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2019年4月2日

国技にして伝統文化大相撲への私的な思い~ONがあって、OFFがあって、の生~

井嶋 悠

 

私は相撲ファンの一人である。正しく言えば「大相撲」ファンである。と言っても、通でも何でもなくただ観るのが好きなだけである。だからテレビ観賞で、大相撲“道”を出したり、己が通ぶりをひけらかし、薀蓄(うんちく)をこれみよがしに垂れ流す、要はしゃべり過ぎの、「野暮」な解説者やアナウンサー、またテレビ局[NHK]が招いたゲストが出て来ると、うんざりし、失望し、苛立つ。もっともこれは相撲に限ったことではないが。

先日、大関昇進伝達式で貴景勝関が述べた「武士道と相撲道」をとやかく言うつもりはない。それは競う側の一人の力士の意思であり、ここで言っているのは、あくまでも観客の一人である私の、個人的な思いである。

大相撲には日本の、神話、宗教、芸能、更には芸術が織り成す印象(イメージ)がある。だからスポーツ・運動競技の一つのように言われることに違和感がある。いわんや格闘競技と言われればなおさらである。
掃き清められた土俵、天上から吊るされた伊勢神宮を模した屋根(木材は伊勢神宮の御神木が使われている)、鍛えられ光彩を放つ力士の肉体、床山の職人技大銀杏(いちょう)の髷(まげ)姿に華やかな化粧まわし、横綱だけがしめることのできる注連縄(しめなわ)、彼ら力士の凛(りん)とした立ち姿、浄めと更には土を程よい状態に保つとも言われる純白の塩、行司の能装束を彷彿とさせる衣装、呼び出しの醜名(しこな)を導く声、響く拍子木の透明音。
それらが見事なまでに一体化した時空。その静と動の日本の統合美。

モンゴル相撲(ブフ)や韓国相撲(シルム)との類似点、例えば競技内容とか仏教との関係、も言われるが、別物だと思う。法令等に定められているわけではないが、大相撲を「国技」と表現することの相応しさ。日本の神代からの伝統文化の一つである。
尚、モンゴルの国技は『ブフ』であり、韓国は『テコンドー』とのことで、ブフの全体像を知ればやはり似て非なるもので、大相撲は大相撲である。
因みに、アメリカの国技は、同様に法令等で定められているわけではないが、アメリカン・フットボール、バスケット・ボールそして野球とのこと。この日米異文化を思い浮かべるだけでも興味は尽きない。

 

大相撲の神話的要素、宗教的要素を知ると、大相撲の奥深さを実感し、日本人として一層身近に感ぜられる。と言う、私自身それらについて知らないことは多く、是非この機会に確認し、大相撲を私の内にもっと引き寄せたい。
だからと言って、最初に記した人々の仲間になる気は毛頭なく、最近その大相撲に危うさを思うことがあり、そのことにつながる「芸能性」(或いは娯楽性)のことに辿り着きたく思っている。競う側と観る側が、互いに、またそれぞれに長く心地良い関係であり続けることを願って。
その意味では、スポーツ[sport]の語源が、娯楽、愉しみであることに相通ずるものがあるかと思う。

相撲の源流は、今ではほぼ実在したと言われる第11代天皇垂(すい)仁(にん)天皇の時代、3世紀後半から4世紀前半にかけてと言われる。それは『日本書紀』で確認できる。
その個所の概要は以下である。

【当時、力自慢の當麻蹶速(たぎまのくえはや)の存在を知った垂仁天皇が、誰か彼の相手になる者はないかと聞いたところ、出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という者がいることを知り、大和に呼び寄せ対戦させた。結果、當麻蹶速は肋骨や腰の骨を折られ死んでしまった。垂仁天皇は、勝者野見宿禰に褒美として當麻蹶速の土地を与え、以後臣下に彼を加えた】

現代感覚では、いささか酷(むご)い闘い(競い)ではあるが、當麻蹶速は日ごろから生死を問わず戦うことを願っていたことでもあり、また古代人の闘いの感覚からすれば天皇の褒賞は自然な事だったのだろう。

ところで、日本書紀時代未だ仮名はなく、すべて漢字で表記されていて[万葉仮名]、その文中二か所、興味深い表記がある。一つは「力士」、一つは「角力」で、前者を「ちからびと」と、後者を「すまひ・すもう」と訓読みさせている。

この伝説が、事実であるとすれば(神話・伝説でも構わないのだが)、大相撲に熱い情愛を注がれていた昭和天皇の意向で、天皇即位の大正15年(1926年)に創設された「天皇賜杯」の原点は、垂仁天皇に遡ることとなる…。正に無形にして有形文化財である。

それ以降、事実資料の有無、多少はあるものの、奈良・平安時代には[相撲節会]として、鎌倉・室町・安土桃山時代には武士の訓練としても引き継がれつつ、江戸時代に大きく開花することとなる。

江戸時代との名称がついそうさせてしまうのだろうが、文化面で見ても中心は上方と江戸の二地域で、相撲もそうである。ただ、寺社の知恵(策略)と幕府が一体となった勧進相撲の発達や私たち多くが知る横綱谷風 梶之助また雷電 為右衛門の登場も手伝って、隆盛を極めたのは時代の後半になってからなので、ここでは江戸での相撲が私の中にある。

先日東京・佃島を散歩したのだが、ごく一部に古い入り江が残り、静かな街並みに何軒かの佃煮屋が残っていた。その街並みを囲むようにマンションが林立していたが、これぞ江戸情緒の面影を残す現代の東京なのだろう。ただ、元をただせば佃煮は大坂(浪花)の人々の「下(くだ)りもの」である。

小学校後半の3年間、大学院1年で中退しての懶惰(らんだ)な2年間の放浪生活、の京都の血が流れている私にとって、東京は5年程しか生の場所でしかないにもかかわらず、江戸に親愛感があり、食べ物も江戸風を良しとする(最近は加齢とともに変わって来てはいるが)、上方人からすれば奇妙奇天烈論外人の一人である。
尚、カミさんは3代続く生粋の江戸っ子だが、これは全くの偶然の業(わざ)である。

「江戸の三男(をとこ)(注:“おとこ”とせず“をとこ”とする昔の人の感性を羨ましく思う)」とは、粋でいなせの、当時、女性はもちろん、男性からも好まれた、真の「色男」三職を指す。それは、火消しの頭、与力そして力士を言ったそうだ。
「一年を二十日で過ごすいい男」。年二場所、一場所十日間で過ごしていた(と言っても、武家や豪商のおかかえ、ひいき筋、たにまちがあってのことであるが)力士のことである。
女性は見物自体が禁制であったが、力士の体格、強靱さに憧れも強く、それに錦絵が女性たちの想像力を大いに刺激したようだ。

蛇足ながら、今日のアイドルとブロマイドを、私は詳しくはないが、そこはかとなく思い浮かべると、当時三職に頬を染めたうら若き女性が、今の時代にやって来たらどう思うだろうか。昔は昔今は今よ、とさらっと流すような気もする。粋にこだわれば。

粋と言えば九鬼 周造(哲学者・1888~1941)の著『「いき」の構造』を先ず挙げる人が多いかと思うが、その九鬼は「いき」の三要素を[媚態][意気地][諦め]とし、論説している。
私は、眉間に皺寄せ四苦八苦して文字を追うのだが、私を江戸の魅力に導いた一人である杉浦 日向子(東京生まれの漫画家・江戸考証家。1958~2005、癌のため46歳で早逝)は、或る書で「よく読めばごく当たり前のことを言っている」と、さらりと流している。さすがとしか言いようがない。

相撲は力士なくしては成り立たない。もちろん力士だけでも成り立たない。力士を育てる親方(元力士)、おかみさん、行司、呼び出し、床山。また諸先輩、母校の恩師等々。
それらを束ねる管理性、そして文化性、芸能性の源流となる総本山『公益財団法人日本相撲協会』。
本場所をはじめ多くの興行や諸体制の主体は協会で、地方巡業場所も協会と地元の興行主[勧進元]の連携で行われている。その協会は、基本的に親方衆[理事]が中心で、監事や横綱審議委員会のような外部委員[識者]が随時参画し、運営されている。

公益財団法人は、税制上優遇措置を受け、且つ補助金が国より与えられる。日本相撲協会の場合、年間約2000万円とのこと。
従って、如何に興行収益を上げるかが協会にとって重要課題となる。10年程前の資料では、協会の総収入が165億円(内、NHKからの放送料は30億円)、支出は206億円とのことで赤字だが、この段階では国技館の改造経費も含まれ、更には協会の資金運営への文科省の監査等もあり、現在赤字はほぼ解消されているのではないかと考えられる。
過去には、待遇改善要求から力士がストライキをしたとの歴史があるが、現在は報酬や手当、また保障等、厚遇されているといっても過言ではないと思う。

力士の日々精進しなければならない仕事(労務)が、三つある。一つは稽古、一つは食事、一つは睡眠。すべては、本場所で後悔を残さず、無心で闘うための鍛練の時間である。と言えば窮屈なことだが、それが力士たる男を磨く基となる。
中学を卒業して、その大相撲の世界に入る者もいる。現大関高安はその一人だが、今はほとんどが高校へ進むのでそのような人物は稀かとも思う。
昔よく使われた“金の卵”との言葉を思い出すと同時に、外国人が懸命に生活・文化の壁を越えようとしながらも望郷の念、父母への思慕に陥るのが痛いほど伝わって来る。凄い意志力を思う。
ひたむきの精励の上に、資質と機会と出会いに恵まれた彼らの一部が、めでたく十両以上の関取となる。横綱が遥か高い山の頂であることが分かる。

彼らの年間実働時間(日数)を確認してみる。
本場所(6場所・2か月毎) 15日×6=90日 それに本場所に向けた稽古の総仕上げを場所前10日とすれば+60日で、150日。
地方巡業(春夏秋冬場所後)の日数が2018年で77日(74都市)。移動日を入れると1都市での巡業に3日は要するだろう。とすれば、74日(都市)×3日=222日。
上記を単純に合計すれば、力士の本業として要求される日数は、372日で既に1年を超えている。地方巡業を少なく見積もって200日としても350日。
非常な偏見で言えば、地方巡業は大相撲の浸透と力士顔見世、その上での稽古と言うことなのだろうか。
因みに、横綱を筆頭に、「三役」ともなると、何かと公的な交遊、厚誼の場も多いという。
世は[働き方改革]ブーム!?(と記したのは、国民全体を見る視野が欠けていて、偏向、独善の官僚性と政治家が好む言葉遊びを思うからである)だが、大相撲は視野にあるのだろうか。
ここ数場所の怪我による力士の多さは、この現状と関係がないと言えるのだろうか。私には到底そうは思えない。

先日、無念な形で引退した横綱稀勢の里が、引退会見で「経験を活かして、怪我に強い力士を育てたい」と言っていたが、既に行われている近代的トレーニング以外にどういう秘策があるのだろうか。

プロである(アマチュアでも同じだと思うが)競技者は等しく人間であって、[OFF]があって[ON]があり、[ON]があって[OFF]がある。心を整理し高め、身体に休養を与える時間[OFF]と、自身の課題に沿った集中稽古と身体トレーニング[ON]の切り替えが大きな成果につながる。

権力指向者や教職者に多用傾向がある「使役」助動詞「せる・させる」のことが過ぎる。
日本相撲協会は、力士にさせているのである。国技との、伝統文化との大義を掲げ、且つ地方巡業でも本場所並みの高い入場料を取って。
本場所の3階席はそうでもない、と反論されそうだが、そういう発想が、娯楽性を逆手に取った商業主義、拝金主義ではないのか、と私は思う。
やはり相撲を好いていた娘を、死の少し前に国技館での本場所マス席に連れて行ったが、年金生活事情から可能だった席は、マス席の最後方だった。

〔帰路、入り口を出たところで、娘が、臥牙丸関とその付け人たちと撮った写真は貴重な宝物である。〕

それとも、協会をそういう方向にさせているのは、日本社会と言うことなのだろうか。
因みに、現職時代、この使役助動詞を使うことに抵抗感、違和感があった。だからお前はダメ教師なんだと言われるかもしれないが。
もっと力士の息吹きや肉体の艶が直に感じられる席で、力士の激闘に酔ってこその、娯楽性、芸能性のではないのか。憂き世から離れたひとときの陶酔。降臨して来た神々との共感。日本の神様たちは、酒を愛し、満面の微笑みの寛容さで佇むとの印象があるからなおさらだ。

[満員御礼]の垂れ幕が、最近頻繁に、或いはほぼ連日下がっているが、画面には空席が多く目立つ。どういうからくりかは、大人は承知しているが、そこにも拝金主義が見え隠れする。
国技としての誇り、主役の力士たちへの配慮、より多くの人々の伝統愛促進を、真っ当な願望とするならば、日本相撲協会のできることが、3項目ある。

◎本場所を4場所に戻し、地方巡業を半分にする。

◎入場料金を下げる。

◎値下げや場所数減でのマイナス補填を次の方法で行う。

★税金の投入[少子化、高齢化社会が進むにつれ、日本人であることが
年々窮屈になって来ている。国連関連機関による『世界幸福度ランキン
グ』2019年の総合得点では、1位フィンランド、2位デンマーク、3位ノル
ウエーと続き、アメリカが19位、韓国が54位、中国が93位で、日本は昨
年の54位から58位に下がった。
あれだけ税金類を徴収し、物価は上がり、一体、この国はどこへ行こう
としているのだろうか。政治の貧困が露わになりつつある。58位と知っ
て驚かない私がいる。
あまりのムダが多過ぎる。核の傘借用等ための軍備費、在日米軍への阿
諛(あゆ)迎合費、政治家の摩訶不思議で独善的政治費[税金]の使い方
等々。
文化、教育、福祉に予算(税収入)を十分に割かず、財源不足を言い訳
に痛みとか称して国民負担増発想の圧政の国はいずれ滅びる。もう滅び
に入っていると言う人も少なからずいる。
大相撲に、伝統文化に、税金を投入することにためらう国は寂しい。]

 

★NHKの放送料増額[今では権威化、権力化を邁進し、守銭奴化したN
HK。報道、ドキュメンタリー、スポーツ中継、大河ドラマでの技術・
スタッフの秀逸性への自負は棄てたのだろうか。なぜ民放の模倣が増え
ているのだろうか。国営放送ではないのだから、なぜ受信した分だけ払
う合理性に眼を向けないのだろうか。受信料に係る最高裁判決で「義
務」との表現が出て以来、尊大さが強くなりつつあるように思えるの
は、私だけなのだろうか。
併せて【三権分立】も怪しくなりつつあるよう思うが、今は措く。]

 

少子化、高齢化の実状と世に多くある不幸な事実(例えば、子ども・老人の貧困、男女協働の言葉先行・10代から20代での自殺の急増等)、それらの元凶とも言える施策の貧困を直視し、世界共生・協働時代、浅薄な愛国心ではなく、自立した「小国主義」日本であって欲しい。それでこそ日本の国技である伝統文化大相撲は栄え、末永く残ると頑なに信じている。