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2022年10月23日

多余的話(2022年10月)

『Happy Retirement』

 不良在庫を抱えた赤字体質のライフサイエンス部へ転属して直ぐに、部員へ「しっかり休暇を取りましょう」と伝え、率先して竹富島の民宿で過ごした夏。
海に潜り、よく眠り、星を見ながら泡盛を呑んで、また眠る毎日。時計、髭剃、眼鏡が要らなくなり、新聞も本も読まなくなった。
日焼けした顔で職場に戻り、藪から棒に「当部の中国との貿易比率を20%程度に抑えましょう」、「販売先の数を三分の一に絞りましょう」という新方針を伝え具体策の協議を始めた。

「中国業務に非ずんば、仕事に非ず」は大袈裟でも、「中国貿易に強い」とされてきた会社のなかで、「中国関係の売上げあります。中国語使います」といった抑制方針を出すこで、先ずはバランスの取れたライフサイエンス事業をしっかり育てる覚悟だった。

特殊品とされていたイタリアからの医薬原料、カムチャッカからの魚粉飼料、タイやオーストリアへの機能性飲料原料、韓国からのキトサン等への注力度を上げて、取引の質や機能の充実に努力した。
三顧の礼で薬剤師資格を持ち、医薬営業の経験豊富なOBに復帰願って、ライフサイエンス業務部門に最低限必要とされる医薬品管理組織の法的整備を行った。

2001年9月は狂牛病騒動と同時多発テロ事件が続いた為、ライフサイエンス事業の難しさを学ばされ、且つ世界的視野が求められることを実感した。

個人的にはイタリア語学校で語尾変化に苦労し、真冬のカムチャッカ半島や大雪のミネソタで凍る体験もした。
ほぼ毎月ミラノ・ジェノバ・フィレンチェを巡る移動は、医薬原料メーカーのフランコ部長の運転に委ねた。車中の長談義で欧州の歴史、文化の奥行を知るきっかけになったと今でも感謝している。

1960年のローマ五輪、1964年の東京五輪の頃が二人の少年時代であり、互いの国の敗戦から復興そして成長への過渡期と重なり、共感する点が多くあった。ただ一つ、企業からのretirementについての意識が大きく異なっていた。

指折り数えて定年退職の時を楽しみに待つ、それは高い税金を長期に納めた者の当然の権利であり、定年延長や再雇用制は考えられないと言うフランコ氏。
そんな欧州人の考えは一般知識としては知っていた。ただ、「会社を辞めてから何をするの?」という質問に対して、何という愚問をと云わんばかりに「義務としては何もしない自由と幸福を得る」と笑っている顔に、エコノミックアニマル伝説が印象として消えない日本人への憐憫の情が含まれていることを感じた。
僅か10日に満たない琉球列島への休暇程度で意識改革などと気負っているようではダメだなとも思った。

 このような欧州と日本の間の人生観や労働観の違いに関する「よくある話」を改めて思い出したのは、中国の日系企業での定年問題についての相談を受ける機会があり、少し調べて見たことがきっかけだった。
よく知られているように、中国の定年年齢は男子60歳、女子50歳(幹部は55歳)が守られてきた。一方で若年労働者数が頭打ちから減少に転じる傾向が表面化してきた。
中国における第二次世界大戦後の復興は国共内戦の為に遅れた。疲弊した国力を快復させ統治を強化する為、1960年前後に「大躍進」政策が採られ急進的な平等主義と人海戦術が礼賛された。
結果は無残な結果となり、飢餓や国土の荒廃が進行した。一例として、小島麗逸教授が作成した一人当たりの糧食摂取量のグラフを思い出す。
大戦後から1950年末までの日本と中国の食物摂取事情は同じレベルで改善していたが、1960年を境目にして日本では主食より副菜摂取の奨励、生活習慣病の増加、痩身産業の始まりが続いた。
反対に中国では極端な摂取(供給)の減少が見られ、主食で腹一杯になるのは文化大革命末期であった。その「大躍進」時期の出生率は落ち込み、人口回復は1962年以降となったことは、人口ピラミッド図に如実に表れているとおりである。
そして現在、「大躍進」の反動としてのベビーブーマーたちが還暦を迎える年齢に達している。

 日本企業が中国に事務所を開設し、日本語を学んだ若者を派遣会社(FESCO)から送り込んでもらうことは1980年代から本格化した。
上海では、宝山製鉄所建設で鍛えられた日本語要員の転職受け皿にもなった。
1990年代には製造業も加わり多くの派遣採用がなされ業務充実に寄与してきた。通訳だけの業務から、中間管理職となり、マンションを購入し、子弟を留学させる人も出てきた。

今、その人達が定年時期を迎え、対応手続きを初めて経験する外資企業も少なからずあるようだ。
事前に予測し、準備して体制を整えている企業も多いと思う。

反面、現地運営をベテランの現地人スタッフに任せっきりにしていて、定年に関する対応や手続きを、定年対象者であるスタッフに依頼せざるを得ず、混乱しているケースが出ているようだ。ざっと思いつくままに要点を列記すると、

  • 経済保証金(退職金・一時金)制度はない 
  • 養老保険受給年齢=定年年齢(保険料の累積納付が15年以上)
  • 再雇用の場合、公的労働契約が消滅し、企業との私的労務契約に変更
  • 労働法・会社法による保護のない自由契約になる

地域差や多くの実例を調査しないままの初歩的なコメントを付けてみた。

  • 定年(退休)後は、家事や孫の世話をすることが長年の習慣だった
  • 必要とされての再雇用条件は、必ずしも給与減少・職位低下とは限らない
  • 若年層からは昇進や就職機会を狭められることへの不満が噴出する懼れ
  • 健康で豊かな老人は働くことより趣味や旅行などで人生を楽しみたい

併せて背景にある(1)経済成長率の鈍化(2)税収の減少(3)財政赤字の拡大(4)教育福祉制度・年金制度・医療保険制度の未整備等に注視すべきと思う。

 イタリアも異常気象が続いて、山間のセカンドハウスに滞在する時間が長くなっているフランコ氏に現在のhappy retirement生活と意見を聴いてみたい。 

2022年10月1日

多余的話(2022年9月) 『火垂るの墓』

井上 邦久

「Red Star」という品種名に惹かれ気まぐれに買ったハイビスカスが炎天下に深紅の花を咲かせ続けています。その陰で上海・横浜と種を繋いできた朝顔は控えめに咲いていましたが、9月になり開花数を増やしてきました。
酷暑の余熱が残る9月10日、仲秋節と若冲忌が重なりました。京都からJR奈良線で稲荷駅まで5分、駅前から石峰寺への登り坂で汗をかきました。

若冲忌の卒塔婆二本を供え、若冲作の柿本人麻呂像のオリジナル切手シートをいただきました。
石峰寺蔵の原画は今回初公開され、松尾芭蕉像と並べて掛けられていました。二幅の掛け軸の寸法や構図はほぼ同じです。白い官服を緩やかに着た宮廷歌人は胸をそらせ、対照的に墨染めの衣の俳人は壮健さを隠すように肩をすぼめた姿でした。
1800年に没した伊藤若冲。本堂回向は顕彰会員のみに制限、墓前での愛好家も含めた回向の列もそれほど長くありませんでした。

親戚の墓に参り、自分の墓地の草を引くルーティーン行動のあと、庫裏に戻り腰を据えて十数点の水墨画を鑑賞しました。人麻呂と芭蕉の人物像は同時期に一対で描かれたのかどうか?住職にも不明のようでしたが、双方の上半分以上の余白にいずれ画賛を描いて貰うつもりがそのままになったのでしょう、とのことでした。

寺から伏見稲荷大社の脇道を抜けて、駅前で松籟社編集職のN氏と合流し、少し縁のある「日野屋」で名物の雀をつまみにして歓談しました。
N氏は神阪京華僑口述記録研究会(関西の在日華僑一世、二世に会員がインタビューして、できるだけ生の声を記録に留めることをモットーにした活動)で、長年にわたり編集・出版の重責を担い、本年末に12年分の記録を分担要約して単行本に仕上げる企画の中心にいる人です。
N氏からは3編の口述記録の要約指導をしてもらい、「勝手に前後の辻褄を合わせてはいけない」「語ったまま、記録したまま、(中略)も極力避ける」といった指導をして貰っています。しかし、面白く読みやすくする為の「メイキング」に走るミスが治りません。

10月22日にはシンポジウムを神戸華僑会館で開催予定です。口述記録に応じてくれたジャズトランペッターらの皆さんにも登壇願う予定です。
感染拡大が続き開催延期を繰り返す中で、長年研究会活動の主軸として牽引してくれた二宮一郎さんが癌のため早逝されました。この日のN氏との対話も彼岸に逝った二宮さんのことに収斂されていきました。

フラットな視線で臆せず媚びずに語りかけ、喋りすぎずに話を聴く姿に常に「年季の入れ方がちがうなあ」と感じていました。
学術論文から民衆生活研究、そして映画評まで幅広い守備(攻撃?)範囲で「脚」「舌」「筆」をよいバランスで駆使されることに舌を巻いていました。いつも坦々としたマイペースだった二宮さんが珍しく肩に力を入れて取り組んだのが、小説『火垂るの墓』記念碑建立事業でした。
西宮市満池谷町を舞台にした小説やスタジオジブリのアニメで著名ですが、作者の野坂昭如の被災の足跡や作品舞台の特定が出来ていなかったとのことです。
二宮さんは実行委員会事務局長として、ニテコ池近くの横穴防空壕を探し、西宮震災記念碑公園内に場所を確保して、更に資金の調達に尽力されていました。庶民レベルでの平和希求の強い想いが、多くのストレスを克服したのではないかと推察しています。
記念碑完成後ほどなくして二宮さんが倒れたとの報せがあり、口述記録出版の要約文章の代筆やシンポジウムでの二宮さんの足跡報告をまさに不肖の弟子が務めることになりました。

 シンミリとならない程度に昼酒を切り上げ、すぐ近くの松籟社を訪ねました。静かな住宅街の一角、紙の匂いが漂い、書籍の中に部屋があるような趣深い仕事場でした。神奈川県立近代文学館の会報に載っていた紀田順一郎監修・荒俣宏編『平井呈一 生涯とその作品』を持ち帰らせて貰いました。その夜の一読だけですが、賞味期限がとても長そうな印象でした。


【補足・修正】
・9月3日、華人研例会でマカオを知るための報告をされ、香港を言挙げせずに香港を浮かび上げて頂いた塩出浩和氏も華僑口述記録研究会のお仲間です。
・8月『洛北余聞』の中国対外貿易の黎明期の記述について、W先輩から体験に基づく詳しい補足修正の文章を届けて頂きました。

「私が初めて北京に赴任した1972年の状況は下記でした。
北京の総公司の所在は次のように二大別されていました:
場所は二里溝と東安門に分かれ、二里溝のビルは進口大楼、東安門のビルは出口大楼と通称されていました。当時二里溝に所在する総公司は輸入が多く、東安門に所在する総公司は輸出が多かったためと思います。
その内訳は:二里溝 進口大楼 機械進出口総公司、化工品進出口総公司、五金矿产進出口総公司、技術進出口総公司
東安門 出口大楼 紡織品進出口総公司、糧油食品進出口総公司、土産畜産進出口総公司、軽工業品進出口総公司、

中国全土の輸出入を北京の総公司とだけで商談契約ができたので今思えば効率的でした、地方の各分公司が商談契約にタッチしだしたのは1980年代に入ってからだったと思います。」

丁寧なご教示に感謝するとともに拙文での不正確な記述にお詫び申し上げます。
まさに多余的話(言わずもがな)ですが、「進口」は輸入、「出口」は輸出を意味する中国語です。

2022年8月17日

多余的話(2022年8月) 『洛北余聞』

井上 邦久

予報通りの酷暑、予想通りの感染拡大のなか、千本通りを洛北へ、いつもより早めのバスに乗った。講座「疫病に向きあう」の前に、京都大学のL教授から紹介された修士課程学生と面談をするためだった。吉田キャンパスから自転車で登ってきたZ君は江蘇省出身、上海の復旦大学を経て、春に来日したばかりとは思えない癖のない日本語を身につけていた。

L教授から「友好貿易」という言葉は知っていても、その実態や日中貿易での位置づけが分からないというゼミ生へ実体験を語って欲しいという要請だった。事前に鍵になる年表と用語を伝えておき、友好商社のC社の社史を持参した。1945年、1949年、1952年、1961年、1972年、1978年、1992年、2001年、それぞれの年の意味をお浚(さら)いし、日本が独立して貿易自主権を回復した1952年から中国との国交を回復するまでの20年間を中心に話した。

ベトナム戦争や日米貿易戦争の時代。自民党総裁選が国際政治に影響していた頃。自民党非主流派や野党によって継続されていた日中国交回復運動は急展開し、周恩来首相は田中角栄首相・大平正芳外相と握手した。にわかに日中友好ブームが起こり、その後多くの友好姉妹都市が生まれた。日米貿易の陰りを危惧し、中国市場の将来性に賭けた日本総資本の方向修正だった。それまで東西貿易、配慮貿易、友好貿易、LT貿易、覚書貿易、周三原則などの試みと制約の中で、日中間の政治的・経済的・資源的な「有無相通」のバランスを取ってきた経緯を大まかに振り返りながら語った。

天産品(松節油・桐油・滑石・生漆・甘栗など)や鉱産物を一次加工した無機化学品を中心とした輸入と肥料・合成繊維原料などの輸出を友好商社が担ったことを具体的に話した。春秋の広州交易会と北京二里溝の貿易総公司の二箇所だけで商談を行う形態の中で、大メーカーや有力ユーザーが中小の友好商社を尊重した理由は、友好という旗幟を鮮明にして得た中国政府のお墨付きと人脈と語学力にあることについて、実例と私見を交えて喋った。Z君にはとても高い理解力があり、大手商社系のダミー商社が存在したことまでも知っていた。

友好貿易という政治的で制約の多い貿易形態は、1972年9月29日北京での日中共同声明により変異していった。翌日の朝刊を飾った大手企業による国交回復の祝賀広告を眺めながら、潮目の急変を実感したことを思い出す。
その後も友好商社は善戦したが、取引拡大に必要な資本力の限界と客の方針変化により徐々に淘汰され、「中国一辺倒」だった友好商社では苦戦が続いた。中国側が常套語として発した「没有合同,但是有保留友情」(契約書はなくても友情は残る)というホロ苦い言葉を、Z君は中国語の正確なニュアンスも含めて分かってくれた。一方で、中国政府の直下で貿易を独占していた貿易総公司にも変化の波は押し寄せ、地方分権・「民進国退」により、権益は減退していった。
化工総公司→化工山東省分公司→化工青島市分公司→紅星化工廠→紅星集団と短期間に貿易窓口が変化した青島紅星製の炭酸バリウムの事例が分かりやすい。
Z君は「賞味期限切れ」という日本語で友好貿易の終焉を適確に理解していた。

それから50年、国交回復後に始まった対中国ODA(開発途上地域の開発を主目的とする政府及び政府関係機関よる国際協力活動)は本年3月で予算や新規協力案件もなくなったという。

午後は仏教大学のキャンパス内を移動して、天然痘から始まる感染症についての歴史と考察の続きを香西教授から学んだ。

1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している・・・と2021年10月『牛の話』で綴った。

この日の講義は、1957年長崎に来航したオランダ軍医ポンペによる医学伝習と「長崎養生所」(長崎医科大学、長崎大学の礎)開設、「養生」の意味の変遷についてであった。途中、前回講義のあとに伺った「蝦夷地の集団種痘に人体実験の要素はありませんか?」という素朴な質問への明解な回答の時間もあった。

ポンペ来航と同じ1957年の5月、幕府の公募で選ばれた桑田立齋一行が江戸を出立、白河・仙台・盛岡・田名部で牛痘生苗を植え継ぎ、箱館を拠点に蝦夷地で種痘をしたが、人体実験と言えるような高度な比較検証の能力も記録もないとの説明であった。手交して頂いた教授の論文「アイヌはなぜ『山に逃げた』か」『思想』1017号(2009年1月号)の抜刷を拝読し考察の奥行きを直感した。

バランスの取れた資料分析と鋭い考察が続く論文なので咀嚼が容易ではない。蝦夷地の産業構造の変化がベースにあり、ロシアの南下行動とアイヌ同化圧力に幕府が敏感に反応した複合要因が幕命全種痘に絡むことが何とか読み取れた。
ある意味で魅惑的な絵の背後に、蝦夷地種痘にまつわる奥行きがあることを色々と想像した。実に刺激的で魅力的な夏の課題として読み返している。

2022年7月16日

多余的話(2022年7月)   『サラダ記念日』

井上 邦久

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 (俵万智)

 七月六日、直江津 文月や六日も常の夜には似ず   (芭蕉・奥の細道)

西行500回忌の1689年に陸奥を歩いた芭蕉の句は、333年後の今宵も多くの人が口にすることでしょう。
1987年に俵万智が新鮮な衝撃を与えた歌集を35年後の7月6日に多くの人が思い出し、サラダの味を気にしたことでしょう。

300年を隔てた7月6日の意味に気づかせてくれたのは、作家の丸谷才一であったと俵万智自身が呟いています。丸谷才一のおかげで二つのベストセラーが「衆口難調」に陥らず、七夕とサラダが結びつきました。その意味でも、日本の韻律詩文の流れのなかで7月6日は大切な記念日になったと思います。

七夕を翌日に控え、笹を準備して短冊を飾り、星の伝説に思いを馳せる習慣は今も残っています。中国語や中国文化の入門材料として、元旦・上巳節・端午節・七夕節・重陽節という奇数月日が重なる日が使われます。生活習慣に残る節句の言葉の学習を通じて、文化伝統を初歩的に学びます。
西欧化とともに元旦は陽暦の1月1日が休日となり、会計年度の初日になります。しかし西暦の新年ではあっても「過元旦!」という通過点に止まり、陰暦の春節を待って「新年好!」となり、お年玉(紅包)のやりとりをすることは知られてきました。

7月7日は、七夕情人節とも呼ばれ男女のプレゼント交換(主として男から女への一方通行)が盛んです。
上海での駐在時代、古北路・仙霞路の宿舎の近くの「小譚花店」にしばしば立ち寄り、安徽省出身の譚さん夫妻とお喋りをしながら、日本出張の折に頼まれる商品(ベビーミルク・花切鋏など)の打ち合わせをしました。ただ二月のバレンタインデーや七夕情人節の繁忙期は商売の邪魔をしないように素通りしたものです。

上海も漸く封鎖が解かれ、赤いバラの書入れ時に間に合ったことでしょう。
いつぞや、その7月7日に販促イベントを企画した日系企業があり、内外から多くのクレームが発せられ、慌ててお詫びして中止したと聞きました。2012年前後の緊張した時期には、反日感情を刺激しないよう、多くのコンサルタント会社から過剰ともいえる自主的配慮と要注意日のリストが流されました。
「日本語は使うな、英語にしなさい」「お古の中山服を着ていれば安心」などと少々ピントがずれた助言も目にしました。7月7日は、要注意日の上位に位置づけられていました。

過剰反応の反動による気の緩みなのか、緊張感が減っていたのでしょうか?長年にわたり中国市場でビジネスを継続してきた大手の企業が、わざわざ7月7日、七七事変(1937年・盧溝橋事変)の当日にイベント企画をするということは単なるケアレスミスとは思えないことです。
日本本社の海外事業管理部署・中国現地法人の危機管理部・企画会社の幹部には多くの中国貿易経験者がいることでしょうし、日本留学後に入社した中国人社員や現地採用の職員も多く在籍していると想像します。
俗にいわれる「中国通」と目される社員たちの厳しいフィルターに引っ掛からなかったのか?中国人社員の是非判断が為されなかったのか?実に不思議です。
歴史教育の風化、85年前のことまでコミットできない、とする居直りの風潮や趨勢の中での決断とも思えません。想像をたくましくすると、「この日は拙い」「別の日にすればいいのに」という素朴な声が社内で届きにくい体質が主要因だったのかも知れません。そうだとすれば、歴史認識の議論より前の段階、「溝通」(gou tong:コミュニケーション)の問題となります。

6月の異常な酷暑が尽きて、7月も尋常ではない暑さが続いています。ご自愛専一にてお過ごしください。
時間が取れれば喧噪と暑気を逃れて映画館で過ごすのも一手です。
とりわけ『プラン75』や『教育と愛国』を観ると背筋が凍りつくことでしょう。

       文月や六日の次の分かれ道(拙)

2022年6月18日

多余的話(2022年6月) 『シニアカレッジ』

井上 邦久

 「改革・開放」政策とペレストロイカについて初歩的に考えてみた。
共通点:経済停滞への危機感から、立て直しをしようとする試みである。ペレは英語でreの意味、ストロイカはconstructionと英訳されていたと記憶している。      
相違点:①情報公開(グラスノスチ)の有無、
    ②革命から立て直しまでの時間
③香港や台湾そして華僑の存在がソ連にはなかった

政治改革と対内開放から距離を置いていることについて、何度も触れてきたので重複を控えるが「経済改革・対外開放」を「改革開放」と単純省略し、OPEN POLICYと喧伝してきたメディアの責任は重いと思う。その点で中国に情報公開(グラスノスチ)がないことに繋がる。
次に帝政ロシアがソビエト社会主義共和国連邦 となった 1922年12月30日 から 1991年12月26日のソ連崩壊まで69年。一方の中国は立て直しまで約30年である。
この時間差は「経済」体験のある旧世代が残っていたかどうかの違いに影響しないだろうか。
また他方では、漢民族が「経済」を本土から離れた場所で温存培養していたことにも連動する。
一朝、本土から「経済」をやるよと声を上げると、先ずは香港から、続いてシンガポールや日本、そして恐る恐る台湾からも「経済」専門家がやってきて、「友好」と「利益追求」の両輪で大活躍をしたことはご存知の通り。
色々な摩擦や試行錯誤を繰返し、「全球的経済」の素地が生まれて21世紀を迎えたと思う。

『現代中国の経済と社会』竇少杰・横井和彦(編著)。中央経済社2022年3月30日出版。旧知の竇先生に読後の感想を伝え、質問をさせて貰う機会を得た。
竇先生は、2001年9月11日「同時多発テロ事件」と、2001年12月11日 中国のWTOへの正式加盟、この出来事を世界秩序の形成の節目と捉え、以後20年の「現代中国」を描くことを執筆目的とされた。
従来はアヘン戦争(1842)や中華人民共和国成立(1949)から歴史や党史を説き起こすことが定番であり、21世紀以降に焦点を絞った研究は少ないことを意識した由。また清朝から現代までの時間軸と所得格差に関するイメージ図に修正や見解を示してもらった。
執筆後に勃発した戦争や上海ロックダウンが、世界秩序の形成の節目であることについて、次回あらためてお訊ねしたい。

サッポロビール茨木工場の跡地に建てられた大学キャンパス内のレストラン『ライオン』で会食しながら竇先生とお話をした。
第一次世界大戦までドイツの支配下にあり、その後に日本の軍政下にあった山東省青島郊外出身の竇先生もビール工場のDNAを感じたかも知れない。
次回はJR線路を挟んだ『哈爾浜』(ハルピン)で本場仕込みの水餃子を食べましょう、と約束をした。

山東人の粉物好きについては、若い頃に広州交易会で長丁場の仕事をした時、華南の長粒米に飽きていた青島の貿易公司の友人たちに大きな饅頭を振る舞ったところ、まさに「泣いて喜んで」くれた体験に基づくものであり、青島に駐在した時も青島麦酒と饅頭・水餃子・麺類など麦に頼った生活だった。

茨木市のシニアカレッジ「激動の現代社会を学ぶコース」で、『最近の中国・香港・台湾事情』というトテツモナイ題目を受持っている。
激動は毎年のことであり、最近の状況が急変することも多いので準備がなかなか難しく、できるだけ質疑応答の時間を長めにとって補足に努めている。
訪日客数の総人口に占める比率(2019年まで香港が断然トップ)、上海ロックダウン下での「白衛兵」の活躍、ウズベキスタン綿花に強制労働はないと認定されて5月に使用解禁されるまでの流れ、上海復旦大学から西北(Northwestern)大学研究職となったMs.銭楠筠(Nancy Qian)の意見と画像、福建省厦門市と台湾小金門島の間が6㎞であることを示す地図を織り交ぜた「かやくごはん」を2時間かけて炊き上げた。
散漫なメニューであり、なじみのない具材も多いため、どの程度伝わったか覚束ない出来栄えだった。
お世話になった事務局の皆さんとの「反省会」では「もっと肩肘を張らない話にしてくれたら」など色々と有りがたい意見を頂戴した。そして折に触れて思い出す「衆口難調※」を反芻した。
※「全ての口に合う味は出せない」と訳される。
日中合作ドラマの『蒼穹の昴』(西太后=田中裕子主演)の製作過程で、王監督は日本と中国の板挟みとなり、苦心した末に「衆口難調」の言葉に思い至り気が楽になったと語ったという。

冒頭の竇先生の著書に見つけた「造船不如買船、買船不如租船」という劉少奇の言葉を、「船を造るより船を買うほうが手っ取り早い、船を買うより船をリースするのが賢い」と解釈した。そして一時的な経済合理性は理解するが、長期的な創造性の後退に繋がらないかと考えた。
南の海を航行している空母「遼寧」は、ソ連の設計によりウクライナで製造中に中国が買ったと聞いている。その母港は青島である。(了)  

2022年6月2日

多余的話(2022年5月)  『大阪画壇』

井上 邦久

 行動自粛が続いた春に京都国立近代美術館で大阪画壇に光を当てた展示会が開催されました。いまどき珍しい控えめの料金にもかかわらず、三密もなく入場制限や感染対策も不要で、ゆっくりとした時間を過ごせました。

狩野派が牛耳る江戸画壇や円山応挙が核を作った京都画壇はよく知られています。他方、大坂(阪)に画壇があったのか?という素朴な疑問さえ聞かれ、知名度も低く影も薄い。フェノロサや岡倉天心から評価されず、教科書に載せて貰えないせいなのか「知られざる」とか「不遇の」大阪画壇という寂しい扱いが続いています。そもそも大阪画壇の展示会を京都で開催することも妙な話ですが、大阪で開催するともっと人が入らないのでしょうか。
過剰な期待が外れると逆恨みしがちですが、その反対のケースもたまにはあるようで、今回の展示は愉しかったです。

長崎に渡来した沈南蘋に学んだ熊斐、そして鶴亭の花鳥画の系譜。大坂堀江の木村蒹葭堂のサロンに集った面々の墨跡。「大大阪」の頃の女性画家リーダーの北野恒富や、近代建築が増殖した中之島から川口居留地跡に縁の深い小出楢重の作品もオマケで並んでいました。
しかし、このような素人の不親切な説明では「知られざる」大坂画壇は「不遇」のままになりそうなので専門家の文章に助けてもらうことにします。

・・・鶴亭は長崎聖福寺の黄檗僧で、清の画家の沈南蘋に師事した熊斐に南蘋風花鳥図を学んだ。還俗して京都、大坂に進出。文人画家と交わった。四十代半ばで黄檗山萬福寺に戻り塔頭紫雲院の住持を勤めた。1785年に江戸下谷池之端にて64歳で亡くなった・・・。(神戸市立博物館 2016年4~5月『我が名は鶴亭 若冲や大雅も憧れた花鳥画⁉』展の図録より抜粋)

木村蒹葭堂旧居跡の石碑と案内板が大阪市西区北堀江の大阪市立中央図書館(今は辰巳商会中央図書館とネーミング。大阪市史編纂室所在)の角にあります。実業家・画家・コレクター、更に文人墨客のサロンの中心として著名。古今東西の博物収集は若冲の『動植綵絵』製作のインスピレーションに繋ったと聴いたことがあります。

数日後、親戚の墓や自分用更地を借りている京都深草の石峰寺へ参りました。春秋の寺蔵品展示会も感染対策の自粛が続いていて、特に今年は本山の黄檗宗祖隠元禅師350年大遠忌法要もネット配信で厳修される程の厳しさの中なので、石峰寺でも伊藤若冲顕彰会員のみが出入りを許される短期間の内覧会でした。
今回はいつもの若冲作品ではなく、鶴亭の屏風絵や「鶴図」を中心とした展示でした。実に安全で静寂な寺の美空間を独占したあと、しばし住職とご母堂から鶴亭についてのご教示をいただきました。

5月は大坂/大阪について、WAA例会でオンライン報告をさせていただく機会があり準備に集中しました。以前に集めた地図や歩き直して撮った画像を盛り込んで『大阪歴史散歩「かやくごはん・てんこもり」』というお気楽なタイトルを付けました。色々な加薬(かやく/具材)を炊き込んだ安あがりの夕食のような内容でした。その一端を以下記します。

道修町から北浜、中之島を歩き、淀屋橋から88番のバスで川口へ。
水にちなむ地名が多く、国貞らによる浮世絵『大坂百景』には多くの水辺の景色が描かれています。そんな「水都」と呼ばれる土地に漢方薬由来の薬業や大和川の流れを付け替えたあとの河内木綿を背景にした綿業が発達し、全国の米・俵物(中国向け海産物)交換市場を持つ「天下の台所」と称された「商都」でもありました。
明治維新直後の停滞期をしのいで二十世紀に入ると、東洋のマンチェスターと呼ばれた「煙都・大大阪」の後背地が育ち、念願の築港が完成。東北アジア航路の拡充と北幇(山東煙台中心とした川口華商)の活躍を基軸とした大陸貿易も急成長しました。
また、東洋一のアーセナルの大阪砲兵工廠を核に膨張した「軍都」の側面がありました。

戦争末期、この「軍都」を標的とした大空襲により、人家も生産拠点も貿易拠点もほぼ壊滅しました。そこに至る77年間を中心に報告しました。

この報告の資料作りの過程で、外から大阪にやってきた人がリーダーシップを取る事例が多いのではないか?という素朴な印象が生まれました。
豊臣秀吉(尾張)、五代友厚(薩摩)、小林一三(山梨)、松下幸之助(和歌山)、横山ノック(北海道)らは保守的な同調圧力から自由であり、斬新なデザインができたような気がします。しかし一方では、大阪商工会議所の創始者の五代友厚、後継の藤田傳三郎(長州)を「都市制圧者・進駐軍」と見なし、近世の高い水準にあった大阪文化を理解しえなかったとする異見も知りました(『大阪の曲がり角』木津川計)。
大阪画壇を商家の床の間に押し込めた一因もこの辺りにあるのかも知れないと愚考しています。

折しも、この春に藤田美術館が改装され「傳 傳三郎好み」とされる逸品が、照明を落とした人工空間に配置されています。暗闇でしか見えないものを訪ねるのも一興ですが、改装前の公民館風の佇まいにも味わいがありました。
新装開館の賑わいとは反対に姿を消していく建築物もあります。堂島大橋北詰の莫大小会館の斬新なモダン設計がお気に入りでした。昨今はギャラリーやオフィス、そしてカフェが雑居していましたが川口貿易が華やかな頃には、メリヤス売込商の拠点として、華商との往来が至便の場所でなかったかと睨んでいます。
大阪商人を鍛えたのは、北からやってきた華商集団だったとの説を思い起こすと、丁々発止のやり取りの声が聞こえてくるような場所でした。老朽化と非耐震構造を理由に7月で閉館、大大阪の残り香をかぐ機会もあとわずかとなりました。

仕込みが不十分な生煮えの「かやくごはん」的報告となりましたが、関東や海外のみなさんにステレオタイプでない大坂/大阪の一面を伝えることに努めました。
菊田一夫の造語「ガメツイ奴」、今東光が創作した「河内悪名」、そしてヨシモト的なアクの強さだけが大阪ではないと、少しでも報告できたとすれば幸いだと思っています。

2022年4月16日

多余的話(2022年4月)  『社区』

井上 邦久

「テーマが多ければ多く書き、少なければ少なく書き、書くことが無ければ書かない、私はこれを誠実に守っていく宗旨とする。」

これは1961年10月30日、毛沢東によって『人民日報』社長に棚上げされた鄧拓(筆名:馬南邨)が『燕山夜話』第二集出版の巻頭に寄せた短文の一節です。夕刊紙『北京晩報』のコラムが好評で出版を重ねていた時期のことです。

米寿祝いのスタジアムジャンパーがお似合いの北基行先生から長年講読指導を受けています。講読会の現代文テキストに『燕山夜話』を毎月一話読み繋いで今月で67話目、と言うことは已に5年余りが過ぎたことになります。講読会の母体として先行してきた華人研は感染症のため休会が続きましたが。その間も講読会は継続しつつ、『燕山夜話』の第1集第1話からの原文・北先生の訳文・関係する画像・時代背景などの「ひとそえ」を華人研のHPwww.kajinken.jpに月二回連載し、二つの会の安否確認のように発信してきました。

 3月から華人研も定員制限や予防対策を遵守した上で再開できました。2年ぶりの再開は崑劇女優・崑劇研究家の登壇のお蔭で盛況でした。4月は奇しくも崑劇のふるさと崑山市で合弁企業を経営した方の報告です。大阪と製薬産業、アジア食品事情の話題も豊富ですが、福井の実家での農業との兼業ビジネスマンの生活と意見も楽しみです。 www.kajinken.jp を覗いて頂ければ幸いです。

2月に罌粟(ケシ)、3月に緒方八重さんをテーマに「多余的話」を書きました。

過去のことをほじくり返した印象を残したかも知れません。ただ鄧拓の言葉通り、書くことがなければ書かない姿勢に賛同しています。また、過去の時代のテーマが多いのですが懐古趣味は控え、なるべく現在につながることを意識しています。その意味で上海の歴史著述家の教授から、「多余的話、均已拝読、有意思的話題、具有現実意義」とかなり甘口の評点をいただいて、ルーキーが初ヒットを打ったように喜んでいます。

 或る弁護士からは無名氏の散文詩が届きました。西安や長春の感染者が増えた時、上海人はかなり辛辣に「地方」の管理の甘さを指摘していましたが、今になって上海も感染が拡大し、自慢の厳重な管理体制が崩れ、自尊心も傷ついたことを慨嘆しています。
また、長年の上海暮らしを続けている複数の方からも、団地毎にある「小区」の柵の中での生活、水道水を飲み水にする習慣が途絶えた人たちの生活をリアルに教えて貰いました。
国家の下での「単位」と呼ばれた末端管理組織が、街道弁事処・「社区」・居民委員会という形で変遷しています。疫禍までは関心の薄い存在だった気がします。

チャイナ・ウォッチャーのベテラン津上俊哉氏の近著『米中対立の先に待つもの』(日本経済新聞出版・2022年2月)は、「各論悲観・総論楽観」の繰り返しに飽きて(ご本人の弁)、控えてきた本の出版を久々に再開した力作です。まさにベテランが満を持して放ったホームラン。これにより氏の長打率はさらに高まった印象があります。
その一節、草の根大衆が習近平主席のコア支持者(第二章 急激な保守化・左傾化―転換点で何がおきたのか)に書かれている、「都市部における「街道弁」は、農村部における「村」と並んで、党と政府組織のピラミッド最底辺だ」の考察に注目しました。「街道弁」は「社区居民事務所」の上部機関とほぼ同義だと理解します。

これら最底辺の基層組織は、かつて一人っ子政策の推進者として住民に圧力を掛け、我々外国人の不行跡を「関所」で監視してきました。普段は普通の「大媽(おばさん)」達が、時に末端党員の意地を見せると怖くて、我が方にも落ち度や弱みがある場合には更に怖い存在に化しました。ロックダウンという非日常下で、日頃は目立たない党や行政の末端組織のマシーンがフル稼働して、検査実行・隔離徹底・食糧分配などに大活躍していることでしょう。津上氏は、この草の根大衆のムーブメントについて、戦時下の日本の大日本国防婦人会や隣組を彷彿させると書いています。昨年来、NHK大阪放送局が、大阪港湾地区発祥の婦人会が先鋭化した背後に「家庭の隅に追いやられていた嫁たちの鬱積していたパワー」があることを浮き彫りにしたドキュメンタリーを製作しました。何度か見て、視野を拡げてもらったことと「社区大媽」に通じるものに気付きました。

氏は「トランプ前大統領のコアサポーターと一脈通じるところがあるのだ」とさらに鋭い指摘をしています。プワーホワイトと呼ばれる低所得白人労働者を描いた『ヒルビリーエレジー』を読んだ時、ボストンの工事現場でレッドネック(日焼け)の労働者を見かけた時の「繁栄する社会の隅に追いやられた者たちの鬱積した怒りとパワー」を思い出しました。
個人的にも 中国現地法人の職員の給与や賞与の査定をするときに、高額な家賃を負担して刻苦奮闘している他の省出身の「外地人」職員と、幾つかの高級マンションを所有して、給与より世間体と健康のために出勤しているらしい「本地人」職員の処遇に考え込んでいました。また教育機会を得ることを政治や経済環境が許さなかった時代と、大学卒業生が年に1,000万人を越える時代とでは、経歴比較の尺度が変わるでしょう。
金持ちになり損ね、教育機会を逃して、社会の隅で生活している人たちの層に習近平主席は支持基盤を発見した、という論旨を津上氏の著作に教わりました。

一方で3月5日の全人代での李克強首相による政府活動報告から「共同富裕」の文字が激減していて、振り子の揺り戻しも予感しています。
政治的にも、経済成長の観点からも、「先富論」からは離れがたいのでしょうか?「共同富裕」であろうと「先富論」であろうと、全ての根幹である食糧について、コメはほぼ自給自足です。トウモロコシの不足分の70%はウクライナに頼っている中国が、小麦や大豆に続いてトウモロコシも米国からの依存度を上げるなら、米中関係の振り子も微妙に揺れることでしょう。
今の段階では食糧自給率を云々するほどのこともなさそうですが、振り子の揺れの範囲を知りつつ、振り子の現在位置がどこにあるのかを今後とも確認したいと思います。

2022年3月20日

多余的話(2022年3月) 『緒方八重さん』

井上 邦久

最高気温が連日新記録を更新して、一気に草木の芽が張る季節が来ました。艸という形に由来する草の字には春が内在しています。そして志貴皇子の歌、

「岩走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」
を思います。

万葉集には「石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨」とあり、ここの佐和良妣は「蕨」か「薇」か?と酒友中国文学者桑山竜平に訊かれた万葉学者の大浜厳比古は『万葉幻視考』(集英社)に啓発に満ちた酒席噺を綴っています。

味わいのある酒の上での話を、早くみなさんと楽しみたいです

福沢諭吉も酒豪であったと聴いています。
門閥にこだわる中津藩の狭量さに嫌気がさして、蘭学修業先の長崎から故郷中津に戻らず、大坂の緒方洪庵の適塾に直行して頭角をあらわしています。
灘や伏見の酒にも馴染んだ諭吉をはじめ、貧しい書生たちの面倒をみたのが緒方八重さんその人です(億川百記の娘、摂津国西宮名塩に生まれ。洪庵が適塾を開いた頃に十七歳で結婚)。

 福沢諭吉の同郷の後輩、田代基徳(陸軍軍医校長などを歴任)は特に貧乏で、按摩で糊口を凌ぎながら猛勉強したとか。常に空腹で、深夜に樽の餅を盗もうとして、八重さんに出くわし夜具を被って隠れていたら、八重さんから掌に沢山の餅を載せて貰ったという逸話を、「中津藩出身の蘭学者」(川嶌眞人『大阪春秋』「緒方洪庵生誕200年特集」号)でとても味わい深く読みました。

緒方洪庵の偉業を要約すると、以下の三点になるのではないかと思います。
先ず、適塾を開き福沢や田代のような多くの俊才を育成したことがあります。姓名録の記録だけで637名とのこと。
次に、町医師や町人と除痘館を開設して、牛痘種痘の施療とワクチン分苗ネットワーク(池田・伊丹・灘・西宮など)を民間主導で築いたことです。
三点目として、1858年のコレラ大流行に際し、長崎の蘭館医ポンペの口授治療法(松本良順訳)に並行して、医訳書『虎狼痢(コロリ)治準』を緊急出版したことが挙げられます。ポンペは阿片やキニーネを大いに推奨しているのに対し、洪庵は使用を否定しているわけではないものの多量な使用には異論を唱えていたようです。

以上の事柄は、古西儀麿『緒方洪庵と大阪の除痘館』(東方書店)などの医学史書に詳しく、また『ぼくらの感染症サバイバル 病に立ち向かった日本人の奮闘記』マンガ:加奈、監修:香西豊子(いろは出版・2021年12月出版)で楽しく読めます。
小学高学年以上からを対象に監修したとお聴きしましたが、緒方洪庵からジョン・スノウ(1854年、ロンドンでのコレラ流行を終熄させた「疫学」生みの親)まで幅広く書かれています。
未来からタイムスリップしてきた緒方洪庵の子孫が、中学生と古代から現代までの疫禍の現場に飛んで人々の奮闘を知る筋立てです。

2021年10月『牛の話』で触れた仏教大学香西春子教授の講座は、対面教室で、色々な貴重な医学史料を手にさせてもらい、質疑応答も無制限でした。随分お得な疫学史と公共衛生の入門コースでした。 
スペイン風邪の終熄後100年の間、天然痘撲滅を初めとする感染症との奮闘を「征圧」と過信して、感染症用病床を減らし続けた経緯を教わりました。現在も適塾のお膝元で感染症病床の不足が何度も伝えられる背景を考えるヒントになりました。
また、西洋医学の日本導入期に貢献したポンペ医師の写真を指し「偉丈夫で胸を張っていますが、意外と若くて30歳前後だったのです」というコメントは新たな発見でした、軍医出身だったポンペが、明治政府の医学・衛生行政にどのように影響したかも考えさせられました。

緒方洪庵は幕府の奥医師(将軍の侍医)に招かれ、渋々大坂から江戸に移り、その翌年(1863)に八重と九人の家族を残して没しています。文久三年、京の壬生寺に新撰組が屯所を置いた年です。八重さんは遺児や親族の子を幕府及び新政府の欧州派遣留学生として送り続ける一方、戊辰の戦の時には横浜に避難し、その後帰阪して適塾に住んでいます。
1873年には除痘館がその役目を終えて閉鎖され、1875年からは八重さんの隠居部屋となりました。
適塾は保存対象の建築物となり、その脇の路地を南へ抜けた除痘館跡、大阪市中央区今橋三丁目のその土地には緒方病院ビルが建ち、その4階に除痘館記念資料室があります。

「適塾の偉大さは、緒方洪庵の偉大さによるものであるが、病弱の洪庵と多くの門人たちの世話を一手にひきうけて、門人から慈母のように慕われた八重夫人の内助の功をわすれてはならない。」、これは伴忠康の『適塾をめぐる人々―蘭学の流れ』(創元社)の巻頭に記された言葉です。

明治十九年二月七日、八重さんは62歳で逝去。孫の緒方銈次郎氏の文章によると、「葬儀の式は空前の盛儀を極め、親戚知己を始め適塾門下多数の参列を受けて阿倍野に送られた。葬列の最前列が日本橋付近に差しかかった時、棺は未だ北浜の拙齋宅を出て無かった程に長かったといふことである。」とあります。
もともと近場の長柄村で葬儀を行い、北区寺町の龍海寺の洪庵の墓に納骨をする予定が、参会者が予想以上に多く(二千余人とも三千人とも)直前に阿倍野(天王寺村)斎場に変更されています。
翌月、福沢諭吉は東京から龍海寺に参り、お供の慶應義塾員の酒井良明を止め、「これは私のすることだ」と自ら墓石を洗いあげた、と伝えられています。

これより先、明治十八年十月二日、五代友厚の葬儀は中之島の邸(現日本銀行)から淀屋橋南詰を東に・・堺筋南へ、住吉街道鳶田より東へ、天王寺村埋葬地へ着す。・・大阪府に於ける紳士縉商と称せられる者は悉く皆会葬し、その数実に四千三百余人の多きに達し、大阪府空前の盛儀を呈したり、と伝記にあります。

2022年3月4日

多余的話  (2022年2月) 『津軽から茨木へ』(『父親と長男』改題)

井上 邦久

 2020年末から2021年初頭以来、集英社新書『人新世の「資本論」』は読者を増やしているようだ。1987年生まれの著者、斎藤幸平氏を画像で見る機会も増えてきた。
冒頭から、SDGsは「大衆のアヘン」である!と書き始める。そして・・・かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。
SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、と続く。SDGsについての議論は別にして、何故SDGsに「アヘン」が比喩的に用いられるのか愚考してみた。そして、その流れでアヘンの深みにはまりそうで、始末に負えない予感がしている。

アヘン(阿片・鴉片)はケシから採取した汁を乾燥させ製造する。モルヒネ、コデイン、テバインなどのアルカロイドを含む。医学用途として鎮痛効果や一時的な昂揚感・多幸感を感じられるとされるが、習慣性・中毒性に陥ると心身の滅亡に到る。

『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉(勉誠出版・2021)に「乱用薬物」を取り締まるための法律として以下の整理がなされている(一部省略)。

・アヘン関係:生阿片取締規則(1870)⇒旧阿片法(1897)⇒あへん法(1954)⇒現在・モルヒネ・コカイン・向精神薬関係:モルヒネ・コカインおよび其の塩類の取締に関する件(1920)⇒麻薬取締規則(1946)⇒麻薬および向精神薬取締法(1990)⇒現在
・大麻関係:大麻取締規則(1947)⇒大麻取締法(1948)⇒同法改正(1953)⇒現在
・覚せい剤取締法(1951)⇒現在   

 室町時代に南蛮貿易によって渡来したケシ・罌粟(アヘン・阿片)が何故か津軽にもたらされ(宣教師が治療用などで帯同したか?)、津軽はケシ栽培・アヘン精製・販売の拠点となった。津軽藩の奨励策により特産「一粒金丹」としてブランド化された。

ここからは陸羯南研究会で知り合った松田修一氏(東奥日報前特別論説委員・津軽在住)から頂戴した参考URLとご教示を抜粋する。

https://tsugaru-fudoki.jp/digtalfudoki/ichiryukin/

(森鴎外の)『渋江抽斎』は冒頭に「津軽地方の秘方一粒金丹というものを製造して売ることを許されていたので、若干の利益はあった」と書いていますが、月に百両の収入は若干ではありませんね。
一粒金丹は藩統制品でしたが、藩士は入手可能であり、他藩への土産品として持っていくことも許されたため、瞬く間に全国ブランドになりました。江戸市中にも(たしか)2軒の専売所開設が許されました。うち1軒が渋江家だと思います。
抽斎が医師として名をなしたのも、一粒金丹が万能の妙薬として人気がすこぶる高かったからでしょう。【中略】それで、ちょっとだけ調べてみたところ、名古屋大学の紀要『ことばの科学』(11号:1998年)に、次の論文が掲載されていることが分かりました。
「成田真紀 津軽医事文化資料と池田家文庫の撞着 ―渋江道直の一粒丹方并能書をめぐって―」。青森県内の図書館は所蔵していないようなので、国会図書館からの入手が可能か否か、聞いてみようと思います。まずは、同書を引用しているネット情報を見つけたので関係部分を要約します。
1837年(天保8年)ころ、大坂道修町の薬屋の奉公人が、取引先回りの際、津軽でケシ栽培やアヘン製造法を伝習し、種子を持ち帰り、摂津の国三島郡でけし栽培を始めた。・・・
だそうです。茨木ですね!!

松田さんのお蔭で、津軽⇒大坂道修町⇔摂津国三島郡=茨木がつながった。
『新修 茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』には以下のように纏められている。(1887.9.8)

・阿片製造の濫觴:天保八年島上郡西面村の植田五十八が同村玉川近傍字北の小路にて白色単弁の罌粟を栽培、之を以て阿片を製錬したるを創始とす。五十八の弟四郎兵衛は道修町の薬舗近江屋安五郎方に雇われ,商用ありて北陸奥羽の地方に到りしが津軽に於て阿片を製造するを一見し罌粟の栽培及び阿片に製錬する方法を習い、兄五十八に伝ふ・・・

・島下郡福井村の彦坂利平の弟治平が道修町の薬舗榎並屋三郎兵衛の養子となり阿片の買い入れの為、年々陸奥の津軽地方に赴しが、製造法の伝習を受け、種を兄の利平に授けて阿片製造の業を慫慂せり、天保十二年同村字秋浦にて罌粟栽培、同村田中庄三郎・南浦孫七等に伝えついで中河原・安威その外の諸村に伝わり遂に今日の如く西面村(高槻藩領:現高槻市)、福井村(一橋家領:現茨木市)ともによく似た経路で、津軽から大坂道修町(現大阪市中央区)の薬種商が種子・技術を移入し、摂津で下請け栽培をさせ、「一粒金丹」の津軽藩独占を崩そうと試みた構図が見えてくる。

若干後発であった福井村は「最良の阿片を製出するは島下の福井村にて同村の品は尤も多量のモルヒネを含めりとのことなり(同1884.11.21)」とある通り、明治時代の半ばには評価を上げている

『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』 倉橋正直(共栄書房 2002)には府県別生産1921年度(大正十年度阿片成績『艸楽新聞』1922年7月1日から転記)として下表があり

     ケシ栽培人員             阿片納付人員

大阪  3,492(人)  5,146(反)      大阪市 1(人)岡山   899      540         三島郡 4,013
和歌山  748      714         豊能郡  202
京都   285      224         北河内郡  21
兵庫   190      186         中河内郡  4
奈良    29       17         南河内郡  4

 この統計によれば大阪のシェアが圧倒的であり、その中で三島郡(福井村・安威村)が群を抜いている。

また、第一回大阪府実業功労者として個人表彰の新聞記事がある。 
                     (1922年2月11日)            
 中山太一 (中山太陽堂=クラブ化粧品) 化学品製造輸出伸張
 木谷伊助                朝鮮貿易伸張
 芦森武兵衛 (精工舎)         綿編及び紡絃の創
 辻本豊三郎 (福助足袋)        足袋の改良と公益助
 二反長音蔵               罌粟栽培普及(年産額
                          千五百貫
                     賠償金額参拾万円)

この二反長音蔵(にたんちょう おとぞう。旧姓川端音二郎が二反長家のレンと結婚)が大阪府三島郡福井村を拠点に、ケシの栽培・採取方法・モルヒネ含量向上の技術改良に努力し、栽培面積の拡大に尽力した成果が上記の地域別シェア記録や公的な顕彰に繋がっている。一方で、アヘン生産と戦争とは密接な関係がある。軍縮平和の時代は需要が低調になるが、軍拡戦争の時代はアヘン生産が連動して増加している。

1914 第一次世界大戦 軍需用モルヒネの需要増⇒原料アヘンの払底1915~1919 内地・朝鮮でケシ栽培の拡大 (二反長音蔵の出張指導 計5回)
1918 第一次世界大戦終結 軍需用モルヒネの需要減⇒原料アヘンの滞貨⇒ケシ減産
1931 満洲事変 増産体制へ転換。日中戦争/1937、第二次世界大戦/1941 増産強化1945 GHQより禁止令
1954 ケシ栽培の復活(戦前の10%の戸数。1960)⇒厚生省政策変更。限定栽培
ケシ栽培に連動するアヘンからモルヒネ精製の変遷を簡単にメモすると、
1915 星 一創業の星製薬が国産化成功(台湾アヘンの精製・台湾総督府との提携)
1917 内務省の指示で、大日本製薬、三共、ラヂウム商会に技術の公開認可
朝鮮で半官半民の大正製薬(国策会社であり、現大正製薬とは別)を設立
大正製薬の招請で、二反長音蔵が開城京畿道方面で指導調査。
1918 第一次大戦終結⇒モルヒネ輸入再開・相場下落⇒朝鮮でモルヒネを一般販売
1928 増産体制        
1933 大増産体制              
『新修茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』からの関係記事を取り上げると、安東(現遼寧省丹東市)、長白地区、張家口、旧熱河省などへの二反長音蔵の足跡を戦争末期まで追うことができる。

・阿片王国といはれる大阪府三島郡の阿片栽培者ハ毎年増加するばかりで、近来裏作といへば昔なじみの麦、菜種をすてて阿片を作るようになった。・・・裏作は全部阿片に・・・
 茨木署部内調査(17町村):1,456名、226.4町歩、631貫、
              137,529円

豊川、三島村、福井村、春日が多いが、福井村の生産性が突出    (1928.4.20)
・内務省「阿片栽培制限令」撤廃決定。栽培免許相続人の栽培も従前通り(1929.8。8)
・二反長音蔵、安東区阿片綜批發処の招請、東辺道長白府方面で指導視察。(1934.8.23)
・福井村で数十年ぶりに阿片密売者根絶。神戸方面の不正ブローカーの潜入などで、純朴な農村から夥しい違反者が摘発され昨年の如きは88件検挙  (1936.10.1)
・「罌粟増産協議会」が9月5日茨木中学校で各町村長、農会長、厚生省、府農務課参集。
・二反長音蔵、蒙古政府の懇望で、罌粟栽培と阿片製造のため令息の半君と29日出発。
原始的な大陸の罌粟の画期的増収のため種子、採汁法の改良により戦時下重要な阿片増産にご奉仕する。(1943.6.27)   
※茨木ゴルフ場(農地化)開墾着手(1943.8.14)

 二反長音蔵の長男の二反長半(にたんおさ はん、と改名)の遺作となった、『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』(すばる書房)には、「1943年、二反長音蔵(当時70歳)に蒙古連合自治政府から主席徳王の名で招聘状が届いた」とあり、「これが最後の御奉公や。蒙古にうんと白い花を咲かせてやったるで」と書かれている。村の裏作収益を上げて、「一日一善運動」を行いながら、国内外で水はけの良い南向きの傾斜地を探し当てては熱心に栽培指導を行った二反長音蔵は「大陸で被害を受ける者」への影響をどこまで意識していたであろうか。

伝記の著者の二反長半は。旧制茨木中学の先輩である川端康成や大宅壮一に憧れ、戦前から児童文学の創作や伝記小説、歴史小説を執筆。最晩年に父親の伝記を脱稿した直後に倒れ、出版を見ずに急逝している。
ポプラ社や小学館の「こども伝記小説シリーズ」で、作者を意識せずに、二反長半の作品を読んでいる児童が多いかも知れない。
モルヒネなどアルカロイド系薬品の国産化開発に尽力して、星製薬をトップ企業にした星一社長の栄光と没落を、長男の星新一は、小説『人民は弱し 官吏は強し』にしている。
そのなかに「無理に考えたあげく、やっと被害を受ける者のあることに気がついた。阿片吸飲者たちだ。煙膏に含まれているモルヒネの量はかわらなくても、味がいくらか落ちることになるかもしれない。それと、インドの阿片業者だ。しかし、これくらいの犠牲は仕方のないことだろう。(新潮文庫版)」という一節を忍ばせている。

星一は後藤新平の台湾阿片漸減政策と表裏一体となって事業を伸ばしたが、後藤新平の後を襲って政界や官界の主導権を握った加藤高明以下の官吏・政治家に追い落とされた。
星一には商品開発、利益追求そして自社存続をかけた裁判には注力しても、阿片吸飲者への影響は意識のなかになかっただろうか。
ケシ・アヘンの世界に生きた二人の父と、多くの屈折を体験して文学に活路を見いだした二人の息子の自らの父親についての文章は重い。

歴史・社会研究分野からは、『日中アヘン戦争』(江口圭一・岩波新書)が初学の出発点となり、上記に引用した倉橋正直氏の福井村のフィールドワークや『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉の視点の広さに多くを学んだことを附記し感謝したい。

2022年2月27日

多余的話  (2022年2月) 『父親と長男』

井上 邦

 2020年末から2021年初頭の第一の波以来、集英社新書『人新世の「資本論」』は読者を増やしているようだ。1987年生まれの著者、斎藤幸平氏を画像で見る機会も増えてきた。  
冒頭から、SDGsは「大衆のアヘン」である!と書き始める。そして、・・・かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、と続く。SDGsについての議論は別にして、何故SDGsに「アヘン」が比喩的に用いられるのか愚考してみた。そして、その流れでアヘンの深みにはまりそうで、始末に負えない予感がしている。

アヘン(阿片 ・鴉片)はケシから採取した汁を乾燥させ、製造する。モルヒネ、コデイン、テバインなどのアルカロイドを含む。医学用途として鎮痛効果や一時的な昂揚感や多幸感を感じられるとされ、習慣性や中毒性に陥ると心身の滅亡に到ると理解している。

『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉(勉誠出版・2021)には、「乱用薬物」を取り締まるための法律として以下の整理がなされている。

・アヘン関係:生阿片取締規則(1870)⇒旧阿片法(1897)⇒あへん法(1954)⇒現在
・モルヒネ・コカイン・向精神薬関係:モルヒネ・コカインおよび其の塩類の取締に関する件(1920)⇒旧麻薬取締規則(1930)⇒旧々薬事法(1943)⇒麻薬取締規則(1946)⇒旧麻薬取締法(1948)⇒麻薬取締法(1953)⇒麻薬および向精神薬取締法(1990)⇒現在
・大麻関係:大麻取締規則(1947)⇒大麻取締法(1948)⇒同法改正(1953)⇒現在・覚せい剤取締法(1951)⇒現在   
室町時代に南蛮貿易によって渡来した罌粟(阿片)が何故か津軽にもたらされ(宣教師が治療用などで帯同したか?)津軽は栽培・精製・販売の拠点となった。津軽藩の奨励策により特産「一粒金丹」としてブランド化され、渋江抽斎も専売藩医として収入を得ていた。

以下に津軽在住の松田修一さんから届いた参考URLとご教示の文体のまま引用する。

https://tsugaru-fudoki.jp/digtalfudoki/ichiryukin/

森鴎外の『渋江抽斎』は冒頭に「津軽地方の秘方一粒金丹というものを製造して売ることを許されていたので、若干の利益はあった」と書いていますが、月に百両の収入は若干ではありませんね。一粒金丹は藩統制品でしたが、藩士は入手可能であり、他藩への土産品として持っていくことも許されたため、瞬く間に全国ブランドになりました。江戸市中にも(たしか)2軒の専売所開設が許されました。うち1軒が渋江家だと思います。抽斎が医師として名をなしたのも、一粒金丹が万能の妙薬として人気がすこぶる高かったからでしょう。【中略】それで、ちょっとだけ調べてみたところ、名古屋大学の紀要『ことばの科学』(11号:1998年)に、次の論文が掲載されていることが分かりました。「成田真紀 津軽医事文化資料と池田家文庫の撞着 ―渋江道直の一粒丹方并能書書をめぐって―」。青森県内の図書館は所蔵していないようなので、国会図書館からの入手が可能か否か、聞いてみようと思います。まずは、同書を引用しているネット情報を見つけたので、関係部分を要約します。

1837年(天保8年)ころ、大坂道修町の薬屋の奉公人が、取引先回りの際、津軽でケシ栽培やアヘン製造法を伝習し、種子を持ち帰り、摂津の国三島郡でけし栽培を始めた。
・・・だそうです。茨木ですね!! (引用終わり)

以上、松田さんのお蔭で、津軽⇒大阪道修町⇔摂津国三島郡=茨木がつながった。
『新修 茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』には以下のように纏められている。

・阿片製造の濫觴:天保八年島上郡西面村の植田五十八が同村玉川近傍字北の小路にて白色単弁の罌粟を栽培、之を以て阿片を製錬したるを創始とす。五十八の弟四郎兵衛は道修町の薬舗近江屋安五郎方に雇われ,商用ありて北陸奥羽の地方に到りしが津軽に於て阿片を製造するを一見し罌粟の栽培及び阿片に製錬する方法を習い、兄五十八に伝ふ・・・
島下郡福井村の彦坂利平の弟治平が道修町の薬舗榎並屋三郎兵衛の養子となり阿片の買い入れの為、年々陸奥の津軽地方に赴しが、製造法の伝習を受け、種を兄の利平に授けて阿片製造の業を慫慂せり、天保十二年同村字秋浦にて罌粟栽培、同村田中庄三郎・南浦孫七等に伝えついで中河原・安威その外の諸村に伝わり遂に今日の如く(1887.9.8)西面村(高槻藩領:現高槻市)、福井村(一橋家領:現茨木市)ともによく似た形で「津軽」を大坂道修町(現大阪市中央区)の薬種商が種子・技術を移入し、摂津で下請け栽培をさせ、「一粒金丹」の津軽藩独占を崩そうと試みた構図が見えてくる。
若干後発であった福井村は「最良の阿片を製出するは島下の福井村にて同村の品は尤も多量のモルヒネを含めりとのことなり(同1884.11.21)」とある通り明治の半ばには評価を上げている。『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』 倉橋正直(共栄書房 2002)p27からの転記。

 ・府県別生産1921年度(大正十年度阿片成績『艸楽新聞』1922年7月1日) 

ケシ栽培人員                 阿片納付人
大阪  3,492(人)5,146(反)    大阪市      1(人)
岡山   899    540     三島郡     4,013
和歌山  748    714       豊能郡      202
京都   285    224       北河内郡      21
兵庫   190    186       中河内郡       4
奈良    29    17       南河内郡       4

 1921年の統計では大阪のシェアが圧倒的であり、その中で三島郡(福井村・安威村等)が群を抜いている。続いて、第一回大阪府実業功労者として個人表彰の記事がある。(1922年2月11日)            

 中山太一(中山太陽堂=クラブ化粧品)  化学品製造輸出伸張
 木谷伊助                朝鮮貿易伸張
 芦森武兵衛 (精工舎)         綿編及び紡絃の創始
 辻本豊三郎 (福助足袋)        足袋の改良と公益助長
 二反長音蔵               罌粟栽培普及(年産額
      千五百貫。賠償金額参拾万円。30町歩(大4)⇒500町歩

この二反長音蔵(にたんちょう おとぞう。旧姓川端音二郎が二反長家のレンと結婚)が罌粟の栽培・採取方法・モルヒネ含量の改良に努め、技術と栽培面積の拡大に尽力した成果が上記の地域別シェア記録や公的な顕彰に繋がっている。しかし、アヘン生産と戦争とは密接な関係がある。軍縮平和の時代は低調になるが、軍の膨張とアヘン肥大化が連動する。
1914 第一次世界大戦 軍需用モルヒネの需要増⇒原料阿片の払底1915~1919 内地・朝鮮で罌粟栽培の拡大 音蔵の出張指導 計5回1918 第一次世界大戦終結 軍需用モルヒネの需要減⇒原料阿片の滞貨⇒罌粟減産
1931 満洲事変 増産体制へ転換。日中戦争/1937、第二次世界大戦/1941⇒増産一本槍
1945 GHQより禁止令
1954 ケシ栽培の復活(戦前の10%の戸数。1960)⇒厚生省政策変更。限定栽培
モルヒネの国産化:星一(ほし はじめ)の創業による星製薬が独自開発。                             1915 星製薬株式会社 国産化成功(台湾阿片の精製・総督府との提携)
1917 内務省、大日本製薬株式会社、三共株式会社、株式会社ラヂウム商会に公開認可朝鮮半島にて罌粟栽培拡大計画(目標1,500町歩)朝鮮で半官半民の大正製薬株式会社(国策会社であり、現大正製薬とは別)を設立し、罌粟栽培の拡大とモルヒネ製造に当たる。
音蔵、大正製薬の招きで開城京畿道方面に二千町歩余を指導調査。1918 第一次大戦終結⇒輸入再開・相場下落 ⇒朝鮮でモルヒネを一般販
1928 増産体制        
1933 大増産体制              
『新修茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』の関係記事を取り上げると、安東(現遼寧省丹東市)、長白地区、張家口、旧熱河省などへの足跡を戦争末期まで追うことができる。
・阿片王国といはれる大阪府三島郡の阿片栽培者ハ毎年増加するばかりで、近来裏作といへば昔なじみの麦、菜種をすてて阿片を作るようになった。・・・裏作は全部阿片に・・・
茨木署部内調査(17町村):1,456名、226.4町歩、631貫、137,529円豊川、三島村、福井村、春日が多いが、福井村の生産性が突出    (1928.4.20)
・内務省「阿片栽培制限令」の撤廃決定。栽培免許相続人の栽培も従前通り(1929.8。8)
・二反長音蔵、安東区阿片綜批發処の招請、東辺道長白府方面で指導視察。(1934.8.23)
・福井村で数十年ぶりに阿片密売者根絶。神戸方面の支那人の不正ブローカーの潜入などで連年純朴な農村から夥しい違反者が摘発され昨年の如きは88件検挙  (1936.10.1)
・「罌粟増産協議会」が9月5日茨木中学校で各町村長、農会長、厚生省、府農務課参集。
・二反長音蔵、蒙古政府の懇望で、罌粟栽培と阿片製造のため令息の半君と29日出発。※茨木ゴルフ場(農地化)開墾着手(1943.8.14) 

 『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』(すばる書房)の193頁には、1943年、二反長音蔵(当時70歳)に蒙古連合自治政府から主席徳王の名で招聘状が届いた、とあり

「これが最後の御奉公や。蒙古にうんと白い花を咲かせてやったるで」と書かれている。

著者は二反長音蔵の長男の二反長半(にたんおさ はん、と改名)。旧制茨木中学の先輩である川端康成や大宅壮一に憧れ、戦前から児童文学の創作や伝記小説、歴史小説を執筆。最晩年に父親の伝記の脱稿直後に倒れ、出版を見ずに急逝している。ポプラ社や小学館の「こども伝記小説シリーズ」で、作者を意識せずに二反長半の作品を読んでいる児童が多いかも知れない。

モルヒネなどアルカロイド系薬品の国産化開発に尽力した、星一社長と星製薬の栄光と没落を長男の星新一は、小説『人民は弱し 官吏は強し』のなかに「無理に考えたあげく、やっと被害を受ける者のあることに気がついた。阿片吸飲者たちだ。煙膏に含まれているモルヒネの量はかわらなくても、味がいくらか落ちることになるかもしれない。それと、インドの阿片業者だ。しかし、これくらいの犠牲は仕方のないことだろう。(新潮文庫版 p32)」という一節を忍ばせている。

星一は後藤新平の台湾阿片漸減政策と表裏一体となって事業を伸ばしたが、後藤新平の後を襲って政界や官界の主導権を握った加藤高明以下の官吏・政治家に追い落とされた。

星一には商品開発、利益追求そして自社存続をかけた裁判には注力しても、阿片吸飲者のことは意識のなかになかっただろうか。

村の裏作収益を上げて、「一日一善運動」を行いながら、国内外の各地で水はけの良い南向きの傾斜地を探し当てては熱心に指導を行った二反長音蔵は「大陸で被害を受ける者」のことにどこまで気がついていたであろうか。

 罌粟・阿片の世界に生きた二人の父と、多くの屈折を体験して文学に活路を見いだした二人の息子の自らの父親についての文章は重い。歴史社会研究分野では、江口圭一の『日中アヘン戦争』が初学の出発点となる。上述した引用図書の他にも『大平正芳と中日間の経済・外交に関する研究 – 張家口時代からLT貿易・中日復交・対中円借款供与』(『大平正芳と阿片問題』(民際学特集 田中宏教授退職記念号 龍谷大学経済学論集 倪志敏 2009)などの文章は、蒙疆における親日傀儡政権のアヘン政策の暗闇を教えてくれる。  (未了)