田 権六(1896~1986)といった人々。

Ⅲ、幻想のアジア
私にとって現代美術は、具象であれ抽象であれ、作者自身の或いは研究者等の解説があって初めて得心への道程となるほどに困惑することが多い。感性と想像力が、それも原初的なそれが、決定的に足りない。ついつい頭で見てしまうのである。観念的になり過ぎてしまう私がいる。作者の説明を読まない限り、アジアがどこにあるのかもわからない。
例えば、こんな風だ。3人の内の一人、山縣 良和(1980~)氏の政治性をもった『狸の綱引き』など。

この展覧会の意図は中国また朝鮮の美術の日本人作家への影響としての「インパクト」を確認し、そこから生ずる中国・朝鮮美術への憧憬を顧みるということなのだろうが、それだけとは思えない。

主催の庭園美術館長の樋田 豊次郎氏は、本展公式書の「はじめに」で次のように記している。

―こうした東洋憧憬は、一九六〇年頃に作品制作の表舞台からフェードアウトしますが、日本美術の根底ではいまも生きつづけているように思われます。―

そして、第Ⅰ部を『アジアへの再帰』とする。
更に樋田氏の言葉を借りれば、「アジアの古典を振り返りつつ西洋化を目指した〔再帰的近代化〕」ということなのだろうが、私はここでの「再帰」との言葉に眼を留めたい。近代化胎動から150年の今日、再度アジアを、その源泉源流に思い馳せる意義を思うのである。その時、私たちの眼前に在るのは先ず東アジアである。
とりわけ若い世代(10代後半から20代前半にかけての青年たち)が探索することで、例えば上記会議で大人たちが発した内容にどう応えるのか、それが、ドキュメンタリー映画の表題を『東アジアからの青い漣』とした思いである。

なお、会議中センターの中国側委員からあった、日本語―韓国語―中国語の高校生による相互通訳の試みと実践は、この会議の豊かさを思わせることとなった。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、人間が人間である限り永遠の真理であり課題である。会議を主催した一人として、映画制作に関わった一人として、アジアを、東アジアを再考し、私の言葉を少しでも紡げられたらとの思いが今も残る。

2020年1月18日

   江戸っ子・気質

井嶋 悠

私は一応、都っ子[京都っ子]である。一応というのは、家系的には京都だが、私の人生が、子ども時代の周囲の大人の事情や後の私の意志もあって流転しているからである。
そんな私だが、江戸っ子という響きに好意性を持っている。それも山の手系ではなく、下町系の人々である。言ってみれば江戸落語或いは風流の世界かもしれない。

私は4コマ漫画以外、基本的に漫画をほとんど読まないのだが、東京生まれの漫画家にして江戸(文化)考証家で、46歳の若さで逝去した杉浦 日向子(1958~2005)は例外である。彼女の代表作の一つ『江戸雀』に接し、虜になった。描かれる男女が微笑ましく、風景が緻密で情緒深い。
以後、彼女の著作であるエッセイを読んでいる。『一日江戸人』もその一つである。入門編、初級編、中級編、上級編の章立てで、江戸人を、暮らしを、文化を、軽妙な筆致と温もり溢れる描画で紹介していて、最終項は『これが江戸っ子だ!』である。
そこに【江戸っ子度・十八のチェック】というのがあり、次の項目が挙げられている。適宜私の方で要約してそれを引用する。

①よく衝動買いをする ②見栄っ張りだ(借金をしてでも人におごる) ③早口 ④よく略語にする ⑤気が短い ⑥定食より丼飯 
⑦潔癖(濡れた箸を気味がる) ⑧下着は白で、毎日替える ⑨行きつけの床屋がある ⑩無頓着にみえるが、おしゃれにこだわりがある ⑪履物に金をかける ⑫間食好き ⑬入浴時間は15分以内、45度以上で毎日 ⑭あがり性 ⑮異性交際が下手 ⑯駄洒落好き ⑰ウソ話を本気で聞き、後で笑われる ⑱涙もろい

以上の該当数により、筆者は次のように分類する。
18   金箔付きの江戸っ子    
15以上 江戸っ子の末裔の東京っ子    
10以上 並の東京人
一桁  並の日本人
どうであろう?

上記⑤⑦⑧に通ずることとして、義侠心(男気・男勝り)、反骨精神(哲学者九鬼 周造(1888~1941)の『「いき」の構造』による“粋“の3要素【媚態・意気地・諦観】の内の意気地に通ずる意地っ張り、との江戸っ子気質を語るにしばしば登場する表現)との言葉が浮かぶ。
尚、杉浦も九鬼の著書を基に書いているが、彼女曰く、最初はちんぷんかんぷんだったが、江戸への理解が進むと、当たり前のことが当たり前に書かれている、と。
このチェック表、三代続く生まれ育ちが東京下町の、私が知る近しい女性は、ほぼ該当していて、更には義侠心、反骨精神は甚だ強い。
私は5ないしは6である。但し、反骨精神はあると自認している。

ひょっとして、私は江戸っ子=男性と思い描いていないかと自問する。私が男であるからとも言えるが、幾つかの本等からも江戸っ子というとき多くは男性がイメージされている、と思える。女性は中心にはいない。夏目 漱石の『坊っちゃん』然りである。『男はつらいよ』の寅さんの妹、おばちゃんもあくまでも脇である。
これでは明らかに今の時代にそぐわない。
これを、先の杉浦 日向子は、別の書(監修)『お江戸でござる』で、江戸の男女構成(そこには江戸時代の江戸だからこその要因、参勤交代制がある)や、そのこととも関連する結婚事情、また男女協働の実情を通して「かかあ天下―現代のウーマンズパワーーと書き、
日本近世文化研究家である田中 優子さん(1952~)は、『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?-落語でひもとくニッポンのしきたりー』との著で、落語『抜け雀』『厩火事』を通して「江戸の女は強かった」と書く。

ここに、「男があって女」ではない「女があって男」の世界を見、一方で明治維新以後の近代化の中での「男があって女」が今もって続いていることに思い及ぶ。
「江戸の世界も女は強かった」のではなく、あくまでも「江戸の女は強かった」のである。だからと言って男が弱かったのではなく、また男が勝手に女は弱いと決め込んでいたのでもなく、男女平等意識が、難しい講釈なしに自然に浸透していたと説く人もある。
なぜか。今ほどに職種はなかった時代、協働しなければ生きて行けなかったし、その時、とりわけ女性に強いと言われている地に足をつけた現実性指向は何よりも有効にして必要であった。

今はどうであろうか。
職種は多種多様で、農業国としての面影は薄くなりつつある。そして男女共同参画、協働との言説、呼び掛けはかまびすしい。しかし、その成果、内容は先進国中最下位に近い。先進国、一等国と言うにはあまりに哀しく恥ずかしい。
どうすればいいのか。

男性が、これまでの歴史をかえりみ、自身の深奥に何が見えるのか、響くことは何なのかを謙虚に問い、政治等社会を主導し、変容に与ることがより直接的な世界に、女性が果敢な自由さと柔軟さをもって参入できる雰囲気[場]の醸成が必要なのではないか。もちろんそこでは女性自身の意識改革も必要だが、先ず問われるべきは男性側の意識変革である。その時、江戸の庶民男女の躍動こそ、その方法等を考える大きな力となる。
ただ、あの吉原は、樋口 一葉の『たけくらべ』で終わりにしてほしいが、現実はフーゾク通りとして陽の高い時間から今も営業している。性はヒトへの永遠の課題の一つなのだろう。
江戸を顧みることで、女性の在りように限らず、豊かさと質の問題や東京での貧困問題を説く人も多い。
ここ数年の江戸ブームが、郷愁や感傷だけで終わることなく新たな生の力となってほしいものだ。

2019年11月14日

つかずはなれず、飄々(ひょうひょう)淡々(たんたん)と~“人間(じんかん)”生と孤独と愉しみと~

井嶋 悠

夏目漱石の傑作『草枕』の冒頭の有名な一節。 「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
で、つかず離れずこそ人間、己が気持ちよく生きる知恵だと74年間顧みて痛感する。
しかし、今もってその人生体験訓をきれいさっぱり忘れて、悔やむこと、若い時ほど多くはないがある。 或る人は「それって寂しい考えだね、孤独だね」と憐れみ、蔑(さげす)むかもしれないが、生まれるときも死ぬときも独りなんだから、それが一番自然態なのでは?と、いささかの意地を張る。
若いときはそうは行かないかもしれない。が、この身勝手さで中庸では、と当事者の葛藤を慮(おもんばか)りながらも、青年時に出会った人々、また息子・娘を見ていてそうと思う。 だから「絆」との言葉、「ああ、あれね、絆創膏の絆ね。」と茶化したりする。
もっとも、漢和辞典で絆を確認すると字義に「自由を束縛するもの」とあって、我が意を得たり…、とニンマリしている。

「いじめ」は、言ってみれば、つき過ぎの、徹頭徹尾の悪である。
ただ、いじめ=子ども同士、或いは大人同士の視野から離れるべきだ。教師の子どもへのいじめの何と多いことか。教師自身が自覚していない無意識?なそれも多々ある。中にはそれを教師愛と思っている輩(やから)さえいる。いかにも教師らしい?そして私は元その中高校教師だった。

地球の東西文化で、人と人の在りようについて、その能動性と受動性、積極性と消極性が言われる。
「己の欲するところを人に施せ」 『聖書』
「己の欲せざるところは人に施すなかれ」 『論語』
やはり私は儒教心をどこかに秘める東洋人、より限定すれば東アジア人、なのかと思う。 根拠は、前者を言われれば、「そうとは思いますが、私にはどうも…、距離を置く指向で…」とか煙に巻いて逃げる。

とは言え、「つく」と「はなれる」の境は微妙に難しい。まさしく阿吽(あうん)の機微だ。これも「東洋的調和」かもしれぬ。 この人と人の延長上に、地域と地域、国と国もあるのではないか。
とすれば、日本の今日、対アメリカ、対韓国、対中国……はどうなのだろう。
対アメリカ、これはもう「つく」の極みで、流されっぱなし。角立ちっぱなし。 そのアメリカ(アメリカだけではなく欧米?)の教育を倣(なら)って、主体性(アイデンティティ)確立のための、ディスカッションがどうの、ディベートがどうの、と小学校から喧伝され、実践されている。
と言う私は、現職時代からどこか胡散臭い芝居性を感じたり、なんでそのアメリカで暗殺が多いのか?(だからアメリカで暗殺が多い?)と幼稚な疑問を持ったりしていた。今もそれはあまり変わっていない。

対韓国。 最近ひどく感情的で、それはお互い様とは言え、機微とか間(合い)など立ち入る余地もなく、情や智云々以前の混沌(カオス)状態とも言える。 このへんについては、既に2回投稿した。ただ、簡単に要約すれば、何かと疑義の生ずること必定なのでその内容については省略する。
ここで言えることは、『日韓・アジア教育文化センター』が発足でき、20年間続けられた人(その韓国人)との出会いの幸いである。 或る在日韓国人(大韓民国民某地区団長)が私に言った。
「井嶋さんは良い韓国人と出会った」と。ここで言う良いの意味は難しいが、私の中で韓国・朝鮮の「恨」の文化―その背景にある31年間(正しくは41年間)の日本による植民地支配―が、私の心の棘となっていることが根底にあることが、より繋がりを深めているのかもしれないと思っている。
そこにあるのは、「己の欲せざるところは人に施すなかれ」である。


因みに、もう30年も前のことだが、アメリカからの、ベネズエラからの、タイからの、私の最初の勤務高校への留学生(女子で、1年間)が制作した日本語による[創作絵本]で、彼女たちが日本(人)に、何を伝えたかったのか、あらためて観て欲しいと希う。 今も彼女たちのメッセージは確実に生きている。《その絵本は、日韓・アジア教育文化センターのホームページ[http://jk-asia.net/]「活動報告」の「教育事業」で確認できます。》

かつての日本の首相吉田 茂は、「元気の秘訣は?」と聞かれ、「人を食ってるからだ」と応えたとか。
もちろんこれは、「嘲(あざけ)る、馬鹿にする」といった侮蔑的な意味はなく、彼のイギリス仕込みからのユーモア(ウイット?)である。 そのユーモアとウイットの違いは、前者は情緒的で、後者は理知的、日本語になおすと前者は「諧謔(かいぎゃく)」後者は「機知」とのこと。
とすれば、この合理と理知尊重の現代、ユーモアはウイットの下位? したがって「ダジャレ」「親爺ギャグ」は、下位の中の最下位…。 このギャグ、英語にして「gag」、漢字にして先の「諧謔」の「謔」の貴重な掛け言葉?で、私は現職中、授業でこれを発作的に連発することがあり、乙女たちの(最初の勤務校が女子校)「先生!もうやめてください!お腹が痛くて胃が飛び出しそう!」と言わしめた実績がある。
もっとも、冷めた理知高い生徒は正に侮蔑の視線で眺めていたが。

そして今、政治と歴史知らずの私は吉田 茂に敬意を表する。
もっと身近な人では誰だろう?と巡らせてみたが、出会った人でそれに近い人は何人かいるが、意中の人はいない。
「かなしみ」[悲劇]より「おかしみ」[喜劇]の難しさとの証左かもしれない。
身近ではないが、作家の田中 小実昌(1925~2000)とか俳優の小沢 昭一(1929~2012)を思い浮かべてエッセイを読んでみた。
前者は非常な真面目さが行間に漂っていて、その点後者も真面目さは変わらないのだが、日常のことを採り上げたエッセイに人を食ったおかしみを感じた。40年続いたラジオ番組『小沢昭一的こころ』(通算10355回)は何度か聴いたことはあるが、ただただ氏の軽妙洒脱、秀逸な話芸に感嘆、抱腹絶倒し、それが何によったのかは記憶がない。話芸の神髄?

「退廃」(『言わぬが花』所収)という氏の短いエッセイがあり、氏曰く「文化は爛熟の果てに退廃するものである」と書いているのだが、単語によってはカタカナを使い、腹をよじられること必定の名文。
氏が喜劇「社長シリーズ」で、中国人役で出ていたことを思い出した。フランキー堺(1929~1996)もよく出ていたし、何と言っても彼の場合『幕末太陽伝』(1957年・川島 雄三監督)[この映画で小沢は脇役で出ていた]での演技は神業的だったが、氏が写楽の研究家で、映画『写楽』の制作者でもあり、大学教授という社会的地位に就いたこともあってか、小沢昭一のあのおかしみは、どうしても浮かんで来ない。そもそも氏の文章を読んだことがない。申し訳ない。

おかしみとしての「人を食ったような」の類語、連想語として40語ほど挙げてあるものを見つけた。 その中で、私が共感同意した言葉は以下である。
【孤独・どこか哀しい・さびしげ・飄々とした・しみじみとした】
つかず離れずが、飄々淡々に通ずることの、或いは飄々淡々と在ることの奥義には、つかず離れずあり、との発見。
そう言えば、小沢昭一は酒を呑まず食べることを愛し、独り食べ物屋に行くことも多かったそうだが、俳優の哀しい定めで、行けば店主や客からあれこれ話し掛けられる災いを書いていた。 私は俳優でもテレビに顔出す人種でもないその他大勢の一人だが、氏の気持ちに共振している。
職人に憧れる若者が増えているらしい。人間(じんかん)のならい、ヒトとヒトの関わりに疲れたのだろうか。
私も妻も次の生、どうしても人ならば、職人になりたいと思っているところがある。理由は、その技の妙もあるとは思うが、先ずヒト相手に仕事をしなくて済む魅力である。
民藝運動の推進者にして、「民藝」との言葉を編み出した人、柳 宗悦(むねよし)流に言えば「無心・無想の美」。 やはり漱石は偉大だった。

学校(私の場合、職業体験からの言葉として言えるのは中学高校)の一方の主役、教師はその人と人の機微をもっと察知、演技!して欲しい、と少なからず思う。もちろん自省を込めてである。 そして、保護者も自身を振り返り、なんでもかんでも学校、要は教師に、学校に何でも委ねる発想は、子ども・生徒たちにとって二重三重のマイナスになることに気づいて欲しい。
そもそもユーモアとかウイットに必要不可欠なことは「聞き上手は話し上手・話し上手は聞き上手」ではないのか。 教師には子どもの立場、心理お構いなしの一方的饒舌家が多い。これも自省自戒である。

と書いて来た私は、長男(兄)が生後直ぐに死去し、幼少時は次男にして一人っ子で、両親離婚により小学校後半は親戚に預けられ、中学校から父と継母との生活。高校時代に妹ができ、その妹は38歳にして癌で旅立つ。異母兄妹。したがって人生の基本は長男。こういう10代から20代は、先述の考え方に何か影響するのかどうかと思い、以下の説明を知り、なるほどと思った。 私は、なかなか複雑、めんどうな?ヒトのようだ……。

第1子の性格<性格の特徴>
• 人に気を遣いがち • 神経質 • 我慢強く、主張を飲みこみがち • 面倒見が良い • 責任感が強い • 真面目で努力家ゆえに学業優秀な場合が多い • 認められたい願望が強いがゆえにハイレベルなポジション目指す場合が多い
末っ子の性格<性格の特徴>
• 圧倒的にモテる人気者 • 天性の甘え上手で依存心が強い • 喜怒哀楽が激しい • 好き嫌いが多い • わがままで自分勝手 • 要領がよく世渡りがうまい • 負けん気やチャレンジ精神が強い
1人っ子の性格<性格の特徴>
• 執着心や物欲が弱い • マイペースでのんびり屋 • 争いごとが苦手 • 好意を示されると弱い • 自分大好き人間 • 世界観が独創的 • こだわりが強い