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2016年5月1日

皐月(さつき)の鯉の吹き流し ―言葉に二心無しまた時代閉塞風穴私感―

井嶋 悠

 

熊本・大分地震災害者救済で、それまでの被災地と同じく、救済する側、される側から「プライバシー」との言葉がよく出る。聞いている私も特段抵抗があるわけでもない。しかし、ではその内容を簡潔に表わす日本語となると思い当たらない。かのアイデンティティと同様。因みに、手元の英和辞典『研究社版 ライトハウス英和辞典』には、「他人から干渉されないこと。個人の自由な生活。プライバシー。」とある。語義最後の一語がどこか微笑ましい…。紙一枚の居住文化を当たり前に過ごして来た日本人の“察し”の伝統文化感覚には、「プライバシー」との言葉(理知)はあるようなないような、そんな存在だったのかもしれない。
それがために2005年に施行された【個人情報保護法】の運営で、例えば「学級連絡網・卒業アルバムが作れない」、「医療機関への個人情報の提供を拒む」等々、施行側とされる側の意識のズレが生じている。と言っても、私自身、どこまでが正常反応でどこからが異常反応なのか、正直分かって分からない。
もちろんここで言う「察し」とは、対している他者が、今何を想い、何を考えているかを慮(おもんばか)る、思い遣る心の働き、心の美のことを言っているのであって、政治家の誤魔化しあいまい語法とか熾烈な国際競争下でのビジネス対話での誤解といった領域での察しについてではない。

元国語科教師で、日本語教育にもいささか携わった私ながら、スピーチとかディベートといった「話す」自己主張が私の皮膚感覚には甚だしい人為と反応する、平成の世にあっては教師になれない旧時代人である。しかしその私が、教職最後の10年、日本で初めてのインターナショナルスクールと私学中高校の協働校で、インター校の教職員や保護者の多くとかなり心地よい時間を過ごした。それは、30年以上前の公立中高校英語教育だけの私のカタコト英語への、英語を第1言語とする、また日本語を第2第3言語とする人々の「察し」があってこそで、そこに東西異文化はないと思うが、それでも「察し」は日本の伝統的文化であると思う私がいる。
ただ、日本語を第1言語とする者(ほとんどは日本人)同士での察しは、あまりかんばしくなかった。おそらく日本人同士であることの「甘え」の悪しき面なのだろう、と知より情の私は思っている。

何年か前から江戸時代回顧が起こっている。時代の閉塞感を強く直覚する人が増えて来ると歴史を顧みることは人類の歴史で、これもその一つだろう。或る人は明治維新を見、或る人は古代を見、或る人は江戸時代を見る。と言う私は、江戸時代の江戸の町衆、庶民の生き方に生きる力を教えられ、「江戸っ子」との言葉に痛快な爽やかさを直感している。そして、その江戸っ子の心意気・生き様を見直すことが、現代の閉塞状況に風穴を開ける端緒になるのではと期待を込めて直覚している。

その私は「京都人(京都っ子とは言い難い)」で、妻[カミさん]は「江戸っ子」である。『東男と京女』の逆版である。ただ、その『東男と京女』の語義には疑問がある。例えば、『故事・ことわざの辞典』(小学館)では、「男は、たくましく、きっぷのいい江戸の男がよく、女は、美しくてやさしい京都の女がよい。」とある。
「たくましく、きっぷのいい」と言われると、私など、江戸モテ男代表3人衆(火消し、与力。力士)を思い浮かべるし、「美しくてやさしい」と言われると真(まこと)の芸妓を思い浮かべ、どうもしっくりこない。現に、私の6歳年上の見た目も併せ生粋の京女と思う従姉妹はしたたかに強い。正に柳の迫力美である。
このことは、中高校学習で出会った、平安時代に「哀しみと愛(かな)しみ」を一身に受け止め、絢爛と在った女性歌人、作家を思い起こせば明らかだろう。

そんな私の描く「江戸っ子」は、男女問わず、底抜けに善良で表裏なく、曲がったことが大嫌い、利他あっての利己の心に溢れ、深謀遠慮など遠くの世界、と言っても苦しみ、哀しみは世の常人の常と同じに抱えながら一日一生涯の心意気で、当時の平均寿命50年を意図しない“自由人”として駆け抜ける。そして断然母系(母権)社会の清々(すがすが)しい「かかあ天下」である。

そう私に定着させたのは文学作品体験と言いたいところだが、積極的に心形成に与かったのは以下の、幾つかの直接体験の混淆である。

それは、小学校時代東京転校での3年余りに遭ったかの“東京(江戸ではない)一番”意識にさらされた苦い思いであり、20代での2年間の東京放浪であり、それらが負に絡みついた根(デ)なし(ラシ)草(ネ)的憧れであり、銀座4丁目の小学校にアメリカ駐留軍兵士や日本人騎馬警官の横を通学していた3代続く新橋の生まれ育ちのカミさんであり、そのカミさんに教えられた漫画家にして江戸時代文化研究者で無類のそば好きの杉浦日向子(1958~2005)が絵(漫画や挿絵)と文で描く江戸庶民の、男女の愛らしさ溢れる叙情であり、3代目古今亭志ん朝(1938~2001)演ずる江戸落語の世界である。

ところで、私は亡き父親が酔うと「我がご先祖様は片足だけ殿上していた殿上人」とうれしげに言っていた一族の末裔ではあるのだろう(家系を見たこともないので)が、流布している京都人特有の自負、特権意識に、またそこからの閉鎖性とかに過敏に反応することもない。
ただ、インターネット上で知った文筆業を生業としていると思われる男性の無記名の随筆『京男と伊勢女』の、雅に寄りかかったただの色狂い京男との嘲笑、蔑(さげす)みに触れ、それが結構世にまかり通っていることと、東京人(江戸っ子ではない)にしばしば見掛ける軽薄極まる独善と権威を振りかざす姿と合わさって年甲斐もなく無性に腹は立つ。因みに、その執筆者は、天照大神を祀る伊勢神宮の地の女性「伊勢女」を「《超》田舎娘」と罵倒している。その人が東京人かどうかは知らないが、寂しい人だ。

江戸は、1800年代以降、160万人が住んだ大都市だが、内江戸っ子たる庶民は100万人で、江戸市中(東は浅草、亀戸近辺、西は四谷、新宿近辺、南は品川近辺、北は板橋、日暮里近辺)の2割ほどの地(約10㎢)に住み、約7割は「九尺(くしゃく)二間(にけん)」(間口九尺〈約2、7m〉・奥行二間〈約3,6m〉)の【棟割長屋】に生活していたと言う。
察しと連帯こそが生き、暮らす基本であったと言える。或る調査で江戸時代に魅かれる理由として「人と人の心のつながり」「日本人らしい生き方」を挙げていたが、その人の心底には、「言葉の前の察しと間(ま)の人と人のつながり」「天意(自然)に委ねた生き方」への回帰と憧憬があるように思える。。
子ども部屋や洋間が各家庭の一般とさえなっているプライバシー保護意識の現代生活にあっては、察しは化石文化の道をたどるとの相関があるならば、それこそ文明の問題であろう。有形と無形の不即不離。

江戸っ子は“粋(いき)”を身上とする。(「粋」は、「いき」「すい」両方の読みについては、以下で触れる九鬼周造と多田道太郎の考えに従って、江戸の「いき」、上方の「すい」とする。尚、九鬼の著書名は「いき」である。)
その粋。ここでは粋について拙文を重ねるのが本意ではないので、風穴私感との関連から少し触れる。

粋を考えたくば、九鬼 周造(1988~1941:東京出身。東大卒業後、ドイツ・フランスに8年間留学した哲学者で、京大教授)の『「いき」の構造』が、白眉とする人が多く、杉浦日向子もその一人である。
私も以前読んだことはあるが難解との印象しかなく、昨年再読したが未だ十全ではない。能力の無さと言ってしまえば楽なのだが、その理由が書の内容云々の前提?或いは根柢?にある、男女の恋情の綾、それも「緊張感」に詰まされた綾、が私に決定的に欠けていることに気付いた。
吉田兼好言うところの「色[恋愛の情趣]好まざらん男はいとさうざうしく[もの足りなく]、玉の盃の底なきここちぞすべき。」の、その男の私だからではないか。

もちろん実際に多く経験を積むことが豊かな智慧者・求道者となるかとは思うが、量の問題ではなく、質(想像力?)の問題であろう。それは、九鬼が引用する永井荷風などを思えばそうだし、何かで読んで我が意を得たりと思った夏目漱石の女性描写でもそうだ、と“色街”(この言葉に強い関心を持つ一人だが、どうしても「苦界」との言葉が襲う)を知らない“野暮”な私は我田引水している。

それでも以前よりは得心できるようになった。そこには、文庫版『「いき」の構造』巻末の多田道太郎(1924~2007:京都出身のフランス文学研究者で日本文化研究者)の歯切れの良い解説に助けられているかとも思う。因みに、47歳で逝去した日向子さん(お江戸日本橋生まれの江戸っ子)は、晩年に少しは理解できるようになったと書いていた。天賦の才と生後の自力後天力の決定的違い……。閑話休題。
九鬼曰く、「いき」の定義(九鬼の言葉では「徴表」)は、「媚態」「意気」「諦め」。以下、それぞれについての九鬼の言葉を引用する。

媚態:「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」
《参考》この言葉の前後の九鬼の表現を引用する。(私が、少しは分かるようになった一部でもある)
――媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。いわゆる「上品」はこの二元性の欠乏を示している。――

意気:「意気地」「宵越しの銭を持たぬ」誇り。「反抗(心)」

諦め:「あっさり、すっきり、瀟洒たる心持ち」「垢抜け」「運命に対して静観を教える」「仏教の世界観」

男と女の愛、情が象徴する人生の華、理想と現実の七転八倒。浮き世にして憂き世或いは憂き世にして浮き世。「張り」と「意気」。生き甲斐を極致的に表わしたかのような抽出。
先に記した私の「江戸っ子」像はここに重なって行く。その江戸っ子たちは散り散りの現代東京。物質と情報にまみれあえぐ虚栄の世界の大都市東京。物心格差の止めどもない広がり。魔性的魅惑。心の闇……。苛立ち。
文明の進歩が、モノ・カネを前提とした前進に非ずを痛覚し始めた私たち。

「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し、口先ばかり腸(はらわた)はなし」
情報化と複雑化に邁進する社会にあって、幼い時からひたすらに己が選択(アイデンティティ)を求められ、「合理」こそ最善、の一方で、人類誕生以来本質的に変わらぬ魂の苦悶を抱えている私たちにとって、江戸っ子の気風(きっぷ)の一つ、「江戸っ子は皐月の鯉の吹き流し、口先ばかり腸(はらわた)はなし」を、五月晴れの天に泳ぐ鯉、五月雨に身を委ねる鯉、を思い浮かべ、「一言がのどを掻っ切る」その言葉の重さをかえりみればなおのこと、安易に、冷ややかに打ち棄てられるとは到底思えない。

このことは、江戸っ子を研究者として極めたと言われている西山松之助(1912~2012)と文化史研究者小木新造(1924~2007)編の『江戸三百年③ 江戸から東京へ』で知った、「江戸っ子の心意気が近代市民社会にも、必要不可欠な精神であること」(左記書からの引用)を支柱にして1889年(明治22年)創刊の『江戸新聞』やその10年後に創刊された『江戸っ子』新聞からも、単なる私感とは言えないのではないか、とこれまた我田引水している。