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2015年10月23日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅰ

今回の構成

 

前 置 き

その1:遠野・花巻

 

 

前 置 き

井嶋 悠

昨年に続いて今年も、下北半島・恐山に、車一台、妻と愛犬と共に行った。
娘への、恐山の神秘と自然の下での追慕と鎮魂のためである。今年も突き抜ける青空が広がっていた。ひたすら天に向かい、娘と姉(長女)また妹を、更には父と実母の面影を追い、感謝した。
娘が天上に旅立って3年余り、長女は37年、妹は18年、そして父は17年、実母は10年が経つ。

私は、今夏、古稀を迎えた。
孔子曰く「……70にして心の欲するところに従いて矩(のり)を越えず(常軌を逸しない)。」因みにその10年前、60歳は「耳順」。
貝塚 茂樹は、「矩(のり)を越えず」を次のように説明する。

[自己とは意見を異にする人がいることを認め、その人たちの考えをすなおにきいてみる心境に達した。]と。(『世界の名著「孔子・孟子」1966年』)
氏の説明の鍵は「すなおに」であろうと思う。老人は、憂き世を生き抜いて来た矜持がよほど強いのか、なかなか他者の言葉を聴き入れない。老いの面従腹背。
様々な縁(えにし)で今私たちが住む地は、首都圏からの“リタイア”組が多いのだが、その人たちの首都圏人生の自負が一層そうさせるのか、移住組だけでの領域(テリトリー)墨守も多く、土地の老若の、そのことへの感受性鋭く、堆積された理不尽な屈折も加わり、静かに憤慨させている。先の面従腹背を裏返したそれ。

そう言う私も移住組と同じ穴のムジナ。大都市圏での、いわんや元私学有名!?中学高校国語!教師!
だからこそ、可能な限り言葉(話し言葉)を慎み、己が尊大の空虚さに今更ながら苛まれるくだらなさに陥ることのないよう自重している。改めて知る言葉の力、怖ろしさ。
確かな“孤独愛”への、私なりの理知から感への途次。はてさて意識確かな内に間に合うのやら。

かように今もって「無」の絶対にほど遠い小人の身ながら、親として、教師として、自省内省すること甚だしく、勢いは幽かな間欠泉とは言え、60数年間とは違った肌触りで言葉(その質は不問)が湧き出して来る。娘の23歳の死がそうさせているとしか思えない。
そして、書き言葉、と言うよりただ文字を、「美は寡黙な老人にあり」を承知しつつも、いたずらに重ね始めて2年余りが経つ。

内容に「異」を言う人も当然あるが、共感し、共振する人もある。棄てる人あれば拾う人あり。
それを書く力に、「人たちの考えをすなおにきいてみる心境」などどこ吹く風、と言うより議論を忌避することますます強い一方通行を、老いの厚顔と我田引水を、続けている。

こんな人もいる。

今も現役で夫君共々、東京都内で会社経営をする小学校同窓生は、共振と励ましの一人で、現実の過酷さと向き合って醸し出された言葉だけに、“深窓”的別世界の元住人には一層の励みともなっている。

或る時、「異」に係る他者との交わりの寂しさを言う私に妻が言った。(妻は娘の一件以降、教師不信と嫌悪を決定的にした中高校美術科教員有資格者である。)

「いくら旧交ある人でも、異ならさっさと自分から離れなさい。そんな暇がある歳?馬鹿馬鹿しい。」

然り。妻は2歳年下である。

そして、私の中で、もう会うことのない人が増えている。しかし、私に会うことにやぶさかでない、私が会いたいと思う人があることを願う私がいる。勝手なものだ。妻には言えない。道、半ばの証し?

以下、そんな私に、秋の“みちのく旅”の道すがら、過ぎった幾つかの覚え書きである。
いつか、この覚え書きが、覚え書きのままでいいと言ってくれると当て込んで、桃源郷籍となって時間を超え飛び交う肉親たちへの心ばかりの土産になれば、と思ったりしている。
心身双方で無理かな?

 

その1:遠野・花巻
【柳田 国男(1875~1962)・遠野物語・佐々木 喜(き)善(ぜん)(1886~1933)・宮沢 賢治(1896  ~1933)
そして高村光太郎(1883~1956)】
この話題での中心は、『遠野物語』の源泉者・佐々木喜善で、彼を伝える小さな記念館との偶然の出会いが、すべての端緒となっている。

私は、資料館、博物館の類を訪ねるのが、非常に限られたもの(例えば、原爆資料館は、大江光さんの言葉や原民喜の作品に深く心揺さぶられているが、海軍軍医として長崎に赴任し多くの被爆者の治療に当たった父から、医師や軍人等一部上層部の非人道的行為を聴いた者として訪ねることに非常に抵抗がある。)以外関心が向かず、中でも作家や詩人といった文学者また学者・思想家といった人々のそこには足を踏み入れようとする気持ちが全く起こらない。
それは、作品から想像の愉しみを享受した者として、あまりに整理された展示等にある人為性への反発なのかもしれない。
しかし、佐々木喜善については、柳田国男著(聞き書き)説話集『遠野物語』制作の礎者(いしずえしゃ)で、後に柳田国男と対立、決別した理由に共感したということで、作家等々とはいささか事情が違っている。

花巻のコンビニで、こんなものを見た。これほどに立派なそれは初めてで壮観でもあったが。
それは、駐車場にあった、高さ10m、幅20cmほどの案内搭で、そこに記されていた言葉。

[萬鉄五郎記念館・宮沢賢治記念館・高村光太郎晩年居宅記念館・柳田国男記念館、の方角と距離。]
(萬鉄五郎〈1885~1927〉は、一般的には特別知名度は高くはないかもしれないが、フランスに端を発する美術運動「フォービズム(野獣派)」の、日本での中心的働きをした洋画家。青年時代、高村光太郎とも交流を深めている。花巻・東和出身)
その多少は別に、4人とも私の中にある人たちで、思わず苦笑した。

ところで、いつもの横道。
4人中、宮沢賢治と妹トシ、高村光太郎と長沼智恵子。やはり女性あっての男性の創作を改めて思う。何を今更との叱声を承知で。

 

資料館関連で、昨年、貴重な体験をした。

法隆寺を訪ねた際、資料館内の百済観音像を前に、周囲へ気遣いの視線を送りながらも毅然と独り手を合わせていた地方からの中学修学旅行生男子との出会い。その姿に圧倒され、瞬時に敬服した。
きっとあたたかい生徒たち、教師たちに恵まれて、奈良の旅を楽しんでいたに違いない。
この想像は、他人の勝手に過ぎないのだが、娘の一事があっただけになおのこと、彼が、周りの同窓生たち(生徒たちはグループ行動)が、更には心温かい先生方が想像され、輝いて見えた。

 

娘の一事については、このブログで、何度か触れているので繰り返さない。娘は母親譲りの、終始一貫、嫌にして反・しつこさゆえ、なおのことである。
しかし、哀しみと憤りが消えることはない(あり得ない)。時には一層の激しさで襲い来ることもある。

本題に戻る。

柳田国男は、中学高校(時には小学校も)の国語や社会で、また時には音楽で、採り入れられることの多い日本の民俗学の祖であり、同時に高級官僚で、明治、大正、昭和の3代にわたり大きな足跡を残した人である。
確かに、私の中で、古代日本女性の存在感を著した『妹の力』や、広く愛唱されている『椰子の実』につながる『海上の道』、はたまた日本の国語教育への提言等、幾つか心に刻まれているが、冒頭に記したようにここで彼の業績を解説することが目的ではない。もっとも、そんな器量はないが。

ここで記すことは、佐々木喜善の記念館(河童伝説の発祥地と言う今ではあるかないかのような小さな小川、保存建物としてある一軒の曲屋(まがりや)、それに物産館等合せて600㎡ほどの、遠野の中心街から少し離れた地の一角にあった60㎡あまりの実にささやかな記念館)に出会えた幸いについてである。
これを幸いと思わしめるきっかけは、『遠野物語』読後に出会った、五木 寛之氏の「『遠野物語』に秘められたもの」(『日本人のこころ 2』2001年所収)である。 2か所、引用する。

――遠野の冬は長い。おそらく遠野の山村の人たちは、深い雪に包まれる厳しい冬を生きていくなかで、みなでゲラゲラと笑ったり、華やぐために、そういう面白い話、 (これは、この記述の少し前に書かれている「あそこのおじいさんはちょっと変わった死にかたをしたらしい、というような話。あるいは、男女の恋愛関係のどろどろした話。そして、エロティックな話。」を指すと考えられる。〈井嶋〉)
色っぽい話、エロティックな話を大事にしているのだろう。
私が知っている遠野以外の東北各地の伝承のなかにも、その種のあからさまな話がたくさんある。
しかし、『遠野物語』のなかには、なぜかそういう話はあまりでてこない。(略)
ところが、そういうエロ話をしはじめると、メモを取っている柳田の表情が曇る。眉間にはさっとしわが寄る。それを見た佐々木は、「柳田先生はこういう話がお好きじゃないんだな」と察したに違いない。あわてて話を適当なところで端折る。――

――(保存されている、佐々木の口述を聞き取ったりする滞在旅館の一室の豪華さに関して) なるほど、民俗学者であると同時に高級官僚だった柳田が、遠野にたびたび来て泊まったのはこういう部屋だったのか、と思ったものである。――

前者の引用について、
佐々木 喜善著『遠野奇談』(2009年刊)の、編者・石井 正己;1958年生、『遠野物語』等研究者の解説から引用、補足する。

――……柳田を中心とした民俗学が確立し、…そのようにしてアカデミズムに向かうことが最優先されると、佐々木は民俗学の先駆者として評価されても、次第に忘れられてゆきます。それに伴って、佐々木が柳田に反発するかのように書き残した文章は異端視され、切り捨てられてしまったのです。

《注》(井嶋):
この『遠野奇談』では、「悲惨極まる餓死村の話」など、『遠野物語』では採り上げられていない物語が集められている。  また、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視した、同じ民俗学者・宮本 常一(1909~1981)は、柳田の学閥からは無視・冷遇された。しかし、1980年に刊行された『忘れられた日本人』は、非常に多くの人々から激賞された。

その佐々木喜善は、晩年に、居住地が近くにあった宮沢賢治とも交流があったが、同じく貧窮の中、47歳で、賢治と同年に没した。

どうであろうか。

故郷(ふるさと)の人々の、佐々木喜善への、優しさ、温もりが迫り来る。
と同時に、 私学中高校の一教師体験からの内省、自省から、ここでの強く激しい、しかし静かな反骨を表わす言葉は、「アカデミズム」であり、「官僚(的)」であると思う。

字義を国語辞典で確認する。[新明解国語辞典〈第5版〉三省堂]

「アカデミズム」:官学における講壇的な学風や芸術活動における伝統的、高踏的作風。

「官僚的」:官僚一般に見られる、事に臨んでの独善的な考え方や行動の傾向。具体的には、形式主義・ 事なかれ主義・責任逃れの態度。

例えば「性」の問題。
人間が等しく持つ根源的普遍的な問題。しかし、それを言葉にすることを下劣、野卑、淫靡、無恥とする、言葉=理知との“近代知”の考え方、感性への浸潤。
と言う私は、間(はざま)で蠢(うごめ)き、幼少からの家庭、学校、社会での教育から、あっけらかんとした自然体指向を羨む一人で、だからと言って明日から豹変?すれば単なる「エロ爺」。やはり“近代人”?

五木氏も恐らく同じかと思っているから氏に共感する私がいるのだろう。

尚、五木氏の文章には、保存された柳田常宿のその一室の写真が掲載されていて、やはり五木氏と同様「ひなびた粗末な宿を想像していた」私は、「なるほど」と得心すると同時に、一層足は遠のく。

しばしば話題になる「人と業績」ということなのだろう。そして、私は「最後は人柄よ」に、かすかな望みを託しているが、そもそも託すること自体が下卑……。
先を急ごう。

佐々木喜善と親交を結んでいた花巻出身の宮沢 賢治。
街にある、ありとあらゆるものすべてが宮沢賢治、の様相を呈していて、その人が哀しみに溢れた人生と創造に命を賭した偉大な人だけに、観光商業化云々の前になるほどと思ったりする。
その中の一つに、小高い山の斜面の一角を切り開き、宮沢賢治を愛する国内外の人々の拠点にもなっている現代風(モダン)な記念館施設があり、その近くには宮沢賢治が憧れていた英国風の庭園が設けられている。 紅葉期ということもあってか草花の彩り、種類は限られていたが、ガーデニングという言葉が日本語のように使われ、ホームセンターでは草花や樹々の、また野菜の苗が、多種多様に売られている今日、彼が今在れば嬉々として光り輝いていたに違いないだろう、と花壇や菜園生活に生きる力を得ている私は想像をめぐらせていた。

その私も宮沢賢治に魅かれる一人で、20代後半に、高校時代の恩師の高配から、半年間(9月から翌年3月まで)の、しかしそれが33年間の正業になるのだが、或る伝統私立中学高校教員に就くこととなり、校長を訪問した際、次のような荒唐無稽の発言をしたことを思い出す。

校長「すまんね。半年間だけで。その後はどうするんだ?」

私「宮沢賢治が勤めていた学校のような地で、教室入退時には窓から出入りしたりして、そんな学校、それも木造の、教師になれたらどんなにか幸せかな、と思っています。」

(因みに、その伝統校で専任教員として採用された数年後、高校への外国人留学生(毎年2,3人が留学) の日本語指導を担当したとき、窓からの入退時を実行したことがある。ささやかな有言実行。 その場に居た留学生の表情は今も覚えている。)

最後に、高村光太郎。

彼の出身地は東京で、戦中の創作活動での戦争責任を自覚し、戦後、花巻で7年間自炊独居生活をする。
その4年後に亡くなるのだが、彼の父(彫刻家にして東京芸大教授・光雲)との葛藤、欧米遊学での挫折的体験、長沼智恵子との運命的出会いと彼女の精神変容と死、生と愛を賭した詩群創作、そして太平洋戦争時の文学報国会詩部会長……、の人生を振り返り終焉に語った言葉は、切々と胸に響いて来る。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯 というものは苦しみの連続だ。」

 

付記

遠野には「でんでら野」という場所がある。
2011年公開の映画・天願 大介監督『でんでら』(主演:浅丘 ルリ子、倍賞 美津子、山本 陽子等々、そうそうたる女優陣)という、「姥捨山」に捨てられた老女たちの復讐を描いた、やはり日本各地に伝わる「でんでら」伝説を題材とした、摩訶不思議な映画を観た一人として、遠野のそこが舞台地・ロケ地ではないが、訪ねた。
しかし、これも五木氏が、初めて遠野の地を訪ねた時の感想として、「……物語のイメージで、「遠野」という空想都市をこちらが勝手につくりあげてしまっていた」と言うのと同様、幻想性を感じさせない、低い山並みを背にした住居が散在する里であった。


参考

詩『椰子の実』 (作者・島崎 藤村。柳田国男が、渥美半島伊良湖で療養中、友人の島崎藤村に、流れ着いた椰子の実  の話をしたのを基にして創られた詩)

名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷(ふるさと)の 岸を離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる 枝はなお 影をやなせる 我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば 新たなり流離の憂 海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ 異郷の涙思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 故国(くに)に帰らん

この詩と言い、『古事記』に登場する心優しき貴公子にして美男子・大国主(おおくにぬしの)命(みこと)と因幡の白兎と南洋動物ワニの物語と言い、どれほどに少年時代、遠い地への浪漫をかき鳴らしたことだろう。 地球交通網の発達、地球温暖化と言う科学と現状から、このような浪漫も過去のものなのだろうか。