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2016年3月31日

発心と私と日本と因縁 ―娘の死から4年、先日の愛犬の死―

井嶋 悠

我が家の愛犬「ひな子」が、血液の病で死んだ。
一旦快復していたが、急変し、急遽入院した医院で。10歳になる2日前の早朝のこと。
私たちのもとに来て9年半。主人は4年前の4月11日に憂き世を23年間で通り過ぎて行った娘である。たぐい稀な程に謙虚で賢明な、娘の死の際、「クーン」と泣いたその犬である。そのことは以前投稿した。
娘の死後は私の寝床を暮らしの拠点に、昼夜共に私たちと過ごしていたので家族そのものであった。
栃木に移住して10年、その間この地で、私の母と娘、関西から連れて来た愛犬2匹(〝匹“と言うのは、「匹夫」との言葉も重なって違和感があるが)の死に会った。すべて居宅でのことである。
ひな子の我が家へ来る経緯と娘、その娘の死、それらと加齢が手伝っての途方もない試練の心境変化が重なり、妻共々ことのほか哀しみが強い。
このような時、運命(さだめ)との言葉がよく使われるが、私たちと同じ体験をした多くの人たちと同様、頭と心がかけ離れた言葉である。「言葉は身の文」を、更には、言葉は生きている中でこそ、と思い知らされる。

晩年の孔子が、弟子の子路の、死に係る問いに対して「未だ生を知らず、いずくんぞ(どうして)死を知らん(知るはずもない)。」と応えた由。
専門家の説明によると、孔子の、死後の世界を問題としない現実主義、非宗教性が表われている云々、とのことだがそれはそうとして、私が如き凡俗が言うと単なる開き直りにしか響かない言葉が、孔子のような人物が言うと、どこかほくそ笑み的安堵感を持つ、そんな私がいる。
私にとって、死は怖れであり、死後は不安である。今もって無とか自然とかゼロとの語群は語群の中に留まっているだけである。
鎌倉時代初期の禅僧で、曹洞宗の開祖道元は、そんな俗人の自分本位の貪欲な性(さが)を言い、「(その)自分中心の考え方を離れるにはどうしたらよいかと言えば無常を感ずること、これが第一になさなくてはならない心構えである。」と、言っている。(古田 紹欽(しょうきん)の現代語訳『正法眼蔵随聞記』から引用)
古稀を過ぎ、身内のまた近しい人たちの死に会い、これでも以前より少しは「眼は人間のマナコである」「以心伝心」の真意が分かって来て、これらの言葉の心に銘ずる度合いは強くなりつつはあるが、一方でまだまだ隔靴掻痒で、そんな自身に苛立つ言葉でもある。

この一か月の間に曹洞宗の三つの寺とつながった。仏教でいう「因縁」(内的要因の「因」と外的要因の「縁」)を思う。
一つは、井嶋家菩提寺「無学寺」(京都)。4月の供養をお願いしていた、娘の永遠の拠点となっている寺。
一つは、現居住地から車で1時間ほどに在る「大雄寺」。娘とも訪ねた寺で、娘の4回忌供養に無学寺に行けなくなったためあらためて詣でた寺。
一つは、現居住地から車で30分ほどに在る「宗源(そうげん)寺」。ひな子を荼毘に付し、供養くださった寺。

愛する者の死は、人を己が生き方に目覚めさせ、「発心(ほっしん)」に向かわせる。
慈母の死が発心に向かわせ、後に高僧になった人は多く、道元もその一人である、と何かで読んだことがある。「悲・哀」しみを自己修練に導き「愛(かな)」しみに昇華し得た人たち。宗教関係者に多いのがうなずけるが、そこに限定しなくとも“無宗教”の日本では、広くそういう人たちがいる。
(左記の無宗教の無とは「ない」の意ではなく「限り無く」の無である。これについては、以前に投稿したのでここでは立ち入らない。)
そして私もその末席に加わろうとして3年が経つ。その私は仏教系ではあるが、帰依するほどの学習も座禅(道元の説く「只管打座」など遠い世界)もない薄っぺらな「無宗教」者である。
多くは「慈母」で、「慈父」ではないだろう。そこに仏教を想い、日本を想うのは他のアジア仏教圏の国々・地域の人々に独善の不快を与えるだろうか。

『日韓・アジア教育文化センター』の活動を介して日韓中台の様々な人たちに出会った。多くの共有を体感したが、違いを知ることも当然あった。その一つが、心の在りようの違いである。
それぞれに生の、個の強さがある中で、日本のそれは“柳の強さ”のように思える。一見なよなよしているが、「柳に風」の、「柳に雪折れなし」の強靭さ。私の好きな日本語で言えば「たおやか」である。そして日本では「たおやめ(手弱女)」と言う。女性の、更に言えば母性の強さである。
それに比して韓国や中国のそれは“鋼(はがね)の強さ”である。父性の強さである。
ことさらに言うほどのことではないが、母性、父性と性としての女、男は、等記号でつながるものではなく、母性の強い男性、父性の強い女性との表現が成立すると直覚している。

昔、聖徳太子は、当時の中国王朝隋の皇帝煬帝に「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」との書簡を送り物議をかもしたそうだが、東は日の出の地に違いなく、蓬莱の国は東海に在ると信じられていたし、海は「母」を表わし、日本の神の祖は天照大神、女神で、倭の国の王(おおきみ)は卑弥呼である。
聖徳太子の偉業の一つ『17条憲法』の第1条・根幹は「和を以って貴しと為す」で、日本の古称は大和の国である。
あまりに乱暴な言い草は承知のことだが、日本が母性の国である背景が揃い過ぎるほどに揃っている。

現代日本の根底「大和魂」は「武家文化」で父性、との指摘はよく耳にするが、その武家性が確立された江戸期の、後世また現在も大きな影響力を持つ、古典文学・思想研究者本居宣長の大和魂に係る人口に膾炙(かいしゃ)している歌は次である。

「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」

日本も永い歴史にあって何度か発心を持った。
その中で、現代(現在)を考える最も至近の発心は、1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争での敗戦であると思う。その私は8日後、長崎市郊外で出生した。海軍軍医として赴任していた父から被爆前後の軍等一部上層階層の人々の自分本位の貪欲な執着の実態を聴いて育ったこともあって、近代化を考えるもう一つの指標、明治維新より実感に近い。
唯一の被爆国でなおのこと、私たちは非戦の誓い、また民主主義が私たちにまばゆい未来を与え、それらの内的要因に、朝鮮戦争、ベトナム戦争等による戦争特需の外的要因が重なることから、奇跡の経済復興と発展を遂げ、今日在る。

しかし、私を含め首を傾(かし)げる人が確実に増えている。これが、日本が目指す或いは本来の姿なのだろうか、と。
その具体的根拠は、私の教師体験と人々との出会いを糸口に、「対症療法施策の限界」を根底に、政府の発する厚顔無恥の、国民を愚弄しているとしか思えない標語について、言語への冒涜と嫌悪と併せ何度か投稿したので、繰り返さない。それに我執今もって強い身ゆえ、繰り返すことでの寂しさに陥りたくない私もある。
ただ、選挙権を持つ大人たちすべての問題であることを承知で、国を地域を主導する政治家、その政治家を支え誘導する官僚、有識者、またそれらに追従し広報するマスコミの人々に以下の二つは是非聞きたい。具体的根拠の根底に係ることと思うので。すでに意思表明されているのかもしれないが。

・道元は、自己中心の哀しみから離れるためには無常の自覚の必要を説き、別の場所で、「無常は極めて速い」と言う。国、地域を動かす立場にある人たちは、そのことをどう受け止め、己が行動にどう反映しているのか。

・「経済」の語源は中国古典の「経世済民」(世を経「おさめる;統治する」め、民を済「すくう;救済」)と言われる。資本主義社会にあっては、後者の意味は希薄になったとのことだが、殖産・貨殖との関係をどう考え、また「知るを足る」の「足る」の具体的像をどう考えているのか。

ノーベル文学賞を受けた川端康成は、ストックホルムでの授賞式で、道元の次の歌を引用して日本を語った。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

日本と自然、日本人の自然観を語るのだが、この歌の要諦(ようてい)は「すずし」ではないかと思う。
『古語辞典』(旺文社版)から語義を引用する。

① 涼しい ② 澄んで清い ③心がさわやかである ④潔白だ、とあり、その後に「涼しき方:極楽」が、併記されている。

私の拙い言葉で説明する必要などないだろう。

もう一つ、『正法眼蔵随聞記』から引用し(同じく古田紹欽の現代語訳)終える。

「たとえ仏祖の言語であっても多方面にわたることを好んで学してはならないのであり、一事でさえ専(もっぱ)ら修学することは愚鈍、劣等のものにはできないことなのであり、まして多事を兼学して心の操(みさお)をととのえるであろうことは不可能なことである。」

これは仏教[禅]修業での心構えとして言っているので、私のような者が言うことは敷衍(ふえん)し過ぎとの咎(とが)を受けるかとは思うが、「あれもこれも」ではなく、せいぜいで「あれとこれ」とすることの大事を思う。
「博識・博学」は賞讃とは思うが、単なる知識の、それも生実感の響きのない、集積多は虚栄と思う。
いささかの飛躍から、日本にあって「八方美人」は誉め言葉ではない。
このことは私の今日の学校教育への疑問に通ずることなのだが、このことも既に投稿したので省略する。
ここでは、日本は「どこに行こうとしているのか」との文脈で付け加えた。

「寄らば大樹の陰」? それとも「鶏口となるも牛後となるなかれ」?

明日は4月1日。当地はこれからだが、西の各地の桜花満開の報せが伝えられている。
娘が心魅かれていた「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の 如月のころ」(西行)を心に刻み、春を過ごし、夏を、秋を、そして歳毎に厳しさを実感する冬を迎えたい。