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2018年9月29日

力と血と和と人或いは日本

井嶋 悠

今年、ピョンチャン・冬季オリンピックでは、日本はパシュート競技で、スケート大国オランダを破り、金メダルを獲得した。あれから既に8か月が経ち、もう直ぐ2019年のシーズンが始まる。光陰矢の如し。

高木姉妹の妹の美帆選手は、オリンピック終了後ほとんど休む間もなく「世界オールラウンドスピード選手権大会」で、欧米選手以外で初めての総合優勝を遂げた。スケートだけでなく、小学校時代からの陸上、サッカー、ダンスそして学業と正に“文武両道”で、15歳ではオリンピック代表となり“天才少女”と時の人となった。それから8年、下降も経験し成し遂げた快挙である。
私の中で彼女は、その発する言葉、表情からも、幼い孫を見る感覚でのスーパースターである。

彼女を世界トップのスピードスケーターまで引き上げたのは、家族や姉はもちろんのこと、多くの人々の指導、教示があってのことだが、とりわけオランダ代表チームの元コーチ・ヨハン・デビッド氏の存在が大きかった旨彼女は言う。
そのオランダ、決勝で錚々たるメダリスト3人が出場したが負け、オランダでは「誰だ!?ヨハンを日本に送ったのは?」との苦笑の話題もあったとか。
その氏が行った指導の一つに、1年の内約320日の共同生活の中での練習活動を知り、そこに日本ならではのものを感じた。オランダの立場で言えば、そのような練習自体思いもつかないし、したとしても早々に頓挫するのではないか、と。

スケーティング技術に関しては、このレベルの選手たちともなれば大同小異だと思うが、パシュートの場合、一糸乱れぬ3人の滑りとコーナーでの選手交代時、いかにスピードを落とさずできるかが鍵とのこと。動画で見ると、日本は一糸乱れぬ姿があるが、オランダは若干の乱れがある。そのためコーナーでの交代にもいささかの影響が出ているように、素人目でも分かる。
それはあたかも陸上の男子400mリレーで、4人がバトンつなぎの秀逸さもあってメダルを獲得し、アジア大会で優勝したように。

個人競技は、突出した能力と技術を持った一個人で、好結果を勝ち取るが、団体競技(バドミントンやテニス、卓球等のダブルスについてはここでは除く)では個と全体のバランスが問われる。
ちなみに、2020年の東京大会では、33競技339種目が実施されるそうだが、いわゆる団体競技は以下の8競技である。

・バレーボール  ・ラグビー  ・ハンドボール  ・サッカー  ・ホッケー  ・野球  ・ソフトボール  ・バスケットボール

これらの競技の発祥地はすべて欧米で、概ね1900年以降、日本に入って来たものである。

この中で、素人の私の限られた見方ではあるが、メダルの可能性があるのは、女子バレーボール、ラグビー、野球、ソフトボールではないかと思う。
これらにあって、ラグビーがその格闘性において他の競技と異質だが、可能性を持てるようになったのは、国際結婚や帰化による選手たちの貢献度がいかに大きいか、南アフリカに勝利できたことを思い起こせば、明らかではないか。
このことは個人競技だが、先日のテニスの全米オープンで優勝した大坂なおみ選手と相通ずる。
大坂選手が、先日帰国し記者会見をした際、或る記者が「旧来の日本人のアイデンティティと現代日本・日本人」といった主旨の、何を今頃にと思える陳腐な質問をしたとき、彼女は「そんなことあまり考えたことはないが、私は私だ」と応えていた。さすがアメリカ育ちだと思った。アメリカ絶対的!?追従(ついしょう)の現代日本、現在の大統領のアメリカ第一主義は措いて、こういったアメリカの、そこに何かと問題が起きているとはいえ、素晴らしさをもっと移入し、学んで欲しい。

320日の共同生活と練習に「日本らしさ」を見、その結果が金メダルにつながった、と私は思う。
日本が、いかに微妙な季節の移ろいを持った四季があることは『歳時記』を見れば、一目瞭然である。雷は古人曰く二つ目に恐ろしいものとしてあるが、8月の末、どんな酷暑の夏であったとしても、その雷を見、聞くことで夏の終わり、秋の到来を話す。また古代人(びと)以来の「春秋論争」はつとに有名である。

私たちは、自然を親愛し、畏怖し、恐怖することは、日本列島に人が(原日本人?)住み始めて以来、変わらないのではないか。人は自然と一喜一憂し、自然との共生に腐心してきた。だから工業化と言う近代化には非常に敏感だったはずなのだが、いつしか欧米風合理主義また個人主義に傾き始め、息苦しさを直覚する人が増え始めた。更には「公害」という大きな社会及び政治問題が顕在化し、無惨に多くの犠牲者(死者・重篤者)を出すまでに到っている。私たちは自然人ではなく、自然(一員としての)人、との感覚を、長い歴史の中で培い、無意識化するほどに持っているから、その衝撃はなおさらのことである。対立ではなく調和としての自然と人。
しかし、自然は自身を制御、抑制しない。だからこそ人は己を制御し、抑制しなければ、調和は乱れ、崩壊する。
6世紀から7世紀にかけて、日本の基礎を創ったと言われる聖徳太子には、存在しなかったとか、朝鮮半島からの渡来人だった等々、多くの伝説、学説等諸説があるようだが、この機会に改めて『十七条憲法』を読み直してみた。今回の趣旨に相応すると思う箇所を引用してみる。

第一条  和を以って貴しと為す。
第二条  篤く三宝[仏・法・僧]を敬へ。
第四条  礼を以って本と為よ。
第七条  人を得て必ず治む。
第九条  信は是れ義の本なり。

誰しも親和・平和を希うことに異文化はないと思うが、その背景に仏教の「慈悲」、儒教の「仁義礼智」を意識し、且つ日本風土の自然の濃やかさ、自然との一体化としての人[自然神道?]を重ねる時、そこに日本らしさを思うのは、私だけだろうか。

この感性があってこその320日の時間の成就と結果を想う。その善し悪しは措いて、欧米化著しい現代日本の、とりわけ若い人たちにとっては、この時間は精神的に非常に辛いものだったのだろうか。世界への目標があるから耐え忍んでできたことなのだろうか。
「己の欲せざる所は人に施すなかれ」、我欲を自然態で制御することで和が自ずと生じたのではないか。個と個の、やらされるのではない伸びやかな練習。禅の思想家鈴木 大拙の言葉を借りれば、「遊戯(ゆげ)自在・任運自在の《自由》」の境(きょう)。と言えば、彼女たちを不快に落とし込むだろうか。彼女たちがこの時間を言う時の表情に、少なくとも苦痛、忍耐を乗り越えて云々といった類のことは、私には感じられなかった、それどころか、充足の笑みさえ直覚したのだが…。
これが素地にあって、ヨハン・デビッド氏という「人を得た」のではないか。

競技[スポーツ]は各個の、肉体の強い体幹力と精神(血)の伝統力が醸し出す調和、統合が求められる。これらは一朝一夕にできるものではない。技術や戦法が一時的には成果を生むこともあるだろうが、あくまでもいっときであって、より高みと安定に到るには、各個のそれらの高次の統合なくしては為し得ない。それがチームスポーツの魅力と思う。
先に記した日本ラグビーは、彼らの体幹と伝統(血)の力を得て、世界レベルの端緒に立ち得たと言えるのではないか。

尚、統合力への過程は、女子の場合と男子の場合違うように思える。或る競技の男女それぞれの全日本代表監督(いずれも男性監督)が対談で、こんなことを言っていた。
男子チーム監督「選手の何人かを選び、彼らを新チームの核として行く旨、選手たちに言った」
女子チーム監督「ウチでそんなことしたら、下手すればチームが崩壊する」
中高校の女子サッカー部元顧問(監督)を経験した私は、両者の発言に何となく同意していた。

1970年代前後から「帰国子女教育」が、学校教育と日本社会の大きな課題となり、一部の識者は「国際(理解)教育」をも視野に、【新しい学力(観)】をしきりに唱えていた。それからほぼ50年経った今、その課題は十全に解決したとは到底思えない。
入試方法の机上的変革に学校は振り回され、塾産業はますます必要不可欠となり、大学大衆化のマイナス面は顕著化し、一方で少子化と格差化また高齢化は広がり、日本型インターナショナルスクールが、乱立しているかと思えば、外国人排斥の言行動が欧米的に広がる現状、日本社会は大きな岐路に立っているように、元教師の隠居は思えて仕方がない。

経済が人々の生活にとって必要不可欠であることは誰しも認めることではあるが、国際社会での貢献と都鄙の格差の広がり、貧困化の自国社会現状のバランスはこれでいいのか、八方美人型?外交への国内での激烈な憤慨、国外で冷笑すらあることにもっと敏感になるべきではないのか。
その時、日本と日本らしさと現在と未来について、世界の視野で、一流[己が強さだけではない自然な謙虚さを持った人間性]のアスリートたちが身をもって示唆している、と考えるのはあまりにも飛躍し過ぎた私見だろうか。
仏教の渡来を基に、飛鳥文化が華開く一方で、「遣隋使」の派遣等、国際化時代の治世者聖徳太子の言葉には、やはり現代に通ずるものがある。

最後に、『十七条憲法』から先の箇所とは別の個所を引用する。

第一条  上和(やわ)らぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば、事理自ら通ず、何事か成らざらん。
第八条  群卿百寮、早く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。[公務員や治世者の心構え]
第九条  君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。
第十四条 群卿百寮、嫉(そね)み妬(ねた)むこと有るなかれ。