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2019年2月24日

自由律俳句『咳をしてもひとり』 俳句再発見・再学習 最終回[一]~「自由」の心地よさ、為難さ~

井嶋 悠

束縛、制約があっての自由。束縛も制約もないところでは自由という言葉自体ありようがない。人間は2,3歳ころから束縛、制約を自覚し始め、歳を増すごとにその度数は上がり、自由に憧れ、自由を求め始め、悟得者以外多くの人は死で解放され自由を得る。しかし、その時本人が自覚したかどうかは、人類誕生以来誰も?知らない。

俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の代表句の一つ『咳をしてもひとり』が、高校の教科書に採り上げられていた時、説明に困った覚えがある。10代後半の生徒にどう得心まで持って行くのか。俳人の略歴を先に説明すれば、その先入観、知性と理性で句を味わうと言う本末転倒を思うから。もっとも、生徒自身の中で、自身の心を含めた諸状況、環境から、瞬時にこの句に移入した者もあったかもしれない。しかし、それを教室と言う場で自身から、或いは教師が言わせることは、私には辛く痛みの経験があり考えられない。

『古池や 蛙とびこむ 水の音』とか『菜の花や 月は東に 日は西に』とか『痩せ蛙 まけるな一茶 是に有り』なら、想像もいろいろでき、その想像を素にあれこれ問答し、私は10代の感性を愉しみながら、全体像に迫ることができるが、『咳をしてもひとり』はそうは行かない。
現職時代の私の授業に係る想像力無さを白状していると言われればそうで、私の心に強い響きで飛び込んで来たのがここ数年のことである。想像力は生の積み重ねの多少で変質、培養するのかもしれない。そこに放哉の生涯全体から想像できることを重ねると、到底私にはできない勝手な憧憬の意も込めて、共感する私が今居る。

ここで放哉の略歴を記す。
1885年 鳥取県生まれる
1909年 東大法学部卒業
高校は旧制一校で、卒業までの間で、夏目漱石の英語講義を聞き、傾倒する。また、後の俳句の師となる荻原 井泉水に出会う。(井泉水については、後で触れる)
1923年 大学卒業後、或る保険会社に就職し、後に別の保険会社に転職するも、1923年免職。妻去る。
1924年~1926年
自由律俳句への造詣を深める一方で、京都・神戸・福井・小豆島の寺男になるが、金の無心、酒癖の悪さ、東大出の誇示等、各地での評判は甚だ不評で、最後の小豆島で病死。享年41歳。

【備考】

放哉の歴史の中で、死の2年前、数か月の間だったようだが、社会奉仕団体『一燈園』(京都・山科)で修養を積んだことには心が動く。
一燈園は1904年に開かれた、己が懺悔をもって無所有奉仕の生を実践し学ぶ所で、現在も平和の願行の一環として、近隣の便所掃除奉仕を続けていると言う。この修養については、放哉が随筆『灯』の中で書いているが、自身が言う「大の淋しがりや」の彼としては、なかなか厳しい時間だったようだ。
尚、ここには小中高校もあり、一燈園の考えに共感する子ども[保護者]が在籍していることを初めて知り、元教師としても関心が向いた。

放哉のような俳句を「自由律俳句」と呼んでいる。「自由」な「律」の「俳句」。
律;①おきて ②一定の標準により測る ③音楽の調子、リズム

俳人であり俳句研究者でもある上田 都史(1906~1992)は、その著『自由律俳句とは何か』(1992年刊)の中で、こんなことを言っている。

「自由律を書くのではなく、自由律で俳句を書くのである。」と。

そして動物生存地境界線を応用して、数字的な面から俳句の規定を試みている。それによれば、17音を基準(標準)として12音から22音までを俳句としている。氏は放哉への傾倒者であったが、その基準に照らせば『咳をしてもひとり』は9音で、俳句として認めないと言う。
おもしろい俳句定義の試みではある。[あ・んとうなずく]なんか面白そうだが…。
もちろん季語や切れ字といった束縛も制約もない。

そもそも俳句とはいったい何なのかとこの年齢になってあらためて思う。5・7・5と17音並べれば、まずは俳句となるのか。川柳とはどう違うのか。俳句は元来俳諧と言われ、その諧謔性、風刺性において、両者はどう違うのか。考え始めたら際限ない。いつもの袋小路である。やはり先人の知恵を借りるのが一番だ。

俳句は、和歌(やまとうた)の一つの形連歌から派生し、短歌31音[みそひと文字]の前半部を独立させた詩である。と、考えれば先ず『古今和歌集』(905年)の仮名序に触れておきたい。

【その冒頭部分】(適当に漢字を交えた)

――やまとうたは、人の心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるもの、きくものにつけて言ひ出だせるなり。花になくうぐひす、水すむ蛙(かはず)の声をきけば、いきとしいけるものいづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男(をとこ)女(をむな)のなかをも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。――

言う。自然の彩り、躍動を見て、歌心(ごころ)が芽生えない人などありようか。歌は天地に、霊界にそして人間界すべてに美と慈しみを奏でる、と。
歌を何も和歌や詩に限定する必要はない。歌を言葉と置き換えて何が問題だろう。或る西洋の詩人が、言っていた。「一語が人の喉をかっ切る」と。もちろん逆も絶えずある。「一語が愛を生みだす」。「ああ」否「あ」だけでも、一語で詩となることもある。
聴き手、読み手と話し手、書き手との想像力の対話が決める言葉の軽重。言葉の無限の力。
因みに、最も軽いのが政治家や官僚の、或いは一部のマスコミ人の垂れ流す言葉。
では重い言葉、心に突き刺さってくる言葉の共通性とは何だろう。

【蛇足補遺①】

以前投稿したオノマトペの世界、[onomatopoeia]に綴られたpoem・詩的世界。もっとも、人によってはその原初性から否定する人もあるが、私はそれには与しない。

とは言え、俳句が主題なのだから俳句に沿って、先の言葉[歌]を考えてみたい。
芭蕉と幼なじみで同じ伊賀藩に仕え、後に芭蕉を師として敬慕した服部 土(ど)芳(ほう)が著した、芭蕉が確立させた俳句[俳諧](蕉風)論『三(さん)冊子(ぞうし)』の冒頭から一部分を抄出する。

――それ俳諧といふこと始まりて、代々利口のみに戯れ、先達つひに誠を知らず。(中略)亡師芭蕉翁、この道に出でて三十余年、俳諧実(まこと)[実質の意・反対は虚名]を得たり。(中略)まことに代々久しく過ぎて、このとき俳諧に誠を得ること、天まさにこの人の腹[真の俳人の出現の意]を待てるなり。――

ここでは「まこと」が、三つの意味で使い分けられている。
一つは、真実の姿。一つは、実質としての名声。一つは、実にといった副詞用法。
では、その核である真実の姿の「誠」とは何なのか。

芭蕉44歳時、東海道・吉野・須磨・明石への旅をまとめた俳文紀行『笈(おい)の小文(こぶみ)』の冒頭から抄出する。

――(中略)西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも、風雅におけるもの、造化に随(したが)ひて四時を友とす。(中略)夷狄(いてき)を出で、鳥獣を離れて、造化に随ひ、造化に帰れ、となり――

最後の「造化に随ひ、造化に帰れ」の人の在るべき姿への警鐘とも言える言葉。命あるもの、自然一切、万物を創造した神への人としての謙譲の自覚。その時に生ずる全霊を傾けた己が言葉。それを受け止める他者。両者間に厳としてある誠。誠実。
近代俳人の言葉を借用する。

――(中略)言葉には表すことのできない感動を発する俳句に出会ふ。(中略)作者の人間全体を感じてしまふのである。それはまるで肉体的な衝撃さへあたへる。――(石田 波郷〈1913~1969〉)

しかし、それは俳句に限らない。先にも触れたように日々の生活の中で私たちは、この言葉の力をどれほどに痛感しているか、ことさら言うまでもないだろう。にもかかわらずなぜ俳句なのか。やはり俳人の言葉が必要だ。

――(中略)光の印象は稲妻のやうに刹那的に輝くものである。それを捉へるには短くして鋭い詩形でなければならぬ。力の印象は疾風のやうにとっさに発するものである。それを捉へるには緊張したる言葉と強いリズムとを以ってしなければならぬ。ここに於いて、私は俳句といふ詩形を選ばねばなくなる。印象の詩として存立する純なる芸術は俳句であると思ふ。――

こう言ったのは、自由律俳句での先駆的俳人であり尾崎 放哉や種田 山頭火らを育てた荻原 井泉水(せいせんすい)(1884~1976)である。

ここには自由であること、拠るべき定型がないこと、の清々しさと苦しさの両極で揺れる自由律俳人の姿が出ているように思える。
読み手である私(たち)は、その瞬間の言葉を受け止めなくてはならない。しかし、私にはそれが思うに任せない。年輪は重ねたにもかかわらず想像力はいや増すどころか狭小化しつつある、と言えばそれまでであるが、日本の「律」に染まりきっている私がいるのかもしれない。

5音、7音は古来日本人の無意識下での自然なリズム(生命感)であることは多くの人が認めるところである。幼稚園児でさえあの天使の指をたたみながら5・7・5と数え、例えば(交通)標語等を創り出す。
その音楽性と助詞[てにをは]の言葉日本語が組み合わさって、私たちを何か自ずととりあえずの段階かもしれないが理解の方向に導いたり、理解できたような錯覚に陥らされたりするようにも思える。

【蛇足補遺②】

この5音7音について、南太平洋[南アジア・ポリネシア地方]の、或る部族に同傾向がある旨のことを以前聞いて、日本の4つか5つのルートを経て到達した人々が培った「原文化」への関心に、わくわくした気持ちで想像を広げたことがある。

自由の難しさ。定型・規範の安心感。また「際」のもどかしさ、煩わしさ。
例えば帰国子女を[(小さな)国人]と呼称する大人たちと当事者の戸惑いにも通ずることとして。

この日本人ならではの?心の微妙な揺れと自由律俳句について、先の上田 都史は先に引用した同じ書の中で次のように述べている。

――心の表現に誠実でありたいと希うから五七五調十七音から離れるのでる。離れざるを得ないのである。心を第一義として心のおもむくままに書くから、その形式は定型を離れるのである。それが、自由律俳句である。――

私が、『咳をしてもひとり』に、かつてになかった感銘を受けた理由を、上記の先人たちの言葉に重ねた時、どうなのか。私は、放哉のぎりぎりの言葉、全人的言葉としての誠を、先の略歴を知れば知るほど、感じずにはおれない。酒と学歴矜持で人間(じんかん)を放棄し、憐れを拒否し、自己絶対心の虚栄に生きた人間の孤独。
私には到底為し得ないがゆえのある種の羨望にも似た感情も込めた共感からの、彼の孤愁。

私は、或る時期から「理解」との言葉の使用には慎重になっている。理知性の強さを思うからで、だからと言って、吟味、考究のない感性をすべてとも思わない。それは「分かる」との語でもそうである。
放哉の『咳をしてもひとり』は、受け手の私の全人性から得心できたのではないか、と今思っている。