ブログ

2021年2月13日

多余的話 (2021年2月)   『天外者』

井上 邦久

大阪商工会議所に映画『天外者』のポスターが長らく掲示されていました。
自宅からの散歩範囲にしてしまった茨木イオンシネマモールで上映されるのもあと数日という頃になって思い立ちました。
ヒットしない映画は段々村八分のような時間帯に追いやられることになっており、9時35分からということなら閑散として三密を回避した席に物好きなオジサン層がチラホラというイメージ。ところがその予想はものの見事に外れ、市松模様に仕切られた席の多くが女性中心に埋まっていました。
三浦春馬にとって結果として最後の主演作品となり、五代才助(友厚)の陰影を演じるという重みに改めて気づかされました。

五代才助が少年期から島津の殿様にその才気を見込まれて鹿児島から長崎へ遊学、薩摩藩の密命を受け、幕府の千歳丸の水夫に偽装して上海へ渡り、ドイツ製の汽船を購入。
薩英戦争で英国船の捕虜となり、薩摩藩の攘夷派や武断派からその商才に走った言動が更に疎まれることに。
維新後は大坂在住の外交掛として重用され神戸事件や堺事件など英仏とのトラブルに対応、大坂税関初代所長や造幣寮設立に尽力したあと、不可思議な横浜への転勤、そして下野。

民間人として大坂に戻ってからは、鴻池・三井・住友・広岡・藤田などと共に大阪の経済復興に尽力し、鉱山開発・棉工業振興・藍染料製造などを次々に行い、大阪株式取引所設立・商法会議所の初代会頭就任・商業講習所(現在の大阪市立大学)の設立などの先見性を発揮。今に続く各種事業への関与をするも、病に倒れ東京で加療中に逝去。葬儀は大阪で営まれ、多くの会葬者が阿倍野墓苑まで延々と列をなした由。死因は糖尿病という説、鹿児島に籍も墓もありません。

昨年末、大阪商工会議所書庫から『五代友厚小伝』西村重太郎共編(1968年)『五代友厚関係文書目録』(1973年)大阪商工会議所発行の非売品二冊を借り出しました。
『五代友厚傳』五代龍作編(1933年。山口県のマツノ書店で購入したことは以前に書きました)は、五代友厚の賢妻豊子が整理保管した書簡類を一次資料として養子の龍作が編集したものです。
それ以降に纏まった伝記類の出版がなく、外部から大阪経済界の恩人に対して非礼であると指摘され、龍作の子息の信厚氏からの資料一式寄贈を契機に上記の二冊の発行に到ったようです。
それとは別に織田作之助が『五代友厚』(1942年)『大阪の指導者』(1943年)の評伝小説を書いています。織田作は日本工業新聞社に勤めていた頃に当時は堂島にあった商工会議所前の五代友厚像を眺めており、その像が戦時下に献納されたことを記しています。

2016年朝ドラ『あさが来た』で五代様ブームが起きた時期に河出文庫に纏められています。
更には、宮本又次の『五代友厚伝』(1981年 有斐閣)、東洋経済社からの五代友厚伝記資料1~4巻、直木三十五『大阪物語 五代友厚』(1991年示人社)などが中之島の府立図書館で眠りから覚めるのを待っているようです。
ところで、もう一冊『新・五代友厚伝』が2020年9月にPHP研究所から出ています。
出版企画:大阪市立大学同窓会 八木孝昌著。まさに同窓会が創立者の汚名を晴らさんとばかりに企画し、同窓生の八木氏に執筆依頼したもので、600頁を越す大部の「まえがき」には実に正直に以下の通りに書かれています。

「本書刊行の目的は、五代友厚の生涯を、事実に基づいて正確に伝えることにあります。そのために、これまでの誤伝は、可能なかぎり正すことを期しています。中でも「北海道開拓使官有物払い下げ事件」に関して伝えられてきた五代友厚の姿は、著しく真実から外れていますので、それをただすために、当事件に多くの紙数を費やしました。読者のみなさんには、この事件を論じた第二部第八章「北海道開拓使官有物払い下げ事件」を是非読んでいただきたいと願っています。いきなりその章を読んでいただいても差し支えないように、記述のまとまりに心がけました。」 

世に言うところの「明治14年の政変」に絡む事件であり、高校教科書も含めて諸説があるようです。
ここでは要点と思われることを箇条書きします。

大久保利通暗殺→第二世代の主導権争い→薩長土肥+岩倉から薩長主導へ
民権運動の台頭→英国型憲法かプロシア型憲法か→国会開設は不可避外国商人・買弁による輸出独占→直輸出志向政策→貿易商社の必要性政府事業民営化→北海道開発を北海社(安田貞則ら)関西貿易社(五代ら)に
五代・黒田清隆北海道開拓長官・安田(黒田の部下)は鹿児島城ヶ谷の幼馴染
払下げ中止・関西貿易社解散・大隈重信の退任・憲法論議は伊藤博文主導へ

これほど単純な構造ではないようですが、五代に「薩摩派の政商」「大阪の豪商」というレッテルが貼られたことは事実でしょう。
明智光秀の天下が終わり、渋沢栄一の世界が奔流のようにメディアや書店に溢れています。その内一万円紙幣でたまにお目にかかることにもなるでしょう。
渋沢と五代を比較する議論はよくありますが、今年一年かけて冷静に相違点を調べてみようと思います。直木三十五・織田作之助・宮本又次ら五代友厚贔屓は大阪派に偏っていることを割り引き、長崎でのグラバーと密着した武器商人の側面や明治元年に反対を押し切り川口居留地近くに松島遊郭を開設したことの真相も深掘りが必要でしょう。

また関西貿易社の輸出対象国として清国をあげ、中国大陸市場貿易を構想した背景に、25歳で上海に渡った見聞や薩摩藩が長く琉球や函館・新潟で直貿易(密貿易)を行い、しかも北海道産昆布が上海向けの重要輸出品目であったことが影響しているのか調べてみたいです。渋沢栄一の大河ドラマで、ディーン・フジオカが五代友厚を演じるとのことですので、またまた五代さまブームが再燃するでしょう。
(加島屋→大同生命の広岡浅子が絡むか不詳です)堂島で土台と顕彰銘板だけになっていた像は戦後に再生され、大阪商工会議所脇に土居通夫像、稲畑勝太郎像と並んでいます。

最後に、映画のタイトルに使われた「天外者(てんがらもん)」について鹿児島の地元に詳しいK氏に訊ねたところ、次のような分かりやすい返事を貰いました。

・・・「てんがらもん」には賢いけれどズル賢いのニュアンスが多少あり、良い意味で使われることは少なかったと思います。もちろん100%悪いという感じではなく、お褒めの意味も含ませています。生まれも育ちも「かごんまの おごじょ」のK氏夫人も良い意味で使ったことがないとのこと。ちょっと違うが「ぼっけ もん」という言い方もあり、ちょっと普通と違うが将来が楽しみな者という意味で、西郷隆盛も子供時代に、よく「こん ぼっけもんが・・・」と言われていたようです。普通に頭が良い場合は「よっ でっくんな」かな? 

鹿児島でも地域や家庭で言葉のニュアンスは色々と異なるかも知れません。ただ映画の中での「てんがらもん」の説明には、何となくそぐわない気分が残りましたがK氏夫妻の説明のお蔭でほぐれました。
人並み外れた才能に恵まれ、行動力もあるが、何か一寸含むものもあるなあ、と感じさせる人がいます。そんな人の一人であったような五代友厚を三浦春馬は実に自然に演じていた気がします。
映画終盤になるにつれて周囲から嗚咽が聞こえてきました。 実に惜しい人を若くして亡くしたものだと思いました。     (了)

2021年1月30日

多余的話(2021年1月)   「1月11日」

井上 邦久

今年の箱根駅伝の1区は超スローペースで始まり、記録的な愉しみは早々に失せました。大手町から品川駅前そして御殿山にかかるところは馴染みの深い地域なのでランナーがゆっくり走ってくれて助かりました。
京浜道路から昔の東海道に入っていくと北品川商店街。
高層ビルのオフィスから息抜きに足を延ばして知った「そば処 いってつ」さんには給水ポイントならぬ給酒ポイントとして高層ビルと無縁になってからも大変お世話になっています。向かいの鰻屋は蒲焼の匂いを嗅ぐだけ、その隣の「あきおか」煎餅屋は「いってつ」の暖簾が揚るまでの小さな買物とお喋りの場所です。
幕末の品川宿で「浮浪雲」が頭領をしていた運送問屋「夢屋」は有りませんが、関東大震災後に多く建てられた耐火銅板貼り(小伝馬町・人形町・鳥越等にも)の緑青が見事な荒物屋、畳屋そして下駄屋もあります。

外国人向けの宿泊施設に変貌している町並みの一角に土蔵相模の通称で知られる引手茶屋「相模屋」跡の石碑があります。土蔵相模は御殿山に建設中の英国大使館を焼き討ちせんとした長州攘夷派の高杉晋作、井上馨らが結集謀議した場所として知られています。
横浜異人館焼討を企んだ渋沢栄一の例も含めて、異人の建物を焼いたくらいで欧米帝国主義を叩けると真剣に考えていたことが今となっては不可思議であります。

少し時代が下って御殿山は政府高官や富商の邸宅で知られるようになります。
駅伝コースから外れて住宅街に入り、しばらく行くと塀に囲まれた原美術館が静かにたたずんでいます。渋沢栄一と同じく、幕末草莽の志士として活動し米国留学後に実業界に重きをなした原六郎、そして日本航空や東京ガス社長を歴任した女婿の原邦造の経済基盤と美術コレクションを背景にして、曽孫にあたる原俊夫が1979年に原家私邸を現代アートに絞った美術館にしたものです。

東京出張の折に、川崎・浜町・横浜での単身赴任時代の休日にブラリと訪ねて特別展があろうとなかろうと、そのたたずまいに身を置くだけで贅沢な気分にして貰いました。
SFではありませんが、世界最後の日が来るとしたら其の前日は何処に居たいか?と問われた場合、原美術館は有力候補でありました。
訪れることができないまま原美術館は1月11日をもって閉館となりました。
戦災にも遭わず、ゴジラの東京湾上陸コースからも少しだけ外れた原美術館は元々が個人の家であったのでバリアフリー改造には不向きであったようです。
中途半端な手直しをせず、すっぱり閉館するのは潔いし、すでに存分にそこでの時間を満喫したので潔くその日を関西から見送りました。

その関西でもかなり奥まった場所で地力を蓄えた天理大学ラグビー部が早稲田大学に昨年の倍返しで勝利したのも1月11日でした。
花の都に臆するところがなかったです。その試合は中之島の住友病院12階の眺めの良い部屋でTV観戦しました。

先ず1月4日に枚方市の関西医大付属病院で6年目の術後検査を無難に通過し(昨年は検査日を忘れ、愛知大学を訪問した帰りの豊橋駅で病院からの詰問調電話を受けて慌てました。
年に一度の検診は忘れやすいので、今年は正月初日を予約日にしました)後顧の憂いなく、6日から住友病院に教育入院をしました。
昨年秋の定期検診で血糖値などのデータが悪化していたため、主治医からこの機会に薬物療法はそのままで、食事療法と運動療法で体質改善を進め、医学的、栄養学的な意識改革ができるまで教育する・・・分かりやすく言うと「データ」と「生活態度」が改善するまで「隔離拘束」されることに同意しました。

幸か不幸か、忘年会もクリスマスもない歳末から静かな年越しに続いた社会環境にも恵まれて、禁酒摂食と適度な運動を行い、大げさにいえばキャンプインに備えて身体を整備する野球選手のような生活でした。
12月の拙文では歩き回る生活を綴り、年賀状には陶淵明の飲酒の詩を引いたあたりに精神的な葛藤が出ているなあと自己分析をしました。住友病院は北品川の蕎麦屋さん同様になじみの病院ですが、地下の売店ではブラック珈琲のみの買物、夕食後の運動に暗い院内をグルグル歩き回るのも少し不気味であり飽きてもきました。
窓の下には土佐堀川、その先には『泥の河』の舞台、そして住友倉庫前を左に曲がれば川口・本田という開港由来の旧居留地や川口華商の活躍した跡地。
歩行運動療法に最適の地域が眼と鼻の先でしたが、完全隔離の禁足令はある意味で禁酒令よりも辛いものでした。

宮田裕章『共鳴する未来 データ革命で生み出すこれからの世界』河出新書
ジョージナ・クリーグ『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』中山ゆかり訳 フィルムアート社
福澤諭吉『復刻 中津留別之書』福澤旧邸保存会、

以上三冊をほぼ読み終えた10日後に「データは顕かに改善」「生活態度は模範囚候補」ということで退院の運びとなりました。執行猶予無期限の仮釈放であると思っております。

1月11日は実母の誕生日でもありました。秋に脳疾患に続く認知症が急速に進み隔離してもらったとの連絡がありましたが、すべて妹一家からの間接話法であり感染地域の大阪からは訪問も叶わないままであります。
毎月の拙文にこまめに返事をくれていたのが、夏頃から便箋の枚数が少なくなり、心なしか筆跡も薄くなっていました。そのことに特別な注意を払わなかったことに今になって臍を噛んでいます。こればかりは潔くとは参りません。                 (了)

2020年12月25日

多余的話(2020年12月)    『竹林の隠者』

井上 邦久

 10月から11月は内憂外患の出来事とオンラインセミナー発信が重なり心身ともに落ち着きませんでした。ただ小春日和が続いたのが大きな救いでした。       
その日も暖かな休日、自宅から2分で繋がる亀岡街道を北北東に針路を取り穂積・郡・福井といった集落を抜けていきました。
旧家と新建材住宅が混在する道が西国街道と交差、賤ケ岳七本槍の一人中川清秀の出生地とされる中河原には案内板と里程標がありました。
清秀嫡男の中川秀成が豊後国の岡潘開祖となったご縁で、茨木市と竹田市は姉妹都市関係が続いております。茨木図書館には「豊後国志」等の資料があり九州の香りを感じています。

中河原からほど近い宿久庄の川端康成が少年期に暮らした旧跡へ向かわず、亀岡街道から安威川に沿って安威集落に向かい、富士正晴が亡くなる1987年まで棲んでいた茨木市安威2丁目8番地4号の竹林を目指しました。
70年安保の直後に紙価を高めた『中国の隠者 乱世と知識人』(岩波新書)で富士正晴を知り、企業社会の軋轢の下で小説『帝国軍隊に於ける学習・序』に学びました。
富士正晴が編集責任者だった関西の同人誌「VIKING」からは久坂葉子、島尾敏雄、庄野潤三、高橋和巳、津本陽らを輩出しており、敗戦間もない頃から今も尚この同人誌は健在です。
司馬遼太郎も新聞記者時代からの富士正晴との交友を多くの文章に残しています。その一節を抜粋します。

漱石ふうにいえば「大将」はなにしろ、外出しない。年に一度ぐらいは近所にタバコを買いにゆくにしても、摂津の茨木の安威という村の竹やぶの中に金仏のように自分を置きすてて、どこへもゆかず、ただ、ひとり酒をのむ。その間、頭の中で宇宙を行脚するらしく、順次同行をもとめるために電話をかけつづけてゆくのである。
             「真如の人―富士正晴を悼む―」 (『竹林の隠者 富士正晴のあしあと』第1集    
「富士正晴と関西の作家」司馬遼太郎 52頁) 

大阪の商人は 北東、丑寅(艮) の方角に当たる千里方面を嫌ったとかで、手つかずの竹林が1970年の万博会場として切り開かれたと聞いています。
北摂の丘陵つたいに茨木の竹林に繋がります。国鉄茨木駅からエキスポロードが結ばれ、吹田市との境にモノレール宇野辺駅があり万博公園に繋がりました。その辺りまでが現在の徒歩か自転車による可動域の南西側境界線です。
桔梗が丘と呼ばれていた裏山は、俗称茨木弁天や笹川良一ワールドとなり、ラジオ体操のあとに裏山の反対側の獣道を下ると茨木カンツリー倶楽部にぶつかります。金網の向こう側のコースで白球を追いかけ右往左往したこともありましたが、今は「ボールに注意」という標識のこちら側を歩いています。

こちら側に自分を置き捨てて富士さんのような精神の可動域を持てたなら「自粛」も要らず、「感染」もしないなあ、と思う歳の暮れです。                         (了) 

2020年9月21日

多余的話      (2020年9月)    『敵といふもの』

井上 邦久

先月冗長な拙文の締め括りに添えた高濱虚子の俳句について少しだけ補足をします。
たまたま正岡子規の最晩年の日誌『仰臥漫録』と森まゆみの『子規の音』を並行して読みながら、上野のお山を下った根岸のたたずまいと子規と虚子の関係を想像していました。
そんな時に、夕刊コラムの文末に川上弘美が「敵といふもの今は無し秋の月」という虚子の句を取り上げていたのが印象に残ったので、こちらもそれに倣い8月らしく文末をシャンと締めるために添えた次第です。

この句は1945年8月25日が初出だと教えて貰いました。
中之島図書館で当日の朝日新聞を調べた処、広島・長崎の原爆被災の続報や新任の東久邇首相への提灯記事の間に虚子の俳句が囲み記事として掲載されていました。
小諸にてという添え書きと四句が並び、三句目にこの「敵といふもの」がありました。当時、虚子は小諸に疎開しています。月暦を見るとその年は8月22日、23日に月が満ちていますから、ここでの「秋の月」は満月ではないかと推測します。

1941年12月8日の対米英開戦の直後から、気象情報は国家機密とされ公表されず、1945年8月22日にラジオ、23日に新聞で天気予報が再開されたようですが記録が詳らかではなく、小諸の空が晴れていたか気温はどうだったかは分かりません。

虚子が月を眺めていた同じ頃に、樺太からの引揚船がソ連の潜水艦の攻撃を受けて多くの犠牲者が出ています。
「敵といふもの」がまだ居たのです。声高に鬼畜米英と位置付けた「敵といふもの」は「今はもう無し」であるとする虚子の眼には、国内の日常生活を奪った「敵といふもの」も含めた実感ではなかったでしょうか。

75年後の今日、台湾海峡から南西諸島そして西太平洋にかけての海域からのキナ臭い報道に照らしてみると「敵といふもの今はまだ無し」であろうか? もうすぐ明確に敵と位置付けるのだろうかと考えていました。
そんな素人考えを一笑に付してくれた海自OBがいます。艦長として訪れた中国・韓国を含めた世界の海や港を知る、現場力を持つ中学校の同級生は、数々の体験的事例や情報に基づいた見識から、相互に敵とは言えないという根拠を教えてくれました。
現場から離れた場所から過剰反応をして「杞憂」状態になるのは健全ではなく、反対に「仮想敵国」とか「〇●もし戦わば」といったセンセーショナルな単語を並べ人心を煽る動きにも注意が必要です。
仮に現場のことを掌握せずに、或いは掌握していても敢えて、政治やメディアが「危機感」を醸成する振り子は落ち着かせるべきでしょう。

日清戦争でだれが勝利したのか?というテーマで書かれた『日清戦争』(大谷正・中公新書)を読み返しながら、多くの従軍記者や画家を戦地に派遣し、号外を連発する手法で、全国一位の部数を獲得した朝日新聞(大阪朝日新聞・東京朝日新聞)がメディア界の勝利者であったことは間違いないと感じました。
そこから、日露戦争・日中戦争・第二次大戦まで突き進み、1945年8月の無残な紙面に至ったありさまを一覧すると「敵といふもの」を改めて感じてしまいました。

9月10日の恒例の若冲忌。
京都深草石峰寺では感染予防対策を徹底し、事前登録の人数を絞りに絞って、本堂での法要が営まれました。庫裡に掛けられた寺蔵の若冲真筆を、手には取りませんが、手に取るように拝見できました。
マスク越しに読経を終えたばかりの住職は幾分紅潮した顔で丁寧な作品解説をしてくれました。彼岸法要は三密回避のため中止して、若冲忌の継承に注力した住職や寺の皆さんの気概も伝わりました。
伯父叔父の墓には一足早い彼岸の供花を行いましたが、自らの墓地用地の草抜きは暑いので端折り、弁柄色の丸みを帯びた山門を抜けて、隣の伏見稲荷経由の小径を歩きました。今は人通りも少ない歩きやすい径です。

下駄を鳴らして、道に迷っているばかりだった半世紀前と変わらぬ懐かしい径でもあります。

2020年8月31日

多余的話(2020年8月) 『あの本』

井上 邦久

8月7日、立秋。豊川悦司が愛読するという立原正秋の清冷な文章を読むには暑すぎました。
日々、今年一番の気温を更新する中、仮住まいのアパートから元の住所に戻りました。二年前の直下型地震や猛烈台風で傷み、隣近所に多く見られたブルーシートも無くなった時期の工事でした。
部品が届かない、作業員も集まらないという理由には事欠かず、工期は大幅に遅れ、アパート代は着実に嵩みました。
ようやく段ボール函が視界から消え、パソコンも何とか復旧しました。テレビは繋がらず無音の箱ですが、特段の支障はありません。

 大分県中津市からの夜逃げに始まって、山口県徳山市で3回、関西圏で6回の転居のあと就職先の独身寮へ。そこからは転勤・海外駐在の繰り返し、この十年だけでも上海・北京・上海・横浜への移動があり、方違えでボストンに寄り道をして3年前に大阪に戻りました。
上書き編集のできない手書きの住所録時代の知人からは「またか・」と苦情が寄せられていました。
森まゆみさんは労作『子規の音』で、終の棲家となる根岸の里に落ち着くまでの正岡子規が寄宿舎や下宿を転々とした跡を粘り強く追いかけています。

 落ち着かない時間の中で、ボリス・パステルナークの名前を何度か目にしました。
巣篭り生活に合わせた長編スペクタクル大作映画が繰り返し放映されました。『戦争と平和』『アラビアのロレンス』といった定番や、『遥か群衆を離れて』など視聴率を気にしなくてよい時期にしか選ばれない大作に挟まれて、『ドクトル・ジバゴ』も放映されました。
原作者のパステルナークや主人公ジバゴよりもヒロインのラーラの印象が残る映画です。
山口県の高校入学直後に映画館へ通い、大阪に転校してからペーパーバック版の小説を買いました。そして原作者がパステルナークであり、何故かイタリアで初出版されてから世界へ広まりノーベル文学賞に選ばれたことを知りました。
続いて映画化され、劇中に何度も流れる「ラーラのテーマ」のバラライカの調べに惹かれてレコードを買い、小樽でオルゴールを入手しました。この曲が1980年代初めの中国の長距離列車で、一方的に聞かされる車内放送で繰り返し流れていたことを思い出します。
スターリン治下の閉鎖世界を描き、雪解けと言われたフルフショフ時代でも「反革命作品」としてロシア語での出版は許されず、秘密裡に持ち出された原稿がイタリアから世界に流れていった。
作者はノーベル賞授与式に参加することが許されなかった。
「ラーラのテーマ」が西側で制作された反ソ映画の劇中曲であることを当時の中国人車掌も乗客も事情を知る由もなく無頓着でした。
「反革命楽曲」だとは知らずに聴き入る中国人を複雑な気持ちで眺めたことを憶えています。ある意味では牧歌的な時代でした。

 ところが秘密裡にイタリアへ原稿流出、迅速なロシア語や英語での出版という背景には米国CIAなどの秘密諜報機関が絡んでいたとする小説Lara Prescot :The secret we kept;吉澤康子訳『あの本は読まれているか』が4月に発売され、読了後には高校時代から抱いていた心の中の牧歌的な水彩画をかなり鋭いタッチの油絵に塗り替えられた感じがしました。
「あの本」とは言うまでもなく、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』であります。小説のなかのパステルナークは大詩人のイメージを保ちつつ、政治の世界にかなり無頓着で、生活感にも乏しい等身大の男として描かれ、周囲の女性たちに物心ともども被害を与えています。米国人の著者のLaraは本名で、母親が『ドクトル・ジバゴ』の大ファンであったので命名されたとのこと。

 雑誌『東亜』8月号チャイナ・ラビリンス195回に許章潤氏が逮捕(後に保釈)、清華大学を解雇された理由とされる論評が掲載されています。
その冒頭に、「二月、筆は嘆きを描くのに充分だ、悲しみの叫びで二月を描こう、泥濘が轟き、黒い春が燃え上がるまで」という詩文を揚げて、武漢疫禍についての鋭い論評を綴っています。それは、パステルナークの詩から引用と明記されています。
同じ中国人でも40年前の長距離列車の無頓着な人たちとは異なる、知識人の確信と勇気に満ちた文章でした。

20数回の転居にもめげず持ち続けた「あの本」が今回の家移りの間に逃亡して見つかりません。未だ日本では「あの本」の所持がご法度ではないでしょうが、不思議な気分です。

  敵といふもの今は無し秋の月  (虚子。1945年8月)

2020年8月9日

多余的話(2020年7月)   『養命酒』

井上 邦久

新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に開けよ 
それ 一、二、三

 新しい朝のもと 輝く緑 さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足 この広い土に伸ばせよ 
それ一、二、三

              作詞:藤浦 洸 作曲:藤山一郎 (さすがに古関裕而の作曲ではありませんでした)

 ほぼ毎朝この曲が流れる時間に少年野球グランドに到着します。

健康的で前向きな姿勢の単語が並ぶので、命令形もあまり気にならないのかなとか、「香る風」「輝く緑」は夏の季語で「さわやか」は秋だったなとか徒然に思いながら、バラ公園を覗いてから気の向くまま、脚の向くままに歩きます。
7月になって、草刈正雄が朝起き抜けに分厚い本を広げて、詩を朗読しているCMを知り、それが「ラジオ体操のうた」の歌詞であることにも気付きました。
同世代であり、同じ豊前の生まれの草刈正雄には共感を持ち続けてきました。

小倉生れで玄海育ちの気性を甘いマスクで包んでいる草刈正雄が資生堂男性化粧品の「MG5」に起用された時期、ちょうど丸坊主から長髪になったばかりで意識過剰の高校生は、バイタリス派にならず「MG5」ブランドの男性化粧品をなけなしの小遣いで買って大切に使いました。
その後、俳優として主役から脇役へ浮き沈みの大きい中でも着実に幅を広げ、「真田丸」では真田昌幸役、「なつぞら」の祖父役では北海道の開拓魂を滲ませ好演していました。
クレージーキャッツOB谷啓から引き継いだEテレの長寿番組「美の壺」でもコミカルに美の水先案内人を務めています。

玄界灘の対岸での朝鮮戦争で米軍兵士だった父親を亡くし,極貧の少年時代を小倉で過ごしたことは薄々知っていました。
彼が生まれ、米国人の父親が戦死した頃の小倉の雰囲気は、親の世代が競って読んでいた松本清張の小説にも描かれていました。今に続く朝鮮戦争の休戦直前に彼の父親は戦死したものと推測されます。亡父の写真も残っていないという草刈正雄の「ファミリーヒストリー」は番組の題材にはなりにくいのではないかと思います。

これも夏の季語の「草刈」正雄が本を読む傍らにさりげなく置かれた古風な瓶、それが「養命酒」でした。大声で連呼するCMに辟易としている人間には一見何の宣伝か分かりにくい、ひたすら静かな朝の清浄感が心地よく思われます。
「養命酒」は丁子、芍薬,人参など漢字で書くのが相応しい漢方生薬を抽出した医薬品であり、冬場に祖母が大切に服していたのを記憶しています。
新しいCMと同時に発表された養命酒製造㈱の第102期有価証券報告書には「ポジティブエイジングケアカンパニーとして、健やかに、美しく、歳を重ねることに貢献する・・・」という事業理念がありました。とても長い片仮名表記の「Positive Aging Care Company」の意気込みに好感が湧きますが、それ以上に「健やかに、美しく、歳を重ねる」と続く素直な日本語がより「養命酒」という四百年以上続く商品を、そして企業を自然に表現しているように思えます。

「ラジオ体操のうた」のメロディと歌声を除き、歌詞だけを抽出して読むと、まさに「養命酒」のために詩人は作ったのではないかと錯覚をしてしまいます。
3月からラジオ体操に集まる人が減り続け、4月には10名前後となりました。その後徐々に増えてきて6月には60名を超える盛況となり、深めのセンターの定位置確保も難しくなっていました。ただ7月半ば以降は増加に歯止めが掛かり反転気味です。

一方、もともと少なかった交通費と交際費の支出がさらに減少しています。
会社勤めの頃、この二つの経費項目は管理可能経費であるとして、厳しく制限が掛かり、各人の努力次第で十分コントロールできるはずだとされていました。まして業績が悪化すれば削減対象として真っ先に叩かれた記憶が残っています。
ところが今年に入って早々に「家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで」状態となったので、乗りたい電車にも乗れず、居酒屋でチョイ呑みもご法度となり、思うに任せられないことばかり。言わば管理不能経費項目になっています。
ブレーキとアクセルを一緒に踏み続けて、クラッチ操作が思うに任せられぬ事象は今どき珍しくもありません。

そんな環境下、大学は全面的に遠隔授業となったのでアドリブ講座から一転して最新資料やテキストの作成に励むことになりました。古典講読会の新しい課題を「三国志演義」に決めて頂き、老師の指示で時代背景や人間関係を整理しています。NHKラジオ木曜日のカルチャーラジオ「曹操・関羽没後1800年 三国志の世界」を大いに活用させて貰っています。京都壬生寺脇のNPO作業場は二回目の閉鎖となりました。9月10日に上海・大阪を結んだ公開セミナーを企画中。
上海の畏友であるパートナー弁護士に講演をお願いし、その前座を務める予定です。一方、華人研は開催延期を繰り返しています。

事ほど左様に個人的にも、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような思いをしています。ただ、この機会に初心に立ち返り、辞書を愚直に引くことが増えています。

「MG5」から「養命酒」まで変化し進化した草刈正雄は少年時代の初心を忘れず、世の中の不易と流行をしっかり見極めているのでしょう。                          (了)

2020年6月18日

多余的話(2020年6月) 『モスラの唄』

井上 邦久

6月15日、梅雨の晴れ間。久しぶりに大阪に出て予約を一ヵ月遅らせた眼科へ。
昨年春の年一回の定期検査で緑内障と診断され、経過観察をしながら投薬や手術の相談をしましょうという穏便なプランに同意して、3か月に一度のペースで通院中でした。
文楽の桐竹勘十郎似の渋い男前の先生には十年以上にわたり、年に一度の検診をしてもらう息の長いお付き合い、毎回「特に異状はないです。来年の今ごろまた来てください」という言葉を貰って当たり前のように翌春に通うことが続きました。

2011年の春も同じ言葉がありましたが、その年は「来年も無事であったら」という前提を感じました。
その一か月前の3月に上海から東京・大阪を繋いだTV会議をしている最中に東京の画面が大きく崩れて断線、大阪の画面も気持ちの悪い大きな横揺れがして、やがて人が消えました。
詳しい事情が掴めないまま、予定していた内モンゴル自治区オルドスへの移動をして、その夜に乾燥地帯で大津波の画像を観ることになりました。

 来年の今ごろおいでと春の医者(拙)

それ以来、来年の予約という行為に「明日があるさ」思想の楽天性を感じるようになっていました。そして今年二月、別の患者が「次の検診は、コロナが終わったら参りましょう」と軽い調子で口にしたら、勘十郎先生は「感染疫病はそんなに簡単には終わりませんよ」と軽いたしなめ口調で呟きました。
今回、長期戦・持久戦・神経戦を覚悟したのはこの時期のことで、いつも激することのない眼科医師の言葉も作用したと思います。

 2011年春、大阪から派遣された岩手県上閉伊郡大槌町の工場で被災した知人は工場閉鎖後も帰任せず、全く畑違いの本屋、町で唯一の一頁堂書店を開店することになりました。開業の直後に訪ねた時、化学会社の営業マンだった知人は「本が嫌いな自分が本屋を営む」ことになった成り行きを話してくれました。
開業8周年を伝える書状には、「とにかく感染者第1号にはなりたくない」というまわりの空気が前書きにありました。続いて2019年の三陸リアス鉄道や沿岸道路の開通で復興工事が一段落した報告があり、利便性がよくなったことは、地元業者への打撃が想像を大幅に超えたものになっている現実と、感染病による追い打ちの凄まじさが綴られていました。
開業当時の子供たちが社会人になり、子供を連れて来店する姿を見守る言葉に添えて、震災で親を亡くした子供が高校を卒業するまで18年間、学校を通じて店専用図書券を届ける取り組みが8回目になったとの報告がさりげなく添えられていました。末尾の店主という文字の重みが増してきた印象があります。

6月7日、西宮震災記念碑公園で小説「火垂るの墓」記念碑の除幕式が行われました。当日は限定された人数で30分だけという圧縮形で行なわれるとの知らせと記念誌を届けて貰いました。
小説では1945年6月5日の神戸大空襲から逃れた少年とヨチヨチ歩きの妹が西宮市満池谷の親類宅に辿り着いた後、二人だけで暮らした土壁の防空壕で短い命を灯したことになっています。
野坂昭如初期の自伝風小説でありますが、地元の建碑実行委員会の粘り強い調査と関係先との折衝で、作家の親類宅や防空壕の場所が特定され、二人で暮らした様子を目撃した古老の口述記録も留めています。
関西華僑のライフヒストリーを聞き書きして出版を続ける神阪京華僑口述記録研究会があります。毎年1冊出版のペースで先日第10号を受け取りました。その活動の主軸の一人のN氏が「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会の事務局を担っていることで身近に繋がりました。

早稲田大学に進んだものの、とてもラグビー部に参加できる状態になかった野坂昭如が、40歳頃に「アドリブ倶楽部」というラグビー同好会を創設したことは良く知られています。
一方、ラグビー横好きでは負けない大阪府立高校OB達の倶楽部が東京のリコーグラウンドで「アドリブ倶楽部」と対戦したことがあります。前夜、3人のメンバーが拙宅に雑魚寝したこともあり一緒に観戦に行きました。
野坂氏は背番号10のスタンドオフで出場しましたが、トレードマークの黑メガネをしていたか、外していたか記憶に定かではありませんでした。今回、記念誌に倶楽部の応援歌とともに写真が掲載されており、黒メガネ姿でしたが練習風景を撮った記念写真かも知れません。

閉塞した日々に流されるように、印象的な仕事を残した人たちが静かにこの世を留守にして逝きました。勝目梓、ジョージ秋山そして宮城まり子・・・。

ねむの木学園の構想から実行に取組んでいた宮城まり子に対しパートナーの吉行淳之介が伝えた三つの約束、「愚痴を言わない」「お金がないと言わない」「やめない」。継続して実行し難い約束の意味を折にふれて反芻しています。
更に「全作品の著作権はまり子へ」という遺言で三つの約束を支えた切れ味はとても常人俗人の及ぶものではありません。

6月15日は、ザ・ピーナッツの伊藤エミ(本名:沢田日出子さん)の8回目の命日でした。
東レが岩谷時子らとタイアップしてバカンスという言葉を定着させた「恋のバカンス」は、今ものど自慢で月に一度は孫世代が歌っています。宮川泰の贅沢な編曲で輝きを増した「恋のフーガ」は、日本の音楽シーンの最高傑作だと思います。
更に東宝怪獣映画「モスラ」(原作:中村真一郎・福永武彦・堀田善衛)の主題歌「モスラの唄」にはいまだに強烈なインパクトを感じます。インドネシア語がベースと言われる歌詞と早慶・阪神巨人の応援歌や軍歌‣反戦歌・反原爆曲・オリンピックマーチまで萬承って破綻のない古関裕而の作曲です。

言わずもがな(多余的話)ですが国会議事堂での抗議デモの渦中に命を落とした樺美智子の命日も6月15日です。

                          (了)

2020年5月22日

多余的話 (2020年5月)  『煤渡り(ススワタリ)』

井上 邦久

5月半ば、本来なら、サツキとメイの学童姉妹が大暴れする季節です。
お母さんの居る結核療養所まで無理をすれば徒歩でも行ける村へ、新緑の田舎道をオート三輪車で引越しするシーンから『となりのトトロ』は始まります。
埃と煤の溜まった古家の雨戸を開け、二階の奥に風を通すと、二人の眼には真っ黒なコロコロした球体が見えてきます。これが家に住み着く妖怪「煤渡り」です。

「煤渡り」は人に悪さをせず「いつの間にかいなくなる」タチの良い妖怪ですが、世界を席巻している新型ウィルスは生易しくありません。レソト国に1名の感染者が見つかり、ついにアフリカ全土に感染マークが拡がりました。石鹸どころか飲み水にも事欠く地域での防疫の難しさ、それへの想像力を持つこともまた容易ではありません。

2月から「基礎体力の維持増強」と「深く良質の睡眠」を念仏のように唱え、歯医者のお世話にならないように普段より二割がた丁寧に口腔ケアをしました。
3月の一斉休校により、神奈川県からの「縁故疎開」の学童と暮らすことになり、自然に規則正しい食生活が始まり、生活習慣の改善に繋がる予感がしています。たとえ外出自粛で「ヤクが切れても」しばらくは持ちそうです。
感染疫病とは、長期戦・持久戦・神経戦と相場が決まっているので、4月も終息の気配はないと判断し、諦念よりも科学的な達観と工夫の時期だと心得ました。

台湾付近からやって来る低気圧が本州の南岸を通過するたびに花は移ろい、陽気が充ちてきました。
サツキと躑躅の紅白戦が終了した後、ばら戦争が勃発。昨日の雨でランカスター家の赤薔薇は衰退し、ヨーク家の白薔薇は善戦中です。
仮住いから徒歩5分の若園薔薇公園に通いつめ、この3か月で一生分の薔薇を眺めた気分がします。
傷んだ家の建替え工事は「中国からの資材到着遅れの為?」大幅に遅れて入居は八月以降になるとのこと。それでも秋の薔薇をこの無観客公園で観ることはもう無く、来年のばら戦争観戦のために早朝からやって来ることも無いでしょう。
「一期一会」の薔薇の香りを感じながら散歩、ラジオ体操・そしてストレッチ体操。体操には老年十数名が少年野球場に集まります。定位置は深めのセンター、右中間と左中間を広く開けて深呼吸をしています。

 高校時代の友人に「中国からの資材到着遅れ」の話をしたら、事実かも知れないし、そうでなくても客を納得さやすいから業界ではよく使う弁明だと内輪話をしてくれました。
1980年代、中国からの輸入品を日本の顧客に販売する際、「中国からの輸入ですので納期遅延の場合もあることを予めご承知ください」という文言を売買契約書に添えることを先輩から指示されたことを思い出し、ずいぶん古典的な手法が今も残っていることに苦笑しました。古典的と言えば、内憂を外患で糊塗する手法が多くの国で頻発しています。内在していた矛盾や課題が疫病由来の経済停滞で表面化し、内部からの不満や批判をかわすために外部「危機」を煽る手法。
その陳腐化を知らないフリをしているのでしょうか?

そんな折、イタリアからの薬品原料の業務でお世話になり、フィレンチェには共通の友人を持つ先輩からパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳)を教えて貰いました。
イタリアが危機的状況にあった3月頃までの新聞投稿を纏め、モントットーネ村に在住の飯田氏(雲南民族学院留学時代にベネチア大学からの女学生と知り合い後に結婚)が翻訳して、早川書房HPで4月10日から限定無料公開、4月24日に出版、という迅速な過程を踏んで日本に届いた本でした。(作者あとがきはHP無料公開継続中)。
神田駅からほど近い所にある早川書房ビルにはレアメタル業界で評価の高い友人の会社も入っており、前に訪ねた時はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞直後で注目を集めていました。
早川書房は演劇・SF・推理小説の草分けとして著名です。個人的には熱心なハヤカワ・ミステリーファンとは言えませんが、ディック・フランシスの競馬小説群やジョージ・オーウェルの『1984年』は愛読してきました。

ノーベル賞に関しては、カズオ・イシグロの後塵を拝した感じもあるかも知れない村上春樹の『1Q84』第3巻を10年ぶりに開きました。
先発(書棚入り)・中継ぎ(段ボール入り)・抑え(委託保管)・戦力外(寄贈・廃棄)に仕分けて引越ししたつもりでした。
冗長さに疲れて曖昧な印象しか残っていなかった『1Q84』が仮住まいの書棚に残ったのは題名のせいかも知れません。更に言えば「Q」のご縁でしょう。

先月、柏原兵三と堀田善衛の日中戦争を題材にした小説を読んだ後、湖南省南部での逃避行を描いた駒田信二の『脱出』に繋がり、続いて評論集『対の思想』を読むことで、増田渉から魯迅へ遡っていったのは自然な成り行きでした。
本の棚卸が終わったところに外出自粛の要請発令(この辺の用語矛盾を実感しています)があり、図書館閉鎖も重なって、その後の閉門蟄居の間に書棚が身近なものになりました。

ⓆQQQQQQ・・・魯迅の『阿Q正伝』の「Q」について、早稲田大学を辞したばかりの新島淳良先生から「Q」でなければダメだ、「Q」だの「Q」の活字を無頓着に使っている翻訳本は捨ててしまいなさい、と教わりました。
辮髪を後ろから見た様子を「Q」で表して中国人の象徴としているという説明でした。
『魯迅を読む』(1979・晶文社)のあとがきに新島先生は1977年5月から毎週火曜日夜に「魯迅塾」を始めた、と書かれています。ちょうど入社して3年目で勤め人生活にフィットできない気分の活路を探していた頃でした。別の恩師の紹介で駒田信二先生宅を訪ねたのもその頃だったと思います。

ところが、改めて魯迅選集(1973・岩波書店・第一巻は竹内好の翻訳担当)で見ると、題名は「阿Q」本文は「阿Q」と活字へのコダワリがないことに今さらながら気付きました。
『魯迅文集』(1977・筑摩書房)は竹内好の個人訳であり、遺著ともなったものですが、そこでは「阿Q」に統一されています。手元にある中国での出版物も「阿Q」となっています。

村上春樹は初期佳作の『中国行きのスローボート』をはじめ、陰に陽に中国に関係する小説を書き繋いでいます。村上春樹が早稲田大学在学中に新島先生の謦咳に接したかどうかは知りませんが『1Q84』の背表紙を見るたびに新島先生を思い出し、小説にも新島先生の影を感じています。

『1Q84』の主人公、天吾・青豆・ふかえりは三者三様の理由で、隔離や閉じこもりの生活をする時間をそれぞれが工夫しながら耐えています。ここでも又小説が現在の状況を先取りしていることに気付かされます。とりわけ、ヒロインの青豆が一歩も外出せず、気配も悟られず、ひたすら基礎体力の維持増強に努める姿は象徴的です。

虫眼鏡で観察するような活字の話ばかりで恐縮でした。
大相撲の虫眼鏡の話で最後にします。
番付表に慣れない内は、幕下より下位力士の醜名(四股名)を見つけるには虫眼鏡が必要です。幕下の下の三段目、山梨県出身の勝武士幹士関は入門後から二十八歳まで太文字で書かれることはなく、虫眼鏡の世界のままで終わりました。来場所の番付にはその名はありません。
相撲部屋の三密の環境や糖尿病が重篤化の理由として強調されていますが、検査も入院も思うようにさせて貰えなかったことが永遠の黒星に繋がったのではないか?誤解せず確認したいと思っています。
茲に哀悼の意を表します。                (了)

2020年4月10日

多余的話 (2020年4月)   『清明』

井上 邦久

       清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂
        借問酒家何処有 牧童遥指杏花村                   (『清明』)

 大杜と尊称される杜甫に対して、こちらは小杜と呼ばれ親しみやすい杜牧による季節の詩です。『清明』の舞台は山西省という通説もありますが、「雨紛紛」は「烟雨」と同じく、やはり江南の春の頃を感じさせます。

       千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
       南朝 四百八十寺 多少楼臺烟雨中
                 (『江南春』)

十年前くらいに「上海たより」として、上海人が使う「毛毛雨」という表現について綴った記憶があります。「毛毛雨」は、春の半ばに降る傘も要らないくらいの細い雨のことでした。小糠雨や春雨と訳しては芸がないので、色々と思案し、風呂上りに爪切りをしながら「うぶ毛雨」という表現に辿り着きました。
そして「花屋までうぶ毛雨なら傘残し」という拙句を捻りました。

東京の人形町末廣亭址の隣に、江戸天明年間から続く刃物匠「うぶけや」の爪切りを愛用しています。イタリアの関係先へ名前を彫った包丁を土産にしたこともあります。屋号の由来は赤ちゃんのうぶ毛も剃れる切れ味という初代の評判からとのことです。上海人の「毛毛雨」を江戸由来の「うぶ毛雨」として自分勝手に仲春の季語にしたわけでして、歳時記には勿論載っていません。

 杜牧の詩には酒がよく溶け込み、春の雨に倦んじてし魂の慰めに、牧童に酒家の在処を訊ね、風に揺れる新酒の旗に心を躍らせる、潤いのある春の世界を醸し出しています。先月の埋め草にした井上陽水の「情け容赦のない夕立」の夏とか日野美歌の『氷雨』の冬では別のイメージになりそうです。

二十四節気の一つである清明は、黄道座標の黄経15度、つまり春分から15日目にあたる日です。なぜ「つまり」なのかは、高校地学の教科書を思い出して、天空をイメージしてください。
地学教師の玉井先生は「玉井バッハ」という綽名で、授業前に黒板に「バッハ」と書いておけば、15分くらい西洋古典音楽の話をしてくれたことを憶えていますが、黄道の話は宇宙の彼方に消えています。

これも上海時代。清明節の頃の職員との会話は「清明節快要来、到何処掃墓?」が多かったです。清明節に何処で墓掃除(墓参り)をするかによって、上海アーバンライフをしている男女職員のルーツが分かります。杜牧の詩で四百八十寺と表現された南朝の古都南京か、牧童が指さした安徽の村か、はたまた浙江の地か・・・
ほとんどが車で家族一丸となって行くというので立派だなあ、と感じたことを思い出します。先祖の墓の前で燃やして届ける紙銭は、金塊、高級車そして住宅の紙模型にエスカレートしていましたが、その後に二酸化炭素排出削減の為に禁止されたとか。
冥界は不景気になったことでしょう。

今年の清明節は4月4日でした。中国では天安門広場をはじめ、全国で半旗が掲揚され黙祷する人の画像が流れていました。

京都のNPO作業場で、戦前の女学校の空気を吸われた方から「武漢と聞けば三鎮と続けて、武漢三鎮。ご存知?」と作業の手を止めずに話しかけられました。1937年12月、時の中華民国政府は首都南京から武漢に臨時政府を移しました。漢江が長江に合流する川口が商業港の漢口(『フレディもしくは三教街~ロシア租界にて』という長い曲、さだまさしが母親の漢口体験を偲んでいます)、漢江の南側に所在するので漢陽、そして辛亥革命の発火点となった武昌起義の地。
二つの大河の流れで三つに区切られた漢口・漢陽・武昌の街を総称して武漢三鎮。

武漢に出張した頃、天河国際空港の完全運用前には、河を挟む新旧二つの空港のどちらへ行けば目的のフライトに乗れるか再三にわたって確認を要したことを思い出します。4月8日に天河空港も閉鎖が解除されたので、待ちかねた人たちが殺到して大変な混乱が生じている模様です。元の生活に戻ろうとする希望に満ちた混乱とも言えるでしょう。

1937年11月30日の南京の下関海軍港から堀田善衛の小説『時間』は始まります。
漢口へ首都を遷す民国政府司法官の兄を見送る弟。同行を許されず一族の位牌や家財の保全と秘かに日本軍に占領された後の諜報活動を命じられた弟の物理的にも、運命的にも格差の大きい別離です。元の生活を棄てて生命の保全を一日延ばしにする希望に乏しい混乱のシーン。
すでに鎮江、丹陽など近隣の街は日本軍の支配下となり、南京包囲網は狭まり空襲も始まっている。非常事態宣言も都市封鎖もなく「問答無用」で軍事的圧迫が身近に迫るなか、心理的には既に占領されているが、現実的にはあと数日ある。何もすることが無いのでぐらつく義歯を治しに歯医者に行き、何のための歯医者通いと自問しながら、蒋介石総統夫妻が飛行機で去ったという噂を聞く。そして落城・・・と小説は続きます。
蒋介石は結局、武漢も棄てて重慶まで長江を遡り臨時政府を置きました。
2020年4月に何故この小説『時間』を読んでいるのか? 自問しています。

過日、従弟の書棚に柏原兵三作品集の第一巻が二冊あるのを見つけました。押し付けていた一冊を持ち帰り、『徳山道助の帰郷』を再読しました。

・・・第一章 徳山道助の故郷の家は、大山と呼ばれる標高千米近い山の麓にあった。大分市からローカル線で三駅目にあたるM駅で降りて、川沿いの県道を小一時間も歩くと、その麓に出る。・・・

 その川は大野川で、県道は竹田に通じると想像しています。旧家の長男が、優秀な成績で幼年学校に進み、軍隊の中でも頭角を現し、末は大将になることは間違いないと郷土の人は太鼓判を押した。日露戦争で初陣を飾り、シベリア出兵で苦心するも、第一次大戦後の欧州視察を経て、陸軍士官学校長に栄達。
しかし突然の予備役編入という挫折を経験。1937年秋に師団長として上海呉淞戦線、廬山戦の指揮を執り負傷。日本の戦争史とともに生きてきたが敗戦によって肩書も恩給も失った。
中国の体験については沈黙を通し続けた。老境に入り価値観の逆転した社会での生き方を模索している道助に故郷大分での法事への案内が届いて・・・。
平易な文章で綴られた帰郷の顛末が小説の肝になります。
前後して芥川賞を受賞した柴田翔や丸谷才一、丸山健二に比べると、柏原兵三には突出した個性や鋭角的な手法は感じませんが、ついつい読み繋いでしまう平易さは非凡なのかも知れません。
また母の実家の富山県へ縁故疎開した体験を坦々と描いた『長い道』は、藤子不二雄が漫画化し、篠田正浩監督が映画『少年時代』に仕上げ、井上陽水が主題歌をヒットさせています。

青年時代に読んだ時はストーリーを追いかけるばかりでしたが「徳山道助」と年齢が近くなって老残の想いが忍び寄り、この春に各地で縁故疎開を余儀なくされて様々な想いをした学童が身近にいたこともあり、味わいが深まり、何篇か速読しました。
帰郷話で塗されていますが『徳山道助の帰郷』の主題は1937年から1938年の中国江南での戦の酷さであり、堀田善衛の『時間』に重なります。
2020年3月、何故に柏原兵三が目の前に戻り、引き込まれて読んだのか奇妙な思いをしています。

           「清明や伯父の形見の古書守り」

 長期にわたり低迷を続けている句作ですが、久しぶりに複数の同人に拾ってもらった拙句です。
この伯父は何度か使った喩えとして、座り心地の良い椅子のような存在として子供の時から可愛がってもらいました。大阪から縁故疎開で大分県に移住し、戦中戦後の苦渋の生活を、名前の清明(きよあき)の通り清々しく明朗な生き方で凌いできました。

清明節の翌日、従弟から伯父の13回忌の法要は大分で営むのは取りやめて、東京で内輪で行うとの詫びの連絡がありました。 帰郷墓参の代わりにこの拙文を以って手向けとさせてもらいます。     (了)

2020年3月29日

東アジア  その1 範囲と心持ち

井嶋 悠

アジアに自身の根拠を置く人々[企業関係者、実業家、研究者、教育関係者等]の任意の或る研究会で、何年か前、『日韓・アジア教育文化センター』の活動の成果を話す機会を得たことがある。当日、使用機材の不具合も手伝って不本意なものとなり、参加者の一人から「どうしてアジアではないのか」と強い調子で問われ、私は間髪入れず「東アジアです」と応え、一層場を気まずくしたことが、今も心にこびりついている。
そして、あらためて東アジアとはどこを言うのか、「東」という方角以外に、中でも心の部分で今も共有し得ることはあるのか、が気にかかり始めている。

岡倉 天心(1863~1913)は、英文書『東洋の理想』(1903年・ロンドンにて刊行)の冒頭で、以下のように朗々と言う。(夏野 広・森 才子訳)

――アジアは一つである。
ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明―孔子の共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁さえも、究極と普遍をもとめるあの愛のひろがりを一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教をうみだすことを可能にさせ、また彼らを、地中海やバルト海の沿岸諸民族―特殊的なものに執着し、人生の目的ではなく手段をさがしもとめることを好む民族―から区別しているものである。――

最後の2行は不勉強ゆえ実感的に理解できないが、日本の芸術を論ずることを目的としたこの書を思えば、それまでの表現に共振する私がいる。
そしてそれを端緒にして、例えば「東アジア人」なる表現が、現代に不相応な区別性は措いて、可能なのか思うのである。もちろんそう思うこと自体ナンセンスと一蹴されることも含めて。
ただ、この思いは机上の空想といったことではなく、『日韓・アジア教育文化センター』での交流活動を続ける過程で常に脳裏にあったこととして、である。すなわち、センターの構成員である、日本・韓国・中国(ここで言う中国とは、本土漢民族及び香港人である)・台湾の人々である。

そもそも東アジアを構成している国・地域はどこなのか。
ここにA4判の世界地図帳がある。その一項に見開き2ページで「東アジア」が提示されている。国、地域によっては一部分ではあるが、掲示されている諸国を東から挙げてみる。

・日本・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国・台湾・フィリピン北部・ロシア連邦東部・モンゴル・ベトナム・ラオス・タイ北部・ミャンマー・バングラデッシュ・ブータン・ネパール・インド北東部・カザフスタン

私は呆然と立ち尽くし、これは東アジアではないと思う。そこで東アジアを表題にする書にあってはどうとらえているのか、手元の二書で確認してみる。

一書は、『東アジア』[「現代用語の基礎知識」特別編集・自由国民社刊・1997年]。その中の第1章「東アジアとは」で、小島 朋之氏は、次のように記している。

――東アジア地域は民族、宗教、言語、歴史、文化、経済発展、政治体制など、いずれの面においても多様であり、「アジアは一つ」など簡単にはいえない。――として、

――本書では「東アジア」を、日本に隣接する朝鮮半島、中国大陸と台湾および香港、その周辺地域としてのモンゴルに絞ってみたい。――

もう一書は、『世界のなかの東アジア』[慶應義塾大学東アジア研究所・国分 良成編・2006年]。

その中の最初の章「東アジアとは何か」で、国分 良成氏は、日本を基点に、慶應大学の特性でもある経済視点から次のように記している。

――ASEAN[東南アジア諸国連合]+日中韓が主流となりつつあり(中略)ASEANは東南アジアで日中韓は北東アジアで、共通の集合部分は東アジアである。

――ヨーロッパの場合はキリスト教がベースにあるということは間違いない。そうした意味でアジアは何をベースにするのだろうか。…東アジア共同体の構想作業は始まったばかりで、これからさまざまな障害にぶつかりながら紆余曲折を経験することになるでしょう。――

『日韓・アジア教育文化センター』活動のキーワードは【日本語】であり、それと表裏を為す【日本文化】で、共通言語は日本語である。それは、東アジアで日本語を学んでいる人、教えている人を介して、日本を映し出し、日本を検証したいとの思いであるが、同時に東アジア諸国諸地域にとって日本が他山の石となることへの期待でもある。

例えば、海外帰国子女教育に携わった経験から言えば、この問題はとりわけ1960年代以降、日本の経済発展に伴って生じて来た教育課題であり、それへの対応、試行錯誤は東アジア諸国の教育施策に有用なものとなるであろうし、より一層日本の課題として戻ってくるはずだとの思いである。事実このことは、以前海外帰国子女教育の日本のプロジェクトで、韓国の文科省[教育部]の人と同席する機会があった。とは言え、この相互性での日本の一方性の批判を想像するが、これまでに培われた絆に甘え先に進む。

日本の東は太平洋である。その昔、日本が終着であった。西から、南から、或いは北から、様々な人々(民族)が、それぞれの文化を携えて渡来し、或る者は離れ、或る者は定着した。そして統一国家大和を形成し、少数民族は制圧され、大和民族が成立した。
21世紀の今、千数百年の間に沁み込んだ心に何度思い到ることだろう。私はそこに東アジアを見たいのである。

中国・朝鮮半島の長い通路を経て到達し、再開花し、更に発展し、時に日本の固有化した、仏教、思想、美術、文学等々の文化の宝庫を見る。正倉院には、確かにギリシャからシルクロードを経て渡来した美術品が蔵されているが、その前に私の中では東アジアがある。

先日、「アジアン・インパクト」との主題の美術展を訪ね、その印象は既に投稿したが、その展覧会でも「アジアン」は中国、朝鮮半島であり、それに衝撃(インパクト)を受けた日本人芸術家の展示であった。
やはり私の東アジアは、先の小島氏以上に絞って、中国・朝鮮半島・台湾そして日本であり、広くアジアを思い描く際にも、先ずその核となっている。

そのような東アジアの日本に生を享けた幸いを思う。
他国他地域について、その地の歴史も環境も十全に知らずして軽々に発言することは厳に慎まなくてはならないが、東アジアの国々地域は、それぞれ或る転換期にあるように思えるが、どうなのだろう。

東京オリンピックが延期されるほどに、コロナウイルスが全世界で猛威を振るい、亡くなった人の数は尋常ではない。私には驕り高ぶっている人類への「天罰」、といった宗教的視点はないが、無責任との誹りをここでも承知しながら、何か考えさせられることは否めない。

東アジアも然りである。

黄河文明をかえりみ、現在の中華文明を厳しく諫め、世界の現在を見ようとする中国のドキュメンタリー映画『河殤(かしょう)』(1988年上映・「殤」:とむらう者のない霊魂の意)の書籍版を読んだ。[現在、映像そものを観られる機会は、同じく中国の亡命者へのインタビューで構成されるドキュメンタリー映画『亡命―遥かなり天安門―』(2010年)同様、ないとのこと]。そこでは厳しい内省の姿が描かれている。

香港人との表現が象徴するように香港問題は多くの香港人を、外国人を覚醒化し、先日の台湾での総統選挙も複雑な台湾の現在の様相が顕在化した。
韓国は南北問題で見通しが立っていないように思え、北朝鮮は唯我独尊が如く猛進している。
そして日本の大国指向は、小国主義志向を善しとする私には、到底考え及ばないような展開が随所でなされ、落胆と絶望、不安が襲っている。
やはり東アジアの基層にある心[精神]を静かに問い直す時ではないか、と『日韓・アジア教育文化センター』の事績を振り返り思う。

コロナ・ウイルス問題も、世界各国が胸襟を開き、叡智を集め、一国主義に陥ることなく原因を解明し、他者への敬意と謙虚さをもって共有して欲しいと願う。

私自身はアジアの心を考える東に息する一人として、もう少し研鑽を積めればと思っている。