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2018年8月2日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感―

井嶋 悠


その外形

 

初めて『日本民藝館』を訪ねた。
その目的は、民藝館の主(あるじ)で、民藝運動の中核者柳 宗悦(むねよし)(1889年~1961年)の文章に触発され、彼が蒐集した、また彼の仲間たちの作品、主に陶(磁)器[焼きもの]をしっかりと見たかったからである。

最寄駅は、「駒場東大前」で、そこから徒歩7,8分ほどの所に在る。民藝館を基点に半径1㎞ほどは、現代洋風豪邸が立ち並び、深閑としている。それぞれに多くは複数台の車が、でんと自然感で収まっている。静けさも車の多さも皮相で言えば、私たちが今居る地と同じだがどこか違う。前者が人工的深閑、後者が自然的深閑とでも言おうか。車の大半は私でも知る高級外車であり、国産車でも最高クラスで、我が家、また現住地(北関東)で圧倒的に見る“黄色ナンバー”は皆無である。

私の卒業した小学校は東京都大田区立洗足池小学校で、近隣には似た豪邸が在り、妻の卒業校はブランド制服でいっとき話題になった東京都中央区立泰明小学校。共に60年前のことであるが、身近に豪邸(街)を、と同時にその有為転変も、そこに住んでいた人々のそれも、知っている。

民藝館は、その中に在って霊気(オーラ)を漂わせた和風建築で、深閑さをひときわ引き立たせるかのように泰然自若として門戸を開いていた。
その時、奇妙なことが私の頭を過(よ)ぎった。豪邸から民藝館を視るか、民藝館から豪邸を視るか、或いは広く一般市民環境から視るか、での大きな違い。言葉を換えて言えば、民藝館を絶対的に視るか、相対的に視るか…。私の視点は後者、とりわけ一般市民環境(庶民)からで、且つ現代からであり、だから今回、『民藝運動』ではなく、その心としたのであって、それが豪邸街に位置していたことでなおのこと鮮明に過ぎったのだと思う。

かてて加えて最寄駅が「駒場東大前」と言う、これまでは奇天烈な身構えが拭い去れなかった「東大」に係る思い出。他者(ひと)はそれを“屈折”と言うらしいが。しかし、今の私にとって[東大]は、二つ心に刻まれている。

一つは、遅れ馳せながら、1970年前後の一つのダイナミズムであった(である?)「全共闘運動」での、東大解体の意味(意義)が、今もって直感の域ではあるが、分かって来たこと。

もう一つは、大学院を中退し、2年余りの東京放浪生活時に、安アパート(南京虫駆除に往生した3畳一間)の隣室に居た東大大学院生(数学専攻)との出会いと半共同生活。彼の過去と当時の言行動とその後の事実から教えられた私の東大生像。(この時の彼とのことは、以前投稿したので省略する。)

「民藝」という言葉自体、柳宗悦が創り出した言葉である。
『日本民藝館へいこう』(2008年・新潮社)という本の中で、古道具商とデザイナーと民藝館員の鼎談があり、そこで館員の方が次のように言っている。

――(美術や建築関係また料理家等々が民藝館を訪れ啓発を受けたり、柳宗悦観を持ったりと、様々な民藝観がある中で、デザイナーの方が、

「柳宗悦記念館のようなありかたでゆくのでしょうか」との問い掛けをしたところ、館員の方は、

「それでもいいと思っています。いまある品物の展示に力を傾け、その美によって柳さんの思想を世界に伝えてゆければいい。」と応えている。)――

民藝館は、柳宗悦の、本人が言う彼の「直観の美」が詰まっている場所で、柳あっての民藝館であり、広く民芸(作)品を集めた(美術)館ではないということだろう。

では、その「民藝」とは何なのか。柳の『民藝とは何か』(1941年)から引用する。この部分は、今回の投稿へのきっかけの一つとなった個所でもある。

――民藝とは民衆が日々用いる工藝品との義です。それ故、実用的工藝品の中で、最も深く人間の生活に交る品物の領域です。俗語でかかるものを「下手(げて)」な品と呼ぶことがあります。ここに「下」とは「並み」の意。「手」は「質(たち)」とか「類」とかの謂い。それ故、民藝とは民器であって、普通の品物、すなわち日常の生活と切り離せないものを指すのです。
それ故、不断使いにするもの、誰でも日々用いるもの、毎日の衣食住に直接必要な品々。そういうものを民藝品と呼ぶのです。したがって珍しいものではなく、たくさん作られるもの、誰もの目に触れるもの、安く買えるもの、何処にでもあるもの、それが民藝品なのです。それ故恐らくこれに一番近い言葉は「雑器(ざっき)」という二字です。昔はこれ等のあるものを雑(ぞう)具(ぐ)とも呼びました。
したがってかかるものは富豪貴族の生活には自然縁が薄く、一般民衆の生活に一層親しい関係をもっています。それ故、実用品の代表的なものは「民藝品」です。――

柳は他の書で「雑器の美」「用の美」について述べているが、それらについては[Ⅱ]で記す。

柳の学歴は、学習院(小中高)→東大哲学科である。今では、学習院は私学だが、当時(戦前)は国立(当時の表現では官立)で、いずれも国立であり、今風に言えば大変親孝行な男子であった…。しかし、学習院は、江戸時代後期1842年に公家(朝廷に仕える貴族、上級官人)の子弟のために設立された学校で、特別な階級の子弟のための学校であった。要は良家の“坊ちゃん”の学校であった。因みに、明治天皇の崩御に際し、殉死した乃木 希典は、第10代院長であった。
この学歴から柳の何を受け止めるか。受け止める側の価値観、人間観、人生観が問われることになる。私自身が、貧困家庭に生まれ育ったわけでもなく、中退したとは言え大学院(私学)まで進んだ一人だからなおのこと、上記の問いは私自身に向けられている。
「衣食足って礼節(栄辱)を知る」の「て」の前後の(時間)推移の関係へのとらえ方として。

そのことに関連して、柳自身が仲間の一人であった「白樺派」と言う、文学や美術に関して思いを一にする人たちの文学史美術史に刻まれている集まりがある。
この派には、国語科教育で言えば、中高校国語教科書にはよく採り上げられる作家として志賀直哉(1883~1971)や武者小路実篤(1885~1976)がいて、彼らは同じ学習院で、柳と同年もしくは前後の学生が集まり、1910年前後から活動を始めたとされている。彼らは、大正デモクラシーの自由主義指向を背景に、理想主義、人道主義、個人主義から人間肯定を指向する考え方であった。

大正時代は1911年から1926年までの15年間であるが、大正デモクラシーとの明るいイメージの半面、大陸侵攻、協調外交の挫折また経済恐慌と、明治時代のほころびが顕在化した時代でもあった。だからこそ、白樺派の主張は人々に共感を与えたのだろうが、一方で「金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんたちの、想像力の欠けた、血の通っていない理想主義に過ぎない」と厳しく断ち切る人たちもいたし、今も在る。それは、知的障害者である大江 光(1963年~)さんが作曲家として世に登場できたのは、大江 健三郎(1935年~)氏と言う偉大な作家が、父であったからこそできたことだと冷ややかに言う人があったように。

やはりここでも自問する。お前はどう受け止めるのか。
浅薄な或いは感傷的理想主義は空論だと思うが、確かな観念論は人の心を打つ。
私が、様々な職種のマスコミ人が言うスポーツ(選手)へのメダル、入賞、優勝期待雄叫びの無責任、軽薄さを憤るように。

アイススケートの高木 美帆選手は、15歳でオリンピックに出場し、天才中学生ともてはやされ、その後の下降を克服し、平昌オリンピックでの活躍を経て、直後のオランダでの大会でオールラウンドプレイヤーとして世界一に輝いているが、高校時代、海外遠征費等捻出するため早朝には新聞配達のアルバイトをし、弁当を作り、トレーニング方々猛スピードで自転車通学をしていたとか。そういう彼女だから、彼女に美を感ずるのではないだろうか。

と、私の中ではそれと同次元で、作品(作物)を、作者の出自で一刀両断的に視る姿勢には、全き同意を持つことができない。それは単に好き嫌いの問題に過ぎないと思うから。

では柳 宗悦についてはどうなのか。
彼の出自が、彼の朝鮮(当時は李氏朝鮮時代)美術工芸への開眼、そして民藝への探求と民藝館の設立に礎を与えたと思っているが、同時に、彼の出自への、更には天与の才に恵まれ、自己開拓した意思力に敬意と羨望があることも否めない。
このような曖昧さに今もって右往左往している私だが、現代日本社会を善しと思わない、否、それ以上に懸念を、その本源であり、国を、社会を主導する政治世界の人々に対し、疑問、不安、そして危機感すら持っている一人の日本人である。

このことについて、これまでの投稿で何度か触れたので繰り返さない。それに、繰り返すことで一日を不快にしたくない。いわんや酷暑においてはである。それでもこれだけは言える。

首相をはじめ多くの、主に与党関係者、上級官僚の自身を棚上げした、「悲/哀/愛しみ」への想像性のかけらもない驕慢、暴言、独善的他者侮蔑と権力指向者の陥り易い外、とりわけ欧米、指向にあって、感性はもちろん、理性も知性も無きがごとしであることに同意する人は、ますます増えていると断言できる、と。
その人たちの多くは高学歴で、出自も二世政治家を含め恵まれている人も多い。「衣食足って礼節(栄辱)を知る」を再度出せば「過ぎたるは及ばざるがごとし」であろうか。

現代日本は1930年代と類似しているとの論説に接した。気になって手元にある年表(高校用・第一学習社)を開いてみた。

1931年(昭和5年) 満州事変・重要産業統制法公布・中高校に公民科設置

32年       5・15事件・米よこせ闘争各地に波及・国民精神文化研究
所開設

33年       国際連盟脱退・滝川事件・小林多喜二警察で拷問死(虐
殺)

34年       満州帝国開国・出版法改正(取締り強化)・文部省国号
の呼称をニッポンと決定

35年       天皇機関説と機関説排撃・小作争議の増加・芥川賞、直
木賞の創設

36年       2・26事件・反ファシズム機運・左翼文化団体員一斉検挙

37年       日中戦争勃発・人民戦線事件(思想弾圧)・国民精神総
動員計画(東亜新秩序)

38年       国家総動員法公布・電力国家管理実現・思想上からの出
版規制

39年       国民徴用令公布・価格、賃金統制令・大学での軍事教練
必修化

40年       大政翼賛会発足・紀元2600年祝賀行事・左翼系文化活動
への統制、弾圧

そして1941年、太平洋戦争に突入し、1945年、沖縄・広島・長崎の惨害を経て敗戦。
どうだろうか。
「自由」という根源的問題を視野に今の今を思い描くとき、先の論説には説得力を感じるものがある。
確かに、他国・地域への侵略の再愚行などはないと思うが、トランプ大統領率いるアメリカへの異常なまでの追従(ついしょう)、竹島問題での日韓関係、尖閣諸島問題での日中関係等々から、・・・・・を思うのが杞憂であればそれでいいのだが。

柳 宗悦が、実業家・大原 孫三郎の支援を得て、『日本民藝館』を開設したのが、1936年(昭和11年)、彼47歳の時である。

民藝運動を率先した柳 宗悦と『日本民藝館』について、その外形から私感を記した。
Ⅱ.ではその「内容」への私感をまとめられたらと考えている。