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2022年6月4日

『老子』を読む(六)

井嶋 悠

第21

 孔徳の容は、惟(た)だ道に是れ従う。道の物たる、惟(こ)れ恍惟れ惚たり、……其の中に精有り、その精甚だ真、其の中に信有り。

◇10代で、教科試験等の解答が複数あると言われると大概は不安で、「試験ではどう書けば良いのか」と詰問し、「どちらでも良い」とでも応えようものなら、相当信頼を失う。何となれば、それで“客観的”評価が可能なのか、となるからである。国語ともなれば尚更で、そこで教師はそのような問題は出さない。仮に無理して出すとしても授業を基に出すが、優れた生徒はそこを突いて来る。
で、両方正解とする。広い?視野で言えば、試験とはその程度のものなのかもしれないが、生徒は真剣である。進路に係るのだから。記号式の問題が、一見客観的に見えるのは、それがあるからだろう。その微妙さの最たるものが「解釈」や「小論文」問題である。生徒は教師が予想した解答を遥かに越えて、あれこれ細かく書く者も多い。四苦八苦した印象批評で、細かく減点して評価する教師は多い。反応を予測し、質問にできるだけ客観的に応える準備をしておかなくては墓穴を掘る。
ただ、多くの生徒は諦めか従順なのか怖いのか…まず聞いてこない。聞いて来るのは相当優秀な生徒か、1点2点に過敏な生徒である。
言葉という客観を介しての、阿吽の情、行間の情。いずれも理知で裏付けされた感性である。国語のおもしろさに行くまでには、相当の人生経験が必要なのかもしれない。

第22

 企(つまだ)つ者は立たず。跨ぐ者は行かず。自ら見(あら)わす者は明らかならず。自らを是(ぜ・よし)とする者は顕われず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。

◇学校世界は閉鎖的で権威的とはかねがね言われてはいるが、教師(多くは高校大学に多いように思うのだが)

で、ひどく勘違いしている人たちに会って来た。但し、これはあくまでも自照自省に立ってのことである。その人たちは、どれほどに私を、人を不愉快にさせたことだろう。しかし老子の教えと無縁な人は、その自己顕示に惑わされ、酔い、ひとときは世間から英雄的に扱われる事例は多い。
と、書くこと自体己が小人性を露呈しているのだが。それでも今もって許せない人はいる。
ところで、幻惑され、陶酔に浸る人が、女性に多いように思うのだが、これはやはり差別の発想だろうか。

↕ ↕第23

 曲なれば則ち全し[曲全の道]、枉(ま)がれば則ち直し、窪めば則ち満つ。破るれば則ち新たなり。少なければ則ち得られ、多ければ則ち惑う。

◇教師は謙虚であることに常に細心の注意が必要である。それでなくとも、「子どもは人質」「教師は教室で殿様・独裁者」と揶揄される教育の世界なのだから。ただ、その謙虚であること=東洋的ではなく、あくまでも日本的ではないかと思う。しかしその考え方は、消極的と負的に言われる時代。時代の変容?それにして声を大にした言葉が多過ぎやしないか。都会の喧騒、孤独。

第24

 希言は自然なり。[無言の言・不言の言]。無為の益。信(誠実)足らざれば、乃ち信ぜられざること有り。

◇「教育」への愛、情熱を持つ人こそ、教師の教師たる根拠であろう。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし、脚下照顧ない教師も多い。どこまでも「センセイ」なのである。生徒を前に延々と喋るのである。饒舌(字的には冗舌の方)。多言。要はおしゃべり。そんな教師を多く見て来た。生徒も生徒、馬耳東風を決め込む“賢い”生徒。苛立ちを具体的行動で現わさざるを得なくなった生徒。
学校世界独特な大人と子どものタテ社会。パワハラが多くで告発されているが、学校社会で聞くのは教師世界でのそれだけのように思える。
寡黙の重み、威風感。ヒトがヒトの中味を知る手立ては、生徒―教師でも同様。先ず直覚そして言葉。

第25

 物有り混成し、天地に先んじて生ず。…天下の母と為すべし。吾れ其の名を知らず、これに字して道と曰う。……人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る[模範とする]。

《中国:木・火・土・金・水〈五行思想〉》

◇日本の教育は、何故をもって日本の、或いはその背景に脈打つ東洋の、中国の古代思想を再考しないのだろうか。英語は戦後国際語の地位を確立しているからやむを得ないとしても、儒教や道教の考え方、感じ方が日常に溢れているにもかかわらず、欧米の教育思想が尊重されている。
その眼で、教育(学校)と自然、子どもの人間形成について考えを及ぼすことこそ現代の課題ではないか。
私自身、インターナショナル・スクールとの協働校でIB(国際バカロレア)なるものを知り、その一端を担い[日本語]眼が開けたが、10年前(2000年)に導入された「横断的総合的学習」の理念と、相通ずることではないか、と思った一人である。しかし、その後「横断的総合的学習」は基礎学力の低下を招いていると批判され、今では見るも無残に無くなっている。そもそも小中高での基礎学力自体曖昧なことで、なぜ導入時にそれを検討しなかったのか、無責任を承知で思う。
このような西洋偏重のその場しのぎの対症療法で、国際社会で日本が生きる道を見出すことはあり得ないのではないか。江戸時代の人の「読み書きそろばん」「お天道さま」との言葉が過ぎる。