ブログ

2017年6月6日

『たけくらべ』再読 ―私と浅草、そして吉原―

井嶋 悠

若年時より、自分に都合よく言えば『書を捨てよ、町へ出よう』(かの寺山修司〈1935~1983〉の評論集(1967年)、併せて演劇、映画の表題)で、20代後半からの中高校国語教師時代も授業、クラブ顧問(監督)、校務で超精一杯の日々、その後は痛飲で、土壌ないにもかかわらずの狭小の読書、学習体験・見識ではあるが、樋口 一葉(1872年〈明治5年〉~1896年〈明治29年〉)のこの作品は、日本文学史上不朽の名作10指の一つだと思っている。
(昭和生まれ(20年)からなのか、明治、大正、昭和といった元号の方が、西暦より親近感が湧く。しかし、なぜか平成にはそれがない。これも老いの感性?)

 

「廻れば大門の見返り柳いと長、お歯ぐろ溝に燈(とも)火(しび)うる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の往来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前とは名は佛くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形(なり)に紙を切りなさいて、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるよう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず……」の、

凛として美しく端正な顔立ちの眉間に少しばかり皺立て思案に思案を重ね、文机に向かい、毛筆を一気に滑らせる姿が思い描かれる書き出し。音楽の文体。

 

「龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説(うわさ)をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象(さま)に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。」の、

〈一輪の水仙に象徴される清らかさと淋しさ〉の、清澄な画(え)が脳裏いっぱいに広がる結び。

 

下町の、吉原の、大人に差し掛かる不安をふと過ぎらせながら、一日生涯そのままに活き活きと子ども時代を過ごす少年少女たちの、大人たちの、濃やかな描写に、時を超えその場に舞い降り、共に哀しみと愛(かな)しみを共有する私たち。内容と文体の見事なまでの一致。
この作品は、中高校教科書に抄出であれ、口語体に直したものであれ、相当高い率で採られているので、現在18歳以上のかなりの人が、目あるいは耳で接していることになる。凄いことだと思う。よく覚えていない人も多いとは思うが、それは教師の、また“あれもこれも”の[基礎・基本]現状かとも…。

私の高校時代の、厳(いか)めしく近寄り難い国語教師(50代の男性)。私たち悪童の態度・悪戯の時も、溢れる慈愛の眼は隠しようがなく、しかしそれを一切表に出されなかった昔気質の、だから私たちは畏敬していた、今は亡き先生は、彼女の美しさをどれほど讃えておられたことだろう。
その先生が、劣等生以外何者でもなかった私に、定年退官後著された『芸道思想』に係る研究書をわざわざ送って下さった時の驚愕、差し上げた年賀状の毛筆によるご返信で、いつもご自身の漢詩を添え、(我が学力を承知して、鉛筆書きの返り点と送り仮名付)くださった葉書は私の宝物の一つである。なお、そのご子息は、20年ほど前から北海道で高校の体育科教員をされている。

 

そんな私が、その先生と同僚(剣道4段ならではの背筋厳しく、強面ながら、おかしみを漂わせた古典主担当の男性)の先生の、なぜか!ご厚情を得て教師となり、小説教材を、限られた時間と授業展開法での悪戦苦闘、試行錯誤も懐かしく思い起こされる。
ところで、在職中に直接聞いた中高校大学一貫教育の或る私立中高校では、時間とは関係なく、作品を読解・鑑賞する旨聞いたことがあったが、今はどうなのだろう。
これらの直接間接体験が、これまでに何度かこのブログに投稿した中高校教育制度と内容に係る私論の原点となっている。

《いつもの余談》
5000円札の肖像は樋口一葉だが、発行時あの画には甚だしく失望した。才と孤独と貧苦の中で磨かれた凛とした美しさがどこにもない。まあ、10年前からの年金生活、5000円札(いわんや一万円札においてをや)にまみえることは千載一遇だから良いのだが。
閑話休題。

 

吉原は浅草・浅草寺の裏手、約1キロの所に在る。
私にとっての浅草は、小学生の時、近所のお爺さんが連れて行ってくれ味わった(当時私は大田区在)バナナの、衣類の露天たたき売りの、心躍る時間で、今の世界的!?一大観光地の喧騒とは無縁だった。
その後、20代[1970年前後]での東京生活時に訪ねた浅草も、[六区]はまだ活きていた。そこで得た情感があってなおのこと、渥美清や、萩本欣一さん等々に、勝手な親愛感を寄せていたと思う。
(一時代を築いた『コント55号』萩本さんの相方坂上 二郎(1934~2011)は、晩年、私たちが今居る那須に移住し、『東北大震災』の翌日、那須で亡くなった。日ごろお世話になっている那須生まれ育ちの50代女性の言った言葉が、坂上さんの個性に魅かれることが多かった私なので、強く残っている。

「あの震災がなければ、もっと多くの人たちが、彼の弔い、葬儀に来られただろうに。」

 

仲見世通りのあの国際的!賑わい(と言うよりラッシュ時の混雑に近い)の今、[六区]通りに演芸館もストリップ劇場も呑み屋も場外馬券売り場もあることはあるが、通りを覆っていた自然な開放感はない。それでも郷愁があって、上京すると時折訪ねる。今も、足取り定まらない寂しげで哀しげな老人はいるが、より一層孤独感を強く漂わせているように思えるし、どこか通り全体に奇妙な閑散さ感じる。見事なまでの近代化の街並がもたらすことでの、これも勝手な老いの感受性なのだろう。
私が描く居酒屋のイメージとは違う広さの、道にまで席を設けた居酒屋が数軒並び、女性の呼び込み合戦も行なわれていて盛況溢れているのだが、何か違和感が起き足早に通り過ぎる、現代数周回遅れの私。

何年前だったか、“春のゴールデンウイーク”直前に上京したときのこと。
「大門」「見返り柳」を見たくなり、4月末の晴れた日、浅草寺から独り散策した。「言問(ことと)い通り」を過ぎると、観光客はほとんどいない。「吉原大門」近くにあったコンビニで弁当を買い、斜め前の小さな公園(それでもブランコが二つ、砂場、そして遊園地によくある[コーヒーカップ]一つと、ベンチが備えられている)で昼食。五月晴れの下(もと)の身も心も麗(うら)らかなひととき。このご時世、不審者情報で警官が来ることもなく。周りは一戸建てや幾つかの昔ながらの2階建てアパートの閑(しず)かな住宅地。
私の他には、所在なげな老人(男性)一人、幼児を連れた若いお母さん、そして小学生が3人(3年生前後の男の子2人といずれかの姉とおぼしき5年生前後の女の子)。小学生たちに『たけくらべ』が重なる。平成たけくらべ。

 

この公園から徒歩数分の一帯は知る人ぞ知る、全国有数の“ソープランド”街で、江戸期吉原の後継・跡地的感覚で言う人もあるが、どうも私にはしっくりと来ない。
と言っても、遊郭も赤線・青線もソープランドも知らない(或る人に言わせれば勇気と甲斐性がない!/?)が、江戸期の吉原の「愉楽」と「苦界」を、幾つかの書物、落語、映画等からだけの、それもわずかな知識(単なる知識)の限界でのこと。それは、今日ソープランド等「風俗業」で、かなり多くの若い女性が、自身の意志で“働く”現代性産業(産業!?)の実態、その背景に在る、性意識[倫理観]の変容(古代日本人の性意識の原点回帰?…)、需要と供給の現実、現代日本の経済・社会現状等を知ればなおのこと、軽率な物言いはできないことを知らされる。
ただ、その間近で子どもたちは無心に遊んでいることだけは事実である。

 

性労働に係る現在について調べていたときの心に刺さった言葉を一つ記す。

「最近蔓延しているポエム(みたいな謳い文句)なんて絶対に嘘だし、かつ夢とか希望とか安定なんて、この世にないし、みたいな考えになっている。こうした現実に気づいたとき、時間に束縛されずに必要な金額が稼げる風俗を選択することは自然なことなのかもしれません。」
(『日本の風俗嬢』中村 敦彦・2014年:より、風俗嬢の相談、生きるための支援をしている非営利団体代表の言葉)

やはりこの書で知ったこととして、かの偏差値トップレベルの複数の国立大学生が、在学中からその性労働に携わり、決して負の心ではない、とのこと。
官僚、政治家またそれにつながる評論家、マスコミそして教育者は、どう考えるのだろうか。いつもの「例外のない例外はない」で終わるのだろうか。

 

公園でのこの上なく静かなたたずまいで出会った二つの光景。もちろん、いずれも私の感傷と言う上下(うえした)の証しに過ぎないのかもしれないが。
幼子を連れてアパート方向に帰るお母さんの、様々なこと・ものを背負ったかのような哀しげな背中。
小学生の女の子が、大きなシャボン玉を青空に向かって、独り描いていたとき見せた至福の微笑み。

あの子どもたちは、お母さんは、老人は、ゴールデンウイークをどのように過ごしたのだろう。

 

一葉は、当時の女性の立場に「かひなき女子の何事を思ひ立ちたりども及ぶまじきをしれど」と、苛立ちにも近い無念さを秘めながら、こんなことを書いている。

「……天地は私なし。……。娼婦に誠あり。……良家の夫人にしてつまを偽る人少なからぬに、これをうき世のならひとゆるして、一人娼婦ばかりせめをうくるは、何ゆゑのあやまりならん。」(明治27年)

「……安きになれては、おごりくる人心のあはれ、外(と)つ国の花やかなるをしたひ、我が国振りのふるきを厭(いと)ひて、うかれうかるゝ仇(あだ)ごころは、なりふり住居(すまい)の末なるより、詩歌政体のまことしきまで移りて、流れゆく水の塵芥(ちりあくた)をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処を知らず。かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。」と書き、この後当時の外交問題に切り込み憂国の情を吐露する。(明治26年)

これらのことに私があれこれ言う学力・器量はないかとは思うが、なぜこれを引用したかで了解は得られると思う。

【参考】彼女の憂国の情の翌々年(明治27年)、日清戦争が始まり、以降「三国干渉」を経て、日本の大陸施策の展開、そして日露戦争とつながって行く。尚、大正14年(1925年)の公布された『治安維持法』につながる『治安警察法』は明治33年(1900年)である。

 

ところで一葉の言葉の引用に関しては、佐伯 順子氏(1961年~・比較文化研究者)[編]の『一葉語録』(2004年)を基にしている。氏は、1987年、大学院博士課程在学中に『遊女の文化史』を著し、大きな注目を集め、現在に到るまで研究と教育に確かな足跡を残している。
実は、彼女の中学校3年生の時の国語授業担当及びクラス担任は、私だった。夢のような話である。

 

吉原大門にほど近い場所に、台東区立『一葉記念館』があり、訪れたが、そもそも○○記念館といったものに関心の薄い私、展示等より、建物のひときわ目立つモダン性(超近代性・現代性?)が先ず私の心に残っている。