ブログ

2014年1月7日

2014年の初めに [海から母を取り戻そう] ―母性と父性の調和から日本を見たい その1―

井嶋 悠

         母性原理:包み込む、絶対的な平等性

                                                     [「太母〈グレート・マザー〉」生命の与え手と死の与え手]

父性原理:断ち切る、分割する

                                                                                                中村 雄二郎『術語集―気になることば―』の中の「女性原理」より

 

正月恒例の「箱根駅伝」で、今年2区の一人の選手が棄権した。原因は右足の疲労骨折とのこと。最近、スポーツ選手の疲労骨折の報が多いように思う。理由のほとんどは、勝つための過剰練習ではないのか。責任の大半は、指導者に、また勝利を最優先するかのような周囲の私たちに(とりわけマスコミやそれを当然の前提で話す大人社会に)ある。
20代を中心とするその選手たちの心に過ること、そしてその後の人生は、一体どのようであろう。

国際化は欧米化(戦後は米化)に見る近現代日本。先進文明国日本。世界の一等国日本。

その西洋文明の土壌にある、ギリシャ文化とキリスト教文化。その両方に共通する男性中心、またその男性による論理(ロゴス)中心の世界。

日本はその土壌を共有しているだろうか。背伸びがあるように思えてならない。
日本神話の祖・天照大神。平安朝の才知。仮名世界。戦場の武士の支え。江戸庶民のバイタリティの源泉。それらがあるがこその近現代での哀しみと憤り。等々。
そこに輝く女性の存在。「手弱女」に書かれる「弱」は弱いではない、その柳のようなしなやかさ。
仏教と自然神道からの、自然とのぬくもりの共生。母の、父ではない、母のぬくもり。

その日本に来た多くの西洋人の日本人評「優しさ」。
にもかかわらず戦時下の大陸での兵士の残虐。求められる父性への、また母性観への厳しい反省。
知るべき第1次世界大戦前後からのヨーロッパ社会を中心とした文明への西洋人の自問と自省。

しかし、今日本はどうなのだろう? そして越境、干渉を承知しながらも世界は?
論理武装の自我とそこから是非、NO/YES明確の二者択一[分割]を秀とし、実益優先の指向。
馬車馬に、多忙に生きることが美徳。企業戦士=カッコ良いとの美意識。
観光客誘致、はたまた世界遺産登録での商魂からの発想。失望する外国人観光客。

ふと過る自身の中での違和感。襲う敗者意識。対人恐怖。

そして思う。日本って? 世界の人達が日本に求め、日本がそう仕向けているものは、相も変わらぬカネ・モノ?

先進文明国にあって10年来最上位を保持する自殺大国日本。(これについては、以前このブログで書いたように私の用語では「自死」であるが、社会による死への追い込みとすれば、犠牲者としての「自殺」?)

日本の疲労骨折危機。
何という無惨。矛盾。歪み。

原発再稼働と海外商談に、特定秘密保護法に、集団的自衛権改訂に意欲を燃やし、発言が端的に示す独善の極みで靖国神社を参拝する我が国の宰相が、得意気に言う、女性の存在と働きの社会に見る旧来の男性優先の軽薄さ。それに付和雷同、賞讃さえする国民の支持率50%前後という数字。
少子化、高齢化の事実の受け止め方と対応に見る、金銭本位、それでの勝利至上主義発想。
何という危うさ、恐ろしさ。

と言っても、私は日本を棄てたい、離れたいとは一度も思ったことはない。

老人の骨折は死に到ること大、で言えば、やはり老いの、周回遅れの戯言なのかとしぼんでしまうが、それでも独り静かに憤り、三好達治の詩「郷愁」の一節を思い浮かべる。

    ―海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。

     そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

        注(井嶋):母の旧漢字は 現在の新漢字では、一画減って  旧漢字から新漢字は戦後の施策
フランス語では、母は[mereメール]、海は[merメール]
尚、「毎」には、広く深く暗いの意があるとのこと。
私たちは、母の胎内から出でて光を得たことを思うと、一層、古の人の叡智に思い到る。
それに、ビーナスは海の泡から生まれ、あこや貝に乗って陸に着いたというではないか。

人と言う動物は、或る壁にぶつかり不安を直覚すると後ろを振り返るという。
立ち止まり、省みる勇気。

夜[女性原理・母性原理としての月]の静謐な心の時間。
必ず訪れる朝(昼)[男性原理・父性原理としての太陽]の躍動する身の時間。

両者の調和が奏でる一日、一月、一年・・・・。そこから生まれる品格、重み。

根底に脈々と流れる日本の、先人の心、風土、歴史、伝統、そしてその自覚があっての革新。

その時、私たちの周りには、老子・荘子の「道、玄(牝)、妙、無為」や、インド人が考えた「ゼロ、無にして永遠」や、仏教の「中庸、敬和」や、禅宗の「不立文字・以心伝心」や、日本の「自然信仰、八百万の神信仰からの無神観」、と【両原理の調和】を探るテキスト、それも東洋発のテキストが、溢れんばかりにある。

折々に、それらから直覚的に響いたことと私の人生また教師人生からの体感、実感を、私の或るまとめとして書けたらと思う、2014年正月です。