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2014年7月2日

娘の死が導き気づかせた「母性」のこと―日本社会の根幹は母性である……― その4 「次代日本への期待と不安―母性私感の終わりに―」

井嶋 悠

2年前2012年4月、23歳の娘との永訣が、私に雷光を投げつけ、私が私を照射し、生きんとしているとは言え、あまりに分弁(わきま)ずで、しかし、その「分」などわざとらしさであってどこにもあろうはずはないと居直り、彼女の最期の7年間をひたすら支え続けた母親から肉感させられた【母性】のこと、母性はやはりこの“苦”の世界・人間(じんかん)に和らぎを与える源泉ではないかとの思い、を書いた。

一つは、日本人が「母性」を考えることでの世界への貢献への期待、であり、
一つは、その「母性」は、=「女性」ではなく、「男性」にも確実にあることの自照自覚への期待であり、(と同時に、「父性」=「男性」ではなく、「女性」にも確実にあることの自照自覚への期待であり、)
そこからの男女相補い合うことでの、男・女同じ地平に立っての「男・女参画」であり、「男・女共生」への期待である。

今私たち夫婦が住んでいる処は農業地帯で、老いた農夫・農婦が田畑で仕事をしている姿をよく見るのだが、例えば草刈りで、老農婦はかがんで一つ一つ根気強く抜き取っていて、老農夫の方は突っ立ち機械で一網打尽的に刈り取っていることがほとんどで、腰がほぼ90度近く曲がっているのは概ね老農婦で、それが何を表わしているのかを考えての、そこからの相補い合いへの思いである。

ところで、抽象された言葉への発話者の定義(例えば、学校)や、形容された言葉での発話者の具体(例えば、優れている)との相違から生ずる誤解を私たちは数限りなく経験し、辛酸をなめている。
しかし言葉を離れて生きることはできない。
その克服の最良は孤独である、と聞かされ、なるほど、とここ2,3年、とみに思う。

その昔、新約聖書『ヨハネによる福音書』第1章第1節の冒頭「初めに言葉があった」の、「言葉」を「LOGIC・論理」としてある英語聖書に接し、大いに納得したことがあった。
聖書では、その後、「言葉は神とともにあった。言葉は神であった」と続く。西洋文化の基盤(論理)の一つ言葉の重み、絶対性。

日本は、どうなのだろう? 韓国・朝鮮は? 中国は? 更には東洋は?

母性・父性・女性・男性についても同じで、あれこれ言葉を尽くしても、核心での共通理解は成り立ち得ないとは思う。
しかし、一つのまとめとして、中村 雄二郎氏(1925年生まれ・哲学者)著『術語集』の「女性原理」の項を参考に、強引に、且つ簡単に整理しておく。

母性原理(≒女性原理):絶対的平等性に立った包み込む直覚的自然感性、それがゆえの人為としての社会との間での葛藤、苦悶、またそこからの歓喜。

父性原理(≒男性原理):相対性に立っての断ち切る、分割する思考的理性、それがゆえの論理との葛藤、苦悶、またそこからの歓喜。

ここで、この二つの原理を、社会の縮図である学校教育に、次代への期待を込めて当てはめてみる。

以下の引用は、1996、年中央教育審議会(中教審)が文科省に提出し、今も有効性を持つ第1次答申である、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の一部である。

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、
また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやるや感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

ここでは明確な日本の国家像がないのでなおのこと、その抽象語と形容語の多さから、分かって分からないあいまいさがあるが、ただ波線部は母性原理と父性原理の調和の必要を言っているのではないか。
日本の小中校、更には高校での、実社会で生きることをより意識した時の、母性原理圧倒の是正と父性原理との調和の必要、の指摘として。
それは、教師生活最後に経験したインターナショナルスクールとの協働校での、欧米世界(英米の英語圏?)の学校像としてのインターナショナルスクールでの、父性原理優勢世界との違いでもあるように思える。

(こういったことも、例えば大学進学後の、少子化と大学全入時代と益々強くなるかのような大学格差、学歴偏重の現代、教師と学生間の戸惑い、乖離、また大学教員の旧態然とした悲嘆の原因があるように思える。)

そして日本は、どういう像に向かおうとしているのだろうか。

近代化の負の象徴である人災・福島原発事故(水爆事故)から3年!経った今。

私が思う現在日本への、そしてそれを導く政治家や官僚や学者や財界の一部?への思いは、何度も記しているのでここでは割愛し、文末に要旨を記しておく。

この母性再考・父性再考は日本人ゆえの、勝手な、或いは特殊な言い分なのだろうか。
確かに、ギリシャ神話だけでなく、中国の、韓国(朝鮮)の神話[天地・世界創成]でも主体は男神であるが、どうなのだろうか。

12世紀の武家政治への大きな転換に始まり、明治維新、「脱亜入欧」による富国強兵、殖産興業の近代化への猛進。「大東亜共栄圏」の矛盾と崩壊、太平洋戦争での敗北後、勤勉と技術力に朝鮮戦争、ベトナム戦争での戦争特需を得ての半世紀足らずでの驚異的発展。
世界に冠たる経済大国の誇り?「国際」社会のアジアの代表?世界のリーダー?的自負を思えば、この母性再考・父性再考は、勝手で、特殊な言い分なのかとは思いつつも、日本だけの特殊性とも思えない。

江戸時代の人々の、生活、文化が、様々な抑圧、差別また鎖国の問題等負の側面があったことを承知の上で、例えば庶民世界の夫婦とそこでの妻の存在の大きさ、強さや、文学、美術、演劇、芸能等に見る“日本性・日本的”確立と成熟が、今、世代、男女を越えて多くの日本人の憧憬の対象となっている、その心に流れているものは何だろう?と思ったりすることともつながっている。

しかし、否そして!? その日本は、2011年に10年連続年間3万人を切って第2位ではなくなったが、今も世界第8位の「自殺大国」である。
(尚、昨年、このブログに「自殺」について寄稿した際にも触れた用語について、死の尊厳との視点からすれば「自死」と思うが、ここでは、自身が自身を殺す、という  激しさを意識して「自殺」とする。)

一体、なぜなのだろうか。

「人が国を創る」ではない「国が人を創る」が、顕現している証しではないかと思う。

日本人の自殺について、国際的に移動、活躍し、大国日本を牽引して来たことを自負する日本人男性の言葉「自殺者は自業自得である。」の尊大、傲慢。また、
西洋文化圏に在留経験を持つ日本人女性(母親?)の(キリスト教受洗者とは思えない)言葉「欧米では自殺か禁止されていますから」に見る劣等心理。

これらの人の「母性」や「父性」が在る限り、日本が自殺大国から解放されることはないと思う。

フィンランドの教育が、ここ何年か高い評価で日本に紹介されているが、そのフィンランドも以前は、自殺の多い国としてあったところ、国が率先して国の方向性を是正することで自殺が減り、併せて教育の充実が実現した旨の文章に触れたことがある。
対症療法ではそれは為し得ないであろう。

日本にとって、非常に具体的な示唆になるのではないだろうか。

そして隣国の一つ韓国は、その日本に代わって2011年第2位で、もう一つの隣国・中国は、統計数字がないが、農村部では多数の女性の自殺があると言われている。
男女比を見ると、日本の場合、約6割は男性で、概ね3か国とも男性が上回っているが、韓国の場合、20代では女性が上回り、中国では上記のことが言われている。

そこに、現代国際化[或いは欧米化]と、その競争化と、東アジアの歴史に堆積されている精神性を、それも「母性」と「父性」から考えるのは、余りに強引な牽強付会というものだろうか。

最後に、国内外で大きな足跡を残した禅思想研究者で、「日本的霊性」を言った、鈴木 大拙(1870年・明治3年~1966年・昭和41年)の、『東洋的な見方』(1997年刊)から引用して終える。

東洋は母性愛を理想とし、西洋は父性が好いという風になっている。西洋では、東洋人は女性に対する敬愛を欠いている、と考えているのが常識のようだ。
が、ある点から見ると、女性を全体として見ることはどうか知らぬが、母性に対する敬愛の心情は、東洋のほうがずっと優れている。(1959年)

因みに、2010年に来日し一世を風靡した(今も?)、ハーバート大学・マイケル サンデル教授[政治哲学者]の東大での12回連続講義の内一つは、「代理母」の問題を主題に、尊厳、崇高と言った言葉を使って学生と対話し、母性愛を述べている。(『ハーバート白熱教室講義録 上』(2010年刊)

 

備 考

 

【私の現代日本への懐疑のこと】

日本国の在りようを、文明を問う意見は、どんどんかき消され、いつしか経済最低現状維持、否、是が非でも向上に向かわせることこそが次世代日本の幸福であり、
そのためには増税が必要不可欠で、
高齢化、少子化と今後の展望にあって、年金等社会福祉の現状維持のためには経済復興が最前提であり、と
首相はトップ外交と称して、1回数千万円の国税を使って、原発建設等売り込み、
日本への投資を「もうかる国!!日本」へ呼び込み、
海外経済援助を各国・地域数百億円単位で約束し、
担当大臣が行っているにもかかわらず国際会議に出席し、
中国からアメリカの批判は率直であったが、日本は何が言いたいのか分からないと一笑に付され・・・・・。

それでも内閣支持率は50%を超えている、要は「カネ本位制社会」の、その日本とは一体何だろう?と、貸借等差し引いての負債が、あのギリシャに次いで世界2位の国の一人として思う。 (負債は約14兆円、単純計算で国民一人約792万円とのことだが、識者に言わせれば何ら心配はないとか)

「衣食足って栄辱を知る」は、現代世界状況からも大いに説得力を持っている言葉であるが、では「日本人にとって“足る”の水準を、誰が、どのような基準で言うのだろうか。
「正解」などあろうはすもないが、と同時に古今東西人間のモノ・カネ欲望は果てしない俗物恐怖を承知していながら、それでも今の日本の、例えばテレビ情報からの感覚は、少なくとも私の感覚からは確実にずれる。
私の周辺の、生活実感を直接知る主婦であり、母である女性たちは、言っている。それもかなりの質・量で。

「日本はひどい国、さびしい国」と。

でも選挙をすれば……。

更には、東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、都心に建設する高層ビル構想の発表での、都知事(男)の「パリのシャンゼリゼ通りのような」旨発言。
私は偏狭なナショナリストではないが、この下品、下劣、無節操なまでの淫靡(いんび)さはもうほとんど最低品位ではないか。
ビゴーは墓の下で、ほくそ笑んでいるのか、絶句しているのか。
発言者は、高学歴の、以前国務の大臣も経験した、良識派と言われている人物で、その言葉の後ろには国や都を主導する政治家が居て、官僚が居て、学者が居て、財界が居て、そしてその発言を嬉々として擁護するマスコミ人が居て……。
もっとも、その人は、お粗末で辞職した前知事の後継として急遽選挙に出馬したのだが、かつて離党したその党からの支援を得るための集まりで見せた、あの平身低頭、腰つき、表情そして言葉を知れば、まあ分相応の発言なのだろうけれど。

そして、2020年に向けて、ますます決定的になる、地方と大都市圏(とりわけ首都圏)の生活観、人生観、価値観の格差の拡大。
地方の青少年の「負けるものか」「追いつけ追い越せ」の疲労困憊と自暴自棄の懸念……。杞憂?

 

そして昨日(7月2日)の「集団自衛権」の「閣議決定」。
首相曰く「平和を貫く」。世界で、戦争を求めている人はどれくらいあるというのだろうか。
人間がいる限り戦争はなくならないからこそ、その人間が、20世紀は戦争の世紀だったとの反省の下、平和を創る至難さに取り組んでいる中での、軽薄そのままの発言。

なんでことさらそのようなことを言って、拙速に閣議決定をして、英雄!?になりたいのでしょうか。

国民の半数が、懸念を表しているにもかかわらず。

ひょっとして、北朝鮮の、中国の、更にはイスラム圏の決定的危険な動きを把握していているのでしょうか。
アメリカの「正義」に追従するのではなく、日本の平和構築に向けた独自性を、どれほどの国・地域が敬意をもって視、承知していると思っているのだろうか。

それに関連して、現与党国会議員二人(男性)が、「憲法第9条にノーベル賞を」との、或る日本人が主唱者である運動に署名したことを指摘され、あわてて取り消した時の言い分の唖然呆然おぞましさ。要は内容など精査せず署名したとのこと。署名って、そんなもの?組織、団体の、あのハンコと同じく。

私たちは、首相を、絶対的権限をさえ有する「大統領」とは思ってもいないし、いわんや絶対君主として観たこともないのだが、現首相は、自身をそれに相応しい人と思っているのだろう。
権力を志向し、そこに快感を覚え、表では「国民のため」と美辞麗句を並べ、裏では策を弄し、保身と更なる権力に向かう質(たち)の人は政治家に限らず、世は「政治言語の世界」で、教育世界も例外にもれずで、そんな人たちを何人も見て来て、私は今ここに居る。