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2015年10月31日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅱ  恐山

井嶋 悠

恐山は、青森県下北半島のほぼ中央に連なる外輪山の一つ釜臥山(標高879m)にある、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場、霊場である。戦後、死者の霊を呼び戻すイタコの口寄せが行われ、全国的に有名になったが、寺(菩提寺)とは無関係で、イタコが常住しているわけでもない。

このイタコがもたらすこととは関係なく、そこに足を踏み入れた瞬時から、覆い漂う霊気の神秘と幻想が、多くの人々を寡黙にする。私たちのように、死者を想って参詣する者には、寡黙を一層強く迫る。
その一人私は、己が知識と知恵を棚に置いてのことながら、33年間の職業(中高校教員)も手伝ってか、近代合理主義の疲弊と疑問を直覚すること多く、とりわけこの数年人間の原初性と知に関心が向きつつあるからなおのことである。

その菩提寺の本坊は、むつ市にある、不立文字、以心伝心を旨とする禅宗・曹洞宗の円通寺との由。因みに井嶋家の菩提寺は、京都市中の曹洞宗寺である。

恐山を開山したのは、9世紀の高僧で、禅宗の祖と言われる達磨(だるま)大師を尊敬する慈覚大師円仁で、中国・唐で研鑽修業中に夢で告げられた霊場として帰国後苦難を経てこの地を見い出したとのこと。
これは、あくまでも伝説で、円仁は下野の国(私たちが今居住する栃木県)出身ということもあってか、天台宗の東北地方浸透に伴って、大師が開基また中興したと言う寺は162寺に上ると専門家は指摘する。後で引用する松尾芭蕉の『奥の細道』での名句「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」を生んだ地、山形県・立石寺もその一つと言われている。

前日泊まった青森市の東10㎞ほどの浅虫温泉から、左に陸奥湾の海や本州最北端のJR大湊線を、右にかの六ヶ所村を観ながら、広々とした地を走ること120㎞ほど、むつ市の田名部という町を過ぎると間もなく林道に入り15分ほど紅葉頻(しき)りの山間(やまあい)を行く。すると、忽然との言葉そのままに、硫黄の臭いに覆われ、草木や生き物の姿のない白石の積み重なった一帯が、片寄せあって並ぶ山門と社務所、一軒の土産物屋と蕎麦屋の木造の建物とともに現われる。恐山である。 山門をくぐって一帯に入れば、本堂とお守りなどを扱う小屋、板塀とわら葺だけの温泉小屋がある。

昨年と同じく、否、年々突出的に強まって行く、娘(3年前に23歳で逝った娘と、37年前、病の母に命を託して水子となった娘)の、妹の、父母の面影が、凛とした安らぎに包まれた私の心を過(よぎ)って行く。
事前に購入しておいた華やかな彩りの風車を持って、石灰岩の白石の道を、地蔵尊、観音像に向かって、死者への冒涜を承知の表現をするが、あたかも火葬後の骨々を踏むかのような乾いた音を聴きながら、上って行く。清澄に晴れ渡った空、秋の風が吹き抜け、幾つもの風車がからからと回っている。
今朝、浅虫温泉で浸かった温泉から見えた海から下北半島に掛かる虹といい、自然の、天の私たちへの心遣いに深く感謝しながら。
私たちも像の前に風車を挿し込み、幾つかの小さな白石で抑え、手を合わせ、静かに死者を追慕する。

山上から見下ろす白石と先の建物群、そして水脈に火山ガス(亜硫酸ガス)が溶け込み、酸性値が高いため生物の命を育まないがゆえの透明極まりないカルデラ湖宇曾(うそ)利(り)(アイヌ語で窪地の意味)湖と碧空が醸し出す、無機的であるにもかかわらず有機的な温もりの風景。

このような場所は××地獄(谷)といった言い方がされる。
この恐山の栞も次のよう記す。「……火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞえられ、……」

私がそこに、「地獄」の言葉が浮かばず黒白(こくびゃく)の深(しん)玄(げん)とした極楽に在る、そんな安らぎにただただ沁(し)み入るのは、老齢による要らぬものを削ぎ取って行く道筋にあるからなのか、それとも生者の、しかも人為と虚飾に溢れた、都市消費文明に浸り続けて来た老人の驕りの為せることなのだろうか。

今日(こんにち)、「古稀」はかつての「還暦」の感覚の時代を迎えているが、心身そのものは科学等々で容易に変容しないものとみえ、私はふと老いを実感し、死について、或いは死への道程と臨終の己が姿を、時に激しい不安と恐怖で思い描くことが増えている。
そんな私は、玄としての極楽を描きながら、7年間の心身の苦闘から解放された3年前の4月11日、娘の静穏(せいおん)そのものの微笑み漂う死に顔を思い起こしながら、恐山の白石を踏みしめる。通り抜ける風と乾いた踏み音。

この恐山と同じ風景の地が、私たちが10年前から居住する栃木県にある。
今から300年余り前江戸時代、俳諧の完成者・松尾 芭蕉が、46歳の時、弟子の曽良を伴っての東北(陸奥(みちのく))の旅で立ち寄った地でもある。これを基に、5年後、俳文旅行記『奥の細道』が出版される。尚、芭蕉はその年、51歳で他界した。
23歳で亡き人となった娘も好きな場所の一つで、自宅から車で20分余りの地である。

『奥の細道』のその個所を引用する。

――是より殺生(せっしょう)石(せき)に行く。(中略) 殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。――

 

付近一帯には硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒ガスがたえず噴出しており、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古くから知られている。

私は子供のころから理数系科目とは関わりたくない一人で、科学についても非常に疎いが、上記の科学的説明になるほどと思いつつも、「殺生石」誕生秘話伝説に想像が広がる。曰く、

平安時代、帝(鳥羽上皇)の寵愛する妃に「玉(たま)藻(も)の前」という美女がいた。彼女は、インド(天竺)、中国(震旦・唐)から飛来した9つの尾を持つ、白面金毛の狐の化身だった。彼女の本朝(日本)を滅ぼす野望も知らず、帝は一途な愛を捧げ、病にふせるようになる。その時、陰陽師が彼女の正体を見破り、那須野原(栃木県)で滅ぼされる。彼女の怨霊は巨大な石となり、毒気を発し、辺りの生き物の命を奪い続けた。やがて、高僧が教化し、石を砕き、石は各地に飛び散り、その本となったのが、芭蕉も訪れた那須の殺生石である、と。

狐は、古来、人を化かす悪いイメージで、例えば英語圏では、狡猾、偽善、腹黒いものとして言われる。(『英語 イメージ辞典』三省堂 より) しかし、日本では英語圏同様人を化かす、騙す一面と同時に、田(稲作)の守り神でもあり、また稲荷神社が示すように神的な、畏敬の対象でもある。そして、その狐伝説では、メス狐がほとんどで、それがあって私を妖艶な世界に誘う。
もうはるか昔のこと、旧知の萬葉集研究者と、「私は狐顔の女性に魅かれる。これもマザコンの証し(母親は狐顔だった)なのかもしれない」、その旧知の人物の「僕は狸顔に魅かれる」といった会話をした私ゆえ、艶麗(えんれい)、妖艶さがより強くなるのかもしれない。

先の「九尾の狐」について言えば、中国の史書では、鳥羽上皇を悩ましたように、絶世の美女へ化身した悪い狐として扱われるが、一方で、しばしば瑞(ずい)獣(じゅう)として登場し、一部の伝承では天天界より遣わされた神獣であると語られ、平安な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴として描かれているとのこと。

火山地帯の同じような風景の、青森・恐山と栃木・殺生石。
前者の信仰文化と後者の説話文化、また前者の本州最北端と後者の北関東の自然風土の違い、それを前にした人のそのときどきの心映えの違いから、自然は人に無常、無限の暗示を与え続ける。
或る表現を試みれば、静謐の生としての恐山、激越の生としての殺生石。静と動の生、人生。

そして今、私は昨年と同様、否いや増しに、恐山に想像がかきたてられる。
下北半島の冬は凄まじい。豪雪と海からの嵐が襲う、私などの軟弱な都会人の想像を絶した冷厳の世界。待ち焦がれる春。限られた夏の謳歌。秋から冬への慌ただしい移行。何かの縁でそこに居住することになった老若男女の、苦汁が圧倒する日々。
にもかかわらず、恐山への道すがら、生きるに必要な私の最小限のモノと以心伝心の人だけに整理し、途次に点在する民家の一つの住人になる喜悦を思う私がいた。
妻にそのことをほのめかした時の、私を知悉する妻の深謀遠慮の言葉。「私はいいわ」
まだまだと言いつつ終わるのも人間らしい……、と言う不遜、罰当たり……。
恐山には三途の川も用意されていた。