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2019年2月16日

雪 螢―俳句再発見・再学習― Ⅲ 小林 一茶

井嶋 悠

【よりかかる 度(たび)に冷(ひや)つく 柱哉(かな)】

この句は、一茶41歳の時の句である。怖ろしいほどまでに漂う孤独感、孤愁。前書きには「首を掻いて踟蹰(ちちゅう)す」とある。(踟蹰(ちちゅう)す、とはためらいがちに行きつ戻りつすること)
専門家の解説によれば、一茶は、当時、中国最古の詩集『詩経』(BC9世紀~7世紀)の俳訳の試みを始めていて、この前書きも『詩経』からとのこと。
今から33年前、私が41歳時にこの孤独感を言い表し得ただろうか。主情的感傷的には表現し得たかもしれないが、この冷徹なまでの孤独表現が生まれようはずもない。

一茶は、1763年、長野県柏原の貧しい家に生まれ、3歳で母は死に、15歳で江戸に奉公に出され、この後10年間は「動向不明」と略年譜にある。そして、25歳前後から俳句活動や旅の記録が残っている。
39歳で父が病没し、母の死後の継母との不仲等あって、これ以後、天涯孤独の身を自覚するようになる。上記の俳句は、その2年後の作である。

51歳で江戸生活を切り上げ、故郷柏原に定住し、65歳の死出の旅まで俳句生活を過ごすが、その間、父の遺産問題、三度の結婚等幾つもの苦悶、憂悶を背負う。
このあたりのことに関して、或る専門家は「その長い生涯は不遇と災厄の連続であったことが痛ましい」と記し、52歳から65歳終焉までの身辺を以下のように整理している。

・52歳  「きく」(28歳)と結婚
・54歳  長男誕生。しかし1か月後に死亡。
・56歳  長女誕生。
・57歳  長女死亡。
・58歳  次男誕生
・59歳  次男死亡。
・60歳  三男誕生。
・61歳  妻病死。三男死亡。
・62歳  「雪」(38歳)と再婚。3か月後に離婚。
・64歳  「やを」(32歳)と結婚。
・65歳  一茶死去。
・没後1年 次女誕生。

この人生後半期と先の句とはつながらないが、あたかも一茶の人生を暗示しているようでもある。
このような生が、一茶の心根を育むに及んだ影は想像に難くない。或る“屈折”にも似た心根。

一茶との号が出始めたころ、27歳前後の句が残っている。

【今迄は 踏まれて居たに 花野かな】

人間と言う動物は不思議で勝手な生きものである。
孤独を愛するかと思えば集団を愛する。そうかと思えば、孤独を忌避するかと思えば集団を忌避する。
そう言う私は、私なりの生々流転がそうさせたのだろうが、確実に孤独に重点が移っている、と感じている。そう、まだ感じている段階とはいえ、人間は孤独であることを確(しか)と自身の言葉で言えつつある。
その証しなのだろう、以前に増して動物や草花、樹々への愛(かな)しみ度が強くなりつつある。しかし、ここでストレスと癒しとの現代多用語彙を持ち出すつもりは毛頭ない。それどころか、いとも安易にそれら語に収斂する世相に嫌悪感、拒否感さえ持っている。と同時に、精神論、根性論を持ち出すのは、先の用語以上に思いもよらない。

【我と来て 遊べや親の ない雀】

周知された句の一つだ。一茶、57歳時に発刊された句文集『おらが春』に収められている、自身の幼少時を顧みての作とのこと。
この句の前書きがまたいい。切々としてこの句を引き立てている。少々長いが引用する。

――親のない子はどこでも知れる。爪をくはえて門(かど)に立つ、と子どもらに唄はるるも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木(き)萱(かや)など積みたる片陰にかがまりて、長の日をくらしぬ。我が身ながらも哀れ也けり。――

親の死はやるせない。私の場合も、幾つかの複雑な要因が絡み合っているとは言え、また世に決して少なくないこととは言え、切なさが沸き起こる。一茶は、父と母への思いを次のような句で残している。

【馬の子の 故郷はなるる 秋の雨】
(一茶は15歳で江戸に奉公として出された)

【露じもや 丘の雀も ちゝとよぶ】(父は、一茶39歳の時に病没)

【亡き母や 海見る度に 見る度に】(母は、一茶3歳の時に病没)

 

孤独は自己への、他者への慈しみ、優しさを滲み出す。私自身は、まだまだそこに達し得ていないが、一茶は数十年の日々によって、自然に17音に編み出している。一茶自身が崇拝する芭蕉や、また蕪村とは違った形で自身の言葉を紡いでいる。前回借用した、芭蕉の「道」、蕪村の「芸」そして一茶の「生」である。

まるで少年のような慕情について、或る研究者の一節を紹介し、小動物への一茶の慈愛、慈悲の心が、映じている、或いは己を投影している、幾つかの句を挙げ、それらの句に私的寸評を加え、『私的俳句再発見・再学習―一茶編―』の駄文を終わりたい。句の後の《  》が私的寸評。

研究者の一節。
――世路の艱(かん)苦(く)に泥まみれになりながらも、一茶の魂の原郷に璞(あらたま)のような素(そ)醇(じゅん)な光彩が宿っていたのだろうか。――(栗山 理一『鑑賞 日本古典文学』)

初めに、一茶58歳の時の、自身を蛍に託して投影した句を引く。

【孤(みなしご)の 我は光らぬ 螢かな】

《孤をみなしごと詠ませ、蛍のはかない生と幻想的な美しさを自己に投射し、己が人生を顧みる一茶。》

【行水の 音聞きすます とんぼ哉】

《とんぼのあの眼を思い浮かべるとますます溢れる慈しみ、優しさ。鳩の歩く後ろ姿を思索家に見た詩を想い出す。》

【夕月や 流れ残りの きりぎりす】

《洪水の後の風景を詠った句とのこと。生の厳粛、非情に思い及ぶ。その意味では「イソップ童話」とも相通ずる?》

【草陰に ぶつくさぬかす 蛙(かはづ)哉】

《芭蕉の句を知っているだけに、より蛙への親愛感が伝わって来る。》

【鳴け鶉(うずら) 邪魔なら庵(いほ)も たたむべき】

《一茶の貧しさと苦しみの中での隠遁的生活にもかかわらずこぼれ落ちる心のゆとり、優しさ》

【花さくや 目を縫はれたる 鳥の鳴く】

《この句については注釈が必要だろう。当時、雁や鴨は貴人の酒食を喜ばすために、床下で飼うことで首の長さを抑えたり、眼を縫いつぶして意図的に肥え太らせるためにする職業があったとのこと。一茶は、前書きで、当然その哀れと憤りを表わしている。それがゆえに「花さくや」の言葉が、痛烈に響く。

【螢火や 蛙もちらと 口を明く】

《専門家は「機智や戯画化が先走って、印象は浅く横すべりしてしまう」と酷評しているが、鳥獣戯画を持ち出すまでもなく、やはりこのような俳句は、俳句の“風流(美)”がないということなのだろうか。

【夕不二に 尻を並べて なく蛙】

《この場合、専門家は「小を大に、大を小にという極端な価値の顛倒が対照されることによって、ユーモラスな一茶世界が描き出されてくる、いわば、不調和な対照のもたらす意外性に俳諧の諧謔味も生まれる」と評価している。そして葛飾 北斎の『富嶽三十六景』をも引き合いに出している。
俳句の或いは作品創作の技法に未熟な私としては、なるほどとしか言いようがない。》

【かたつぶり そろそろ登れ 富士の山】

《上記『螢火や』同様、これも専門家から断じられている句であるが、この慈愛の眼差しが良いと思うのだが。》

【春雨や 喰はれ残りの 鴨が鳴く】

《先の『花さくや』と或る共通性がある句でもあり、やはり専門家の注釈が必要だろう。鴨は渡り鳥であるにもかかわらず春の今も居るということは、仲間と飛んで行けない理由がある。怪我(例えば、銃で羽を打たれたとか)や病気なのかもしれない。それらの多くは人為性が高いかもしれない。それを一茶は「喰はれのこり」と表わしたところに、私は皮肉溢れる慈愛を想う。》

【痩せ蛙 まけるな一茶 是に有り】

《日本美術史に異色の輝きを遺す平安時代末期から室町時代にかけて完成した『鳥獣戯画』。鳥羽僧正の作と言われているが、何人かの僧侶の手によって創られたとのこと。動物などに託して、世相を憂いつつ、ときには慈愛の眼差しで身近な動物たちを活写している。一茶も知っていて、己が人生をその僧の一人に託したのだろう、と想像すると愉しい。専門家は全く別の鑑賞[性闘争としての蛙合戦と50歳過ぎるまで独身であった一茶]をしているが…。》

【秋の蝉 つくつく寒し 寒しとな】

《私たちは、つくつくぼうしの声を聴くと、ああ夏も終わりだとの感慨を持つが、一茶のような苦労人からすれば、自身が蝉になっての別の感慨に思い及ぶ。》

まとめて三句。

【寝返りを するぞそこのけ きりぎりす】

【うしろから ふいと巧者な 藪(やぶ)蚊(か)哉】

【やれ打つな 蠅が手をすり 足をする】

苦労に苦労を重ねた人は優しく、驕らず、自然な笑みを内に絶やさない。

一茶に【蓮の花 虱を捨つる ばかり也】という句がある。29歳ころの作である。前書きがある。

「我がたぐひは、目ありて狗(いぬ)にひとしく、耳ありて馬のごとく、初雪のおもしろき日も、悪いものが降るとて謗り、時(ほと)鳥(とぎす)のいさぎよき夜も、かしましく鳴くとて憎み、月につけ、花につけ、ただ徒(いたずら)に寝ころぶのみ。是あたら景色の罪人ともいふべし。」と。

貧困や家庭等環境また人生で辛苦を重ねた人故のひがみ、屈折した自身を見る表れと取るのか、それとも29歳にして謙虚さをすでにどこかに持っている“はにかみ屋”と見るのか、私は、とりわけ年々“人不信”が増して来ているとはいえ、両方の要素を思いつつも後者が勝っていると思いたい。
これは、年少時に辛酸を経た人の中で時折見受けられる、自身の過去から他者の痛み、哀しみを慮(おもんばか)ることなく、いわば逆に権威指向、自己絶対正義性になっている人とも会ったり、知ったりする中で得た、自省からの思いである。