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2017年12月22日

「母性」「父性」の私的再考 ―分かって分からない母性・父性―

井嶋 悠

現代日本(私の場合、他国・地域を賞揚することはあるが、浅薄な知識や体験で批判することは無礼と思う一人で、あくまでも母国日本を意識してのことである)で、母性(原理)と父性(原理)について、再び?父性優先が加速され、離反しているように思えてしかたがない。そんな私の母性と父性を確かめ、そもそも母性とか父性とは一体何なのかを再確認したく、小さくまとめてみることにした。
『父性の復権』『母性の復権』『日本女性が世界を変える』(いずれも既刊の書名)といった意気込みではなく、当然の前提としてあるかのような母性=女性、父性=男性に疑問を持っている一人としてである。

先の前2書から母性と父性の条件を確認してみる。筆者は共に深層心理学者の林 道義氏(1937~)。尚、引用に際しては筆者の表現を基に私の方で要約している。

まず母性。
あくまでも子どもの母(主に実母)を前提に「母性の条件」として以下を挙げている。

○子どもを可愛いと感ずる心
○母性のより良い発揮のための心の余裕
○安定した心
○盲目的な愛ではなく、自発的に判断し、臨機応変に判断する理性、賢さ

次に父性。
家族の長としての父を前提に「父性の条件」を以下のように言う。

○家族を統合する力・構成力
○自身の内面及び外の世界にあっても自分なりの中心を持ち、それを基準に家
族を組み立てて行く力
○自然との融和的な付き合いもあって形成された日本人特有の繊細で美しい感
覚を伝える役割
○その感覚で創られた日本文化への愛着とその継承者としての自覚と伝える力
○公平でかつ正義の立場に立って、全体的、客観的に視ることができる力

この拙稿は書評が目的ではないが、どこか腑に落ちない私がいて、氏の言う諸条件を自身に重ねてみるとほぼ「父性失格者」に思い到る。
では母性についてはどうか。
出産と言う生理的身体的な決定的違いから心理的違いもあると思うので、自身のこととして言えないが、上記を母性に限定することにどこか疑問が湧く。

ただ、一つ目の「可愛い」については、私の見聞に限って言えば「可愛い」の質的違いは確実にあると思う。しかし、それが「本能的」(この表現には、いろいろと議論があるようだが)なそれなのかどうかは分からない。
それ以外の諸項については、父性においても同じく思うことで、極限的に言えば、要は「人」としての問題で、林氏説くところは、外側に表われること[例えば、態度、表情、言葉遣い、響き等]の違いと受け手の年齢、気質等に係ることではないのかと思えてしまう。
「母性幻想」「父性幻想」との指摘に私が得心するように。このことは「女らしい」「男らしい」とは、につながることでもある。男女平等の本質を考え、自覚する意味でも。

ちなみに、今、パンダ「シャンシャン」は、どんな偏屈頑固爺も眼に微笑みを生じさせるほどの国民のアイドルになっている。私ももちろん笑みこぼれる一人だが、母親(シンシン)の表情、しぐさに私は典型的な「母性」(語感的に言えば「おかあさん」)を感じている。それも「本能」との表現で括られるのだろうか。

こういった見方は、私の生い立ち[個人史]での母(生母と継母)との関係、父との関係、10歳前後での伯父伯母宅に預けられた生活時間が為せることなのかもしれないが、しかしそういった私的なことを越えて、取り巻く社会からの情報、教育の結果からいつしか或る概念に染まり切っているのではないか、画一的に判断しているのではないか、と。

このことは、儒教色のはるかに強かった明治時代、今もって光彩を放つ二人の女性・平塚 らいてう(1886~1971)、与謝野 晶子(1878~1942)の次の文章にもそれが読み取れるように思える。私の読み方の恣意性、牽強付会を承知しつつも。
二人は〔母性保護論争〕の当事者で、現在もこの問題は引き継がれて来ているが、妊娠、出産[できる・できない・する・しない]のことは措いて、母となる性を受けて在る女、との前提での「保護」に係る論争なので、ここでは立ち入らない。

初めに平塚 らいてうが、仲間と立ち上げた雑誌『青鞜』(1911年刊)の冒頭を飾る「元始女性は太陽だった」から。

――元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。

【この表現は、中程近くの「久しく家事に従事すべく極めつけられていた女性はかくてその精神の集注力を全く鈍らしてしまった。」との文の少し前と、終わりの方で繰り返される。】

(中略)

思うに自由といい、解放という意味が甚だしく誤解されてはいはしなかったろうか。(略)しかし外界の圧力や、拘束から脱せしめ、いわゆる高等教育を授け、広く一般の職業に就かせ、参政権をも与え、家庭という小天地から、親といい、夫という保護者の手から離れていわゆる独立の生活をさせたからとてそれが何で私ども女性の自由解放であろう。なるほどそれも真の自由解放の域に達せしめるによき境遇と機会とを与えるものかも知れない。しかし到底、方便である。手段である。目的ではない。理想ではない。

(中略)

女性よ、芥の山を心に築かんよりも空虚に充実することによって自然のいかに全きかを知れ。――
日本神話では、イザナギの命・イザナミの命の愛憎劇の末、イザナギの命の禊によって、左眼(平安朝頃まで左右は左が上位)から女性神天照大神が、右目から男性神月読の命が、鼻からスサノオの命が生まれた。しかし、西洋思想・歴史にあっては、母権制では愛と秩序がもたらされ、夜・月・左・大地・物質・死・集団などが重視され、次の父権制になって、母権制は「根こそぎ破壊され、完全に抑圧されたため、昼・太陽・右・天上・精神・生・個人が重視されることになった」と哲学者中村 雄二郎(1925~2017)は、『術語集』(岩波新書)の「女性原理」の項で記している。

これらを思い巡らせてみると、出発点は男性隷属(父権制)からの女性解放へのトキの声であった彼女の言葉は、日本文化を前提に、父権制の価値観を逆手(とは変な言い方だが)にとって、女性に限定せず男性の覚醒をも願って「真正の人」との表現を使ったのでは、と考えられるのではないだろうか。

次に、与謝野 晶子のエッセイ『「女らしさ」とは何か』から。

――論者はまた、「女らしさ」とは愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていることをいうのである。

(中略)

しかし愛と、優雅と、つつましやかさとは男子にも必要な性情であると私は思います。それは特に女子にのみ期待すべきものでなくて、人間全体に共通して欠くことの出来ない人間性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間らしさ」というべきものであると思います。

(中略)

人間性の内容は愛と、優雅と、つつましやかさとに限らず、創造力と、鑑賞力と、なおその他の重要な文化能力をも含んでいます。そうしてこの人間性は何人(なんびと)にも備わっているのですが、これを出来るだけ円満に引き出すものは教育と労働です。

(中略)

「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。人形から人間に帰ることです。もしこれを論者が「女子の中性化」と呼ぶなら、私たちはむしろそれを名誉として甘受しても好いと思います。――

「中性化」とは母性と父性の調和に通ずることであると思うし、だからこそ現代という時代にあって、母性とは、父性とは、を母性=女性、父性=男性を払拭した上で、再吟味する必要があるのではないか。
母は父であり、父は母であり、女性の中の男性性、男性の中の女性性を自己確認することで、旧来からの「母性」「父性」に何か新しい光が当てられることを、今の私には未だ言い得ることはないが、願う。

母性・父性からそれるが、その基となる男女平等・男女同権性について、「世界経済フォーラム」なる機関が、世界145か国を対象に「経済活動への参加と機会」「教育達成」「健康と生存率」「政治的発言力」の4項目からジェンダーギャップ(男女の差)を数値化し、差が小さい国から順にランキングした2016年版によると、日本は111位とか。 また、大学以上の学位を持つ男性の92%が就業しているのに対し、同等の教育を修了した女性の就業は69%にとどまっており、OECD平均の80%を大きく下回っている。 日本は、教育読み書き能力、初等教育、中等教育(中学校・高校)、平均寿命(余命)の分野では、男女間に不平等は見られないという評価で世界1位だが、労働賃金、政治家・経営管理職、教授・専門職、高等教育(大学・大学院)、国会議員数では、男女間に差が大きくいずれも100位以下との由。 元中高校教員として、男女不平等は確かにないと思うが、その教育内容、環境と将来性での成果はどうなのだろうか、とつい本題から更にそれて危惧してしまう。

「母性」「父性」と、家庭教育、社会・地域教育、そして幼児教育、中等教育、高等教育、共学教育、女子校教育、男子校教育、知識教育、知恵(叡知)教育、はたまた宗教教育……。どれほどに私たちは、明確に自身のことばを持っているだろうか。それぞれの学校の主体性と、国の方向性ともつなげながら。 そうは言っても、私の中では整理の試みは容易ではなく、もつれた糸のままだが、先の『術語集』の同じく「女性原理」の項に記されている「包み込む(氏が指摘する束縛し、捕獲し、呑み込むの側面も含めた)という母性原理」「断ち切ること、分割することとしての父性原理」との言葉は、ボーダレス、国際化世界とは言え、極東アジアの列島国日本から欧米・アラブ・アフリカ・南米・オセアニアそして日本以外のアジアの諸情勢を視ていて、或る説得力を持って響いて来る。そして日本の役割について。

男女平等、男女同権といった言葉が死語になるほどの自然な男女共同参画社会の実現のためにも「母性」「父性」の再検討、再認識は一つのきっかけになるはずだと思う。と同時に両者の調和とその実現への自覚した社会の方向性の明確な確立。
このような眼で今日の日本を、現実の諸問題を見て行くと日本は今、重要な転換期にあるように思える。