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2020年2月2日

「アジアン・インパクト」 《Ⅰ》 日本語教育の可能性

井嶋 悠

1か月余り前になるが、東京都庭園美術館で開催されている美術展に行った。東京都区内目黒駅から徒歩10分ほどにある。
東京は、疲労困憊する街だが同時に不思議な魅惑に満ち溢れている。文化に係ることでないものはないと言っていいほどに魔性溢れる街だ。と言う私には年齢もあって住む気力はない。
限られた都区内の都市空間、東京大空襲からも再興し、随所にある自然と芸術の総合空間。この庭園美術館もその一つである。

これらの多くは、江戸時代の高級武士や明治時代の宮家の賜物で、時代が時代なら私が如き平民が立ち入れるところではない。ありがたいことである。格差、貧困問題の現状にあって不謹慎との誹りを免れ得ないかとも思うが、高齢者割引料金で半額の500円は、あの爽やかな時間、しばしば見かける芸術を身構え、知を誇るかのような時間ではなく、自然態で浸る時間ならば決して高いとは思えない。
作品群を気の済むまで眺め、庭園の椅子に身と心を委ねれば、2時間、3時間は瞬く間だ。
高齢化時代の昨今、芸術、自然鑑賞体験の高齢者は甚だ多く、そんなゆとりの時間の競争率は激しいが、今回は幸いにも訪れる人は少なく、心和む時空間となった。

美術展の主題が『アジアン・インパクト』、副題が『―日本近代美術の「東洋憧憬」―』である。
1910年前後から1960年前後までの間で、古代中国・朝鮮(李朝)の諸作品に影響(イン)衝撃(パクト)を受けた何人かの日本人作家と、アジアを幻想する3人の現代日本人作家の作品が、以下の主題に基づいて展示されている。

 Ⅰ  アジアへの再帰 
 Ⅱ  古典復興
 Ⅲ  幻想のアジア

作品分野は、絵画・彫刻・陶磁器・漆工・竹、藤工藝にわたる。

私は在職中、校務で欧米、アジアの幾つかの都市に出かけた。訪問は一都市長くて2日前後であって、都市の一部分しか体験していないが、思えば幸いな機会であった。欧米の場合、どこか気構える私があったが、アジアは、まるで里帰りするような心持ちを何度も経験した。言葉[現地語]が分からないので、一昔前の読む書く中学高校英語を思い出し会話を図るのだが、欧米の場合、顔がこわばっている私がいて、アジアの場合、親愛的になっている私がいる。
アジアとの響きは私を心落ち着かせる。なぜなのか、おそらくアジア人のアジア人への甘えなのだろうが、未だによくわからない。ただ、それを追いかけていくと、何かがあるようにも思える。
その際、これまでの中高校国語科教師からの日本語教育と【日韓・アジア教育文化センター】の活動体験が、考える具体的契機となるように思い、今回の副題とした。

2006年、【日韓・アジア教育文化センター】主催で、「第3回日韓・アジア教育国際会議」を、特別講師に韓国の池 明観[韓国の宗教政治学者。1924年生まれ。1970年代の韓国民主化運動に携わり、「T・K生」の名で、日本にも発信し続け、後に『韓国からの通信』との書名で岩波書店より刊行]先生を招聘し、上海で開催した。その時の3日間の会議内容[項目]は以下である。

  特別講演「東アジアの過去・現在・未来」 池 明観先生
  東アジアでの日本語教育の現在 
           [韓国・上海・台湾そして日本の役割]
  日本の高校での国際理解教育
  上海日本人学校での国際教育
  東アジアでの海外帰国子女教育

同時に、上海・香港・台北・ソウルから各1名、日本から3名の、計17名による高校生交流を実施し、共通語を日本語とする彼ら彼女らの姿をドキュメンタリー映画として制作した。題名は『東アジアからの青い漣』(制作者:日本の2人の映像作家)

私たちは、アジアそれも東アジアにこだわった。東アジアに生を享けた者として、アジアを、世界を東アジアから考えてみたかったからである。
東アジアの底流に流れる心を見出すことは可能なのか、可能ならば今もそれを共有し得るのか。その時、日本語教育はどのように機能し得ているのか。

尚、東アジアは東アジアで、東亜ではない。東亜を名称に入れた組織関係者には申し訳ないが、私の中で東亜は大東亜につながり、私たち先人の過去の過誤と重なるからである。
旧知の韓国民団長の「大東亜共栄圏は、その理想にあってはよかった」との言葉も、一応肯定する私ながら、その理想にあっては、ということ自体に日本の純粋性があり得たのか甚だ疑問であるからである。机上の空論としての観念論であったのではないか、と或る自省からも思う。
いわんや現代東アジア情勢に身を置く一人としては、である。

展覧内容に戻る。
先に記したように、展覧会の意図は既に記したが、展示作品、作家は例えば以下の作品群である。ここに取り出す人々は、私の中でとりわけ心引き寄せられた作品の、それも数人の作者である。

Ⅰ.アジアへの再帰における、
雲崗の石窟と日本画家川端 龍子(りゅうし)(1885~1966)や杉山 寧(やすし)(1909~1993)、チャイナドレスと洋画家岡田 謙三(1902~1982)、静物画に採り入れられたアジアと陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)や洋画家岸田 劉生(1891~1929)といった人々の作品

Ⅱ.古典復興における、
中国古代青銅器と鋳造工芸家高村 豊(とよ)周(ちか)(1890~1972・詩人高村 光太郎の弟)、中国陶磁器と陶芸家石黒 宗麿(1893~1968)や中国五彩陶器と富本 憲吉(1886~1963)、また竹工芸家飯塚 琅玕(ろうかん)斎(さい)(1890~1958)、李朝白磁さらには日本の民藝運動ともつながる陶芸家河井 寛次郎(1890~1966)、古代中国漆器と漆工芸家松田 権六(1896~1986)といった人々。

Ⅲ、幻想のアジア
私にとって現代美術は、具象であれ抽象であれ、作者自身の或いは研究者等の解説があって初めて得心への道程となるほどに困惑することが多い。感性と想像力が、それも原初的なそれが、決定的に足りない。ついつい頭で見てしまうのである。観念的になり過ぎてしまう私がいる。作者の説明を読まない限り、アジアがどこにあるのかもわからない。
例えば、こんな風だ。3人の内の一人、山縣 良和(1980~)氏の政治性をもった『狸の綱引き』など。

この展覧会の意図は中国また朝鮮の美術の日本人作家への影響としての「インパクト」を確認し、そこから生ずる中国・朝鮮美術への憧憬を顧みるということなのだろうが、それだけとは思えない。

主催の庭園美術館長の樋田 豊次郎氏は、本展公式書の「はじめに」で次のように記している。

―こうした東洋憧憬は、一九六〇年頃に作品制作の表舞台からフェードアウトしますが、日本美術の根底ではいまも生きつづけているように思われます。―

そして、第Ⅰ部を『アジアへの再帰』とする。
更に樋田氏の言葉を借りれば、「アジアの古典を振り返りつつ西洋化を目指した〔再帰的近代化〕」ということなのだろうが、私はここでの「再帰」との言葉に眼を留めたい。近代化胎動から150年の今日、再度アジアを、その源泉源流に思い馳せる意義を思うのである。その時、私たちの眼前に在るのは先ず東アジアである。
とりわけ若い世代(10代後半から20代前半にかけての青年たち)が探索することで、例えば上記会議で大人たちが発した内容にどう応えるのか、それが、ドキュメンタリー映画の表題を『東アジアからの青い漣』とした思いである。

なお、会議中センターの中国側委員からあった、日本語―韓国語―中国語の高校生による相互通訳の試みと実践は、この会議の豊かさを思わせることとなった。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、人間が人間である限り永遠の真理であり課題である。会議を主催した一人として、映画制作に関わった一人として、アジアを、東アジアを再考し、私の言葉を少しでも紡げられたらとの思いが今も残る。