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2017年7月18日

二つの「感涙」体験

井嶋 悠

「鰐集落」「夜明け橋」「聖人川橋」「桂林」「咸宜(かんぎ)」……は、この度の北九州豪雨で甚大な被害を受けた大分県日田市地域の地名の幾つかで、過疎地(村)としても位置付けられている。
名前には、名づける人(人々)の、由緒への思い、愛情が込められている。これらの地名を名づけ、代々引き継いできた人々の人となりが偲ばれる。
因みに、「咸宜」は、江戸時代の儒学者・廣瀬 淡窓の生地(日田市)であり、敬天思想(「敬天愛人」につながる思想)を教え育む私塾『咸宜園』のあったことから来ているとのこと。

宅地や道路に向かって滑り来たった幹も樹皮もない、あたかも製材されたかのような、おびただしい樹々、また「なにもかもなくなった」と茫然自失で話す村人の姿が、山崩れ、樹木の流出の凄まじさを端的に表わしている。道路は寸断され、しかもあろうことか豪雨は何日も続き、生活支援物資輸送、生存者の救出、不明者の捜索は困難を極め、救援三役[自衛隊・消防・警察]の、それぞれが自身の家族を心に留め、ひたすらの寡黙な献身にもかかわらず、10日経つ今も捜索や片づけが続いている。

娘が生きていたら、東北大震災時と同様、ボランティア志向と体力的に行けない、その自身への怒りをぶつけていただろう。と言う私は、孫と祖母が、自衛隊員によってヘリコプターで救出され、先に救出され、一日千秋、孫を、祖母を見るや号泣する母(およめさん)に迎えられる姿をテレビで視るだけである。東北大震災時となんら変わらず……。

再会時の、孫の「何があったのだろう」とでも言いたげな純心な眼差し。祖母の永年の人生を経てこその静かで自然な微笑み。号泣する母(およめさん)。人が人として生きることの凝縮。非常に無礼な表現で言えば、その一瞬にきらめく美しさ。そして、およめさんのそれまでの日々の暮らし、生に思い巡らせる私。後ろめたさを自己正当化しての感涙。
天の意思としての「自然」は、あまりに非情で残酷だ。なぜその地の人々が、その忿(いか)りを受けなければならないのか。それが運命であり、天命であり、人為の遠く及ばない冷酷なまでの厳粛。廣瀬淡窓は、どんな思いで故郷を視ているだろう。或る気象予報士の先日の言葉を思い出す。

「これらの災害を根絶することはできない。人ができることはどれだけ被害を事前事後に抑えるかだ。」

前回、「かなし:悲・哀・愛」について、再び私の思いを投稿したが、不遜を百も承知で、この「愛」の再確認こそ今、この近代化現代化盲進驀進する日本にあって、緊要なことなのではないか。
幸いにも長寿化の今、立ち止まり考える時間は十分保障されている。それが、東アジアの伝統と歴史をかえりみることになり、近代化を猛省して1世紀余り経つヨーロッパへの、そのヨーロッパを源流とする米国への、南北アジア・中近東・アフリカ・南米への、日本ならではの風土と歴史からの、真に自立した日本の存在感となるのではないか。軽率軽薄な「愛国心」の濫用に陥ることなく。

ここ数年、「ナショナリズム(Nationalism)」と「パトリオティズム(Patriotism)」との英語を使って、愛国心説明にしばしば接するが、英和辞典で確認しても、監修者の日本語訳の苦労が見て取れる。いわんや、私にあっては分かるような分からないような……。それでも、「右翼・左翼」或いは「保守・革新」の硬化したままでの用語による、安易な善悪価値独善の、罵倒合戦だけはもう終わりにして欲しい、と切に思う。
日本が標榜する国際化時代教育の優先課題《主張と議論と協和からの創造》と、あまりにも矛盾していないか。それは、誤解を怖れず言えば、日本の“美徳”とも。

つい先日、こんなことがあった。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』のここ数年の大切な事業である、韓国の中学・高校日本語教科書補助教材のDVD制作で、永く日韓交流に実績を持つ、現在日本の学校で要職にある韓国人の旧知の方に、制作協力校探しの依頼をしたときのこと。候補に挙がった首都圏の中学校長の回答。「保護者の反韓国感情が強くできない」
多くが視聴し、読むことも多い大小での、おびただしい[嫌・反韓国]正義の!叫喚(きょうかん)を視ればなるほどとは思う。そのことは韓国での、中国での、[嫌・反日本]も同じだろう。そこに哀・愛しみはない。
これは、刻一刻増幅し、益々正当化されるしかないのだろうか……。
そのことに心痛め、それぞれの分野で金銭的利益とは関わりなく、政治(家)が言う「未来志向」の、地道な実践者は私の周りにも多いにもかかわらず。
今回のDVD制作(高校)もそのお一人の尽力があって、撮影が来月行えることになった。

マイケル・ムーア(1954年~)は、1999年のアメリカの高校での銃乱射事件を主題に、2002年、そのドキュメンタリー映画制作で世界的な存在感を持ち始め、時にアメリカ独善主義アメリカ人から命を狙われているとも言われている映画監督・制作者である。
先日、彼の2015年制作の『世界侵略のススメ』(原題:『WHERE TO INVADE NEXT』《私流に訳せば、次はどこを侵略するんだい!?》)を観た。

アメリカ国務省依頼との虚構設定での、アメリカ未来への彼の願いを込めたヨーロッパ訪問記で、彼の「愛国心」発露ドクメンタリー映画である。
彼はこの映画について、次のような事を言っている。「自分の国を愛する気持ちからの、国をよくしたい、という思いだ」と。

その取材国と主題は以下である。(順不同)

・イタリアの8週間の有給制度
・フランスの小学校の給食
・スロヴェニアの学費無料と大統領との単独会見
・フィンランドの宿題のない、世界トップレベル学力獲得教育
・ノルウェーの自由な刑期生活と個室刑務所
・ポルトガルのドラック非違法
・ドイツの労使関係と歴史教育

ノルウェーとポルトガルの犯罪に係ることについては、あまりに私から遠く、未だ自身の言葉で言えるものがない。ただ、それ以外からは、先の被災地3世代家族と通底する感涙に襲われた。
一つは「果たして日本は先進国なのか」、もう一つは「憂き世」との用語文化について、思い巡らされたことで。

その中で、これまでに何度か記した日本の学校教育と、また自殺に関して拙文を重ねる。
ここ数年、一部教育関係者から指摘があるとはいえ、かつて「自殺大国」であったフィンランドがそれを脱するに何をしたのか、宿題もなく塾もなく世界トップレベルの学力(もちろんその「学力」内容への、文系・理系、明確な考察が必要だが、例えば海外・帰国子女教育と「新しい学力観」の課題と現実の現在について十分に知り得ていないので一般論的用語として使う)を持ち得るようになった背景は何なのか。我が国の立法府・行政府そして学校教育関係者(元職としての私の自照自省も含め)は、声高には言うが、対症療法に終始してやしないか。
自然災害多発国日本にあっては、先の予報士の言葉は実感的説得力を持つが、人為としての教育、更には、自殺については、そうではない。
「言霊の幸はふ国」には、重く深い心が私たち日本人に(と言えば、“国際人”からひんしゅくの対象になるが)今も在るのではないか。それともこの志向は「昔そういうことがあった」という心の遺蹟なのだろうか。

ふと思う。
マイケル・ムーアさんが、日本を、或いは東アジアを主題に、アメリカ愛国者である現代のアメリカ人の視点から、どのようなドキュメンタリー映画を制作するのだろうか、と。

東京都議選で粉砕的敗北をした首相及び幹部は、開票当日、某高級フランス料理店で反省会?の夕食をしたとのこと。その費用は自費なのだろうか、と下衆な私は思う。
そして災害当日、2017G20のドイツでの会議に参加し、その後、緊急性もない北欧訪問も、エストニアは中止したとのことだが、かの夫人共々予定通り行うその神経は、今更ながら、人の優しさとは真逆でしかない。おそらくG20参加者、関係者の良識派には、更なる侮蔑感を起こさせたことだろう。
かてて加えての、防衛大臣の空白時間。大臣の40分は、一般市民の数十倍の意味を持つのではないか。
これで、現首相の在任海外訪問経費の総計額はいくらとなり、それはすべて公費(国税)なのか、随行者は誰々で、総数何人になったのか、そしてその成果、私たち国民への還元は、総論抽象論ではなく、具体的にどのようになったのか。ここで言う「国民」とは、かの『男はつらいよ』への、上からの笑いではなく、寅さんと同じ地平に立った哀しみ(同情ではない哀しみ)の涙溢れて観る、そういう人たちとして私の中にある。
こう言う私の限界を承知して。
虚栄の虚は虚しさ以外何ものでもない。

老いは涙腺をゆるませると言う。科学[生物・生理]から立証されるのだろうが、文系の私には、涙腺が自然にゆるむそこに老いを思う。涙は心の塵芥(ちりあくた)を洗い去ること[カタルシス・心の浄化]は、科学で証明できない、と私は勝手に思っている。人それぞれの時間が心を深め、感性を研ぎ澄ませたからこそ、そこに感涙が生まれる。言うまでもなく、これも自己正当化である。

最後に、高校時代の英語授業で出会った(と言っても『動物農場』[Animal Farm]1945年8月17日!刊の一部分)イギリスの作家・ジョージ オーエル(1903~1950)の、ナショナリズムとパトリオティズムについての言葉を引用する。

―愛国とは、特定の場所や特定の生き方への思い入れであり、ある人はそれが世界で一番優れていると信じているだろうが、そうした考えを他者に押し付けようとはしない。愛国はその性質上、軍事的にも文化的にも、攻撃性は無い。一方ナショナリズムは、力への欲求から離れられないものだ。どのナショナリストにも共通する目的は、更なる力、更なる名誉を、自分自身や仲間内に対してではなく、自身の人格とすっかり同一された集合体に確保させることにある。―