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2015年6月17日

生きて在ることの情感 ―ささやかな映画好きから―

井嶋 悠

【夢】

辞書で確認すると4項説明がある。『現代国語例解辞典』(小学館)から要点を引用する。

1、睡眠中の現象
2、ぼんやりしたことの比喩的表現。(例:夢か現か)
3、将来の希望。
4、現実の厳しさから隔絶した環境、雰囲気。(例:夢を与える仕事)

ここでは、3、の意味を主に、いささかの1、の意味も視野に入れて使う。

映画は夢工場と言われる。
私はその映画好きの一人である。ただ、世の自他とも認める狂的なまでの博識ではない。
そもそも夜の思索は正負紙一重で、69歳ともなると、昼寝はさほどでもないが、これまでの生への天の戒めか、己が過去の醜悪を曝け出すような夢、悪夢をしばしば見る。
それを没却に向けるのではなく自省整理し老いの生での夢を描きたく、昔とは違う心模様での映画鑑賞が増えている。
心の浄化、カタルシス。

その度合いが強いほど、その映画は私の名画である。だから若い時と今では私の名画は時に変わる。
ただ、共通することは、そこには美と真に激しく私を引き込む内容と技術がある。芸術としての映画。芸術映画・商業映画といった表現があるが、その定義は確定的ではないと思っている。
娯楽、趣味。生へのエネルギー源としての芸術。

暗闇の中で独り光と影・映像に吸い取られる愉悦は、“中毒”症状とはこのようなものだろう。
鈴木忠志さん(1939~:1960年代以降の現代演劇界を代表する劇作家・演出家の一人)が言う、

「演劇を観ることは立ち会うことで、映画は鑑賞する」と。

ささやかな体験ながらなるほどと思う。

「鑑賞する」。
どこか理性を働かす自分がいる。だから、つまらなければさっさと退出する。前に生きた人はいない。
「立ち会う」。
劇場空間の一体化は映画の比ではない。つまらなくともとにかくそこに居ようとする。眼前の演者のへの無礼が過るから退出しにくいこともあるが、視線を変えることで時には思わぬ発見もする。疲労感も映画の比ではない。

私は、「鑑賞する」人間なのだと今再確認している。
分析心理学者で精神分析医の河合隼雄(1928~2007)は、「暗さに耐える人にのみ、シンボルはその真の姿を開示してくれる(19世紀の合理主義に対して、シンボルの再生へと決意する現代人の在り方)」と言う。そんな言説に自身を重ねるこじつけをして、自己得心をしている。

小学校1年生前後に校庭の仮設スクリーン(白い大きな布が風に揺れ動く光景が今も甦る)以来、国内外のさまざまな映画に出会って60年余りが経つ。
心揺り動かされた初めは、単身赴任した父が夏冬の帰省時に連れて行ってくれたウオルト・ディズニーのアニメで、それが2年程続いた。
その後、“大人の事情”で東京の伯父伯母宅に預けられ、20代まで空白である。
そして、私にとって“凄い?恐るべき?”時代の20代後半に、二つの映画に打ちのめされる。出会ったのは1970年前後。
池袋・文芸座終夜上映での“健さん”興奮に馴染めない、どこか違う私を探していた、要は怠惰なだけなのだが、日々で。

一つは、『薔薇の葬列』(1969年・松本 俊夫監督)。
一つは。『かくも長き不在』(1961年・フランス映画、アンリ・コルピ監督)

その時、既に生の寂寥を直覚していたのかもしれない……。頭でっかちにして薄っぺらな理知?性で。

生々流転、気づけば今夏古稀を迎える、
その不可思議な心持ちを大切に観続けている。ただ、或る時期以降、ひたすら通信レンタルで。
そこには、今の地方在住とは関係なく、私の芸術体験環境嗜好と無精が、そうさせているのだが、映画の終日自由席、同一料金の観放題(時に喫煙放題も)で映画体験をした者の追憶と感傷(センチメンタル)がある。現行方式一回性で且つ高価となればなおさら、である。
座席、設備の高級化など私からすれば本末転倒で、だから非現代人、それも高齢者群、なのだろう。
映画に限らず芸術享受は自由に解放された“私”があってこそで、私は“晴れ”が入ることを嫌う。

私に残された時間の有効利用の知らず識らずがなせることなのか、借り出すときは、あれこれ手引書(例えば、『日本映画ベスト150』とか『洋画ベスト150』(文春文庫)や2000年以降、最新作品情報等)を羅針盤に、昔心揺さぶられた作品ももちろんのこと、鑑賞している。

そんな私が、今行き着いた最高傑作は、小津安二郎監督『東京物語』(1953年封切)。
そこには、小津・野田高悟作品に見られる私には少々抵抗感のある“プチブル”性は影をひそめ、片意地張ったセリフもなく(かの香川京子さんのセリフがどこかとってつけた感さえ)、少なくとも私の命の律動に合った間があり、演者も、スタッフも、すべてが確かな信念と技量に裏打ちされた粛然(しゅくぜん)さ、飄然(ひょうぜん)さに溢れている。
監督、脚本家、カメラマン、照明、美術、音楽担当者をはじめとする数十人のスタッフ、演者(笠智衆・東山千栄子・原節子・杉村春子・中村伸郎等々挙げれば数限りないそうそうたる顔ぶれ)の厚い紐帯。
それぞれの“プロ”たちと小津安二郎の巨人格の調和(ハーモニー)。総合芸術の醍醐味。
だからこそ、今、私が私を顧み、切々と直覚する人生が伝わって来る。
叙事があっての叙情。感傷ではない、叙情。

親子、兄弟姉妹。老若。心つつましく生きることと今日(きょう)生きることの懸命、切実。にもかかわらず新旧世代の行き違い。色濃く反映する時代様相。未来永劫のテーマ、時代と人の関わり。しかし、底流のどこかで直覚するつながり。伏流水のように。
ふと過(よぎ)る寂しさと哀しみと、それらを濾過し得たこその安らぎと幸いの感触。
日本(的)と限定しない共有性を思う。人生の重さ、深さに異文化があろうはずもないから、当たり前のことだけれど。
とは言え一方で、「日本的」「アジア的・東アジア的」「欧米的」……なるものもどこか感じながら。

その日本的に関して。
小学校等での音楽教育で日本の童謡(唱歌)授業が無いに等しいと聞く。
フランスの音楽家ジャン・フランソワ・パイヤール(1928~2013)が1959年に創設し、世界に大きな感銘を与えたパイヤール室内管弦楽団は、どんな心で日本のうた(例えば『浜辺の歌』『椰子の実』『夕やけ小やけ』等)を演奏したのだろうか。
ドボルザークの交響曲『新世界』の第2楽章は、常に演奏され、愛聴されるが。
練達な外国語能力とはほど遠いにもかかわらず、人と人の心の逢着、その響きをわずかながら体験した私は、だからこそ「日本的」「アジア的・東アジア的」……の再確認の必要を思うし、そこからそれぞれの独自性、個性と普遍性を確認できるのではないか、にこだわっている一人である。

一つ、アメリカ映画から採り上げる。

1981年制作の『黄昏』(マーク・ライデル監督)[主人公(父親役)のヘンリー・フォンダの遺作。実の娘ジェーン・フォンダが映画化権を買い取り、軋轢の多くあった父、ヘンリー・フォンダに捧げた映画。この映画の後、彼は、子どもたち、家族に見守られながら静かに旅立ったとのこと。母親役はキャサリン・ヘプバーン]
前半は、いかにも西洋らしくセリフ劇要素が強いのだが、後半の、田舎の美しく静かな自然を背景に紡がれる限られた会話と間。
そして親子のわだかまりの氷解と安らぎの共有。言葉(論理)を越えた直覚・感性。非論理の世界へ。以心伝心。

ささやかな映画好きの暴言の無礼を承知で、山田洋次監督の『東京家族』は、足元にも及ばない。
映画理論家としての松本俊夫氏の難解極まる文章を、また博識博学の映画研究者、評論家、制作者たちの、あの得々とした表情に戸惑いながらも、機関銃のごとく紡ぎ出される言葉に立ち会っていた私を、今思い起こし苦笑する。因みに、その1970年前後の出された雑誌(例えば『ユリイカ』とか『カイエ』等)の映画・映像特集の散文、座談を読み返したが、多くは1ページ続けるのも精一杯だった。

そんな私に、映画の醍醐味、面白さに目覚めさせた人物が二人いる。30代になってからである。
一人は、集団芸術での創造の快とそれを観る楽しさを教えてくれた淀川長治(1909~1998)。
一人は、難しい映画理論とか思想でなく、一市井の眼差しで映画芸術を観る快を教えてくれた佐藤忠男さん(1930年生まれ)。尚、佐藤さんは上記雑誌『ユリイカ』の常連寄稿者でもある
その佐藤氏の映画制作者の視点からの『東京物語』論を読んだとき、私はひたすら感嘆、尊敬し、私の最高傑作の思いへの後押しともなった。

世は、「国際」から「グローバル」が自明となりつつある。
それぞれの自問自答もなく他者(国)攻撃を“愛国心”としたかのような独善と傲慢、そこからの協力?体制指向がもたらす意思疎通の至難。にもかかわらず、その責を他・外に求め、一足飛びに地球規模へ、の発想。否、だからこそ地球規模なのだ、と言うのだろうけれど。
世を映し出す学校教育は、その人材育成をしきりに打ち出す。裏付けに必須が如き有名!?大学進学と組み合わせて。それに掛かる教育費の高額化。その大学の大衆化の負の側面とますますの大学格差はどこ吹く風。

一方で、すべての価値の中心の観さえ漂わせる東京でさえ厳として在る、子ども6人に1人が貧困家庭の象徴する歪み。「地方創生」との言葉が、傲慢にしか聞こえない地方切り捨て。
それも含めて現実は現実、との冷徹なまでの弱肉強食観を自明とするかのような多くの私たち。
長寿化は、医療技術の自負と福祉財源不足の他に、何をもたらしているのだろうか、と思ったりする。
やはり、歴史の発展、その歴史を創造する人間の幸せについて思いが行く。
しばしば出される大人からの「内向き」化の若者批判、嘆きは、一面的過ぎないか、と思う私。

この考え方に共感の意思表示をした一人が、4年前、23歳で天上の霊(霊の人?)となった娘で、彼女の持論の一つは、義務教育段階での「音楽」「書道」「技術家庭」の充実だった。
娘は、太平洋戦争前後と東京裁判に強い関心を持って自学していた。
彼女は、敬愛する三島由紀夫の監督・主演映画『憂国』や若松孝二監督『11,25自決の日 三島由紀夫と青年たち』を見ずして旅立ったが、再会の折には是非そのことも聞きたいと思っている。
もっとも、天空フィルムライブラリーで観た、と言うかもしれないが。楽しみだ。

娘の死と学校と教師については、何度も記したので繰り返さないが、私の自省と、母親の学校、教師への決定的不信の原点である。

日本の教育を批判し、相も変わらず一方的に欧米教育に範を求め、“ヒーロー願望”の具現者「我は」、よろしく振る舞う教師、それを支持する同じ教育関係者、保護者等大人たちと職場を同じくし、今それを他山の石としている私は思う。

年々、日韓、日中関係は感情的ナショナリズムの罵り合いである。
中国での、台湾での、韓国での、『東京物語』に通ずる《生きて在ることの情感》に思いを馳せる映画を、私たちはどれほど観、相互にどんな発信と啓発をしているだろうか。
これは、私が知らないだけで、いろいろな場でなされていることは断片的情報から推察できる。
『日韓・アジア教育文化センター』が、これまでの経験と培った思いを活かし、その人たちからの智恵を借り、何かできないかと思ったりしている。
「跳びながら考える」ことも無くなって何年経つだろう。
このままでは「跳ぶ前に考える」だけで終わる。