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2015年3月25日

人生、「虚実皮膜」から「虚実合一」へ、超えて「無為自然」の境涯へ     はてさて……

2015年「朝日に匂ふ山桜花」を間近に

井嶋 悠

一切の例外なくその人の生涯は芸術である、との言葉は私の中で深く響く。
この年齢[古稀]を迎えることができ、なおのこと思う。
天上天下唯我独尊、生涯の、時間の長短、空間の広狭とは関係なく、その人は唯一なのだから。
芸術の起点は、人の、自然の一切の生であるとの当たり前に、今辿り着いているから。

人はそれぞれに懸命に生きる。「道」を違える人も古今東西数限りなくある。しかし人は、命あるすべてのものは、懸命に生きている。
その人、人類は「万物」の「尺度」で、「霊長」で、理性と悟性と感性の生きた統合体等々、定義すれば百花繚乱、しかしどれを読んでもなるほどと得心する。

【注:理性・悟性・感性の語義 『現代国語例解辞典』より

理性[感情に走らず、道理に基づいて考えたり判断したりする能力。]

悟性[知的な思考能力。特に哲学で、理性と感性との中間に位置する論理的思考の能力。]

感性[感覚的刺激や印象を受け入れたり、反応したりする能力。]

そこにはそれぞれの《真善美》がある。
老子が言う「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。みな善の善たるを知るも、これ不善のみ」の謙虚さに立って。

1週の律動を、宇宙万物の構成要素[木火土金水(もっかどこんすい)と日月]とし、毎年51回52回と繰り返し生き続けるという宇宙的聡明さをもった偉大な人類、人。
にもかかわらず独りでは生きられない。
「人間(じんかん)」、人と人の間に生きることで成り立つ霊長動物。
そんな人間同士だから人間関係ほど難しいものはない。

人と言っても幼少年青年壮年老年段階での中味は様々で、概ね加齢とともに心・頭・身硬化し、老いを重ねれば重ねるほどより一層、発する言葉とは裏腹に、保守的に閉鎖的更には権威的になり、「独尊」は単なる独善となり、日本語の特徴である結論は最後にあることも忘れ、他者の言葉をさえぎり、持論を展開する。
そこでは、生の、世の、[悲・哀・愛(しみ)]は、観念に堕している。
そして孤独を憂い哀しむかと思えば、孤独を愛で希う。
とかく老人は扱い難い。
と言う私もその老人で、この無礼発言は体験からの自省である。

なお、ここで言う老人とは、かつて出会った衝撃、病院の、しかも相部屋で、機械につながれた数本のチューブを帯び、うわ言を発し、うめき続けている、本人の意思とは関係なくひたすら命をつなげている、周りの人々にとっていたたまれなく悲(哀)しい境地にある老人ではなく、話すことも動くこともできる老人を言っている。

この老人への対象限定は、教育を話す(語る?)ときでも、どういう年齢の、どういう自己環境にある子どもを言うのかと同じく肝要なことだが、ここでは立ち入らない。

そして、好々爺、好々婆は稀少だ。生来もあろうかとは思うが、好々“老”には、その老に意図・意志を働かせる腐心、自律があると思う。
自戒せねばと重ねて肝に銘じる。

ところで、言葉として好々爺はあるが好々婆はない。狸爺・狸婆はあるが、鬼婆に相応する爺はない。なぜだろう?「男文字」「男社会」からなんとなく察しはつくが。
閑話休題。

そんな天上天下唯我独尊の生涯が、芸術の対象となるのは当然で、そのための表現技術を修得できれば芸術が生まれる。もっともこの表現技術の修得が、先天/後天併せて至難だから芸術家は、ますます神々しい輝きを放つ。その芸術は、古来、神に最も近いと言われる。

芸術家は生涯少年少女の心を持っている。世俗にまみれては、芸術は生まれない。芸術家に“奇人変人”が多いとの評がうなずける。奇人変人はあくまでも“したり顔”の大人社会からの言葉なのだから。
宇宙的に見ればその人達は天の才能者、天才である。宇宙は神秘的で、神々しい。
その才を与えられ、且つ精進力ある人は限られるから、心悩む人々にとって芸術は慰めとなり、救いとなり、そして芸術家は憧れとなる。
因みに、秀才はどこまでも“人間的”で留まっている。

江戸時代、大阪を起点にした芸術家〈人形浄瑠璃、歌舞伎の作家〉近松門左衛門(1653年~1725年)は、芸術は「虚実皮膜」にあると唱えた。
その少し前、松尾芭蕉(1644年~1694年)は、俳句の根幹を「虚実融合」と言った。
両者言わんとするところは同じだ。

近松も芭蕉も、芸術としての虚実皮膜・虚実融合を言ったが、同時に一人の生としてのそれを持った。
芸術家ではない私は、この虚実論に、芸術鑑賞の、そして人生の要諦を見る。
幸いにも!?今夏古稀を迎えることになり、身の皺は視えるから分かるが、心の皺[襞(ひだ)]も濃やかに増えたかとの直覚から。

もちろん「虚」とは、あくまでも虚構と言う人為を言ってのことであり、虚飾の虚ではないことはことさら言うまでもない。そのような虚ならば、遅かれ早かれ破滅することは歴史が証明している。

自己確認の思いもあって、二人の創作への虚実論の概要を記す。
参考にした書は、栗山理一編『日本文学における美の構造』、穂積以貫『難波みやげ』(1738年)で、以下の概要の「 」は、それぞれの筆者の引用部分である。

【近松門左衛門】

「今時の人はよくよく理詰めの実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中」との時代認識に立って、舞台登場人物の描写の在りようを
言い、次のように説く。
「皮膜の間といふが此れなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みが有たものなり。」
その時、人形であれ、せりふであれ、表現での肝要は「……本のことに似る内に又大まかなる所あるが、結句芸になりて人の心の
なぐさみとなる。」と言う。

【松尾芭蕉】[芭蕉の死後1764年に刊行された『うやむやのせき』から]

「……俳句は上手の虚を云ふがごとくに綴ると云ふを金言となして、虚は虚なり。虚を実に綴るを是となし、実を虚に綴るを是と
す。実を実と云ひ、虚を虚と顕すも俳諧の道にあらず。正風は虚実の間に遊んで、しかも虚実に止まらず。」と説き、その具体例
として次を挙げている。

「糸切れて 雲となりけり 鳳巾(いかのぼり)」  虚の句
「糸切れて 雲より落つる 鳳巾」        実の句
「糸切れて 雲ともならず 鳳巾」        正の句

そして、この論説を引用した研究者(堀切実)は、芭蕉の虚実融合の秀句として、次の句を先ず挙げている。
「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」

 

人は、この世に生を享け、“天使”の2,3年を過ぎると、自己を意識し始める。
ぼんやりと、しかし心の深奥で、虚構(人為)の自身と、実(自然)の自身を。本人の記憶には残っていない。少なくも私は。
4,5歳ともなれば、親の、周囲の同世代や大人たちの、心持ちを直覚し、表情を造り、実と虚の調和を図ろうとする。言葉(理性或いは合理)は未熟だから当たり前に苛立つ。

大人は言う。「赤ん坊は泣くのが仕事」「泣く子は育つ」。

保育所、幼稚園に行き始め、小学校に入学しようものなら、「皮膜」「融合」の葛藤は、猛烈に加速する。
小学校の高学年から中学校、高校へ、思春期の激情に言葉は到底併行できない。多くは。
言葉の多少とは関係なく、実と虚の接点にもがく或る者は、外の実への拒否を示し、引き籠る。

長寿化時代にあっても未だどこか「18歳人生決定観」が如き世にあって、合理と効率と高速を善し、とする周囲はそれが愛情で善意であると信じてもがく彼ら彼女らを急(せ)き立てる。

「世の中は厳しいもの」と言うときの、その大人自身にこみ上げる寂しさ。
「物分かりの良い子」と言うときの、その大人の自身を忘れた勘違いの哀しさ。

他者として最前線に在る小中高校教師。私はその一人だった。しかも33年間も。
「少人数教育」が、子どもの個を活かすに相応しいと考えられるのは、子どもたちのその「虚実皮膜」を把握できるからということにもつながるのだろう。

しかし、自問自答を繰り返す要領遅鈍の子どもにとってはどうなのだろうか。
自負と正義で、子どもの心に、時には有無も言わせず、自身の虚実皮膜の葛藤を忘れ、入り込むことを愛情とする教師から遁(のが)れたい、と別の新たな虚実を思う子どももある。
少人数教育は、悪しき管理教育に陥る可能性を持っている、と言えば、あまりに暴論だろうか。

生徒・保護者にとって賢い生き方は、学校をただただ通過点とする“気概”を持つこと、何とも寂寥と無味乾燥ながら、なのかもしれい……。

これらを私が言うことでの、私を知る教育関係者からの排撃、反論は私の心の中だけに留め置く。
私の今の皮膜、これからの皮膜のためにも。

1か月前の「川崎事件」で改めて言われ始めた「少年犯罪の増加」また「凶悪化」の、上滑りの、感傷的正義感の、政治家の、大人の軽薄さは前回書いた。
この川崎の事件と世の反応にも、現代日本の「虚実」があるのではないか。
そしてその虚実に在って今、どういう「皮膜」が、日本としての、日本人としての、真善美的、創造的生き方なのか、が問われているのではないのか。

これは、先天と、60年の人生と、それから10年、今年古稀を迎える私と言う限定された一人の、不調和を呻吟する老年に相応しい!世迷い言、脱落者・劣等生の、謙虚さを忘れた愚痴なのかもしれない。
人の実を遥かに超えた世を痛覚し、自身の虚が追いつかない非力を他へ転嫁した傲慢からの。

時代は後戻りできないとすれば、不承不承ついて行くしかない。
しかし、一般論ではなく私の生として、あくまでも天命下す死に従順に、と。
私の残る時間での私の虚実皮膜。
その時、虚実が合一した究極の生、有にして無、無にして有、ゼロの生がほとばしる、「無為自然」の私を夢想する。

ふらりと居宅地の図書館に行き、何気なく書棚を見ていたら『老子の世界』(加地伸行・編)という本が目に止まった。
その中に「老子と近代中国」(橋本高勝・1936年生)の一項があり、小見出しを「教養(カルチャー)と天性(ネイチャー)」とした一節で、林語堂(1895~1976)の著『わが国土・わが国民』で中国人の性格を述べた「老獪」からの次の引用に出くわした。

ただ、例えば「家を一歩出れば儒教、家に帰れば道教」といった同類表現はあるし、道教=老子とすることには配慮が必要であるかとは思うが、自然、母性、人間(じんかん)、文明への老子の眼差し、警鐘に共鳴する一人として、橋本氏の小見出しに魅かれ引用する。

――中国人は、教養によって儒教の徒となるが、それ以上に天性によって道教の徒である――

(注:林語堂
魯迅や周作人といった中国近代化の礎を創った人々の一人で、世界的文学者・言語学者。)

 

日本人はどうなのだろう。

日本とは比較にならない広大な、そして多民族国家の、かてて加えて中国本土と台湾の、香港の、またチベットの問題、そして文化大革命の激変を経ての現代中国にあって、私のような志向性は、日本以上に憫笑をもって泡沫(うたかた)のように消し去られるしかないのだろうか。

そして、韓国の、私をこよなく信頼し、亡き娘に心の真(まこと)で[悲と哀と愛、のかなしみ]を寄せて下さる方々は。

2015年3月20日

【上海の街角から】  「上海野球の草の根」 (2015年3月)

井上 邦久

 去年の2月に台湾で封切られ空前のヒットを記録した『KANO』が、今年の1月最終週から日本でも劇場公開されました。
1931年夏の甲子園、全国中等学校野球大会に、台湾代表の無名チーム嘉義農林が決勝まで進むまでを描いた映画です。近藤兵太郎監督(松山商業OB)の指導の下、漢族・原住民(当時は高砂族と呼称)・日本人がそれぞれの特性を活かしながら成長するストーリーに並行して、八田與一の指揮による「嘉南大圳」大治水工事(1930年)のエピソードも挟まれます。
更には霧社事件(1930~1931年)そして柳条湖事件(1931年9月;満洲事変)の時代の空気が遠景に重なります。

先月点描した尾崎秀実も朝日新聞上海支局で自社が主催する大会経過を逸早く知っていたかもしれません。尾崎秀実も台湾育ちです。
戦前の大連や青島で実業団や中等野球が盛んであったことは清岡卓行の小説などで知られていますが、上海での野球事情がどうだったかは詳らかではありません。戦後になって、文化大革命が始まる前の上海では野球・ソフトボールが盛んで、大学や高校に50チーム近くあったとのことです(朝日新聞1997年6月26日付け。清水勝彦氏の記事)。しかしその後、上海では野球の草の根は絶えようとしていたようです。
(個人的な体験ですが、1988年ゴルバチョフのソ連時代、モスクワ大学野球場の新設記念試合に出くわしたことがあります。日本からの東海大学とともに天津体育学院が招かれていました。ルール解説の場内放送付きのゲームで、ホームインのことをロシア語で「ダモイ」と言っていたのは聞き取れたことと、天津のエースが東海大学相手に好投していたのを思い出します)

大分県宇佐高校出身の水江孝一さんが複旦大学に留学したのは、日本球界への退路を断って大リーグの門を叩いた野茂英雄投手がドジャーズで注目された時期に重なります。上海の野球に興味を持つ学生達がコーチを探している事を知った留学生のS氏が、野茂ロゴのTシャツでキャンパスを歩いていた水江さんに声を掛けたのが野球部創設のキッカケと聞いています。
野球好きのお父さんとキャッチボールをした想い出を何よりも大切にしている水江さんは、甲子園を目指す高校球児として流した汗を、復旦大学硬式野球部の為に流すことを決意しました。基本の基本を手ずから教える、更には復旦大学以外の大学まで野球を教えに回る水江さんについて、当時の学内新聞やスポーツ系記事に取り上げられたスクラップを見せてもらいました。

記者たちは共通して水江さんの姿勢を「認真」「謹厳」「可愛」「黙黙」と表現しています。
ある新聞には「バット1本とボール5個」、別の記事には「グローブふたつとボール3個」からのスタートとあり、九州に戻って母校などから掻き集めた野球用具100kg分をお父さんと二人で背負って上海に持ち帰ったことが美談として採り上げられています。
数年後、大学リーグが上海外国語大学、同済大学、東華大学、上海財経大学、上海師範大学、上海応用技術学院そして日本留学生チームなどで開催されるようになりました。

復旦大学が上海リーグで優勝した時、選手たちが水江さんの前に整列して「教練! 謝謝你!!」と声を揃えたというエピソードは、『KANO』 の中で準優勝が決まった直後「先生!ありがとうございます。もう泣いてもいいですか」と選手達に問われ、近藤監督が泣き声で「グランドでは泣くな!」と応えるシーンを彷彿とさせました。
水江さんは今また上海で駐在生活を送っています。「私は野球が好きだから、熱情と楽しみを同級生たちと分かち合いたかっただけです」という、フラットな視線と姿勢は変わりません。ビジネスの世界でも黙黙と厳しい仕事に立ち向かっています。

今年も上海大学リーグが4月末から始まります。虹口の上海外国語大学のグランドへ水江さんやSさんと一緒に観戦に行きたいと思っています。                                                         (了)

 

 

2015年3月10日

「合理」と「非合理」の間(はざま)で浮遊し続ける私 或いは 川崎市の13歳(中1)少年の惨烈死から

井嶋 悠

精緻と言う言葉は、私を限りなく心地よい世界に導く。
私が粗雑な教師人生と己が人生を歩んできたことを自覚しているから。
憧憬。

人間は合理と非合理の間(はざま)でいつもうごめいている。
それが、人間の自然だ、と私は思っている。
しかし、世は合理優先で、非合理の側面を言おうものなら、非合理の吟味もなく感傷、脆弱、ガキ等々と苦笑、憫笑され、時には切って捨てられる。
無気味に、空恐ろしく思うのは、私が未成熟《大人でない》と言うことなのだろうか。

しかし、と思い、『類語新辞典』(角川書店・1981年)から転載する。

―「非合理」は、知性(悟性または理性)によって捕捉できないもので、知識以前の雑多な現象・感覚・体験などをさしている。

一方「不合理」は、道理に合わず筋の通らないことで、世間に通用しない。―

尚、『哲学事典』(平凡社・1971年)には、「非合理主義」との項があり、19世紀後半からの西洋哲学の潮流として説明されているが、
煩瑣になるので省略する。ただ。その中で「古代東洋の人生智に親近」との表現があり、興味を惹く。
また、他の国語辞典では、「人間性の深奥にある」との表現もある。

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。どこへ引っ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。」(夏目漱石『草枕』)

「住みにくさが高じて」、若くして何度かさすらい(かっこよく言っての表現)、教職先も3回変えた。で、どこも「住みにくい」と、座学でない体験から自覚した。「悟った」のではない。私に悟るほどの器量があろうはずもない。漱石だから言えることだ。
しかし、妻の“英断”で、10年前、59歳、定年を前に栃木県に移り住んで、詩心、絵心の器量もないが、それらしきものが芽生えた。
これは、娘の7年間の人為と結末があったから、漱石の足元にも及ばないが、いささか確信的になりつつあるように思う。「生病老死」が、知識理解と言う理解を離れて来ているように。

国語(科)教師としての私も合理と非合理の「間(はざま)」浮遊は変わらなかった。
だから、生徒の私への評価は賛否半々。一般的に優秀なのは「否」、本質的に優秀なのは「賛」。これは私のうれしい思い出でもある。中間層は多種多様の半々。もっとも、高校時代の恩師の言によれば、半々は言い過ぎであるが。
恩師曰く「授業終了時に3分の1の生徒が、お前をあたたかい眼差しで見ていたら大大正解と思え。」

授業は独演会ではない。大学ならいざ知らず、当たり前のことだ。受け手は授業料(金)を払って、己が人生の方向を模索する大きな山場にある。10代前半から後半の思春期に。
しかも私が勤務した中高校(専任教員として私学3校)では、ほとんどの生徒が大学進学を自明としている。ただ、内一校は大学、それも100年以上の伝統ある、があったが、或る時期からほとんど他大学を目指すようになった。
(これについては、現代社会を考えるテーマにもなるのだが、別の機会にする。)

中高校(主に高校)での履修は、「必修」と「選択」があり、その選択にも「必修選択」と「自由選択」を設けるのが、一般的である。
(これも、どういう講座があり、どういう授業を行っているかを調べると、研究者の説く学校論・教師論とはいささか趣の違った具体相が分かっておもしろいのだが、別の機会にする。)

高校の先の恩師の、やはり就職に際してのはなむけの言葉「6か月後、3年後の危機」は、克服したが、「7年後」前後から反省自問が始まった。その過程で、必修では、合理>非合理、(自由)選択では、合理<非合理、とすることを自覚した。
そこから、現代文の、小説での、評論での等々の対話授業法を習得した。(韻文、随筆は至難であったが)
そして、必修古典(古文・漢文)はことのほか対処しやすい、とか、言語事項(文法・漢字等)の無味乾燥さ、といった己をわきまえない感想を持ったりした。

私が、外国語としての【日本語教育】と母(国)語としての【国語教育】の“ヨコの連動”に関心を持ったのは、外国人留学生や帰国生徒との出会いが大きな要因ではあるが、上記の合理と非合理がそこに重なっている。

とは言え、徹底、献身することなく59歳で、妻の“勇断理解”を得て、教師世界に別れを告げた。
類は類を呼ぶ、似た者同士の夫婦、阿吽の呼吸、そこにある“粗雑さ”がそれを可能ならしめたのかもしれない。もちろんこれは妻への感謝と自省からの言葉である。

何事も心と知の余裕なくして思い為し得ず、である。しかし、それは時に傲慢と紙一重でもある。
ここにも、人の止めどなく続く合理と非合理、言葉と心のせめぎ合いが、あるように思う。

一見爽やかな一刀両断の、怖しさと寂しさ。それは、性善説と性悪説の、紀元前からの論議も同根だと思う。だから仏教の「中庸」と言う言葉が輝いて来る。
せめぎ合いから紡ぎ出された言葉の紡織過程に、同じ人として思いに馳せる大切さを思う。
感傷(センチメンタル)に流されることなく。精緻に。合理と非合理を忘れることなく。

合理と効率と高速の現代にあって、それは至難なことだろう。その意地を通すことは時代に取り残されることなのかもしれない。
しかしそれが無くなることは、同時に人の世では亡くなることなのではないのか、だからこそ生と世(よ)に「悲・哀・愛(しみ)」の美が生まれるのではないか、といつもの堂々巡りで私は思う。

 

川崎市の13歳(中1)少年の惨烈死

先日(2月19日深夜から20に日未明にかけて)、13歳(中学校1年生)の少年が、18歳の少年と2人の17歳の少年に、「酷(むご)い」の同類語を幾つ並べても足りないほどの行為で、自宅から数百メートル先の、多摩川河川敷で、殺害された。
死因は、「出血性ショック」。
素っ裸で2月の深夜の川に投げ込まれ、結束バンドで手を縛られ、ひざまずかされ、カッターで頸動脈に届くほどに首等数か所を切られ、殺害されたとのこと。
殺された少年の恐怖、心身痛苦、悲憤、無念と加害者の哄笑嘲笑。阿鼻叫喚と化した河川敷。
理由を聞けば聞くほどになおのこと、残忍極まりない極悪非道の所業で、「少年法」云々とは関係なく、精査(精緻な調査)をして厳しく罰すべきである。絶対善の人間などいないことを共通合意として。

その上で、これまでここに投稿して来たこと、また今回の[合理と非合理(不合理ではなく)]とも重なるので、私の少年時代の体験とも併せて、私自身のこととして考えた要点を記す。

尚、ここでは死を強いられた少年の母親のことには触れない。
やはり報道から知る彼女の姿が、あまりにやりきれなく、切ないので。

□「残虐、残忍」について、或いは「対岸の火事」としないことについて

このような事件が起きる度に、誤解を怖れず言うと、「不合理」を百も承知で、加害者と同じ方法で、加害者に恐怖、心身痛苦を与えるべき、と心の深奥で思い、「非人間的」とか「非人道的」との発言に同意する一方で、どこかでその同意に全的でない私が居る。
私の中にあるこのことと、加害者のそれとはどこが、どう違うのだろうか。
これは、私の特異、異常なのか。しかし、意外にも周辺に同様のことを思う人が多い。

理性、悟性による制御に感謝すると同時に、それを外した酷い歴史も私たちは持っている。
例えば、55年前の私が高校時代、日本史授業で見せられた太平洋戦争時の、中国・朝鮮での、日本軍人による中国人、朝鮮人への残忍極まりない極悪非道の所業の写真の数々。

では、中国、朝鮮はどうなのか。彼らが自身の事として、それぞれの歴史事実から自問するのを願うばかりである。

□個には歴史があり、背景があることについて、或いは知らぬことの幸不幸について

62年前の父の地方への単身赴任、そこから始まる両親の離婚騒動と私の親戚(東京)預かり、そして58年前、関西(本籍の京都ではなく西宮)に戻っての“新家庭”での中学(公立)入学からの3年間の特異な体験。

知人等全くいない入学式の当日、クラスでふとしたことで隣席の少年とじゃれていて彼の頭を小突いたことがすべての始まり。
キリスト教圏で、見も知らぬ子どもの頭を親愛から触れることでの彼ら彼女らの怒りと同じである。

帰宅時、校庭でその彼を含む数人からの殴る蹴るの袋叩き。恐怖と痛みでひたすら逃げ帰った数時間後、2人の教員の自宅訪問で知った複雑な地域(学校区)事情。同和問題。
時間と共に知る、繰り返される一部生徒たちの学内外での、時には血みどろの暴力(他校生徒の殴り込みも含めた喧嘩や恐喝等)事件、時には何度も報道された教師への暴行事件。
教師たちの無視という対応、抵抗? 要は荒れた学校。

或る時、校内で金銭恐喝を私が拒否したがために、数人による再びの殴る蹴る。それを目撃した女子生徒の教員室駆け込みによる彼らの停学処分と彼らの私への逆恨み。
一方で、そのグループからの脱出を願う生徒(男子)の勉強等の1対1の世話役を教師から命じられた私。

卒業式数日前、入学式の、また先の拒否一件の彼らからの校舎裏への呼び出し。
そこで宣告された「殺したる!覚悟しとけ!」の一声。
彼らは言ったからには必ず実行する。言行一致。
そのために学校が行った卒業式の、教員による家庭への事前依頼と当日の厳戒態勢。

人格・学業共に優れ、私も含め多くの同窓生から敬愛され、家庭事情から就職を希望していた同窓生(女子)の、受け容れ社会の拒否という時代。

「阪神文化語」と言う言葉を知っている人々は、どれくらいあるだろうか。
50年ほど前のマスコミによる、阪神間の、主に女子中高生が使う、アクセント、イントネーションは関西ながら、語彙的に東京的な言葉、例えば、語尾に「さ」をつける、用法への命名。
(因みに、東京生まれ、育ちの妻曰く「躾の行き届いた家では女子の「さ」付けは、下品ゆえご法度」とのこと)
要は、東京、しかも都心(山手線内?)を意識した阪神間居住の文化人?誇示、自尊?或いは劣等感の裏返し?

その阪神間諸都市(否、関西のほとんどの地域)が、同和問題を深く抱えていた(今も抱えている)こと、そのことで複雑な陰影、哀しみを刻んでいる被差別者、差別者があることを、どれほどの人々が共有しているだろうか。
マスコミが喧伝した高級住宅地!A市の、過去と現在の事情、事実を、その暗い影と虚飾を、どれほどの人々が承知しているだろうか。

13歳から15歳、東京都内から入学した私は、授業ではなく、体験としてそのことを知った。
30年から40年前に、再開発が進み、様相は確かに一変した。しかし、奥底ではどうなのだろうか。地域によっては、今も変わっていないとも聞く。

あたかも福島原発事故での除染と同じように。(私の居住地も、昨年末除染を受けた。)

私は、彼らの私への加害理由を、被差別部落歴史問題に帰着させ、そこから暴力を是認しようとしているのではない。それは、先の脱け出たそうとした彼、進路を塞がれた彼女のことからも分かってもらえると思う。
加害者の行為は理不尽で不合理で、罰せられて然るべきであるが、彼らの発言から、彼らの心の深奥に、その歴史が深く影を落としていることは明らかで、それがゆえに、すべて(オール)か(オア)無(ナッシング)か的に、或いは合理で裁断できない間の、私をそこに見ている。

これは、当時の恐怖等を思えば顧みたくないことではあるが、個と風土と歴史を具体的に知る一つの契機であり、学習であった。
ひょっとしたら、その頃から知識による理解への違和感を持ち始めたのかもしれない。

では、川崎市は、加害少年にとって、どのような風土であり歴史なのだろうか、と思う。
私は、川崎がどんな町か、子ども時代、大人になってから幾つかの風聞には接したが、2年ほど前に訪ねた駅前再開発の街並みと川崎大師以外、事情、事実は何も知らない。
だから、私の中学校時代体験で得た視線を、そのまま持ち込むことなどあろうはずがない。

個に歴史があるように、風土にも歴史と現在がある。風土は人の生の母体である。それが、加害少年たちにとってどう響き合っているのか。
響き合っているとすれば、それはどういう内容なのか。
響き合っていないならば、国際化(ボーダレス)時代の巨大都市化らしく、風土が持つ保守性、閉鎖性から解放され、すべては個に帰するということなのか。
それとも、私のように知ろうとするそのことが、無責任で、お気楽な空理空論者、更に言えば犯罪的行為ということになるのだろうか。

□改めてマスコミの、政治家の傲慢と官僚性について

[注:官僚的(性)の語意]
「官僚に見られるような、相手の意向や立場を無視した、形式的、権威主義的な態度、傾向を帯びているさま」
(『現代国語例解辞典』小学館)
〈蛇足の私的注〉その多くは高学歴者である。

少年の通夜の席で、取材に来ていた記者とその少年と親しかった少年たちとの間で一悶着があって、警察官も来た旨、別の記者が記していた。
悶着の具体的内容は記されてないが、文章から、悶着を起こした記者が、正義と合理を御旗に、己が正当そのままに、かさにかかって質問したことが、私の中高校教員経験からも容易に想像できる.
そこには、したり顔はあってもつつましやか顔はない。そして記者は、ますます大人風(権威風)よろしく、その少年たちを、世を嘆き悲しむ言葉を発するのだろう。
私が一部マスコミを忌避するのは、そこに人間を感じないからである。

また、日本のネオナチズムリーダーとツーショットの写真が公表され物議をかもし、その後うやむやになった(した?させた?)自民党政調会長(女性)は、少年犯罪が非常に凶悪化して来ている今、少年法の再検討を言い、首相も同調しているとのこと。
ところが、少年犯罪は減少傾向にあり、凶悪犯罪が増加傾向にあるとは言い難い旨の、統計を基にした報告が一方にある。

国を動かす政治家の発言が、このような粗雑にして、感情的、場当たり的で、しかも独善的、権威的であって良いものなのだろうか。
先の報告では「…印象論にとどまらない、客観的、科学的な議論を行うことが不可欠です。」と結んでいる。

因みに、少年犯罪の全盛期は、1960年代前・中期とのことで、それは私が中学生から高校生であった時代である。