ブログ

2017年8月17日

浄夜・聖夜・除夜

井嶋 悠

「浄夜」という言葉を、72歳直前にして知った。
オーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルク (1874~1951) が25歳(1899年)時、ドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863~1920)の作品『浄夜・浄められた夜』から作曲した、詩と同名のアダージョ部分をたまたま聞いてのことである。
と言っても、保守的(固陋・頑迷)感性の私のこと、共振したのは最初の部分だけではあるが。
詩については、当時賛否いろいろあったとのことで、その理由は“理解”できるが、性に係る或る意味究極の愛について、直覚として賛否以前の得心が、私にはある。

【後悔先に立たず】的での蛇足を。
元中高校国語科教師として、今、夢想すること。
この詩を高校での自由選択授業で採り上げ、副題?として邦訳に書かれている「浄められた夜」について、次のような授業はどうだろうか、と。
誰が、何を浄められたのか、

  1. それが「受身」なのか「可能」なのか、はたまた「自発」なのか。
  2. 愛と性と倫理と日本

に、係る自由討議とエッセー(小論文)作成

無知であることの幸いを説く人は異文化を超えて古来多い。しかし「無知は無恥」と思う人も多い。私もそれを否めない一人ではある。言い訳で言えば、元職が教師であったからかもしれない。ただ、知る悦びは何度も体験して来てはいる。もちろん限られた人生での知と生の体得として。
「無」は、[単に無い]と併せて[ゼロ・永遠・絶対無]の両意を視野に入れなくてはならないと思うが、ここでは前者の意味で使っている。

 

「そんなことも知らないのか」。
これは、声にする有無とは関係なく、子どもたちを罵り、己が教壇の眼前に到る教育内容(学校・教科指導内容)を、社会を、悲憤慷慨するのは、教師の傲慢の最たる事例で、教師の生徒・学生へのあからさまな『いじめ』である。(このへんのことは以前投稿した。)

1歳年上の教科は違うが旧知の同業者に、「家が傾く」ほどの読書家がいる。彼には強く敬愛する作家がいて、その作家論執筆を人生目標の一つにしているのだが、何年か前、こんな会話をした。
「集成は順調?」
「……。浮かぶのだが、以前読んだ人たちの言葉や文章が浮かび、重なり前に進まない。」
対等に話すことの怖れを知らない暢気な私がそこに居る。このお気楽さは、中学生前後以降そうであるようにも思える。

去る7月7日〔奇しくも七夕の日!〕、法的拘束力を持つ「核兵器禁止条約」が国連で公的に成立した。
世界唯一の、広島と長崎で、あまりにもあまりにも理不尽な人の死を突きつけられた日本は、アメリカ追従そのままに、核保有国及び保有国の傘の下「平和」を謳歌!?する国々の一員として、忠実に!?その条約を無視した。無言による負の極み。無視(ネグレクト)。いじめの言葉が突き抜ける。
広島、長崎の人々はもちろんのこと、多くの日本人がその「無恥」に歯噛みし、日本を主導する政府は世界の現状への「無知」を諭し、何年の時間が経ったのだろう。敗戦と再生(ルネッサンス)から72年。結局は人類、地球終焉まで続くであろう「戦争と人間」に行き着くしか途はないのだろうか。音楽がもたらす衝動(ロマン)と虚無がまたしても過ぎる。

《小学校で「日本が原爆を広島と長崎に投下した」と教え、共感、影響を持つ中学生(女子)に、25年ほど前に勤め、2年で失望退職した中高校で会ったことがある。その生徒は今、その衝撃を持ち続けているのだろうか。》

ここでも、戦後の新旧様々な人々から発せられた内省・反省と切歯扼腕からの幾つかの思想(心の拠りどころ、生きる道標(みちしるべ))に係る事実への、私の怠惰と無知、そして無知ゆえに、しかも権威におもねるかのように、思い込み、心のどこかで「歴史は繰り返す」と居直る。

(最近の学習から一つ例を挙げる。
中高校の国語や社会また芸術系の教科書に繁く登場する人々による『心』グループへの批評)

本籍地京都の私は、長崎被爆2週間後の1945年8月23日、海軍軍医として出征していた父の関係で、長崎市郊外で出生し、被爆前後の人々の、悲惨と醜態を父から聞かされて来た一人である。
大統領就任式前に意気揚々と訪問し(公費=国民の税金)で、ゴルフ外交?!をした人物を宰相とする一日本人として、そのあまりの無恥にこの私でさえ憤怒の極みで、言葉以前の情けなさ、寂しさに襲われる。
との意味で閑話休題。

夜は百鬼が徘徊する。鬼の形相は怖ろしい。しかし、絵巻物や絵本でしか見たことはないが、その表情にどこか愛し(いとお)さを想うことがある。因果応報、我が死後を怖れ、無意識に絵に重ねているからなのか、それとも己が狂気を垣間見るからなのか……。
詩人や作家の多くは夜に創作すると聞くが、なるほどと思う。それも、時に酒を頼りに、時に薬(ヒロポン)に覚醒されて創作すると聞けば、ますます得心する。もっとも、私自身は酒に浸ることだけは学んだが、創作はもちろん試作もないが。

夜の神々。
日本では「月読(つくよみ)の命」。天(あま)照(てらす)命(のみこと)の弟(性別の記述はないが)で素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)命の兄。太陽の姉に比して、月の弟はほとんど登場がない。陰陽道と関係があるのかもしれない。因みに、この三神の父母は、あの劇性溢れる[イザナギの命・イザナミの命]で、両神の一挙手一投足に私などワクワクする。
ギリシャ・ローマ神話では「セレーナ・ルナ(同一神)」で女神である。
恋は狂気の一つの顕われと思う一人として、やはり恋は夜が似合う。「悲・哀・愛(しみ)」と夜。

詩人・萩原 朔太郎(1886~1942)の詩集『月に吠える』から、序文の最後と二つの詩を引用する。

【序から】

過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊の やうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。 私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。

【作品から】

[悲しい月夜]
ぬすつと犬めが、くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。
いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

 

[猫]
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

 

私は犬ともに愛おしく思うが、猫よりも犬により親愛の情を持つからなのか、月夜には猫の方が似合うと思う。母性を憧憬する「マザコン」的?男(と、数年前からこの歳にして〈老いの一つの兆候なのか、それとも原初に戻り得たのか〉自覚するようになっている)からかもしれない。

キリスト教文化圏では「聖夜」(クリスマス イブ)。救い主イエス・キリストの降誕の夜。
日本では「除夜」。一年を顧み、108つの罪・穢れ[煩悩]を鐘とともに取り除き、新しい年を新たな思いで祈る大晦日の夜。

ひょっとして「浄夜」の直覚・理解も、私のような仏教或いは東洋思想により親しみを持つ有としての無宗教者とキリスト者では、とらえ方が違うのかもしれない、と無知の上塗りそのままに、来週72歳を迎えようとしている。無知・有知そして無恥云々以前の原動力、体力の衰退を体感しつつ。

このような物言いこそが解脱にほど遠い私の証しなのだろう。それでも先日、飛騨の道経由で、菩提寺(京都)墓参の行き帰り途次に映った家々の姿、光から一人一人の生と暮らしに思い及ぼした時、以前とは違った重さに襲われたことに少しは老いの進歩を得つつあるかな、と恥じらいもなく思っている。