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2015年12月5日

犬、その大いなる仁愛・慈愛

井嶋 悠

晩生(おくて)。晩熟(おくて)。私はその一人で、晩稲とも書く。と言っても、70にして熟したわけでもなく、そのような品種として生まれたようでもないので、年月が経っているだけで旨い米も提供できない。当然、早生、早熟[わせ]であろうはずもない。やっと「生」(生(せい)。生まれる。生きる。)が少しは分かり始めたかなと思うくらいである。
これは、何かの折に幾度となく周囲から言われて来た「お前は、何するにも10年遅れてる」の実感得心と重なっている。ただ、漢字表記としては「晩稲」に愛着を持つ。農耕系の風貌?と心構造がそうさせるのかとも思ったりしている。
この心境に導いたのは娘である。その娘の“霊”の後押しを得て、或る日突然のようにモノを書きたくなり、NPO法人日韓・アジア教育文化センター(2004年認証)の《ブログ》に場を借りて、私物化するかのように投稿している。
「死は人を目覚めさせる」なのかもしれない。

そんな私だから人間関係はちぐはぐで上手くなく、かと言って本性に孤独への強さなどどこにもなく、我がまま勝手の見本のようなもので、それが一層動物好きにしているのかな、とこれまた勝手に思っている。思われる動物こそ迷惑千万なことである。
幼い頃からいろいろな動物を飼って来た。猫、二十日鼠、犬、昆虫、金魚、亀、小鳥……、そして今、犬を愛玩ではなく、かけがえのない同居人〈犬〉との心境に達し、8歳のフレンチブルドッグとシーズーのいわゆる“ミックス犬”(雌犬)とほぼ寝食を共にしている。
これはあくまでも私からのもの言いで、彼女からすれば、私と寝所(ベッド)をシェアーしている感覚にあるようにも思えるし、彼女は私を自身の料理番として親愛の情を寄せているように思える、と妻は嬉しそうに言っている。

この同居人を我が家にもたらしたのは娘である。
関西から共に移住して来た2匹の犬(ゴールデンレドリーバーとシーズー)が、前者は高齢で、後者は病気で相次いで死に、娘自身が心身悪戦苦闘中で、新たに飼うことにしたのである。
ミックス犬は純血種より病も少なく長命との評判もあってか、今では高価な犬なのだが、当時はさほどでもなく、更には娘の頑張り!で半額で購入した、生後数か月の、手のひらに載るほどの、切ないほどにいたいけで、娘が使っているクッションにさえ上がれず、クークーと消え入るように泣いていた犬である。
心身不安定もあって、娘の躾教育は、時になかなか厳しいものであったが(私たちはその都度彼女に話し掛けたものだ「ごめんね、おねえちゃんしんどいの、我慢して」と)、彼女は従順に、それでも時々怖げに、吸収し、私とは違って早生なのか、「学習能力の高さ」を示し、日々確実に良識犬として成長した。
犬の1歳は人の18歳で、それ以降、人の5年単位が1歳との説に従えば、彼女が30歳頃の時、彼女の飼い主、娘はこの世を旅立った。
その時、彼女はその事実を明らかに承知しているかのようにクーと泣いた。その声と姿は今も私に明確に残されている。

亡き飼い主の跡を継いで3年余り。彼女が前の飼い主のことを心に留めている、と何か具体的な行動があるわけではないが、ふと思うことがある。
私は人語であれこれ話し掛ける。彼女はじっと私を視る。眼がああだこうだ語っている。ときどきの眼の表情の違いから、私はああだこうだ想像を巡らす。そこで対話が成り立っている、と私は勝手に思う。思うことで私は私を救っている。おかげで相当に孤独への強さが培われた。
彼女は散歩のときも私を労わる。彼女は少し前を行くのだが、足腰の弱りつつある私を思ってか、時折立ち止まり、私の足元をじっと見て再び歩き始める。そしていつもの折り返し地点に来ると私を見上げ、私が「帰ろうか」と言えば踵(きびす)を返す。時にはその地点に来ると、チラッと私を見て自ずとUターンする。

この私の体験から思う。彼ら/彼女らはただ話さないだけで、人を直覚しているように思えてならない。「犬(動物)好きは犬(動物本人)が知る」である。
動物はじっと人(飼い主)の眼に心を注ぐ。初め人はたじろぐ。しかし、直ぐに己が浅薄さに気づかされ、微笑み返す。その瞬間に流れる以心伝心。
動物は一切の作為なく自然に自身の時間に身を委ね、人は安らぎと温もりを与えられる。動物が人の心の治療に大きく貢献する事実も、その交信があってのことであろう。
思い巡らせる時間の力。識者がしばしば言う「想像(力)」の重さ、深さ、大切さである。氾濫する情報(知識)と“私の”智恵に向かってそれらを取捨選択し統合する至福の時も持てないかのような、現代日本感覚での“人間らしい”生活のための慌ただしい日々刻々。いそがしいとの漢字が「心+亡」であることにあらためて気づかされる。

先のゴールデンレドリーバー(雄犬)もそうだ。猛烈なやんちゃの子ども時代を経てほぼ10歳、老いの境涯を携えて移住した当時、私の関西との往復生活が続いていた或る夜、1か月ぶりで戻って来た私を迎える彼のしぐさ、眼差しにいつもと違う情愛を直感したことがあった。その深夜、彼は旅立った。「オトンを待っていた」。これはその時の娘の言葉である。
大型犬の子犬時代のやんちゃぶりは相当なもので、彼の場合、どんなに注意しようがお構いなく手当たり次第に家具をかじる。思い余って台の柱にくくりつければそれを移動させ!且つかじる。そのことを、やんちゃラブラドールを飼っていた或る女性作家は「床柱に独自の彫刻を施し」と書いている。犬への深い愛情あふれる表現に感心した。表現を生業(なりわい)とする人は違う。

犬は、(動物は)飼い主を直覚する。
こんな一文に出会った。表題は『妻と犬』。筆者は、生きる過程で困難な課題を背負い続けた昭和の作家島尾 敏雄(1917~1986)。(以下、「  」は作者の表現)

―作者と妻が過ごす家にいつしか住みついた犬。作者は飼う気など全くなかったのだが、「けものを飼いならす一種の才能」を持っていた妻がクマと名付けて飼い始めた。クマは、厳しい「過去の古疵(きず)」を心の奥に持ち、今も不安を抱いている作者の妻である飼い主にひたすら尽くし、二人を護る。鑑札の手続きもせず、食事や散歩の世話をしていない飼い方に「このましい飼い方」とは思っていなかった或る時、「からだの弱い妻」にはクマの世話は過負担で、しかも娘が入院することにもなり、夫婦合意で保健所に通報することになった。保健所員が来て、大捕り物になる。その描写に続く文。

「……家の縁に立っていた……妻の方にかけ寄って来て、妻の目をじっと見上げたと言うのだ。妻はこころのちぢむ思いで、でもクマをかばおうとせずに、じっとつっ立ったままで居たところ、その妻の態度を見てとったクマは、今まで狂わんばかりにあばれまわっていたのに、そのまま、妻の目の下におとなしくうずくまってしまったのだった。もちろん捕獲人はすぐクマの首に針金の輪をひっかけ、捕獲車の方にひっぱって行ったけれど、クマはもう一声も発せず、また妻の方を振り向きもしないで、捕獲人の手あらな扱いに身をゆだね、車の中に投げこまれたまま、連れて行かれてしまったのだった。やがて、クマは殺されてしまったろう。……妻はまた、ときどき思い出したように、夜の庭の闇に向かって、「クマ、クマ」と呼ぶことをつづけていたのだった。」

ここでこの一文は終わる。

その直覚と底に流れる飼い主へのひたむきな仁愛、慈愛。動物を、犬や猫を飼った人はほとんど同意共感するのではないか。
ただ、私は犬にそれをより強く直感する犬派である。猫は唯我独尊性がより強固で、仁愛慈愛があっても突き放したところから発しているように思え、寂しさに弱い軟弱で主観的な私には、客観性との意味合いでの冷たさ、厳しさを思いたじろく私がいる。夏目漱石の『吾輩』は、やはり猫であってこそ説得力がある。

猫派に女性が多い。なるほどと思う。女性の生きる力は大地であり、大海であり、男性のそれより強靭である。平均寿命の長さが、その科学的証明の一つかもしれない。
男女の死に深浅はない。しかし、女性が自身で死を選ぶことの巨(おお)きさに、男性はより心を向けなくてはならないと思う。
日本は、今もって男・女生きる諸相であまりの精神的貧困にもかかわらず、世界の指導者意識を言う。言うのは現首相を筆頭にほとんどが男性である。先ずそう言う老若(特に老?)男性の謙虚な自省からの自覚なしには貧困はなくならない、と男性の一人である私は思う。

「日本はもう終わった」と寂しくつぶやく大人が、高齢者が(私の知り得ている限られた数かもしれないが)、増えていることに、政治家、官僚、学者、またマスコミの、日本を牽引していると矜持している人々は気づかないのだろうか。それとも、タテマエとホンネを使い分けることでの優秀さにある保守性ゆえに気づいても気づかないようにしているのだろうか。知らんふりをする、無視(ネグレクト)する、要は切り捨てなければ日本の繁栄はない、と。

自治の最高峰でもある大学も含め学校教育世界は、新版富国強兵をひた走る政府と財界の、どこまでも下部組織なのだろうか。それとも自治の担い手の生徒学生そのものが、それを善しとする時代なのだろうか。否、私たち大人が、教師が、それを自明の当然としているということなのだろうか。

これらはすべて私の体験とその内省自省からの言葉、それも人生終盤を迎えての、である。
その時、娘が引き合わせた愛犬は、晩成品種の稲に失礼ながら晩稲(おくて)の私に今日も寄り添っている。

2014年12月12日

私の60代最後の、娘の三回忌の、2014年の有終に ―妻の勇断が英断へと紡ぐ10年間と2015年へ―

井嶋 悠

時は瞬く過ぎ去り、宝塚(兵庫県)から栃木県に移住して10年が経つ。「10年一昔」。
この感慨は、奈良時代8世紀に、私が憧憬する60歳最後半からの数年間の中、『萬葉集』に秀歌を遺した、筑前(福岡県)守にして歌人・山上憶良について、或る著名な文学研究者が記している「七十余年の生を空しく過ぎたという、ほぞを噛むような悔恨」を、言おうとしているのではない。
むしろ逆である。
我がまま勝手な人生を経て、妻、娘、息子そして私を好しと思ってくださった方々の直接間接の愛情(愛(かな)しみ)があっての、この十年の中で得た“智恵”を、60代の最後に書き留めたいとの思いである。

【参考】以下は、教科書にしばしば掲載される、父母、妻子への、庶民への愛の歌 [例えば、「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」や「貧窮問答歌」] もさることながら、私がここ数年に魅かれることになった山上憶良の、晩年ならではの歌である。

○「世間(よのなか)は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」(巻第五 793)

この歌は、妻や妹の重なる死にみまわれた僚友で歌人大伴旅人の心を思っての挽歌で、その背景には、彼自身が詠む老醜に懸る「・・・人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男(お)は かくのみならし・・・」(巻第五 804)との思いも重なっている旨言う人もある。
更には、憶良の辞世歌「士(おのこ)やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立たずして」(巻五 978)から、憶良の心の苦しさ、屈折をも重ねて想像する人もある。

尚、秋の七草を詠んだ「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなえし また藤袴 朝顔の花」(巻五 1538)は、憶良の作と言われている。

 

移住は私が59歳、33年間の生業・中高校教師生活を退く半年前。すべては東京人の妻の勇断である。
先ず妻と私の実母(父母は私が小学生時に離婚し、以後独り生活の天涯孤独で、妻が引き取ってくれる。移住3年後に死去。享年85歳。父は私が55歳の時に死去。享年83歳)と愛犬2匹が移り、私と、心身の闘いを始めていた娘は、3年間の往来を経て定住する。娘、19歳の時。

大都会で青少年期を過ごし、兵庫(西宮・神戸)・大阪(箕面)で、私学教職を経たがゆえに体感し自覚させられる、自然と人間に係る、また都市と地方に係る、私の頭理解、知識の皮相。そこからの感得へ。

自然が在って人・心の安寧、おおらかさ。はにかみ屋(シャイ)気質の県民性、寡黙な言葉の端々からこぼれる優しさ。
(私が、これを言うとき、田舎人=善人とのあの図式ではない。ただ、首都圏等からの移住者家族の小学生が、地元の小学生を「臭い・汚い」とさげすみ、疎んじ、それに親が注意しない実態については、以前、このブログに書いた。)

一方、

公私立小中高校生、「塾」通学が、摩訶不思議とは言え必然、当然の時代にあっての教育環境での、
若者の雇用環境の限定性での、
車なくして生きて行けないとの意味での車社会と過疎化と高齢化での、

本人の意志とは一切無関係の格差の実態。

しかしそれらは、娘の心身戦いの末の死という恐るべき事実も含めて、妻の勇断が、無知な私を鞭打つかのように英断へと感じさせる日々でもある。
ただそこには、金銭管理能力皆無に近い私にもかかわらず、妻の結婚30年間に及ぶ蓄えへの深謀遠慮とやり繰り上手と、最低限度の生活保障を得た年金生活者からの、無責任発言であることの後ろめたさがあるのだが。
その一方で、主に都市圏在住のマスコミ人の、知識人の、はたまた文化人?の、一部?の人々の傲慢と虚飾を、自省を込めて糾弾したい私もある。

先の負の格差は、「大国」の、「近代化」の宿命として甘受しなければいけないということなのだろうか。

(補遺:「大国」の意味として地理的環境と経済を考えたとき、前者の国土面積は、2013年時点、世界244か国中62番目で、朝鮮(韓)半島より約150㎢大きい。
ただ、山林地域が約60%を考えれば94位前後で、地理的には小国であると私は思う。)

教育は社会を映し出す鏡そのままに、「国際」から「グローバル」との表現に、自然に?移行しつつある今にあって、世界の貧困地域での子どもたちの惨状が伝えられ、それに涙し、何もできない(しない)私に歯がゆく、苛立つことはあっても、結局はやむを得ないとして受け入れてしまっているように。
「愛情ほど同情より遠いものはない」1935年(昭和10年)代に駆け抜けた、ハンセン氏病〈当時は癩病〉作家、北條民雄の憤怒の言葉が今も突き刺さる。
また、古(いにしえ)の東西の思想家が、「小国」を前提にしてこそ「理想郷・桃源郷」が構想できたことが教えるように。

それでも、日本の歴史と蓄積された伝統からの、信念を持った“日本的”発言はあり得ないのだろうか、と思う。いわんや“小国”日本として、と。

これは、大国小国関係なく、要は「弱肉強食」が絶対前提ということに帰着し、形容語は使用者の価値観を表わしていて、日本での「弱い」と「強い」の今昔に思い及ぼすことは、心と頭と時間の無意味な浪費、時代錯誤なのだろう。
国の在りようを根元から考え直す荒唐無稽、一笑に付されることとして。

しかし、今から110年ほど前、文明開化、富国強兵、殖産興業と猛進していた明治時代後半、日本の将来に、一人は拝金主義から、一人は精神の在りようから、不安と懸念を表明していた、それぞれに確かな足跡を残した政治家・尾崎行雄と作家・夏目漱石を、私たちは持っていることを思い起こしても良いのではないか、とも思う。

この感覚は、青年時から私の中に在ったのではない。この10年の時間が顕在化させたものである。
そこに導いたのは、自然の息吹に日々24時間包まれた世界での自照自省であり、娘の死であり、更には次々に甦って来た私の身辺の人々の死である。

娘は言う。「生まれてからの19年間の、関西でのすべてを断ち切って来た」と。
死の間際に知った、中学時代の教師との軋轢、教師からの露骨な排斥[いじめ]、高校時代の教師不信を思えば、その痛苦、懊悩の断ち切りを誰が説諭できよう。
死後に、「なぜ、その時に訴えなかったのですか」との、然もありなん言葉に接したが、それらは私からすれば、娘の教師不信、と親への配慮を共有できない人の発言である。
全的に娘を正当化し、教師を糾弾し、更には幾つかの教師事例から教師全体に広げる偏狭さに堕しないよう心掛けてはいるが、娘の非、教師の是を、それぞれの表現で言う人の方が多い。
なぜだろうか。
私33年間の生業は、その教師だった。

再生への決意はままならず、妻の、己を棄てた母としてのひたすらの献身も奏することなく、移住して3年余りの一層激しくなる闘病の後、2012年4月、天上に昇る。
その時に信仰者から受けた「還浄」「神は慰労をもって引き戻された」との言葉は、信仰心の薄い私たちにもかかわらずどんなにか慰めとなったことだろう。

今、2014年を終えようとしている。
自然が教える孤独の愉悦と、併行する未熟さ露わに夜毎にも近い病と死へ不安と怖れ。
そして、生きることの三つのかなしみ[悲・哀・愛]の、その後ろに在る心象「空・無・玄ゆえの有限への目覚め、自覚」の、遅遅にして幽かながらも沈潜して行く実感。

明後日、衆議院の選挙がある。
首相を筆頭に与党の、更には多くの野党の、人であることをないがしろにした独善的で、「かなしみ」の対極にある傲慢さを思い知らせる選挙との期待は、感傷の木端微塵の選挙前予想。
「弱肉強食」?「優勝劣敗」?「適者生存」?「自然淘汰」の自然とは?

先に書いた作家・夏目漱石は、1911年(明治44年)、『現代日本の開化』と題する講演の最後の方で、次のように言っている。

――現代日本が置かれたる特殊の状況に因(よ)って吾々の開化が・・・ただ上皮(うわかわ)を滑って行き、また滑るまいと思って踏ん張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。・・・・・・
・・・私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。・・・。――

それから100年余りの現在。
1945年、第2?の開国?を経て、文明国にして先進国そして経済超!大国の現代日本の今。
夏目漱石の言葉は死語なのだろうか。

選挙の10日後はクリスマス。
私はクリスチャンではないが、クリスマスの音楽に魅かれる一人で、中でも16世紀のイギリスの古謡『The First Noel』(「Noel」とは詩語で、クリスマス祝歌の意)は、最も好きな曲で、聞くたびに心洗われる。
(ただ、「Born is in the king of Israel」といった詞のある歌詞については、今は触れない。)

その「Noel」が、タイトルになった2004年・アメリカ映画(群像劇)を観た。
そこでは、クリスマス・イブのニューヨークを舞台に、華やかさとはほど遠い5人(それぞれの3人と婚約している2人)の主人公たちの「哀しみ」が、「愛(かな)しみ」に移り行く姿が、主人公の一人への「奇跡」を契機とともに描かれる。

その情調・構成・間・編集(街の光の明暗の巧みな挿入等)・名優たちの演技(とりわけ主人公の一人、痴呆症で10年来入院する母親を労わりながら仕事に専念する、結婚と離婚そして生まれて間もない子どもの死を経験した質朴純真な中年女性を演じた、スーザン・サランドンの秀逸)等々、総合芸術に相応しいスタッフ・キャストの素晴らしい調和。
その要の監督(チャズ・パルミンテリ〈俳優で、これが初監督とか〉の力と感性。

国内外での「異文化(体験・理解)」は、よく聞かれることである。
私自身、国内の移動、移住で、また私たち『NPO法人日韓・アジア教育文化センター』の活動や最後の奉職校であったインターナショナル・スクールとの協働校でも度々実感しているが、同時に民族、人種、風土等々からの異文化を越えた、人の根源・魂の共感、共振も度々経験した。
芸術美、スポーツ美の感動は、その一つの極であろう。映画『ノエル』のように。
5人の群像に籠められた、西洋人からの、しかし西洋人を越えての人間への眼差しと創造への熱意。
そこに集う名優たち[スーザン・サランドン、アラン・アーキン、ロビン ウイリアムスなど]の良心。

生きることで誰しもが経験する哀しみ。その憂えの時、或る人は他の或る人との出会いで、或る人は宗教を知り、或る人は自然との対話で、また或る人は・・・で、「愛しみ」を知り、新たな生へと進む。
『萬葉集』や『竹取物語』等々、日本の古代人(こだいびと)が「愛」を「かなし」ととらえるその優しさ溢れる感性に讃嘆する。
にもかかわらず、現代日本の自殺率は、文明国・先進国と言われる諸国・地域で世界1,2位に、それも10年以上も続いているという怖ろしさ。
その無神経さの真因は、一体どこにあるのだろう。

多くの識者たちは“合理”から《弱さ》を、優しく諭すように指摘し続けるが、私は、自身の無知浅薄を知ってはいるが、それに合理で応ずることができない。
そして自殺高率は今も続いている。
対症療法ではない根治療法を考えることが、日本・日本人の現代を、人の生と社会と時代の私の価値観を確認し、それが私の子子孫孫次代を考えることになる、との思いが益々強くなる。

クリスマスの1週間後に迎える2015年。正月。新年。
「七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)をこえず」(孔子)の自然(自ずから然り)へ、私流「天上天下唯我独尊」(釈迦)の味覚へ、修行、行者を倣う不自然な私ではなく、どこまでも私的な方法で少しでも近づける時間を、そのために父母・妹・娘・友人・師・愛犬との再会と謝罪を先送りにしてもらえれば、と相も変らぬ得手勝手そのままに、冬のこの地ゆえの静寂の中で年の暮れを迎えようとしている。

 

 

 

 

2014年5月24日

「私」の、自然な老い大願成就・・・・―最後?の「私」を求めて―  [2]老いの中で甦る二人の面影の  もう一人

井嶋 悠

私を教師人生に導いた高校時代の「恩師」に見る「かなしみ」

その先生を「恩師」と自覚したのは、その先生が、深夜、自宅から遠く離れた路上に倒れ、某宗教団体が運営する救済病院で、独り最期を迎えられたその夜、お母上から連絡を受け、自宅に伺った時かもしれない。

先生は、閑静な住宅地の、旧家の家柄と言われるに相応しい古いお宅の和室で、その和室こそ先生と私の摩訶不思議な“師弟”の対話の場所であったのだが、50年間の人生に別れを告げた寂滅の静けさの中に在った。薄っすらと眼を開けて。まるでまどろんでおられるように。

老母は(お父上は、私が先生と出会った時にはすでに故人であった)、一人息子である先生とのそれまでの、とりわけ後半生での憂悶(先生の、破天荒な教師時代、結婚そして離婚、小学生の娘との惜別、アルコール依存と家庭内騒動……)を凝縮させ濾過させたかのような、静かな涙声で私に言われた。

「見てください。生きているようでしょう。」

死は明らかに憂苦を洗い出し、先生を絶対平安に昇らせていた。

その時、高校時代の出会いに始まる15年ほどの時間が、前後脈絡なく通り過ぎ、「ああ、先生は、やはり恩師なんだ」と。
私は中高校教師になって数年の30代半ば、その教師に、そして59歳までの33年間の、自他誰も考えなかった教師人生に私を導いたのが、その先生だった。

私が、放縦な、しかし人々の不思議な出会いと別れを経た東京生活に終止符を打った顛末は、前回記した。28歳の時、40年前のことである。

天意は何をもって私を教師に向かわせたのか、それが確認できるのは娘との再会の時なのだが、ただただ吃驚(びっくり)仰天、“先生”(中高校国語科教師)就任への号令を下したのがその先生だった。


今、思う、何という皮肉、残酷。

14歳の娘に酷い(むご)仕打ちを、
(その事実を私たちに話したのは、死を迎える1年前であり、それも私の性格[激情、短気]を知っているため、先ず母親に、でその後である)、
娘自身が良かれと選んだ高校で失望と裏切りを、
(その高校は1年の途中で退学、他校に転校。因みに退学届を出す際には、理由は「進路変更のため」と書くように学校から指示を受ける)、
独善とそこからの権威をもって一切の非を娘と家庭の問題に収斂し、娘が7年間の心身の葛藤の末、哀しみと疲れに打ちのめされ23歳の2012年昇天する、そのきっかけを作った教師たちと、私は33年間同業であったのだ。

言うまでもない蛇足ながら、すべの教師がそうであろうはずもない。
しかし、娘を“正義派”よろしく、或いは権威的「自己愛」で、他生徒を、同僚を引き込み、切って捨てたような教師が存在することは、私の直接間接の学校世界での経験上(私の場合私立であるが、公立も大同小異である)から明らかである。

そのことの抉(えぐ)り出しなしに学校教育を、社会と学校を論ずることの虚しさと愚かさを、己が死あってこその自省であることを承知しながらも思う。

これらについては、昨年も記したので繰り返さないことが礼儀かと思うが、これが「ブログ」という、社会に発信すること、そしてひょっとして共感者を見出し得ることへの期待を、意図しているので、敢えて二つ記す。

先ず、天上天下、一切、教師という1人間にそのような分限を与えていないということ。
そして、
広島・長崎で被爆された方々への無礼を承知で、
私の父が生まれ育った郷土・京都から海軍軍医として長崎に赴任し爆者の治療にあたったこと、私が、8月9日の2週間後、1945年(昭和20年)8月23日、その長崎市郊外で出生した、という事実に免じて許容くださることを願い、
広島で被爆し、その6年後1951年、鉄路を枕に孤独と無口の一生を自死で終えた、原 民喜の言葉を、娘への私の思いと重ねて引用する。

「…僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いという声がするようだ。今も僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ。僕のなかでまたもう一つの声が聞こえてくる。」(『鎮魂歌』1949年)

その私は、もっと弱く、脆く(もろく)、軽薄短小の駄弁屋で、今年69歳を迎える。
東京から帰宅して2か月ほど経った8月の或る夜の電話。
「何をしてる?」「特に・・・・・。」「何っ!履歴書を用意し、○○(女子)中高校の国語科主任に電話し、行け。」「はい。」

翌日、会ったことのない教科主任に連絡し、その翌日、行ったことのないその学校に行ったのは、夏の陽射しがさんさんと降り注ぐ8月末だった。

裏門(学校関係者間の呼称は北門)から、200メートル程、樹々に包まれきらびやかな木洩れ陽を浴びて小道を上って行くと、突然、自然をひたすらに慈しむ人によって手入れされたことが見て取れる、艶やかな芝生のグランドが飛び込んできた。
そのグランドを取り囲むように、石造りの歴史漂う校舎、くすんだ柿色を基調とした体育館、テニスコート数面、そして10畳ほどの煉瓦敷きを覆う藤棚とその後景の講堂と礼拝堂・・・。地名は「岡田山」。
途方もない世界。

その世界に、9月から翌年の3月までの半年間の非常勤講師として勤務することに。
それが、1年延び、また1年延び、その年、教科内の予期せぬ事態から何と専任教員に。
17年在職し、冒険?と浪漫?から新たな職場へ。その後の波瀾万丈?顛末はここでは割愛する。

先生が、初登壇の私に与えた教師心得が二つあった。
この二つは、教師生活を終えるまで折々に心に蘇り、時に私を叱咤激励することとなる。

一つは、授業の終わりに3分の1がお前を観ていたら大正解と思え。

一つは、授業は廊下側の席を見て始めよ、終わりごろには自然に眼は窓側に行き、全体を万遍なく観たこととなる。逆はない。人は太陽あっての昼行性の動物だ。

前者の、為し得た実感は33年間で数えるほどしかなく、それも大半は教師生活晩年で、同様に後者も時間配分と併せて意図的に且つ自然態でできるようになったのは教師生活最晩年のことである。
先生は、ただただ私たち生徒にとって怖い先生であった。
教科は国語。それもほとんど古典(古文・漢文)。
剣道4段とかで、常に剣を構える、そんな姿勢で、左手に教科書と出席簿、右手には30センチほどの細い竹棒(指示棒兼仕置き棒?!)を持ち、能楽で鍛えた響き渡る声調で講義する。
威厳? そうとも言えるが、とにかく近づきたくない怖さ、と同時に軽々に近づくなっ的風(ふう)を漂わせている。
そこは、今風の教師は生徒への、生徒は教師への、あたかも土足で心に入り込むことを親愛とするかのようなそれではない、それぞれは別世界に在るとの“一線”が生きていた時代の、某国立大学附属高校である。
私は劣等生。
いわんや先生の授業ともなれば、うつむき、黙し、指名されればしどろもどろに応え……。
先生は、1か月に一回くらい、ほとんど唐突に「太宰の墓の前で田中英光はこうやって割腹自殺をしたんじゃ」としぐさする。
当時、太宰治の『晩年』の中の作品『魚服記』に打ちのめされていた私は、その時だけは先生に視線を注いでいたが。

以心伝心!!??
いつしか先生の私への視線が、指名が、増え始め、夏の補習時などでは「井嶋っ!ここに座れ」と最前列の中央に座らされる。

こんなことがあった。
先生が欠勤した時のこと。わら半紙が渡され、要は自由作文の時間。
私以外すべて!?は青春の苦悩を書くのだが、私にそんな高尚さはなく、書いたことは「私はSLの機関士になりたい」。
そして次の時間、先生は私の作文を読み上げることとなる。
私が教師になって思うに、これがその後の、ことある毎に発せられる好意的な「井嶋っ!」のきっかけとなったのではないか、と思えてならない。
更には卒業後に別の先生から聞いた話。
理由がよく分からないのだが(生理的に嫌いということだったのか?)、私に叱声と退室命令を繰り返していた教師(男性)があり、その教師が職員会議で行なった井嶋強制退学提案を阻止したのは、その先生であった、と。
かくして卒業。一浪後、大学へ。
先生は、公立高校に異動。
私個人の葛藤期もあって、2年余りを経て、ご自宅を訪問し、交流が再開される。あの和室で。
先生は万年床に坐し、横に一升瓶を置き、人生の、文学の、といった訪問主目的の話の前に、私は先ずコップ酒をあおらなければならない。断ると会話を始めてもらえないのだ。
話しの合間でのトランプでの「おいちょかぶ」合戦。はたまた競馬論議の拝聴。やがて話題はそちらを駆け巡る。

2か月に1回ほどの例会?
縁あって結婚され、お子さん(女子)が生まれる。しかし安穏な生活も数年。先生の酒量は、ますます増え、痩せ、青ざめた顔、家庭内騒動の日々。老母の苦悶と哀しみ。そして離婚。
先生は、春・夏・冬の長期休みでの入院生活を繰り返し、その都度、買い出しも含め、私が身の回りを世話することになる。時には無理難題を言われ、難渋することも。
病名は聞かなかったが、アルコール依存等からの内臓疾患であろう。
休みが終われば帰宅し、職に復されるのだが、言行が不安定になって行くのが明らかで、とは言え聞く耳持たれず。
或る時、あの和室で、こんなことを言われた。
「高校に、おさげを二つに分け、後ろを輪ゴムで止めている子(女子生徒)がいるんだ。可愛いなあ。」
その時の、先生の、にこやかな自然態での、さびしげな口調、虚ろな眼差しが、今も輪ゴムと言う言葉とともに私の心に突き刺さっていて、生涯忘れ得ない言葉の一つである。
大学3年次での古事記のゼミ発表で、配布用プリントのために先生の勤務校の輪転機を使わせてもらったり、とか私たちの例会は続いた。
やがて、私はほとんど通学実績がないにもかかわらず、大学院進み、何と、その夏には、先生の勤務校の夏休み補習に非常勤講師に呼んでくださった。

しかし、時は、大学闘争(一般用語では紛争)の最中の1969年。
大学は学生たちによって封鎖され、学内外でのデモが繰り返され、教授たちは学生への支持、不支持に分かれ、学内での右翼学生と左翼学生の対立や左翼間の争いは日常化し、時に機動隊が常駐的に居、険悪な、にもかかわらずどこか活気さも感じさせ、“ノンポリ”また無関心派を含め学生たちは、己が人生を思い考え、一日一日を過ごしていた。
共感者との意味でのノンポリの私も。
1年で中退。上京。その東京生活が前回の寄稿である。

そして先生との再会が、先に書いた先生の電話である。

私の身勝手、薄情を苛み(さいなみ)、自身を叱責するが、いつしか時に流されて行く……。
そんな私ながらも、間欠泉のように生の哀しみ、儚さ(はかなさ)、また生死一如が噴き上がる。

東京で出会った彼、恩師、娘、また妹(37歳、癌で死去)、父母、すべては天上に在る。

私は、紆余曲折(と言っても、私が独りよがりで曲折を作っただけで、窮地その時々に、家族をはじめ実に多くの人々が、直接に間接に道の修正と誘導をしてくださっての現在で)を経て、妻の英断で、7年前に、関西から700キロ離れた、この自然の彩りと営みが当たり前にあり、農業と牧畜と温泉が主産業の豊饒な高原地に、家族共々移住して今日在る。
一言追記すると、都市と地方の格差、価値観、意識の差別的画一化に実感させられている。
娘たちの遺骨が納められている井嶋の菩提寺は京都。妻の故郷であり、私の卒業小学校があり、何人かの友人の居る東京まで150キロ。日々の会話は妻と愛犬と自然以外ほとんどない。(長男は私たちの移住とほぼ同時期に社会人となり独立)

豊潤な生・日々への感謝、心身一体で自覚する孤独の喜悦と憂愁そして自覚、昇華。

先生の分、娘の分、妹の分も併せて、もう少し生きたいと新たな勝手を重ねて思う。
天意はどうなのだろう?

2011の、日本が自然災害国であることを再認識させた東日本大震災も、日本と文明を激しく再考させた福島原発事故も、2012の娘の死も、その間のことである。
日本の古典から「かなし」は「愛し」であることを学んだ。
私は、東西を超えて、三つの「かなし(み)《哀・悲・愛》」こそが、生の憂楽の真髄(エッセンス)ではないか、と2,3年前から強く思うようになっている。

そんな私は、日本の風土と歴史から、その文化・文明また美の根っ子に在る感性は、この三つの心なのではないか現代日本からそれらが確実に消え去りつつあるのではないか、と思うに到っている。

何となれば、その眼差しで現代日本を、例えば著名な有識者(知識人)の「反文明的な発言が知的であるような風潮」を切って捨てた言葉とは逆の価値観、で観てみると、私の中で現代日本が整理され、更には次代日本の在りようが構想されて来るのだが。

 

 

2014年5月6日

デアイ人縁

 河野 祐子

 デアイ

いつも△ばかり見て、感じて、継続しているけど、

その周りにはいつもデアイ、縁。

深く感じるトキ。

 

[注:河野さんの再紹介]〈井嶋〉
彼女は、香港生まれ、東京・神戸・シンガポール育ち、現若きOLで、お父さんのタイ勤務(現在は日本に帰国)から、タイの虜になった人で、そのタイついて
は、昨年(2013年10月14日)、「自然」の項に投稿してくれています。

2013年12月31日

日韓・アジア教育文化センターの祖・河野(こうの) 申之(のぶゆき)先生が、11月に還浄(げんじょう)される ―2013年の終わりに―

井嶋 悠

河野先生は、学校法人の理事長であり、仏教者(浄土真宗)にして教育者として学内外広く敬愛されていた。それは、先生の人品、そこから醸し出される風貌が、証しとして輝いていた。そのことから法人葬の案内では、逝去と言わず還浄(浄土に還る)と表わされている。90歳だった。

昨年、娘が旅立ったとき、或るキリスト教思想研究者が私に言われた言葉が甦る。

「お嬢さんは、お嬢さんをこの世に遣わした神が、もう帰って来ていいよ、と戻されたのです。」

それを聞いたとき、私はキリスト教受洗者でも仏教帰依者でもないが、一条の光明を見た。

仏教とキリスト教の通底を思う。

もっとも、娘のそれはあまりにも早過ぎないか、ましてや親より先に、とのこの世の世俗人らしい恨みはあったし、今もあることはあるが・・・。
しかし、そこに天の道理・天意を思ったりするのも、私の宗教への自然な近づきなのかもしれない。

私は、27歳で、先のブログに書いた高校時代の“怪人”国語科教師の配慮で正業[中高校国語科教師]に就き、59歳で退職するまで、3度学校現場を変えた。すべて私立中高校である。
1度目は17年間勤め自身の限界と浪漫からの冒険心で。
2度目は2年して、3度目(最後)は10年して、いずれも、狭小にして自己絶対、己が意に沿わぬ者はあの手この手で排斥する権威主義者で権勢慾者にもかかわらず自由と革新と教育への情熱を標榜する、私の価値観からすれば許容しがたい校長との軋轢、不信から、言わば〝敵前逃亡“? 先方にすれば我が意を得たり? での退職である。

妻と二人の子どもの狼狽、唖然、しかし合意と共感と献身があって、今私はここに在る。
その一人が、7年間の自身の労苦を彼方に置いて本センターを支えた娘であった。
私の中を駆け巡る感謝と自責と不遜と寂寥と空虚と永遠と・・・。

その2度目の時の理事長が河野先生だった。

先生に近しい人から当時聞いた先生評「なかなかしたたかな狸親爺」
幾つかの場面から、狐ではないそれに納得する私はいたが、私の直感は最後まで冒頭に記した信頼であった。

現実の体制・機構内にあって徒労であることを承知しながらの何度かの理事長直訴は、予想通り功を奏せず退職したが、なぜか、理事長の配慮から学園内での二つの非常勤勤務を与えられ、と併行して状況を理解くださった方々の労により三つの非常勤職務で、家族の糊口をしのいだ。

ただ、この2年間と、その後のあり得ない幸いで得た、日本で初めてのインターナショナルスクールとの協働校での最後の10年間の、12年間に実践した国語教育と日本語教育は、それまでの20年間を土台にした発展として、私への活きた財産となり、今日の私の言葉、価値観の骨格を形作っている。
河野先生はなぜ私にそのような場を与えたのか。

二つの先生評は、それぞれに私の中で説明はつくのだが、晩年のご自宅での闘病時代に私だけ許されて伺うことができたこと、また直接に、行間に発せられた私への謝意からも、そして帰宅後の私の訪問記を聞いていた直感力の鋭い娘の感想からも、やはり冒頭の評として先生は私にあり、その以心伝心からだ、と懲りない不遜を承知で思う。

その浪人時代の2年目。古い木造校舎の狭い理事長室での一事、それが、すべての始まりとなった。

当時、日韓で国際理解教育の合同研究会が開催される旨聞きつけ、自費で参加した。
私の初めての韓国訪問である。
もとよりその領域に造詣があるわけでもなく、要は単に好奇心からで、しかしだからこそ研究会だけの参加はもったいなく、或る旧知の日本語教育研究者に依頼し、ソウルで出会ったのが、ソウル日本語教育研究会の会長と役員2人であった。

帰国後、そのときの酒席と意気投合の顛末と日韓交流の提案を理事長に話した。
無言で聞いていた理事長は、衝立の後ろに行き、2,3分何かごそごそされ、「これを使いなさい」と言って差し出されたのが100万円だった。

そして実現したのが、翌1994年、神戸での第1回日韓韓日教育国際会議である。
その時の、理事長の、少年時代を過ごした戦時下の広島での、在日韓国人少年との出会いと別れの話は、そこに参加した日韓の人々の心に、どれほど静かに深く染み入ったことであろう。

その後、中国・台湾の参加も得て、誤解や行き違い、思わぬ疑問、不信等々紆余曲折があったとは言え、幾つの機関、さまざまな人々の支援を得て、現在の活動に到っている。
いろいろと批判する人々は世の常ながら、今、少ないながらも共鳴者、賞讃者を持つ幸いにある。

詳しくは、ホームページを見て下さることで、それぞれの批評をいただけることを願っています。
すべては結果からの話、と合理的に断ずる人は多いと思う。
しかし、私はそこに不可思議な、人との出会い、人智を越えたその後の生、そこに天の導き、采配、天意を思わずにはおれない。
その時、娘の死はどういう天の導きなのか、死への経緯から或る一端を自身に言い聞かせながらも、まだまだ整理できていない私がそこにあるが。

それでも、天意の中でこその、人為の素晴らしさを讃美し、時に絶望し、しかし同時に、謙虚さを自覚する人としての存在を改めて思う。
人々との、生物との、それら一切合財含めた自然との、自然での共生。

この恐るべき速度で進む「文明」化と言葉(論理)化を善しとし先行させる現代にあって、感性の再自覚、再練磨の必要を、ささやかな私的経験から“直感”する。
その時、旧世代?の、それも50年60年またそれ以上の人生時間を経て来た人々が意図的に使う「直覚」という言葉の重さに思い到る。

幼い子や動物は、優しさを直感し、直覚するではないか。
競争はそれがあってのことではないか。

日本は、欲望を手中にしてこそ欲望に()てる、勝つことがすべてであり勝てばいい、の競争にますます堕しつつあるように思えてならない、
との直覚は、多数の?日本人老若からすれば、人生時間はまあまあ足りながら人品足らず、ということなのだろうか。
或いは、どの過去を良いとするかの、良い過去などない・なかった、とのいずれの定見もなく、加齢による感傷に溺れる初老の懐古趣味に過ぎないのだろうか。

ただ、経験上言えることは、そして歴史が証明しているように、学校社会は現実社会を映し出す鏡であり、縮図であり、その逆はまずなく、学校への期待、批判は、社会への期待、批判であって、学校社会だけに是非を言うのは、空疎で、あまりに概念的で、学校社会をますます遊離した世界と化してしまう恐れがある。
学校に注文を付けるなら、そこにつながる社会構造を変革しない限り、世に言う対症療法に過ぎない。しないよりはましで、何年か経てばほぼ同様のことが繰り返される。その学校社会は公私立関係なく、多くは閉鎖的で権威的である。

上記私の日本社会への非生産的で消極的感慨は、この体験からの実感で、同時に私の社会観が、現代日本の現実と乖離した私の限界の証しなのかもしれない・・・。

河野先生

本来の菩薩に還られ、今度は天上から、あの慈愛溢れる眼差しで、私たち日韓・アジア教育文化センターをお導きください。

ありがとうございました。

2013年12月8日

亡き娘が敬愛した三人の日本人男性―元中高校教師であり父親である私が教えられたこと― [Ⅱ] 彼女が語る響きと人と言葉と知識と現代

井嶋 悠

親馬鹿と何と言われようと、彼女が語るとき、そこに邪気、衒い(てら)がないのだ。
それは、父と娘の会話だからとは言い切れない彼女の、幼少時の他人を一切疑わない心根を10代20代とそのまま持ち続けていた透明さが、当然のこととして自然にそうさせているように思える。
因みに、彼女のその心性が、心身労苦の7年間[10年間]につながった背景のようにも思えてならない。

彼女が語るその表現には、例えば大学入試でのAO入試突破に係る「小論文」にある、皮相な似非感覚だけの知識(用語)のひけらかしに陶酔し、あたかも自身が書いたように振る舞う高校生とその指導を勲章とする教師群への、更には「知識人」への、
そして現代日本社会の、結果がすべて指向や効率主義への、痛烈な批判が込められている、と私は、彼女の生前でのやり取りから思っている。

しかし、“優秀な”高校生は、そんな彼女を、その若者に共感する私をせせら笑うのであろう。
長寿化の今にあっても、なぜか18歳が(否、12歳が!)人生の決着時かのごとき世相の敗残者として。

私は「知識人」「有識者」という言葉の響きに、衒い、衒学嗜好そして優越意識を直覚する。

人々・読者に広く受け入れられている高名な作家や研究者の随筆(エッセー)で何度も接した、他者の引用なしに自身の、社会への憤怒を、関心を語ると言いながら、その実、古今東西の歴史上人物からの数限りない引用。それを読んだ時の後悔と自己へと併せての嫌悪。
否、これは私のひねくれ、狭小さで、そういう人たちは古今東西の書に造詣深いがゆえに、自身の言葉が言えない歯がゆさ、苛立ちからやむを得ず引用している良心の顕われなのか、と思いつつも。

とすれば、私など言える場はない・・・。怖いもの知らず、無知の開き直り・・・。ごまめの歯ぎしり。

研究者(多くは大学教師)を中心に、しばしば発せられる若者の無知への懸念。教養の無さへの悲憤。
無知を、無教養を是認しているのではない。
そこにある、知識観に、言葉観に、自己絶対観に、また現代をあたかも戦前の旧制高校時代と同じ感覚でとらえ、不遜に学力低下を慨嘆し、超人的なほどに生徒・学生にあれもこれも要求する狭小で権威的姿勢を教育者の正義かのように信じ、自省など及びもしない、そんな人間性が、私の想像枠ではあまりに彼方過ぎて、理解[合理]以前のことで、皮膚と生理が拒否してしまっているのである。

そんな私は、だからビートルズの名曲Let it beでは、聖母マリアの言葉は、知識ではなく智恵[wisdom]と歌われているのではないか、更にはジョン レノンはだから「Imagine」を作詞作曲したのではないか、と独り口ごもっている。
しかし、かの知識人たちにとっては、私は理知が欠如した大人(非・合理の人間⇒非・現代人)であり、それが教師であることが信じられない、若者はそういった無知な大人の被害者である、と先の慨嘆は、憐憫と同情に変わるのだろう。

娘は、天上からこの私的悲憤慷慨をどう見ているだろうか。

きっとあの人懐っこい笑みを湛え、そばに降り立ち、「おとん」(彼女は私をいつもそう呼んでいた)と優しく語り掛けてくれていると信じているが。

再会での確認事項が更に一つ増えた。楽しみだ。
【補足】

「知識人」の違和感と関連して、流布している「教養人」「文化人」が良いとも思えない。
「教養」の音が持つ柔らかな響きに、ふと好ましさを感じたりもするが、内実の持つ“上流意識”感は、鼻持ちならないし、「文化」は語義的に好ましいようにも思うが、
あまりに到るところで使われ過ぎて、語義も多様な上、疲弊感も漂い、且つまた「ブ・ン・カ」の響きが、妙に軽やか過ぎて・・・。

一層のこと、「趣味人」なんて良いのではないかと、先日、戦後の偉大な政治思想家と言われている、丸山真男の『「である」ことと「する」こと』を再読していて、氏が言う「to be」(to doではなく)こそ、江戸時代を溺愛し、江戸時代の「若」と会えることを夢に創作を続けた、漫画家であり、時代考証家であり、エッセイストであった私が敬愛する杉浦日向子の魅力ではないかと思え、今のところそれで得心している。

因みに、杉浦日向子は、2005年、46歳で、下咽頭癌で逝去した。彼女の書の略歴に次のように書かれてある。

[最後まで前向きで明るく、人生を愉しむ姿勢は変わらなかった。]と。

偉大な「Let it be」の実践者。

私もまだ間に合う・・・。

2013年12月4日

ホームページ更新で心新たに過ること―更新作業を担ったデザイナーからの思い―

山田 健三
(デザイナー・写真家)

はじめに山田 健三さんの紹介】(井嶋)

人と人の出会いの不思議さは、古今東西すべての人が経験し、ある人はそこに天上の神の操り糸を思い描いたりします。そんなとき、不謹慎な私は、神一人では負担         過剰ゆえ効率良くするためには、合理的抽出(抽象)が必要になるだろうが、八百万の神の国日本の場合、八百万集団体制なので具体的対応が可能となり、だから日本人は西洋人とは違って、具体的思考型と言われるようになったのでは、と思ったりします。
閑話休題。

現在30代前半の彼との出会いは、本文にもありますように7年ほど前です。
導きは、私が千里国際学園(大阪)という日本で初めてのインターナショナルスクールとの協働私立学校に勤務していた時、そのインター校に在籍していた日英ダブルの男子生徒です。
この彼は卒業後、ニューヨークの大学で映画を学ぶのですが、そこにいた日本人の一人が、現在「日韓・アジア教育文化センター」の映像責任者を担ってくれている、北海道出身の映像作家逢坂 芳郎さんで、山田さんはその逢坂さんと帯広の高校の同窓生にして同じバスケットボール部だった、という大阪―ニューヨーク―北海道―東京を結ぶ糸のつながりです。

そして、山田さんはアメリカではなくイギリスで研鑽し、東京を拠点に日々精励しています。

 

【本文】
デザイナーとして働きはじめて早十年以上、様々な仕事をしてきて思った事は『物事を大切にする』ということです。
小さい頃から父や母、先生等から言われたそれと同じことではありますが、例えば自分がデザインしたチラシ・CDジャケット・ポスター等作り終った時点で、それに取り組む過程や結果、売れようが売れなかろうがその全体を物事ととらえ、必然性や偶発性等の事も含め大切にしなくてはいけないと言う事です。
たとえそれが人一人の会話であっても『その会話があった』という物事が、その後どのように発展していくかもしれないからです。
『人との出会い』『故人への尊敬』『自分の考え方』『人からのアドバイス』等も『物事』というアプローチであり、それをどのようにしていくかで様々なカタチに変化・拡大・膨張していくので、それを大切にしていきたいと思っています。
七年程前に友人(この人が先の逢坂さん―井嶋、注―)のデザインの手伝い〈ヘルプ〉をしたのがきっかけで、『日韓アジア教育文化センター』と関わりを持ちました。
日本と韓国の教育と言う分野において私のようなデザイナーがなんら接点もないのですが、映像による教育の再発見などもあり今現在も関わっていて、今回も更新作業を担いました。
このように関わるのは、デザインという仕事以外において、自分の必要性があるのからかもれません。
自分の意見が、自分の年の倍以上もある人達と出会い、共感や驚きをいただき、仕事としても頼られるということはデザイナーという職業においても、一人間としても、冥利に尽きます。
これからも『物事を大切にする』こと、そのことを心に銘じ、人々との出会いや仕事において取り組んで生きたいと思っています。
この改訂と言う新たな機会に、『日韓アジア教育文化センター』での私の『物事』からのデザインを紹介させていただきます。
そして、私が大切にしている『物事』が、どのように反映しているか、お便りをいただければ途方もない喜びです。

●日韓アジア教育文化センターホームページ
[URL]http://www.jk-asia.net/

●ドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』チラシ

●2009年フォーラム『東アジアの若者たちからメッセージ』プログラム

●2009年フォーラム『東アジアの若者たちからメッセージ』チラシ

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2013年12月3日

亡き娘が敬愛した三人の日本人男性―元中高校教師であり父親である私が教えられたこと― [Ⅰ]敬愛した三人と私への感化

井嶋 悠

私の娘が、2012年(昨年)4月、7年間(源流までさかのぼれば中学2年からの10年間)の心身悪戦苦闘の末、23歳で「憂き世」を去ったことは、このブログに少し前、教師の傲慢と娘の死の経緯を書いたので省略するが、

根なし草人生を歩んでいながらも、高校時代の恩師やその後の幾人かの人々の厚情に恵まれ、20代後半になって正職(それもあろうことか教職!しかも名門女子中高校!)に就いた私。

そんな引け目もあって、奇妙な屁理屈による感覚的肉体派(要は女子サッカー部顧問等)国語科教師を、一部知性派!?同僚からの蔑みを感じつつも、自認居直り?し職務に励んではいた。

そこには、私を認めてくれる教職員、生徒、保護者があってのことなのだが、やはり負い目は払拭しがたく、一時期専門書購入に励み“積ん読”に勤しんでいた。

その後も、言葉、体よく言えば波瀾万丈の私だったから、心留めてくださる人々の言葉は、より染み入ることが多く(にもかかわらず、その時々で感謝の言葉が言えない自分がいて)、中でも44歳の時に授かった長女、彼女が17歳(さかのぼれば14歳)からの苦闘時代に入ってからはなおのこと、実に多くのことを教えられた。

と、娘亡き後2年目の12月、経過が時に感傷を誘引することもあるが、その時間を振り返っている。

その一つが、彼女が敬愛した三人の日本人男性、昭和天皇・石原 莞爾・三島 由紀夫についてであり、それを介しての私の自照自省である。

そこには、三人を通しての現代日本への彼女の警世の念が強くあってのことで、
太平洋戦争を経た昭和天皇の実在が、象徴としての天皇についてこの混濁した現代日本にいかに重い意味を持つか、とか、

石原莞爾の『世界最終戦論』に見る彼の慧眼とか、

三島由紀夫の1970年の自決を今考える意義とかである。

彼女は自身の勉強未だ途上の恥じらいから、それらについて私にぼそぼそと断続的に語るのである。

それを、例えばプレゼンテーションでのアメリカ式が全盛にして最善とされる現代日本にあって、心身ついて行けない私は、心静かに聞き、含羞という美しい言葉をふと思い出したりする。

古来、表現について、数学用語を使って「帰納型」と「演繹型」が国語科教育で教えられ、今日圧倒的に演繹型が賞讃喧伝される傾向にある。

しかし、何事も一長一短、相対的、使う個人の性向に合わせてこそ表現は生きて伝わる、と思うのは、現代日本周回遅れの生き方(=非・現代人)なのだろうか。

(私が触れた専門家の言説によれば、演繹型はアメリカ系で、帰納型は日本系、イギリス系とのこと。私の職場経験からは、この指摘に得心している。)

その私を娘が相手にしたのは、心身悪戦苦闘から、外との交流を時に恐怖し、時に偏執的になっていたこともあり、直接に語り合える同世代、同志がいなかったからなのだが、
無知がゆえに興味深く聴く私の反応が、母親の無関心無反応と違って、伝え教えることで知的好奇心を一層刺激したのかもしれない。

生徒あっての教師であり、生徒が教師を育てる、である。

 

このへん、先の彼女の父母への対応と合わせて、学校教育(それも12歳前後から18歳前後までの中等学校教育)での、父性と母性の、その両性についてはとりあえず西洋のそれに準じている、在りようともつながっているように思えるが、どうであろうか。

このことは、私の経験から言えば、日本の中等教育段階では母性と男性教員の母性化が、その善悪は今措いて、主流のように思えるし、高校卒業後での彼ら/彼女らの違和感に、そのことも関係しているのでは、と思ったりする。
と言うのも、少なくとも高校卒業後は、どのような進路であれ父性重視が世間で、衆知一致しているのが現実ではないかと思うからである。

余生の時間はあまりない(と思う)が、確認したいとも思う。

彼女が、三人を語るとき、そこには日本文化独善発想はない
語り方同様、謙虚なのだ。「日韓・アジア教育文化センター」の良き理解者であり協働者だから当然とはいえ、旧態然とした右翼、左翼の概念的区分けなどないのだ。白紙から出発している。
そこにも教師の独善、思い込み、概念性への憤り、経験からの彼女の警鐘があるように思える。

それが言える一つとして、彼女の死に際して韓国の、中国の、彼女を知る大人(日本語教師)が自然体で示された濃やかな情の発露、更にはわざわざ日本に弔いに来られたという事実がある。

私は彼女に導かれて、

『畏るべき昭和天皇』という松本健一氏(氏と娘は、私の小学校時代からの友人の仲介で、一度、都内で面会した。その時の、彼女の極度の緊張と松本氏の柔和な微笑みと口調の時空は、春の陽光そのものであった。)の著書に感動し、

東京裁判関連での石原莞爾の毅然とした態度や、辞世の歌で、己が責任を語ることなく、西方浄土に行ける喜びを歌う権力志向権威主義者を象徴するかのような独善、無責任者東条英機への侮蔑に、男気とでも言える爽快さを思い、

当時市ヶ谷駐屯地で、三島由紀夫の檄を聞いていた若い自衛官が定年を迎え、彼の言葉に一筋の真実を直覚する言説に触れ、

元ノンポリ全共闘共感者(シンパ)の一人であったボウフラ的私を思い起こし、その後の、或いは現在の人生をなぞったりするのである。

ところで、強い後悔で心に沈んでいることがある。

東京裁判で東条英機らと同じA級戦犯となった、広田弘毅と松井岩根の二人について彼女が話した時、彼女は遠くを見つめ、静かに「凄い人だった」と言っただけであった。
何が、どうしてなど聞けない空気がそこにあった。しかし、それは生徒としては言い訳に過ぎない。

彼女は、人と言葉のことに思い及ぼしていたのかもしれない。後に、唐木順三の『自殺について』を読み、確信的にそう思う。

再会で聞きたい重要事項の一つである。

それらの時間と併行し、私たち夫婦が暗黙のうちに最悪を意識し始めるほどに、彼女の心身は摩滅していたのであるが、彼女の語りに、翳りとか暗さがあったわけではない。

例えば、映画『太陽』(アレクサンドル ソクーロフ監督・2005年の、ロシア、イタリア、フランス、スイス合作。アメリカと日本の名前がないことに邪推を働かせてしまう。昭和天皇を演じたのはイッセー尾形氏である。)の、1シーン、昭和天皇とハーシーチョコレートの場面を、

石原莞爾がドイツ研鑽中、ライカカメラで美女を中心に写真撮影に陶酔していたことや指揮者小沢征爾氏の名・征爾の由来を、

に異常な恐怖的反応をしていた三島由紀のことを、映画『憂国』(1965年三島由紀夫制作、監督、脚本、主演)を私が以前見ていて自分が未だ見ていない残念さを、

彼女は、実に活き活きと心の躍動そのままの愉快な響きで語るのだった。

 

2013年11月30日

「上海たより」寄稿の井上邦久さんの人生 ―若い人たちへの、そして私自身へのメッセージとして―

 井嶋 悠

【まえがき―井上氏の58年間を聞く前に―】(井嶋)

私がいたく得心した言葉に「人生は人生論ではない。一見あたり前のことではあるが。」と言うのがあります。詩人の谷川 俊太郎さんの言葉です。

そして、私は随分昔に知った「一切の例外なく人は自身の人生を描けば芸術となる。」と重ねています。

しかし実際はどうでしょうか。

情報社会の証しなのでしょうか、論が先行しているように思えてなりません。日本も「初めに言葉[論理:ここではキリスト教の神の言葉]ありき」なのでしょうか。

不思議で寂しいことです。しかし、言葉なくしては人と人の間は埋まりません。しかし、です。・・・・・・・・・・・・・・・。

それはさておき、古今東西、谷川さんの言葉は真理です。

曰く「経験ある者は、学問ある者より優れている」〈スイス〉

「多く旅した人は、多くのことを経験している」〈中国〉

「経験は長い道であり、貴重な学校だ」〈ドイツ〉

68歳とは言え、私はこういった言葉を支えにもう少し生きたいと思っている一人ですが、このサイトに投稿下さっている駐上海の商社マン井上邦久さんが、先日母校の大学でご自身の58年間の人生を顧み話す機会を持たれ、その文章を発表され、送ってくださいました。

東日本大震災の風化が、ますます懸念され、しかしその分、日本社会の、私たち日本人の歪み、焦燥、不安が露わになって来ています今、井上さんの、人生「論」でなく、少年時代からの夢を叶えられ、日中の架け橋として日々刻々数十年歩まれている人生は、それぞれに思い・志しを醸成し未来に向かおうとされている若い人たちに、更には私のように今もって「後悔先に立たず」を引きずっている高齢者に示唆することが多いかと思い、氏の了解を得て、ここに掲載することにしました。

尚、氏は俳句をたしなまれます。

      【本文】            井上 邦久

○あの日から 胸の振り子は 朱夏を指し

「あの日」と言えば、多くの人が時間軸を揃えてくれる日があります。十年前の九月十一日がそうでした。その前は、日本の一番長い八月十五日でしょうか。今回の「あの日」からのアフターショック(余震に加えて、精神的社会的な衝撃)が続く四月半ば、開講八十五周年記念・中文同窓会で、おこがましくも卒業生代表として、お話しをする機会を頂きました。

○雀鮨 丸い話を 角張らせ

あとから思えば、高度成長の時代に取り残されていたような故郷の大分県中津市から、逃げ出すように山口県徳山市へ移住したのが小学四年生の終わり。その地に大陸から届く北京放送を聴き始めた早熟の中学生時代。万博景気に沸く大阪に再転居した後、父妹の病や離散という流れのなかで、精神的にも経済的にも衰弱した、高校時代のBGMはカルメン・マキや藤圭子の退嬰的な唄でした。そんな黒い緞帳に塞がれた処に、一条の光のように「中国」が現れました。漢和辞典を愛読書とするだけでなく、現代中国に接したいと思うようになった頃、NHK中国語講座を知りました。画面から伝わる高維先先生の温顔と中国語の音の響きにすっかり魅了されました。そして翌春の受験に繋がりました。

○「しかし、それだけではない」と鳩は呟い

柳本の農家に下宿し(三畳で三千円)、古墳群や二上山を見ながらサイクリング気分で通学。また馬術部厩舎に泊り込み、早朝の草刈餌作りをしてから教室へという日もありました。馬の臭いでクラス仲間の顰蹙も買いましたが、真面目に予習復習を欠かさない新入学生でもありました。高先生に直接教わることは嬉しくて仕方のないことでした。桑山龍平先生と塚本照和先生には文学の手ほどきをして頂きました。後に着任された中井英基先生には、日本と中国との歴史について眼を開かせて頂きました。同級の下村作次郎さんからは、自主文学ゼミの仲間として啓発を受け、中嶌和人さんや曹正幸さんとは同人誌『向日葵』を立上げ、社会学・政治学の初歩から勉強しました。また大阪でのアジア市民講座などに出掛けて、リアルな中国への視界を広げていきました。その頃に知り合った先達のなかには、荒川清秀さん(愛知大学教授。NHK中国語講師などを歴任)、坂口勝春さん(アジアセンター21の事務局長として、アジア図書館設立を目標に粘り強く活動中)がいます。そんな大学内外の恩師学友先輩たちの指導や啓発のお陰で、中国を専攻することへの自覚が強くなっていきました。

○毛語録 十九の春の 大博打

一九七一年初め、関西学生友好訪中団に中嶌さんとともに加えて貰うことになり、一ヶ月間の中国訪問の運びとなりました。国交正常化前でもあり、噂を聞いた公安警察から「どうしても行くならブラックリストに載せて、就職できなくさせる」といった圧力が掛かるような時代でした。香港から国境の橋を歩いて渡って深圳へ。当時の深圳駅前は水田で、農耕用の水牛がいたことを憶えています。広州、長沙、南昌、上海、南京そして北京へ、全て汽車の旅。三月三日、人民大会堂に急遽連れて行かれました。周恩来首相や郭沫若氏との延々六時間の交流は、とんでもないオマケでした。更に、二十万円の旅費工面に苦労している貧乏学生の為に、中国国内分の費用免除をしてくれるというお土産付きでした。新卒初任給が五万円前後の時代のことです。

○馴れ狎れず 慣れて努めた 春もあり 

翌年の国交正常化後、にわかに起こった中国ブームの雰囲気のなか、「先見の明」があったと褒めてくれる人がにわかに増えました。しかし、その声も空疎に聞こえるなか、それ以前から志望していた日中友好商社に就職しました。爾来三十七年、経営危機は一再ならず、人員削減も度々ありました。ただ、中国貿易部門は生き残り、会社全体もこの数年来堅実に成長をしています。営業部配属当初は、まさに通訳技能だけを期待され、自主的に業務を会得するしかない修行時代でした。次に担当業務を引継ぐだけでなく、新たな開発をしていくことで、ウイングを広げる努力を続けました。欧米中心のライフサイエンス事業や中南米と中国を繋ぐ機械事業を立ち上げた頃には、「彼は中国語ができる」というだけの見方から、「中国語もできるのか」という普通の評価に変化してきたようです。

○空を飛ぶ 遣唐使われ クールビズ

現在は、中国総代表として日中往還を繰り返しています。上海を根城に、大連から香港・台北まで、中国圏の16拠点を飛び回りながら、二〇〇人余りの仲間と汗を流しています。北京での「あの日」からちょうど四十年目の今年の三月三日、上海で会議がありました。日中各十名の元気なマネージャー達を前にして、自分は確かに、日中最前線の一点に居るのだなあ、という感慨とともに、自問自答もしました。

高老師や諸先生方からの学恩に、僅かなりとも報えているかな?「あの日」の周恩来首相に受けた借りは返せたかな?

○真水もて 熱帯魚飼う セオリスト

   おのれの次に 中国を愛して(岡井隆)

この四十年、濃淡はあっても何らかの形で日本と中国のことを考える毎日でした。自らにとっては変化や、ましてや進歩もなく過ごした年月のようにも感じます。
しかし、その間に世界の枠組みや思考は随分変わりました。とりわけ、中国は経済的に肥大し、社会も変貌を遂げたと思います。
反面において、従来からの意識構造や政治体制は存外に根強く残っているように感じます。
この中国の「不易と流行」のようなものを、中国に暮らし、中国人と接する生活体験の中から抽出し、出来るだけの咀嚼を試みながら、『上海たより』と称する雑感文を綴っています。
日本と中国との間には、まだまだやるべきことは山積みしております。個人の力は小さいけれど、個人から動かないと何も始まらない、と自らを励ます毎日です。

2013年10月28日

センターの発展へのエネルギーにー関西での感謝と報告ー

井嶋 悠

或る時は関西で、或る時は東京で生きて、とはいえ大半は関西にもかかわらず、はたまた本籍も菩提寺も京都ながら、余程東京生活が烈しかったのか、かてて加えて杉浦日向子さんに余程魅かれたのか、嗜好と風土に江戸を好ましく思う自分が居て、68歳にもなって東西宙ぶらりんの私は、郷土!?に来て、何人もの理解者と共感者と時間を過ごすという至福を、今回もいただいています。

そこに「想定外」のことが入り込んで、帰宅は来週 !になりそうで、関西での感謝を共有していただけるこを願い報告します。

・韓国の或る女性の自叙伝の日本語版の話がありました。私としては逆も期待しますが、果たしてどうなるでしょうか。

・中高校での、教師の無自覚な、時には良かれと思っての、生徒へのパワハラ(いじめ)に同意する先生方に会えました。

・この厳しい日中、日韓情勢にあって、新たな意欲で日本語教育をはじめとする民間外国語学校開設者と会い、意気軒高なエネルギーを学びました。

・自死の問題に関して、臨床心理士の先生から助言と励ましを受ける幸いに浴しました。

・海外帰国子女教育が、日本の社会を映し出すと同時に、世界でのありようを考えさせ、また日本の学校教育の正負に気付かせる、と言われて久しく、例によって!?彼方に流されつつある感さえある今にあって、懸命に問題提起を続けている先生方に会い、あらためて初心の大切さに思い至りました。

・少子化が拍車を掛けているのでしょうか、学校を取り巻く環境は私など元職には想像を越えた厳しさです。その中にあって慈愛とそこからの熱情をもって日々取り組まれている、不登校高校生のための学校の、日本語学校の、インターナショナルスクールの、そして学院全体からの立ち場の先生方と歓談できました。幸いを力に、です。