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2016年10月31日

優れた人たち ―言葉と気と静謐と―

井嶋 悠

 

先日(10月20日)、7時間余りに及ぶ妻の心臓手術に天意は命の継続を与えた。その天意を現身(うつせみ)として与えたのは、専門意識高く人格豊潤な4人の医師(すべて男性)と人為のわざとらしさとは無縁の微笑みで献身する看護師たちである。(因みに、その人たちはかの著名な公私立大T大K大等々ではない。)
「病は気から」の、手術に向かうまでの10日間の医療に携わる人たちの心遣い。和み。「医は仁術」の知識でない実践が創り出す静穏に私たち夫婦は包まれ当日を迎えた。
そこにはくどくどしい言葉はない。あるのは端的な言葉だけである。饒舌な言葉で愛を語る偽りがない。言霊との表現にはその直覚が端緒にあるのかもしれない。だから「言霊の幸(さき)はふ国」は世界すべての国・地域の人々の願望であり畏怖となるのだろう。私は日本人で、日本語を母(国)語とするから『萬葉集』からそれを知る。言葉に異言語はあるが、霊、魂に異文化はない。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」(『新約聖書』ヨハネによる福音書冒頭)は、西洋文化の基盤の一つキリスト教の言語観である。国際文化=西洋(欧米)文化、の近現代にあって、だから英訳聖書で「言葉」は、「Word」の大文字で始まり、時に「LOGIC」と訳されるのだろう。

手術が終わり執刀医から経緯と現在の説明を受けた時、2012年春に娘を天上に見送った私があったからなのだろう、深奥から安堵がこみ上げ、脱力が襲い、一瞬遥か遠くに引き込まれて行く私がいた。ふと娘の葬儀で妻が私に言った「今年もう一度葬儀をするのはいやだからね」が甦る。
娘が無言で私に与えた自照自省を何とか今も続けているのは、石原裕次郎最後の曲『わが人生に悔いなし』(作曲:なかにし礼 作詞:加藤 登紀子)(1987年)の表題よろしく呟いて、娘と再会したいとの一念があってのこと。感傷(センチメンタル)で溺死することなく、哀しみを我が身のものとする難題に、冷たささえも時に痛覚する文字[書き言葉]を連ね、投稿と言う公に向かう支離滅裂、甘え……。
それでも、私がこれまで生き、血肉となっていると実感する言葉を使って書くことで、自身を、中高校教師であった私を、確認したいと3年半が経った…。

曲の詞を一か所引用する。

「たった一つの 星をたよりに / はるばる遠くへ 来たもんだ / 長かろうと 短かかろうと/わが人生に 悔いはない」

私にとってこの曲の3人に思い入れはないので表題があるだけだが、中原 中也(1907年~1937年)の『頑是ない歌』は心に沁み入る。一部分を引用する。 [参考:この詩は、詩人の死の半年後の刊行された詩集『在りし日の歌』に所収。尚、死の前年に長男(2歳)を、中也死の3か月後に次男(1歳)を、それぞれ病で亡くしている。]

『頑是ない歌』

・ ・ ・ 思えば遠く来たもんだ 此(こ)の先まだまだ何時(いつ)までか 生きてゆくのであろうけど / 生きてゆくのであろうけど ・ ・

さりとて生きてゆく限り / 結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)/ と思えばなんだか我(われ)ながら / いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ / 結局我ン張るのだとして / 昔恋しい時もあり そして /  どうにかやってはゆくのでしょう

中原中也の詩は歌謡曲の(歌)詩(詞)であるとの評者の言葉に接し、どこかでなるほどと思う自身を否定しないが、私の中で、『頑是ない歌』からは詩が伝わって来るが、『わが人生に悔いなし』からは伝わって来ない。

美空 ひばり(1937~1989)の『川の流れのように』(1989年)は、カルメン マキ(1951~)の『時には母のない子のように』(1969年・作詞:寺山 修司)世代?の私にとって心震わされた曲で、海外帰国子女教育に携わっている時に、在留子女の父親から聞いたエピソードは深く心に今も在る。

感傷の言葉に恥ずかしさを思う私は、論理【合理】を愛し、それを信条として生きる人に敬意を持つ。しかし、後者は私と別次元別世界の人たちで、そうかと言って感傷を高め、澄明溢れる感性派にはほど遠く、怠惰で感傷溺死の際を彷徨(さまよ)う凡夫に過ぎないが、それでも思い巡らす愉しみに生を得ている。
日本の詩は、西洋や中国の詩と比して、短詩型や「五七調・七五調」との定型はあるが、自由詩謳歌?の世界と言われ、そこから“日本(人)的なもの”を思ったりもするが「君子危うきに近寄らず」で、閑話休題。

音楽は神の直覚に最も近い芸術で、詩がそれに続くとされ、私自身、その多少深浅は別に、だからそれらから琴線揺らぐとき、生と死の象徴が瞬時に引き起こされるのだと思っている。娘が死をもって私に生を、妻が2度目の(1度目は幼少時の肺炎)死線一歩手前から新たな生を自身に、同時に私に生と死を思い知らせることになったように。
そう言う私は、この数年、時空共々「思えば遠く来たもんだ」と善きにつけ悪しきにつけ血肉こもった言葉で溜息つくことも少なくはない。

「屋下(ここでは敢えて"下”とする)に屋を架す」ながら、歌謡曲等にあって作詞・作曲の順に記されるのはなぜだろう?と、これも論理優先社会の一つの徴(しるし)なのか、と久しく思っているだけで留まっている。
先に「病は気から」を「医は仁術」の人々から記した。病を抱えている人への慈しみ。慈愛。励まし。それがあってこその「病は気から」の言葉の力だが、妻の場合、彼女の生来素地がその力を倍増させ、「手術が2か月遅れていたら危なかった」(執刀医の言葉)にもかかわらず快癒方向に向かわせているらしい。
それに係る、医師がきょとんとした微笑みを誘った幾つかのエピソードから3つ。

○心臓弁膜を取り換えるにあたって「人工弁か生体弁」の自己決定のための長短説明で、生体弁はアメリカでそのために飼育されている牛から採ることを聞いたときの彼女の質問。
「その牛の肉はどうするのですか。」
尚、彼女の意志決定は生体弁であった。

○手術中は全身麻酔云々との説明の中で、35年ほど前、腹膜炎のため、自身の命か世に出る準備をしていた娘の命のいずれかの死を覚悟してくださいとの敬愛する医師の言葉を思い起こし、言った言葉。
「手術を中継映像で視ることはできないのですか。自分の心臓を視るなんてとても貴重に思えて。」

○手術後の集中治療室[ICU]で数日治療を受け、退室し、病室に戻る時の言葉。
「とてもいい勉強の時間でした。」
集中治療室には5人ほどの患者がいて、彼女が在室中に1人は亡くなり、また看護師たちの昼夜問わず超人的働きに接し、荘厳と尊敬から感銘を呼び起こしたことがこの言葉の背景。

これらの発言は、何度も記して来た「江戸っ子気質」にやはり通じているように思える。
日本は今や世界の最長寿国で、2016年の世界保健機構[WHO]の発表では、男女平均値で日本は世界1位で、83,7歳である。因みに、明治の文明開化で医学の師であったドイツは81歳で世界24位にある。
これは妻の救い手であった医師や看護師、研究者、技術者があっての賜物だが、私の中で「寿」は寿ぎの字義に向き「格差」の現実と背景を知れば知るほど素直に首肯できないでいる。しかし、高齢化との表現にも事実[客観]の冷たさを感じていて、未だ適語を見つけていない。

私たちにとって切実な現実の一つ「年金」問題。
「胴上げ型」から現在の「騎馬戦型」そして2050年頃には「肩車型」になると言う。年金額の多少は、その動機、経緯、背景等には今は触れないが、現職中の給与からやむをえないこととしても、しかし例えば、24時間営業のコンビニがそれを為し得るのは現場の人間があってのことで、企画室等だけで実現できるはずもない。(下衆の勘繰りに過ぎないが、首都圏等で留学生を含めた外国人働き手を、時にあたかも使い捨て的にあてにしている、などということはないだろうが。)

様々な現場の人々の統合があってこその経済大国、国際社会牽引国日本、との考え方が論外でないならば、広く社会保障の財源不足を言い、増税また値上げを容認する政府が主導する日本は、少なくとも私にとって“大和”や“日の本”の心像(イメージ)はますます遠くなり、国際間の現在を戦時的緊張感の時代で括る現代にあっては、時代後れと言う意味での時代錯誤人なのだろう。
中学校高校で大人(教師)たちがしばしば当たり前のように発する、分かるような分からないような、結局は分からない表現、「中学生(高校生)らしい服装、行動」「中学生(高校生)らしい(更に限定しての中学校1或いは2或いは3年生!?らしい)表現」云々に照らせば、隠居は隠居らしくあってこそが謙譲であり美徳であり、それができないのは“枯れない”落葉樹!と言うことなのだろう。

時代が進み見栄えがモダン!化しても核心が変わらなければ、結局は[画一(化)]「全体(化)」に容易に戻る怖ろしさは古今東西の繰り返し。それを“人間の限界”と言ってしまえばそれで事足れるのかもしれないが、そこを突き破る思案なくして若者を一方的に虚無的とか無気力とか家畜・ペット化と批判することはあまりに傲慢で、寂しい。
私にあるのは、娘が激しく与えた自照自省への気だけであるが、年齢相応の体力減少体感の多い日々ながらも、もう少し私の思案を、それがどんなに拙劣かは自覚しているが少なくとも私の言葉であることだけは大切にして、続けられたらと思う。その時、1991年以来浮沈を繰り返すも何人かの絆を持ち得た人々によって存続する『日韓・アジア教育文化センター』に思案を投稿できる幸いを噛みしめている。

たまたま観た北野武脚本・監督・(主)演の『菊次郎の夏』(1999年)で多用されていた、主人公たちの歩いて立ち去る後ろ姿を固定したカメラでひたすら追う映像、また北野武氏演ずる菊次郎が哀しみに突き上げられカメラを凝視する表情、それらの静謐な画面が思い起こされる。そこに言葉はないが観る者の心を揺さぶる音楽(音楽監督:久石 護)がある。映画での映像と音楽の相乗。
北野氏の映画は“全員悪役”以外私の中に入って来なかったのだが、ひょっとして氏は真の“喜劇”人なのかと遅まきながら思え、氏と山田洋次氏・渥美清の三人それぞれの映画観、人生観はたまた言語観に、私が私を視る何かのヒントになることがあるようにも思えた。偶然の人為を越えた示唆……。

最後に、寅さんの決まり文句の一つ。「それを言っちゃあおしまいよっ」に誘発されて。

「言葉の氾濫」と言われて久しい時代。氾濫は生物を死に引き込み、人の心は麻痺する。当たり前のことをくどくどしく言葉で諭せば、10代(に限らないが)の多くは爆発か忍従に追い込まれる。
電車内アナウンスの「席を譲れ」「携帯をマナーモード(この表現も日本的?)にせよ」「足を伸ばすな」「床に座るな」等々の短い駅間での息つく暇のない道徳説諭。それも機械音声で。
首都圏をはじめとする大都市圏の駅での、とりわけ元国鉄現JR駅での、エスカレーター不備、切実さ最たる一つ「手洗い」への不親切(相変わらず“ご不浄”感覚なのか。)に、日本人の私たちが困惑しているにもかかわらず連呼される、観光立国日本、「おもてなし」の国日本。観光も仁術であるはずなのに、これでは「観光は算術」の日本と揶揄されるのも時間の問題……。

具体的感覚的?日本人?にとって言葉は、遊戯(たわむれ)の「記号」と言うことなのだろうか。

そもそも東京オリンピック誘致での、IOC総会での当時都知事であったI氏の下品な勧誘スピーチに諸外国の委員が賛同したのだから、現代はそういう時代なのだろう。
「(だから)それはちゃんと言っただろう」と。