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2016年1月19日

年 賀 状

井嶋 悠

年賀状、新年を寿(ことほ)ぐ挨拶、旧年をかえりみ、永く生き得ることを願い新しい年を迎える。身体をはじめ一切の「自然」に思いを馳せ、託し、自他互いの健やかさを願う、己在って他と言うよりは他在って己の、自他和(やわ)らぐ温もりの風習。“和(なごみ・わ)”の国らしさの一つ……。
韓国、中国、台湾にも似た風習はあっても、旧正月で、新暦の2月である。日本でも一部地域では今も旧正月に祝うところがあるようだが、多くは昔から新暦で寿いでいたかのように、新暦1月1日(3が日)である。こういった大らかな?日本事情にも日本らしさがうかがえるように思える。

その年賀状から私が私を思うに、どうもいけない、文言の直接に、行間に漂う、己の勝手さ、利己性(エゴ)。他への感謝は形式的で、私の旧年回顧と新年抱負。己在っての他。私は宗教心在っての信仰なしの典型的?日本人の一人らしく、キリスト教文化圏のMerry Christmas and A Happy New Yearの「and」に、先ずイエス降誕があって新年を寿ぐ心の動きに好意的納得をする。 表裏面すべてボタン一つの機械任せの味気なさ、怪訝(けげん)さが続いてはいたが、昨年、私の年賀状に終止符を打った。
そこには亡き娘への追憶が働いているのだが、要は私事情からの欠礼。しかし、孤独は羨望のままで留まっている、人間(じんかん)に他在ってかろうじて生き得る弱い一人で、それでも新年の祝辞は私からあまりに遠く思え、寒中見舞いにすることにした。娘は分かってくれているだろう、と。これまた利己の上塗りの我利我利亡者……。

年賀状の発行部数は、戦後1950年の1億8000万枚に始まり、2003年の44億5936万枚をピークに、2015年は32億0167万枚、と確実に減っている。情報手段や交通機関の高度発達の今日、形骸化した儀礼への疑問とあいまって必然とも言えるが、因みに、2015年の年賀状発行部数に52円を掛けると約1665億円。完売のための街頭販売、郵政社員の自己負担購入等の厳しさと富める国の偏った貧困思うと複雑な思いが走る。
だからと言って年賀状がなくなることはあり得ないだろう。コンピューター技術等による華やかなものが増えてはいるが、そういった技術に疎いゆえもあってか、年賀の挨拶を大切にしたい私は、再考からの年賀状再生の時を迎えているようにも思えたりする。

××主義(者)と言えるものもなくそのときどきに生きて来た人間の加齢と内省が、私の中の伝統とか風土のあいまいさを自覚させ、寂しさが募ることもしばしばである。 歳時記をひも解いてみた。[『日本大歳時記』講談社・1983年]
季語項目として「年始」「初便り」が掲げられ、その中で「年賀」「年賀状」「御慶(ぎょけい)」「年の礼」など22語が挙げてある。 新年を迎え慶(よろこ)び祝する心、親を思い、先祖の霊を祀(まつ)る心、そして古人の「不老長寿」「蓬莱・桃源郷」を希う心が流れている。現代の賑々しい情景ではなく、地下水のように大地に静かに滲(にじ)む心。
上記歳時記に採り上げられている句の中から、国語科教師であったとは言え怠惰浅学ゆえの私の勝手な解釈(【  】部分)であるが、眼を停め、琴線に触れ、心頭巡らせた句を幾つか引用する。

【ただただ慶事の年始め。それは畏怖の念に包まれた粛然とした慶事でもある。】

「蓬莱に 聞かばや伊勢の 初便」 芭蕉
(蓬莱は、東方海上に在るとされていた桃源郷。富士山の異称)、ここでは正月の飾り物の蓬莱飾りのこと。三方に松竹梅を立てて、新春にふさわしい品々〈白米・や昆布や橙やかちぐり、また伊勢海老等〉を飾る。新春の景物である。その蓬莱にそっと耳を寄せてみると、伊勢神宮の清浄な空気が伝わってくるようだの意〉

「廻り道して 富士を見る 年賀かな」 五所 平之助

「白々と 余白めでたし 年賀状」 中村 七三郎

「賀状の字 いと正しきを 畏れけり」 富安 風生

【慶事は日々の生活で硬化した心のひだを和らげ、微笑ましい時空を編み出す。】

「初便り 一子を語る つまびろか」 汀女

「をみならの 言葉を尽くす 御慶かな」 中村 若沙

「ねこに来る 賀状やねこの くすしより」 より江

【慶事が一色に染まるどこかで、それがゆえのさびしさ、かなしみを直覚している人が必ずある。】

「賀客なき 雪ふりつもる 山家(さんか)めき」 山口 青邨

「賀状うづたかしかのひとよりは来ず」 桂 信子

これらの句に静寂の大気を想う。そこに私を重ね、清澄な私であることを、直後に卑俗そのままになることは分かっているにもかかわらず、夢見る。そういった作品が美しいと思う。やっと私が好きな作品の物差しができたのかなと思ったりする。加齢の成果かもしれない。 これは、私の体内に、自然に帰一する指向、それは陰翳黒白の透明で静謐で、どこかおぼろげな映像としてあるのだが、を心底にする日本人性の証しなのか、とも思ったりする。

これまでのその年年(としどし)に私をとらえ、ファイルしている26通の年賀状を改めて見ている。ほとんどの人は故人である。 「医は仁術」を体現したと言うにふさわしい、私たち夫婦が、多くの人々が敬愛する産婦人科医。妊娠数か月、妻が腹膜炎となりその子の命か妻の命かいずれかしかないことを伝え、友人の外科医と連携し手術に立ち会ってくださった医師であり、その後に生まれた息子と娘を世に出してくださった医師。

氏の、6年前(東北大震災の3か月前、娘の死の1年前)の私たちの年賀状への、すべて手書きの返信・年賀状がある。それは私たちへの最後の年賀状であり、便りである。
右上初めに1㎝四方ほどの文字で「賀正」と書かれ、その下からすぐに言葉が続く。幾つか抜き出す。

「私は未だ生きてるだけ、もうろくして頭がオカシイです。」
「私は一人で暮らしてます。〈注:奥様は既に他界され、お子様は独立され、奈良県の或る都市に居住。〉何もせずたゞ栗の葉の掃除だけでバスに乗るのも大儀です。」
「私は咳があるので結核かと思います。井嶋先生〈注:私の父は内科医で、氏は大学時代の父の後輩〉がなくなってから受診していません(自然に任せています)」
ここで文章は終わり、後に住所と名前が書かれている。

妻と私は何度これを読み返したことだろう。父から聞いた話を思い起こし。 娘が生まれて(1988年)10年程経った頃であったか。「患者の氏への訴訟があり、彼は思うことあって、医院だけでなく医師も廃業した」と。父もそれ以上は言わなかった。それだけになおのこと、切なさと何か決定的に解せない気持ちが私たちに今もある。
これも年賀状である。

栄華きらめく……今の世の、子どもの、親の貧困のことは前回投稿した。
33年間の中高校教師の最後の2年間は、主に不登校の高校生を対象とした高校に非常勤講師で勤務した。そこで喧騒が苦痛であり、時に恐怖にさえ感ずる何人かの生徒に出会った。
事例を挙げる。
3年生の、或る生徒(男子)は私が教室に入るまで廊下で待っている。理由は「教室の中がうるさいから」。
また別の或る生徒(男子)は、授業で私が冗談等を言うと机に顔を伏せ、私が本筋に戻ると顔を上げる。
もちろん反抗心を露わに出す生徒もいるが、その時の静かな生徒の哀しげな表情。これらは、それまでの勤務校でも同様のことはあった。しかし、その高校には集約的にあったように思う。
10代ならではの、若者ならではの瑞々しい感性は、繊毛のように心身を駆け巡っている。

高速と喧騒音の中での気忙(せわ)しい刻一刻、日一日。光陰の矢は背後から追いかけ追い越そうとする。怖れと不安。大人も同じではないか。 そこまでしないと、或いはそれに打ち克ち乗り越えないと真っ当な学校生活、社会生活はできない、と事ある毎に言葉を変えての叱咤激励? 精神科医院の看板をあちらこちらで見かける時代。 日本の繁栄への疑問。何度も繰り返される「豊かさとは?」の問い。
立ち止まることの、遊びの大切さ。
教師や上司、大人たちの愛情?を自負する叱声。「そんなことで合格できるか!」「倒れるまで働け!」
その日本は、世界最高の長寿国であり、少子化顕著の国である。旧態然の視点、生き方で良いのかとの言葉が過ぎる。
樹々の葉は新芽に押し出され落葉し、大地に戻り、次の糧となる、その自然の息吹き。若者への老人の生きた言葉と老人への若者の生きた言葉。その相乗、相互啓発に必要な静謐と平安の時。
キリスト教文化圏の、第265代現教皇ベネディクト16世は、現代の消費社会と商業主義を批判し、貧困を克服する過程で導かれる共生世界を言っている。

私は私事情から年賀状をやめ、寒中見舞いに切り替えたが、1年の初めの心の行き交いに生きることでの大きさを思う。
一年の計は元旦にあり。
年賀状から、今の、これからの日本を描くことも、ささやかな経験から韓国らしさとも中国(と言っても広く、香港もあるが)らしさとも台湾らしさとも違う日本らしさを思うのだが。