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2018年11月29日

「冬来たりなば春遠からじ」 (一)

冬・陰陽・高村光太郎

井嶋 悠

浮き世と憂き世、一喜一憂の人生をどうにかこうにか過ごして来て73年が経った。
ふと思う。この期に及んで私のこれからの「春」は何だろう?と。あるようでなく、ないようである…。
「冬」を死とすれば、もう春は来ない。そんなことはない。落葉の樹々は生命(いのち)を内に秘め、じっと春を待つ。冬は冬で確たる存在でなくてはならない。でないと私も途方に暮れる。

ただ冬は、待つことに、忍ぶことに想い到る季節には違いない。それは老いの最中に在るからよりそう思うのかもしれない。
先日、3年前に定年を迎えられた敬愛する研究者から「命ある限りはできるだけ悔いのない生活を送りたいと思っていますが、定年後の生活もなかなか大変ですね。」との便りをいただいた。
それぞれに現職の時にはなかった待つこと、忍ぶことを体感しているからなのだろう
高齢化、長寿化との言葉の重さ。

と言った人生訓的なことではなく、私はここ数年、季節としての冬そのものの苦手度が高くなっている。北関東の地に移住したことも影響しているかもしれない。と言っても、毎冬報道される豪雪地帯の人々の、時に死と隣り合わせの刻々を知れば何とも勝手にして不謹慎なことで、娘の生前に「人間にも冬眠の体系(システム)があればいいのになあ」と言い、苦笑をかっていた小人(しょうじん)である。
霊魂満ちる浄土は、のどかな春の陽光に溢れ、草花樹々を潤す甘(かん)雨(う)が包み込む、そんな風土を思い浮かべるが、冬はあるのかしらん?
因みに、娘は生前「オトンは(私への彼女の呼び方)直ぐに結果を求めすぎる。」と指摘していた。

南北に長い日本ゆえ一概に四季の感慨は言えないが、それでも季節の移ろいへの感受性が豊かな民族だと思う。中でも春と秋への思い入れは、萬葉人(びと)以来の日本人の心性だが、冬はどうも自然美感とは遠いのではなかろうか。
例えば、奈良時代の山上憶良は『貧窮問答歌』で、現代文明とはほど遠い衣食住生活にあって、憶良の赴任先北九州で、寒さに耐え忍ぶ貧しい三世代家庭の様子と、里(さと)長(おさ)が鞭をもって彼らをがなり立てる、そんな世の不条理を切々と描き出しているし、あの清少納言は「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ」と各季節の自然観照を言いながら冬となると「冬はつとめて(早朝)」で、宮中の早朝の女房たちの様子、人為を描き出す。
確かに、雪への、また落葉樹や稲を刈った後の田畑等への、自然観照はあるが、あくまでも「介しての」それであって、他の季節のようにその中に入り在ってのそれではないように、わずかな鑑賞経験からに過ぎないが、思われる。
しかし、玲瓏(れいろう)とか冷冽(れいれつ)、また深閑といった言葉を知る時、詩人には全く遠い人間である私でさえ、冬の与える深い想像力を思う。

そもそも詩には母性性が根源にあるように思う。それもあってか、神に最も近い芸術は形のない音楽といわれ、その音楽に最も近いのが詩と言われる由縁なのだろう。それは私の中で「母性原理」とつながる。しかし、母性原理だけで世界が構成されているわけでないことは自明のことで、母性原理と父性原理の微妙な響き合いに私たちは生を育んでいる。

中国に端を発する陰陽思想は、日本人の中に深く沁み入っている。陰陽は表裏一体で、それがあってこその自己と他者であり、自然であっての「陰陽互根」との考え方が言われるのだろう。
では、古人は陰陽それぞれ、具体的にどう考えたのだろう。一例を挙げてみる。

【陰】 冬・闇・暗・夜・柔・水・植物・女
【陽】 夏・光・明・昼・剛・火・動物・男

そして、日本神話での太陽神天照大神とその弟で、素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)の兄である、月読(つくよみ)の命。
東南アジアや南太平洋にもこれと同様の兄弟姉妹関係の神話がある旨聞いたことがあるが、神話がその地の人々の心の反映とすれば、日本人性或いは原像に想い馳せる楽しみがある。太陽と月が醸し出す、日本像、日本人像。ただ、月読の命はあまり登場の機会がないようだが。

春と秋が、陰陽の間(はざま)の微妙な移ろいにあることが改めて知らされ、日本人の繊細な感性に思い到る。
また女と男。今日の「男女共同参画社会」なる言葉が、図らずも日本のあまりの後進性を明示しているではないか。

そこから想い及ぼす詩の存在位置と先程挙げた[玲瓏・冷冽また深閑]の想像性と陰陽。

それらのことを近代日本の4人の詩人に垣間見たい。私の冬の心得、春の到来祈願のためにも。
このとき、私が引き出す蔵の抽斗(ひきだし)は、中学高校の国語教科書である。私の33年間の職業だったのだから。ただ重厚さとは無縁の、また研究者然とは無縁の、懶惰(らんだ)にして酒好き教師の、空(あき)だらけの蔵である。

小中高大或いは中高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学かと思う)には、教科書など一切使わない授業を実践する人もあるが、「教科書教科書教える」ことでの、生徒各個の、自身による自己発見の可能性の広がりを、今、自省的に思うことがある。

本筋に戻る。

今回採り上げる最初の詩人は、「冬の詩人」とさえ言われる高村 光太郎(1883~1956)。
最初の詩集『道程』が刊行された1914年10月、彼32歳、その2か月後に運命の人長沼 智恵子と結婚。
その『道程』で、凛とし厳とした詩人の姿を瑞々しい感性溢れる10代の若者に伝えたいからだろうか、必ずと言っていいほどに教科書に採り上げられる『冬が来た』

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬 草木に背かれ、
虫類に逃げられる冬が来た

冬よ 僕に来い、
僕に来い 僕は冬の力、
冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
上記の詩の少し前のところに『冬が来る』がある。抄出する。

冬が来る
寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る  (中略)
私達の愛を愛といつてしまふのは止さう
も少し修道的で、も少し自由だ

冬が来る、冬が来る
魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る

 

偉大な彫刻家・高村 光雲の子として生まれ、10代半ばから様々な書物に親しみ、父が奉職する現東京芸術大学に進み、彫刻と文学の道を歩み始めた光太郎。25歳で渡英し、後にフランスで大いに学ぶも、どうにもならない落差を感じ、劣等感を負い、27歳で帰国の途へ。そして美術と文学の世界を邁進する。以後、堰切ったように詩作に没頭するも、身辺での幾つかの負担事もあり、精神不安定な時を過ごす中での智恵子との出会い。当時、智恵子は、平塚 らいてふ等の機関誌『青鞜』で挿絵を描いていた。

更に『道程』から『冬の送別』の一部を引く。

冬こそは歳月の大骨格。
感情のへ手。
冬こそは内に動く力の酵母、
存在のいしずえ。

冬こそは黙せる巨人、
苦悩に崇高の美を与へる彫刻家。

(中略)

冬の美こそ骨格の美。
冬の智慧こそ聖者の智慧。
冬の愛こそ魂の愛。

おう冬よ、
このやはらぎに満ちた
おん身の退陣の荘厳さよ。
おん身がかつて
あんなに美美しく雪で飾った桜の木の枝越しに、
あの神神しいうすみどりの天門を、
私は今飽きること無く見送るのである。

 

藝術と智恵子と己が生への激情が向き合う冬。玲瓏で。冷冽な世界に厳然と向き合う光太郎。
その12年後の1923年の関東大震災が自身の心を苦しめ、1931年に発症した智恵子の精神の異常が1938年の死に到ることを、また太平洋戦争下で「日本文学報国会詩部会長」に就任し、戦後そのことを苛(さいな)み、自責することになる、そんな光太郎を誰が想像し得ただろうか。
1950年、彼68歳時に刊行した詩集『典型』所収の『脱卻(だつきゃく)の歌』(卻は現在「却」)で次のように詩っている。

廓(かく)然(ぜん)無聖(むしょう)と達磨はいった。
(中略)
よはひ耳順を越えてから
おれはやうやく風に御せる。
六十五年の生涯に
絶えずかぶさつてゐたあのものから
たうとうおれは脱卻した。
どんな思念に食ひ入る時でも
無意識中に潜在してゐた
あの聖なるものリビドが落ちた。 [注:リビド リビドー 生と心のエネルギー]
はじめて一人は一人となり、
天を仰げば天はひろく、
地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。 [注:ユマニテ(仏語)ヒューマニティ]
(中略)
白髪の生えた赤んぼが
岩手の奥の山の小屋で、
甚だ幼稚な単純な
しかも洗ひざらひな身上で、
胸のふくらむ不思議な思に
脱卻の歌を書いてゐる。

尚、この詩集『典型』の序で、彼は次のように書く。

「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにゐられなかった。」

更には、死の一年前にこんなことを言っている。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ」

〔古代から現代までの、日本の様々な人々の辞世の言葉を集めた書『辞世のことば』1992年刊]より引用。

私は、高村光太郎と生まれ育った環境も人生も全く異にする人種で、「子を持って知る親の恩」を、しみじみ噛みしめる不埒者に過ぎないが、彼の心の変遷に共感を抱く。
青年時代の激情への観念的共感、晩年の諦念にも似たようなものへの実感的共感。
彼が心底に抱いていたと思われる太母(グレート)観(マザー)、大地への母性感。

彼は、『典型』にも書かれてあるように、戦後、岩手の小村に移り住んだ。しかし、日々、孤独に過ごすのではなく、土地の人々と積極的に交流を深め、村人への啓蒙的なこと等、様々な活動をしたとのこと。やはり彼は意志の人だったのだろう。私にはそれがない。

次回では、萩原 朔太郎・北原 白秋・三好 達治のほんの一部だが採り上げ、更に冬に思い巡らせたい。