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2022年1月27日

多余的話(2022年1月)   『骨正月』

井上 邦久

正月早々の題名にしては少々物騒ですが、正月用の鯛や鰤の骨を食べ尽くして、正月気分に区切りをつける二十日正月を骨正月と呼ぶようです。関東での正月も幾度か過ごしましたが、骨正月は聞いたことがありませんでした。
大阪日本橋、文楽劇場の正月興行では舞台の高い処に一対の大きな鯛が向かい合わせに飾られ(張りぼてです)、ロビーには本物の鯛が睨み合って置かれています。
元は江戸時代の京や大坂の商家の「始末」の習慣の名残でしょうか、骨まで愛されれば鯛も本望でしょう。

人形浄瑠璃の近代化は繁華な道頓堀から大阪市西区に座を移させ松島文楽座と命名した1872年1月を画期とする、その強引な移転は新政府の渡辺昇(大村藩。1872年~権知事、1877年~知事)の威嚇誘導による、との後藤静夫さんの説を聴かせてもらい共鳴しました。されば、今年は文楽座命名150年となります。

川口居留地址から木津川を挟んだ江之子島には大阪府庁址の石碑があります。府庁舎も渡辺昇知事により本町橋の西町奉行所(現マイドーム大阪・商工会議所)から西区へ移設、正面玄関もあえて大阪港、川口居留地という開国開化側に開き、旧大阪市街に背を向けていたことは以前に触れました。
幕末の剣豪で、桂小五郎や新選組とも縁のあった渡辺昇の大阪近代化過程での剛腕ぶりが想像されます。
その渡辺昇の名も出てくる『五代友厚傳』(五代龍作著)の一節に「当時君は大阪開港の為め、内外百般の重要事務を一身に負ひ、威望勢力遙かに知事を凌げると、松島遊郭の設置に関しては、之に反対せる者尠なからざりし・・・」とあります。
1868年、慶応から明治へ、京都から東京へ時代が激変する中、五代友厚は神戸事件や堺事件という外国人殺傷問題の対応収拾に奔走し、大坂開市開港にともなう外事・税関を束ね、外国人居留地運営の傍ら、年末に松島遊郭を設置しています。
居留地近くの松島に遊郭を集約化させる行動が出身地薩摩の保守派・武断派に燻っていた五代友厚への嫉妬・羨望を批判・炎上に繋げたようです。
19世紀の半ば、欧州から極東にやってくる海千山千の外交官や冒険商人そして兵隊の実態について、堺事件を通じて思い知った五代流外国人封じ込め策が居留地隣接の松島遊郭設置でなかったかと邪推しています。

一年前、大河ドラマに連動して渋沢栄一周りの話題が増え、映画『天外者』により五代友厚にも注目が集まりました。
途中報告でも伝えた渋沢栄一の聞き語り『雨夜譚』や『徳川慶喜公伝』を丁寧になぞった大森美香の脚本は実直な書きぶりで好感を持ちました。
脇役扱いの五代友厚については豊子夫人が保存した書簡と、葬儀にも名を連ねた片岡春卿(来歴不詳)による略伝を基にしていました。

山に降った雨が数日の内に海に注ぐ国には大陸のような大河はありません。そんな島国での「大河ドラマ」であります。ドラマであって歴史ではないことは「多余的話(言わずもがなの話)」です。

東京商工会議所を創設した渋沢と大阪商工会議所の初代会頭となった五代を大まかに眺めると、まず寿命の長短の差が大きく、遺した著作の多い渋沢と書簡私信だけの五代の違いがあります。
財閥とは言えなくとも企業グループを形成した渋沢家と養子の龍作らも実業界には雄飛しなかった五代家後継の流れは交わっていません。

1868+77=1945 1945+77=2022

維新から坂を登り続けて77年、分水嶺から転げ落ちてから今日に至るまでの77年、足し算は単純ですが、歴史的には少し考え込んでしまう77年の重みです。
旧真田山陸軍墓地も文楽座も保存や支援が必要になっています。
この国にも疫禍の過程で蛻変と始末が必要だと思っています。
今年は「蛻変(ぜいへん)」と「始末」について書き下したいと考えています。

2021年12月22日

多余的話(2021年12月) 『carry-over』

井上 邦久

堀田暁生先生から旧陸軍真田山墓地の保存に関する資料を頂いた。大阪の上町台地を大阪城から南へ玉造・桃谷の辺りを歩いたときに墓地の一角に立ち寄り、町中のエアポケットのような印象が残った。
後日NHK「ファミリーヒストリー」で桂文枝(深夜ラジオ族の頃に馴染んだ桂三枝)の実父銀行員の河村清三氏は、徴集されるも結核を発症し一人っ子を残して陸軍病院で亡くなったとのこと。
その遺骨が何故か真田山墓地に残されていたことが番組取材で判明して、久々の親子の「再会」をしたことを知った。

今回の資料に接することで、1871年に設けられた旧陸軍真田山墓地について、西南戦争前の「生兵」(徴兵され訓練中の兵)から清国・ドイツの俘虜も含めて1945年までの戦争の歴史が凝縮された場所であることを知った。
戦時下でない兵舎で若い命を失った「生兵」や病死した兵のように戦死者以外の人たちも葬られている。
画像資料のなかには墓地参拝を続けている府立清水谷女学校の大正と昭和の女学生の写真が眼を惹く。
和装の女学生がゆったりしたスペースでお参りをしていた大正時代、憧れの清水谷ブルーチーフのセーラー服が、隙間なく並ぶ墓石の間にぎっしりと並んだ昭和初期の写真、わずか十数年と想像される時間の変化を如実に物語って余りある。

大手前、清水谷と並ぶ大阪市内の府立夕陽丘女学校の卒業生である赤松良子さんが12月1日から日経「私の履歴書」を連載中。
毎月の執筆者のパターンは、ほぼ似ていて、親や家の話から始まり、幼児期、学齢期、社会人としての苦闘期、そして成功の道筋が始まる後半生、引退して家族の話を済ませたら月末という流れで、これまで読んできた500人余りの中で作家の安岡章太郎だけが時系列編年体を排していたと記憶する。
歳を拾うと苦労話には共感を寄せても、他人の成功談や恋愛成就の話には「ああ、そうですか」という感じがして、毎月15日以降は読み飛ばすことが多い。
しかし、戦時下から戦後の夕陽丘女学校で英語学習を渇望し、津田塾で英語を学ぶのだという執念を実らせ、その後の東京大学・労働省への進路は女性にとって「狭き門」どころか、当時の労働省婦人少年局以外の政府機関には「門」さえも無かった時代らしい。労働省官僚から国連公使となり男女均等法への道筋造りに悪戦苦闘したことを連日書かれている。

赤松良子さんのIQはとても高いだろう、EQも優れているだろう、それ以上にWQが人並み外れたレベルだったことが半生記を読んで伝わる。(Will Quotientは商社の管理職になった頃に、自分勝手に定義した造語)

今回は月末まで熱心な読者となる予感がする。ここまでたまに見え隠れする。
夫君とご長男についてどのような内容をどのように綴られるか?或いは軽く触れる程度にされるか興味深く見守っている。 

日経新聞といえば、日曜版に吉田博/ふじを夫妻の画業について新たな視角から切り取った連載があった。上海史研究会では、金子光晴/森美千代夫妻の研究報告を聞かせてもらった。二組の男女に共通するのは鬼(夫/男)の居ぬ間の女性の才能の開花であった。
戦後、吉田博を見送ったあとの抽象画『赤い花』『黄色い花』は実にのびやかで、セクシャルでもあり、どこかジョージア・オキーフの作品を思い起こす。
金子光晴夫妻の上海、仏印、パリなどへの流れ旅の回想録は高度成長期になって『どくろ杯』などに結実する。だが、実際は森美千代の記述や記憶に依るところが多くあるという見解に至った研究者趙怡さん。
自らの語りかけによって、説得力が増し、著書『二人旅 上海からパリへ―金子光晴・森三千代の海外体験と異郷文学』にも興味が湧いた。

茨木千提寺キリシタン遺物に続いて、戦国河内キリシタンの本拠が四條畷の飯盛(山)城周辺にあり、四條畷高校時代に通ったバス停の地名がキリシタン遺跡に繋がる事に驚いた。
また茨木の福井村は日本最大の罌粟の産地であった事を記す資料に再度触れた。50年前に南茨木駅工事で発見された東奈良弥生遺跡の記念講演で「弥生人は右利きであった」と言う深沢芳樹さんの話は楽しかった。事ほど左様に身近に好奇心を刺激する材料が多く、来年に積み残しとなります。

米中韓が基軸である太平洋航路のコンテナ輸送での積み残しは、貨物だけでなく日本の存在そのものが積み残しにならないように祈る毎日です。(了)

2021年11月30日

多余的話(2021年11月)   「小春おばさん」

井上 邦久

10月後半からひと月近く穏やかな日和が続きました。小春日和。初冬の季語。中国語では陰暦10月を小春(xiao chun)と呼び、小春日和は小陽春(xiao yang chun)。
勤め人になった年、井上陽水のLP『氷の世界』を買いB面の「小春おばさん」を繰り返し聴いたことを思い出します。
感染が拡大した一年半前。基礎体力を維持し、免疫力を強化するのみと覚悟を決めた頃には夢の中でも、同じ井上陽水の「夕立」の歌詞~計画は全部中止だ~家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで~のリフレインでした。
二度目の夏にも終熄せず、中国で躺平族(tang ping/寝そべり族)と呼ばれる若者のように黙って寝ていました。ところがNobody knowsのまま感染減少の小春がやってきて、時ならぬ「啓蟄」の虫のように蠢いています。

勤め人を止して上海・横浜から大阪に戻り、西区川口の居留地址を何度も歩いています。居留地研究の先生方や港湾関係の皆さんから、キリスト教布教活動や川口華商の活動について教わっています。
居留地址の隣の九条新道で繁盛している「吉林菜館」の女傑からは、国共内戦以降の大阪中華学校の創設経緯について縺れた糸を解きほぐしてもらっています。大阪へ越す前に住んだ横浜中華街福建路でも開港・居留地・華僑文化そして孫文に関する旧跡に触れました。その中華街を舞台にした映画『華のスミカ』を九条商店街の映画館で見ました。
横浜の中華学校を核として、中国革命・文化大革命、そして関帝廟焼失の渦中で華僑や華人が経験した対立と和解の歴史を政治から一歩引いた華僑4世が追いかけたドキュメンタリーでした。中華街の紅衛兵だった父親。家のルーツを知った十代半ばから「中国というもの」を避けてきた息子。父と子が対話するラストシーンが印象に残りました。https://www.hananosumika.com

子供の頃に町内の豪商の三男坊が東京で洋画家になったと聞かされていた、糸園和三郎の生誕110周年展を大分県立美術館で見たあと、中津に帰郷して、菩提寺で二年ぶりの墓参り。
村上医家史料館では1850年の牛痘接種記録と高野長英を匿ったという土蔵を見せてもらいました。
いつも立ち寄る木村記美術館で中山忠彦の作品を独占鑑賞してから、南部小学校の楠の大木に再会しました。100年前に難病治療のため小学校を去った糸園和三郎が心の道標とし、最晩年に描いた楠の大木。60年前に同じ小学校に心を残して去った小生も共鳴しました。
茨木山間部にキリシタンの里があったことを時々耳にしていました。現在は神戸市立博物館の所蔵となっている着色ザビエル像が千提寺の東家で秘蔵された信仰の対象であったことまでは聞いていました。

小春日和のドライブに誘われて朝採りの野菜の即売場で地産地消の定食に満足したあと、ローギアでしか登れないキリシタン遺物資料館に連れて行ってもらいました。
駐車場からの坂道の脇の石碑に「北摂キリシタン遺物発見最初の家」とあり、東さんのお宅でした。整理された資料群と内容の濃い解説書(2018年初版)で啓発されたことは、稿を改めます。
当日の発見は下り坂の路傍にありました。奇妙な縄張りをしている一角があり、片隅にマリア像が囲われていました。説明書を読むと、最初の遺物発見から間もない1923年に大阪川口教会のビロー主任司祭が信者を訪ね、1928年までに千提寺教会を建てた跡地とありました。ローマ教会と大阪川口居留地と茨木人キリシタンが繋がった厳粛な一瞬でした。
啓示、啓発を多く受けた小春の「啓蟄」でした。

映画、医学史、美術そして信仰の足跡という精神生活の刺激もさることながら、何にも増して大分の叔母が病を克服して迎えてくれたことが大きな慶びでした。煎茶の家元として卒寿には見えない背筋を真っ直ぐにした一人暮らしを続けています。昔話をしながら、幾度も美味(甘)い煎茶を淹れて貰いました。
戦時下に、大阪から疎開転校したもう一人の叔母や母親の女学校時代の話も聴かせて貰える大切な「小春おばさん」との再会でした。(了)

2021年10月21日

多余的話(2021年10月) 『牛の話』

井上 邦久

9月に触れた『僕の訪中ノート1971』(編集工房ノア)は、1971年2月20日、(晴)から始まる。
10時、香港最北駅の羅湖に到着。橋を一人ずつ歩いて渡り、深圳側の人民解放軍兵士が機敏な動作でパスポートチェック。
広州行きの列車待ちの深圳駅前には水田が広がり水牛が緩慢に動いているように見えた。その日が晴か曇りか記憶にないが、初めて接した兵士と水牛はよく憶えている。

水牛の角を見て、岡本太郎デザインの近鉄バッファローズの帽子を連想した。読売巨人軍の背番号3を長嶋茂雄に譲り、関西の鉄道会社系の近鉄パールズの監督に就任した千葉茂。その現役時代の愛称として親しまれた猛牛にちなんでバッファロー(ズ)としてイメージ一新を図った。
その後変遷を経て、オリックスバッファローズとなり、今まさかの変身を遂げつつある。近鉄バッファローズは系列の航空貨物会社のアメリカンフットボールチーム名として健在であることを、北京駐在時代に飛び込みセールスしてきた「牛突猛進」タイプの営業マンから教えて貰った。

J&J須賀川工場のある福島県中部は「中どおり」と呼ばれ、今井工場長夫人がMidwayと訳された記憶がある。
三春町の張り子細工とともに、会津の張り子の赤べこは実に可愛い。ただ赤い牛の黒の斑点には注意を払わないままだった。

この数ヶ月、天然痘のことを香西豊子さんから学んだ。
昨年来の疫禍について専門家諸氏が百家争鳴し、科学的とは思えない言説もある中で、医療系社会学者の香西さんの新聞発言に注目した。
近作の『種痘という〈衛生〉近世日本における予防接種の歴史』(東京大学出版会)は8,800円+税という価格もさることながら、果たして読み通せるか自信がなく思案した。

市立図書館には置いて居らず、ダメ元で購入申し込みをしたら、府立図書館の蔵書を期限付きで仲介貸出してくれた。期限が限られていると意外な集中力が上がるもので、日本における天然痘の歴史は、蘇我氏物部氏の対立の頃から始まるという文章の流れに何とか乗ることができた。
江戸時代まで頻繁に発生し、子供が罹りやすく命を落とすこともあった。隔離手法や漢方人痘療法もあったが、達磨などの赤色の玩具、源為朝の疫病退治図、赤飯、茜木綿の病衣などにより、赤色は天然痘の発疹の赤を制して取り去ると信じられた。滝沢馬琴日記などを引用して、子供達の発症、闘病、快復(或いは夭逝)の記録解説が詳しい。

罹ることは仕方ないが、なるべく軽めに済ませたいという「With天然痘」の習しがあったことに着目した。また無痘地域として、八丈島・熊野・岩国・大村などが知られおり、岩国藩主は明治まで誰一人罹患しなかったという。城下から錦川で隔てられた山城で生涯隔離されていたのだろうか?
その岩国藩から池田瑞仙錦橋という治痘医師が幕府の奥医師に異例の抜擢をされ、実子池田京水、二代目瑞仙霧渓(平岡晋)が「池田痘科」の名を成した。

1849年を画期として牛種痘の時代に入る。
ジェンナーの美談(?)として知られる牛種痘法は18世紀末にイギリスで実用化され、1802年にインド、1804年にはバタヴィア、1805年にマニラそして広東/マカオに伝来した。イギリスが中国に阿片を持ち込み、天然痘の種痘法を伝えた時期はほぼ同じであるとの事。

日本では天然痘とは長い付き合いで、民間では怖れつつも手なづけ、「池田痘科」一門の人痘ウィルスの施術効果もあって、牛由来の舶来手法の必要を渇望することも少なく、外来物への保守的な風土も邪魔をした。しかし、1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。
1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している。このあたりの動きの速さには驚嘆する。

各地に種痘所が設けられ、江戸は神田の種苗採取所が後の東京大学医学部に繋がるとの事。更に佐賀藩と並んで先駆的だった福井藩侍医の笠原良策や大阪の緒方洪庵らの活動を経て、蝦夷地や琉球も含めた津々浦々に牛痘接種が普及し罹患者が減少したとの事。
牛の天然痘(牛痘)が牝牛(vacca)乳房に発し、そのウィルスを使う牛痘種痘(vaccination)がワクチン(疫苗)の語源で、パスツールがジェンナー顕彰の為に、牛痘由来以外の免疫抗原をも広くワクチンと呼び一般名称にしたとの事。

折よく、仏教大学OLC(OpenLearningCenter)講座が10月から始まり、香西教授の『「疫病」に向きあうー日本列島における治療と予防の歴史』全6回も開講。
初回は都合でオンライン受講、来月は教室に向かう予定なので、上述に繰り返した「・・・との事」接種の受け売りが増殖することは必至。

疫禍の下、巣籠もりしながら感染病の基礎知識の一端を囓ることで、若い時から読みあぐねていた森鴎外の『渋江抽斎』を今回は一気に読了できた。
また、夏目漱石が生涯気にしていた「痘痕(あばた)」も幕末までの子供の通過儀礼であったと知った。
どちら事も得がたい副反応効果と捉えている。

2021年10月6日

日本から米国へ、韓国から日本へ ―大谷 翔平選手・春日王元幕内力士-

井嶋 悠

Ⅰ:大谷 翔平選手

以下のアメリカ大リーグにかかわる発言は、下記書物からの引用転載で、その部分は「 」で示している。伊東 一雄・馬立 勝著の『野球は言葉のスポーツ―アメリカ人と野球―』

私には夢が一つある。いや、この年齢となればよほどの環境変動がない限り、あったの方が正しい・・・。
それは、アメリカ大リーグの試合[公式試合ならどのような組み合わせでも構わない。ただジャイアンツは避けたい。日本のジャイアンツが嫌いなので。]を観ることである。但し、希望条件があって芝生の外野席で、陽光を燦燦と浴び、好きな所に座り、アメリカのビールを片手に、あのパサパサのパンのホットドッグとポテトチップをほおばることのできる球場でなくてはならない。
現職時代、出張でロスアンジェルスとサンフランシスコに行ったことがあったが、あそこ(カリフォルニア)の陽光は、現地の日本人が言うには、カリフォルニアは年中春で、言わば人を確実に鈍化させるほどに平和と温和さを兼ね備えた陽光の地である、と。だから屋外球場であることが最前提である。これについて、シカゴ・カブスのオーナーは言っている。

「野球とは陽光を浴びてプレーすべきもので、電灯の光のもとでプレーするものではない。」

こんな言葉もある。

「屋根付き球場は自然の中で楽しむ本来のスポーツから外れた、ビジネスとしてのスポーツの要請から生まれた施設だ。野球を室内競技に変えた不自然さが生んだ、まことに不自然きわまる出来事だった。」

(編著者の言葉)


観覧するチームに日本人選手がいればもちろん応援したいので、一応国旗を携えて行く。

もっとも夏のナイターもまんざらではないことは経験上否定しないが、やはり陽光の方がいい。そうかと言って高校野球を観に行きたいとは思わない。理由は単純である。あの野球があってその学校があると言う営業性があまりに多いのと、高校生=純粋無垢との性善説が苦手なのである。だからそれらの逆が登場すると結構テレビ観戦に向かう。

妻は、高校野球には大いに関心を示すが、プロ野球にはとんと興味がない。かてて加えて海外旅行など全くと言っていいほどに関心はない。しかしパサパサのパンを非常に好む習癖があるから、この企画には恐らく乗ってくるかも、と想像するが確率は限りなくゼロに近い。

そんな似非プロ野球ファンと言うか少しは知っている程度で、それも選手名で言えば田中 将大君で私の知識は休眠状態にある。
そんなところに、選手として人格として欠点がないのが欠点との印象を持つ大谷 翔平君の出現である。エンゼルス初期の頃のインタビューで、今までの野球生活の中で、最も記憶に残る試合は何か問われ、しばらく考えた後、小学校時代にピッチャーをしていたことです、とか、日本人の取材で趣味はと聞かれ、岩手には何にもないしなーと応える、見事なまでに余裕がある20代なのだ。彼の行くところすべてにほのかな笑みの気が漂う。
ホームラン王を争っているレゲーロ選手も言うように、母の胎内に神の手で送り込まれたとしか、それも可能な限り人間らしく振舞うどこにでもいる人間として、送り出したとしか思えない今シーズンなのだ。来シーズンも、そしていつか地球を立ち去るまで成長して欲しいと思わざるを得ない。その時こそ彼は真に天才の「天」と言う語を自己のものとし、人間として余生を送るだろう。
尚、ここで天才との言葉を使っているが、「天才とは1%の才能と99%の努力」との、確かエジソンだったかの、言葉を思いながら使っている。

今も根強くあると幾つかの場面で言われる、アメリカの人種差別[有色人種蔑視、侮蔑の感情をもってアジア人と一括りにする発想]またパールハーバー襲撃を憎悪し続ける心が、アメリカ中南部を中心にあったとしても大谷選手は軽々とそれらを乗り越える天性を備えている。否、乗り越えるといった人為性ではなく馬耳東風であるように思える。

イチロー[鈴木 一朗]氏も、10有余年のアメリカ大リーグ生活の中で、多くの記録を塗り替えた選手だが、私には大谷選手とは全く別なものを思う。
イチロー氏はどこか古武道士の印象が漂い、それは日本代表チームを「サムライ」と言うに近いもので、やはり天賦の才に恵まれたのであろうが、私の中では天才が放つ陽明性、少年性がないのだ。
巨人でプレーしたことがあるレジ―・スミス氏がこんなことを言っているそうだ。

「ベースボールはプレー(遊び)だが、野球はワーク(働き)だ」と。

大谷選手は日本人の好む「道」とは無縁で、どこまでも遊びの域に貫かれている。遊びの天才と野球道の天才。そして私は野球に「道」を求めたいとも思わないし、だから「サムライ」との名づけにも違和感を持っている。
野球は老若男女が人生とは?といった哲学に心かき乱されることなく一心に楽しめる娯楽であると私は思うし、だから陽光が必要不可欠なのである。ホームランは当然賞賛に値するも、その丁度裏返しの三振王でも何ら責めない。アメリカのアメリカたる所以と思う。

大谷選手は、来季の契約でアメリカ的に莫大な契約をするのだろうが、イチロー氏は既に億万長者に到達している。そして、大谷選手はカード一枚に何億もの金を畳み込む天才性を想像するが、イチロー氏の場合何十冊もの整理された通帳に留めおくそんな天才性を思ったりする。一野次馬としては、大谷選手の契約更改で彼が何を言うか興味津々である。イチロー氏の時はどうでもよかった。尚、初めに引用した同じ人物[オーナー]の言葉に次のものがある。

「大リーグ野球はビジネスというにはスポーツでありすぎ、スポーツというにはビジネスでありすぎる。」

尚、大リーグへの先駆者とも言える1968年生まれの、大リーグ在籍12年の野茂 英雄氏がいるが、大谷選手とは26歳の年齢差があり、私自身西鉄黄金時代のあの奔放性とか大洋のホーム球場での野次は絶品とか野球そのものとは関係がないことだけに興味があっただけのことで、ここで氏には立ち入らない。

野球はアメリカの国技の一つで、その国技で当事者たるアメリカ国民を熱狂させた二人。とりわけ大谷選手への熱狂。彼には、異文化理解も異文化間葛藤もほとんどない、なかったのではないか。体中の感性がアメリカに融合した外国人の大谷選手。またそれを支えた日本人通訳の水原 一平氏の気配りと謙虚さ。
国技の国アメリカから日本の野球に入る選手も多いが、それはあくまでも「助っ人」としてである。
大谷選手は一日本人として、アメリカの国技に熱風を、アメリカに限らず世界に吹き込んだのである。

Ⅱ:春日王関

では、日本の国技と言われる大相撲(法令上国技として登録されているわけではないが、古代からの歴史と伝統から国技として扱われている)ではどうか。多くの日本人を熱狂させた外国人力士はいるだろうか。高見山関を思い浮かべる人もあるだろうが、大谷選手ほどの熱狂さはなかった。
やはりモンゴル勢かとは思うが、相撲協会、NHKまたそれに肩入れする人にとって、大相撲はあくまでも聖なる競技であり、当然「道」の完遂こそ目指すべきこととして見られるのでどうしても?がつく。
例えば、将来それらの記録を破る力士はないだろうと言われる白鵬関。横綱前半期は、その片鱗を感じさせたが、後半期はあくまでも勝つことを至上とすることで批判を一身に受けた。
そこでは結果がすべて、勝てば官軍風潮の、現代社会の世相から抜け出すことができず、白鵬にいいように振り回された感を私は持っている。

それは相撲をどうとらえるかということであろう。私は、ここ何年か前から、相撲協会、NHKの姿勢に疑問を持っている。場所数の問題。地方巡業の在り方、財政問題等、私が想う伝統文化の姿ではない、商業性もっと強く言えば拝金性に陥っているように思えてならない。
白鵬関は今年(2021年)7月場所の千秋楽で照ノ富士関と競ったが、結果は白鵬関でも、内容は同じくモンゴル出身の照ノ富士関に横綱の風格を思ったのは私だけだろうか。
その相撲はスポーツとして扱われるが、はたして例えば野球とは同じスポーツではないように思えてならない。それは相撲SUMOで、しかも大相撲である。

モンゴル人力士は26人で、内直近の横綱5人の内モンゴル人が4人占めている。
しかし、ここでは『日韓・アジア教育文化センター』として、また二国間交流史の最も長い隣国、一衣帯水の国韓国からの挑戦者を思い起こしたい。

韓国には、4,5世紀からの歴史を持つ、韓国(朝鮮)相撲伝統競技「シルム」があり、そのシルムの漢字表記が「角力(すもう)」であるとのこと。これからも近似性に考えが及ぶが、ただシルムは組手から始め、相手を倒すことで勝負が決まる。韓国からの現時点で唯一の力士が、シルム出身の元幕内力士春日王関である。
以下、経歴等『ウキペディア』から適宜引用転載する。

春日王 克昌(かすがおう かつまさ、1977年生まれ– 現44歳)は、韓国・ソウル市出身。本名キム・ソンテク(金成澤、김성택)
3歳の時に父を亡くし、ソウル市から仁川市に移り、母子で裕福ではない生活を送る。小学校4年生の時にシルムにテコンドーから転向した。中学校、高校、大学でシルムに精進し、大学3年生の時に大統領旗統一壮士大会無差別級で優勝した。
その後20代春日山(元幕内・春日富士)に誘われ1998年春日山部屋からの誘いに応じ、大学を退学し入門。
稽古熱心で素直に指導を受ける努力家であったため、相撲文化の吸収も早く、時を経ずしてネイティブ並みの日本語を話すほどになった。
順調に出世して2000年1月場所に幕下昇進、幕下優勝も経験して、初土俵以来23場所後の2002年7月場所には十両に昇進し、初の韓国出身関取となった。十両3場所目の2002年11月場所では十両優勝を遂げ、翌2003年1月場所の新入幕では早々に10勝5敗の好成績を挙げて敢闘賞を受賞した。
この活躍を受けて、一旦は「日韓共同未来プロジェクト」の名のもと2003年にソウル市の蚕室(チャムシル)体育館(ソウルオリンピックの会場の一つ)で戦後初の「大相撲韓国公演」を開催することが決定されたが、中国などでのSARS流行にともなう渡航自粛で延期となった。
延期されていた韓国公演は2004年2月14~15日にソウル市の奨励体育館で、同年2月18日にプサン市の社稷(サジク)体育館で開催された。
この際の春日王の番付は十両であったため、本来なら海外公演には参加できないところ、相撲協会の特別の配慮で参加できることとなり横綱朝青龍以下の幕内力士40名に春日王を加えた41名の力士により行われた。
横綱春日王は土佐ノ海関らとともに、ソウル市内や釜山市内にある地元初等学校や日本人学校小学部を親善訪問して生徒たちに稽古をつけたりした。
また公演のプログラムでは、観衆に対し大相撲について解説するスピーチを行なったり、本人以外全て幕内力士で構成されたトーナメントで横綱朝青龍を破るなど善戦し、地元の観客を大いに沸かせた。
その後、膝の怪我から十両と幕内を往復する中、2011年十両優勝を果たした。しかし、その年に起こった八百長問題に連座し、引退。

【人物像】について、やはりウキペディアから一部を引用する。

  ◎性格が非常に温和で、土俵や稽古場を離れると良く人に気遣い
   が行き届き、ニコニコと笑顔を絶やさずに人当たりがよく、来
   日わずか数年とは思えないほど流暢な日本語を話すことなどか
   ら、後援会や春日山部屋周辺住民をはじめとしてファンの人気
   は絶大で、好調時はもちろんのこと本場所で連敗が続いた場合
   には、部屋にファンからの激励の手紙やファックスが多数舞い
   込む。

   ◎早くに父親を亡くし、幼少時から母親が掃除婦などをしながら
   身を粉にして自分を育てるのを見てきたため、母想いは人一倍
   である。初来日して春日山部屋での稽古を見るなどして相撲の
   迫力に触れ「ここで成功すれば、親孝行できるのではないか」
   と考えたのが角界入りを決心した動機であり、またその後の精
   進の原動力になっている。
  入門後は一切無駄遣いをせずに貯めたお金で母親のために住宅を
   購入してプレゼントしたほか、母親が入院・手術した際にはす
   ぐに飛行機で里帰りして見舞い、万一手術後の予後が芳しくな
   い場合には日本に呼び寄せて近くで看護したいと願い出てい
   る。

  ◎力士養成員(幕下以下のいわゆる「取的(とりてき)」)時代
  から、部屋が主催する地元川崎市内の教育機関や地域奉仕への催
  事に精力的に参加し、2002年6月11日に川崎市役所を表敬訪問し
  た際には、川崎市長から「春日王関は地元の誇り」とまで言わし
  めている。反面、ひとたび土俵に上がると真剣そのものでプロ気
  質に富んでおり、今まで何回も怪我をしてきたものの決して泣き
  ごとは言わず、観客の見つめる本場所の土俵上では多少の怪我程
  度では絶対にサポーターや包帯を付けないという信念の持ち主で
  もある。

春日王は八百長に連座し引退した。それから10年が経つ。罪を犯せば罰がある。その罪はその人の死後まで消えることはないのだろうか。私はそうは思わない。そこに罰に生きる重みがある。
春日王の人柄が、上記の言説通りならば、その苦しみは本人が最もよく心に留めているはずだ。
今、実績のある彼の働きが求められているのではないか、と【日韓・アジア教育文化センター】の一人として思うし、センターで得た韓国人の友人たちも同じではないかとさえ思う。
日韓関係は、1965年の日韓基本条約ですべて解決済みと日本側は言う。しかし、韓国は謝罪を求め、日本はその話しは済んだはずだと言う堂々巡り。ここにはいわゆる「政治」が跋扈(ばっこ)しているように思えてならない。そして中にはそのことから嫌韓、反韓日本人になる人もある。同時に韓国でも嫌日、反日に油を注ぐ人は絶えないのではないか。

韓国の映画技術は、また入場料を取って観せる姿勢は日本より勝っていると思う。韓国ポップ音楽に、韓国ドラマに心酔している人も多い。東京・新大久保、大阪・鶴橋を歩けば韓国に浸っている若者を数多く見ることができる。
モンゴルや西側諸国もいいが、かてて加えて主にシルムに励む若者にも眼を注いで欲しい。
そのことで、力士の粋な浴衣姿、個性あふれる化粧まわし、行司の装束の絢爛(けんらん)豪華、天井から吊り下げられた伊勢神宮の形式をかたどった屋根等、力士の取り組みの勝ち負けだけではない、いろいろな発見が改めて気づかされるだろう。そのことで何千年の文化交流史にみる共通性、相違性に気づかされ、間欠泉ではない真の友好国関係に貢献するのではないか。

隣人を愛すことは難しい。しかし、今時の若者は清々(すがすが)しい、と思いたい。

2021年9月19日

多余的話(2021年9月) 『厳修』

井上 邦久

盆と彼岸の途中の9月10日は若冲忌です。
疫禍のため打ち揃っての彼岸法要は今年も中止する旨の連絡が届きましたが、若冲忌は厳修(ごんしゅ?)します、とのことで朝から伏見深草の石峰寺へ向かいました。
盆に暑さを言い訳にしてパスしたので、春の彼岸以来の伯父・叔父の墓参でもあり供花を剪定してもらいながら、この二人には地元の「玉の光」を献上する方が喜ばれるなあといつもの様に思いました。
先に墓参りをして自分用の更地の草を抜いてから、若冲忌法要の末席に並びました。
この日だけ公開される石峰寺所蔵の若冲の真筆を住職の解説とともに拝見するのも毎年の習いとなりました。
今年は9月になって澤田瞳子さんの『若冲』を読んで、付け焼き刃の耳学問が増えたこともあり、小説の舞台での気分が昂揚しました。恙なく法要が厳修され、裏山の五百羅漢を巡り、山門を抜ける前に伯父・叔父から日本酒の「下賜(おさがり)」を厳修しました。

この夏に逝った今井常世さんは、米国留学や外資系経営で培った合理精神と信州戸隠神道の家風が見事に混合された方でした。
加えて折口信夫(釈超空)の高弟だった尊父の来歴を語ってやみませんでした。折口全集の年譜に「常世」と命名という記述とともに手書きの赤ん坊の絵が書かれていますねと伝えた時、高名な国文学者/民俗学者が身近になり、常世さんの含羞を感じました。

赤ん坊必需品のベビーパウダー(天花粉)の開発で、ジョンソン&ジョンソン本社や須賀川工場の皆さんとの交流が続き、中国南部の広西壮族自治区の桂林をベースキャンプとして奥地の滑石鉱区へ日米合同調査隊が何度も訪れました。
1980年代初頭の中国は「地方分権」「外資・先進技術利用」「外貨獲得」が奨励される掛け声先行の時代でした。
出張先で言葉と文化の橋渡しを担う今井さんの助手役として、田舎町で葡萄酒を捜し回り、ワイングラスを見つけては小躍りして一緒に磨き上げるような牧歌的な交流が続きました。
J&J本社の研究トップのアシュトン博士は龍勝県政府の宴席でバイオリンを奏で、山村の子供達にはゴム風船を配って人気者になっていました。一方でNASAの航空写真を内々に開示して桂林地区に良質の鉱脈が存在する根拠を教えてくれました。
また、滑石(タルク)鉱区にはアスベスト鉱が混在するケースがあること、アスベストの針状結晶の顕微鏡写真を示して発癌性リスクのメカニズムを強調されました。
中国の処女鉱区と米国の先進技術を繋ぎ、日本が「補償貿易」形式でトラックと滑石鉱石を交換する。秘密の花園での幸福な日米中合作の時代でした。

毎年の誕生日に合わせて、下鴨神社の糺の森での古本市と大文字送り火を楽しみにしてきた荒川清秀さん、今年は上洛を果たせず昇天されました。正月早々唐突に「余命数ヶ月」の連絡があり、愛知大学の豊橋キャンパスでの恒例の花見にかこつけ会食もできましたが、7月の押しかけ見舞いには「自主的に面会忌避・謝絶したい」との意向を受け、豊橋一歩手前の岡崎で引き返しました。
二十歳頃からの学兄です。着実緻密に中国語用例カードを蓄積し、その成果が中日大辞典にも採用されていました。後に東方書店「東方中国語辞典」の編纂に従事し、『近代日中学術用語の形成と伝播 地理学用語を中心に』で清末・幕末/明治の漢語交流を日本由来/中国由来の両面から分析して博士号を取得。
単純で粗雑な日本からの一方的な新語授与説に一石を投じました。ラジオ/テレビで講師を務め、今年も「テレビで中国語」テキストに連載寄稿をしています。

9月号は購入して「あの人の文章にしては珍しく余白が広い」と言う奥さんの言葉を思い出しながら余白の意味を味わっています。「12月号までの原稿は書きためているよ」というご本人の律儀な言葉も耳に残っています。

清末民初の教育学者に厳修(Yan Xiu・げんしゅう)がいます。天津での家塾を育てて南開大学の始祖の一人となり、海外の教育制度導入に注力し幼児教育・女子教育そして師範学校を設立しています。
恩師の高維先先生の思い出を綴るときに、恩師が天津で受けた百年前の教育事情や横浜の大同学校との関連について、厳修や教育史に詳しい朱鵬先生から教わりました。直前まで壮健そのものだった天津出身の朱鵬教授も昨年9月12日に東京で急逝されました。

「関西で唯一の文芸専門出版社主・涸沢純平が綴る、表現者たちとの熱い交わり模様、亡き文人たちを語る惜別のことば。奥さんと二人の出版物語。」と清楚な装幀をキリリと締めた帯が語る『編集工房ノア著者追悼記 遅れ時計の詩人』を著者・発行者のご夫婦から直に購入しました。
正直に言うと『1971年 僕の訪中ノート』を入手する目的で編集工房を訪ねたのでしたが、涸沢さんの語り口に曳き込まれ、帰宅後はなだらかな文章に惹かれました。
この散文詩のような追悼記を読んで、生きていくとは、去る人や逝く人をしっかりと見送り、その人を忘れないで、心の中で一緒に生き続けていくことなのだと思い定めました。落ち込むことなく9月を迎えています。

9月9日は毛沢東、9月10日は日本で最初のBSE罹患牛、9月11日はNYの3000人近い人たちの命日です。無反省に生き返らせたり、20年戦争を続けたりしてはなりません。牛のことは来月に綴ります。 (了)

2021年9月5日

日韓・アジア教育文化センター 回帰? ―私の5か月の空白から私に問う―

井嶋 悠

今年3月以来の投稿です。

私(わたし)的には2か月くらいの空白時間と思っていましたが、5か月経っています。光陰矢の如しです。
ひたすら驚いています。11か月後に迎える喜寿は、何事もなければ、これまで以上にいや増して速いものになるかもしれません。ますます厳しく時間と体力が問われることでしょう

表現に必要な諸々は底をついていますが、それでも投稿し、『日韓・アジア教育文化センター』の新たな継続の可/不可を自身に叱咤し、これまでに関わった人々に意見を聞く願いが、今回の主題です。

「隠れ○○」との表現があります。周知のそれに「隠れキリシタン(切支丹)」がありますが、私の場合は、その衝撃度からも教師体験で得た「隠れ帰国子女」を借用することが多かったです。その「隠れ○○」を模しますと「隠れ日韓アジア・教育文化センター:ブログファン」がおられたことを思い知らされました。何とその方(旧知の方ではあるのですが)から、つい先日に「3月30日をもってぷっつりですが云々」の便りをいただいたのです。

その方はドイツ系の血を持ち、私の悪評高き文章[長い!屈折している!理屈っぽい!等々との鋭角評を少しは改善したつもりなのですが]を読んでくださっていたのです。小躍りしました。
とは我田引水ではないか、この数年毎月、日中文化・社会を様々な視点で、今日までに蓄積された叡智からのぶれない投稿『多余的話』をくださる井上 邦久氏(元商社マン、現若い人への還元と更なる蓄積に東奔西走されています)のファンと言うのを躊躇され(その隠れファンと井上さんとは面識がありません)、私への配慮からそう書かれたのではないか、との思いに到ったのです。事実、井上さんのブログ投稿を楽しみにしておられる方があることを承知していますので。

5か月の空白は、心と身体が加齢について行けずの息切れによるものですが、76歳の誕生日[8月23日]以降歯車への給油(もちろん軽油です)も徐々にでき始め、錆びつき、部品の破壊も緩み、今回に到った次第です。

ありがとうございます。お二人にひたすら感謝しています。

『日韓・アジア教育文化センター』発足は、1994年に神戸で開催した『日韓韓日教育国際会議』に遡りますが、その背景の一つに中高校の一国語科教師であった私の日本語教育への関心がありました。
それは日本語以外の言語を第一言語とする人のための、第二言語としての日本語教育[JSL]という言わばタテの関係を、ヨコの関係からみようとするものでした。
私には、その視点が国語科教育をより豊かにするように思えたのです。そこで私的な研究会を立ち上げ、いささかの活動を始めますと、共感する人が何人か出て来ました。
そのような折、ソウルで日韓国際理解教育に係る国際会議があることを知りました。好奇心だけは一人前の私は、当時属していた学校法人理事長に打診したところ何と許可くださり、校(公)務出張で行けることになりました。

そしてせっかく行くなら外国での日本また日本語の実状をこの眼で確かめたく、人間(じんかん)発想そのままにソウルでの韓国人日本語教育教師との出会いを求めました。1993年のことでした。
決まるときは決まるものです。そのときの韓国人日本語教師の一人は、その方なくしては本センターの存立は考えられないほどまでに、学校での要職と併行し尽力くださっています。

そこから数年後、日韓中台による会議と発展させ、一時期NPO法人にまで昇格?させる等紆余曲折ありましたがとにもかくにも今日に到っています。
尚、会議開催の数年後、台湾との縁は切れました。中国本土は北京と香港の日本語教師とネットワークができたのですが、「香港問題」を含め諸事情から現在は疎遠になっています。

このような活動途次で出会った青年映画人等の尽力で制作されたドキュメンタリー映画【東アジアからの青い漣】など、詳細は、その映画制作者たちの手になる本センターホームページ《jk-asia.net》を見ていただければ理解いただけると思います。

世界の科学者が新型コロナの収束に向けて奮闘されていますから、きっと来年には収束するのでは、と期待していますが、そうなれば本センターも是非活動を、空白期の時間をエネルギー充填期ととらえ、新たな展開がならないかそれとも役割は終わったのか、いずれかを一層考えるようになりました。
もし再興できるならば、とこれまで続けて来た事実を大切に、勝手に思い巡らせていますが、いざ意見をと言っても容易に出て来ない、集まらないのも世の常です。

そこで個人的仮想を挙げます。
この発想は今も続く、時にはこれまで以上に叩き合いの予感もある日韓の軋轢、日本での(日本だけではないですが)コロナ禍での誹謗中傷、差別はなぜ起こるのかを自問するところに根っ子があります。こんな仮想です。

以下の主題による学生[高校生か大学生]同士、教員[大人]同士によるシンポジュームです。

◎主題は、老若を越えてどこかたがが外れたとも思える一見自由な社会にあって、Lookism[外見尊重或いは外見至上主義]と整形文化について、両国の若者と社会人(大人)で意見交換し、そこから共有できること、できないことを確認し、それぞれの「現在」を見るというものです。
ここでの講師[基調講演兼コメンテーター]招聘は思案中です。

もう一つは、
◎両国の、或いはいずれかの、先進的取り組みを行っている高校訪問です。
ただ、ここで言う「先進的」の意味・内容については、類語としての「イノベーション」とも関わり、事前に日韓・アジア教育文化センター(理事)間で、「私にとってのイノベーションとは?」といったことについて意思疎通を図る必要があります。

会場はシンポジュームとも関係しますが、韓国が良いようにも思います。いずれにせよ助成金獲得との難題が待ち構えています。

いかがでしょうか。

私は冒頭に記しましたように後期高齢者で、ことさら口出すことではないとも思ったりはしますが、一方で、1994年来続けて来た交流、とりわけ日韓交流が、一つの成果を持ち得ているように思いますこともあって、今ここで完了とするのはもったいないような気持ちがどうしても起こって来ます。

是非ご意見をお聞かせください。

2021年8月19日

多余的話(2021年8月) 『8月8日』

井上 邦久

行きつけの郵便局。
季節の切手の発売日を尋ね、定形外郵便物や海外への郵送費用を安くする方法を相談したりする内に馴染みになりました。
きりりとした兼業農家の局長さんから蝗の被害など地元の話題を聞かせてもらうので、時々100円の餡パンを三個(局員は6名ですが、パン屋は14時に一人3個までのタイムセール)届けています。
先日も機嫌良く「つまらない話だけど、良いことがあったので」と、前の日のバイクでの帰宅中、一度も赤信号や渋滞に足止めされずに済んだ話をしてくれました。
それを聞いて今回のお返しは餡パンではなく、長く机のマットに挟んでいる小さな紙をコピーして届けました。

・・・近ごろ何かイイことないかなぁと思っていた時、こんな中国の古い詩に出合いました。
「一日幸福でいたかったら理髪店に行きなさい。一週間幸福でいたかったら結婚しなさい。一ヶ月幸福でいたかったら良い馬を買いなさい。一年幸福でいたかったら新しい家を建てなさい。一生幸福でいたかったら釣りを覚えなさい。」ということで釣りを始めました。幸せです。 1998年4月・・・ 
局長さんから茨木の山間部の古民家で馬を数頭飼っている馬好きがいることを教えてもらいましたが、兼業農家には釣りをしている暇はまだないでしょう。

ビジネス中国語講座では、長年スタートアップに「熱門話題」を取り上げます。その週のHot Topicsを各自が考えてから次の本題に入ります。
この春の一例としては、スエズ運河の超大型コンテナ船の座礁事故を起点に、1980年代に普及したコンテナの歴史や供給と需要のバランスが崩れる構造、続いて保険求償の仕組みに進みました。港別のコンテナ取扱い数量(TEU:20Fコンテナ換算)の上位は、シンガポール・釜山・ドバイ以外は中国の港が占めます。米国系統計は、ロスアンジェルス(LA)とロングビーチ(LB)を合算した数字で第8位あたりに入賞させています。京浜は20位ぎりぎり、阪神は合算しても30位に入るのがやっとです。
アジアから米国西海岸への40Fコンテナ運賃が春に4000ドル、7月には6000ドル前後まで上昇して、空コンテナの奪い合いや上昇したコストを誰が負担するかの係争が起こりました。

そんなTopicsから少し距離を置いた学生が「最近、中国では平族に共感を寄せる人がいるらしい」と伝えてきました。「寝そべり族」という流行語になる前だったのでユニークでした。
字典には「」は身体横倒・平卧とあり、「躺着吃」(何もしなくても喰うに困らない)という用例も。また、2011年版「現代漢語詞典」には、「躺倒不干」:比喩的に消極的な怠工(サボタージュ)と書かれています。
元々の語感としては「下定决心,不怕牺牲,排除万难,去争取胜利」、犠牲をおそれず、万難を排す奮闘精神から距離を置き、「山を移すのは愚行だ」とばかり、寝転んでいれば倒れないという戯れ歌が受けて波及したようです。

国家支給の社宅を安価に買い取り、転売を繰り返して蓄財をした一部の人がいた反面、高騰したマンションは買えず、カタツムリのような狭い部屋で暮らす人々を描いた小説『蝸居』の世界がありました。
車も家も準備できないが内実を重視した結婚を志向した『裸婚』、大学は出たけれど思うような職に就けず郊外の地下室に群居する『蟻族』など、その時々に社会の矛盾を映す鏡のような動きや流行語が伝わりました。今回の『平族』には当局は早速反応しています。

『蝸居』で幸福な『裸婚』をし、『蟻族』も帰郷して村役場で働いているかも知れませんが、その時の庶民には貧しくとも健気に努力していた印象があります。
それから10年、20年過ぎた世代には「躺平」していても明日の生活には直ぐに困らない印象が残ります。

米国の小説『ヒルビリーエレジー』のプア・ホワイトや、日本の氷河期NEET世代にも通じるのは「親の世代のような、成長・成功は望めない」という点です。中国でも半周遅れで成長や成功を第一義目標としてきた世代が次世代とのリレーゾーンに入っています。どうすれば環境や働き方を重視する人たちへバトンを渡せるかよく考えたいと思います。

直下型の地震や台風で傷んだ家を建て直して、仮住まいから再入居したのが昨年の8月8日でした。上海や横浜を繋いできた朝顔が二年ぶりによく咲きました。家に居て「躺平族」だった一年が幸福だったか?寝転んで考えてみます。

2021年7月23日

多余的話(2021年7月) 『6月のリンゴ』

井上 邦久

連句・俳句・随筆の集まり『子燕』は、戦中戦後の神戸で橋閒石氏が主宰した結社『白燕』の流れを汲む人たちが起こして十数年になります。誘われて末席を暖める間もなく、上海での駐在が決まりました。素養も経験も無いことを自他共に承知の上での員数会わせ、枯れ木も山の何とやら、といった感じでした。
メールを使って、無手勝流で連句をつなぎ、例会に投句するために頭を捻ることが日本語を使うことの少ない外地生活の中で、母語を細くさせずに済んだと有りがたく思っています。

宮崎在住の同人から第5句集『梯子』を届けて貰いました。第4句集『林檎』以降の生活や心境の変化を定型詩に率直にまとめられていました。
その後書に添えられた洛東金福寺を訪ねた文章に触発され、壬生寺北門近くのNPO作業場(「屯所」と個人的に呼んでいます)を早退してバスで向かいました。

蕪村が金福寺の芭蕉庵を再建し、呉春らの門人と句会を催したとのことです。寺の名前とは異なる禅宗らしい佇まいの本堂で雨宿りし、小高い場所にある芭蕉庵でまた雨を避けてから、さらに登ると蕪村や一門の縁者の墓碑や句碑が並んでいました。
眺めの良い場所に「徂く春や京を一目の墓どころ」という木札もあり、少し理知的で皮肉っぽい虚子らしい句だなあと感心しました。

ささやかな梅雨時の洛東散歩を『子燕』季刊誌のコラム用に綴りました。
その短いコラムに「苹果が巨像に踏み潰されたような六月」の一行を滑り込ませました。
コラムとエッセイの違いには諸説あります。時事性の有無が区分けの一つかなと思っています。
語源的にはコラム(カラム)は円柱であり、「Life is a prison without bar」のbarにも通じるでしょう。リンゴ、林檎、苹果、蘋果。

6月後半、大島康徳さんのブログを追いかけていました。数年前に発癌を公にしてからもNHK解説者として飄逸な大分弁で元気な姿を見せてきました。
大分県中津市生まれの同郷人、中津工業高(中津東高)から中日ドラゴンズへ。年間最多代打本塁打記録を残す一軍半選手時代。
1974年の巨人との最終試合は長嶋茂雄引退試合として繰り返し放映されています。先にリーグ優勝を決めた中日ドラゴンズは同じ時間帯に名古屋でパレードをしており、大島は一軍半を代表して長嶋に花束を渡しています。
中心選手となった後、日ハムに移籍して、2111本安打(当時最年長記録で名球会入り)を残し、監督も務めています。
名球会入りの直後に中津市市民栄誉賞を受賞。中津市出身としては福沢諭吉以来の知名度を持つ人になりました。
横浜の古本屋で買った名球会COMICS「大島康徳」(江本正記作・岡本まさあき画)には、中学のバレーボール部で活躍中の大島少年が相撲部の員数合わせに駆り出され、宇佐神宮御台覧相撲大会で13人抜きの個人優勝を果たしたこと、それを見ていた中津工業野球部監督の小林先生から粘り強く勧誘を受けたことなどが描かれ身近に感じました。
立命館大学の名捕手だった小林先生が中津東高校に着任した折、井上茶舗の二階に下宿しました。下宿先の頭でっかちで虚弱な小学生を練習や遠征に連れ出し、ボールボーイとして鍛えてくれたお蔭で、快活な野球少年になりました。

金福寺門前の和菓子屋で「名物『水無月』は今日まででっせ!」と声を聞いて、「そうか、今年の半分が過ぎた」と思い起こしました。そして同月生まれで一歳年長の大島康徳さんに「あと一年半、がんばっちくり」と語りかけました。

甲子園を目指す地方予選が始まる中で、大島奈保美夫人がブログを代筆する日々、そして訃報が届きました。
言わずもがな(多余的話)ですが、息子に旧満州国年号の「康徳」を名付けた父君は戦前に中国東北部で働き、引き揚げ後は国鉄に勤めています。故人は自分の名の由来を意識したどうかは不明ですが、歴史につながる「康徳」世代の最後の一人でしょう。

https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/entry-12684627163.html

2021年6月3日

多余的話(2021年6月)   『供不応求』

井上 邦久

ビジネス中国語講座の春学期で習う用語に「供不応求」があります。需要に供給が追い付かない状態になり、通常は価格が上がると説明されます。その逆は「供大於求」であり価格が下がります。
具体的な事例として、昨春と昨夏以降のマスクの例が分かりやすく、直近では、主産国のコロンビアの天候悪化などによるカーネーションの切り花の高騰がありました。母の日の翌日、花屋へ行くとカーネーションが30%以上の値引きで投げ売りされており「六日の菖蒲、十日の菊」という諺の再現を目の当たりにしました。

スエズ運河での巨大コンテナ船の座礁事故が耳目を集めました。
コンテナの需給逼迫が続き、3月中旬には上海港から米国西海岸港(LA/LB)への40Fコンテナ運賃が4000ドルとなり、前年同期比(中国語:「同比」)2.5倍という海運市場最高の水準に達しました。
米国新大統領による経済刺激策や中国製造業の息継ぎ抜きの恢復(コロナ対策のため春節休暇の帰省ができない工場・港湾労働者が就業継続)が背景にあるとのことです。
スエズ運河での滞船がコンテナ便の到着遅れや空コンテナの需給バランスの悪化に拍車をかけている中、クリスマス商戦用の対米輸出の増勢が目前に迫っています。

アジア研究所中国塾の田中塾頭は、中国の統計数字を話題にする折に、中国で多く使われる「同比」は一年前の同時期との比較であり、三ケ月前との比較(中国語:「環比」)と混同しないようにと注意を喚起されます。
2020年1~3月期の中国経済は壊滅的な状態であり、2021年1~3月の成長率の対前年同期比での大幅ジャンプアップも頷けます。
中国経済は2020年末から世界に先駆けて恢復したので、2021年末の成長率の「同比」は穏やかな伸びとなり、1~3月期のように刮目させられることはないでしょう。

2月の拙文で三浦春馬が五代友厚を演じる『天外者』をテーマにし、1~3月に渋沢栄一関連の情報がメディアに溢れ出ることを示唆しました。
NHKの人気番組である「ブラタモリ」、「鶴瓶の家族に乾杯」そして「100分で名著」は挙って渋沢栄一を取り上げ、大河ドラマの宣伝番組と化してしまいました。
それなりに面白いとは思いますがなんとなく「供大於求」の印象が残りました。

渋沢栄一が一族郎党に伝えた口演録の『雨夜譚(あまよがたり)』(岩波文庫)は、お祖父さんの若い頃からのエピソードを孫に聞かせるような語り口です。
ドラマと並行して読んでいると、脚本がかなり忠実に「うやたん(一族内での呼び名)」をなぞっていることが分かります。後の幸田露伴らによる渋沢伝も概ね『雨夜譚』をネタ元にしているとのことです。

この口演会の塾頭格が阪谷芳郎(渋沢の次女琴子の配偶者)であり、その芳郎の孫の阪谷芳直は北京(当時は北平)で中江丑吉に私淑し、北京内壁(今の第二環路)の東南の端、東観音寺胡同東口9号(北平市図と足で探して現在の貢院西大街9号だろうと目星を付けました)の中江宅に「若いともだち」として通っています。
阪谷芳直は海軍主計科士官として敗戦を迎え、戦後に日銀・輸銀やアジア開発銀行での仕事の傍ら、中江丑吉に関する編著作を残しています。
中江丑吉の書簡集以外のドイツ哲学や中国古代政治思想史の著作を筆者は読んでおりません。もっぱら阪谷芳直らの追悼文章や回想録に頼って中江丑吉の像を結びました。
手元に残した本は1980年前後の出版であり、「人到中年」の惑いの頃に、中江丑吉や阪谷芳直に羅針盤役、まさに指南をしてもらった記憶が甦ります。

某日、中江丑吉が阪谷芳直に「近代日本のリーダーでは、誰が後世に残ると思う?」と訊ね、「君は渋沢栄一と言いたいところだろうが、こっちは君の曽祖父はあげないな。オーソドックスのキャピタリストとしては、やっぱり岩崎弥太郎の方が残るぜ・・・」というやりとりが『雨夜譚』の解説にも引用されています。
その岩崎弥太郎が亡くなったのが1885年(明治18年)2月7日、五代友厚も同年9月25日に逝去しています。
因みに渋沢栄一の没年は1931年(昭和6年)で、二人より46年も長く生きて、事変後に亡くなっています。

昭和史研究家の先輩から清水晶『上海租界映画私史』(新潮社)を届けていただきました。
巻末の中華電影聯合股份有限公司の作品の一覧表を見ると、1944年に大映との日華合作『春江遺恨・狼火は上海に揚る』(稲垣浩・岳楓共同演出)が製作されています。
幕末上海に赴いた高杉晋作(坂東妻三郎)や五代友厚(月形龍之介)が、太平天国の志士沈翼周(梅熹)と肝胆相照らし、協力して租界勢力を駆逐し、アジアの夜明けを目指すという都合の良い筋のようです。 月形龍之介も黄門さま役ではなく、ニヒルな美男剣士役が似合っていた頃でしょう。
坂東妻三郎の三男が田村正和である事は言わずもがな(多余的話)ですが、1943年に生まれたばかりの正和を残し上海へ長期ロケに赴いたことになります。平時では上海から長崎まで約30時間の運航が、潜水艦の攻撃を避けるため大陸沿岸を三昼夜かけて博多港に着いた、とこの本に書いています。 (了)