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2015年12月5日

犬、その大いなる仁愛・慈愛

井嶋 悠

晩生(おくて)。晩熟(おくて)。私はその一人で、晩稲とも書く。と言っても、70にして熟したわけでもなく、そのような品種として生まれたようでもないので、年月が経っているだけで旨い米も提供できない。当然、早生、早熟[わせ]であろうはずもない。やっと「生」(生(せい)。生まれる。生きる。)が少しは分かり始めたかなと思うくらいである。
これは、何かの折に幾度となく周囲から言われて来た「お前は、何するにも10年遅れてる」の実感得心と重なっている。ただ、漢字表記としては「晩稲」に愛着を持つ。農耕系の風貌?と心構造がそうさせるのかとも思ったりしている。
この心境に導いたのは娘である。その娘の“霊”の後押しを得て、或る日突然のようにモノを書きたくなり、NPO法人日韓・アジア教育文化センター(2004年認証)の《ブログ》に場を借りて、私物化するかのように投稿している。
「死は人を目覚めさせる」なのかもしれない。

そんな私だから人間関係はちぐはぐで上手くなく、かと言って本性に孤独への強さなどどこにもなく、我がまま勝手の見本のようなもので、それが一層動物好きにしているのかな、とこれまた勝手に思っている。思われる動物こそ迷惑千万なことである。
幼い頃からいろいろな動物を飼って来た。猫、二十日鼠、犬、昆虫、金魚、亀、小鳥……、そして今、犬を愛玩ではなく、かけがえのない同居人〈犬〉との心境に達し、8歳のフレンチブルドッグとシーズーのいわゆる“ミックス犬”(雌犬)とほぼ寝食を共にしている。
これはあくまでも私からのもの言いで、彼女からすれば、私と寝所(ベッド)をシェアーしている感覚にあるようにも思えるし、彼女は私を自身の料理番として親愛の情を寄せているように思える、と妻は嬉しそうに言っている。

この同居人を我が家にもたらしたのは娘である。
関西から共に移住して来た2匹の犬(ゴールデンレドリーバーとシーズー)が、前者は高齢で、後者は病気で相次いで死に、娘自身が心身悪戦苦闘中で、新たに飼うことにしたのである。
ミックス犬は純血種より病も少なく長命との評判もあってか、今では高価な犬なのだが、当時はさほどでもなく、更には娘の頑張り!で半額で購入した、生後数か月の、手のひらに載るほどの、切ないほどにいたいけで、娘が使っているクッションにさえ上がれず、クークーと消え入るように泣いていた犬である。
心身不安定もあって、娘の躾教育は、時になかなか厳しいものであったが(私たちはその都度彼女に話し掛けたものだ「ごめんね、おねえちゃんしんどいの、我慢して」と)、彼女は従順に、それでも時々怖げに、吸収し、私とは違って早生なのか、「学習能力の高さ」を示し、日々確実に良識犬として成長した。
犬の1歳は人の18歳で、それ以降、人の5年単位が1歳との説に従えば、彼女が30歳頃の時、彼女の飼い主、娘はこの世を旅立った。
その時、彼女はその事実を明らかに承知しているかのようにクーと泣いた。その声と姿は今も私に明確に残されている。

亡き飼い主の跡を継いで3年余り。彼女が前の飼い主のことを心に留めている、と何か具体的な行動があるわけではないが、ふと思うことがある。
私は人語であれこれ話し掛ける。彼女はじっと私を視る。眼がああだこうだ語っている。ときどきの眼の表情の違いから、私はああだこうだ想像を巡らす。そこで対話が成り立っている、と私は勝手に思う。思うことで私は私を救っている。おかげで相当に孤独への強さが培われた。
彼女は散歩のときも私を労わる。彼女は少し前を行くのだが、足腰の弱りつつある私を思ってか、時折立ち止まり、私の足元をじっと見て再び歩き始める。そしていつもの折り返し地点に来ると私を見上げ、私が「帰ろうか」と言えば踵(きびす)を返す。時にはその地点に来ると、チラッと私を見て自ずとUターンする。

この私の体験から思う。彼ら/彼女らはただ話さないだけで、人を直覚しているように思えてならない。「犬(動物)好きは犬(動物本人)が知る」である。
動物はじっと人(飼い主)の眼に心を注ぐ。初め人はたじろぐ。しかし、直ぐに己が浅薄さに気づかされ、微笑み返す。その瞬間に流れる以心伝心。
動物は一切の作為なく自然に自身の時間に身を委ね、人は安らぎと温もりを与えられる。動物が人の心の治療に大きく貢献する事実も、その交信があってのことであろう。
思い巡らせる時間の力。識者がしばしば言う「想像(力)」の重さ、深さ、大切さである。氾濫する情報(知識)と“私の”智恵に向かってそれらを取捨選択し統合する至福の時も持てないかのような、現代日本感覚での“人間らしい”生活のための慌ただしい日々刻々。いそがしいとの漢字が「心+亡」であることにあらためて気づかされる。

先のゴールデンレドリーバー(雄犬)もそうだ。猛烈なやんちゃの子ども時代を経てほぼ10歳、老いの境涯を携えて移住した当時、私の関西との往復生活が続いていた或る夜、1か月ぶりで戻って来た私を迎える彼のしぐさ、眼差しにいつもと違う情愛を直感したことがあった。その深夜、彼は旅立った。「オトンを待っていた」。これはその時の娘の言葉である。
大型犬の子犬時代のやんちゃぶりは相当なもので、彼の場合、どんなに注意しようがお構いなく手当たり次第に家具をかじる。思い余って台の柱にくくりつければそれを移動させ!且つかじる。そのことを、やんちゃラブラドールを飼っていた或る女性作家は「床柱に独自の彫刻を施し」と書いている。犬への深い愛情あふれる表現に感心した。表現を生業(なりわい)とする人は違う。

犬は、(動物は)飼い主を直覚する。
こんな一文に出会った。表題は『妻と犬』。筆者は、生きる過程で困難な課題を背負い続けた昭和の作家島尾 敏雄(1917~1986)。(以下、「  」は作者の表現)

―作者と妻が過ごす家にいつしか住みついた犬。作者は飼う気など全くなかったのだが、「けものを飼いならす一種の才能」を持っていた妻がクマと名付けて飼い始めた。クマは、厳しい「過去の古疵(きず)」を心の奥に持ち、今も不安を抱いている作者の妻である飼い主にひたすら尽くし、二人を護る。鑑札の手続きもせず、食事や散歩の世話をしていない飼い方に「このましい飼い方」とは思っていなかった或る時、「からだの弱い妻」にはクマの世話は過負担で、しかも娘が入院することにもなり、夫婦合意で保健所に通報することになった。保健所員が来て、大捕り物になる。その描写に続く文。

「……家の縁に立っていた……妻の方にかけ寄って来て、妻の目をじっと見上げたと言うのだ。妻はこころのちぢむ思いで、でもクマをかばおうとせずに、じっとつっ立ったままで居たところ、その妻の態度を見てとったクマは、今まで狂わんばかりにあばれまわっていたのに、そのまま、妻の目の下におとなしくうずくまってしまったのだった。もちろん捕獲人はすぐクマの首に針金の輪をひっかけ、捕獲車の方にひっぱって行ったけれど、クマはもう一声も発せず、また妻の方を振り向きもしないで、捕獲人の手あらな扱いに身をゆだね、車の中に投げこまれたまま、連れて行かれてしまったのだった。やがて、クマは殺されてしまったろう。……妻はまた、ときどき思い出したように、夜の庭の闇に向かって、「クマ、クマ」と呼ぶことをつづけていたのだった。」

ここでこの一文は終わる。

その直覚と底に流れる飼い主へのひたむきな仁愛、慈愛。動物を、犬や猫を飼った人はほとんど同意共感するのではないか。
ただ、私は犬にそれをより強く直感する犬派である。猫は唯我独尊性がより強固で、仁愛慈愛があっても突き放したところから発しているように思え、寂しさに弱い軟弱で主観的な私には、客観性との意味合いでの冷たさ、厳しさを思いたじろく私がいる。夏目漱石の『吾輩』は、やはり猫であってこそ説得力がある。

猫派に女性が多い。なるほどと思う。女性の生きる力は大地であり、大海であり、男性のそれより強靭である。平均寿命の長さが、その科学的証明の一つかもしれない。
男女の死に深浅はない。しかし、女性が自身で死を選ぶことの巨(おお)きさに、男性はより心を向けなくてはならないと思う。
日本は、今もって男・女生きる諸相であまりの精神的貧困にもかかわらず、世界の指導者意識を言う。言うのは現首相を筆頭にほとんどが男性である。先ずそう言う老若(特に老?)男性の謙虚な自省からの自覚なしには貧困はなくならない、と男性の一人である私は思う。

「日本はもう終わった」と寂しくつぶやく大人が、高齢者が(私の知り得ている限られた数かもしれないが)、増えていることに、政治家、官僚、学者、またマスコミの、日本を牽引していると矜持している人々は気づかないのだろうか。それとも、タテマエとホンネを使い分けることでの優秀さにある保守性ゆえに気づいても気づかないようにしているのだろうか。知らんふりをする、無視(ネグレクト)する、要は切り捨てなければ日本の繁栄はない、と。

自治の最高峰でもある大学も含め学校教育世界は、新版富国強兵をひた走る政府と財界の、どこまでも下部組織なのだろうか。それとも自治の担い手の生徒学生そのものが、それを善しとする時代なのだろうか。否、私たち大人が、教師が、それを自明の当然としているということなのだろうか。

これらはすべて私の体験とその内省自省からの言葉、それも人生終盤を迎えての、である。
その時、娘が引き合わせた愛犬は、晩成品種の稲に失礼ながら晩稲(おくて)の私に今日も寄り添っている。