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2014年9月23日

これが日本の目指している姿なのでしょうか。 余りにも酷(むご)過ぎる、と思うのですが。    +1  番外編

井嶋 悠

私の言葉が生きているかどうか、私が自得できる背景の一つは、33年間の私学中高校国語科教師経験で、そこから【私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと】との表題で、先ず17年間の「教師原点習練期」を5回にわたり書き、次の、59歳で教員生活に終止符を打つまでの波瀾万丈!?17年間の「新たな教師挑戦期」の思い起こしをしていたが、 またしても現代日本を象徴するかのような、私にとって寂し過ぎる、哀し過ぎると言う意味での酷過ぎる報道と爽やかな報道がされたので、1945年(昭和20年)8月23日に長崎市郊外で生を授かった日本人の一人としてそのことを書く。

これは、昨年秋「日韓・アジア教育文化センター」のホームページを更新し、その際、或る強い思いと期待から[ブログ]を始め、ありがたいことに中国から定期的に寄稿くださる日本人商社マンがおられたり、数は多くはないが、関心者、共感者の存在もあり、なおのこと寄稿する良い機会と思い書くことにした。

来年古稀を迎える人間としては、叙事を離れ、例えば、オーケストラとポップバンドが編曲、演奏するビートルズの「Let it be」に酔い痴れながら、画文[画:有賀一広氏、文:白井明大氏]のほのぼのさもあって一層心染み入る書『日本の七十二候を楽しむ』に浸ったり、杉浦日向子の説く江戸世界を彷徨(さまよ)ったりして、濾過された抒情に身を置く方が、よほど相応しいのかもしれないが、哀しい?性情で……。

■ ■ ■

「衣食足って栄辱[礼節]を知る」とは、しばしば使われる故事である。 中国紀元前7世紀、孔子より100年前の、管仲という政治思想家の言葉とのこと。 ここ数年にぎにぎしい現代中国を思い浮かべる人もあるかとも思うが、ここでは私個人のことである。
私は27歳で正業に就き、59歳で退職するまでの33年間の年金積立と、妻の内助、周囲の方々の厚意、高配により、5年ほど前から、北関東の豊潤、豊饒な自然に囲まれた地に妻と愛犬と共に過ごし、何か月に一回か、「日韓・アジア教育文化センター」関係や、小学校(東京)時代の、今も現役で働く友人たちとの至福の時のために上京するという過分な贅沢にある。

時間を含めた日々の生活としての「衣食」「足って」、「栄辱[礼節]」自身を、日本社会を改めて「知る」(知らしめられる)、自照自省の時機の実感。

もっとも、7年の時を経て、2年半前、途方もない悲嘆と自責と悔悟に突き落とされ、それは時に強くはなるが弱くはならず、様々な場面で私に襲い掛かって来るが、ここでは私なりに一線を画しての「衣食足って栄辱[礼節]を知る」に立った、私が思う酷い報道2件と快哉(かいさい)の報道1件からの私感である。

 

◆都内の小学6年生の二人の女子児童が、9月6日午後3時35分頃、マンションの7階踊り場から一緒に飛び降り自殺。
踊り場には、二人の靴が揃えて置いてあったとのこと。
遺書らしきメモに通学、通塾、習い事等からの「疲労」が書かれていたとのこと。
自殺当日、学校で級友たちと抱き合って言葉を交わしていたとのこと。

彼女たちが死を決意し、踊り場で靴を揃え、飛び降りたその瞬間までの心の推移を、私は勝手に思い、私の全身を、どす黒く冷ややかな摩訶不思議な液状のものが、遅 速不規則な速度で突き抜けて行く。
父母の、止めどもない嗚咽と涙、切歯扼腕(せっしやくわん)が浮かぶ。

特に目新しいことでもなく、またか、のさえ漂う無気味な怖ろしさ。それさえ麻痺して……。

しかし、この2,3年は年間3万人を切ったが、それまでの10年来、3万人の自殺者を生み出し、若者の自殺率が高い日本。 2012年統計では、韓国が2位、ロシアが3位、ハンガリーが7位、そして日本は8位。(因みに、それまでは日本が2位で、韓国が8位)
先進国とは何をもって言うのだろう? 経済統計?
日本は自然と経済の(何という並立!)豊かな!?国だが、日本人は精神脆弱?
10代にして、学習、稽古事で疲れを、寝不足を言う国でなければ先進国になれない?

自殺した二人の親のことも、その子たち自身の考え方も知らないが、思う。
「お受験世界」(主に大都会に起きている幼稚園から大学までの受験“狂騒”を、鼻息荒く猪突猛進する一部(母)親の指向、またそういった傾向を揶揄して言う表現) にあって、それに疑義を抱きながらも抗し得ない“普通”の親たちに安易に責任を問えるのかどうか。
それはあまりに人間離れした空理空論、空虚な知識の言葉ではないのか、とその世界を見て来た私は思う。

以前のブログでも紹介した、 「自殺は自業自得である」と言い放った日本の高度経済成長を率い、世界10数か国に在留、訪問したことを自負する、今は引退した日本人男性は、この二人の少女にも 「自業自得」と言うのであろうか。
また、
「西洋では禁止されていますから」と、西洋社会在留経験を持つ、受洗者とは思われない日本人女性(母親)は、日本でのキリスト教(正しくはユダヤ教?)浸透を 切々と訴えるのだろうか。

政治家や識者は、カウンセラーの加配、相談窓口の設置、地域の人々の連携の推進、実施を異口同音に言い、そのための予算措置を行う。
そのことを一方的に非難否定はしないが、それらが結局は対症療法とならざるを得ない、その限界を多くの人々はとうに気づいているのが現在ではないのか。

これも以前ブログで書いたことだが、何年か前から日本で、フィンランドの教育を讃える言説を言う人があるが、その教育構築前は、フィンランドは欧州で1,2位の自 殺の多い国だったとのこと。
そこで国は根本的に国の在りようを考え、立て直すことで、自殺減少と現在の教育を持ち得たという。
フィンランドの教育を讃えるその人たちのどれほどが、それを承知して言っているのだろうか。

個性の大切さを説く現代日本にもかかわらず、人の美(その内面と外面)について、流行について、生き方について、はたまた学校について、その半ば脅迫的に画一化 を煽るマスコミと、それに乗って無恥そのままに、八方美人よろしく正義派気取りで軽佻浮薄な言葉まき散らす俗悪な、中には知識人、文化人を自負する人々。
そしてその人たちには、世間常識では想像も及ばないカネが支払われているとか。

そのカネ・モノ社会に振り回される老若男女がいれば、その人たちは言う。 「現代情報社会での、自己選択、自己責任、主体性の大切さ、人としての誇り。」
そこに見る、己が絶対の、観念でしか生きる必然が考えられない、人が人であることを棄てた(本人は超えた?)傲岸。

日本は、いつごろから人々を追い立て、追い詰める国になったのだろうか。 明治の日露戦争後から? 昭和の日中戦争後から? 戦後体制のアメリカ追従後から?

そして、まだまだ「衣食足らず」を至上に、自然を軽んじ、人為を過信し、“一億一心”国民を猛進させようとしているのか。

「のど元過ぎれば熱さ忘れる」の、人の哀しい性?

「地方創生」の前提が、そんな国家観に立ってのものならば、物心格差の一層の拡大、大都市集中と地方過疎崩壊は決定的であろう。
2020年東京オリンピック。招聘時のカネ・モノ戦略の下卑。決定後の外国人労働者確保にみるあの手この手。
正しくは「日本オリンピック」なのではないのか。

そもそも「創生」と表わすことに、政治家の、官僚の“賢さ”が露呈しているように思える。 普通人(常識人)なら、先ず「再生」そして「蘇生」ではないのか。

世界に眼を広げれば、紛争や風土・環境また当事国の、更には日本をはじめ先進国の施策からのおびただしい貧困の現実が広がっていて、このような発言は富める者の 戯言(たわごと)、世迷言との厳しい叱声を受けるだろうが、しかし「だからこそ(言える)」との思いも私の中にある。

 

◆9月12日の「東京新聞」に報道された、二人の女性(総務大臣と自民党政調会長)の、極右団体代表との日の丸を背にしてのツーショット   

 

女性の登用(こういう言い方自体に、男性優位感を直覚してしまう私なのだが)、不当に女性を侮り、不当に男性を崇める過誤を繰り返していた日本が、先進国最後発 であれ、男女それぞれの着色なしの自由な指向から、男女相補完し事を為す動きを始めたのは、男女共同参画・協働が自然の教員世界にあった者としては、遅きに失す るとは言え、素晴らしいことだと思う。
もっとも、教員世界で優秀な女性教員・職員と仕事をし、自信に満ちた男性からの「男のくせに」的視線に、己が不甲斐さを思うことの多かった私など、何よりも安堵 が初めにあるが。 男女相補完し事を為すその豊かな稔りのためにも、加虐・差別側にあった男性一人一人の意識改革が求められ、それが生半可なら、生兵法は大怪我のもと、既に露見し ているように美辞麗句遊びに堕すだけだろう。
だから、これまで以上に、男・女の前に人としての適不適が問われることになる。

そんな時、社会的、政治的要職に在る二人の女性が、「日本のネオナチ」を標榜する極右団体代表と、それぞれ日の丸を背ににこやかに写っている写真が報道された。

「人物像は知らなかった」との相も変らぬ卑怯さだが、その傲慢さ、或いは極度の不勉強は、それだけで公人(それも世界発信的!?公人)失格である。 それとも、芸能人の「握手会」!と同じ感覚が理解できない私の非現代人性ということなのだろうか。
私は、思想としての右翼左翼論議をするつもりはなく、太平洋戦争を省み、唯一の被爆国としての痛みからも、恒久平和と民主主義を発信、構築しようとする日本の政 治指導者が、「国家社会主義日本労働者党」と名乗る団体と、日の丸を使ってツーショットにおさまることが信じられない。
否、公開されることは当然承知してのことならば、人が権力を持つことでの醜悪の極をそこに見る。
そんな私からすれば、二人は国辱者あり、国賊以外何者でもない。

記事によれば、欧州ならば即刻辞任とのことだそうだが、欧州云々等比較は全く無意味で、即刻辞任すべきことである。
学校教育に多大な賛同をもって導入された、相対評価より絶対評価の好事例ではないか。

と書いている中、今度は国家公安委員長の女性が、主に在日韓国人・朝鮮人へのヘイトスピーチを行っている「在特会(在日特権を許さない市民の会)」との交流、 また政治献金を受けていた問題が報道された。 これらは、男性上位指向に固執する男性からの、マスコミを利用しての謀略ということなのだろうか。

そして、「任命責任者」に責任はないのだろうか。

否、それとも日本風土?を承知しての意図された任命なのだろうか。

やはり!世はすべて勝てば官軍なのでしょうか。

 

◆9月12日に、政府の福島原発事故調査委員会・検証委員会での、事故当時東京電力福島第1原発所長だった吉田 昌郎氏(故人)の聴取内容抄録の公開報道

 これは、番外編である。
先の二つと違って、或いは補填する意味から、思わず快哉を味わったので書く。

    私は、脱原発を支持する一人であり、現政府の再稼働姿勢に典型的物質文明最善観を思い、また東京電力の姿勢[例えば、社長が黒字決算とすることを得意気に語る こと]に、おぞましさを思う一人で、社員であった吉田氏がその原発、日本の指向或いは政治にどのように考えていたかは知らない。

しかし、抄録に次のような一節があり、思わず快哉を心中叫び、氏の現場からの信頼を裏付ける深みと優秀さの人柄を直覚したので引用する。

(撤退と言う言葉の使用有無のやり取りのところでの、政治(家)に係る発言)

「アホみたいな国のアホみたいな政治家、つくづく見限ってやろうと思って。どこかでないですかね。この国を見限るようなあれは、もう、本当に。」

ここでの政治家とは、当時の民主党政権下の人々であるが、私はそこに到るレールを敷いた自民党と併せ考えるし、かと言って信頼する野党はない無党派で、その限 界、無責任を自覚しての私感である。

ここ何年か、日本を見限り、定年後だけでなく海外移住が増えていると聞く。
なんとなく共鳴する私がそこにいるが、私にその決意はなく、このまま日本に住み、日本で土に還り、家族、親族、知人、友人に気ままに再会したいと思っている。

因みに、「従軍慰安婦」問題と併せて、新聞社・マスコミの攻守華々しいが、新聞社も一企業であり、人間社会に絶対はなく、どこを信頼するかは、権威に惑わされる ことなく、自助努力からの情報収集、探求を経て、最後は自身にとっての好悪しかないように思っている一人である。 自身の「専属医」を決めるのと同じく。

2014年9月19日

北京たより(2014年9月) 「球場」

井上 邦久

北京人は立秋を待ちかね、処暑で秋支度を始め、そして中秋節を楽しみにします。

天気がよければマルコポーロも愛でたという盧溝橋での月見に出掛けるようで、北京南西方面への車の渋滞予測が新聞に載ります。昨年の40℃近い烈暑とは打って変わって長雨冷夏のまま秋になった上海とともに、この夏は北京も暑さは厳しくはありませんでした。

空気汚染は相変わらず予断を許しません。11月のAPECを前に地域工場への環境対策、自動車排ガス規制、都市暖房の煤塵整備などを躍起になって実行しているようです。
『CHINA DAILY』サイトを大阪で読み続けている方から「中国基準では『軽微汚染』とされている数値が、アメリカ大使館発表の基準では『UNHEALTHY』ですよ」と教えられました。
社宅からの朝の道、バス停3駅分の場所に屹立する北京最高層の国貿第3期ビルが「見えない」「ぼんやり霞む」「くっきり見える」を個人的汚染目安にしています。

黄砂飛ぶ俺のせいではないけれど 

 

残暑を「秋老虎」と表現します。今年は「トラもハエも容赦なく捕える」という腐敗摘発活動でトラは檻の中。秋に老虎は吼えることもできず、残暑は厳しくありません。
一方、日本の猛虎軍は何とか鯉の尻尾を咥えてペナントレースを戦っているようです。

その猛虎軍の本拠地の甲子園球場で、今年も高校野球大会に「参加」しました。8月14日は昨年に続いて元太郎さん(釜石出身、上海で出逢った球友。清岡卓行の佳作『猛打賞』を貸してくれたご縁)と4試合、15日は単独で3試合、全インニング「参加」しました。

試合の合間、名物甲子園カレーが10%値上がりして550円になっていることを発見し、消費税アップを実感。600円だったコロッケカレーがメニューから消えているのも残念でした。900円のカツカレーは高校野球場では邪道です。そこで14日夜にコロッケを冷蔵庫に買い置いて、翌朝早くバッグにタオル、日焼け止めクリーム、冷凍したお茶などと一緒にコロッケを入れたはずでした。しかし開けて吃驚、コロッケではなくキムチが入っていました。その日は甲子園カレー辛口を選んでいたのでキムチを追加するわけにいかず残念でした。

生ビール売り子も黙祷甲子園

 

この夏、加藤周一の長編小説『ある晴れた日に』(岩波現代文庫)を読み繋いでいました。
1945年の初めから東京空襲そして8月15日に到るまでの日々を、作者の分身のような青年医師の思索と行動を軸に綴ったものです。
加藤氏自身も親友を戦争で失くし、原爆投下直後の広島調査団に加わった経歴も後に知りました。ベストセラーになった『羊の歌』を高校時代に読んで以来、評論を読み、講演を聴き啓発を受けました。最晩年は若者と老人の同盟を作る試み(他の世代は仕事に忙しいから当てにならない?)や『九条の会』の呼びかけ人となるなどブレない生き方でした。
1950年に公刊されたこの長編小説の中で、空襲下の東京の病院を二人だけで切り盛りしていた同僚についての次のような一節が印象的でした。

―――外科学会雑誌の報告は慎重に吟味した後でなければ決してそのまま信用しない岡田が、何故新聞の記事は無造作にそのまま本当のこととして話すのか、理解することができない。同じ人間があるときには論理的であり、あるときには非論理的である。(中略)戦局の判断に関しては非論理的であり、軽率であることが、愛国的なことであるのか。―――

目標としていた8月15日の黙祷前に読み上げることができました。

ある晴れた日に戦やみ蝉しぐれ

 

甲子園球場での高校野球の熱気が冷めて一週間、北京から4時間かけて新彊ウイグル自治区のウルムチ(烏魯木斉)に飛びました。
今年2回目の訪問となるウルムチで9月1日に開幕された第4回中国-中央アジア・欧州博覧会に参加することと、中央アジアやロシアとの跨境貿易の中心地、そして欧州への窓口となりうるウルムチの五年先を見据えての調査継続が目的でした。
欧州・中央アジア・アフリカなどから38カ国の参加。国旗の列には月や星の図柄が目立ち、太陽のデザインはバングラディッシュ以外にはありませんでした。
その中で大極旗の韓国の存在感は大きく、ソウルとウルムチの間には週2便の直行便も飛んでいるようです。
来年には日本初(?)の出展参加をして、まさに旗揚げをしたいものです。

1980年代半ば、リチウム業務開発の為に新彊に通いました。観光用でない駱駝や蜃気楼、自生するサフランを初めて見たのもその折でした。中国語で価格交渉をしている途中、相手公司のデルシャット副総経理がノートを広げたまま席を外しました。つい覗き見すると、ウイグル語と思しき判読不能の文字がぎっしりでガッカリした事を思い出します。リュドミラ・サベリーエワ、ソフィア・ローレンはたまたジュリー・クリスティが中国普通語を喋っている姿を想像して頂ければ・・・電影宅男(映画オタク)でないと無理でしょうか?

エジプト綿に並ぶ長繊維綿のサンプル入手を契機に、繊維部門が新彊トルファン綿を大きな取引に発展させました。一緒に託されたホップ(麦酒花)は時期尚早だったのか、当時のサントリーには採り上げて貰えませんでした。
最近は豊富な石炭を背景に安価な電力を活用したアルミ加工産業が発達しており取引の中心になっています。今回もお世話になったアルミメーカーの社員食堂は清真(モスリム)料理のみのセルフ方式で、壁には「和諧」「協和」などの文字が沢山掲げられていました。ランチをご一緒した漢族の工場長は「最低18%の少数民族社員を雇用する義務があり、和諧に腐心している」と語っていました。

ウルムチで少数民族となる夏    

(了)

2014年9月7日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと その3 教師だった私の心に刻印された生徒・保護者・教師の言葉と私感

A.

教師原点習練期

アメリカ人女性宣教師によって120年前に創設された女子中高校[17年間勤務]

 

A-Ⅲ

    (海外)帰国子女教育

井嶋 悠

私にとっての(海外)帰国子女教育とその原点

 

【従兄弟の一撃】

(海外)帰国子女教育との出会いは、前回の「外国人子女教育」と同様、否それ以上に私に、日本の、日本内の、社会・教育の正負を映し出す鏡であることを気づかせた。そして私の教師生活の大半がこのことへの関わりでもあった。

とは言え、今回記すことは、教師として、その原点習練期に、日本の学校教育、日本社会を考える具体的な場に在った幸い体験であるが、同時に、その後、より明確な自己を持ち得なかった私の弱さの自省表示序章でもある。

帰国子女教育に係わって数年しての1980年代前半のころ、従兄弟が私に発した一撃。
その従兄弟は、法曹界に在って、国内外で確かな足跡を残し、現在は引退している。

「学校はきれいごとばかりだ。自分は、日本国民として、父親として、日本で、海外で、献身してきたつもりだ。長男の高校入学に際して、なんだかんだ言って拒絶する。何が帰国子女教育だ!」

ヨーロッパの或る国に外交官として赴任し、長男を現地校に入れ、父子共々数年間の貴重な体験を重ね帰国(東京)した時、高校進学で突き付けられた現実からの、私への一言が上記である。
その長男は、何校か訪ね歩き、或る私立高校にかろうじて入学が許された。
背景には幾つもの日本の課題が絡まっているように私の以後の経験から思い、学校を一方的に責めるのは手落ちであると思うが、ここではその指摘だけに留める。

尚、表題で(海外)としたのは、現地での、学習塾を含めた教育事情見学や学校説明会(私が訪問したのは、欧米とアジア地域)で、現地の教育環境、家庭環境を知る機会を得たが、それは例えば日本人学校に赴任したといった直接経験がないので(  )を付した。

 

【「私たち大人はいいんです。子どもたちは逃げ場所がないんです」】

(海外)帰国子女教育と言うと、どこか特別視している印象を与えるが、私の心の根底に在ることは、「私たち大人はいいんです。子どもたちは逃げ場所がないんです」(ヨーロッパ3国に10年余り在留した父親が企業派遣家庭の母親の言葉)と、私に話された母親の呻吟を切り捨てるかのような、それは父親へ非情の言い方にもつながるのだが、学校教育の根っ子は国内外、世界同じだとの思いである。

或る時、中近東地域への企業派遣の父親からこんな話を聞いた。

「週末に男だけで一杯飲んでカラオケに行くなんて日本人だけだ、なんて冷ややかに言われますが、美空ひばりの「川の流れのように」などを歌うと、止めどもなく涙が溢れ出て来るんですよ。」

国内での単身赴任さえ経験のない私だが、ひどく共振し、黙ってその場を想像していた。

学校教育の根っ子、それはことさら言うのも馬鹿馬鹿しいが、「個の可能性を自他で発見し、その個を伸長させ、公私未来の礎を作り、世に送り出す場」で、私の場合、日本のそれである。
その際、私に最も肉薄する世界・言葉は、教師であり、父親としての経験からの中高校世界である。
だからなおのこと、前回の投稿のように「総合的学習」と「IB教育」に見る欧米偏重劣等観が悲しく、恥ずかしい。

小さな国際人】

英語には「帰国子女」にあたる一般的用語がないと言う。だから敢えて「期待」などとは言いようもないようだが、日本では、(海外)帰国子女に、名誉を、或いは迷惑、不快を、直覚させること多々あることをしっかりと承知した上で、期待がある。
その一つが、もう何十年来言われている「小さな国際人」。

「国際人って?」「そもそも国際って?」と、悪しき「内向き」指向の狭隘ナショナリストではないつもりなのだが、私は思う。
そのきっかけを差し出したのが、私が教師歴6,7年頃の1970年代後半、高校1年次編入での帰国子女受け入れ校を表明したときの最初の生徒たち7名の内、とりわけ3名である。

「(海外)帰国子女教育は、日本の、日本内の、社会・教育を映し出す鏡である。」
正負においてあおれを実感した最初である。

皮膚感覚で「国際」を体験した帰国子女は、時に厳しい提言を、自身にとって活きた言葉として発する。
その最初の私への能動者が彼女たちであり、後に併設の大学も含めた学園冊子『帰国子女を考える』の作成ともなった。

彼女たちは、家庭のそれとともには、「名門校」への帰国第1期生として期待も大きかったかと思う。
しかしそれが、3名にとっては、疑問の契機となった。
3人の入学前の学校歴は以下である。

一人は、香港日本人学校から。一人は、ベネズエラのインターナショナルスクールから(彼女は、学齢を一年下して入学)。一人は、アメリカの現地校から。

問題提起の要点は「国際(人)」についての、経験からの本校・学園への疑問―それは、英語ができる、学力優秀=国際人? また生徒・教員に見る閉鎖性、保守性への疑問―で、それを基に、併設の大学での卒業論文に「国際(人)考」を3人共同執筆で取り組むことになる。

その貴重な体験に、その後のインターナショナルスクールとの協働校勤務での多様な帰国子女との、またインターナショナルスクール教職員、生徒、保護者との出会いを経て思う「国際人」を記す。

英語や外国語ができるという前に、自身を、天空下、無言の自然を畏敬し向き合い、知識・人為を弄することなく、自然と人に、さらりと交わり(古代中国の「君子の交わりは淡きこと水の如し」)、正に無為自然に生きる人が、国際人の始点であり、そして真義ではないか、と。

「宇宙船地球号」という言葉は人為であるが、宇宙も地球も人為の賜物ではない。
現実世界は国・地域とかまびすしい。そこには意図された人為がいつも働いている。
「二つのもの・ことが交わる」[際]に快を見い出す人にとっては、実に動的な魅惑に駆られる、と同時にそれぞれの時に独善的な国家性に苛立つ世界。
しかし、魅入られた人々にとって、より交流を広げ、深めるには、自身が拠って立つ所の「際」に接する国・地域の言葉が必要であろう。逆はない。
その言葉は、人間(人柄・人間性)あっての言葉である。術を弄した言葉は虚しい。

だから人間性豊かな英語母語者にとって、「英語ができる」=「国際人」が、いかに不快かは明らかである。
先のインターナショナルスクール協働校では、そんな英語母語者と多く出会った。
そのことは次回以降の「新たな教師挑戦期」で記したいと思っている。

私が人として、教師として尊敬する日本人英語教師の一人(女性)は、英語を母(国)語とする人が敬意を表するほどの質の高さであるが、それをおくびにも出さない。

「能ある鷹(猫)は爪を隠す」

このことわざは日本だけで通用する古人の知恵なのだろうか。それともその日本にあって、今では死語なのだろうか。

「人のふり見て我がふり直せ」「墓穴を掘る」……を重々承知で一言。
活きた力量も豊潤な人柄とほど遠い人物が、厚顔無恥そのままに闊歩する現代日本だから一層思う。
過去の日本の総理大臣で「英語ができる」との恥ずかしい過信から失敗した事実も思い浮かぶ。

「姿は似せがたく、意は似せ易し」】

近代を問い続けた批評家小林秀雄のエッセー「言葉」から教えられた、江戸時代の思想家・本居宣長の言葉観。

「姿は似せがたく、意は似せ易し」。なるほどと思う。

と言う私には隠すものはもちろんのこと、その前提さえない身ではあるが……。

ところで、「国際人」と言うときの「国」には、今、「国家」の響きを思うのは私だけであろうか。
「国」は、「郷土・故郷・あなたのクニは?」に通ずるそれが、先ずあってのことなのではないか。
その両者が交わるところから、「国際」での人と人の交わりが始まると思う。
その時、最も大切なことは、両者のそれぞれの、自然に湧き出る人への、自然への寛容であろう。
その寛容を知るとき、私たちは己への甘さ、厳しさの不足に思い到る。

「謙譲語」を敬語の三つの柱の一つとして持つ日本語を母(国)語とする者として。
だから、喧伝される「愛国心」の言葉は、時に「ほめ殺し」になる懸念を私は持つ。

そこから発展させて東洋の、或いは仏教の歴史を持ち出すのは、余りの管見、独善なのだろうか。

アメリカ的】

私が、これまでに出会ったアメリカ人(主に教師、保護者)に、実に“アメリカ的”でない、或いはその“アメリカ的”に辟易しているアメリカ人が結構いたし、またアメリカ現地校から帰国した生徒の「教室に在って、日本に帰ってほっとした」旨の発言にも接したが、このことはスピーチ・プレゼンテーションでの表現法で、アメリカ的を善しとする人々からは、例外、非国際人、少数派として排斥されるのだろうか。

日本に関心を寄せる外国人が、日本の、日本語だけを、それも方言の強い日本語を、当然のごとく話す田舎(私が先ず思い描くのは、なぜか農村である)の老人に会って「彼ら彼女らは国際人だ」と感銘するのは、その老人たちが人為を超えて、無為自然を示しているからではないのだろうか。
これは逆も同じであろう。
アメリカに関心を寄せる日本人が、アメリカの田舎で無為自然を直覚させる英語老人に出会ったとき。

そして思う。「国際」は「民際」あってのことではないか。
しかし、最近「民際」と言う言葉をあまり耳にしない。それだけ時代は政治的になっているということなのだろう。
うっとうしい限りである。
それも、物質文明を、軍事増強あっての平和を、国是とするかのような富国・強国からの現代日本だからますます寂寥感が漂う。

【[海外子女]から[帰国子女]へ】

そんな現代日本にあって、私が言う富国も強国も白紙の帰国子女は、或る日突然のように「際」に立たされ、海外子女となる。
そこでは、国内転勤、転校で体験する異文化体験とは比にならないほどの異文化体験が、彼ら彼女らを待っている。
しかも受け入れる側の子どもや大人の持つ「日本」への視線があって。

在留地生活、学校生活にあって、適応することに、時に耐えることに、莫大なエネルギーが費やされるが、そのことが寛容さを育むとも思う。
就学校として、日本人学校、インターナショナルスクール、現地校(この場合、ほとんどが英語圏)が考えられるが、在留地によっては、選択の余地がない場合もあるし、複数の選択肢がある場合もある。

日本人学校の余裕度は否定できないが、子どもたちを守り育む場が学校との最前提にし、海外在留生活だからこそ親子協同しての、家庭。家族また日本、そこから親は自身と子の、子は自身の“個”に思い及ぼせる時間が持ち得るととらえれば、当事者でない無責任を承知で、選択肢の有無による正負は一概に言えないのではないかと思う。

しかし、適応叶わず、精神的に追い込まれた彼ら彼女らも確実にある。同じ帰国子女として。

「帰国子女? エリートね。英語ペラペラでしょう。えっ!? ニューヨーク生まれ。羨ましい!」の残酷さ、軽薄さを、今も何ら自省なく突っ走るマスコミはどれほど自覚しているのだろうか。
「隠れ帰国子女」という言葉が生まれる背景を私たちはどう受け止めているのだろうか。

次回以降、「新たな教師挑戦期」で知り得た厳しい諸例について触れられたらと思う。

改めて思う。先の、ヨーロッパ3国に10年余り在留した企業派遣の母親の言葉、

「私たち大人はいいんです。子どもたちは逃げ場所がないんです」の重さ。

しかし、この母親の言葉は、一方で、大人の硬化した心と頭では覚束ない、若者の瑞々しい感性があっての、自身の子どもたちへの、例えば日本国内に留まらず世界視野での「平和」貢献といったことへの夢と期待にもつながっているのではないかとも思う。
だから、時に親の帰国生を迎える私たち教師への言葉は、哀しみを湛えた痛烈なものとなる。

3人の2,3年後での、アメリカ現地校からの帰国生徒の、礼拝時のこんな発話がある。

―私の母親を含め数人の日本人母親たちの会話にあった「アメリカまで来て、アジア人とは付き合いたくないですよね」を聞いた時の私の狼狽(うろたえ)と哀しみ、分かっていただけますか。―

存在感を持つ或る中高校】

「原点習練期」での私と帰国子女教育、の最後に、帰国子女教育で存在感を持つ他校のことを記す。

その学校は、1980年、帰国生徒受け入れを主たる目的に京都に創設された学校で、勤務校と同じくキリスト教教育同盟校であり、帰国生徒間交流を何度か行なった。
これは、そのとき出会った、やはり私に考えることを求めたエピソードである。
尚、この学校の実践は、後に関わることになる研究会『帰国子女教育を考える会』(日本人学校等派遣経験教員を含む小中高大教員、保護者、企業や行政関係者で構成される研究会)でも多くの示唆を与えられた学校である。

創設初期のころ、自由をうたいながらピアス禁止に、校長に直談判に行った或る女子生徒、交流での快活な発言、態度から私に強い印象を与えたフランスからの帰国子女、と校長の議論は並行線をたどり、彼女は退学してフランスに戻った。
彼女のその後は聞いていないが、きっと確かな生を築いていることと想像している。

その学校には付設の寮があり、彼ら彼女らが身に着けて来た文化と日本文化の間(はざま)での日夜の生徒・教師間の対話のこと、また旧来の学力観から抜け出る試行錯誤のことなど、帰国子女教育を活きた形で知り、考える、勤務校では到底体験できない、少なくとも関西では唯一の学校であるかと思う。
その学校には「受け入れ校」に相応しく、「国語科」に「日本語科」があり、その横の連携から副読本教材を制作するなど、衆目を集める教育活動を展開していた。

創設から30年余り経った今、生徒の、保護者の、学校のどのような変容があるのか、例えば帰国子女受け入れを標榜する某中高校長の「ぼた餅論」など、理想と現実、学校と社会と教師に関して、上記研究会等で多く示唆を得たが、これも次回以降のこの原点形成期を土台にした新たな挑戦期のところで触れられたらと思っている。

 

その次回からの、新たな挑戦期であり、教師生活最後17年間の教育体験学習は、家庭と外部の人々の支えと励ましと導きなしには、教師以前に到底生きて来られなかった、我利我利的に言えば何とも破天荒な記録でもある。