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2020年1月18日

   江戸っ子・気質

井嶋 悠

私は一応、都っ子[京都っ子]である。一応というのは、家系的には京都だが、私の人生が、子ども時代の周囲の大人の事情や後の私の意志もあって流転しているからである。
そんな私だが、江戸っ子という響きに好意性を持っている。それも山の手系ではなく、下町系の人々である。言ってみれば江戸落語或いは風流の世界かもしれない。

私は4コマ漫画以外、基本的に漫画をほとんど読まないのだが、東京生まれの漫画家にして江戸(文化)考証家で、46歳の若さで逝去した杉浦 日向子(1958~2005)は例外である。彼女の代表作の一つ『江戸雀』に接し、虜になった。描かれる男女が微笑ましく、風景が緻密で情緒深い。
以後、彼女の著作であるエッセイを読んでいる。『一日江戸人』もその一つである。入門編、初級編、中級編、上級編の章立てで、江戸人を、暮らしを、文化を、軽妙な筆致と温もり溢れる描画で紹介していて、最終項は『これが江戸っ子だ!』である。
そこに【江戸っ子度・十八のチェック】というのがあり、次の項目が挙げられている。適宜私の方で要約してそれを引用する。

①よく衝動買いをする ②見栄っ張りだ(借金をしてでも人におごる) ③早口 ④よく略語にする ⑤気が短い ⑥定食より丼飯 
⑦潔癖(濡れた箸を気味がる) ⑧下着は白で、毎日替える ⑨行きつけの床屋がある ⑩無頓着にみえるが、おしゃれにこだわりがある ⑪履物に金をかける ⑫間食好き ⑬入浴時間は15分以内、45度以上で毎日 ⑭あがり性 ⑮異性交際が下手 ⑯駄洒落好き ⑰ウソ話を本気で聞き、後で笑われる ⑱涙もろい

以上の該当数により、筆者は次のように分類する。
18   金箔付きの江戸っ子    
15以上 江戸っ子の末裔の東京っ子    
10以上 並の東京人
一桁  並の日本人
どうであろう?

上記⑤⑦⑧に通ずることとして、義侠心(男気・男勝り)、反骨精神(哲学者九鬼 周造(1888~1941)の『「いき」の構造』による“粋“の3要素【媚態・意気地・諦観】の内の意気地に通ずる意地っ張り、との江戸っ子気質を語るにしばしば登場する表現)との言葉が浮かぶ。
尚、杉浦も九鬼の著書を基に書いているが、彼女曰く、最初はちんぷんかんぷんだったが、江戸への理解が進むと、当たり前のことが当たり前に書かれている、と。
このチェック表、三代続く生まれ育ちが東京下町の、私が知る近しい女性は、ほぼ該当していて、更には義侠心、反骨精神は甚だ強い。
私は5ないしは6である。但し、反骨精神はあると自認している。

ひょっとして、私は江戸っ子=男性と思い描いていないかと自問する。私が男であるからとも言えるが、幾つかの本等からも江戸っ子というとき多くは男性がイメージされている、と思える。女性は中心にはいない。夏目 漱石の『坊っちゃん』然りである。『男はつらいよ』の寅さんの妹、おばちゃんもあくまでも脇である。
これでは明らかに今の時代にそぐわない。
これを、先の杉浦 日向子は、別の書(監修)『お江戸でござる』で、江戸の男女構成(そこには江戸時代の江戸だからこその要因、参勤交代制がある)や、そのこととも関連する結婚事情、また男女協働の実情を通して「かかあ天下―現代のウーマンズパワーーと書き、
日本近世文化研究家である田中 優子さん(1952~)は、『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?-落語でひもとくニッポンのしきたりー』との著で、落語『抜け雀』『厩火事』を通して「江戸の女は強かった」と書く。

ここに、「男があって女」ではない「女があって男」の世界を見、一方で明治維新以後の近代化の中での「男があって女」が今もって続いていることに思い及ぶ。
「江戸の世界も女は強かった」のではなく、あくまでも「江戸の女は強かった」のである。だからと言って男が弱かったのではなく、また男が勝手に女は弱いと決め込んでいたのでもなく、男女平等意識が、難しい講釈なしに自然に浸透していたと説く人もある。
なぜか。今ほどに職種はなかった時代、協働しなければ生きて行けなかったし、その時、とりわけ女性に強いと言われている地に足をつけた現実性指向は何よりも有効にして必要であった。

今はどうであろうか。
職種は多種多様で、農業国としての面影は薄くなりつつある。そして男女共同参画、協働との言説、呼び掛けはかまびすしい。しかし、その成果、内容は先進国中最下位に近い。先進国、一等国と言うにはあまりに哀しく恥ずかしい。
どうすればいいのか。

男性が、これまでの歴史をかえりみ、自身の深奥に何が見えるのか、響くことは何なのかを謙虚に問い、政治等社会を主導し、変容に与ることがより直接的な世界に、女性が果敢な自由さと柔軟さをもって参入できる雰囲気[場]の醸成が必要なのではないか。もちろんそこでは女性自身の意識改革も必要だが、先ず問われるべきは男性側の意識変革である。その時、江戸の庶民男女の躍動こそ、その方法等を考える大きな力となる。
ただ、あの吉原は、樋口 一葉の『たけくらべ』で終わりにしてほしいが、現実はフーゾク通りとして陽の高い時間から今も営業している。性はヒトへの永遠の課題の一つなのだろう。
江戸を顧みることで、女性の在りように限らず、豊かさと質の問題や東京での貧困問題を説く人も多い。
ここ数年の江戸ブームが、郷愁や感傷だけで終わることなく新たな生の力となってほしいものだ。