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2018年10月27日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感―

内容[その二]

怒りと不信の今、日本らしさを柳 宗悦から学ぶ

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茶器、茶室或いは茶道と時代の変容

                                                                                                                           井嶋 悠

私は幼い頃、大人の事情で伯父伯母宅に預けられたが、その家には茶室があり、しばしば座らされた、それぐらいの経験でしかないのだが、あのどこか取り澄ました雰囲気ばかりが記憶に残っている。要は、柳の言葉を借りれば「下手物」なのだろう。しかし、あの静寂な時空の印象は、今も私の中にある。
そんなことからか、だいぶ前になるが、岡倉 天心の『茶の本』(1906年明治39年・45歳時英文で刊行)を読んだときは甚(いた)く感銘し、書は鉛筆線で埋め尽くされている。
その中から、先に引用した柳の論説[前回投稿の1で引用]と重なる部分を2か所引く。

――茶道は清潔をむねとするがゆえに衛生学であり、複雑でぜいたくなもののうちよりは簡素なもののうちに充足があると教えるがゆえに経済学であり、また宇宙空間にたいするわれわれの比例感を定義するがゆえに精神幾何学でもある。――

――茶室は寂寞たる人生の荒野におけるオアシスであった。倦み疲れた旅人たちはここで相会うて、芸術鑑賞の共同の泉を酌み交わすことができた。(中略)そよとの音もなく、調和を破る一指の動きもなく、周囲の統一をこわす一語とてなく、動作はすべて単純に自然に行なわれるべきこと、これこそ茶の湯の本旨であった。――

美意識或いは美感に私が魅かれるのは、そこにその国の、地域の、民族の感性と歴史が垣間見えることにあるからだと思う。
では、茶道ではどうか。 「わび」更には「さび」を言う人は多い。「聖暗」を言う柳宗悦も、道教・禅、或いは「虚・無」を言う岡倉天心も同じである。
しかしここでそこに立ち入るのは投稿目的から逸(そ)れると同時に、己が浅さを晒すのでよす。
ただ、元中高校国語科教師の自省として一言記す。 岡倉天心の『茶の本』にも引用され、「わび」を考える時使われる、藤原 定家の歌「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」。
これは西行の「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」と寂蓮の「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」の三首を合せて「三夕の歌」だと言って、高校の古典授業で採り上げた覚えがある。何という汗顔、無恥。
鋭敏な感受性を持つ早熟な生徒以外ほとんどの生徒にとって、冬休みの宿題によくある『百人一首』の暗記モノだったのだろう。
漢文を含めた古典理解は、現代文理解同様重要なことはことさら言うまでもない。しかし限られた時間内での授業には、やはり相当な無理を思う。だからこそ、10代の生徒の諸相を考えた、作品の「精選」と履修方法(例えば必修か選択か等)、また学習方法・時間(期間)が、常に俎上に上げられるのだろう。 などと思うのは、きっと教師未熟で教職を終えた証しなのかもしれない。

時間は永遠を刻み、時代は移ろい、世は変貌して行く。しかし人の本質はどう変貌しただろうか。 明治の「文明開化」、富国強兵、殖産興業は著しく進み、日清戦争、日露戦争での勝利を契機に、帝国主義列強の一国として、あの太平洋戦争に向かう。そして広島と長崎への世界最初の被爆国として決定的な敗戦を迎える。 しかし、日本人の勤勉さに朝鮮戦争、ベトナム戦争等、戦争特需も加わり、高度経済成長の浮沈を経て、世界の借金大国にして!経済大国となった今、物質文明を謳歌している…。と同時に、社会的、個人的貧困等社会矛盾の顕在化に危機感が生まれていることは既に記した。

では、柳宗悦は、時代を民藝また茶道を通してどう見、感じていたか。『民藝とは何か』(1941年)から幾つか引用する。

「最近資本制度の勃興につれて、民藝の美が急速に沈み、私たちはほとんどすべての器に美しさを失ってしまいました。就中(なかんずく)問屋の制度は生産者を極度に疲弊させました。商業主義は誠実を棄てて利欲に飢えています。機械主義は手工を奪ってすべてを凝固させてしまいました。(中略)民藝はかくしてその美しい歴史を閉じたのです。(中略)私たちは創作の時代を失うと共に、認識の時代へと入りました。(中略)時代は創造から批判へと転廻しました。今は代表的な意識の時代なのです。」

「民藝品の有(も)つ一つの特色は、多産の品であり廉価だということです。(中略)多いが故に安く、安きがためには多く作らねばなりません。多くできずば広く民衆の役には立ちません。また安くなくば雑器として使うことができません。」

「資本制度の勃興と共に、工藝の美は堕落してきました。すべての資本主義は商業主義であって、何事よりも利得が主眼なのです。利の前には用も二の次なのです。粗雑なもの醜悪なものが伴うのは、必然の結果に過ぎません。そして商業主義は競争の結果、誤った機械主義と結合します。ここに創造の自由は失われ、すべてが機械的同質に落ちてゆきます。」

私は、ここに柳が始めた「民藝」の、時代と現実での行き詰まり、葛藤を見、今日の民藝が持つ商業性或いは高尚意識性からの民衆(庶民)との乖離を思う。
そして、柳宗悦に係る最初の投稿で触れた二つのエピソードを思い起こす。 百均の店での若いカップルが楽しげに焼き物品定めをしていた光景の微笑ましさ、また焼き物は値段(価格)があって値段(価格)がないとの大学陶芸科出身者の言説。

時代が転げる石のように変容したということなのだろうか。確かに、柳たちが見出した窯業地の幾つかでは価格は高騰し、その地を訪ねてもなかなか手に入らないとのことは見、聞く。
しかし、一方では、百均の店業界で競争原理が起こり、柳が言う無銘の人々の、しかも廉価で且つ新しいデザインを試みた作品も生まれ、質と良心での差違が生まれていると言う。
柳はどう見ているのだろうか。
そのような中で、柳が言う「誤った機械主義」の「誤った」との言葉遣いに、民藝観、後で触れる社会観、更には朝鮮と日本観に今もって、否、今だからこそより共感する一人として、或る救いのようなものを思うし、思いたい。

尚、その焼物の価格に関して、柳は1952年、画家で陶芸家のイギリス人バーナード・リーチ(1887~1979)と「民藝運動」の仲間で栃木県の益子焼の陶芸家・濱田 庄司(1894~1978)と共に、アメリカ各地で陶芸の講演、講習に赴いた時のことを書いたエッセイ『東洋的解決』で、こんなことを言っている。

「売る権利が自らの方にあると考えずに、売れるのはむしろ恵みだと考える。(中略)価格は双方(注:売り手と作り手)の権利の主張の妥協点で決まるのではなく、双方の無慾と感謝との接触点で決まるので米国の解決法とは別個の解決法による。私は西洋での解決は合理的特色があるが、東洋の解決の方が、もっと互いの幸福を約束する。」

最近、主にビジネス関係で[ウインウイン(WIN‐WIN)]との表現を見聞きするが、これも「東洋的解決」に入るのだろうか。私には、あまりに商業主義的過ぎて、それこそ欧米流合理・効率を感じさせ、心にスッと入って来ないが。
今日の陶芸界ではどうなのだろうか。やはり「価格があって価格のない世界」なのだろうか。
因みに、人間関係も含め、「WIN‐WIN」ではなく、「WIN‐WIN or NO DEAL」が、ベストな選択である旨、ネット上での語釈説明にあった。

柳は、茶器を通して茶道への関心を示したことは既に記した。ここでその茶道に係る時代による変容の言葉を引用する。併せて岡倉天心の『茶の本』からも。

『雑器の美』(1926年)より。

「今は茶室を造るにも数寄をこらすが、その風格は賎(しず)が家(や)に因るものであろう。今も田舎家は美しい。茶室は清貧の徳を味わうのである。今は茶室において富貴を誇るが、末世の誤りを語るに過ぎぬ。今や茶道の真意は忘れられて来たのである。「茶」の美は「下手(げて)」の美である。貧の美である。」

『民藝とは何か』(1941年)より

「茶器も茶室も民器や民家の美を語っているのです。だがこの清貧は忘れられて、茶道は今や富貴の人々の玩びに移ったのです。茶器は今万金を要し、茶室は数寄をこらし、茶料理は珍味をととのえています。かくなった時すでに茶の道があるでしょうか。あり得るでしょうか。」

『茶の本』(1906年明治39年)の[花]の節より。

「今日の産業主義は、世界中いたるところで、真の風雅をしのぶことをますます困難ならしめている。今日ほどわれわれが茶室を必要といるときはあるまい。」

「野の花が年々少なくなってゆくのに気がつかれたことはないであろうか。それは彼ら賢人たちが、人間がもっと人間らしくなるまでこの世から去れと命じたのかもしれない。おそらく彼らは天国へ移住してしまったのであろう。」

これらの、今から77年前と92年前、更には112年前の言葉に現代性はなく、今読み返せば二人の感傷に過ぎないと言い得るのであろうか。
人はそれほどに日進月歩発展を遂げているのだろうか。
中学校か高校の歴史年表を見れば、それらが幻想であることは一目瞭然である。そもそもその前に自問すれば得心できるはずだ。