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2019年5月15日

日日是好日・一期一会

井嶋 悠

小学校の運動会で、50メートル(だったと思う)徒競走は、ゴールまで誰よりも速く走ろうと一目散だった。今もこの種目は行われているのだろうか。
一時、足が速い遅いで順位をつけるのはいかがなものかというので、順位をつけない学校も出たそうだが、今はどうなのだろうか。
障害の有無とは関係なく、子ども心理としては順位がある方が楽しいというか、張り合いがあるように思うが、勝って驕り、負けていじけたりするのはいただけないとの上でのこととして。
なにせ小学校でさえ、「学級崩壊」がある時代だから。なんともはやではある。

年を経て、老いの段階に入り、小学校同期会などに参加すると、欠席者の生死とか入院の有無、また出席者でも先ずは健康の話題から入り、今通院していないと言うと感嘆の声すら漏れる。
ところで、歳を取ると、幼い時のゴールに向かう姿勢が180度変わるというのは、人生、遅きを善しとする天が送った暗示なのだろうか。

今の生活ぶりを恥じて、参加したくとも遠慮する人もなくはない。それをおかしなものだと言うのは簡単で、いわゆる“上から目線”、同情の危ういところである。
一切の例外なしに、その多少とは関係なく(そもそも多少とは、何をもって言うのかも含め、人がとやかく言うことではない)お国に身を投じて来たのにもかかわらず、その国は老人を、美辞麗句だけで結局は放置、捨て置いていると言えば言い過ぎだろうか。
或る近しい人は「老人はさっさと死ねということなんだろう」と言っている。

私自身でさえ憤る、老人側の“老い”を錦の御旗がごときにした身勝手な言(ふる)行動(まい)、倫理観・独善観のあることは重々承知して言うが、
例えば、 車が無ければ生活が成り立たない[生きて行けない]地域があちこちに在る現状の一方で高齢者運転事故の多発。これを解決するには、それらの地域の公営バス[コミュニティ・バス]の濃やかな普及しかないが、実状はどうだろうか。私の現居住地でも然りである。
また、老人養護施設入所に際して、或いは老人医療に際して、負担が1割であれ2割であれ負担自体の発想が解せないのだが、どうしてあれほどに経費を当然のように徴収するのだろうか。
備考ながら、韓国の50代の知人ががん手術の後、医療費負担が5%になった旨聞いて愕然としたし、日本の1級障害者に対して医療費還元の有無が市町村によって異なるのも不可思議に思う。

世界に冠たる借金超大国日本の、政府、行政側の反応はほぼ決まっている。「予算がない」。 国家防衛、国家名誉を口実に、自衛隊に(自衛隊に係る憲法論争が喧(かまびす)しいが)膨大な予算が使われ、併行して「思いやり予算」への現アメリカ政府のますますの要求に“ゴルフ”で応え、名誉ある日本を担う、と自尊する政治家とりわけ国情を左右する首相、大臣が外交と称する外遊での巨大な出費とその成果に、無関心に或いは麻痺しつつある私たち。
以前、現首相の外遊経費について、某前国会議員が情報公開を請求し、それに関して以前にこのブログに投稿したが、どうしてマスコミはそのことに触れないのだろうか。それとも、既に追求があったことを私だけが知らないだけなのだろうか。(私は定期的に新聞を読まない上に、週刊誌、月刊誌もほとんど読まないので、私の無知は十分に予想される。)

本末転倒も甚だしい『愛国心』。日本と言う国は、そういう国なのだろうか。

「平和」との語彙で捉えれば、なぜ本末転倒なのかとの疑義が出されると思うが、私が抱く平和とは、先ず国民一人一人の心の平和、安寧であって、〇○国の、××国の脅威による自衛、との視点からの戦争と平和の、その平和ではない。順序が逆なのである。 だからなおさらのこと、アメリカの核の傘の下とか在日米軍の現状に、甚だしい疑問を持つ。
私は、浅薄な性善説や性悪説、また自民族・自国絶対の寂しさに陥らぬように留意しているつもりだが、最近の日本・アメリカや中国・ロシアを見ていると、私の留意をことごとく覆しているように思える。
北朝鮮問題で、私の旧知の韓国人に今もって親族が北にいる人がいるが、その人たちは今の動きを、各国首脳の更には一部ヘイト的言説をどのように受け止めているのだろうか。
このことは、やはり旧知の香港人[中国人と自称せず、香港人と称する人は多い]にも思い及ぶ。

古代中国の思想家、例えば老子とか孔子は『小国寡民』の前提に立って、人間に、社会に叡智を発し、それは今もって、少なくとも私たち日本人の力、栄養となっている。
日本は、国土面積の4割が森林・山岳地帯(要は人の生活地域は国土の6割)で、年々少子化、高齢化は進み、GDP等世界の経済領域で、過去は過去のこととなりつつある。過去の栄光を再び浴することこそ使命と考える人(とりわけ政財界人?)は多い。
しかし、だからこそ経済大国復活を目標とせず、且つ現状を善しとする危険な道に埋もれることなく、未来構想を持つに、今は千載一遇の機会と私には思えてしかたがない。 これは、余りに非国民発想、或いは精気をどこかに置いて来てしまった老人発想なのだろうか。

日日(にちにち)是好日(こうにち)。[この読み方には、ひびこれこうじつ等幾つかあるがここではこの読み方にする]
これは、10世紀唐の時代の雲門禅師の言葉で、出典は、公案集(禅師が弟子に問い掛け、答えを求める事例を集めた書)の『碧(へき)巌(がん)録』。
この言葉の要(かなめ)は「好」にある。
禅思想では、善悪、美醜、高低、長短といった相対の視点を持たない。これは老子も言っているところである。そのもの、ことがすべて、一切なのである。だから「好」を良いとか悪いの意で取るとこの禅師の言葉は矛盾する。
その日その時がすべてなのである。だからこそ、いついかなる、どのようなこと、ものであれ、それらに対して愛しみ、慈しむ心が芽生えると言うのである。

「好」との漢字は、甲骨文では[母]+[子]の会意文字で、それが[女]+[子]の会意文字となった旨、漢和辞典の「解字」で説明され、続けて「母親が子どもを抱くさまから、このましく、うつくしいの意味を表す」とある。 母性は女性専有のものではなく男性にもある。逆も然りである。しかし、出産し、母親となるのは女性だけである。 このことを知れば、子どもを抱く母の、純粋で、絶対的慈愛を思わずにはおれない。その時間が好日である。そこに東西異文化はない。絶対愛。永遠と表裏の無の境。
と、直覚できるのだが、私は今もって心身は、全く別の方向、相対世界にどっぷり浸(つ)かっている。

この感覚を、先述した日本の在りように当てはめてみる。 アメリカがあって、中国があって、ロシアがあって、韓国があっての日本ではない。日本は日本である。もちろん、これはすべての国に当てはまることである。
釈迦が言う「天上天下唯我独尊」の本来の意味。自身が、自国が一番偉いとの相対的考え方ではなく、それぞれの自己、自国を唯一とする禅思想に通ずる考え方。
一人一人の心の平和、安寧がすべてとする世界、地球である。『国際連合』の理念に通ずることだが、それが機能していない。なぜか。
大国意識[指向]×小国意識[指向]、指導×従属での恩義と安心から、それぞれの思惑が働いて、最後の最後に「拒否権」とのエゴが貌をもたげ、結局は大国間競争に堕する。
日本は禅思想が12世紀以降、急激に広がり、浸透し、今も或いは今だからこそ人々の心を捉えているにもかかわらず、悪しき渦中に巻き込まれている。否、自身から渦中に飛び込み指導(リーダー)云々と頻りに言う。
一部の、その中に私もいるが、現代日本人は、敗戦、占領下を経て、70有余年経った今も、日本が自律し、自立[独立]した国と思っていないのではないか、とさえ勘ぐってしまう。
因みに、老子は先のことの記述の後に次のように言っている。

――生じて有せず、為して而(しか)も恃(たの)まず(何かをあてにしない)、功成って而も居らず――

その時、その一瞬がいかに大きな意味を持つか。 私など、顧みれば後悔先に立たずばかりの小人以外何者でもないが、だからこそ先人(古人)の言葉に、同じ人間の“気”を感じ、どこか安堵し、前を向こうとする。

「一期一会」は、茶道の心得を言った言葉が源である。それは以下である。

――茶の湯の交会は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり。――

いずれか或いは共々、人生の、そして教育[教えるということ]の「座右の銘」にしている人は多いのでは、と思う。