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2014年11月24日

哀悼 高倉健さんの眼差しと「かなしみ」 ―併せて渥美清さんの眼差し―

井嶋 悠

高倉健さんが、先日(11月10日)に、彼が言う「明治の母」お母さんの、そしてひたすらに愛し早逝した妻江利チエミさんのもとに旅立った。
旅立ちの時、そこはさぞかし清澄な気に包まれたいたことだろう。
もっとも、天上はにぎにぎしく歓迎(式・祭)が行われていただろうけれど。
健さんより18年先に逝った生年3年先輩の、かの渥美清さんも、そこにいた一人に違いない。
「ようっ、来たかいっ」と。

私は健さんも、清さん(寅さん)も、銀幕〈何と美しい響きをもった言葉〉の人でしか知らない。
人として知っていることは、誰しもが知っているほんのわずかなエピソードだけである。それで十分だ。
だからこそ二人は、心の奥底にいつまでも輝く宝物で、何かことあると銀鈴は奏で始める。
死の報せをテレビの特報で知った時の激震のように。
その時の妻の一言。
「健さんも死ぬんだ。それも83歳だったなんて。」
はっと気づかされる、彼は永遠に生きていると思い込んでいた私。
スターのスターたる証し。

健さんと清さん(寅さん)の二人は、私が、父母からまた天から授けられた生得と子ども時代、そしてその後の摩訶不思議な?生、なかんずく妻の病で長女として生まれるはずだった子の流産、そして3年前の娘の23歳での死、等々、有為転変から、ここ数年昇華に努めている、生きることの「かなしみ」[悲しみ・哀しみ・愛しみ]を自然に体現していた役者だと思う。

健さんの、
任侠道全うがゆえの斬り込みの後に、また「不器用な」男(であり人)の真情(健さんの言葉を借りれば、プロデユーサーや脚本家や監督によって磨き出された科白)を訥々と語った後に見せる眼差しに、

清さん(寅さん)の、
微笑み絶やさず、時に饒舌な科白の、その合間にふと空(くう)を見つめるつぶらな〈銀幕上での彼の科白で言えば「ちっこい」〉眼から注がれる眼差しに、

私はいつも「かなしみ」を直覚していた。

名優は背中で演技すると言われる。二人は背中と眼差しで演技する。しかし、私たちは演技であることを忘れる。
その静寂で激情的な“間”を映像化するスタッフ・キャスト。
映画制作の醍醐味……。

別話。
二人と縁の深い倍賞千恵子さんが映画『家族』(山田洋次監督)で、路上にかがみ込み、妻として、母として、そして女(ひと)としての「かなしみ」を、寸時背中で表現した激烈さは今も私の心に焼き付いている。

私がこだわる「生とかなしみ」は、まだまだ直覚だけに留まっているだけだが、「(人の)生は苦」との仏教等から誘発された哀傷とか哀愁といった消極的、逃避的抒情ではない。
人と人の関わりにあって、愛(あい)別離(べつり)苦(く)、会者定離(えしゃじょうり)ゆえの、人が人の子として生きんとする精進と葛藤の積極性を思ってのことである。
不遜な言い方をすれば、日々の暮らしから得た、仏教から、ではなく、仏教へ、である。
そこでは、春夏秋冬移ろう自然と人生に思い及ぼすとき、「かなしみ」を日本の風土、文化そして真善美につなげようとする私もいる。

或る映画評論家の、小津安二郎の映画での人物描写と自然(風景)描写について「観照」や「日本人の消極的受動的態度」といった言葉を使って批判的に言い、社会的矛盾を能動的にとらえる姿勢の必要を説いている文章に接し、その言説に頭では肯いつつも、私はその小津安二郎映画を、構成・情調・映像から、『東京物語』を頂点として、善しとする、時折そのブルジョア性に違和感を持つとは言え、一人で、そんな私の「生とかなしみ」であって、それは結局どんなに抗弁しようと日本人の感傷に過ぎないのかもしれないが。
ドキュメンタリー映画の傑作と言われる『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督・1987年公開)の叙事性に共感しつつも、主人公の奥崎謙三や映像に没入できないように。

因みに、日本最大の国語辞典『日本語国語大辞典・全20巻』では、「かなしみ」に係る語の項目立てとして「かなしい【悲・哀・愛】」に始まり15語が、多くの文例と併せて挙げられていて、「かなしい」の初めに次のような抽出がされてある。
「感情が痛切にせまってはげしく心が揺さぶられるさまを広く表現する。悲哀にも愛憐にもいう。」

私が健さんと出会ったのは、1970年前後、紫煙で銀幕もかすむ中で渦巻く歓声、叫声、嘆声溢れる池袋の「文芸坐」深夜興業であり、自由喫煙の館内閑散として前の席への足掛けは当たり前の、かすかに便所の匂いただよう、耽美的に言えばけだるさ漂う、新宿南口にあった映画館。
深夜興業が終わり明け方の、真昼の南口映画館での、私に沁み寄り迫って来た「かなしみ」。

清さん(寅さん)との出会いは、『男はつらいよ』で、監督の山田洋次さんは、封切に際し東京の下町と山の手の両方の映画館を訪れ、観客の反応を見るとのことで、そこから発せられた言葉。
「山の手の観客が笑う場面で、下町の観客は涙する」に、生きることに気づかされた「かなしみ」。

その後の、健さんの、またその幾つかの映画に登場する清さんの、途方もない存在感。

巨星がまた墜ちた。
代わる人はいない、と誰しもが断ずる二人。

何年か前に出会った、欧米で学び、映画制作にも携わり、現在日本で活躍する30代前半の或る日本人映像作家の、1年ほど前に直接聞いた言葉、
「このままでは日本映画はダメになる」「後10年もしたら無為の人でありたい」との呟きが、思い起こされる。その彼といつか再会することもあるだろう。
もっと自身の言葉を蓄えて、と思う。

健さん、清さん(寅さん)、ありがとうございました。
でも、とても寂しいです。

2014年11月19日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと B.新たな教師挑戦期 その1 「教師は人間である……」

井嶋 悠

「二人」の政治的人間

 Ⅱ  権威と権力の哀しい性

□権威者、権力者を後ろ盾に、自身の意のままになる取り巻きを作り、アンチ者を、政治家がどうかは知らないが粘質的嫉妬深さで、陰に陽に誹謗中傷し、その人たちを暗鬱に追いやり、時に職場から排撃し、自身が権威者、権力者を指向する「二人」、その出会い

権威と権力は、諸刃の剣かもしれない。
人間社会の世は、権威(者)と権力(者)があってこそとにもかくにも運ばれるとも思える、が同時に、世を、人を醜悪、危険に向かわせる、との諸刃の意味で。
凡愚な私は、権威と権力には関わりたくないと直覚する。
権威や権力に暴力的、言葉が過ぎるならば拘束的、なものを思うから。
ただ、権威は、私の心が清澄を直覚するときは畏敬する。しかし権力には一切そのようなことはない。

そんな私だから、「二人」の言動、行動への違和感が、より強く生まれたのかもしれない。

分類的に言えば、私は「無神論者」であり「無政府主義者」の類(たぐい)なのであろう。但し、「論者」とか「主義者」と言うほどのおこがましさはない、との限定つきで。そんな日本人は多いのではないかと思う。

私の語感では、権威は宗教的で、権力は政治的で、その私は人の子で、心に光と闇を持ち、だから宗教に魅かれる自身を否定できないし、1970年前後の“政治の季節”を青春期に体感したこともあってか、生きている限りにおいて政治から逃れられないことを“頭”では承知している、無党派の、最大公約数的日本人の一人である。

その私が、「新たな教師挑戦期」の二つの学校で、それぞれ冒頭に記した人物と出会うのだが、諸事情から管理職的立場(あくまでも的)にあったこともあり、この私でも無策に終始したわけではない。
しかし、二人とその上司ともう一つの権威と権力のタテ関係は、学校法人組織内で、当然のごとく私より二人が重用重視され、私の苦情、異議申し立ては、体よく却下されるのが通常であった。
その己が非力は、一つは2年後、一つは5年後の私の自主退職につながるのだが、それとは別に何人かが、憤りと不本意の中去って行った。
その人たちがその後どういう道を歩んだか断片的には聞き及んでいるが、今はそれ以上触れない。

それが、退職前後の保護者等々との対話から或る兆しがあったとは言え、一方は20年、一方は10年の時間を経た、私60代になって、私の偏屈な!歯ぎしりで終わらず、先の二人の権威志向と権力乱用が明かにされたのだから、天の不思議を感ずる。
仏教は、その本来から、権威を指向し、権力に固執するのは、根本的な矛盾である。
仏教伝来以来、世俗を旨とする世にあって軋轢、対立があったし、だから超俗的、より言えば聖明的・神聖的、なものが尊ばれ憧憬され、今日に到っているように思う。
老荘の、また究極の仏教とも言える禅が私たちを魅きつけるのは、そんなところにあるのではないか。
絶対も相対も突き抜けた中道、中庸の世界。
そして、個と個との発想ではなく、天上天下唯我独尊、ただただ個に内向する魅惑と不安に駆られている昨今の私は、「親鸞は弟子を一人も持っていない。」との言葉の重さに気づかされる。

西洋社会の礎を形作っているキリスト教は、唯一絶対神を奉じる宗教である。
聖書に次のように記されている。

「イエスは…言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」    [マタイによる福音書]

「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、およそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」                  [ローマの信徒への手紙]

日本での新教・旧教キリスト教徒は、伝来以降今も、総人口の1%から2%と言われている。
私は「教師原点習練期」に、キリスト教主義[新教・プロテスタント]の学校に奉職した経験からも、キリスト教を批判する心も意志もない。そもそも無神・無宗教の「無」は、すべてにつながり、他者の信仰を咎めるものは一切ないのだから。

因みに、韓国では、キリスト教信仰者は約30%で、仏教信仰者は約20%と言う。
この差は、歴史や風土的環境によるのかもしれないが、キリスト教信仰に関して、なぜ欧米化に勤しむ日本で増えないのか。

誤解を怖れず私的な余話を。
日本独自の神道について、命の土壌・自然と「八百万の神」の雄大な永遠性にあって、「天皇」という存在に清浄な心象を描く私を否定しない。
これは、加齢とその間の多様な体験が、日本人の私にそうさせている、言ってみれば天皇と私の中にある日本人の論理でない歴史につながるのかもしれない。
そして、この心象を思うとき、生前、昭和天皇に強く魅かれていた娘の幾つかの言葉(教示)が甦る。

但し、「天皇制」との「制(度)」への、また国家神道といった意図的政治的思惑から天皇を権威と奉りたてる、そういった人為が入ったその瞬時から、それを徹底的に避け斥ける私も確実にいる。

先に進める。
「二人」の権威志向と権力乱用について、幾つもある事例からその象徴的事例と、その後日談を書く。
二人とも当時50代後半の男性である。

一人は、
教職員や保護者に向かって公事を話すとき、主語は理事長であり、その理事長との対話を求めると理事長の多忙を理由に、自身が拒絶する。
そして、日々の現場にあって、個に籠り、防御壁を作り、現場の意見を問答無用として専制する。
その時、腹心に据えた教師から現場の状況を収集し、理事長に報告し、苦境を訴える。その報告の人物関係の筆頭に私が置かれた。
更には、理事長に進言し、某大手塾責任者数名の接待(夕食会)を理事長と本人で行う。その際、理事長の一言があったのか、私は何度か席を同じくした。
主旨は本校(中学校)への進学指導要請である。何となれば、小学校での教師による進路指導は行われないからで、塾の進路指導を通して生徒確保につなげるためである。

因みに、某私立小学校では、いつからか保護者(主に母親)間で“有名中学校”進学校となり、6年次の3学期は、塾での総仕上げと中学校受験のため欠席者が多く、学校として自主登校・公欠扱いとしている。

更には、有名私学中高校元校長を“特別校長”に招聘し、広告塔として利用する。(尚、その校長は、私の原点習練期での勤務校の或る時期の校長である。)

赴任して2年後、私は退職し、教師生活終焉を覚悟するも、公私幾人かの人々(その一人が、何と先の理事長で、『日韓・アジア教育文化センター』の礎石と推進に尽力くださる、という不可思議!)の支えを得て、日本語教師を含め4つの非常勤職(私学校・塾・難民センター)の2年間を過ごす。
そして、或る方の尽力で新たな職場に赴任するが、そこで何ともう一人と出会うことになる。

【その後日談:20年後】

艱難辛苦甚だしい2年間にもかかわらず、限られた対話から理事長の仏性的なものを直感していた私は、退職後、対話の機会をお願いし、度々お会いした。もちろん上記人物のことなど一切触れることなく。
その時の理事長の心はいかばかりであったろう。

私の教師人生終盤時、理事長が病に倒れられた最晩年、療養中のご自宅での理事長との対話で言ってくださった言葉。
「すまなかった。氏(上記の一人)は良い人だと思っていた。しかし、氏が健康上等の理由で退任した時、すべてが分かった。どこに、何が保管されているか等々一切わからず、後任はゼロから始めざるを得なかった。」
私は、心では激しく感謝し、その言葉を静かに聞いた。
その数か月後、浄土真宗の仏教徒でもあった理事長は、還浄された。88歳だった。

 
一人は、
学園全体責任者が中心となり次期校長の候補者選びに入った時、敬虔なクリスチャンを自認公言する彼は、同じく候補者(5人)の一人であった私にこう言い放つ。
「神が与えた試練ならば受ける。」
資質的なことへの自覚、また妻の助言からも、そもそも受ける意思のなかった私ではあるが、その一言に偽善と傲慢を直覚し、且つ責任者の「私としては誰でも良いんですがね」に接し、候補者から明確に離れた。ただ、その責任者の発言は、候補者を等しく視るとの善意であったかとも後に理解したが。

校長に就任することとなった彼は、取り巻きを形成し、意に沿わない人物を陰に陽に排し(時には夫人もそれに加担し〈加担させ?〉、私にも夜間自宅に非難の電話があった。)、対外的には自身がかのT大学出身であること、また校長であることを誇示し(或る言説によれば、これはT大的劣等感とのことだが、決して卒業学科を出さない)、それぞれの職務成果をほとんど自身の成果と喧伝する。
そして様々な場面で、財政関連も含め学園を私物化し、自身を専制君主化する。

私へのそれに係る発言を二つ。

問題意識の厳しい、時に激越でもあった40代前半の女性教師に関して「僕の前で彼女の名前を出すのは止めてくれ」。

海外出張から帰って報告書を学内一斉に送信(詳細報告はインターネットを活用していた)し、校長室に行った時のこと。曰く「今後、報告は私だけにするように。」そして「今後、海外出張をしないように。」
それを言った直後、取り巻きに取り込もうとしている教師が入って来て「現地(出張先)邦人の感謝の声を聞きましたよ」と言った時の、校長の甚だ困惑した気まずい表情。
それを黙って見、一切何も言わなかった私のいやらしさ。

【その後日談:10年後】

以下は、私が、定年(60歳)1年前に退職して5年ほど後に耳にしたこと。

学園責任者への道を画策し、それがほぼ内定した直後取り消され、運営者としても、指導者としても、また研究者としても何ら実績がないにもかかわらず、西欧を源流とする教育課程の解説書を出版し、その権威!として某有名私学の新構想の責任者に就任したが、数年後、解任されるに到る。
(蛇足ながら、校長から学園責任者への道を閉ざされ、上記校に転じる際、校長の後任に、彼の取り巻きの一人を指名し、現在に到っている。)

因みに、その教育課程について、私は幸いにも指導経験をし、その経験から学んだことを西洋文化偏重或いは相も変らぬ従属的劣等感の視点と併せて、以前、このブログに書いた。

その後については、彼のことだから策を弄し、四方八方自薦を展開し、現在もどこかで然るべき立場にあるのだろうが、私にとってはどうでもよいことである。
同じ人の子、多くの過ちを重ねて来た自身を顧み、天は視ているとの畏怖をもって。

これらを書くことで、人々は私をいろいろな形で非難、批判するだろう。
ただ、これらの事実を知ることで、教育を、また社会を、更には日本を考える一助として欲しいとの願いが、同じく教師の対応が一端となって7年間の心身葛藤の末力尽きた娘のことと併せて、ある。

(その娘の事で、娘の個性の強さを言った人がいる。親子一如を思えば、私への批判でもあるのだろう。発言者の社会的立場の高さや高学歴から、なおの悲憤と、同時になるほど、とも思う。)

命あるもの、世に生まれ出ることは死への始まりであり、その終焉は誰も知らない。そして人はそれを時に戦々恐々とし、時に意図的に忘れ、日々を過ごす。

《ただ、日本は、老若終焉自己決定者が、先進国・文明国で世界1,2位を争う、恥ずべき国である。何が和の国かと思う。日本の誇りは、やはりカネ・モノだけなのか。どこまで堕ちるのだろう。》

いっときの悦楽を求めることに心傾く私も、またその虚しさも、人並みに少なからず経て来た私であるが、今、直截にはまだ遠いとは言え、世俗の権威と権力に酔い痴れ惑う人間の哀しい性に、じんわりと、しかしかなりの確かさをもって同感同意している。

日本の大きな転換期でもあった14世紀前後の南北朝時代、単なる無常・出家者ではなく、人の情念を我が身としてとらえていた吉田兼好の『徒然草』から、今回のテーマに係る一節を引用して終える。

兼好は、名利に惑える愚かさ、高位高官となることに腐心する愚かさを記した後、次のように続ける。

――智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きを喜ぶなり。ほむる人そしる人、ともに世にとどまらず。伝へ聞かん人、又々すみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉は毀(そしり)の本なり。身の後の名残りてさらに益なし。これを願ふも次におろかなり。――

「二人」は、これをどう読むのだろう。
かく言う私は、無常の真意がまだまだ自身の体、血肉となっていない。生死一如はほど遠い。
夜ともなれば百鬼夜行、その一鬼・死への怖れは間欠泉よろしく噴き上がり、おののくばかりである。
そんな時、書くことは、その巧拙深浅など一切関係なく、私の弛緩剤になっている。
と同時に、亡き娘の失意と無念と哀しみの私なりの鎮魂表現でもある。

古稀となる来年2015年も続けて行けたらと思う。

2014年11月13日

北京たより(2014年11月)   『秋休』

井上 邦久

♪♪ V・A・C・A・T・I・O・N タノシイナ。待ち遠しいのは○○休み ♪♪
英語のスペルは(西鉄)LIONSか(読売)GIANTSくらいしか知らなかった頃、弘田三枝子が元気良く唄う米国生まれの曲の衝撃は凄まじいものでした。田代みどりや青山ミチもカバーしていましたが、ぷりぷりとして健康的だった頃の弘田三枝子のパンチ力が圧倒的でした。

レジャーという言葉が使われ出し、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』も流行して、二宮尊徳や宮沢賢治に学ぶだけでなく、「遊んでいるヒマとカネが有ったら遊びなさい」という風潮が赦された頃のヒット曲でした。ただ、何度その曲を口ずさんでも嘘っぽいなあ、と感じたのが、二番の歌詞の、♪山に行くことも素敵なことよ、山彦が呼んでいる。待ち遠しいのは秋休み♪でした。
外国には、夏・冬・春休み以外にも秋休みがあるんじゃ、と物知り風の隣のお兄ちゃんから言われても納得できないままでした。

中国で暮らすようになって、「秋休み」への違和感がなくなりました。
中秋節そして10月1日から1週間の国慶節休暇と続く、まさに秋休みです。更に今年の北京では、APEC開催都市ということで、北京市が率先して公務員は11月7日から1週間の連休となり、民間は勝手に考えろというお達し。更にはオバマ大統領の宿泊先のウェスティンホテルの隣の発展大厦(日本を代表する企業や組織が集中する商業ビル)などが警備の余波を受けて休業を余儀なくされるケースが出ています。また域外への旅行も奨励されていて、国有企業幹部の知り合いも20℃も暖かい海南島からメールを寄越してきました。

そんな今年3回目の「秋休」の北京へ、暦通りの上海から11月7日に移動しました。

政府代表のサミット(G・G SUMMIT)に先行して、8日から開かれる経済関係者のサミット(APEC CEO SUMMIT)の登録カードを入手する為に北京空港から北京市北部のセンターへ直行を試みました。

空港快速電車と地下鉄で行こうかと思いましたが、物は試しと掲示されている「サミット情報服務コーナー」を覗いてみました。黒服のマネージャーとボランティア学生が対応してくれました。英語を使って外国人に接することが愉しくて仕方がない大学生たちを苛めるのは不本意なので、中年の黒服さんに「有名ホテルへのシャトルバス服務は分かったけど、当方は北京の南側に別宅がありホテルは無関係。北東に位置する空港から登録センターへ直接行きたい」という変化球を投げました。

「我々はホテルへの案内だけ。登録センターがあることも知らない」と大学生の英語通訳を使っての直球対応の空振りを黒服さんは繰り返しました。最終的に登録センターへ徒歩圏内のホテルへの無料バスに乗せてくれることになりました。途中から物分りの良い女子学生は「変化に対応、新たな調整」の意味を分かってくれて、「明日から応用します」と笑っていましたが、黒服さんは「あなたの中国語は上手い」という常套語のみで仏帳面でした。

ここで、日本での「秋休」のことを綴ります。

9月30日まで北京で、香港駐在員やメディアの方と連携しながら、学生連合を核とする「普通選挙」反対運動への中国政府の対応変化の分析作業をギリギリまでしました。10月1日、日本での期首集会などに顔を出してから、2日から長年の願望であった信州戸隠への旅が、戸隠を本貫とする今井常世さんのお蔭で実現しました。

東京から長野までの新幹線、「もうちょっとゆっくり行ってよ」と言いたくなる速さで、すぐに信濃路です。駅前で軽自動車を借り出し、先ずは善光寺にお参りと始動しました。

レンタカーの予約も、運転も、更には宿の選択予約も、訪問先の大まかな下調べも全て一回り年嵩の常世さんにお任せでした。数ヶ月前に「他に何かリクエストは?」と訊ねられて、「お任せです。ただ無言館には行きたいです」という後から思えば方向違いの要請により、北信濃の戸隠から遥か南方の上田市へ針路を取ってもらい、2泊目の温泉宿もその近くに変更をして頂きました。
「ただ無言館には」は決して「ただ」では無かったと反省しました。

昼食は常世さん贔屓の蕎麦屋へ。韃靼蕎麦の文字を見て、先月の失敗を思い出しました。

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という安西冬衛の一行詩を、俳句と記憶を違えてよく確認もせずたよりに綴ってしまいました。何か違うな、と気になり調べて貰ったら、正しくは俳句ではなく上記の一行詩でした。失礼しました。

常世さんのお父さんが、戸隠から月に「米一升」の御礼で親戚に寄宿して学んだ師範学校、現在の信州大学教育学部の前を通って戸隠を目指しました。

お父さんは、生前にウドンは食べても、蕎麦は口にしなかった。地元で教職についてから、長野に講演に来た国文学者の折口信夫に心酔。神社を守るべき家の長男でありながら上京、東京神田に教職を得て折口信夫の弟子になった・・・というお話を聴きながら、お父さんが戸隠から下った道を遡りました。

道を山手に曲がり集落に入りました。その一角に南方神社があり、常世さんのルーツでした。ご両親と常世夫妻の文字を刻んだ石柱、折口信夫(釈超空の筆名で歌人としても著名)の歌の弟子として、お父さんが故郷を詠んだ短歌と一文を刻んだ石碑、川の水を引いた手水鉢など社に囲まれた静かな世界が佇んでいました。
近くには冬の氷を夏まで保存する氷室もあるとのこと。また集落の生業は長く麻(畳表用)と蕎麦であったとのことでした。
神社から更に登った山の中腹には今井家の墓地が並び、真ん中のひときわ大きい石碑に折口信夫の歌が刻まれていました。
師弟の寄り添う光景を見ながら、常世さんの名付け親も折口信夫であったことを改めて納得しました。(『古代生活の研究』9章に「常世の国」、10章に「とこよ の意義」があり、執筆時期と常世さんの生年が重なると推測。折口信夫全集の年譜には今井氏長男に常世と命名の記述とともに赤ちゃんの絵が描かれています)

戸隠村栃原に権現山大昌寺があります。道元を宗祖とする曹洞宗の名刹です。歌舞伎や謡曲の『紅葉狩』にも伝わる鬼女紅葉と退治した平惟茂を併せて祀った位牌や石碑を守るお寺です。
訪ねると和尚さんが気持ちよく玄関をあけ、本殿に通して「好きにご覧ください。何か御用があれば声を掛けてください」と秋の季語である爽やかさを所作や言葉に感じさせて奥へ引かれました。奥への通路はぎっしりと書籍が詰まった本棚でした。『大聖寺縁起』の冊子購入代金を拝観御礼のお布施代わりに残して辞去しました。

戸隠の宿は、神社別当筋の久山家宿坊にお世話になりました。
立派な神殿の横の広い部屋に我々二人だけが泊り客でした。夕方、時雨の庭をガラス越しに見ていたら、小学校高学年の少女が濡れながら入ってきました。途中で立ち止まり、丁寧に頭を下げてから母屋へ向かいました。その時、ああ神の宿る土地の戸隠に来た、と実感しました。

大陸での緊張を温泉で流したあと、当主夫人と若女将による信州手料理を堪能しながら
「当家には小学生のお嬢さんは居ますか?雨の中でも神殿の方角に頭を下げていましたが?」と問うと、
「家の娘です。戸隠神社の祭事を担う家なので、神楽などの稽古も大変ですが、それ以上に日頃の生活の中で神を敬う気持ちを大切にするように心がけています」
という、手打ち蕎麦の美味しさは水の美味しさでもある様な爽やかで控えめな言葉でした。

食後、部屋に戻る前に居間の本棚から深い考えもなく一冊の本を取り出しました。
津村信夫の『戸隠の絵本』でした。戦前の久山家の屋敷や先代たち、神楽稽古の少女たちの描写。長逗留した家の人たちとの交流、毎日食事を運んでくれた娘とのやりとりなどが、戸隠の気象や生活とともに綴られた佳作でした。とりわけ大昌寺の住職(先代?先々代?)が村の人たちと麻加工に精を出し、肩の凝らない交流をしている恬淡とした描写により、午後にお会いしたばかりの当代住職のすっきりした姿勢をすぐに思い浮かべました。

当主が神と交流する祝詞と太鼓の音で翌朝が始まりました。
朝食後に当主のご案内で戸隠神社の歴代別当そして縁者のお墓まで木々を抜けて歩きました。沢山のお墓を前にしながら、当主は淡々と明治維新、旧幕の寄進消滅、廃仏毀釈の文化革命の嵐から戸隠神社を護った先祖への尊崇の念が伝わる説明を施してくれました。
地元で写真も挟んで編集出版されたその本を欲しいと訊ねましたが絶版とのことで、その後ようやく近代浪漫派文庫34『立原道造・津村信夫』(新学社)の古本を見つけました。

戸隠神社中宮で願掛け木札に何も書かずに持ち帰り、竹編みの店で買ったザルは上海の調理場で活用しています。
その午後,長駆南下した上田の『無言館』で館主の窪島章一郎さんに遭遇、足をのばした小諸で島崎藤村の「老獪な偽善」を再確認、千曲川の畔で舟木一夫の『初恋』を口ずさむなど、訳ありの林檎のような味わい深い体験をさせてもらいました。

折口信夫(しのぶ)と津村信夫(のぶお)を通じての戸隠も然ることながら、何よりも神を護る皆さんから感じた戸隠は貴重でした。

 直後に戻った北京で、戸隠の水と空気のありがたさを改めて感じました。その北京も「今は」人も車も空気汚染も減っています。こちらは黄葉狩と政治の季節です。

 (了)

 

2014年11月10日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと B. 新たな教師挑戦期   その1 「教師は人間である……」

政治的人間
Ⅰ  言葉と「二人」の教師と私と

井嶋 悠

この醜文は、その2回の時期(一つは、新たな挑戦として飛び込んだ40代半ば、もう一つは、退職の決意に到る50代後半)に中間管理職的な立場にあったこともあり、一層の私の不甲斐なさの悔悟の取り繕いに過ぎず、私事的、私怨的との難詰を受けるかもしれない。

しかし、一人については20年後、一人については10年後の、ここ1,2 年の今、時が“事実”を炙り出し、娘の死がより自照自省を進め明確化した私論、教育を教師―聖域とまでは言わないがどこか不可侵的領域の教師社会或いは教師個人―から考える意義を思い、書くことにした。

尚、炙り出した内容は、次のⅡ.「権威と権力の魅惑と怯えと哀しみ」(仮題)の最後に書く。

 

生きている限りにおいて人は政治と何らかのかかわりを持つ、と言うか持たざるを得ない。
その時、人は両極二派に分かれるように、極(・)文系人間の私には思える。
一つの派は、政治的人間。もう一つの派は、非政治的人間。能動的表現で言えば唯美的人間。

私の心性・心根は、憧憬でもあると同時に、高校前後年齢からの遍歴や1970年前後の全共闘運動への共鳴(シンパ)から思えば後者である
しかし、59歳での33年間の中高校教員生活の終止符、自然と人間と現代日本を体感できる地方への転居、2年半前の娘の死の、己が人生への重なり合いから、日本の政治への苛立ちが表に立ち現われ、我ながら驚くほどに政治的人間になったと思う。
もっとも、それは老人になった証し、と説く人があるかもしれない。

これは、「政治と芸術」との古今東西の課題に通ずるのだろうが、私には到底手におえる代物ではないので避けて通り、ここでは政治を意識し始めたといったほどの意味で使っている。

少なくとも私の周囲での、その政治を生業(なりわい)とする「政治家」の心象(イメージ)はすこぶる悪い。
その一人である私の政治家像は、あくまでも日本の、それも昨今の限られた政治家たちしか知らないが、二つのイメージが、保守革新、与党野党、右翼左翼問わず浮かぶ。

自身を善にして正義の人と信じて疑わない不遜な偽善者。

権威、権力を後ろ盾にした厚顔無恥の言葉の排出者。

ただ、微少な知見ながら、以前『石橋湛山評論集』に少し触れた記憶では、氏は例外だと思う。

前回のまえがきで記した「私を、更には何人かの人々に辛酸をなめさせた二人の上司」の共通項こそ、この二つのイメージがある。

 

□熱く、時に感傷(センチメンタル)に、教育と理想を、口調の静と動の違いはあるが、聞き手(保護者や生徒、またメディアや後ろ盾)に、有無を言わせず一方的に語り(私からは対話を避けているようにしか思えないのだが)、煽(あお)る。そして聞き手を巻き込み自己陶酔する。
政治家が政治家同士での会議でどうなのか知らないので見当違いかもしれないが、たまたまなのか、二人は教員会議等の校内公的会議にあって、どこか視線定まらずおどおどびくびくして話す。

言葉は、古代からの人々の心の結晶であり、天につながり、私たちを包み込み、時に襲い掛かる。
日本では「言霊のさきはふ国」。
仏典にはこんな言葉がる。「安らぎを達するために、そして苦しみを終滅させるために、ブッダの語りたもうた安穏な言葉、これこそが、言葉のうちの最上のものである。」そして「色即是空、空即是色」。
唯一絶対神を奉ずるキリスト教では「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」。同じく唯一絶対神を奉ずるイスラム教でも唯一神アラーの言葉は絶対である。

その言葉を弄する生業にあった国語科教師にあった私は、自省を込めて思う。
二人の言葉使用事情は、天への冒涜であり、人の傲岸そのものである、と。

言葉の暴力で、自ら死の意思決定をした人は多い。現代は、言葉⇔情報氾濫時代である。
情報氾濫は、日本だけではない。にもかかわらず、自殺者数世界10位以内に、日本と韓国が10年来多いのはなぜなのか。
それについて、既に以前投稿したので重ねて触れない。

「文は人なり」と言う。
ここでの「文」は文章の意味であるが、話し言葉の方が、表情、音調が直接わかり具体的で、より人柄を表わす。とりわけ「察する」文化を血肉に受け継ぐ日本人としては。

二人は日本人である。同僚の私たちの視線を、人間らしく察しているとすれば、なるほどと思う。
東洋文化の華、禅は「以心伝心」を言う。合理主義の歴史国、欧米人で禅に魅かれる人は多い。
自身の不安と恐怖に戦(おのの)きながら演説する独裁者(自身は救済者としての英雄)の証しかもしれない。
二人の内一人は、敬虔なクリスチャンを自認し、公言する。
世情に不安や危機感を皮膚感覚で察知している人が多い時代、このような人物に傾倒する人(私の知る限りでは女性に多い。なお、これは女性批判ではない。)が、増える。
怖ろしいことである。

老子曰く「多言なればしばしば窮まる。中(ちゅう)を守るに如かず。」
孔子曰く「巧言令色、鮮(すく)ないかな仁。」

言葉への、或いは言葉と人への私の視点は、言うまでもなく一つの視点で、絶対ではない。
人が、己が絶対を言い始めることで堕落が始まる、と私は考える一人である。しかし、絶対意識なくして進歩も創造もないとの考え方に違和感を直覚しながらも全的に否定する絶対的!私の根拠もない。

「教師原点習練期」で、私はしばしば教員会議の議長を経験した。伝統校との自負、気概もあってか、その議論は侃々諤々(かんかんがくがく)。この議長での経験は、そこに到る20数年間の人生と生得がもたらした、“相対”を、その正否は別にして(当然のことながら)、より成育させたかもしれない。
しかし、これはしんどいことでもある、と「人間(じんかん)」から多く解き放たれた今、思う。
因みに、議長は選挙で選出された(この学校では、要職は概ね選挙で、新たな挑戦期での学校は企業式で、そのことも私の不可解さを強めたかもしれない。)のは、投票者の多くが、同様の感覚を持っていたのかもしれない。

先の老子の発言の章の冒頭は「天地は仁あらず」で、その解説(小川環樹)では「非情」「無為」との言葉が使われていて、非(情に非ず)・無(無用の用)の用法に重ねて眼を開かされると同時に、引用箇所に共感する私がいる。

二人の言葉使用事情は、あくまでも私の疑念であって、あくまでも人間を絶対理知的に見る人々からすれば、二人は優れて“人間的”との批評を受けるだろう。
しかも、言葉は人間の叡智の創造、結晶で、そこに他の動物との差異があるとも言えるのだから。
かてて加えて、一人は詩集を幾冊か出版し、学校説明会等で自署販売し、詩人を誇示する、と聞いている。(私は直接にその場に居合わせたことがないし、知らずして言うなかれ、を承知しつつも読み、知りたいとも思わない。)

日本の学校教育にあって、「スピーチ」「ディベート」の積極的導入が、必然、当然とされて何年かが経つ。それを否定するものではないが、そこに演技性(的)のわざとらしさを直感する私がいることも否定できない。

これは私の特異性かもしれない。
1900年前後からの西洋、とりわけヨーロッパでの、近代合理主義や唯一絶対神キリスト教への自省的懐疑がなぜ起こったのか、更には絶対的犯罪である戦争が、相対的犯罪として公認され、第2次世界大戦(日本に引き寄せて言えば、太平洋戦争)を作り出し、今もって根絶は永久(とこしえ)にあり得ない、と私たちに思わせているのはなぜなのか。
「人間だから」と言われてどこか得心するのはなぜなのか。

2011.3.11の天災と人災は、自身の「人間的・人間らしさ」とは何かを問うている。
そのことを彼方にしての「地方創生」の無意味(ナンセンス)。担当大臣の空疎な観念的夢物語。

私は、自然への、天への畏敬が人間的である、との考えに与したい。
実践のない言葉は軽んぜられる。しかし浮沈繰り返し続けて来た『日韓・アジア教育文化センター』の具体的活動をいささかの申し開きとして発言する。

先の一人は国語科教師でもある。(管理職と言うことで授業はしていない。しかし、同じように管理職で授業を担当していた人々を知っている一人としては、避けているとも思えた。)

国語科教師の指導に「表現」がある。
表現指導(ここで言う表現は、説明文、小論文の領域)での最重要は、書かれた言葉が、書き手の深奥から出て来た訴え(主題)かどうか、それを紡ぐ言葉が自身の言葉かどうか、を推察し判断する力である、と教師晩年にやっと確信できた。
知識の多少ではない。これは、大学での教職課程履修では習得できない。

大学入試に「小論文」が多く導入されて数年後、新聞に掲載された或る大学教授の寄稿「読んでいると、工場でベルトコンベアーに運ばれて来る製品を検査しているような感覚に襲われる」は、私の指導経験を省み、また他教師たちの指導実践を知り、一層卓見であると思う。
もっとも、このような私見など、あれもこれもの、それも“主要5教科”が当たり前の表現の、教育課程にあっての学校そして塾、予備校時間の日常の無茶苦茶、不条理が、根本的に解決しない限り―解決するはずもないが―虚しいだけなのだが、同意する若者がいることを思い、付記する。

 

 

 

 

2014年11月1日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと B.新たな教師挑戦期 その1 「教師は人間である……」

井嶋 悠

まえがき

前々回までの3回、A.で「教師原点習練期」としての17年間を自照自省して教育私感を書いた。

その27歳から44歳までの17年間で、私は、最初の赴任校にも恵まれ、教師としての基本―教科指導、学級指導、部活指導、課外指導、校務分掌等―を、同僚の教職員、生徒、保護者から、体験的に学んだ。

そこで私が得た一つが「生徒が教師を育てる」。
どういう校風・特性を持った学校の、どういう生徒が、どういう教師を育てるのか。

私は時に共感され、時に反発され、時を過ごし、偶然にも就いた教師ながら私の教師像を考え始めた。
それが、私を新たな世界での挑戦に駆り立てた一因である。

今回から、B.「新たな教師挑戦期」としての、その17年間後半生を記す。
尚、この副題は、自身を不遜にも信じ、新たな教師を目指して(夢見て)の挑戦期との意味である。
終了は59歳での自主退職とその後の2年の臨時である。

後半生顧みての包括的言葉、「よくぞ生きながらえた。」との長大息交じりの感慨の他に何があろう。
生きながらえた理由のすべては、それまで以上に与えられた、妻・子どもたちと幾人かの人々の愛と骨折りである。
言葉の限界を完膚なきまでに痛感する過分な幸い。
支えた一人、私の破天荒な生を理解し、励ました娘は、2年半前の2012年春、仏・神の下に還った。
その還浄・帰還への一端を突きつけたのは、あろうことか私と同じ教師である。

人は神でも仏でもない。当たり前のことだ。
しかし、人によっては多少の“超人”意識(或いは願望)を持っている節を直感することがある。なかでも私が知る教師職に多いようにも思える。
或る人は、それを聖なる自我、と言うかもしれないが、その無恥、傲岸さを言う人も確実にある。私は後者に与する。
その人物を何らかの形で知る数人が認める「仁者・君子」でない限り、あり得ないことだから。
そもそもそういう人々は、聖職意識などと言う言葉そのものを知らない。

人が人と生きる「人間」であることの苦、中道・中庸の至難、がそこにあるように思う。
「君子の交わりは淡くして水のごとし」との言葉は、それゆえの理想を言っていると取れる。
因みに、これを言った荘周(荘子)の源流となる老子は「上善は水のごとし」と言う。

先日、数か月前にひょんなことで会話し、共振共感以心伝心を直覚した東京で長年宝石商を営む喜寿を迎える男性と、とりとめもなく話している時、こんなやりとりをした。
「人との付き合いは、付かず離れず、ですね。」と私が言うと、
氏は間髪入れず、明朗快活な響きで応えた。「そうですっ」。
商いをして来た人ゆえに沁み入る説得力。

この私の発言は、世に言う性善説に立った、先の荘周の言葉の続き、「小人の交わりは甘くして醴(れい)〈甘酒〉のごとし」の、べとべと、艱難辛苦を経て、「孤独に耐えろではない。愛せよ。」に少しは近づいたかなと思える昨今の私が、やっと自身の言葉として言えたもの。

更に、荘周は続ける。
「君子は淡くして以って親しみ、小人は甘くして以って絶つ」と。

しかし、私は今も小人で、「絶った」ことを逆手に、人のことをしばしば批評した弟子に、孔子が皮肉った「お前は偉いね。私にはそんな暇がないのに。」(貝塚茂樹訳)を横目に、私をとんでもない試練、波瀾万丈に向かわせた二人(一人は、「新たな挑戦期」の初め2年間、一人は、59歳で退職する前の5年間に出会った二人)のことを書こうとしている。

これは「義を見て為さざるは勇なきなり」(孔子)、私の義を信じ充分に戦わなかった私の不甲斐なさの悔悟であり取り繕いと言われて返す言葉はないが、
二人が、それぞれ教育の理想を声高に唱える教師で、しかも生殺与奪の権を持つトップダウン方式での管理職、私の上司であり、その人物ゆえに私と同様退職し、私以上に辛酸を嘗めた人たちがいること、一方でその時、手を差し伸べてくださった方、心寄せてくださった方々があること、更には何年か後、二人それぞれの非が明らかになったことであり、天罰を畏れず、小人そのままに書くことにした。

ただ、これらの事実から、改めて人間なるものについて、69年間の人生から何が考えられるのか、これも自照自省として、ほんの一端だけであっても考えてみたいとの思いがある。

「人間らしい・人間性・人間的:human」、そしてヒューマニズム[人間主義・人文主義]を言うときに使われる言葉「自然」「高貴」「理想」と「現代」の後ろに在る私の、人々の思い、意識について。

私の器量では、せいぜい感情に走らず事実を述べるだけになるだろう。
しかし、A.の「教師原点習練期」、この「教師は人間である」、また断続的でも続けたい「新たな教師挑戦期」で体得した教育諸領域私感と併せて、少しでも学校教育を考える一材料になれば、との僭越な願望もある。