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2014年8月29日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと その3 教師だった私の心に刻印された生徒・保護者・教師の言葉と私感 A. 教師原点習練期

井嶋 悠

A-Ⅱ

                        宗教教育

                        外国人子女教育

 

A「原点習練期」とは、「アメリカ人女性宣教師によって120年前に創設された女子中高校」(西宮市)での最初の勤務校で、17年間勤務した。その後が、他校でのB「新たな教師挑戦期」である。

◎宗教教育と中高校生徒

勤務中高校は、キリスト教主義(プロテスタント)校ゆえ、週5日の内、4日はパイプオルガンのある講堂で礼拝が持たれる。(後1日は各クラスで)この礼拝での感動、心の揺さぶりは、思春期の彼女たちにとって大きかったことを卒業生のほとんどが言っている。
私のような人間でさえ、荘厳なパイプオルガンの響きと讃美歌は、音楽の天上性を直覚する。
その最高潮となるのが、各自1本のローソクを持っての中高生全員による「クリスマス礼拝」である。

この礼拝は日々の学校生活でのキリスト教また聖書体験は、ここ数年仏教や東洋思想に心向いている私に広がりを与えている。

ところで、そこでの生徒の受洗は非常に少なく、生徒たち(とりわけ高校生)の牧師をはじめとする受洗教師や外来者による礼拝時の講話に対して、また時にその人に対して、非常に厳しく、シニカルなものであった。
それに比して、前回記した校務分掌高校生徒会担当での交流等で知ったカソリック系学校生徒の受洗率は高く、修道士・神父や修道女・シスターへの尊敬度は実に大きかった。

理智(叙事)と情感(抒情)。言葉と人間。具体と抽象。

感性鋭く瑞々しい思春期の中高生への宗教教育の難しさを思い知らされた。

この私の見聞体験からの感覚には、10代の彼女彼らにプロテスタント系とカソリック系の違いが与える感覚と思考だけでなく、学校云々の前に日々の生活の根幹である家庭(具体的に言えば、保護者)の生き様の持つ大きさ、影響力、そしてそれと重なるその子どもの10数年の歴史があるように思える。

 

◎私にとっての外国人子女教育の原点

 上記校では、毎年、高校2年次で、1年間の留学生を[AFS・YFU等が仲介]2~3名受け入ている。(日本からも、同様に留学生を送り出している。)
その日本語教育に、自身から希望して携わった。

この初めての体験は、日本語母語者の国語教師にもかかわらずの日本語曖昧者、英語低レベル者を身に染みて知ることとなる。

その数年後、学内にあった国内外での研修[国内 半年、国外 1年]制度で、大阪外国語大学(当時)大学院日本語科に在籍した。
ここでの経験は、国語科教育と日本語教育の融合の有効性や、日本語教育学徒との出会い、先生方の個性等々、大学教育のさまざまな面を一社会人として新しい眼で再認識する新鮮で、豊潤な時間となった。

その一つに、ドイツ語ドイツ文化研究者と大学院生による視聴覚教育研究会に参加し、日本語でのオノマトペ(擬声語・擬態語)を再考する貴重な機会もあった。

これらは、職場復帰後の自問自答、人生多感も手伝って、豊饒とはならなかったものの、次に様な日本語教育体験への礎になったように思う。

それは、限られた時間での日本語習得の限界のなかで、私自身興味をもってでき、受ける側の興味と有効性にもなることとして、1年の後半時から、彼女(たち)による「創作絵本」(ストーリー・描画共に)制作という収穫である。

このアイデアが思いの外彼女たちに受け入れられ、完成したものの中から3作品を、本センター・ホームページ【http://jk-asia.net/】の、「活動報告」に掲載している。

それらを観ていただければ、ここ数年、アジテーションのように言う日本の一部「知識人」の言葉、「日本よ、もっと自信を持て」が、30年前のアメリカの、ベネズエラの、タイの高校生たち10代の感性からすれば、日本の真と善と美を忘れて何で!?といぶかしがる、現在50歳前後の彼女たちを思い浮かべさせるだろう。
その私は、日本が今、そして次代に向けて目指す姿が示唆されていると思っている。

また、この留学生受け入れでは、引き受け家庭の日本人ゆえの難しさ―例えば、留学生をどこまでも客人と見る姿勢とそのための家庭のそして留学生の疲労感―を知ることともなった。
そのことは、後に知る韓国の家庭の、日本にはない積極的受け入れ姿勢から、同じ東アジアにありながら、その島国性と大陸性の違いに思い到ることとにもつながっている。

私と外国人子女教育の「原点習練期」としてもう一つ記す。

当時、私は任意の国語教育と日本語教育の融合(旧来の、日本語教育から国語教育へのタテの融合ではなく、ヨコの融合)を意図した研究会『関西日本語・国語教育研究会』をしていたことから、他校の40代のこんな先生(女性)に出会った。

この研究会は、従前の国語(科)教育と日本語教育理解から脱却し、国語科教育から日本語教育を考えようとしていたのだが、「子どもたちの国語学力低下になる」との批判から抜け出るには遠く、参加者は甚だ少数で、その中にあって先生は貴重な一人であった。

先生は、アジアの日本人学校派遣教員経験を持ち、公立中学校の国語科以外の先生で、派遣や在職中学校での経験から、日本語教育の有意性、重要性に着眼され、在職校に設けられたニューカマーの在籍生徒を対象とした「センター」で日本語・国語指導を、孤立無援的にされていた。
その先生の言葉から二つ。

「公立高校入試の国語対策の直前、最後の指導は“過去問”を暗記させる。5割から時には6割ぐらいは確保できる。」

「ニューカマーでない、日本語を母(国)語とする生徒の受講希望があるが、規定でできない。」

この先生の取り組みは、「教育困難校」の持っている背景や課題、また授業理解度の表現としてある「七五三構造」(小学校・中学校・高校の授業理解度)の、根本的解決に向けた示唆となると思うのだが、それから20年経った今日、文科省の提案は以下である。

呆然、唖然、塾通学を自明の前提としての、根源或いは背景を意図的に避けた“官僚的”そのままの悪しき対症療法以外何ものでもないと思うのは私だけだろうか。
しかも、大手塾(予備校)の人的・物的大幅縮小が発表されたほぼ同時期に。

―子どもの貧困率が悪化する中、文部科学省は所得の低い家庭が多い公立小中学校の教員を来年度からの10年間で2千人増やす方針を固めた。

塾に行けない子に放課後補習を行うことで貧困の連鎖を断ち切るのが狙い。― (インターネットニュース文を引用)
次回は、「教師原点習練期」でひときわ大きな影響を持った「(海外)帰国子女教育」と私を記したい。

 

2014年8月24日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと  その3   A.教師原点習練期

井嶋 悠

    A―Ⅰ 

私の言葉の背景

       国語科教育〔付:日本語教育〕

今回のA「教師原点習練期」[Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ]と、その後の原点校ではない、B「新たな教師挑戦期」は、
59歳までの33年間の私立中高校国語科教師生活の、その時々に在って、生徒、保護者、教師からの、私に教育を考えさせた幾つかの言葉であり、その時、またその後数十年の中で培養した私感である。

その今回及び次回以降の何回かの体験からの言葉が、具体的にどの場での体験を基に紡ぎ出されたのかを明確にするために履歴を記す。

【専任教諭として】

・アメリカ人女性宣教師によって120年前に創設された女子中高校[17年間勤務]《原点校》

・「国際」を標榜し国際都市で新たに創設された女子中高校[2年間勤務]《新挑戦校》

・インターナショナルスクールとの協働校「新国際学校」として創設された中高校[10年間勤務]

《新挑戦校》

【非常勤講師として】

・裕福な家庭の子女で、大学付設の学力に不安な女子高校[1年間勤務]

・短大、4年制大学付設の学力に不安な女子高校[1年間勤務]

・不登校高校生を主対象とした学校[2年間勤務]

【別項】

・中学生対象の塾講師[2年間勤務]

・インドシナ難民定住促進センター(日本語教師)[2年間勤務]

 

今回と次回の言葉は、最初の勤務校「アメリカ人女性宣教師によって120年前に創設された女子中高校」(西宮市)でのそれであり、この17年間は正に教師としての原点を構築した時でもある。そのせいか、ここ数年見る教師体験の夢の80%強は、この時のものである。

そこでの教師の職務としては、概ね次のことであった。

☆教科学習活動指導

☆課外学習活動指導[クラブ活動、野外活動(スキー、登山等)]

☆校務分掌活動[教務や生活指導等、職員会議運営、保護者会関係等]

原点構築期の勤務校での体験の、後の「挑戦期」でのその有意性は計り知れない。とは言え、上記職務それぞれから記すことは余りに冗長であり、本意でもない。

そこで、今回と次回の標記項目以外については、幾つかのトピックだけをここで記す。

◇課外活動、校務分掌は、基本的に希望調査があっての、校務各部長、教頭、校長による調整

◇管理職選挙はもちろん、校務各部長、職員会議議長も選挙制

後の勤務校2校共、校長職をはじめすべて“トップ ダウン”方式で、その人による良し悪しを実感することになる。インターナショナルスクールも“トップ ダウン”方式 であるが、それと違って日本の場合、例えば校長人事など、任命者・被任命者の個人差があるとは言え、陰性さが    あり、そこからも学校世界の、閉鎖性、保守性を体感する。
選挙制の負の側面も知ったが。

因みに、私の好悪とは関係なく、原点校には組合があったが、他はなかった。

◇職員会議議長の経験(数年にわたって経験)

校則のほとんどない非常に自由な校風で、それは教師間でもそうで、会議は談論風発、その舵取り体験は、私の性(さが)と過去を気づかせ、知る機会となった。

◇クラブ活動指導

10年ほど、「なでしこジャパン」誕生の萌芽期とも言える、女子サッカー部の監督(顧問)を務める。
関西では4校の女子校が積極的に活動し、監督4人で定期戦等を企画し行う。

その最強学校の監督は、非常に厳しい指導を徹底し、後に「なでしこジャパン」の初代監督に就任されるとともに、サッカーを通して学校教育に誠心されるが、
後に健 康を害され人生の転換を経験される。その姿を拝見し、生について考えさせられた。

◇生徒会(高校)指導

数年行う。
「井の中の蛙大海を知らず」。いわんや私学の、有名、伝統校。他校交流を積極的に展開する。
そこでの愉快なエピソード。“やんちゃ”な私学男子校の生徒会との交流でのこと。

その男子校会長曰く、「プライドが高く、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけている人ばかりかと思っていたが、普通の女の子でほっとした。」その時の、勤務校会長の  明るい笑顔ガ忘れられない。
また学院創立100周年にも立ち会え、卒業生の寄稿をお願いしたり、生徒会としての記念誌を発行する。

 

平均寿命が、高齢化の心の問題と高度医療との幸せな融和を課題として持ちつつも、男も80歳を越え、文明社会が更に進んだ感を持つ。
そして、私たちの日々は、静止など別世界のことかのように、駆け巡る無尽の情報で埋め尽くされ、人々は時に無性に静寂に焦がれる。
そこでは、内容の文字化が至難にもかかわらず、「自由」と「権利」が自明のごとく語られる。

生を経て老いを歩み始め、人生を「苦」ととらえることに、また識者が言う「文明進歩の宿命」としてある人生の享楽化の警鐘に頷く(うなづく)、現代社会!不適応!の私のような人間には“距離”を感ずる現代。

前者の融和については、全霊深奥から天・神仏に自身を委ねるにはまだまだ遠く、罰当たりながら長寿=幸福なのか、で諸手を挙げて朗報とは思えず、
後者の怒涛の情報化は、社会問題に識者?は切れ味鋭く狼煙(のろし)を上げるが、和解への配慮など微塵もない罵詈雑言、「聞く耳持たず」の対立者排斥の独善で、それが若者に議論の大切さを言う大人たちの所業ゆえ、益々以って絶望感が漂い、呆然寂寥する。

社会主義国家の過去と現在から、社会主義更には共産主義に希望を託すこともないから、不安は脅威となる。

そして私は、「虚」(→主観・理想・抒情)と「実」(→客観・現実・叙事)の間に彷徨(さまよ)う生を実感する。
社会性あっての人間であろうかとは思うが、それに背を向ける自身に苛立ち、社会の病に打ち込む人々をちらりと眺めつつ、自然美、芸術美を憧憬し、遁走を企てる。

そんな私だからなのだろう、芥川 龍之介の『蜜柑』(大正8年〈1919年〉作者27歳の時の作品)の「私」に、それは“知識人”或いは“ブルジョア”の感傷(センチメンタル)、おぞましさと言われれば否定できないのだが、感情移入する。

作品は「或る曇った冬の日暮れ」(以下、「  」は作者の表現)の横須賀線の、車中での1時間ほどの間にあったできごとである。

「講和問題、新婦新郎、涜職(とくしょく)事件、死亡広告」の、「不可解な、下等な、退屈な人生の象徴」の「平凡な記事に埋まっている夕刊」を「云いようのない疲労と倦怠」にあった「私」が、「機械的に眼を通し」ていた時、同じ車中に駆け込んで来た「あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持」の「大きな風呂敷包みを抱えた」「皸(ひび)だらけの頬をした」東京と思われる「奉公先へ赴こうとしている」「小娘」の鮮烈な動作、印象を語ったものである。

「隧道へなだれこむと同時に」窓を開けた「小娘」は、隧道を抜け踏切に差し掛かった時、待ち構えていた3人の弟に、「蜜柑」を「五つ六つ」「見送りに来た弟たちの労に報いる」ために投げた。それを見た「私」は、「昂然(こうぜん)と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視し」、最後にこう結んでいる。

「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。」

何と冷静で知的で洗練された感情表現であろう。作家の文字表現だから当然なことなのだろうが。

その芥川は、8年後の昭和2年(1927年)、「ぼんやりした不安」を言い、35歳で、愛妻と二人の愛児(子)(本人の自己表現は「悪夫・悪子・悪親」の「阿呆」)を置いて、自死を選んだ。

20年ほど前から、高校或いは中学の現代国語の教科書に『蜜柑』が採り上げられるようになったのは、選者(編集者)の現代観の反映、若者へのメッセージなのだろうか。

私の言葉の後ろに在ることは、上記『蜜柑』の「私」に、或る後ろめたさを抱えながらも共振する私であり、小学生の10代から20代でのとんでもない紆余曲折であり、その後の予想だにしなかった展開であり、そして高校時代の恩師に始まり幾多の人々の教示と救いである。

このような発言は、無恥極まりないことであるが、それらは私の自照自省の具体的契機の事実であり、人々に学校(中高校)教育を考える、一つ(・・・・)の視点、参考になればとの期待でもある。

嘲笑、冷笑、せいぜいで憫笑の対象としかなりようがないが、しかし娘だけは無言でスッと受け入れてくれると信じている。

 

◎勤務して間もなくの1970年代前半、魯迅の『故郷』授業で、言葉の意味を間違えたその時間終了直後に来た生徒に、私が「意味を間違え、ごめん」と言った時の言葉。

「そんなことどうでもいいんです。辞書を調べればいいんですから。それより先生の作品への考えを聞きたい。」

その生徒は、文学少女でもなんでもなく、九州から入学し寮生活をしていた。会計士になった旨後年聞いたが詳しくは知らない。現在、50代後半である。

その学校、30年位前から、併設の大学にはほとんど進学せず、「有名大学」を目指し、学校はいわば、休息と社交場で、ほぼ全員が予備校に通学し、極端な言い方をすれば、言葉の意味を間違えるような教師は論外で、と言うか、集中して授業と向き合わないのがほとんどである。

その学校を卒業した、私と同年代の数学教師の嘆き。
「数学の授業でさえ、レベルの低さを言って内職している。注意しても馬耳東風。信じられない。」
尚、その教師は国立大学出身である。

辞書を引くことの大切さを否定する人はまずない。いわんや国語科教師は。しかし、あれもこれも(多くは“主要”5教科)の学校、世間にあって、その正論は、国語科教育はすべての教科教育、課外教育での基礎との論が許容されたとしても、物理的に非現実的、夢想なのではないか。
各教科の主張をすべて認めていれば、学校は成り立たない。
その現実をどうするか、そこに学校の特性の明確化のカギがあるのではないか。

「日本語教育」で中上級教科書は、精選と語彙等の精緻な記述が、必然的に求められる。
私は、或る時、教科書“虎の巻”の、個人もしくはグループで、卒業生から在校生への譲渡を前提に、所有することを、生徒たちに提案した。
虎の巻は、語彙説明だけでなく、構成、主題等、至れり尽くせりである。

それらを利用し、その上に立っての、学校特性、生徒の学力による展開にこそその学校の授業になるなのではないか。
私の母校高校での、大部な参考書を教科書として展開された世界史授業の逆の発想として。

そこにも教師の独善が見え隠れする。

古典の場合、注釈本も含めて浸透しているにもかかわらず、現在も音読、語彙・文法説明、口語訳、そして一言の鑑賞に終始しているのではないかとも思うが、私の先の提案は、教師、保護者は無論のこと、生徒からも無視、黙殺された。

帰国子女教育を介して「新しい学力観」を言う人は、かねてより多い。
しかし、私は「国語科教育での新しい学力観」は、と聞かれた時、応えられるようで応えられない。
言い訳との非難を思いつつも、国語科教育にあっては、古いも新しいもないのでは、とふと思うから。

因みに、東大進学実績を誇り、生徒の自我意識も強い某私学の卒業生によれば、「母校での国語、社会の学習度、指向は非常に低い」とのこと。

その学校について、参考に付記すれば、2013年度卒業生の2014年5月現在の進学状況は以下である。(1学年 220人)
・東大 76人 ・他の国公立大学 52人 ・私立大学 26人(内4人はアメリカの大学)[計154人]

その高校卒業生には、著名な作家や、或る教師の一言がきっかけで破天荒な高校生活を過ごし、デカダン的作家に徹した人生を送った傑物がいる。

冒頭に記した校務分掌での、高校生徒会(自治会)を数年担当した時のもう一つの爽やかな経験。。上記高校生徒会とも交流を持った折のこと(何せ、東大で、勤務校の生徒は、その東大進学生徒送り出し校卒業生の口コミ?で有名な旨、私の小学校時代からの東大卒友人に聞いたことがある)、

同じく、但し東大に限定しない、進学実績の高い男子校生徒会長が言い放った一言は、気概と爽快さを刻印した。

「○○高校と一緒にするのはやめてくださいっ!」

その時、それに強く共感した勤務校の会長は、付設の大学を卒業後、公立高校の英語教師となった。

尚、中学部の英語教育は、アメリカから派遣(任期は3年ほど)された宣教師も兼ねた二人の女性教員と日本人教員がチームを組み、週5日制にもかかわらず6回、宣教師兼任女性教師のみ・日英両教師・卒業生の日本人教師の授業を組み合わせ、長年かけて作り上げた自製教科書を基に展開している。
社会人になって(と断ったのは30年程前から“有名”他大学進学者が圧倒している彼女たちの中では大学受験への有効性に疑問があるようなので)卒業生の多くが言うように、また門外漢の私も、当時からそして今も、日本で最高峰だと思う。(これについては、以前のブログに投稿した)

2014年8月18日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと その2 「学校って何だろう?」と考える私の必須と空虚

井嶋 悠

学校って何だろう?

高校進学ほぼ100%、大学進学54%(①京都66,4% ②東京 65,7%  私の現住地栃木 52,2% 最も低いのは沖縄 36,2%〈30%台は沖縄のみ〉)の現代にあって改めて思う。

そのとき、例えば次のような実態を私たちはどれほど共有しているのだろうか。

大学の大衆化の負の側面としてある大学の一層の格差化からの、

○専門学校進学の増加、

(大学での資格授与のための専門学校との様々な提携は数年前から行われている)

○“有名(偏差値高)”大学進学で絶対?!必要不可欠の塾・予備校の隆盛、

(私が知り得ている高い進学実績を喧伝する私学高校での、進学実績での予備校通学は当然、必然で、それができるからその高校に進学するという実態

例えば、長期休みが長く義務登校もほとんどなく、且つ週5日制で放課後活動も自由、《因みに教員も》、また、進学校を標榜しないが(有名)大学進学が自明かのような伝統校も。

高校の独自性を押し出すことでのAO入試等での受験生の、“生”は、生徒の生なのか先生の生なのか、という実態)

〔因みに、塾・予備校教師(小中高対象)は厳しい契約社会で、結果を出さなければ、つまり“プロ”との評価を得なければ解雇の世界で、旧知の男性は若い時2年勤務し、胃を3分の1切除した。私には到底勤まらない世界である。〕

○進学に係る都会と地方の格差、また都市圏からの似非上流階層?人の地方への蔑み

(都市圏からの移住者が多い地〈豊かな自然と生活の便利さが両立している地〉の小学校で、都会から移住して来た子どもが、土地の子どもを「汚い、臭い」と言い、それを親も知って知らぬふり、教師たちももの言えない、そんな世界が日常的にある旨、土地の人から聞いたことがある。)

「汚い、臭い」と嘲り、からかう子どもたちはきっと笑いながら得意満面言っているのだろう。それは笑いの原則「優者」が「劣者」へに立てば、いっとき流行った「勝ち組」「負け組」で、世は、政治家等国を主導する人々、は「優者」「勝ち組」価値観に、ほとんど無意識下で立っているように思える。

〔これについて、映画「男はつらいよ・フーテンの寅」シリーズの監督、山田洋次氏が、今はどうか知らないが、映画が完成すると、下町と山の手の映画館に行き、観客の反応を確認している旨言っているのを何かで読んだ。
そこにあった「下町ではしんみりとした場面の反応が、山の手では笑いとなる」旨書かれていたことが、私自身未だ為し得ていない「同情」と「愛情」につながることとして、私の中で今も強く残っている。〕

笑いの客観性(理智性)と情緒性(心情性)と社会性。笑いと泣き[涙]の表裏一体。

以上は世の常識としてあるのだろうか。

状況進行の変化[悪化]のまま何年、何十年?過ぎたことなど周知徹底していて、それが現実で、だからこそそれに打ち克つ術を教えることが、親の責務全うで、私がごとき不可解な夢想家?など大人失格なのかもしれない。

またこれは、1980年前後からの少子化とは、どのように関わるのだろうか。

小中高校の、学校数・教師数・生徒数の2010年の統計から、その概数を記す。 

小学校  学校数 21,000校  教師数 42万人  生徒数 677万人

中学校      11,000校  教師数 26万人  生徒数 355万人

高校       6,200校   教師数 32万人  生徒数 346万人 [中等教育学校・特別支援学校・高等専門学校を含む]

非常に単純粗雑な計算ではあるが、教師一人あたりの生徒数は以下である。

小学校 16人  中学校 14人  高校 11人

『週刊朝日』2014年4月、で掲載されている全国2317高校〈全体の約37%〉の主要大学合格者数によれば、首都圏、中部圏、関西圏、北九州圏等で、採り上げる大学に若干の違いはあるが、「主要」とされているのは、以下の数である。

・国公立大学  16校  ・私立大学  14校

(余談ながら、私の出身大学は上記にあるが、妻のそれは伝統ある幼稚園から大学院までの総合学園の大学にもかかわらずない。)

上記の事項や数字と合せると、どんなことが読み取れるだろうか。

ところで、保護者の教育費負担はどうなのか。
家庭の経済状況はどれほど改善されたというのだろうか。

(現首相は自身の名前を冠にして「○○ミックス」と言い、今確実に出てきている効果を津々浦々までに、と得意気に言っているが、私が知る東京都内の自営業者の苦悶と怒りを知っているのだろうか。)

備考として、大学生家庭の平均年間収入と進学大学を記す。

950万円以上が、東大生57%、東大生以外一般23%から、疑問に思う人は相当数であろう。
これは、京大で「東大に行けなかったから」と平然と言う現代、旧帝大は大同小異かとも思う。

その東大、2001年、立花 隆+東大「立花ゼミ(4名)」による「東大生はバカになったか?」での、バカの是認、また立花氏が提案する3分の1くじ引き入学案、それ以前からあった「医学部教授会」での危機感等々、現在はどうなのだろうか。
それとも東大にさえ入れば、何とでもなるということなのだろうか。

私は、この現状を様々な場で直接に知り、理念と生(生活)の間で問答して来て、「大人」!?としての虚実リセット“ゼロ”!の69歳、「はてさてお前はどうする?」天声しきりの日々ゆえになおのこと、前回引用した旧知の女性弁護士の言葉が、私に強い衝撃性を与えたのだろう。

「学校幻想」をしっかりと伝えられる立場にいたにもかかわらず、やはり私も“先生”(“ ”は、以前やはり自照自省から書いた、生徒や保護者〈多くは母親)の前で、現実現場を承知しながらも、だからこそより独善的に、時に神意識さえ醸し出す傲岸で理想を独り滔々と「語る」教師を指している)で、

同時に、

教師を当然のように信頼していた、篤実で純情で、だから生真面目な娘を善し、とする親であった私について、脳裏を飛び跳ねる。

形容語はそれを発する人の価値観、倫理観、真善美観を表わす。
私にとっての、「優秀」の内容・定義とその先天性と後天性に、先に書いた「優者・劣者」「勝ち組・負け組」とも重なって思いが行く。
これは、私が「学校って何だろう?」との制度的にも内容的にも多様である学校[抽象語]への自問が、「私の学校」と言う具体を問うているのと同様に。

「やり直しができる」との意味での「ゆとり・寛容」社会を確立し、長寿化の今にもかかわらずある「18歳・人生4分の1時での人生決定」観をナンセンスの極みと否定し、
“主要教科”とか音楽・美術・書道・保健体育・技術家庭を蔑みでもって“芸能科”という無恥で愚劣な表現をする教員や保護者の意識を変え、

一切の例外なくある子どもの特性を、自身が、家庭・親族が見出すための、各教科と教科間連携と教科を離れた多様な校内外の統合的12年~15年間(最大15年間、卒業時21歳の中での、自己選択を含めた柔軟体制)の有機的機関が学校で、そこに教師の専門性と力量が問われ、それらがあっての進路進学である、と
私は娘の7年間の苦悶と死、その過程で彼女の嘆きと憤りをオーバーラップして思う。

彼女はよく言っていた。
「学校で、大人になって大切さを痛感する書道と技術家庭をもっと教えるべきだ」と。

中学校は小学校の、高校は中学校の、大学・専門学校・企業は高校の、教育内容を、それぞれの現場はどれほど統一的に把握しているか、
そして教師・学校運営者の多くが、組織と個人の概念的、主観的な把握と対立に見る独善がどれほど糾(ただ)されているか、公共性の中で一層自問自答すべきだと思う。
そこから必然的に「学力観」についての吟味、再検討も起きる。

いつぞや聞いた、企業人の言葉「大学で理論とか余計なことを教えないでください。教育は私たちでしますから」と言うのは、今も生きているのだろうか。

物質文明での富国と強国の邁進を善とした価値観を前提に、対症療法を繰り返して来た国(具体的に言えば、政治家、官僚、学者、大企業、マスコミ)の、日本再考、洞察と展望、意識変革の緊要を思う。
その時、教育機関への税金・補助金増額との論法は、論外で却下されるしかないのだろうか。

[2011・3・11]の天災と復興、人災と対応、その時間、そして最近の政・経と平和観に疑心が向かう。
大空襲と原爆被災国日本が、古来持つ、人間間に、人間と八百万の神在られる自然間に底流する「かなしみ(悲・哀・愛)」―それは古が伝える日本人の生と美《もののあはれ》につながると私は考えている―は、畏怖、畏敬そして謙譲の稀薄化と併せてもはや遺蹟でしかないのだろうか。

私と同世代の“偉いさん”でもなんでもない心共有できる人々の、郷愁とはほど遠いつぶやき。
「どうして若い人たちは黙っているのだろう!?」
怖い今である。

私の学校観には、今では雲散霧消した「総合学習」の雲散霧消理由と一部重なっている。
それは、ヨーロッパを起点とする【国際バカロレア《IB》】教育の有効性について、相当以前から学び検討すべき対象として一部提唱されていたにもかかわらず、ここ数年、あたかも新しい視点かのように声高に言う一部教育関係者や文科省の、自国日本を含めた脱亜入欧的劣等感と虚飾の軽佻浮薄、似非エリートの滑稽溢れる錯覚とも、IB日本語指導経験も得た私の中での重なりである。

私たち娘の親は、死への一因となった教師たちを、学校を、糾弾する公的手続きを採る意思は当初から、そして今もない。
それは、娘の強い遺志であり、そもそも学校の、教師の、教育委員会(娘の通学校は公立)の対応が、私の「実」体験から透けて視え、そのことでこれ以上心の傷を受けたくない、との自尊からである。
私は私学勤務であったが、人として、教師として尊敬し、私の卑しさを知らしめた校長、教師は極めて稀少(敢えて数を言えば、アメリカ人も含めて10人余り)で、対応は公私立関係なく大同小異であるとこれも体験から確信している。

「学校」を考える、私の『必須』と『空虚』。
しかし、今だからこそ、私を整理総括する一つとして、娘への鎮魂と私の贖(あがな)いとして、また人間社会への或いは人間への懐疑としても、敢えてその必須に傾かそうとする私が蠢く(うごめく)。

33年間の時間にあって、国語科教育、日本語教育、帰国子女教育、外国人子女教育、国際(理解)教育に直接関わる幸いを得た、決して優等な教師、親ではなかったと自認する一人ゆえになおのこと。

学校世界の権威的正義の偽善、独善が一層そうさせたのか、閉鎖的“人間”社会に疑問、違和感を持ち始めた教師生活10年目頃の1984年、

永畑道子氏(幕末から現代に到る女性の姿を追った『おんな撩乱―恋と革命の歴史―』等の著書がある)が、母親としての経験も込め、自身にとっての「ほんとう」を求めて直接訪ねた、香港日本人学校を含め11校(取材校はもっと多い)のルポルタージュと私見の書『ほんとうの学校を求めて』に出会った。

その書が刊行されて30年が経つ。

改めて読み返し、掲載校の存亡とは関係なく、そこで報告、提議されていることの幾つかは今も、いやその時以上の重さで覆いかぶさっていることに気づく。
それでも日本は「進歩」を遂げていると言う……。

書の刊行以降、新たに「ほんとうの教育」を求めて創設された、私が直接間接に知る私学が、関西で少なくとも4あるが、はたしてその理念と現在の実態は、今どうなのだろうか。
現代社会に迎合せざるを得ない、それが生(せい)の現実よっ!と言われれば、私はどう反論できるだろうか。

次回、私の教師人生で出会った、私を、学校を、日本を考えさせた、多くは私の中で今も未解決ながら、生徒・教師の言葉を、そこで何を考えたのかの私感と併せて記したい。私の人生の或るまとめとして。

 

 

 

 

2014年8月9日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと その1 60にして読書の快を知る私と私の言葉と娘の死と

井嶋 悠

私は文学に興味はあるが、作品を精読乱読するより作家その人に関心が向き、言葉の断片からその作家の人と生を想像する愉快さに遊ぶ人間で、読書量はたかがしれていて(これは質の高さを言いたいのではない)、ただ10年前に退いた仕事柄(元中高校国語科教師)から、そこそこに読書をしたかとは思う。
私が描く“読書家”には程遠く、それどころか読書への劣等感、負い目を持ち、それが高じて或る時期には、身辺に書を置くことで安寧を図る一人でさえあった。

私が得心する読書家には、研究者といった人は措いて、これまでに直接に二人(男)出会った。
いずれも家が、或いは部屋が「傾くほどの」蔵書があり、書そのものを恋人のように扱い、“積ん読”ではなくほぼ読了し、内容をさらりと言った。
どこにも衒(てら)いのいやらしさがなく、私はただただ尊敬した。

一人は、大学生時代での出会い。 教育実習で行った大阪市内の公立中学校(ここは下町の中学校で、貧しい家庭も多く何かと厳しい問題を抱えている子どもたちも多かったのだが、お気楽な私のこと、生徒たちとの実に愉快な思い出がつまった貴重な3週間だった)の国語教諭でクラス担任の、市役所に勤め同人誌を主宰する謹厳実直温厚が人となった夫君で、今は故人である。
因みに、それが縁で、酒を飲ましてもらえるとの言葉に魅かれ、同人の集まりの末席を正に汚していた。

もう一人は、大学院時代での出会い。 日本史専攻で、非常に高い意識を持ち、全共闘運動にも深く関わり、当時から定時制高校教員であった苦労人で、今も交流がある人物。
彼は一時期、全日制高校に異動したが、これは学校ではない、と定時制に戻り、先年定年を迎えた。

生来の我がままから、最後の勤務校での校長等との、前職校同様、軋轢とタテ社会に辟易し、はたまた遅れ馳せながら人間(じんかん)に生きる至難苦難を体感実感し、かてて加えてそれと併行して娘の心身葛藤が始まり、で、できた“江戸っ子”カミさんの理解も得られ、59歳で退職し、その前後から、自照自省強くなり、意図的読書の快(このような言い方自体読書家でないことを証明しているのだが)をふと直覚し、7年前、縁あって栃木県の豊饒な自然の地に、自立した長男を除き移住し、2年前に娘の死の痛撃を受け、今ある。

そんな折、日本文学史上に名を刻む作家であり文芸評論家の次の言葉に出会った。

「無や死の上に立つ生命の認識は、本人が死を意識した時にのみ現われるものではない。本人の肉親、近親、愛人の死によりて、本人が突然生きることへの意味を根本から考え直すような時にも、それが起こる。」

「現世否定によって安心感を得る傾向の強い日本人は、遁世的生活によって自然の美を新しく見出すと同時に、死の意識によって、人と物との生命を把握することが、伝統的に巧みである。」

仏教語としての「因縁」を思わずにはおれない。

そして、一年前の[日韓・アジア教育文化センター]ホームページ改訂を機に、その[ブログ]に、私を私の中で証したく、併せて娘への鎮魂、供養そして贖い(あがない)の意思を大切に、拙悪な、しかし私の生からまた33年間の中高校教師体験から実感する、私にとっての活きた言葉を意識して積み重ねている。

表現での、私と娘の23年間の生涯での共通眼目は、昭和史と日本と現代いったこともあるが、中高校学校教育で、視座は二人の負の体験と、私の自省、時に自責からの、学校の三つの核、教師・生徒・保護者の主に教師に向かっていて、学校世界は国社会の、地域社会の、また家庭の縮図との、但しそれら社会に責任を転嫁することではないそれで、そこからの国の、地域の、家庭の礎に重きを占める学校であるとの考え方である。
それもあって、あれこれ題材を求め書き始めるが、行き着くところ日本の現在への文句が多いことは、共感者があるとは言え、自覚している。
尚、私は日本人として、日本の批判はするが、他国・地域の批判はよほどのことがないかぎりしない、と数年前から心に決めている。

以前投稿したように、高校時代の恩師が教師への端緒を作ってくださり、身を置いたからには七転び八起き33年間の教師生活を築いては来たが、為るべくしてなった教師でなかったからなのか、反面教師と鼓舞すれど後ろめたさ止み難く、更には今夏の熱中下、15年ほど前の鬱病による休職経験が甦ったのか、自照自省し「学校」「教師」について言葉にすることが、臥薪嘗胆的義憤、私憤の持続も時に断続的となり、それがために言葉が、一層理屈的自覚症状を引き起こし、透明な感性(あるとしてだが)は消え失せ、娘の顔もおぼろがかる不謹慎で、そんな自身に、やはり私が教育を“語る”ことに無理があるのかとの虚しさが襲い掛かることが、多くなっている。

表題を含め、語る、に“ ”をしたのは、個人的に「語る」との語の響きが苦手だからで、敬意を表している某有名教育学者からいつぞや「是非、今度語り合いましょう」と言われた時は、背筋に凍るものが走ったほどで、「落語家」と言うより「噺家」に情が動く。

そんな人間だから、娘の死に際し、旧知の敬意を持つ50代の女性弁護士に「お嬢さんは、学校に期待されていたんですか?!」との言葉は、一瞬にして私の核心を衝かれた思いで激しく狼狽(うろた)え、この衝撃もほぼ一年前に投稿した。
その時の投稿と重なるが、その女性とは以下のような人物である。
大学文学部を卒業後、就職、結婚そして出産を経て、或る日、弁護士を志し、予備校(専門学校)に2年通い、司法試験に合格。昔から語学に興味があり、英語・フランス語・韓国語[履修順]に高度資格を有するほどに堪能で、また人権を課題とした事例にも取り組んでいる。

それでも、次回、私が教育を、学校を考える契機となった、生徒との、教師との幾つかの出会いも顧みながら、とにかく体験からの私の内観の大切さを信じ、投稿したく思っている。 そこには、私の対学校発言、対教師発言の最後にしたいとの思いがどこかしらあるかな、と思いつつ。

2014年8月6日

北京たより  (2014年8月) 『七七』

井上 邦久

当地では陽暦7月7日は七夕祭りではなく、陰暦農暦の7月7日が牽牛織女の逢瀬に因んだ「情人節」として大切にされ、今年は8月2日(土)がその日に当りました。

天津でも北京でも薔薇販売人が街角にあふれ、若い男女のペアが大挙して繰り出していました

ソフトブレーンチャイナ( http://www.softbrain.com.cn/e-zine/jp.html)グループ創業者 宋文洲さんのメルマガを毎月配信してもらっています。

2014.7.14付けの第253号の人気コラムには「七夕の星空が伝える愛」と題する文章が載っていました。

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夕暮れが空を染める頃、私はハワイに向かうためにJALカウンターにいました。
そこに浴衣姿の女性職員が居ました。「毎日こんな綺麗な服を着るのですか」と聞くと「今日は七夕なので着ている・・・という書き出しで、宋文洲さんは日本に七夕習慣があることに驚きつつ、夏の夜に母の膝で聴いた牽牛織女の話を懐かしみながら綴っています。
そして締めくくりには、「私は思わず日本人の妻の手を握りしめ、中国人の私との間に銀河が作られないことを祈りました」と浪漫と切実な願いを記されています。更にP.S.として「JALさんの心遣いに感謝します。日中の文化的つながりに感謝します」という一節も添えられていました。

陽暦の7月7日、上海のとある洋館の一室。報道・製造・教育・飲食業などバラバラの分野の6人が集まり、共通項である「ヤンチャな大人の真面目なお喋り」をしました。帰任辞令が出ても、当局から後任者の就労許可証が下りる時期が読めない支局長への何回目かの送別が主目的でした。
国木田独歩研究を専攻した東北人と上海文化継承者とも言うべき生粋の上海っ子、ともに留学やその後の仕事で日本との御縁が深い二人の女性の参加で、真面目なお喋りの幅が拡がって行くのを感じました。浙江省のキリスト教取材でスクープを連発するなど「発信力」旺盛な支局長の、「七夕開催にしましょう」という意向で決めましたが、言わず語らずその日が盧溝橋事件から77年目の当日に当ることは意識していたと思います。
「蛻変の会」という大仰な会の名前には、単なる現状脱却を意味する「脱皮」ではなく、内実変容を目指したいという想いが込められています。「蛻(ゼイ)=蝉」でもありますが、ひと夏の経験に終わらせないように地道に想いを繋げていきたいと思っています。

その支局長から4月20日に、商船三井の船舶「BAOSTEEL EMOTION」号の差押の一件について問われました。船名から類推すると、宝山(BAO SHAN)製鉄の鉄鉱石運搬の為の船でしょう。『大地の子』を持ち出すまでもなく、宝山合作事業は日中国交正常化のあとの巨大プロジェクトでした。4月22日に、以下愚考します、と返信しました。

  1. 日本で法律を学び、海事も専門の弁護士に法的な見解を確認することから始めるべき
  2. 法的に決定されていても、その執行と手続き過程とタイミングには諸説反発も出てくる
  3. 甲午戦役(日清戦争・今年は干支10巡=120年)以降の物申すカードは中国側に多くあり、直近四半期にそのカードを恣意的に切り始めた。
  4. 民間の動きを容認・黙認する手法は、民心掌握を安上がりでできるし、いつでもグリップを握って恣意的に収束させることも可能
  5. 戦前に大陸と「縁の深かった」日本企業は、その後の資本変遷に関係なく旧事を追求されるリスクがある。今回の事は該当する企業に躊躇させる理由を与えたでしょう
  6. 以上は一般論ですが、「カードの多さ」、「恣意的」、「民間利用」というのが切り口です。

裁判経緯も背景も知らない人間が、「どう思います?」と聴かれて、何も調べもせず、一般論を喋っただけの内容です。ところが、数日後に急転直下の動きがありました。

日中戦争が始まる前後の船舶賃貸契約をめぐる賠償請求訴訟に絡み中国の裁判所に輸送船を差し押さえられた商船三井が、裁判所の決定に基づいて40億円強の供託金を中国側に支払ったことが4月24日分かった。商船三井は、差し押さえが続けば業務上の悪影響が大きくなると判断、裁判所が決めた賠償金に金利分を加えた額の支払いに応じたとみられる。輸送船の差し押さえは24日中にも解除され中国浙江省舟山市の港を出ることができる見通し。上海地裁は今月19日に同社が所有する鉄鉱石輸送船「BAOSTEEL EMOTION」を浙江省舟山市の港で差し押さえた。(4月25日、共同)

後日、日本留学・就職後に天津で要職に就いている友人が、以下のコメントを届けてくれました。

・中国外交部は「戦争賠償と関係ない民間訴訟」と言ったものの、すべてはそうではないと思います。

・77年前当時の経緯を詳しく察知していないが、本件訴訟は6年前(2008年)、確定判決は4年前(2010年)。船は以前から中国とオーストラリア間の鉄鉱石等運送で往復しているにもかかわらず、一貫して差し押さえされていません。つまり、中国政府は過去遠慮(?)していたが、今は強気に出ても構わないと判断したのではないでしょうか?

・その背景は、①安倍政権の政治姿勢、②日中領土問題等を巡る中国内世論への配慮、同時に今後民間訴訟容認(又は支持)の姿勢を日本側に表明したい意図があると思います。

77年間の経緯や背景を知らなければ始まらないと啓発されたところに、5月22日付けの『南方周末』に、本件に関する郭絲露記者、劉俊記者らの共同取材記事が掲載されました。記事から陳家4代の軌跡を時系列的に抜粋整理してみました。多くは記事の引き写しで、裏付け確認は僅かしかできていないことをご諒解願います。                                                                                                      (了)

 

「船王」討船77年 対日民間索賠勝訴第一案始末(抜粋)

1926年 北伐戦争の渦中、上海寧波航路船員の陳順通は、偶然の機会に国民党の四大元老の張静江を助け、その知遇を得る。国民航運公司の幹部に任じられ北伐軍の火器       搬送。

1930年 陳順通、中威輪船公司を設立(登録資金30万民国元)

1928年~1937年は近代中国経済の「黄金時代」。年10%超の高度成長時期
中威公司の資産は100万民国元を超え、「新太平」「順豊」「源長」「太平」の4船を保有。中国最大の船舶会社の総師として、陳順通は一躍「民国船王」と称される。
蒋介石からも重用され、上海市航業同業公会執行委員に。陸伯鴻・杜月笙らも会員。

1936年 「新太平」「順豊」を日本の大同海運株式会社へリース(期間1年。代金未収)

1937年 日中戦争拡大。 国民政府に徴用接収された「源長」は江陰要塞防御の為に自沈

1938年 大同海運から2隻の船舶は日本軍に「合法捕獲」されたとの通知。
中威機器廠(上海)も日本軍により占拠された。

1939年 国民政府の命令で残る「太平」も鎮海関に自沈させられ、中威公司は正式破産。

1947年 旧知の駐日本占領軍高官に調査依頼するも、日本軍に接収された2隻は1938年戦火により沈没していた事が判明。「現物償還以外の路」を尋ねるよう示唆される。

1949年 「一代船王」陳順豊が逝去し、長子の陳洽群が継承

1958年 蒋介石と近い陳洽群は反右派闘争を回避するため、香港へ移住。訪日活動再開。

1960~1970年前半、文化大革命により陳家の財産は更に減少。大同海運が資本変遷後に吸収された三井集団は「戦時中の事には対処できない」との姿勢、日本の弁護士からは「陳氏が台湾人なら中華民国政府は賠償放棄した。香港人なら英国に訴えるべき。中国とは国交なし」と言われた。伝手をたどり頼った周恩来首相からは「中威訴訟は人民外交で対処せよ」との指示。

1974年 東京地方裁判所の判決で中威敗訴。陳洽群は東京中等裁判所へ上訴。

1978年 鄧小平来日。日中和平友好条約締結。駐日大使館筋より陳洽群に「訴訟争議は宜しくない」との通知。ほぼ無一文状態で、18年ぶりに上海へ戻る。

その後4回の訪日、6回の北京での上訴も空しく陳洽群は逝去。陳春が後を継いだ。

1987年 陳春は上海海事法院へ訴状提出。強力な弁護団が組織された(司玉啄、高宗澤ら)

1991年 第1次開廷。当時の報道では、陳順通は日本に船を提供した「漢奸」と看做す傾向。

1996年 第4次開廷。三井側は「契約違反、損害賠償」→「道義的責任、損失補填」に転換。

2007年 上海海事法院 一審判決 陳家勝訴。双方上訴。

2010年 上海市高級人民法院は原判決を支持し終審。最高法院も被告の再審要求を却下。

2012年 遅々として執行しない法院に抗議の声。陳春は強制執行申請書に署名して、逝去。

2014年 4月19日 強制執行。20日 陳春の納骨葬儀。安倍首相は商船三井社長に事前報告
欠如を咎め、早急に事態解決を指示。24日、上海海事法院は三井の義務履行を宣言。

以上

 

井上 邦久