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2015年4月24日

菩提寺(京都)への墓参と法隆寺訪問 [その1]

―私の日本人人生と「おもてなし」と「人のふり見てわがふり直せ」と―

井嶋 悠

娘の四回忌(4月11日)、墓前での追悼を願い、彼女の姉(水子)、伯母(私の妹)そして父をはじめとする井嶋家の人々の無窮の平安の起点、菩提寺(京都市内)に妻と愛犬と共に昨年と同じく車で出かけた。
(代々の流れからすれば「帰った」なのかもしれないが、父も、離婚した生母も既に恒久平安を得た今、義母は関西で存命とは言え、やはり「出かけた」「行った」なのだろう。)
滞在拠点は、これも前回同様、奈良県I市の、法隆寺にほど近い知人宅。

年年歳歳、その哀しみは重層化し、時にこれまでにない激しさで、間欠泉のように全身全霊に噴き出す。
何もなかったように振る舞っている“江戸っ子”の母親は、母親ゆえの激烈さがあるにもかかわらず、その重層化と間欠泉を「そうよ」と、さらりとつぶやく。

私は、親としての、教師としての、娘への贖(あがな)いと自省の、勝手な鎮魂、拙悪文を1昨年から、1994年に始めた日韓交流の発展組織『日韓・アジア教育文化センター』の、【ブログ】の場を借りて、寄稿し続けている。
それは、私の70年間の人生と33年間の教師人生(私立中高校数校)から得た言葉である。ただ、怠惰な私だから言葉は浅く、語彙は少ない。しかし、“私の言葉”である。
だから、言葉の土壌は学校教育であり、その後ろ側に在る日本社会である。
その時、私は日本人の責任で日本の批判はするが、外国・地域の批判をしないよう努めている。それは私の言葉になるかならないかと関わって来るので。
これは美点についても同じで、体験的真実を直覚しない限り軽率に言わないようにしている。

何でも近年の作家は読者を想定して日記を書くそうだが、私にはそれほどの意図性はないとは言え、外に発することでの他者の共感を期待していることは否定しない。
そして幾ばくかの読み手に恵まれる幸いを得ている。
当然、切って捨てる人もいる。そこには旧知の人もいる。私はその時、娘を思い浮かべ、対話し、静かに受け流している。
もっとも、イジメの最も強い形は無視〈ネグレクト〉であることを、娘の経験と併せて私なりに理解していて、そういう視点からすれば反応があること自体良いことなのかもしれない、とも思っている。

今も現役で日々厳しく精進し続けている同窓が、共感、共振し、生きる励みとさえ言ってくれている喜び、感謝を力にもう少し続けたい、と言い聞かせて現在に到っている。
娘は、苦笑し、肯(うなず)いてくれていると信じている。

世界で、日本で、今も昔も、幼い子が、若い人が、病で、事故で、事件で、戦いで、自己選択で、どれほど天に旅立ったことだろう。
その天文学的哀しみの数字。
消されることのない身内の、友人の、絶望的哀しみ。
それでも、私たちは今も、平安を求めて彷徨(さまよ)う。
平和を訴える。実現すると信じて。しかし心のどこかでそれがないことも直感して。
人が人であることの何という哀しみ、寂しさ。
勇気ある人々は、それでも愛と平和を唱え、時に声高にうたう。そのために命を奪われた人々の多さ。
日々、まとわりついて離れない欲望を今もって清算できない私がゆえに、より迫る虚しさ。哀しみ。
そして死の永遠の静謐を想うこともあるが、そこに踏み込むことなく日の出を待つ。

生きることの凄み……。

そんなとき、無常と言う言葉がふと脳裏をかすめる。
多くの先人は言う。諸行無常。「はかなさ」「むなしさ」。そしてそこを基点としての生と死を。
しかし、それは個を措いた観察なのではないのか、もっと言えばそれは、命の終着に近づくことでの心と体の萎え衰えを覆い隠す自尊と哀しみと慰めからの人間ならではの美的表現なのではないのか、
無常とは、生きる痛快の源のはずなのではないか、と奇っ怪、屈折して思う私が今もいる。

教師時代(それも前半時代)、例えば『徒然草』鑑賞で、解説等に説かれている言葉「無常」を生徒の前で発するとき、それが自身の言葉でない違和感があった。いわんや高校生の多くは。
知・情・意としての人と理解に改めて思い到る。かてて加えて、“美”とか“善”は人間だけの心の働きではないかと思う私もいる。
しかし、季節の移り変わりに、とりわけ春から初夏の激越な自然の変移に、心身力みなぎる若者でさえ、否だからこそ、自然と歩調を合わし得ない事実を前に、私の能天気はたちまち露わになる。

私は、寝食共にする愛犬に問い掛ける。「どう思う?」
愛犬はいぶかしげな表情で私を見つめ、応える。
「一分一秒一生涯。他に何が?自然に任せよ」と。
愛犬の風貌に老子の面影が重なって見える……。

そんな私は、近年、日本は変な方向にひた走っていると思う一人である。
これはいつの時代でも繰り返される老人の愚痴に過ぎないのかもしれない。しかし、同世代とは言え、同意する人は私の周りに確実にある。

「変な方向」の具体的なことは、これまでに幾つも書いて来たので繰り返さない。
要は、私たち日本人の心に連綿として息づいて来た(はずの)、人への、万物・森羅万象への慈しみの情が枯渇して来ているのではないか、そして
言葉は概念化し、知識の一面非情冷然化し、情報過多社会も手伝って奇妙に装飾化し、現代日本社会の虚飾を覆い隠すほどに堕してしまったのではないか、との思いである。
それが、とりわけ立法と行政を司る、支える人々に顕著に思え、それを伝えるマスコミも教導精神?のなせることなのか、先の人々と結局は同じ穴のムジナ、そこでは私たちを軽侮した憐憫が見え隠れする。

先に言った同意者の近しい年金生活者の一人は言う。

「政治家は、きれいな言葉を誇らしげに並べ立てているが、老人はさっさと死ねと言っているとしか思えない。」と。

これは、年金生活者となり、多くの人達の無形有形の助力で田舎暮らしをしている果報者の私であるが、今の政治主導者たちの言う「国民」とは、政府による選民を言っているとの思いと、同時に「強い日本」が戦力と物質文明での指向であるとの思いに、私の中ではつながっている。

明治維新からの近代化が、太平洋戦争の敗北が、戦後の復興過程が、現在の私たちに何をもたらし、何を促したのか、そのことに世界の、アジアの一員としてどれほど真摯に向き合って来ただろうか、
また少子化と高齢化の事実が、「人の、或いは日本人の生き方」と言う時の「人・日本人」に、どのような正のエネルギーになるのか、それ自体ナンセンスな問いなのか、と一層の不遜を承知で思う。

ところで、これらのことは娘が、20代の生前、よく口にしたことでもあった。

時候もあってか、菩提寺は京都・四条烏丸に近く、四条河原町近辺は国内外の老若観光客で溢れている。疲労困憊の表情を漂わせた人もかなり多い。
知人宅からは私鉄と地下鉄を乗り継いでいくのだが、二つの光景から、かの「おもてなし」との言葉を思い出した。

(尚、私個人は、この言葉の今の用法由来である、東京オリンピック招致にはそもそも懐疑的だったし、流行語とまでなったのは、あくまでも日本のマスコミの商業上の戦略・操作と思っている一人で、この言葉が、東京決定に影響したなどとは委員(理事?)の名誉のためにもあり得ないと思っている。スピーチで言えば、高円宮妃久子さんと佐藤真海さん(とりわけ佐藤真海さん)の二人の女性の存在が、周知されているように私も決定的であったと思っている。)

「人のふり見てわがふり直せ」、首をかしげたくなる電車内での、中高年者の二つの場面。
一つは、座席の座り方。
どう目測確認しても7人掛けのところに、堂々と(余裕をもって?)6人で座っている中高年。
まるで隣人と触れることでの病原菌伝染を怖れるかのように。

一つは、携帯電話の呼び出し音がしたその方向への殺意さえ垣間見せる視線の中高年。
か、と思えば、呼び出し音以上の大きな声で会話し、時に哄笑する中高年。

因みに、中高年の若者批評に多く見られる言葉は「かわいそう」「なさけない」、と私は思うのだが、先の二つの場面とこれらはどうつながるのだろう?

後景に見えるキャッチフレーズの入ったきれいな写真広告。曰く、
「日本に 京都があって よかった」
「いま ふたたびの ならへ」

おもてなしは、言葉を介しての、或いは言葉を越えての、人と人の心の和(なご)みの通い合い。
どんな日本人が、どんなおもてなしをし、どんな観光客が、どんな心で受け止めているのだろうか。
観光客招致での官民一体の大合唱。時には「爆買い」との言葉も生まれ。

40年ほど前の、修学院離宮での、1組の中年の西洋人男女を含めた20人余りの日本人グループでの見学体験を思い出す。
そのグループガイドの、かなりの声量で、ジョークも交え、饒舌に(途中から雑音に思えて来るのだが)話す日本人青年(男性)。
始まって10分ほど経った頃だったろうか。その外国人が言った。日本語で。
「静かに話してください。余計な話はやめてください。」

立法、行政担当者、観光業者、マスコミは、日本の何を伝えるためのおもてなしをしようとしているのだろうか。
政治失策による国民生活・福祉の財源不足を補填しようとしている、とは考えられないが。

私は一応“京都っ子”のはしくれと思うが、京都の“観光地”(新観光地化した市民生活場所も含め)に行きたいとは思わない。
疲れるための旅が旅とは思わないので。
それにしても先の京都のキャッチフレーズの激しさ、もの凄さ。私でも恥ずかしい。

滞在中、法隆寺にも行った。
作家・坂口安吾(1906~1955)の『日本文化私観』の一節、

「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。」

に、考えることを強く促された私としては、他の先人と法隆寺或いは奈良(大和)のことと併せて私の言葉が綴れたらとの思いがあるし、また、
幾つかの地方から来ていた中学生修学旅行生徒との心和む出会いもあり、そのことを後日のどこかで、[その2]として投稿できればと思っている。