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2019年6月20日

    [教 育 私 感 ] 33年間の中高校教師体験と 74年間の人生体験から  

井嶋 悠

                       はじめに

私の限られた経験だが、教育者は教育を語る、語り合うことを甚だ好む傾向にある。教職意識が高い(強い?)と言うことなのだろう。私も30代40代頃は、そういう意味では教育者の一人だったかと思う。しかし、公私流転の人生にあって50代後半からそれが疎ましく思うようになった。なぜなら、教育そのものが分からなくなったからである。 これでも中等教育での、国語科教育は当然のこと、他に日本語教育、国際教育としての海外・帰国子女教育、外国人子女教育、更には国際理解教育に手を染めた。ほんの一部の人々とは言え、私に良い評価を与えて下さる方もなくはない。それは今も生きる支えになっている。
しかし、私が語ると私の中で騙(かた)るに堕してしまいそうなところがある。だから?時折、居直り的に発言が激しくなることが多い。私的には本質的(ラディカル)発言と思ってはいるのだが。
例えばどんな発言(提言)かが問われるかとは思うが、以前の投稿と重なるので立ち入らない。

ただ、一つ新しい問題について触れる。 学校教育の無償化が新たな或いは更なる歪みを生みだすことは、既に指摘されている。無償化[要は家庭経済の負担減]の前に、塾産業撤廃案をなぜ打ち出さないのか。それこそ、小学校前から大学までの初等・中等・高等教育の「教育」について、また教師の在りようについて、学力観、学歴観は言わずもがな、人生観、社会観まで途方もなく大きな課題を突きつける契機となるように思えるのだが、やはり一笑に付されるだけだろうか。

高齢者運転問題で、テレビのインタビューや何かの折に知る、自身の運転或いは体力への自信等を言う高齢者。その人々を無性に腹立たしく思う同世代の、日常的に運転しなければ生活できない地域に住んでいる私の心の自然な動きなのか、教育について整理する時機が来ていると思うようになった。 33年間と74年間の体験からの私の言葉として。このブログ投稿の基底にある自照自省。
その時、私の脳裏を過ぎった言葉(キーワード)は「屈折」である。 その屈折、意味、用法から三つに分類されるとのこと。以下それを引用する。
① 相手に対する感情が複雑に入り混じっているさま[例語:愛憎ないまぜの]
② 性格が素直でなくいじけているさま[例語:素直でない、へそ曲がり]
③ 考え方などが偏っていたり狭かったりすること[例語:偏狭な、料簡が狭い]

何年か前のこと、旧知の方とただ漫然とした会話をしていたとき、その方が「どうしてそんなに屈折してるの?!」と笑顔で切り裂いて来た。そこでは、この人とはもう会うことはないなと思った私がいたが反論する私でなく、どこか同意する私がいた。そして、今も相当な力で心の、頭の中に留まっている。正に屈折?
なぜ同意できたのか。生まれ持った要素(井嶋親族で共通する要素との意味も含め)として直覚したのかもしれない。しかし、今改めて思うに“私”と言う人生がその要素を培ったと言えるのではないか。 先の分類に従えば、その方の私への用法は、三つの意味が微妙に重なっているように思える。「ように思える」では落ち着きが悪過ぎる。
そこで、20代後半に高校時代の恩師により教職に導かれた一人として、教育観に翳を落した或いは逆に陽を当てた、と私が思う、幼少時からの「事実」を客観的に振り返ってみることにした。 良いとか悪いと言った善悪単純二分法ではなく、そもそも人間は屈折の動物とさえ思うからこそ幼子(おさなご)を慈しむし、多くの動物を愛おしむと考えている、そんな「私」の屈折を炙り出してみたい。 そのことで、家庭であれ、学校であれ、私の「教育」感(観)が視えて来る、そんな期待を寄せて。

教 育 私 感
33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から
Ⅰ 初等教育[時代]

小学校前半までは、京都・賀茂川の近くで、虫採り、魚採り等遊びの天才だった向かいの中学生を英雄視し、彼を真似た痛快な思い出が幾つもある、昔ならどこにでもいた一人である。ただ、違ったのは、小学校入学前後から父親の地方赴任に伴う母子家庭だった。母親は純粋な人だったが、家庭的なことが全くと言っていいほどに駄目でいつも心は外に向いていた。そのことによる私の心の隙間を埋めてくださったのは、近所に住む伯父(父の兄)伯母と6歳年上の従姉妹であった。

大人事情は世の常とは言え、後に分かることだが、父母の離婚話が進行中のこともあって、小学校後半時から東京の伯父伯母(父の姉)宅に預けられた。伯父の社会的地位によるのだろう、その家は邸宅(おやしき)と言うにふさわしく、お手伝いさん夫婦が住み込んでいた。 母は結婚前の職種、看護婦となり、関東の地で独り生活を始めた。母への慕情が募り始めたとの記憶はない。ただ、何かぎくしゃくしたような不自然なものがあったように記憶の片隅にある。

伯母の能楽[主に小鼓]や茶道(茶室があった)への傾倒も手伝ってか、伯父の関係者、能楽関係者等々、それも30代から40代の人たちの出入りが非常に多かったが、子どもは私一人だった。伯父伯母に子どもはなかった。時に月に何度もその人たちによる夕食の会が行われ、活気を呈する家だったが、お手伝いさんの心遣いもあって、独り夕食を台所でとることもしばしばであった。しかし、寂しいとの心情はなく、こんなものだと思っていたのだろう。
庭も広く、また当時まだ普及していなかったテレビもあり、小学校の同窓生もそれらがあってしばしば遊びに来ていたが、私の中ではほとんど記憶が残っていない。
ただ、伯父方の親戚家族が時折来て、その中で幼少の男の子二人、特に兄の方、の子守的なことをしたのは、懐かしい思い出として今もある。

私の中では、どちらかと言うと大人社会にいた3年間のような印象が強い。 その象徴的事件?に、泥酔と二日酔いの小学校5年生(11歳時分)での体験がある。先述の大人たちの夕食会で、酒を大いに勧められ、嬉々として?受け容れた結果である。大人たちからすればかっこうのおもちゃがごとき相手だったのだろう。その時も、お手伝いさんが苦笑しながら介抱してくれた様子が薄っすらと残っている。

そういった酒食の会では、男女の性の話題も多く、或る時、その人たちが話題にしていた単語の意味が分からず素朴に質問したところ、場を一瞬凍らせたことが今も残っている。しかし、今日の小学校での或いは広く学校での「性教育」の現状ではお笑いぐさであろう。
森 鷗外の、自身の6歳からドイツに留学する21歳までの性に係る経験を描いた『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で性欲的生活の意・47歳時執筆発行)では、6歳から12歳の間にあって、既に幾つか兆しを直覚していて、私がいかに奥手か、また感受性に乏しかったが分かる。
このことは、ここ年々、人生最大の難題であり、本質的問題は「性」ではないか、と老いと共に性に対し時に嫌悪感さえ抱くこともある複雑さを持ち始めた私の、遅さにつながっているように思える。
鷗外は先の著の最後の方で「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。」と記しているが、以下の老人男女のことは正にその現実なのかもしれない。
老人介護施設職員の談話で、80代と90代の男女が、下半身を露出してベッドに在った旨聞いたときの、私の途方もない衝撃、驚愕。

この晩熟(おくて)は、3年間と言う限られた中とはいえ、血気盛んな大人たちと、それも開放的な夜の時間にいたことがかえってそうしたとも思ったりもするが、やはり個人生来のゆえなのかもしれない。
自身の生来と後の周囲の環境によるこの自覚は、現在の年少者への性教育について必要との理屈(説明)は理解できるのだが、今もって違和感がある。私の「理解」と言う理屈(論理)の言葉の一つ。
保守性のあらわれ?とは言え、性教育推進者が革新的とも思わないが。 併せて、中学校に進学して一層重い課題となるジェンダー教育の端緒は、今どのように意識して為されているのだろうか。

転校した小学校は、東京都大田区内の分校的な小規模校であった。一学年25人×2クラスの50人ほど。 発する言葉の音調は、当然京都弁。今から60年余り前のこと。
今様に関西弁(特に大坂弁或いは河内弁?)が、広く認知されていない時代、子どもたちにとって不思議で、可笑しな響きに聞こえたのだろう。 イジメではないが、他意のないからかい、笑いの対象になることもあった。
そこで、クラス担任の女性のM先生の放課後東京音調補習がなされることとなった。私の東京弁学習。小規模校ならではの補習?
因みに、私の発する日本語は、その特訓に加えて、20代の2年間の東京放浪生活と国語科教育での読み、話すでの共通語(標準語)指導が加わって、時に聞く人にとって奇妙な日本語となっている。

すべての人々の生活語は方言、と言っても未だに東京弁=共通語(標準語)社会の日本にあって、だからこそ生活と生と言葉での方言の魅力は誰も否めない。それも読むことより聞くことに於いて。(読むのは至難である)
海外・帰国子女教育に係わる中で知った「言語臨界説」、11歳前後でその人の生涯の主言語(第1言語)が決まるとの説に立てば、私の日本語はあの小学校での環境、補習が方向性を決めた、とも言えなくはない。もちろんこれはM先生を非難しているのではない。
その延長上と言うのもおかしな、或いは甚だ偏見に満ちた勝手なことなのだが、男性が話す大阪弁(広く関西弁)は、私の中での特別な人〈例えば、上方歌舞伎俳優や笑福亭 仁鶴氏レベルの落語家、また私が敬意を表する人たち〉を除いて、印象が良くない、少なくとも心地良さはない。
一方で、谷崎 潤一郎の『細雪』の姉妹の会話の言葉は鮮烈で、実に美しいと思った。

尚、この時代に塾は在ったのかどうかと言うほどの存在で、当然のことながら行ってなかった。ただ、稽古事(京都時代、ピアノとバイオリンを習っていた)は、転校で途切れた。これは父母と伯父伯母との考え方の相違のようで、後に憂き世日々の中にあっていかに音楽が大きな力を持つかを実感することになるに及び、残念な気持ちが湧いた。それは今もある。

小学校、次項に記す中学校教育での。英語教育〔個人的には狂(・)育の感さえある〕等“主要”5教科教育との表現での主要の呪縛から脱け出し、音楽教育は言うにおよばず、美術教育、書道教育、保健体育教育、技術家庭教育の充実を強く願う。人生と言う巨大な時間の滋養の土壌として。これは思春期前期の中学校に進学するに及んでますます重要性が問われることになる。 その意味でも、少子化、高齢化は時機を得ていると常々確信している。学校制度の一大改革である。

2019年6月10日

30年前、彼女たちが日本に伝えたかったこと――3人の高校留学生の創作絵本――

井嶋 悠

子どもであれ、大人であれ、自身の宝物を、唯一無二或いは幾つかの唯一無二、持っている人は多い。私のその一人で、その一つが現職中[私立K女学院高等部]に、高校留学生[公的仲介機関から指定された留学生で1年間2年次に在籍]への日本語指導の機会を得、制作した、彼女たちの創作絵本である。 学校の了解を得て、現在、その原本を私が保管している。これが私の宝物の一つである。

絵本創作の環境は以下である。
留学当初に本人の意思、意向を確認し、了解を得、留学終了2か月くらい前から創作に入る。 物語(ストーリー)も描画も創作とし、本文は日本語で、自身の母語の挿入は自由とする。 私の役目は、材料の調達、日本語への助言また同窓生での協力者が必要な場合、その探索と依頼である。 最初に試みたのは1982年のことである。未完もあるが、5年間実施した。

今回、その最初の絵本と、次年度の絵本を採り上げ、表題に係る私見を記すことにする。 尚、これら作品群《上記2作品及びもう1作品の3作品》は、このブログが掲載されている『日韓・アジア教育文化センター』のホームページ[http://jk-asia.net/]の一部門[活動報告]の「教育事業」で、スライド形式で確認することができる。 ただ、文字部分で不鮮明な個所もあり、この機会に内容を再確認できる幸いも思っている。

紹介する二作品の概要。
① 『動物たちのゆめ』1982年 
             アメリカからの留学生 文:ベブ・ケンプ/
                            絵:スーザン・オライリー

② 『きっと どっかに』1983年  
                  ベネズエラからの留学生と
       ベネズエラからの帰国生徒             
                文・描画  エミリア・マス  (協力)金田 摂子
       (この作品は、日本語とスペイン語の併記)

以下、両作品の【物語文(日本語)】と【私見等補足】を記す。
尚、私見等補足では、日本語教育関係者にとっては、幾つか気に掛かることも多いかとは思うが、主にその領域以外での私見を記す。

【物語文本文】(日本語)、数字はページ番号。

 『動物たちのゆめ』
1、 表紙
2、 日本の町の動物たちが住んでいました。犬とねことねずみとうさぎとせきせいいんこがいました。動物たちは自分のゆめを持っていました。皆動物たちはちょっとふまんがありました。
3、 犬はとても小さな家に住んでいました。毎日毎日同じでつまらないです。いつも五時五十分におきます。六時十分に朝食を食べます。五分さんぽに行きます。そしてさんぽを終わったら二メートルくらいの犬小屋へはいります。 夜の六時十分にまた食べます。そして七時ごろねます。一日中毎日同じです。だからおもしろい所へ行きたいです。走る事とかほうぼくとかしたいです。それができたらほんとにうれしくなります。
4、 ねこは毎日お米と古い魚食べていました。ぼくじょうに行きたいです。そして一日牛乳飲みたいです。
5、 ねずみは小さな家に住んでいました。その小さな家のすみからすみまで知っていました。だから大きな家に住めればおもしろいなあと思っていました。 6、 うさぎはいつも草を食べていました。とてもまずいです。大きいやさいばたけへ行きたいです。
7、 せきせいいんこはいつもかごの中にいます。皆は外にいます。だからせきせいいんこも外でとびたいです。
8、 ふねで動物たちは会いました。動物たちはとてもびっくりしました、皆はひとりでアメリカへ行くと思っていました。でも皆いっしょです。だからひとりぼっちではありません。乗ったふねはアメリカへ行きました。
9、 二しゅう間かかってアメリカにつきました。でもアメリカは日本で日本で思った国とはちがいました。
10、 犬は仕事があります。広いからたいへんしんどいです。そしてもし仕事ができなければ食事がもらえせん。犬はこんなにたいへんとは思いませんでした。
11、 ねこも仕事があります。ねずみと虫を取る事です。アメリカのねこはいつもそうします。もしいっぱいねずみを取ればたくさん牛乳もらえます。でもねことねずみが仲よしになったらもらえません。
12、 ねずみは大きい家に住む事ができますけれど嬉しくないです。なぜなら虫しかくもしかいろんな気持ちわるい虫がいっぱいいました。だからねずみはこの家に住みたくないです。
13、 うさぎはやさいばたけに住む事ができました。たくさんやさいが食べられました。でもうさぎのやさいばたけではありません。のうふはすごく怒りました。なぜならうさぎはのうふのやさいを食べてしまいました。
14、 せきせいいんこは今かごの中にいません。でも不孝です。なぜなら外はとても寒いです。それから食べ物をさがす事がむづかしいのでいつもおなかが空いていました。せきせいいんこはたいへんさびしかったです。せきせいいんこはかごの中のほうがいいと思っています。
15、 動物たちは皆日本へ帰りたいと思いました。アメリカはたいへんですから。たとえば食べ物がさがしにくいとか寒いとか虫が多いですから。だから帰りたいです。皆は同じふねで日本へ帰りました。
16、 動物たちはアメリカから帰って来ました。皆喜びました。動物たちの仲はとてもよかったです。

【私見・補足】
そもそもアメリカは、国内に時差があるほどに広大な国である。或る知人が数十年前、アメリカ中央部の田舎に行った時、そこの老人は太平洋戦争(第2次世界大戦)を知らなかったとのこと。 留学生の彼女たちもしきりに言っていた。ねずみでもとにかく大きい。家も大きいが、空き部屋或いは放置した部屋が幾つもあって、その分、不快生物も多い、と。 人間もモノもとにかく大きいとのイメージは概ね共通しているのではないか。そして彼女たちは、その母国イメージを基に物語を組み立てている。
一方、彼女たちの知った日本(日本に初めて来て数か月・生活場所は阪神間)の印象は街並みの狭小さや雑多さであり、そこで生きる(或いは飼われている)動物たちの境遇への彼女たちの視点である。
彼女たちはその対比を、動物たちのアメリカでの夢実現を通して、母国アメリカと外国(在留国)日本を見ている。 難しく言えば、個の確立と義務と権利。アメリカの合理と厳しさ。日本の曖昧さからの温もり。
もちろん彼女たちの日本へのリップサービスもあるかもしれない。しかし、生まれ育った国について、このように観るアメリカ人もいることを、その善し悪しではなく、伝え、日本に、自身たちの母国アメリカについて思い巡らせることを促しているように思える。
彼女たちは現在50代である。今の日米関係について、また日本のアメリカ化について、どう思っているか、関心が向くが確認する方法はない。何年か前、仲介の機関〔AFS〕や当時の勤務校等に連絡してみたが、分からずじまいだった。

上記以外にもう一つ、思い知らされたことは、描画者の描画(デッサン)力である。 その素晴らしさに感嘆していたが、美術系大学を卒業した旧知の人の言によれば、これこそ欧米の美術教育の優れた一つの面で、少なからぬ子どもたちがこの程度(レベル)の描画力を持っているとのこと。 そうならば、なぜこのような差が生まれているのか、学校教育全体からも考えなくてはいけないことではないか。このことは、次の作品についても言えることである。  

『きっと どっかに』
1、 表紙
2、 平和は宇宙のかなたに去ってしまいました。もう誰も戦争がいつ、そしてなぜ始まったのかも知りません。そしていつ終るのかも・・・・・
3、 大人達が始めた、大人達の憎しみ合い。その中で生まれた世界中の子供達は平和の来る日を待っていました。
4、 一人の日本の子が鶴に乗って飛び立ちました。アフリカにはきっと平和があるだろうと。その子はアフリカの子に今まで見たことのない美しい桜を手渡しました。
5、 二人はいろんな動物をひきつれて南アメリカに向って、いかだの帆を一杯に張りました。南アメリカには、きっと平和があるだろうと。
6、 二人は南アメリカの子に果物をたくさんもらいました。そして三人は亀とかたつむりに乗って北アメリカに行きました。北アメリカにはきっと平和があるだろうと。
7、 畑で野菜をつくっている北アメリカの子に種をもらいました。そして四人はスキーでヨーロッパに入りました。ヨーロッパにはきっと平和があるだろうと。 8、 陽気なスペインの子は家畜の育て方を教えてくれました。牛と羊とにわとりをつれて五人は進みました。きっとどこかに平和があるだろうと。
9、 五人は一生懸命穴を掘りました。その先から頭を出すと、そこには平和な島がありました。
10、 五人は世界に向かって「仲良くしよう!」と叫びました。
11、 子供達の小さな力で世界がだんだん一つになりました。
12、 今日では地球は平和な星になりました。

【私見・補足】
先日、ベネズエラの第2の都市マラカイボの惨状[3か月に及ぶ停電、経済政策の失敗による食糧難等で骨と皮だけでベッドの横たわる人]報道に接し、作者エミリア・マスのことを改めて思い起こした。
彼女は今50代になっているはずだが、先のアメリカからの留学生同様、快活で、理知的な女性であった。 彼女は首都カラカスから来ていたが、今、どうしているのだろう? 彼女は、帰国近くなって我が家に遊びに来て、妻と私に言っていた。「帰国したくない。ベネズエラでは18歳になると結婚させられるから。」「どうするの?」「帰ったらヨーロッパに留学しようと思っている。」といったやり取りを、私たちは鮮明に覚えている。
南アメリカ大陸の北端、北東部はカリブ海に面するが、4カ国と隣接する、ベネズエラの歴史は四方海で囲まれた日本の比ではない。 16世紀のスペイン植民地時代に始まり、独立戦争を経て19世紀の独立、その後の内戦と軍事独裁時代、度重なるクーデター、暴動……。
つい最近までの歴史概要に眼を通してみたが、あれこれあり過ぎて、老いの脳力では到底ついていけないほどに変化し、常時と言っていいほどに問題を抱えている。 世界第3位の産油量で、一時は経済大国ともなるが、石油価格の下落や失政と混乱で、今では貧困国家となり難民も多く出ているとのこと。

彼女の10代、1980年前後は、先の石油での潤いの一方、貧富格差問題、政治の腐敗等で、混乱の時代でもあった。 それらを肌で直覚していた人物が、『きっと どっかに』(この「どっか」は、本文では「どこか」とし、口語話し言葉と書き言葉を使い分けている)と平和を、世界の視点から希求するとき、その着想、展開等、成立への背景を私たちは素直に読み取れるのではないか。
と併せて、カリブ海に面した南国人の鮮やかな色彩感覚にも得心すると思う。 これに関して懐かしい思い出を一つ。
3ページの絵で暗い雰囲気を出すためどうしたものか困っていて、私が黒灰色で背景を塗ってしまえば、と安直に言った時の彼女の、また帰国生徒の驚きと困惑の表情は未だに残っている。したがってこの絵本で、3ページの黒灰色背景だけは、彼女たち、とりわけエミリアには甚だ不本意なことになっている。

主人公は、留学先の日本の少女だが、彼女を和装姿で、おかっぱ頭、それに鶴との飛行、メッセージを手渡す枝を桜とすることで、作者が日本への期待を大きく持っている、と考えるのは、現代日本に疑問の多い私の余りの牽強付会にして我田引水か、もしくは非現実的日本観でしないだろうか。   
また、作者は、地球上のどこかとせず、穴を掘って或る島に辿り着く発想で物語を締めくくるが、これは日本を含め理想郷はないとの思いの、彼女の母国の苦難がそうさせているのかもしれない。
それは5世紀の中国の詩人・陶 淵明の『桃花源記』、すなわち「桃源郷」に相通ずることとして、彼女は地球上で地球上ではない或る場所を設定し、子ども達による平和世界の実現に想い馳せたのだろう。
尚、桃源郷は英語のユートピア、彼女の母語であるスペイン語のエルドラド等と話される場合もあるが、それぞれ背景、内容で違った要素が多いので、このことには立ち入らない。   

この外国人留学生による創作絵本の時間は。教育が国境、異文化また世代を越えて「教え、育む」と、同時に「教えられ、育まれる」ことを改めて思い知らされ、私の掛け替えのない宝物となっている。   

2019年6月2日

「跡」に想う

井嶋 悠

日本の一大転換期、鎌倉時代に書かれた軍記物語『平家物語』の冒頭部分は、現18歳以上のほとんどの国民が知っている名調子である。
私自身、教えている時でさえいささかの観念的理解でしかなかったと思うが、歳を重ね、様々な人々と出会い、森羅万象のほんの一端を知り、冒頭文にある中国と日本の歴史上人物について誰一人知らなくとも、しみじみと、しかも重く、深く心に沁(し)み込んで来るものがある。
中高校時代の「知る」ことと、加齢を経て「味わう」ことを思えば、“教科書を学ぶ”も“教科書で学ぶ”もそれぞれに一理あることが視えて来る。

その冒頭部は以下である。

「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇(せんおう)の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌(いさめ)をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣淸盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」

「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。」
生々流転、無常の世、日々刻々の自己を謙虚に受け止め生きること、その至難さを切々と知らされる。
「人生100年時代」とかで、相も変らぬ能天気さで喧伝する政治家、それに追従するマスコミに、苛立てば苛立つほど、虚しさ症候群は悪化の一途をたどるではないか。閑話休題。

これまた高校で必ずと言っていいほどに見る松尾 芭蕉『奥の細道』の一節。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。(中略)泰衡等が旧跡は衣が関隔てて南部口をさし堅め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。―国破れて山河あり、城春にして草青みたり―と、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡 」

 注:「大門の跡」;毛(もう)越寺(つうじ)の南大門(正門)のことか。   
  :―  ―の部分、杜甫の五言律詩『春望』の冒頭   
  :「笠打ち敷きて……侍りぬ」(口語);笠を敷いて座り、いつまでも懐旧の涙にくれていた。

芭蕉は、江戸時代に弟子の曽良と、徒歩で出掛けたが、私は、令和時代に妻と、高速道路を利用して車で、毛越寺と中尊寺に出かけた。
世界遺産登録で混雑も予想されたが、平日だったこともあって、思いのほか静かであった。
毛越寺境内に茶店があり、五月の爽やかな風を受けながら、もりそばを食した。腰のあるそばで、香りをほのかに残し、江戸っ子の「そばは飲み物」と言う妻も満足げであった。30代とおぼしき夫婦二人で店を切り盛りしているようで、二人とも口数少なくもの静かで、一層心和むひとときが過ごせた。 ふと、数十年後のこの夫婦の図を、私たち40年間の夫婦姿と重ね思い浮かべながら。心洗われる時間。

毛越寺は9世紀の僧・慈覚大師[円仁]が開山とのこと。寺の栞には境内の見どころとして、先の芭蕉の句[句碑]も含め17か所が記載されている。 内7か所は[跡]で、背丈10㎝ほどの叢に、それぞれの建物の礎石が見える。 何気なく見ているうちに或る感慨に襲われた。
「もし、多くがそのまま(は難しいかとは思うが)或いは再建されて目前にあったらどうだろう?」と。 それはそれで感動が起こるのだろうが、跡を見つめることで想い巡らされる、「講堂」を出入りする僧侶たち、「南大門」を行き来する人々、子どもたち、店や家々を想像することの快に思い及ぶ。 現在の時を離れて、跡でない時代のどこかに、3人称入り込んでいる私。フラッシュバックするかのように巡る人々の姿、貌そしてその人たちの生。

芭蕉は、中尊寺で藤原家の「兵」の「夢の跡」を見、杜甫は安禄山の戦いでの家族との離別に、悠久の自然と時間を対比することで涙した。
しかし、私は勝手に思い巡らせた人々の生を、[哀しみ]と[愛(かな)しみ]をないまぜ眺め、自身に立ち返る、そんな偶然の時を得た。無常観をここで言うつもりはない。
以前にも引用した、吉田兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」ではないが、それにも通ずる(と思う)、栄枯盛衰、もの・ことがいついかなる時であれ、すべてに在る美と真への想い。その想いへの眼差しが焙(あぶ)り出すその人の生き方、歴史への見方。と自身を措いて頭を巡る。
芭蕉が、杜甫が涙したそれとは違う感情。すべての人に名があるが“無名”と言われる人々への慈しみからの涙に近い情愛と自省に浸った私。

木材を切り出し、石を掘り出し、運び、建築家の指導を得、僧侶や武家たちとの協働で創られて行く寺院に最も間近に勤しむ市井の人々。それを支えた信仰と人々の信頼関係。その美しい時空を思い浮べる。 実際はどうだったのだろうか。
奈良時代、文化の栄華が咲き誇った。それにどんな人々が、どれほどに、莫大な時間を費やしたのだろうか。
信仰を基底に、天皇への絶対的崇拝と信頼があってこその東大寺大仏殿であり、法隆寺であり……。一方で知らされる、山上 憶良が表わした『貧窮問答歌』での市井の人々の姿。また防人の哀しみ。
身分、階級、階層を越えた途方もない数の人々の一大協働(ハーモニー)としての文化。

ここ数年来、世界文化遺産とか日本文化遺産とかが賑やかに報道される。過程があっての結果、無名があっての有名、と重々承知していてもついつい結果に、有名に眼が向いてしまう私。
「一将功成りて万骨枯る」の遺産であっては文化に値しない。
私は現職時代数校で、それぞれ「将」も「功」もことわざに出るほどの大きさはないが、直接に、間接にこの先人の言葉を身近に接し、学校文化をその面から知らされた。公私立の違いとは全く関係なく。

私が今生活する那須の原では、明治時代の元勲貴族たちの功として、疏水の開拓や洋風の館(やかた)群が、日本文化遺産として登録された由。結果としてのそれらに眼を奪われるだけでなく、この機会に、元勲たちへの敬意と同時に、地を掘り、山から水を引き、大地を潤わせ、豊かな農作を実現した、その現場の人々に想い及ぼしたいと願う。

高校時代、或る先生が授業(先生が誰か曖昧で、何の授業であったか覚えていない失礼なことなのだが)の関連でこんなことを言われた。55年以上前のことながら鮮明に私の中に残っている。ただ残っているだけであるが。
――或る建築家が、随行者たちと鉄道での旅の途次、鉄橋を渡った折、こう言ったそうだ。「この鉄橋は僕[私]がつくったんです」と。随行者たちは感嘆したそうな。しかし、この建築家にはその後、仕事の依頼が来なくなった。――

慈覚大師が、開山、再興した寺院は、関東地方に209寺、東北地方に331余りの寺に及ぶと言う。恐らく大師への帰依、心からの信頼感と大師の人柄が、人々にそうすることを求めさせたのだと思う。(大師は唐での数年間の苦難等、多くの難儀を経た高僧であったが、温厚な人柄であった旨伝えられている。)

一方、中尊寺はどうなのか。 岩手平泉の地に、砂金と北方貿易で栄耀栄華を極めた藤原家。それを象徴する金色堂。 中尊寺は、藤原 清衡が合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために大伽藍を造営した、と中尊寺の栞にある。 また、「判官びいき」との言葉まで生み、日本人から愛され続けている源 義経。その義経を兄・頼朝から守った三代藤原秀衡の死後、子息四代藤原泰衡は守り切れず、藤原家滅亡に向かわせた、その歴史を思えば、藤原家の人々と臣下と市井の人々の絆は篤かったであろうことが推測される。
しかし、復元された金色堂等、或る感銘はもちろんあるが、毛越寺で沁み入ったものが湧き出で来なかった。それは、今日的観光繁栄に圧倒されたからかもしれない。 当時の武家の、時に凄惨とさえ思える生き様に触れ、その世界に生きた武家たちの苦渋、忍耐、克己に思い及ばすことなく、ただ私には到底できないと逃げ込み、市井の幸いを思うだけであった。

今日、日本との限られた枠組みではなく、世界はカネ・モノ文明を邁進している。だからなおのこと、教育への明確な眼差しが求められている。
「個の教育」「一人一人の個を大切に育てる」。このことを否定する人はいない。しかし、果たして今、それはどうであろうか。
例えば、英語教育が言われれば、それまでにあった他の時間を削り、英語教育に向かわせ、小学校で昼食時間を15分か20分で議論すると言うとんでもないことを聞く。何のためにそれをするのか。時代に乗り遅れて経営難に陥らないために……。
あれほど期待された「横断的総合的学習」は疾うに消え去り、学習の大半を塾に頼り(思考力、表現力をみたいとのことで、これまで以上に作文表現、発話表現が求められる入試が果たされつつあるが、どれほどの学校が自前で対応できているのだろうか)、結果がすべてでひたすら時を削って行く。
そうかと思えば、子どもや若者を受け容れる側の学校や会社等の大人たちは彼ら彼女らの想像力の欠如を嘆き、基礎学力についての侃々諤々(かんかんがくがく)は今も続いている。そして世は少子化、高齢化である。

中尊寺で見かけた中学校修学旅行とおぼしき生徒たちの忙しいこと忙しいこと。不登校等で参加しなかった生徒たちもあるかもしれない。イジメを受けている生徒たちもいるかもしれない。出会った生徒たちの中に、そういった生徒に思い巡らせている生徒たちもあるかもしれない。しかし、弾ける笑い声。 中尊寺、金色堂までは、上りの坂道を20分ほど歩くのだが、随所に売店、ご朱印授かり所がある。
私などそのことを知らず、金色堂等目的地に向かい、ご朱印は帰路としていたから良かったものの、正直に初めからしていれば7,8か所になっていただろう。弁慶堂とか、薬師如来とか少し変えてあるだけで、すべては中尊寺である。だから一枚で良いとも言える。一枚300円×1か300円×7か8。えらい違いだ。 先の中学生たちの中に、本堂へ行く随分手前の売店で、早々に何かおみやげらしきものを買っていたが、大丈夫だったかしらん?それとも誰かを想い、いの一番に購入したのだろうか。

毛越寺と中尊寺への小旅行。思いもかけず、毛越寺の「跡」が、私にあらためて想う心地良さと重さを教えたように思える。

2018年12月14日

雪 螢 ―俳句再発見・再学習― Ⅰ

井嶋 悠

雪螢とは綿虫のこと。雪虫とも言うとのこと。綿虫が科学的には正しいのかもしれない。しかし、響きはもちろん雪螢が美しい。学名はトドノネオワタムシ。

11月末の午後、庭先で純白の綿毛のようなものを抱えた虫が数匹、飛行範囲は半径1,2メートルほど、私の背程の高さの空(くう)を幽かに舞っていた。
毎年、晩秋となると見ていたことを思い出したが、今年は違った。時は瞬く内に過ぎ去ると実感するのが人の常だが、一年はやはり一年だった。一年=365日×24時間×60分×60秒……。私もどこかで、なにかがあって、変容していたのだろう。思い当たる節はないこともないが。

思わず手に取った。身の丈5ミリあるかないか。黒の縁取りの透明な翅に薄っすらと黒いたて筋が何本か走り、黒くくりくりした輝きのある両の眼。腹に綿毛を抱えて。しばらく掌(てのひら)に止まっていたが、また静かに飛び立った。幽寂な中での幽意の時間。
ほんとうに“別世界”あの世が在って、そこにほんとうに閻魔大王が居て、審問を受け、記憶している限りのすべての己が善悪を申したて、我が懺悔が受け入れられ、来世の希望を生命(いのち)あるものでとの限定で聞かれたら、願わくばこの雪螢になれれば、との思いが一刻(いっとき)に通り抜けた。

ひょっとしてと思い、歳時記を見てみた。冬の季語。初雪近くなると北日本で見かけるとある。幾つか俳句が並べてあった。心に懸った二句を挙げる。

[綿虫や そこは屍(かばね)の 出でゆく門] 石田 波郷

[綿虫を 齢(よわい)の中に みつゝあり]  能村 登四郎

俳句を嗜む方々への大いなる失礼を一顧だにせず「雪蛍」で俳句をものしてみた。「静穏の 齢(よわい)噛みしめ 雪蛍」

俳句を、国際化時代の世界にあって世界に誇れる日本文学であるとか、欧米に知らしめた人は明治時代のラフカディオ・ハーン(小泉 八雲)であるとか、西洋の小学校等で自身の母語による俳句創作学習に採り入れているとか、はたまた五音七音は日本人のDNAに組み込まれているとか、聞き、なるほどとは思っていたが、今回は雪螢が縁で、思わぬ方向に私を導いてくれたようだ。

最近、二つの句が頭を過ぎることが、間々ある。

一つは、【咳をしても一人】 尾崎 放哉

一つは、【旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る】 松尾 芭蕉

前者の、咳―も―一人
後者の、旅―夢―枯野―かけ廻る

両句の言葉の重なりから迫り来る、人が人であることの、自身を照射しての、孤独の激烈な自覚。激情を覆う静寂。詩人の詩人たる由縁。
この機会に、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の今の齢での私的「予習」を試み、明日の私につなげられたらと思い、投稿することにした。
採り上げるのは、松尾 芭蕉。与謝 蕪村。小林 一茶。自由律俳句。から数句。
Ⅰ、は松尾 芭蕉。

松尾 芭蕉(1644~1694)

老若不問で“国民的俳句は?と問えば、第1位に予想されるのが、
【古池や 蛙飛びこむ 水のをと】はなかろうか。芭蕉43歳の句である。

この句、初案は「飛んだる」だったとか。それを読んだとき軽やかさがあって、これも良いのではと思ったが、近代の俳人で国文学研究者の加藤 楸邨(しゅうそん)(1905~1933)が言うには、「言い方の芸に過ぎない浅い芸で、改案(飛びこむ)は深層の揺らぎそのものを言い表している」とのこと。確かに。
己が軽薄、凡俗さを今更ながら思い知った次第。

「をと(音)」に関連し、かつての授業で「蛙の大きさは?」「数は何匹か」、とその理由共々聞いたことがある。あれこれ意見が出て、最終的に「トノサマガエル」くらいの大きさで、一匹であることにほぼ全員得心していた。
その時、アメリカからの帰国子女が「アメリカでは日本にはいないような大きな蛙で、その跳ぶ距離を競う遊びがあった」と言ったところ、その蛙が古池に飛びこんだらきっとドボーンだ、となって大きな笑いが起こった。生徒たちは、自ずと静寂の日本的美を味わっていたのであろう。
因みに、英訳されたこの句を見た時、蛙が複数形のものもあった旨紹介すると、生徒たちの多数は一匹を良しとしていた。難しい言葉で言えば、清閑の直覚であろう。

かてて加えて、芭蕉がこの句を発した時、古来日本では蛙の鳴き声は多くの歌や句に登場するが、飛ぶ動作の視点で扱ったのは芭蕉が初めてで、そこに居た俳人たちが感嘆した旨伝えたところ、先の音と併せて日本人の感性を自身の内に垣間見る機会になったようだ。

このような旧体験を統合することで、研究者の解説「閑寂枯淡の風趣」「蕉風開眼の句」との言葉が、今、改めて静かに心に沈んで行く。
こんな授業をしたらこの句だけで一時間[50分]となりそうだ。やはり国民的句なのであろう。
とは言え、受験進学意識の高い(強い?)生徒、学校では、「ここは大学ではないっ!」との顰蹙(ひんしゅく)が予想されるが。

中高大或いは高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学)はあるが、どこまでタテの意思疎通と目標の共有が為されているか、多くは疑問で、今もそうならこの少子化時代、もったいないことである。

【石山の 石より白し 秋の風】
『奥の細道』所収 北陸の山中温泉へ向かう途次 那(な)谷寺(たじ)にて

私が初めてソウルを訪ねたのは、30年近く前の秋だった。ソウル市庁の近くのホテルに逗留し、近辺の大通りに立って市の北側にそびえる山を見た時、ふとこの句が浮かんだ。
山の名を「北漢山(プカンサン)」と言い、市内を流れる大河「漢(ハン)江(ガン)」の北側にあるところからこのような名称がつけられたとか。この山は幾つかの峰で構成され、一帯は国立公園で、市民の、また観光客の憩いの場所として多くの人が訪れている。
標高836mで決して高い山ではないが、14世紀に建てられた王宮景(キョン)福宮(ボックン)の後景にそびえることもあってか、見る者に迫り来る威容感のある、花崗岩(御影石)の山で、山肌が随所に見える。
その日は晴天で、郊外の田舎道の路傍には私の大好きなコスモスが溢れ咲き、秋風は爽やかな透明感を漂わせていた。ソウルに都を設けた理由として、北からの異民族侵攻の自然防塞としての北漢山、漢江を中心にした生活基盤との考えがあった、と以前読んだことがある。

そんな静やかな光景に在れば、誰しも、日本が1910年、南から侵攻し、中国を源とする「風水」思想を踏みにじり、景福宮に日本総督府を設営し、36年間の植民地支配を行った事実が脳裏をかすめるのではないだろうか。

芭蕉は加賀の国で白い秋の風を想い、私は異国ソウルで芭蕉の句を想い巡らせたのだが、当時『日韓・アジア教育文化センター』への端緒となることなど、誰が想像し得ただろうか。
日本側で、設立を支援くださった某学校法人理事長はすでに世を去られ、韓国側の主な推進者であった日本語教師たちの何人かは定年後の生活を過ごされている。時の無常と無情に思い到る。しかし、今も活動に献身くださっている方々もある。出会いの幸いと継続の喜び。
これなら30分くらいで、授業は終えられるであろうか。

「白」は黒とともに神秘性の強い色である。『常用字解』(白川 静)によれば白骨化した頭蓋骨を表わす象形文字とのこと。霊的なもの、霊性を思ったりする。その白を表わした芭蕉のやはり心に刻まれた名三句を挙げる。

【海くれて 鴨のこゑ ほのかに白し】

【明(あけ)ぼのや しら魚しろき こと一寸】

【葱(ねぎ)白く 洗ひたてたる さむさ哉】

妙味溢れる美の世界に導かれる。

 

【一家(ひとついえ)に 遊女もねたり 萩と月】
『奥の細道』越後・親知らず(親不知)の海岸にて

芭蕉はユーモアも解する情の人だったとか。
この句は、実際にあったことではなく芭蕉の虚構の句だそうだが、仮にそうとしても、芭蕉のほのぼのとした人柄が偲ばれる句であると、私は思う。そして、萩と月(両語とも秋の季語)が、遊女と芭蕉の存在を際立たせているように思える。
このことは、この句の前の日記文を読めば明らかである。その一端を引用する。

――一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男の子の声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、(中略)白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし《おちぶれさす、の意》あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因(ごういん)いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて(中略)《翌朝、芭蕉と曽良の衣装姿から僧と思った遊女たちは、大慈の恵みをいただけ、仏道にお導きくださいと涙ながらに訴えたが、芭蕉は》「ただ人の行くにまかせて行くべし。神明(しんめい)の加護かならずつつがなかるべし」と言ひ捨てて出でつつ、哀れさしばらく止まざりけらし。――

とあり、その後に上記の句が書かれている。

この芭蕉の人としての情けに関して、一句加える。

【猿を聞く 人捨て子に 秋の風いかに】『野ざらし紀行』所収

古来中国に端を発し、猿の声は哀調を帯びたものとして多くの歌や句で採り上げられて来たとのことで、この句の前に次の文がある。

――富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子の哀れげに泣くあり。(中略)露ばかりの命待つ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすや萎れんと、袂より喰い物投げて通るに、《この後に先の句が記され、以下のように続く。》
いかのぞや。汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。――

ここに当時の社会現状としての、主に農村での堕胎、間引き、捨て子の実態を合わせた時、生徒たち、私たちは何に思い到るだろうか。
その場に居た芭蕉は、後年「余が風雅は夏炉冬扇のごとし」と言い、世俗に対して無用のわざと言うのだが、捨て子を前にせいぜい「袂より喰い物投げて通る」だけの無力な自身に痛切な痛みを加えている、と或る研究者は記している。改めて同情と愛情の問題に引かれて行く私を思う。
これまた生徒たちとの対話をして行けば、一句で一時間[50分]、否、二句だから不可能か……。

生徒もそろそろ芭蕉から脱け出たく次の授業に心移るかと思うので、最後にこの齢だからこそ、と同情心を煽って採り上げたい一句。

【旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る】

鬼気迫る感あるひたすらに凄み漂う句である。私の、年齢を重ねた証しなのだろう。
旅は人生になぞられる。
少し前になるが、若い女性看護師が、何人かの高齢者を殺めた報道があった。テレビ報道で映し出された彼女の表情、眼に、得も言われぬ寂しさ、虚ろさを直覚した。彼女は3か月に及ぶ精神鑑定の結果、刑事責任を問えるとの結論に達した由。直覚は単に私の感傷で、彼女は平然と実行にうつしたのかもしれない。しかし、彼女にも幼少児期の、思春期の時代があって幾つもの、あるいは看護師への夢を抱いていただろうと勝手に想像すると、生きることの切々さが襲い来る。彼女の犯罪を是認し擁護するのではないが、あの眼を想い浮かべるとあまりの哀しみが私を覆う。
彼女にとって、この芭蕉の句はどのように響くのだろうか。7年前、彼女より少し若い年齢時の娘の永遠の旅立ちを見送った、おセンチな爺さんとやはり一笑に付されるだけだろうか。

芥川 龍之介は、1918年26歳時、『枯野抄』を発表している。師芭蕉の重篤を聞くに及び集まった弟子たちの、師の臨終、死を見守る様子を表わした一篇である。そこでは、弟子たちの心理や動きを、見事な筆致で活写している。

「…限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったと云って差支えない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。」との、エゴイズムの視点から弟子たちそれぞれの心を推量想像して。

2018年11月18日

自由[FREE]であるということ~安田さん解放報道に接して~

井嶋 悠

私たち『日韓・アジア教育文化センター』が、NPO(非営利活動)法人の申請をし、内閣府から承認されたのは2004年9月17日のことである。当時は、事務所が2県〈私たちの場合、大阪府と兵庫県〉にまたがるときは、都道府県でなく内閣府であった。
後に、すべて主たる事務所の在る都道府県の管轄となり、10年前、代表(理事長)の私が栃木県に転居したため栃木県(庁)内となり、毎年度末の報告書類は、それまでの内閣府から栃木県となった。他に税務署(国税局)も関係するが、私たちの場合、従事者すべて無償であったので特に問題はなかった。ただ、法人県民税納付で免除申請制度があり、幸いにも認められ、税務関係での年度末手続は派生しなかった。

今、全国でNPO法人は52,000余りあるとのこと。それらの法人が、毎年所属都道府県に報告書を提出しているわけである。
年に一回とは言えこの煩雑さは、事務能力の無い私ゆえなおさらのこと、光陰矢のごとしは益々実感せられ、常にその憂鬱さに追われている心持ちであった。

にもかかわらず申請したのはなぜか。
法人が持つ公共性の説得力と公益性といった、信頼感への期待であった。いわんや、日本だけでなく、韓国、中国[香港・北京]・台湾の人々で構成されているのだから。
活動は、主催企画への助成金獲得も数年続き、また若い映像作家やデザイナーたちとの出会いにも恵まれ順調に進んだ。[詳細はhttp://jk-asia.net/を参照ください。]
しかし、私の勤務校退職(一応定年退職)や栃木県への転居から数年経ち、組織の維持、継続に難題が立ちはだかることになる。

理由は二つ。
一つは、「非営利」とは言え、収益事業が定期的にあっての運営、継続であることの痛感。
一つは、栃木県が目指す県と企業や法人等との協働推進と私たちの目指すことの方向性の違い。
だからなおのこと、全国の52,000余りの法人の浮沈に実体験から正負いろいろなことに思い及ぶ。

私たちは今年2018年9月2日,NPO法人から撤退を決議した。法務局登記上は「解散」であるが、私たちは、これまでの活動実態の継続を願い、あくまでもNPO法人からの撤退であり、実質は全く変容していない。
ただ、この手続きも、何度も栃木県県庁所在地・宇都宮法務局(往復約3時間)を訪ね、幾つかの書類の書き方等教示を受け、書類を整理提出し、数日後登記に解散が明記されても「清算結了登記」を別に申請しなくてはならない。かてて加えて県庁担当課にも提出しなくてはならない。

認可後間もなく経ったとき、韓国の或る人曰く。「それだけ拘束(しばり)があっても助成金はなし?!」
形式と内容(実質)に係る違和感。
しかし、解散登記が受理されることでの、安堵と実感する開放感。自由感。と同時にふと過る不安感。

そして改めて考えさせられる「NPOって何?」
メリットは?先に記した公共性、公益性という名目での庇護。 デメリットは?諸規定による煩わしさ。否、これは、私の運営資金のための日常事業活動の意志と発想収集と実践力不足の証しだったのだろう。10人以上の「社員」が申請条件の一つだったのだから、なおさらのこと私の責任…。「自己責任」…。
この経験からの顧みは、先述した栃木県の「協働」指向の背景ともつながる。

このことを国或いは地方自治体側からすれば、国或いは地方自治体に自身たちの責任で申請し、それに対し、承知したということは、公的“お墨付き”すなわち「権威?」を与えたのだから、報告義務は、その形式がどうであれ、派生して然るべきことであり、撤退するならどうぞ、ということになる。但し、「立つ鳥跡を濁さず」、規定に従い円滑にされたし、と。
とは言え、そのお墨付きが、今52,000余りあるということには、どうしても合点行かない私がいる。
この経験が、改めて自由について考えることになったのだが、それに大きな拍車を掛けたのが、フリー・ジャーナリストの安田 純平さんの解放、帰国であった。そこで、私がこだわった言葉が、「フリー」と「自己責任」である。

安田さん自身、2004年の新潟での講演で、以下のような発言をしている。
――フリーのジャーナリストというものは、紛争地域であっても事態の真相を見極めるためにリスクを負って取材に行くものだ」とし、「常に『死』という自己責任を負う覚悟はできている」と。――
また、 ――冬山の遭難者やキノコ採りのお年寄りも、自己責任ということか。政府に従わない奴はどうなってもいいという風潮が、国民の側から起こり始めている」として、「政府を無条件に信用する国民が増えてしまい「民主主義の危機」を痛切に感じている」。――

他にも、政府に対して、
「日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん。」
「日本は世界でもまれにみるチキン国家。」
「現場取材を排除しつつ国民をビビらせたうえで行使するのが集団自衛権だろうからな。」
などと、痛撃を加えている。

日本国憲法での、「公共の福祉に反しない限り」との制御を共有―この共有が、例えば道徳上云々同様、時に難しい課題にはなるのだが―した上で、[基本的人権の尊重][思想、表現等の自由]を出すまでもなく、上記安田さんの発言をとやかく言うつもりはない。ただ非常に過激ではあり、だからより考えることになった。
しかし、行政や政治家の第一の義務であり責任である、国民各人の幸福を追求する権利を守り、実現に導くとの視点に立ったとき、フリーであることと自己責任のことが私の中で混乱し始めたのである。
簡単なもの言いをすれば「フリーなんだから放っておいてくれ」と言われ、国(国家)は、「はいそうですか。お好きにどうぞ」と言えるのかどうか、これは国としての責務[義務]の放棄ではないのか。
それともすべてに対応は不可能なのだから、犠牲は或る程度やむを得ない、との別の表現なのだろうか。

私の知人にフリー(本人はフリーランスと表現している)で仕事をしている人がいて、彼の場合、半分はフリーで、半分は一つの組織に所属している。なぜか。生活としての、より多彩な仕事成就としての、生きるためである。
また、日頃こんなことを言っている知人もいる。事実かどうかは制度上を含め確認していないのだが、「無国籍であることの自由さを大事にしたい」と。

「自由人」という言葉の響きは心地良い。しかしフリーランスで生を築く人との意味では、厳しい現実を思い知る。
私は今、年金生活者である。(尚、年金生活者と言っても多様であり、その現在と将来に問題が指摘され、年金等、先進国を矜持する日本の福祉と施策の惨状は周知のことである。ただ、ここではこれ以上立ち入らず、概括的な意味で使う。)
死は解放(死が解放?)との考え方に立てば、より自由人に近づいたと言えるのかもしれないが、要は自身の意思、意識の問題なのだろう。

父は、人生の前半は勤務医であったが、後半は開業医であった。後半期、例えば、患者さんが父を前に「風邪のようで…」とでも言おうものなら、「それは私が判断することだっ!」」と叱責するほどで、時には患者さんに向かって「もう帰れっ!」とまで言うほどの個性(あく)の強い医師であった。その父が晩年、「俺のような医者は俺で最後だと思う」と、何処か寂寥感の響きでぽつりと私に言ったことがある。 そんな激しさを持った父は、一方でしばしば泥酔していた。

自由人は、人間の孤独を身をもって直覚し、それを克服し、真に孤独を自覚してこそ為し得るのだろう、と私は思う。生易しいものではない。私には遠い人ではあるが、先に言ったように距離は近まっているようにも直感する。
ただ、これらは大人の世界のことで、その大人に向かう途次のことではない。一部の若くして死を迎えざるを得なかった人々を除き、多くの人はその途次を経る。

私学の中高校教師時代、様々な公私立の中高校教師と会話する機会を得た。 と同時に、私もその中高校時代を経て来た一人であり、自由と学校に係る多種多様な経験をし、生徒(同世代)を知った。

私が、
中学生で知った、生徒の校内外での、更には教師への暴力事件と教師の無力と社会背景の自覚。
高校生で知った、学習と進学と大学名の問題。
大学生で知った、己の無気力と引きこもり。
大学院生で知った、学生運動と傍観することの自責。
東京放浪時代に知った、己が人間的限界。
教師時代に知った、教師であることと大人であることの揺れ。
これらの体験から10代の生徒たちに思うこと。 それは、複雑微妙な10代で「自由」について思案し、試行錯誤し、生きることと己が自由観の入り口をつかんで欲しい。

英文学者であった池田 潔(1903~1990)の『自由と規律』(1949年刊)は、青春時代の必読書的一冊として今も引き継がれている。
しかし、これは上層(上流)家庭に生まれ、17歳で渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学につながる、非常に限られたエリート集団であるパブリックスクールでの筆者の体験書で、昏迷混濁する現代日本に今も有効性を持つとは思う。
ただ、その底流にあるものを考えなくては、「自由の前提としての規律」といった単なる、それも特別な階級(階層)環境の、特別な学校での経験を通した道徳本に堕してしまう。

では底流に在るもの・こととは何か。
自身の存在が誰かによって認められ、自己確認の情を直感し、それぞれに自尊への思いを抱くことではないか。
生徒は生徒の年代での、教師は教師の年代、人生経験での、大人としての、そして育む愛の、もたらし手としての。
そのそれぞれの自覚から生まれる教師と生徒の信頼関係、相互敬愛心。 当たり前過ぎることであるが、現実はどうか。
あまりに各々相互の、生徒教師間の懐疑、軋轢、不信がギスギスし過ぎていないか。
もっともこれは、どんな中学高校を思い描くかによって変わることで、私が直接間接に知った例を挙げる。
3校の女子校と1校の男女共学校(すべて私立)の例。
ここでの共通主題は「自由」で、内3校は服装自由、1校は制服校。尚、1校は高校のみで、3校は中高一貫校である。

A校:創立以来、服装規定なし。特に問題となる服装はなし。但し、一時期、高校卒業式での華美さが問題となったが、生徒同士の批評も影響したようで、後落ち着く。

B校:創立以来、基本は私服で、行事等によっては制服使用(「標準服」制度)。服装の自由が拡大し、授業中に机上に飲み物を置き始め、教員間で問題となるも、時の校長の断で自由となる。

C校:創立以来、服装規定なし。ピアスを某生徒がつけたところ問題となり、その生徒と、禁止を言う校長の「自由」に係る議論の末、生徒は自主的に退学、転校。

D校:以上の例を知り、制服規定のある学校教師が発した言葉。「ウチでそれやったらメチャクチャなことになる」

【備考】某私立男子中高(大学)一貫校の例と限られた公立校の例

○中学高校は同一敷地内にあるものの、校舎も教員も校則(学校方針)も全く別。 中学:制服があり、徹底的に管理指導する。 高校:全く校則なしで、すべて生徒の自主性に委ねられる。

○公立高校によっては、自身で時間割を編成し、それに合わせて登校する私服校もある。

これらの差が生ずる要因の一つ、或いは決定的とも思えるそれは、自身の所属する学校への、及び自身 への「自尊」に係る意識、感情の高低ではないか、と。 その感情起因は学力差或いは偏差値差。入試問題の難易度。そして進路進学結果の社会的評価が大きく彼ら彼女らの心を覆っている。
生れてわずか十数年での被格差感情。 これらはやむを得ない現実として受け止めるべきで、ことさら俎上に上げること自体が、やはり無意味なことなのだろうか。 しかし、それでも次のことに思い及ぶ。

☆入試と塾・予備校在籍と中学高校在籍校学習との問題。
⇒塾・予備校を廃止したら、各学校段階でどのようなことになるのか。
【補遺】
○高い志をもって創設された或る私立校での場合
塾教育批判を掲げていたが、後に学校[各教師]が描く教育実践が、
学力不足でできないとの不満に変わって行った例がある。この問題の
背景に在ることとは何だろうか。
○新聞全国紙の塾・予備校教育論と毎年の大学合格状況、偏差値情報の
矛盾

☆家庭の経済力と学力の問題と教育の機会均等の問題。
⇒教育の無償化がもたらすことは、結局経済的余裕のある家庭への恩恵になるのではないか。そうならば、ではなぜそうなるのか。

☆各個を活かし育む教育の問題。
⇒多様な価値観、人間観があっての社会、との意識と学習内容の多様性は為されているのかどうか。

☆「不易流行」と教育の問題
⇒世界の中の日本の在りよう像に関して、国民間で共有できているのかどうか?  なぜ今、日本型?「インターナショナルスクール」が乱立的に開設されているのか。

これらの事例から、限られた選択の自由、結果としてある自己責任について、子どもや家庭(保護者)にその原因を帰することができるのであろうか。
各学校段階の入試方法として「考える力」「表現する力」云々と改革が言われているが、そもそも可能な限り客観的評価をどうするのか、また入学後どのような指導を行い、次にどう備え、送り出すのか、各学校段階でどのように検討され、実践されているのだろうか。

今、少子化にして高齢化だからこその千載一遇の時機と考え、学校と教育、教育と学力について、背景にある社会観と併せて再考する視座は、大学の大衆化による負の側面が顕在化し、高校卒業後の、また大学学部卒業後の進路に多様化が進む現在、必要なことではないのか。
人生のごく初期段階で、しかもあまりにも限られた時間内(数年間)で、人格さえとまで思えるほどに優劣意識を持たせ、持たされることが、果たして日本にどれほどの有効性を持ち得るのか、甚だ疑問である。

安田純平さんは、大学までの過程とフリー・ジャーナリストへの高く、強い自尊の人だと思う。氏は私には遠く及ばない人のように思えるが、解放以後の報道に関して、少なくとも氏を英雄視することには抵抗がある。しかし、帰国後の氏の幾つかの発言から、氏の繊細な人間性のようなものも同時に感じている。それが私の感傷からの思いなのか、理知からのそれなのかは未だ整理できていないが。

2018年10月12日

帰国子女[教育]の記事に触れて~今もなお続く日本人の“孤島”気質~

井嶋 悠

先日の奈良県天理市の「村八分」問題が報じられ、話題となっている。
村八分は、疎外、排斥であって、要は「いじめ」の一形態で、そう考えれば地域に限らず人の集まる所、学校、会社等到るところで在る。
以前、長野県でのこんな例も聞いた。それも長野県に限らずよくある話として。
県や市町村の、時には国の、行政が、過疎対策として移住奨励を発信し、田舎暮らしに憧れ都会から自宅を処分し、家族で移住して来る家族。そこには、自然は在るが、人の情はなく、それどころか疎外、排斥され、一年も経たずに近くの都市圏に移る例が、少なからずあるとのこと。 こういう施策を概念的、官僚的というのだろうが、この村八分は、英語にもあるので世界共通のようだ。ニホンザルの世界にもある旨聞いたことがあるから、高等動物の哀しい性(さが)なのだろうか。 高等ゆえの生き辛さ……。

私たちが10年前から住んでいる北関東の、幾多の温泉と山々、高原が広がるいわゆるリゾート地を有する市で、私たちの一画は10軒の家があり、内(うち)、外来者は私たちを入れて4軒である。ここでも近隣地住民を含めた自治会組織があるが、ゴミ捨て等々での疎外はない。それどころか、隣家の人が、自治会に加入するとあれこれ役割が回って来るので都会から来た人は入らない方が良い、とまで言ってくださったほどである。
ただ、都会からの人の中に、敢えて一切関わりを持とうとしないと言うか、自身から周囲を疎外している場合がある。これまでのその人の歴史がそうさせるのか、地方者を見下しているのか分からないが、幾つかの言動行動から察するに後者だと思う。

これらの疎外、時に蔑視は国間・地域間問題にもつながる。対韓国・朝鮮や、対被差別地域等々。

と言えば、「お前はどうなのだ?」と詰問されるだろうが、自身の70有余年で一度もない、と断定的に言える。的、と記したのは、自身は全く意識していなくとも、される側からすれば《している》と取られることもあったかもしれないからである。例えば、中学生時代、被差別地域問題について、東京から転校した私は、正しく“身をもって”知らしめられた経験を持つので。(これについては以前投稿したのでこれ以上は措く。)

 

私の最初の勤務校は、二人のアメリカ人女性宣教師が、明治時代に創設したキリスト教(プロテスタント)主義の、歴史ある中高大一貫教育の女子校だった。 今から50年近く前のことである。勤務して数年後、高校1年次での「帰国子女受け入れ校」の公式意思表示をし、私はその校務に携わる機会を得た。実に新鮮な経験で、以後の教師人生にあって、その問題は常に私の中に意識されていた。
ところで、この「子女」との表現については反対があるが、辞書の意味説明も含め、私は「子女」で良いと考えている。

受け入れを始め数年が経ったとき、アメリカからの現地校に在籍していた或る帰国生徒が朝の礼拝時[中高生約900人が講堂に集まり行う]、海外体験を話す機会があった。一喜一憂を語るのだが、次の一節に今でも忘れない衝撃を受けると同時に、然もありなんとも思った。
何人かの日本人の母親の会話を聞き、彼女は悲しみと学びを得たと言うのである。母親たち曰く、

「アメリカにまで来てアジア人と付き合いたくはないわよねえ」

この延長上に、今もある英語ができる(それも聞く・話す)=優秀、そこから生まれる嫉妬、また英語を第1言語とするアジア系アメリカ人等教師への拒否反応がある。
帰国子女を特別視することから生れる妬みからの反発、疎外そして村八分感情の抱く子どもと大人。私自身その様を幾つも見聞きした。一例。

「あの子たちはずるい」

勤務校は、特に関西では有名な難関校で、且つ英語教育は非常に充実し、中学部に入学するに当たり、進学塾の優等女子生徒が多く、『帰国子女特別入試(編入試験)』への抵抗感である。
尚、その勤務校は20年ほど前から中高大内部改革の一環もあって受け入れ校から撤退している。

 

これらの事例は、今、解決、解消しているとは、教師生活最後の10年間勤めた『新国際学校』と称されていた(今、いるとは言えないと私は思っている)、欧米系のインターナショナル・スクールとの日本で初めての協働校での様々な経験からも、到底思えない。それどころか、一層増しているようにも思える。
少子化と高齢化の現代日本が抱える大きな問題の、学校社会[学校教育]での側面がそこにあると思う一人だが、それについても何度か投稿しているので省略する。

つい最近、朝日新聞と[GLOBEインターン]という団体の方による記事を知り、愕然とさせられた。
帰国子女教育に携わる中で、40年も前に多くの関係者から教えられ、自覚した「帰国子女教育なる表現をなくすこと、なくなることが帰国子女教育である」に共感していた一人だったから。それが今も旧態然としてある事実。
社会変革、意識改革の実際の途方もない難しさ…。
因みに、帰国子女を表わす英語はないと欧米の教師たちは言っていた。世界を移動し、人生を深め、最後は祖国(母国)に戻ることの素晴らしさを思っている人たちなのだから。
以下、一つの啓蒙として書かれたと思われる二つの記事を基に、私なりの教師経験で得た私見を記す。

尚、現在、小中高校での帰国子女[海外在留期間1年以上]は、毎年12,000人を超える。
そもそも「帰国子女(教育)」を採り上げる場合、その帰国子女の海外在留時の期間、年齢及び在籍校を明確にしなければならない。それは、今もって帰国子女=英語ペラペラの偏見が蔓延し、「隠れ帰国子女」なる事象がなぜあるのかを理解するためにも肝要なことである。
具体的言えば以下の諸事項である。

○期間及び年齢  10歳前後に本人の言語根幹ができる(言語臨界)との学説に従えばなおさらで、どの年齢で、何年間、どういう学校に在籍し、家庭での言語はどうだったかによって、本人の言語力、学力等が多様となる。

○在籍学校種類  保護者の赴任等地域によって選択肢が限られる場合もあるので一概に言う危険性がある。

考えられる在籍学校種類
・日本人学校
・現地校(主には英語圏]
・インターナショナル・スクール(英語を第1言語とした国際学校)
[注]上記2校で「ESL(English as aSecond Languageの略)」クラスの
有無も重要な要素となる。
及び
・補習授業校(土日のみ開講で校長、教頭は日本からの派遣、教員は現地採用)への在籍有無

備考
上記の学校で複数校可能な場合、本人と保護者の帰国後をも視野に入れた意向が更に重要となる。
その他、塾通学や通信教育受講、また家庭教師等、広い視野で本人の背景を視る必要がある。
例えば、英語圏以外の現地校(「国際クラス」併設の現地校も含め)で精神的問題を抱えた生徒がある。

 

これらの前提を明示し、広く帰国子女教育を考えることは、偏見をなくす第一歩であると思う。と同時に、記事の受け止め方も変わって来るであろう。だからこそ「海外・帰国子女教育」との用語が成り立つのであり、言ってみれば帰国子女教育と海外子女教育は表裏一体要素を強く持っていると言える。
「純ジャパ」「変ジャパ」「半ジャパ」との(ジャパはジャパニーズJapaneseの短縮形であることが分かれば、その意味は理解できるだろう)揶揄的表現に記事も少し触れているが、それらの発話者の視点は、日本を軸、起点にしたそれであり、とどのつまり受け入れる側、教師・生徒の意識の問題である。どこまでも「大海の孤島」に拘泥するか、その気質を一つの風土として捉えながらも多様な世界を自然態で感嘆、得心し、自身の批評眼を持つか。柔らかな感性と複眼思考の必要性。

先に、私がインターナショナル・スクールと日本私学との協働校に勤めたことを書いた。英語力など公立中高校机上的学習の域そのままの私が、10年間の在職中に、インターナショナル・スクールの教職員・保護者・生徒からどれほど示唆、教示を得たことか。
このことは、日本を再考、再発見する良い機会ではあったのだが、不遜を承知で言えば、日本側学校での日々はほとんどがそれまでの繰り返しであった。

最後に二つの記事から若干の引用をし、私見を加える。
※「  」引用部分  《  》私見

「「TOEIC」テストの世界順位は40位」(因みに1位はバングラデシュ)

《帰国生徒に英語を期待するならば、聞く・話す・読む・書くの、何を、どういうレベルで期待するのかを明確にする必要がある。「英語ができる」の意味の多くが、先述のように聞く・話すだとしても、確かな4技能の英語力を持つ生徒自身が、話すでの発音(例えばイントネーションと方言)、文法(例えば敬語)の問題点を指摘し、一方で、英語力が中高校教科学習程度の教師、大人、社会はそれに気づくこともなく誉め讃えている。》

 

「漢字や地理などの日本特有の勉強ができなくなった代わりに英語ができるようになったのでトントン」との、帰国子女で現在20代の男性の発言。

《帰国が前提でない海外在留子女は別にして、帰国が予定されている場合、どっちかの発想ではなく、家庭でのわずかな時間で補いはできるはずである。
ただ、社会の教科書に関して、巻末の索引の固有名詞等漢字の振り仮名には、きめ細やかな配慮が必要であると思う。これは、大人が索引を上手に利用して効果をあげるように、帰国子女に限らず、多くの子どもたちにとっても同じではないか。
これと関連することで、帰国後の保護者の子どもの進路への意識(何かと異論の多い領域で軽率には言えないが、性差の違いも生ずる)、すなわち学校選び、が重要な要素となる。その時、夫が赴任している場合、母親の子どもに対する学歴や学力そして将来への希望図が非常に大きな影響力を持つ。そこに親子の会話、家庭力が求められる。もう20年以上前かと思うが、海外在留家庭を「囲炉裏型」の家庭と言った研究者がいた。
海外における日本人社会の閉鎖的タテ構図[例えば官庁関係、企業関係(大・中・小企業)等の位置関係は、国内で感ずる以上の強さで歴然として在るのだから尚更である。それとも、海外だからこそ共生感が芽生え、今では、国内に在る厳しい現実をとうに克服しているのだろうか。》

 

「日本では、みんな一緒が良いとされる。みんな一緒のランドセル、みんな一緒のうわばき、みんなで掃除しましょうみたいな。ちょっとでも違うとのけ者というか、変な目で見られます。アメリカだと、違うのは当たり前。」

《よく聞く話で、確かに日本の?学校の特性として指摘されることではあるが、学年、性別、地域また通学校によってさまざまな部分もある。
インターナショナル・スクール協働校での経験では、逆に日本の学校文化を誉める欧米人教師や保護者もある。例えば、掃除習慣。また朝のクラスホームルームの存在。》

 

「(アジア圏の)日本人学校での、生徒たちの行儀良さときれいな言葉遣いが、当たり前だと思っていたが、帰国して入学した学校の荒れた(授業態度、給食時の喧騒、廊下での疾走等)姿を前に疎外感を感じた。」

《小中日本人学校派遣の教師から何度聞いたことだろう。初めて準備、計画した授業ができる喜び。生徒たちの態度のすばらしさ。それもあってか、帰国子女またその保護者は、限られた公立校以外私立受け容れ校希望が多い。地域、家庭と学校の問題がそこにあると考えられるが、派遣教師が帰国した場合、“荒れた学校”に配属されると聞いたことがある。今はどうなのだろうか。(派遣教師の95%以上は公立学校教員)

 

「帰国子女の3つのタイプ。1つは日本語日本ベースの帰国子女。2つ目は滞在国の言語や文化がベースの帰国子女。あと、どっちつかず。」

《2つ目は、日本の現状から考えれば、ほとんどが英語圏からの、と思われるが、その生徒がどのような形で、それをベースにしているかが課題だろう。その時、同じ英語圏であっても、アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダでは教師の意識も違うことも理解する必要がある。2つ目のそういった生徒は、帰国子女を主としている受け入れ校がよりふさわしいとは考えられるが、日本でそのような学校は稀少である。ただ、それでも問題は噴出する。その際の大きな要因は、教師側の意識の問題にある。》

 

今では、国際化、グローバル化、宇宙船地球号等々の表現は、当たり前のようにある。 その表現と実態に思い及ぶとき、「国際語」としての英語と自身の関わり、価値観をしっかりと持ちたいものである。そこに、自身の中の日本(人)性がどのようにあるのかも含め。 1970年前後の海外・帰国子女教育から40年余りが経過し、その教育はどう変わったのか、また海外駐在員家庭環境また駐在員派遣形態に変化はあるのか、漫然ととらえるのではなく現在の視座から把握することで、海外・帰国子女教育が、国内の教育を、更には社会を映し出すことに眼を向ける、その意義の大きさを改めて思う。 それは眼を向ける人物の、(学校・家庭)教育観、(日本・世界)社会観の自己確認ともなるのだから。

2018年9月20日

君死にたまふことなかれ

井嶋 悠

生あるものはすべて死を迎える。その死を自ら手繰り寄せる人も少なからずいる。数年前まで先進国の中で非常に高い自殺率であった日本は、年々減少傾向にあるが、それでも世界で第6位(2016年段階)で、中でも女性の自殺は第3位とのこと。
一衣帯水の国・韓国が第3位となり深刻度が増して来ているが、ここでは、風土や社会背景等の国比較或いは、減少傾向での施策の成果を言うのではなく、日本の現状を量の問題ではなく、質の問題としてとらえられるかどうか自身を整理してみたい。

政治家が国民のために働くのは自明過ぎる自明だが、その「国民」解釈が違って来て(多様化して来て?)、言葉では「社会的弱者」を言うが、実態は「社会的強者」のための政治に堕しつつあるように思えてならない。心ある人は何を今更、と冷ややかに言うだろう。
だからと言って私は、野党を支持しようとは思わない。同じ穴の貉(むじな)(狐)。自己[自党]主張・正当化更には絶対化と相手への誹謗による集散の繰り返し。人間世界の縮図そのままの。
そもそも政治家に期待することが致命的に間違っている、心平和に、美味い食と酒を味わいたいなら、政治家の登場する報道を見ないこと、話題にしないこと、と言われるのが常態化しつつある現代日本。

なぜか“脂ぎった”=政治家のイメージ。議論の大切さを言いながら問答無用の高慢。言葉の弄(もてあそ)び。よほどのテーマでもない限り、無党派の、選挙に行かない選挙民が、数年前からほぼ半数。私も含め。ただ、ここ数年は意識して投票に行っている。覆う虚しさ。そこまで自身を貶(おとし)めたくないとの自己防衛本能の顕れ?選挙民の権利放棄と十分承知しつつも。
そして政治家に「いただいた国民の皆様の支持云々」と言わしめ、形容語(大小とか強弱とか美醜とか…)が、その人の価値観を表出するとの見方に立てば、戦前の不安様相を映し出すかのような言葉の数々。
学校教育、社会教育の緊要の課題。

 

先日、衝撃のニュースに会った。哀し過ぎる!
「2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦は全国で少なくとも102人いたと、厚労省研究班が5日発表した。この期間の妊産婦の死因では、がんや心疾患などを上回り、自殺が最も多かった。」全国規模のこうした調査は初めてとか。そして続ける。
「妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる。研究班は「産後うつ」なのメンタルヘルスの悪化で自殺に至るケースも多いとみて、産科施設や行政の連携といった支援の重要性を指摘している。」
やはり政治無関心は無責任にして醜態で、いつしか「暴力」への呼び水加担者へ……。

キリスト者が人の死に際して言う。「神が、あなたは十分つとめを果たしたのだから戻っていらっしゃいと言われたのです」と。私も娘の死に際して、或るキリスト者からこう言われ、どこか心の落ち着きを得たように思えた。私はキリスト者ではない。が、キリスト教を批判、否定する者ではない。
この母たちにも神はそう言ったのだろうか。そうは思えない。あまりに哀し過ぎる。
キリスト教や仏教また儒教でも、その自殺観は分かれているようだが、私は自殺を悪とは思っていない。いわんや罪とは思わない。本人の哀しみ、激情そして葛藤、厳粛な意志決定を想像すればするほど。
しかし、周囲の哀しみを知ればなおのこと、積極的に肯定もできないし否定もできない私がいる。

日本の、物質文明社会が当然とするかのような現実での、貧困化という矛盾。過疎化と過密化の両極的動きの中での核家族化の功罪。華美な一面的情報の氾濫の、とりわけ青少年の心の揺れ。仕事と家事の両立に係る主に都市圏での政治の貧困、政治家の空疎な言葉。無記名の誹謗中傷を含めた膨大な発信、情報。それを直ぐに手元で確認できることの負の側面。
抱えきれないが抱えようとする生真面目さ。襲い来る将来の不安、孤独、寂寥との狭間での自問自答。常よりもより鋭敏に震える神経で生命(いのち)に、死生に思い及ぼす、と同時にそれらを否定しようとする葛藤。

支援が広がりつつある。そのことで思い留まった母もあるだろう。しかし、その支援を拒否する(拒否と言う響きが強過ぎるならば避ける)心も、不安定な時にある心の動きではないのか。鬱(うつ)、うつ病症。医師や専門職としてのカウンセラー、相談員のもとに行くことの、或いは来られることの、する側とされる側の相性感も含めた煩わしさ。「自分が弱いからだ、自分だけなのだ」といった自責感情。
知人友人親族等々様々な人々の貌が浮かんでは消える中、不安と寂しさに思い巡らせ、独りであることで、何とか心落ち着かせ自身に戻ろうとする自我の葛藤。これらも鬱の症状なのではないだろうか。
支援は大事なことだが、どこまでも人間と人間の問題として机上の空論にしないことの難しさを、私なりのこれまでの直接間接経験から思う。

自殺は、いつの時代も、いかなる国・地域にあってもなくなることはないという冷厳な現実をどう受け止めれば良いのか。あの戦争のように。問い続ける、人間が、人間とは?と、永遠に……。
いわんや、自身の分身である幼児(おさなご)を置いて命を絶つ、そのあまりの哀しみにおいてをや。
それでも自問したい。自殺を断罪するのではない答えの端緒を見い出したい。「自殺者が少なくなる、否、限りなくゼロに近くなる国・地域は、どうあればできるのだろう?」と。宗教に委ねることなく、自身の実感の言葉として。
やはり、もっと政治に厳しく関心を持つべきなのかもしれない。と同時に、日本の構成員の一人として、自身の代だけではない「私の想う社会の、日本の在るべき姿」を考えなくてはならないのではないか。
その時、学校教育の時空がいかに重いものかが、視えて来る。観念[知識]の言葉で留まるのではなく。

「君死にたまふことなかれ」とは、与謝野 晶子が、日露戦争(1904年~05年)に従軍する弟のことを切々と詠った詩の有名な一節だ。その詩を転写する。
この機会に、この歌が、一部で言われる反戦歌かどうかも併せて、改めて確認したい気持ちも込めて。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる
暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

その弟は、第2連にあるように、大阪・堺の由緒ある和菓子屋の跡取りで、戦争から無事帰還したとのこと。因みにこの戦争で死んだ日本人は11万5600人、ロシア人は4万2600人。そしてこの戦争後、日本は帝国主義列強国の一国として太平洋戦争に向かって行く。累積され続ける死者と歴史と現在。
今日本はどうなのか。私は浮き世を憂き世と思う質(たち)からか、ごく限られた国以外、日本を含め多くの国々が、己が一番、己が正義で、帝国主義国家を今も目指しているように思える。だから、先の報道はより哀し過ぎる。

私はこの歌を、反戦といった社会的な歌とは思はない。
平塚らいてう(1886~1971)との「母性保護論争」からすれば対社会意識の強さや、晩年の「ありし日に 覚えたる無と 今日の無と さらに似ぬこそ あわれなりけれ」との歌から、旧家の跡取りの弟を通して社会[国家]に物申す思いは取れなくもないかもしれないが、やはりこの詩は純粋に弟を想い、同時にかつての自身が実家から与謝野 鉄幹のもとに走ったことを重ねた、切々とした情の歌だと思う。

2018年8月31日

八月・「戦争」への想像力を ~死者・孤児・政府設置慰安所を通して~

井嶋 悠

今日、2018年8月が終わる。「平成」最後の8月である。

戦争は人が人である限り避けられないのだろうか。
最近の輿論調査によれば、「やや」を含め生活に満足しているとの回答が70%を超え、これまでで最高値だったとか。この基因の一つに「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」の戦争特需があるとの視点はどのように受け止められているのだろうか。

1945年8月15日の敗戦(終戦)前、3月から7月にかけて沖縄で、6日広島で、9日長崎で、アメリカ軍による殲滅(せんめつ)と言っていいほどの攻撃にさらされた。(本来ならば、東京をはじめとする都市への空襲も採り上げなくてはならないが、ここでは沖縄、広島、長崎に留める。)
と言う私は、長崎原爆投下の2週間後、敗戦の8日後、8月23日に長崎市郊外の小村で生まれた。戦争を知らない世代のはしりである。京都人の父が、海軍軍医として赴任していた関係である。

「終戦」と「敗戦」との言葉遣い。当時の人々の安堵の情で言えば先ず終戦ではないか。しかし、日本国憲法に第9条の「永久」との言葉を省察すれば「敗戦」である、と私は思う。
戦争は、勝者であれ敗者であれ、多くの死者を意図的に作る最大の暴力である。それぞれがそれぞれの正義の旗の下、その正義のため大小を問わず権力者は、国民を、市民を有無言わさず戦場に駆り出し、殺戮を奨励し、そして弔う。何という傲慢、矛盾。

現代日本にあって、その戦争に不安、更には危機感を持つ人は身辺にも多い。ここまで猥雑に米国追従をしていれば、然もありなんと思う。暴力に麻痺し始めているようにも思える。憤怒憤激日毎にいや増すとは言え、私にとって日本がすべてだ。日本が好きだ。当たり前のことだが。
あまりにも「内向き」との非難を受けるだろうが、今の私には[国際(教育)]も[異文化間(教育)]も遠い思い出にある。とは言え、ここでナショナリズムとか国粋とかを持ち出す気持ちはさらさらない。
「輪廻転生」が事実で、次の生も人ならば(私自身、そうありたくないが、天が選択肢を与えてくれるのであれば海の一粒の小石になりたいと最近思い始めている)、日本以外に他など考えられない。そもそも他国・地域の人々には迷惑なことだ。未来永劫のご縁……。

私たちは、あの太平洋戦争で、沖縄戦で、広島と長崎で死んだ人の数を大枠でも承知しているだろうか。更には「戦争孤児」のことを。「防波堤」になった女性たちの、その国家施策のことを。
知らないのは私や限られた人だけかもしれない。しかし「風化」が一層危惧されている。風化はいつしか、悪しき権力者やそれを取り巻く人たちに翻弄される途に向かわせる。気づいたときは『いつか来た道』となる。杞憂ならいい。
しかし、少しでもその可能性があるならば、その責任は戦争を知らない世代の私たちにある。ここには世代差はない。否、若ければ若いほど責任は重い。次代を担う命なのだから。

感傷(センチメンタル)は安らぎと危うさの表裏である。これは自戒でもある。
因みに、北原 白秋の詩『この道』の歌詞は以下である。

この道はいつかきた道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ
この道はいつかきた道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ
あの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子の枝も垂れてる

「人の命は地球より重い」。これは、先日、2歳の男の児を救出した、その人生、行動、言動、表情が証する純粋で高潔な人柄の“スーパーヒーロー”尾畠 春夫さん(78歳)の言葉である。
この言葉、旧来使われている。1970年代時の首相が、ハイジャックによる人質と服役中の犯人たちの同志との交換解放で使った言葉でもある。この首相の場合、いろいろと批評もあるようだが、尾畠さんの場合は注釈なしに重く深く響く。これを日本のそして世界の政治家はどう受け止めるのだろうか。虚しさについ襲われる。
だから、今回、私の欠如を補い、あらためて心に銘じたく、このような表題をつけた。


【戦死者】
 以下《  》は、私見或いは私的体験である。

 沖縄戦死者(1945年3月26日~1945年7月2日)

  日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人) (他都道府県出身兵 65,908人)内、集団自決 約1000人・日本軍による住民殺害 約1000人

《高校時代の授業(だったと思う)で、沖縄の海岸の断崖から主に女性が次から次から飛び込む(中には幼児を抱え)映像が今も鮮烈に残っている。沖縄の歴史を知れば知るほど、私たちは沖縄の人たちに甘え過ぎてはいないか。カネと犠牲は常に言われることだが、私もとどのつまり内地の“富者”の身勝手な言になるのだろう。》

Ⅱ 広島被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約14万人(強制徴用の朝鮮人、中国人等。外国人留学生、米軍捕虜を含む)

《最初に(約45年前)勤務し18年間在職した神戸女学院は、主にプロテスタント系のキリスト教学校教育同盟校の一つで、広島女学院も同盟校であった。その時、被爆と朝鮮人をはじめとする外国人犠牲者の取り組みに大きな敬意の関心を持った。ただ持っただけだったが…。
また、原爆資料館を父大江 健三郎さんの子息光さんが、見学後ロビーで、父に「すべてだめです」(後に「です」と言ったか「でした」と言ったかで話題になったが、私は「です」と思っている。)の一言は衝撃だった。
昨年だったか、式典に登壇した首相に対して「帰れ!」との怒号が飛んだが、首相は一切意に介さず被爆国としての役割、責任を、「核兵器禁止条約」に未だ署名することなく、ここでもアメリカ追従そのままに述べた。尚、このことについては、最後に視点を変えて触れる。》

Ⅲ 長崎被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約7,4000人

《父は海軍軍医として被爆者の治療にも携わり、私が中高校生時代、その時の様子を聞いた。各家庭に油を供出させ、雑巾に浸して当てるだけが治療であったとか。原爆投下に限らず敗戦濃厚の情報は、当時砂糖をあまるほど所有していた軍人上層部、町の有力者、医師等特権?階層の一部の人たちは把握し、戦後に備えて部下等を動かし準備を始めていたとか。その人たちの戦後とは一体どうだったのだろう?と思う。京都に戻った父は大学内権力闘争?の煽りを食らって、何かと苦難の道を歩まざるを得なかった。》

Ⅳ 太平洋戦争死者 (以下の数字は概数)

日本人は軍人 330万人、一般人 80万人
朝鮮人は軍人 22万人、一般人 2万人死亡
台湾人は軍人 18万人、一般人 3万人死亡

[その他の国]
中国 1000万人  インド 350万人  ベトナム 200万人  インドネシア 400万人  フィリピン 111万人  ビルマ 5万人  シンガポール 5千人 モルジブ 3千人  ニュージーランド Ⅰ万人  アメリカ人41万人  オーストラリア2万5千人

《太平洋戦争の主導者は東条英機であったが、辞世の歌の一つに「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」があり、最後「天皇陛下万歳」とA級戦犯者の何人かと乾杯し、絞首台に上がった旨知り、無性に腹が立った。戦争責任問題は今も議論になっているが、天皇に関しては、当時の現人神としての存在、また幾つかの言動から、私は責任の一端はあるがそれ以上はないと思っている。
開戦の12月6日のニュースを聞いた多くの文人たちの言葉、それも讃嘆の、を見ればますます己が不勉強、怠惰を思い知らされ、戦後第1期生としてそのまま生きて来ている。》

【戦争孤児】

123、511人

[注]孤児とは両親がいないこと。 片親でもいれば「遺児」
・父が戦死、母が病死、または戦災死。
・両親ともに戦災死。
・母か父の片方が戦災死、片方の親が病死して、両親ともにいない子ども

《野坂 昭如原作のアニメ『火垂るの墓』は、心揺さぶる作品には違いないが、「毎年見せられてもういい」と、小学校時代の息子が言っていたのには思わず笑えた。元同じ教師として、学校側の企画の繰り返しは分からなくもないが、やはり“過ぎたるは及ばざるがごとし”ということか。
戦後の闇市を、生まれ持った?才知を発揮して駆け抜けた少年少女たち、将来への希望を見出せず哀しみと失意に生きた少年少女たち。澤田 美喜(1901~1980)の「エリザベス・サンダース・ホーム」を拠点に、生きることを得た少年少女たち。更には悪事に身を沈めた少年少女たち。……。
戦後の復興の基礎にその少年少女たちがあって今、他界した人も多い。》

【慰安婦】

1945年8月 連合国軍兵士による強姦等性暴力を防ぐために、連合国軍占領下の日本政府によって設けられた慰安所『特殊慰安施設協会』(国営国立慰安所!)。東京・横浜をはじめ、江の島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知、広島、静岡、兵庫、山形、秋田、岩手等日本各地で5万3000~5000人を募集。翌年3月連合軍の指示で廃止。しかし、多くの彼女たちが街娼等に。

《今もって「慰安婦問題」の十全な整理、解決しない現状にあって、日本は敗戦直後に、連合軍による性犯罪防止を目的に、『特殊慰安施設協会』なるものを政府が率先して創設した。このような例は、世界にはないという。翌年廃止されたとはいえ、創設目的とは裏腹に開設中にも連合軍による性犯罪は多発した。日韓合意・日朝合意は解決済みと言うが、上記のようなことにどれほど真摯に向き合って、戦後処理をしたのだろうか、同じ日本人として疑問は残る。

「男女共同参画」とか言葉は多く語られ、何と時には数値まで示されるが(そもそも数値を示すこと自体、男優位の「してやる」発想を感ずる)、戦後、謙虚に欧米の歴史と実状を学び、在るべき男女平等を、憲法第14条を持ち出すまでもなく、実施していれば、世界での女性の社会的役割度は最低レベルと指摘される醜態もなかったことだろう。にもかかわらず、やれ世界の、アジアのリーダー等々かまびすしく言っているが、大人として恥ずかしくないのだろうか。
これまでに公私で出会った女性(中でも30代以上)からその存在感、生きる性(さが)の自然態での強さを痛感する一人(男)としてひどく滑稽に思え、さびしくなる。言葉をそこまでないがしろにしていいものだろうか。
尚、戦争性犯罪に関して「引揚者、とりわけロシアからの」の残虐な被害実状も改めて心に刻まなくてはならないが。》

私のまとめと一つの書の紹介

戦争を知らない私は、これらの酷(むご)い事実をどれほど承知し心及ぼしているだろうか、とこの年齢、環境[年金生活者]の今、遅れ馳せながら自省、自責する。
結局は、経済が人生・生活のすべてとの考えに無感覚で来たのではないか。
1956年(私が11歳)の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言され、1954年~1973年の「高度経済成長期」に、一方で公害問題、都市への人口集中による都鄙の格差拡大等、現在につながる問題が顕在化する中で少年期青年期を過ごし、40歳前後から50歳前後に「バブル時代」を、そしてその崩壊の時代を生きて来た一人として、己が意識の低さに汗顔恥じ入る。いわんや元教師の、二人の子の親として。言い訳に過ぎないが、だからこそ現在の日本に敏感になっているとも言える。

この心の無惨を若い人、とりわけ学校年齢の青少年、に繰り返して欲しくない。
想像力を培うことの意義。人が人の心に思い遣る力。ゆったりと、時間に追われるのではなく、自身の時間を持つこと。これが源泉、人生の礎だと思う。ではどうすれば良いのか。

学校学習でのあれもこれもの各教科教師の意識の見直し。塾(進学塾)の廃止。受け入れ側教師と送り出す側教師の教科内容に沿った意思疎通。“みんなしている”発想やマスコミの無責任に振り回されたかのような「おけいこ事」の整理。それらに伴っての入試改革。学力観、学校制度の根本的改革。
本来の「ゆとり・心の余裕」。新版“そんな急いでどこへ行く”のだろう?
少子化、高齢化社会だからこそ、千載一遇の機会ととらえ、制度の、意識の変革の好機にできないだろうか。

先日、こんな本に出会った。2000年に翻訳、刊行された『ヒトはなぜ戦争をするのか?』アインシュタインとフロイトの往復書簡を収めた書である。

これは、第一次世界大戦(日本も英米仏等23カ国の連合国として参戦した1914年~1918年の戦争)後、アインシュタインが国際連盟から、1932年「人間にとって最も大事だと思われる問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」との依頼を受け、精神医学者のフロイに送り、往復書簡が実現したものである。

[備考:
アインシュタイン/上記書の刊行後1年、ナチスが政権をとり、その年、アメリカに亡命。1939年アメリカ大統領ルーズベルトに核兵器開発を進言。1945年、広島と長崎の惨禍を知り後悔。1946年以降、核兵器反対を唱え続け、併せて国際連合に世界政府結成を促す。

フロイト/1938年、イギリスに亡命

〔参考〕1930年前後の日本
ファシズムの台頭・治安維持法の確立・満州事変・朝鮮侵略・国際連盟脱退

以下、二人の言葉から、今回の私の意図と重なるところを幾つか引用する。

【アインシュタイン】

「国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。」

「国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく―このようなことがどうして起こりうるのだろうか。答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

「「教養のない人」よりも「知識人」と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。「知識人」こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか?彼らは現実を、生の現実を自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです。」

【フロイト】

「権利(法)と暴力、この二つは正反対のもの、対立するものと見なすのではないでしょうか。けれども、権力と暴力は密接に結びついているのです。権力からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐに権力が出てくるのです。」

「人と人の間の利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけています。ただ、人間の場合、(中略)きわめて抽象的なレベルで意見が衝突することさえあります。ですから、暴力とは異なる新たな解決策が求められてきます。とはいっても、それは文明が発達してからの話です。」

「人間の衝動は二種類ある。一つは、保持し統一しようとする衝動。(中略)これをエロス的衝動と呼ぶことができる。(中略)もう一方の衝動は、破壊し殺害しようとする衝動。(中略)エロス的衝動が「生への衝動」をあらわすのなら、破壊への衝動は「死への衝動」と呼ぶことができます。(中略)異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていくのです。しかし、破壊への衝動の一部は生命体へ内面化されます。(中略)精神分析学者の目から見れば、人間の良心すら攻撃性の内面化ということから生れているはずなのです。」

85年前の二人の懸念、指摘は、“解決済み”だろうか。
万物の霊長は人間?先進国は文明国?国家愛と郷土愛と世界愛はたまた地球愛…。人間とは何かの問いの答えは、人類があるかぎり永遠に不可能?上昇のない螺旋階段?人間と自然と神(天)。
そして戦争が絶えることはない……。
そのとき、日本が日本らしさを自問し、できることはあるのだろうか……。

小独裁者?が時折頭をもたげる現代日本また世界。その浅薄な饒舌と巧みな暗示に惑わされないよう、己がゆとりを意識し、想像力を培いたいものだ。
重ねてそれは学校年齢段階の最重要課題でもある。

2018年6月28日

大人(おとな)になる・大人である

井嶋 悠

2020年から、成人年齢が、欧米の多くがそうであるように、18歳に引き下げられることになった。私たち[日韓・アジア教育文化センター]の仲間である韓国・中国は20歳のままであるが。現代の社会状況また教育事情、更には情報〔過多〕社会事情からも得心できる決定だと思う。

今回、「大人(おとな)」各人各様、世代、考え方、生き方によって「理想の、或いは善しとする大人像」は違うと思うが、私の大人像について自照整理したい。これも、数限りなく過ちを犯し、やっとのことで得つつある心中の、「他山の石」「人の振り見て我が振り直せ」である。

10年ほど前の発言である。
「最近、地下鉄などで老人に席を譲る若者が減りましたねえ。」
発話者は、私より少し若く、韓日で敬愛され(世代交代から主に50代以上の人々から)数年前に定年退官し、今悠々自適の日々を過ごしているソウルの高校の韓国人男性日本語教師である。彼は【日韓・アジア教育文化センター】の役員でもある。
その彼は続ける。「譲られる老人にも問題がある。譲られて当然との姿勢。そのことへの若者の反感反撥がある。韓国は儒教の国と言われているのですがねえ。」

 

「老人」を“印籠”とするかのように、社会的弱者であることに同情を寄せさせ、己が絶対の聴く耳持たず、持論を滔々と弁じ、傍若無人な振る舞い、障害者等に該当しないにもかかわらず優先駐車場に車を停め等々に、日本で、現住地で少なからず出会った高齢化大国日本の末席を汚す私は、彼の言葉に同意同感する。
これらは「好事門を出でず、悪事千里を行く」の類と思いたいが、併せて、昔は云々、とか田舎の人は善良だ、といった例の文言を言うつもりもない。それらは或る偏見だと思っている。
私たちの家は、関東北部の豊かな自然に囲まれた清閑の地にあり、この地域の居住者は10世帯。半数は移住者で、後の半数は地元の人である。移住者の4世帯は首都圏から(内1軒は別荘)、そして私たち関西からである。最近こんなことがあった。
この1年程野良猫が3匹居ついているのだが、その理由は首都圏からの移住者2人にある。1人は時折来る別荘族の老人(男性)で、来ては餌を与え己が猫愛を言い、もう一人は50代後半の男性で、こちらで単身〈家族は東京〉仕事をしている。後者は、不在中の昼になると「にゃんにゃんにゃん」と自分で吹き込んだテープを定期発信している。(さすがに今は止めている)
私たち夫婦は、その無責任に憤っているが、直接に言えず、そうかと言って市役所に言えば密告者として直ぐ特定され不快になること明々白々。
そんな中、先日6匹の子猫が現われた。当然、実に可愛い。私はひたすら抑制し、眼が合っても無視し近づかない。心切ないのはもちろんである。しかし二人とも一切知らぬ態である。二人は、それぞれに社会的上層人(何をもって上層とするかがあるが、ここでは富裕者としておく)で、一人など某国の子ども支援をしていてそれを吹聴している。
尚、私たち夫婦は、結婚以来継続して犬を飼っていて、現在5代目である。

気になって、犬や猫の「殺処分」の実態を確認してみた。
2015年度の殺処分数は、約8,2万頭(現在、哺乳動物は匹ではなく頭を使うようだ)[内、犬が1,6万頭、猫が6,7万頭。]1日に換算すると225頭。それでも自治体や民間団体の尽力で10年前の3分の1に減少しているとのこと。
放置し、殺処分に到る理由について、この調査では以下のように記されている。

『やむを得ない事情もあるかもしれないが、大半は人間の身勝手な都合による。例えば、引っ越し先に連れて行くのが面倒。世話が面倒。避妊手術をせず無計画に産ませた。可愛くなくなった。飽きた。』等々。

上記二人は、身勝手の一つの極ということだろう。
以前、殺処分の任にある人が、インタビューにその身勝手を怒っていたことを思い出した。
そしてペットショップでは、犬や猫が高値で販売されている。都心の店で、子犬、子猫が40万円50万円で売られて(この言葉自体、非常に抵抗があるが、そのまま使う)いるのを見たことがある。

一方で、東京都内でさえ問題が顕在化しつつある家庭の、子どもの貧困。更には、しばしば指摘される世界の子どもたち、大人の、貧困と内戦等による飢餓、命の危機の現在。
錯綜、不明の時代、現代……?否、永遠の!課題、難題。
高齢化と少子化の途を突き進む日本にあって、アメリカ・中国・ロシアの「大国主義」と一線を画し、「小国主義」(田中 彰[1928~2011]日本近代史研究者)「小国寡民」(老子)の再検討の時機ではないか、と思ったりもする。
反面教師だった一小市民の反時代的意見?

土地の人から「首都圏から来て山中に犬を棄てて帰る人がいる。」と聞いたこともある。他にも、大型家電製品を廃棄する人もあるとか。
言うまでもなく、ここで言う「人間」とは「大人」である。そして老人は、大人の先輩格である。

【付記】犬の養育には非常に経費がかかり、それは猫の比ではない。そして私たちは最近保険に入った。世は“癒し、癒し”の時代!?保険をもっと充実、拡大すべきと実感として願う。

いささか唐突、牽強付会の感を持たれるかとは思うが、犯罪統計を見てみる。
報道等を見聞きしていると、犯罪の過多を印象づけている人は、私も含めて多いように思うが、実際は逆である。例えば、私が25歳の時の1970年と今(2016年統計)では、特異な犯罪(例えばオウムサリン事件や相模原障害者施設殺傷事件)はあるが、刑法犯罪の全体数及び人口10万人中の発生率もおおむね減少傾向にある。「オレオレ詐欺」等の詐欺犯罪も。
なぜ過多の印象を持つのか、マスコミの取り上げ方(劇場型?ドラマ嗜好?)なのか、政治(家)の意図なのか(不安を煽ることでの支配管理指向?)、国際化のなせることなのか(不法外国人への転嫁?)…。
「島国日本」の長い歴史の自省と試練の過渡期なのだろうか。
いずれにせよ子どもに与える影響を思えば、すべての責は大人にある。
ところで、著しい増加傾向にあるのが「児童虐待」である。つい先日、あまりにも酷(むご)く哀し過ぎる『結(ゆ)愛(あ)ちゃん虐待死事件』があり、逮捕された父母は何を語っているのだろうか。
このことについては、私の教師及び親の体験からいずれ整理したいとは思っているが、ここでは参考に統計数字を挙げ、専門家の一節を引用しておく。

○相談件数  1990年    1,101件

2016年   122、578 件

虐待死   2012年   99人
(内、虐待死 58人  心中死 41人(この数は、2006年の142人をピークに以降、増減を繰り返している。)

○川崎二三彦氏・児童福祉司(1951年~)著『児童虐待』のまえがきより。

「保護者は子育てのさなかに、なぜかその子を虐待してしまい、虐待を繰り返しつつ日々の養育にたいへんな労力を費やす。他方子どもは、虐待環境から逃れたいと切に願いながら、同時にその保護者から見捨てられることを恐れ、あくまでも保護者に依存して生きていこうとする。だから児童虐待は、保護者にとっても、また子どもにとっても大いなる矛盾であり、必然的に激しい葛藤を引き起こさざるを得ない。」

「児童虐待の問題は単に関係者、関係機関、あるいは専門家等に任せるだけ
では決して解決するものではないということだ。児童虐待を生み出したのがわが国の社会だとしたら、それを克服するにも社会全体で取り組む、つまり私たち一人ひとりがこの問題に真剣に向き合い、考える必要があるのではないか、と私は思う。」

様々な場面、世相を通して、現代の大人は「カルイ・カルクなった」との苦言を聞くことは確かに多いが、では昭和の、大正の、明治の、江戸の……時代の人は[重厚長大]だったかどうか。先の犯罪統計と同じで、安易に言い切れるものではないのではないか。平成の30年間を迷宮の時代と言う人があるが。
ただ、情報の溺死寸前ほどの氾濫状況、匿名による責任回避の誹謗中傷の無軌道(と言う私は、現政府等のように制度化、管理化推進者ではない。だから難しさを一層思う)、また時間の余裕の無さは、過去にはなかったことだけは確かだろう。
メール等現代情報機器を使った陰湿ないじめ(子ども同士、大人同士、大人の児童生徒学生への)、そして自殺。石川啄木の「はたらけど はたらけど猶わがくらし 楽にならざり ぢっと手を見る」と状況等は違うが、経済大国にして先進国を喧伝する日本での[ワーキングプア]。

次代の日本は、18歳で社会的に大人として承認された若者に始まり、現20代30代40代50代60代の人々によって創られる。70代の私やそれ以上の世代は、それをあたたかく見守ると同時に、己が正負行為からの自照の言葉を送り、託し、何かの役立ちを願う立場にある。
もっとも、小学校同窓の一人(女性)は、病を抱えながらも、土日以外は毎日午前2時に起床し、自転車で仕事場に行き、現場を夫と切り回し、家事も疎かにすることなく精励している。
先日、或る70代後半の女性国会議員が、テレビ取材で意気揚々得々と現役宣言をしていたが、世の「定年」という現実、それぞれの場・世界で、悲喜こもごも心身尽くして来た人々を無視したかのような発言に、国政に係わる人の尊大傲慢を痛感した。大仰に言えば、そこに日本の病巣を見た。先の同窓生との質の決定的違い。

時代を、世相を端的に表わすと同時に、次代の創造の礎である「教育」に思い到らざるを得ない。
その私は、教師失格を自認しているにもかかわらず教育に発言しているのは、27歳の大人時から33年間の体験(私学中高校3校での専任教諭生活)が、“私の言葉”を少しは持ち得たと思っているからで、それは「反面教師」からの自照自省であり、且つ息子と娘の親としての自省の基でもある。

人間として生を得たからには、様々な欲望と自我との間で闘う宿命を背負わされていて、そこから逃れられるのは、自己鍛錬(様々な修業)か死以外にはない。葬儀の際の「お疲れ様でした。ゆっくりとおやすみください」の重い響き。
私をはじめ多くの人々は、とりわけ大人は、どこかで折り合いをつけ文字通り懸命に、一喜一憂日々刻々悶々悪戦苦闘している。私の投稿は、教師として過ごした、また親として過ごして来ている自身の整理であり、生への、自我への執着であり、そのための折り合いと言ってもいいかもしれない。

「五慾」と言う言葉が仏教にある。「五」は地球上の[木・火・土・金・水]と、天と地の交錯を表わしていると言う。「業(ごう)」と言う言葉がかすめる。

【参考】五慾
5つの感覚器官に対する5つの対象,すなわち形態のある物質 (色) ,音声 (声) ,香り (香) ,味,触れてわかるもの (触) をいう。これらは,欲望を引起す原因となるので五欲という。財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五つも五欲という。

 

大人(たいじん)になることは、難行だが憧憬でもある。しかし私は、それにはほど遠い小人(しょうじん)である。時には小人こそ人間らしいと居直ったりもしている。そんな折、この地への移住を決断した妻、それに何ら異議を示さなかった私。「婦唱夫随」。
得た座学ではない学び。自然の体感。そして6年前の娘の死。自照自省への意思が頭をもたげ始め、投稿をはじめて3年が過ぎる。と言って小人を脱け出たわけでもない。ただ私の中で何かが変わったとは思っている。

現職時代、議論の大切さを唱えながら「聞く耳持たず」の独善家、社会変革を言いながら「事大主義者」、慇懃無礼な何人かの大人(おとな)(教師)、それも社会的地位のある人々や、生徒を直接間接にハラスメント対象とする大人(教師)に出会った。小人を棚に上げ、強い苛立ち、憤慨を、そこから嫌教師観を持ったが、今、幾つかの心の層を経て、少しは澄明度が増したのか、その人たちは私の心から消えつつある。遅ればせながら、である。
因みに、前者の大人について言えば、内二人は、辞職を決意させるほどに私の人生を大きく変えた人たちである。

完全な或いは完璧な大人など、世界広しと言えども無いと思う。あれば神も仏も無いはずだから。
かの一休禅師は「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」と言ったそうだが、死に際し、盲目の側仕えの女性(森女)に「死にとうない」と言ったとか。

精神的視点からの「大人像」(条件)を記した文章(筆者不明)から、要点を順不同で挙げる。

《成熟している、思慮分別がある、感情的でない、単眼的でない、長期的大局的判断ができる、自立している、言動行動に責任が持てる、自律できる》

どうだろうか。要は、寛容にして泰然自若。これまでに出会ったそういった人たちの貌が浮かぶ。
ただ、己に照合すると、引用した言葉自体の意味確認も必要であるが、それぞれ反対表現を考えると茫然自失、頭がくらくらして来る……。
大人になって半世紀余り、大人であることの難しさ。

2018年2月13日

『日韓・アジア教育文化センター』回顧   ~韓国・高校・日本語教科書DVD制作の節目に感謝をもって~

井嶋 悠

                はじめに

昨年(2017年)夏、7回目[内、6回は本センターの仲間で、日韓を越えて対話の出来る韓国人男性の高校日本語教師・朴(パク) 且煥(チャファン)先生が主幹で、1回は中学校用を含む。もう一件は、急な事情でセンターの仲間ではない別の韓国人日本語教員主幹のもの]となる、韓国の高校用日本語教科書映像版【DVD】制作に携わった。
[附:文末に撮影の「実際」のリンク先を掲示]

 

私にとってこの活動[事業]の最後になると考えていて、また朴 且煥先生も恐らく最後の教科書執筆になるだろうと話していたこともあり、一つの節目として、今回この撮影活動の顛末と私感をまとめることにした。
これが、現在の日韓問題への、また“未来志向”への日本での有用な参考となることを、更には日本として、アジアを、「国際」を考える何らかの示唆となることを願っている。

 

『ソウル日本語教育研究会』との出会い、或いはDVD制作に到るまでと私

そもそも『日韓・アジア教育文化センター』なるもの、少数の限られた人だけが知る、いわゆる知る人は知る、知らない人は知らない存在ではあるが、発足者の一人として自己史と重ねた概要を記す。本センターの骨格の一部であるとの自負も含め。

尚、活動内容、活動実績の詳細は、ホームページ【http://jk-asia.net/】を視ていただければ具体的且つ全体的に理解いただけると思う。

Ⅰ 或る学校法人理事長の厚意、或いは苦境が幸いをもたらす

日韓・アジア教育文化センターの源流は、1990年までさかのぼる。
当時、私は公務の、それが私事にまで及ぶ自身が招いた艱難辛苦を実感する時期にあった。その時の支えは、私の公私すべてを呑み込み、言葉で表わすことなく、日々を『一日生涯』精神そのままに、二人の幼少児の母親である妻であり、幽かに光明感じさせる言葉を与えて下さった数人の方々である。

私が自身を「日本語知らずのモノリンガル国語科教師」であることに、身をもって知らしめたのは、ひときわ偏差値の高い生徒が集まる女子中高校に赴任したこともあるが、外国人高校留学生やインドシナ難民への日本語教育体験、また帰国子女教育の体験が大きい。
それがあって、私は国語(科)教育と日本語教育(日本語を第2、第3…言語とする人への教育)の、“タテ(縦)”のつながりではない、“ヨコ(横)”のつながりからみえて来る国語(科)教育の在りようを考えたい、と小中高大のごく一部の教員と研究会『関西日本語国語教育研究会』を発足させ細々と活動を続けていた。尚この国語(科)教育と日本語教育の関係は、今もってタテ関係、別領域として当然のように意識されている。

一方で、私の教師原点である勤務校から、夢を追って飛び出したはいいが、赴任先の校長とその人物に追従(ついしょう)する一派の社会的虚偽に強い懐疑を持ち、彼らから言わせれば後ろ足で泥をかけるようにわずか2年で退職した。
しかし、組織の不可思議さとでも言うのだろうか、退職したにもかかわらずその学校を含む法人(小学校以外、幼稚園から大学までを開設)理事長の厚意で、法人全体の『国際理解教育センター』を創設し、非常勤講師として同法人の別の高校に在職し、家族の糊口をしのいでいた。

そのような折、二つの貴重な機会を、やはり理事長の厚意で持つことになる。
一つは、1993年、韓国との出会い。
一つは、1995年、カナダでの福祉教育或いはその社会的実践の見聞。

Ⅱ カナダの障害者教育と実践の見聞[1995年]

後者は、カナダのモントリオールを基点に、主にダウン症の青年たちで構成されるレストランと彼らによる影絵ミュ-ジカル上演事業〔団体名「Famous People Players」〕活動である。本国だけでなくアメリカの心ある人々に支えられ、ブローウエイでの上演実績もある。
私に与えた感銘は大きく、彼ら彼女らから、阪神淡路大震災(1995年)で浮かび上がった社会的弱者の問題への啓発を得たく、日本(神戸)招聘を試みたが、私の能力、力量を遥かに越え、私の中では頓挫した。ただ神戸の福祉団体・機関の尽力で来日が実現した。このような事情から、それがどのような波及効果をもたらしたかは詳らかではない。

Ⅲ 『ソウル日本語教育研究会』との出会いと『日韓・アジア教育文化センター』発足へ

1990年、一衣帯水の韓国・ソウルで日韓国際理解教育(或いはオープン教育)が開催された。
ここで言う国際理解教育とは、『国際理解教育事典』(1993年刊)の「国際理解教育の目的」から要約すると、「宇宙船地球号」の一員として「経済大国」の日本は、何をしなければいけないのか、どのようなパートナーシップをもって、国際意識を育成するのかをテーマとした教育なのだが、私は参加を希望し理事長の許諾を得た。
しかし、「国際(社会・人)」の意味理解が不十分だった私は(今は私なりに得心できる解釈要素はあるが)、世界の日本語教育の約40%を占める東アジア地域の中等教育機関[中学校・高等学校]で最も多い韓国の現状を、この機会に知りたく思い、韓国人日本語教師の紹介を知己の日本人教育研究者に依頼し、実現した。
そこで出会った一人が、創設間もない『ソウル日本語教育研究会』の役員で先の朴 且煥先生である。この出会いが、中国や台湾の日本語教師との出会いにつながって行く。
『日韓・アジア教育文化センター』の名称由来が理解いただけると思う。
名称決定時「教育・文化」との思いもあって、以後1994年から始めた「日韓韓日教育国際会議」「日韓アジア教育国際会議」では、2011年まで続き、広く文化視点からテーマも採り入れている。

その時、私の心底に岡倉天心の『東洋の理想』の冒頭に触れた時の興奮、また鈴木大拙の「日本的霊性」との言葉への直覚が、夢想的憧憬として非現実性を重々承知しながらも横たわっていた。
と併せて、江戸時代の朝鮮通信使一行と彼らを迎える江戸の人たちを描いた木版画に登場する、好奇心(野次馬性)と感嘆の一市井人と同様の感情。

ここであの「大東亜共栄圏」に触れておく。
「あれは当時の私たちにとっても理想だった。ただ日本は行動において大きな過ちを犯した」
これは、阪神地域の大韓民国民団の、阪神淡路大震災で心身疲弊の極に達した親交のあった或る団長の言葉である。

【余談・後日談】その1

朴 且煥先生ともう一人の先生との夕食後の言葉。「会長命令で女性[ホステス]のいる酒席への案内を言われている。いかがでしょうか。」との問いかけに私が辞退したところ、「これまでに来られた日本語教育関係日本人は、ご自身から願われる場合もあったのですが……。」と。
朴 且煥先生曰く「お断りにならなかったら、今日の交流、協働はなかったかもしれない。」
私たち相互理解の会話の唯一無二の潤滑油は酒で、その場には女性教師もいた。

Ⅳ 映像作家たちの出会い

1994年に始まった交流(国際会議)の過程の中での、若手の映像作家たちとの出会いが、或る時の会議の映像記録制作となり、それが教科書のDVD制作につながって行く。
その作家たちとの出会いを創ったのが、苦境を経て当時『新国際学校』(2001年に日本で初めて創設された、私学一条校《私立学校》とインターナショナルスクールとの協働校)と称されていた中高校在職時に出会った、インター校在籍のS君である。彼は卒業後、ニューヨークの大学で映画を学び、帰国し、東京で活動を始めていた。
更には、初期の会議での朴 且煥先生の模擬授業「歌って学ぶ日本語」の講師をしてくださった方も、先の知己の人の働き掛けで実現し、その方とは現在も交流が続いている。

【余談・後日談】その2

S君との出会いは、彼が中学3年次での日本側の国語授業への参加〔彼の父は日本人・母はイギリス人〕と、在籍の大阪インターナショナルスクール(第1言語、共通言語は英語)で実施されていたIB[国際バカロレア]教育課程での「日本語」である。
ここ数年、IB教育が一部の教育関係者で話題になることが増え、本来はフランスが出発点で、世界の多くのインターナショナルスクールで展開されているが、日本の私学一条校でも採用されつつある。
ただ、その相違については、「日本語」プログラムが或る条件のもとで実施されているとは言え、十分な検討、確認が必要であろう。尚、昨年(2017年)日本で「IB学会」が創立されている。
日本で、10数年前、「横断的総合的学習」(総合学習)が導入されたが、「ゆとり教育」総批判と歩調を合わせるように過去の遺物と化した感がる。とりわけ「横断的総合的学習」(総合学習)にはIB教育に通ずる内容もあり、小中高校一体で考えなければならないにもかかわらず、それぞれの現場任せにしての対症療法的施策には、他の施策同様、日本の限界を感ずると言えばあまりに傲慢か。

日本語教科書映像補助教材[DVD]制作

韓国では、大統領が替わる毎に、教育課程の見直しに合わせ、教科書の改訂が行われ、その都度、教科書編集と新たなDVD制作が必要になる。ただ、DVDはあくまでも補助教材であり、編集・制作の必要条件ではないので、筆者や出版社によってはないところもある。
改訂とは言え、根幹はほぼ同じで(中学校用も含め)、日本への1年間の留学生(女子生徒)を中心に、学校・ホームステイ先・街等での、様々な会話で日本語基礎習得が図られる。

以下、撮影に入るまでの経緯と私なりのコメントを記す。
撮影日数は3日~4日に凝縮して行われる。多くは11月~12月にかけて。一度だけ夏に撮影。
スタッフは、先述したS君を端緒として知り得た、映像作家、デザイナー、著述業等5人で、彼らはすべてフリーランスで活動している。

学校探し[発音の関係、東京の街であること、との希望から首都圏に限られる]

受け入れ校(撮影許可、協力校)が決まれば、3分の2が達成できた感があるほどであるが、それは言い換えれば最大の難関でもある。国際交流団体、機関に打診、依頼する方法もあるが、私自身が意思疎通に不安を持つこともあり、それは最後の最後の手段と考えている。主人公の留学生役は、許諾いただいた学校の生徒を基本に決定するが、希望者等ない場合、一度、外部機関(例えば、日本語学校等)に打診し、選出したことがある。(有償で)学校関係での撮影内容 [以下、その都度いささかの変更もあるが、基本共通事項を記す。]
そのような中、埼玉県内の公立中学校・高等学校、神奈川県内の高等学校、東京都内の私立高等学校に、知己の教員の尽力で実現した。
基本は、これまでに出会った学校関係者で、私たちの良き理解者への打診であるが、私の教職時代がすべて関西であることもあって、首都圏の場合、非常に限られて来る。

※ホームルームクラス
※職員室・図書室・保健室等
※部活動
※昼食(食堂)
※登下校

【許諾された校長からの苦労談】

○学内協力者(生徒・教職員)の決定

○交流が韓国となることでの保護者会の不一致[嫌韓・反韓感情…]

○ホストファミリイの決定(保護者会への依頼)

○教職員、保護者への周知徹底と合意形成

○学外撮影(羽田空港・浅草等都内)での引率問題

○公立校の場合、教育委員会との連絡、手続き

 

ホストファミリでの撮影内容

※父母兄弟(姉妹)との会話、また外出
※食事場面

【許諾された家庭の苦労談】

○父母の出演[不可の場合、学校教師も含め外部者に出演依頼した
ことがある]

○食事等での材料また出前等調達
[ほとんどの場合、私たちが事前に購入準備]

○韓国側の希望部屋への対応[時には若干の模様替え。
もしくは学校内の和室等を代用]

 

街中での撮影内容

※祭りと露天(夏祭り、たこ焼き等)
※食事(お好み焼き、カレー等)
※部活動試合
※見物(浅草、スカイツリー等)
※空港での送迎

【スタッフの苦労談】

○事前場所確認と場合によっては事前予約

○撮影の際の関係者以外の人々への細心の注意と配慮

○時期外れ(部活動試合、祭り、露天〈金魚すくい等〉)の場合の写真
との合成作業
[金魚すくいの場合、スタッフが金魚卸店を事前に見つけ、そこで
撮影(冬期)]

○撮影器具等の管理と運搬

 

《撮影終了後の韓国・出版社との編集作業に関して》
これは、上記スタッフの監督が中心となって行うが、韓国の「直近文化」(これはこれまでの経験で、何事も直前に怒涛のごとく行動するのが韓国国民性と思える、私の勝手な表現)と日本的慎重さと締切の問題から、なかなか微妙な問題を抱えることになる。
経費問題
これまで為し得たのは、先述のスタッフ5人の理解と献身、そして出演等、時に無償で、受け容れて下さった方々の協力以外何ものでもない。

日本円と韓国ウオンの交換比率が概ね1:10の経済事情、及び教科書出版会社[韓国]の予算構成から、制作費は出版社予算と日本の一般的予算はほぼ1:2で、妥協点をどこに求めるかが、現実的なもう一つの大きな課題となる。

撮影は数日の限られた時間だが、その瞬時々々の何と濃密なことか。終了したときの安堵と喜びと疲労がそれを証している。
私の役目は、無事故で終わるよう遠目から見守ること、休憩時、昼食時に買い出しに行ったり、会計をすること、そしてロケ隊が出掛けたとき荷物の見張り番留守番役といったところだろうか。
私の到らなさからの関係者への失礼、失態は察して余りある。
一方、
出演を承諾した生徒たちの活き活きした表情。監督・スタッフの指示を聞き、心から楽しむ姿。DVDを見聞きしはしゃぐ韓国の高校生の姿が眼に浮かぶ。無意識の国際交流の実践。

或る協力校で教員が言った「この子たちは褒められたことがないんです」との言葉の重たさ。

出演した高校3年生の或る生徒が言った「まだ将来の見通しが立たない」との言葉の重たさ。

協力くださった学校関係者、それ以外の方々への深い感謝は、あらためてここでことさら言葉に表すまでもないだろう。
私の教師時代とそれ以降の私を、幾多の様々な貌(すがた)を思い浮かべ静かに省みる時間を持てる幸い。

ありがとうございました。

 

DVD内容のリンク先   https://vimeo.com/255377059/ca13e62d62