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2016年2月9日

故 郷・望 郷 [Ⅰ] 故郷・魂・故郷を去る

井嶋 悠

故郷は魂(たましい)、と考えると、私の故郷はどこだろう?私には故郷はない?との思いが、以前にも増して来た昨今、合点が行く。
魂はすべての人それぞれの“私”のすべてである。宇宙、自然から生まれた一人の人の生の根源であり、集成。私は母から、その母は母から……。玄のまた玄の世界。時空一切を超えた久遠の世界。小宇宙。
不滅にして無形、玄の究極無色透明の生きた証しとしての魂。色即是空。無窮の昼夜和光溢れる宇宙を飛び交う姿を思い描く。
死後の世界、そうあったら愉快と思い、そうあって欲しいと願う。そうでないと、愛し、敬した人々のあの死が永遠の別れでは、あまりに寂しく、言い得なかったこと、詫びたいことを伝えられない永遠の悔いでは酷(むご)くつら過ぎる。もっとも、霊、永遠の世界に、善悪、美醜、貧富、賢愚……、否、生死そのものがあろうはずもないのだからこれは杞憂以外何ものでもないのかもしれない。
そもそもこんな思い巡らせは、生者の憂苦からの勝手に過ぎないのだろう。

魂と書くよりひらかなで書く方が、私には心地よくなじむ。故郷もそうだ。ふるさとと書く方が、より慈愛に包まれた私を感ずる。きっと、女性=母性、男性=父性との図式を離れた母性に心傾く昨今の私だからかもしれない。もっとも、その心持ちは感傷(センチ)的(メンタル)なそれで、理知作用としていずれかに統一することなどできようがない。だからいつも私の心向くままに使い分けている。

恐(おそれ)山と日本海と太平洋を抱く青森県出身の奇才・寺山修司(1935~1983)は、虚構的?自伝『誰か故郷を想はざる』(1969年刊)に次のように書いている。
尚、私には彼ほどの感性や想像力、また意志力など微塵もないからか、魅かれ羨む一人で、次のような短歌に出会ってドキッとさせられた一人である。しかし、今も多い彼の前衛(カリスマ)性信奉者とは無縁である。

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」

「わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ」

「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」

「うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く」

「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」

[初期詩編より]

寺山の「故郷」に戻る。

――……魂の故郷をさがし出さない限り、私は「青森県の家なき子」のままで大人になって行ってしまうのではなかろうか。(略)私にとっての故郷とは、すでにまぬがれないものとして、在った。それは私の生のうちに根拠をもっていて、たった一篇の私の詩とさえ、不離の内的関係を目撃されていた。――

誰か故郷を想はざる。
寺山は、1940年に発表された、西條八十・作詞、古賀政男・作曲、霧島昇・歌の、戦地のすべての兵士が嗚咽し、ひたすら涙したと言う『誰か故郷を想はざる』を愛唱していたと書いている。その歌詞は以下である。

花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組みながら  唄をうたった 帰りみち  幼馴染みの あの友この友
あゝ誰か故郷を想わざる
ひとりの姉が 嫁ぐ夜に     小川の岸で さみしさに   泣いた涙の なつかしさ     幼馴染みの あの山この川
あゝ誰か故郷を想わざる
都に雨の 降る夜は         涙に胸も しめりがち   遠く呼ぶのは 誰の声       幼馴染みの あの夢この夢
あゝ誰か故郷を想わざる

故郷を持たない者はない。故郷はすべての人に等しくある。それも私が私として在る無垢な姿として。幼なじみ。神に最も近い幼子(おさなご)の世界。
私には、意図的に棄てるほどの強靭さはないし、国に、歴史に、棄てさせられた経験もない。しかし、その哀しみを持った、持たされた人は多い。奈良時代の防人をはじめ、抑留者、引揚者、からゆきさん……に到るまで。

詩に命を賭そうとし、故郷を去った二人。石川啄木(1886~1912)と室生犀星(1889~1962)。

父(住職)の罷免問題からの一家離散で故郷を去った啄木。

「石をもて 追はれるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」と詠い、

「病のごと 思のこころ 湧く日なり 目にあをぞらの 煙かなしも」と哀しみを負い、

帰郷することなく、「ふるさとの 山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」と詠った啄木。(『一握の砂』所収)

生後間もなく近所の寺に預けられ、10歳の時、実母が行方不明となった犀星。

ふるさとは遠きにありて思ふもの / そして悲しくうたふもの / よしや うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても / 帰るところにあるまじや / ひとり都のゆふぐれに / ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて / 遠きみやこにかへらばや / 遠きみやこにかへらばや (「小景異情」)
と詠いながらも、何度も故郷と東京を往復し、再生し、創作の源泉を得て、

うつくしき川は流れたり / そのほとりに我は住みぬ / 春は春、なつはなつの / 花つける堤に座りて / こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ / いまもその川ながれ / 美しき微風ととも / 蒼き波たたへたり (「犀川」』注;犀星の故郷、金沢を流れる川)と詠った犀星。                                     [ともに、詩集『抒情小曲集』所収]

私は、啄木の哀しみに、より切迫した哀しみの叫びを他人事の不料簡で聴く。長寿化、少子化にあって富国、殖産そして強兵!のためには“弱者”は捨て石となれ、それが愛国であり、日本に生まれた報恩であるかのような、そしてそれを支持する国民が過半数と言う現代日本社会への疑念、違和感が日毎に強くなる私は、1910年、「大逆事件」の直後に啄木が記した『時代閉塞の現状』の先見に感嘆する。

尚、この『時代閉塞の現状』、啄木が閉塞と断じた根拠が何なのか、100年後の今、何が変わって、何が変わっていないのか、社会と歴史と人間を改めて問い直すに最適な、学術性云々といったことから離れ、しかも短く取っつきやすい、資料の一つだと思う。
18歳選挙権取者になった高校生に、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」(二宮尊徳の言葉)は、私たち現代日本人に今どう響くのかと併せて、是非読んで欲しい。もっとも、文語文であることも含め分かりやすくするために本文を整理、再構成し準備している、否、すでに実施している心ある高校の社会科或いは国語科の教師が、きっとあることだろう。もちろん上意下達の教授法でなく。

西宮の産婦人科医院(私たち夫婦が、多くの人々が敬愛する人格的にも秀でたこの医師のことは、前回『年賀状』との表題で投稿した)で出生し、宝塚で小中高校を育み、23歳で早逝した娘の、或る時私に、鬼気迫る感もって言った言葉が甦る。

「私は、すべてを整理して、ここ(栃木県)に来た。」
「私は独り在ることを怖れない。しかし絶対の孤独は怖い。」

そう彼女に言わしめた[事、人]の具体を、私たち親は彼女の言葉から知っている。もちろん、自責に立ってのこととして。とりわけ、その事、人の一つである教師であった私は。彼女は少数派かもしれない。しかし、私たちにとって絶対である彼女は故郷を棄てた。
やはり!?私たち親が棄てさせたのだろうか。