ブログ

2014年6月20日

娘の死が導き気づかせた「母性」のこと ―日本社会の根幹は母性である……― その3 「母性が始めにあっての日本、また世界と現代」

井嶋 悠

前々回の[その1]で、識者が言う「父性」とはほど遠い私は、天が与えた娘の死をひしと受け止めた母親に接し、そこから「母性」について書いた。

私は、エディプスコンプレックスで言う性〈セックス〉での“マザコン”ではないと思う。しかし、私が“心に恋う母”の欠如、と言う意味ではマザコンかもしれない。
その母は、5年前、生涯ほとんど孤独の人生を終えた。最期を看取ってくれたのもカミさんである。

私は、娘の死に会わなければならなかった母親を間近にして、母性の、自身何ら意図的でない、自然な流露のしなやかさ[強靭]に生きる源泉を思った。
老子の言う「水」の最上善。

そしてそこに日本を見、私を重ねた。

何という遅れ馳せ。私の稚拙な68歳に到る成長。

母性は、女の生理と身体を土台にして、出産や子どもの有無とは関係なく、人間の、他の動物も含め、心性の根源を表わすに到っているのではないか。
だから、母性は男にもあるはずだ。

日本は母性の国、との言説に接したことがあるが、確かにアマテラスオオミカミ(天照大神)であり、卑弥呼であるのだが、その日本を越えて世界のすべてが母性を土壌としているのではないか。

グレイトマザー、母なる大地、海には母がある。父にはそれらはない?

もっとも、西洋文化の土壌の一方、ギリシャ神話では、最高神は男性で、キリスト教では男のあばら骨から女が創られたことになっているが、見ようによってはそうとでもしないと存在感が無くなる危惧を、西洋人(びと)は持ったのかもしれない。

仏教の大慈大悲の象徴“観世音菩薩”は、一見女性ではあるが、女性男性を超えた存在ではないか。

日本の女性史学創設者である高群逸(たかむれ)枝(いつえ)(1894~1964)は、女は単に「自我」ではなく「母性我」であると言ったそうだ。
女性は、胎内に子を宿し、10か月(300日!)余りの心身苦闘の中で育み、新しい命に光を与える歓喜を思い、痛苦を忍び、世に送り出す、その力、命(めい)を例外なく有している。(その行使の有無、またそのことへの拒否、更には意志があってもできない問題についてはここでは今措く。)

その1.で言った「動物的に、忍苦し、整理し、決断し、自身を生き、と同時に身内を守る」その性(さが)、天性を内に秘める決定的裏付け。
それは神の業である。老子は「玄(げん)牝(ぴん)」と言った。そこから生まれたのが母性である。宇宙的なのだ。
男性にはない。男性はただただ待つだけである。
しかし、繰り返すが、母性を我が[男性]事として言えないということはないはずである。それは絶対公正であるはずの神の、天の意志[摂理]にもとる。

歴史は、争い・戦争で創られて来たと言っても過言ではないから、そこでは肉体力に勝る男性が主導し、制度を作り、支配被支配を作り続けた。それが歴史の表になったが、それは裏で支え、或る時は「自由の女神」が表わしているように、導いた女性があっての結果である。

男女優劣あろうはずはない。そもそも人間の根源に優劣などない。
にもかかわらず厳然と在る男優位の矛盾。表裏一体、表裏一如の一方的破棄。

今、問われていることは、日本だからこその思いも込めて、自然な流露としての母性の再考ではないかと思う。先ず母性。父性はその後で十分だ。ロゴス・言葉は人為、それも男の、なのだから。

それは、高齢化、少子化日本にあって、その現在と未来像への意見噴出の今、日本の成熟を考え、構築する絶好の時機との考えとつながっていて、「マグロ的生き方」に、虚偽と疑問を持つことの大切さに、自省を込めて与する(くみする)一人としての私の思いである。
いわんや巨大な天災と人災を、わずか3年前に経験した日本人として。

これは、母性に係る政府、行政の対策は、「カネ本位制社会・主義」での、あたかも戦時下の『産めよ殖やせよ』と同根としか言いようがない、との思いとも重なっている。

産みづらい社会環境の根源的改革への意思表示と国民の意思を問うことなくして、政府、行政世界の、それを支える人々(ほとんどは男)が、己が絶対、選ばれし先導者意識そのままに、女性の「産む・産まない」について、憂国、危機感を漂わせ、口出すことの驕りと寂しさを思う。
私が、自照自省し、自身を痛罵することでかろうじて指摘できる教師の独善と同様に。

頻りに言われる「男女参画」云々が、旧来の、上からの、男社会からではない男女全く同じ地点に立ってのそれなのか、心の深奥での確認を私たち、とりわけ男、はしているだろうか。
していれば、今、得意気に言われている女性の社会的進出促進とそのための保障に係る、世界の中での後進性の現実という齟齬はとうに解決していたのではないか。

現女性政治家は、どのように思われるのだろうか。

男女が、文字通り相補われていれば、例えば産休(先ずは女性の)など、何を今さらの自然としてあると思う。

(これを寄稿する準備をしていた昨日[2014年6月19日]、東京都議会で、男議員の下劣、醜悪が報道された。科学を誇る時代、発言者は簡単に特定できるはずだ。  氏名と所属と写真を公開し、政治家の好きな「発言撤回」で事足りる悪弊ではない、明確な謝罪があって然るべきである。)

ふと、紀元前後の思考、ギリシャの「哲学者と政治家」のこと、中国の「小国寡民と理想郷」のことを、現代的に考えることの是非、可能不可能に思いが行く。
これは、私の“後ろ向き”の表れなのか、天井桟敷からの勝手な思いなのだろうか。しかし、天上桟敷にこそ人の真実が在るとも言うではないか。

とまくし立てる私は、女性解放運動家(と言っても多様だが)の積極的な擁護者でもない。かと言って反対者、忌避者でもない。
解放運動、思想研究に携わる或る女性発言者への私の誤解による憤激を怖れずに言えば、解放運動家のその女性が、「解放を公正な権利を勝ち取る」と言うとき、どこか違和感を直観するという、それと同じような意味で、今風に言えば女性解放運動者や思想家への共感者の一人かとは思う。
次回、東アジアの自殺にも少し触れ、今回の「母性」についての私感を終えればと思っている。