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2018年12月5日

「冬来たりなば春遠からじ」 (二)

冬・陰陽・萩原朔太郎、北原白秋、三好達治

井嶋 悠

詩人は孤独である。より正確に言えば孤独を愛する。その意味では意志の人である。
萩原 朔太郎(1886~1942)は、エッセイ『冬の情緒』の中でこんなことを言っている。

「詩人たちは、昔に於いても今に於いても、西洋でも東洋でも、常に同じ一つの主題を有する。同じ一つの「冬」の詩しか作って居ない。(中略)詩的情緒の本質に属するものは、普遍の人間性に遺伝されてる、一貫不易のリリックである。即ちあの蕭(しょう)条(じょう)たる自然の中で、たよりなき生の孤独にふるへながら、赤々と燃える焚火の前に、幼児の追懐をまどろみながら、母の懐中(ふところ)を恋するところの情緒である。」

詩集『月に吠える』(1917年)から二つ引用する。

『地面の底の病気の顔』
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、 巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

『竹』
ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。

以前、解説で朔太郎は日本近代詩の父である旨読み、上記2作品からも私なりに大いに得心した思い出がある。ところで、やはり「父」であって、「母」ではおさまりつかないのだろうか。
晴天の冬の空はどこまでも突き抜け、大気は冷冽に地を覆う。研ぎ澄まされた詩人の幽かな神経は、天へ向かう青竹に、地に広がる根に向かう。幾つかの行末(ぎょうまつ)の語法が生の動きを導き、鑑賞者に春へのつながりを予感させる。

6年後に刊行された詩集『青猫』の序で、朔太郎は言う。

――詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。生活の沼地に鳴く青鷺(さぎ)の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である・――

冬は厳粛で、孤独で、秋の感傷の哀しみはない。しかし、それは絶望の哀しみでもない。

朔太郎が愛した、
与謝蕪村は「葱買(かう)て 枯木の中を 帰りけり」と詠み、
西行法師は「寂しさに 堪へたる人の またもあれな いほり(庵)ならべん 冬の山里」と詠い、
芭蕉は「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と詠んだ。
北原白秋(1885~1942)は、詩集『月に吠える』の序に次のような文章を寄せている。

「月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になって私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知って吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。」
私は大人に、とりわけ結婚以降に、なってから犬を家族の一員に迎え続けている。私は、犬の愛らしく、切なく、時にキッとした眼を愛する。犬の孤独は猫の孤独と違うように思える。犬のそれはどこまでも人と共有できる哀しみの眼を思うが、猫のそれは泰然自若としている。猫好きに女性が多いことの理由と勝手に思っている……。
白秋には、やはり有名な『落葉松』という詩がある。その一部を引用する。


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
(二・三略)

からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
(五・六略)

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

冬の碧空の下、春への生を中に秘め凛と立つ落葉松。「さびさびと」その下を歩み過ぎて行く詩人、人々。
冬のもたらす寂しさの情景を言うが、白秋の心には道は春につながっている。行き止まりの冬ではない。一直線の冬の道である。陰の明から陽の明へ。この詩からも母性が離れない。

三好達治の『雪』というわずか2行の詩。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

眠らせるのは雪なのだろうか、母なのだろうかそれとも祖母?どうしても父も、祖父も浮かばない。
雪自体、母の或いは女性のイメージがあるのではないか。すべてを静寂に包みこむ雪。時にその過剰さのあまり人を死にさえ及ぼす雪。そして雪解けの哀しみ。
ふりつむ雪は鉛色の空から落ちて来る。空はその地を、否、地球全体を包み込んでいる。

随分昔のこと、授業(中学3年生?)でこの詩をしたときのことが今もって強く残っている。
読み味わい、授業を終えて教室を出る際に耳にした或る生徒(女子)が友人に言った言葉。

「え―っ!太郎と次郎は人だったんだ。てっきり犬だと思ってた!」

今もその時の感銘が新鮮に甦る。その生徒にとって、眠らせたのは自身なのだろう。

季節は、時に多くは人為の災いでいささかの前後もするが、確実に折々に私たちを包み込む。だから私たち人々に智慧を授け続け、一年を繰り返す。ひたすら。冬来たりなば春遠からじ。春来たりなば夏遠からじ。夏来たりなば秋遠からじ。秋来たりなば冬遠からじ…………。
私はほとんど意識することなく70数度繰り返して来た。
今、「心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず」をはや過ぎて想う。

季節のもたらす自然に、森羅万象の自然に、心身一切を委ねる自然を、と、どこまでも想いであり続けるだけの俗人の私を重々承知しながらも。もちろん俗人の反対語「雅人」にもほど遠い私である。