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2015年6月30日

現代だからこそ情感の言葉と《間(ま)》に会いたい ―日本人の国民性と現代日本と―

井嶋 悠

 

独りあれこれ思い巡らせていると「あやしうこそ物狂ほしけれ」、気が触れたかのような己が絶対善境地に陥る。
娘の無念を心に刻み、親としての、教師としての、自省、悔悟、贖い(あがな)をせめての娘への供養とし、且つ自身を整理したく、2年前からこの【ブログ】に「そこはかとなく書きつけ」ている。  [上記「  」は、『徒然草』の冒頭から。]
ただ、吉田兼好との決定的違い、己が小人を承知しているので、それは不善の臭いともなる。
古人曰く「小人は閑居して不善を為す」と。

孤独の狂喜はひとときで、襲い来る不安、脆弱な自身からついつい逃げ出したく人間(じんかん)にさまよい出る。
娘は生前、「独りであることの安堵と絶対の孤独の恐怖」を言っていたっけ。
幼子の、微笑みや今ここしかない一途な眼差しに、至上の快を持つこと以外多くは後悔し、帰宅を急ぐ。
ましてや、同世代更には上の世代の、高齢者を“印籠”にしたかのような傍若無人に出会おうものなら、権威を笠にする人々への嫌悪と同じく、己が小人を忘れて、腹を立て、やがて寂しくなる。
そして無性に砂浜が広がる海辺に行きたくなる。

行きつ戻りつ、歩むと思えば立ち止まりまた歩み、時に走り、歳月人を待たず、再来月古稀を迎える身。
「独生(どくしょう)独死独去独来」「無常」の真意が、はたまた「大道(だいどう)廃(すた)れて仁義あり。慧(けい)智(ち)出でて、大偽あり。六親和せずして、孝子あり。国家昏乱(こんらん)して、忠臣あり。」(老子)が、人為の知ではなく、体感の言葉として承知し始めた昨今。
その私は、縁あって10年前から自然豊かな地で日々を過ごす年金生活者。
3年前の娘の死と向き合いながら。
古人曰く「衣食足って栄辱(礼節)を知る」……。栄辱(礼節)を、人倫・羞恥と置き換え。

この【ブログ】寄稿を楽しみにしてくださる人もある。「棄てる神あれば拾う神あり」。何という幸い。生きる力。

私は娘を通して、それまでに少しずつ直覚していた生きることの「かなしみ:悲・哀そして愛」を確信した。67歳だった。
教師で、しかも海外帰国子女教育や外国人子女教育に長く携わった私は、「国際」とか「グローバル」といった多くの学校社会が彩る言葉から日本を考えるのではなく、それらを濾過したところから日本そのものを考えることの大切さに到っている。それは、1993年からの日韓、1998年からの日韓中交流、2004年『日韓・アジア教育文化センター』創設を経て、日本の過去と現在を考えることが、自ずと韓国・朝鮮、中国、台湾を考えることになる、との私なりの到達点でもある。

日本は、被爆国にして太平洋戦争[第2次世界大戦]敗戦国でありながら、日本人の勤勉な資質と朝鮮戦争、ベトナム戦争特需の、言い換えればアメリカあっての、恩恵を受け、50年もせずして世界超経済大国の文明先進国となって今日在る。
しかし、思う。
ほんとうに「世界超経済大国の文明先進国」だろうか。
そのように思う根拠については、これまでに何度も触れたが、今幾つかを再び列記する。

国家予算がアメリカに次いで世界2位にして、同じくアメリカに次いで世界第2位の借金超大国(これは何ら心配無用と専門家は言うが、今もってよく分からない。)
無尽蔵の金満国かのように外国への有償無償供与。
国内に眼を向ければ、子ども6人に1人が貧困家庭で、世界に冠たる長寿国、高齢化社会が予測されていたにもかかわらず、財源不足を口実にした福祉の、また災害復興の、停滞、下降、そして安直そのままの増税、つまりツケを国民に回す無責任。
一部?公務員・大企業従事者だけの所得増の現実と津々浦々までの経済成長浸透宣言との乖離そのままでの諸物価高騰。
認知症以外の原因も含めた2014年の行方不明者の届け出は81、193人。
繰り返される政治家の外遊での多額の税金使用に見る尊大と媚び。

問題が起こればその度毎に、善き政治家を自認するかのように得々と提示される対症療法的施策。
例えば、ここ10年余り先進国中1位の自殺者問題(この3年程、韓国が日本を超えているが、韓国人の友人曰く「韓国はまだ先進国とは言えない」との説に立って)。
教育での家庭経済からの歪み。
男女同権度142か国中104位。
「思いやり予算」が象徴する沖縄への本土防波堤視線と言葉だけが虚しく浮遊する憐憫の情(先日の、沖縄戦終結70年の式典での首相の挨拶と「帰れ!」の言葉の決定的違い。命の息吹の有無。)
集団的自衛権に見る“アメリカ正義”への忠実な下僕。追従。
原発なくして文明生活はなし、かのごとき脅しとうごめく功利。
「日本創成会議・首都圏問題検討分科会」の、大都会圏政治家、有識者の無意識化した不遜。
西洋崇拝の日本にもかかわらず、欧米の根源的自問自答からの改革の歴史〔例えば、フィンランドの、国家変革指向があっての教育改革と自殺多数国からの脱却〕に触れず、結果だけを崇める日本。奇妙な自尊心。

これこそ「成金国家」ではないのか。だから多くの私たち国民は「成金」。
将棋に詳らかな私ではないが、金将と銀将、その動きから銀将の堅実さを思ったりする。
因みに、言葉に係る英語圏でのことわざは、「沈黙は金、雄弁は銀」。

ギリシャ時代の哲学者アリストテレス(紀元前4世紀)の「成金」定義を、その要点のみ孫引きする。

  • 幸運に恵まれた愚か者。
  • 傲岸不遜。
  • 贅沢を見せびらかす。虚飾。
  • 金がすべての評価の基準。
  • 他人への無理解。
  • 権力者志向。
  • 古くからの金持ちよりもっと下品。
  • 傲慢や抑制力のなさからの不正行為者。

 

どうだろう?
現在の日本に当てはまると考えられるのは、8項目中何項目だろう。
私の場合、ほぼ上記そのままの上司(管理職の教育者)との職場体験や首都圏からの移住者の多いこの地での生活体験も含めほとんど重なる。そのとき、私は私についてどう言葉にすれば良いのか……。

そんな日本に誇りが持てるだろうか。
次代を担う若者に借金と虚飾の愉悦の他に何を託すというのだろうか。
18歳以上に選挙権を与えた意図は何なのだろうか。まさか、大人の資格を与えることで金銭徴収の義務化意識を染み込ませ、徴収の安易化を図ろうとしているとは思いたくないが。
…………。
大人になればなるほど人間は利己になるとは言え、或る時を過ぎるとその自身を嫌悪する自然が生まれる大人も多い。

日ごろ人々を強い矜持で導こうとする、政治家や官僚や学識者[曲学阿世の徒]、またそれを支えるマスコミ人といった有識者!は、少子化、高齢化になることは当然予測されていたにもかかわらず、その昔、どんな深謀遠慮を働かせていたのだろう。
今日、責任者たちが、学校での「起立、礼」よろしく詫びる姿は恒例!行事化!しているが、短慮を恥じ、心伝わる言葉で詫びる政治家や官僚や学識者を、寡聞ながらほとんど知らない。

学校教育社会は、国や地域社会を確実に反映し、だから学校教育は国・地域を変革する基盤ともなる。
しかし、公私立問わず、実態はどうだろう。あくまでも時の政治の、国の価値観に合った歯車養成場で、それに疑問を抱けば排除される。「個性」を活かすとの教育フレーズの一方での「自己責任」との大義名分による切り捨て?
企業が求める人材養成が教育だ、と豪語する教育関係者は多い。
教育の画一化。全体主義化。
学校への、教師への不信は、確実に増えている。娘のこと、私の体験的知見からもそれは明白である。
その打開は、学校形成者の核、教師の、閉鎖的権威主義や固陋な保守保身についての、教師自身の自問自答なくしては進まない。
良識を模索する教師が教育現場からどれほど去ったことだろう。

言葉の人間のことに思い及ぶ。理知性と感性、霊性と言葉。そして日本人と言葉。
教師は言葉を駆使し、10代の瑞々しい感性は、時に言葉で、時に無言で、時に身体で反応する。思えば益々広がる怖ろしい時間と空間の学校、教室。
よくぞ33年間も続けられたと自賛する私の魯鈍な感性? 或いは生きることでの妥協?
59歳で退職した無茶と己の限界、それを受け容れた豪気な妻への感謝。

「日本人は現実的、即物的な国民」との国民性に係る言説を思い起こす。
例えば、社会心理学者南博(1914~2001)の『日本人論―明治から今日まで―』(2006年刊行)に導かれて知った、「日本人優秀説〈日本人万能主義〉」や「西洋崇拝説〈西洋人万能主義〉」に偏ることに注意深かった教育学者野田義夫の『日本国民性の研究』(大正時代(1914年刊)。
そこで、野田は以下の10項を挙げ、その長所・短所を説く。

1、忠誠  2、潔白  3、武勇  4、名誉心  5、現実性  6、快活淡泊  7、鋭敏

8、優美  9、同化  10、慇懃

その5、現実性について。

【長所】 「現世的実際的実行的」  例えば神仏祈願での[息災延命、子孫繁昌、家内安全、武運長久、国土安全]
【短所】 「浅薄な実用主義、卑近な現金主義、現在主義のため、理想を追って遠大な計画を立てる余裕がない」

この指摘に、多くの日本人が得心するならば、現状の日本を軽薄で、短慮との私の批判は成り立たない。
それは、「諦め・諦念」(「いき」の一要素でもある)、「水に流す」との日本的感性から外れるのだから。
そのときどきが快であれば善しとする刹那を愛し、貴び、言葉もそのときどきの得心で事足りる。
政治家の、官僚の、また評論家の、言葉の無味乾燥さと優越意識の漂いは、タテマエとホンネに鋭敏な彼ら/彼女らの有能さの証しなのかもしれない……。

西洋を範とした文明開化からほぼ150年が経つ。その西洋は言葉を論理ととらえ、学校での言葉の教育は厳しい。そして「国際」から遅れまい、否、世界のリーダーを目指す日本の、欧米教育導入の躍起。
日本の子どもたち真心(ホンネ)はどうなのだろうか。
これまでに出会った多くの、多様な帰国子女の顔が浮かぶ。

論理としての神【キリスト】の言葉を前提とすることの重みとそれが土壌にない日本。
新約聖書『ヨハネによる福音書』は、次の言葉で始まる。
初めてこの一節に接した時の感銘は、今もクリスチャンではないが、私の中にある。

―初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。―

以前、上記部分の英語聖書を幾つかを見ていて驚いたことがある。「言」、「WORD」が、「LOGIC」となっている書があった。
私の英語力は、55年余り前の公立中学校英語から少しも進歩していないが、それでも英語映画を観ていて、彼ら・彼女らの言う「promise」の重さに感心している。
さすが、言葉=論理とした倫理の国である、と。
それに引き替え、日本の「指切りげんまん」の、残酷でもあるが、しかし広がるほのぼのさ。

そこに加わる、母性の国日本、父性の国アメリカといった背景印象の違い。母性=女性、父性=男性との単純等式ではなく。
覆う、包み込むこととしての母性。断ち切る、囲み込むこととしての父性。
人為での、自然との関わりでの、母性要素と父性要素。
更には、「からごころ」と「やまとごころ」の異化と同化の文化史と日本の伝統。

ところで、国際人、グローバル人と母性・父性は、どうなのだろうか。ちょっと面白いテーマとも思うが、まだ不勉強。

大相撲を含めスポーツ選手の「疲労骨折」や文武関係なく「うつ病」発症の増加と現代、そこに近代化による言葉観と日本(人)の風土が育んだ言葉観の狭間にある日本人の接ぎ木疲弊をつなげて思うのは、周回遅れの私の老人性と視界の狭小と牽強付会の為せる戯言なのだろうか。

立ち止まることの意義とそれを許容する社会の優しさの幸せな調和に今も遠い日本。
平均寿命が、1970年の[女:70,19歳、男:65,32歳]から、現在[女:86,61歳、男:80,21歳]
にもかかわらず、こびりついて離れない『18歳或いは20歳人生決定観』。アメリカ追従にもかかわらずそれはそれ的の、何という滑稽。

情感が強く響いた言葉を一つ。
筆者は洋画家斎藤 真一(1922~1994)
[略歴:1942年~1945年、現・東京芸術大学在学中に学徒出陣。卒業後、高校美術教師。1958~1960、フランス留学。藤田嗣治と親交
を深める。帰国後、1962年ごろから瞽女(ごぜ)に、1985年ごろから吉原の遊女(花魁(おいらん))に、心を寄せ、彼女たちの
哀しみを情感込めて描く。]

その斎藤の書『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年刊)に収められている、瞽女と彼との恋の情感溢れる絵[赤倉瞽女の恋](赤倉:新潟県)に添えられた言葉。

―赤倉瞽女「カツ」が村の男と親しくなったのは二十歳すぎである。行年四十四歳、カツは岡沢村瞽女宿四朗右エ門(しろえむさ)に
て死んだ。まだ若い姉さん瞽女であったのに……―

切々とした哀しみが、末尾の……と合わされて伝わって来る。

因みに、彼の1972年1月20日の日記には次のように書かれている。

―現代のようにものの大義が渾沌とした時代に立たされると、今まで信じていた歴史の大道もふと懐疑の念をいだかざるを得なくなってしまうものだ。むしろさりげなく力一杯生きて来たある時代の善良なる名もなき人びとの生活記録の方が、(中略)はるかに人間らしく真実がみなぎっていたかのように、ふとそのようなものに感動してしまうのである。(中略)
多くの人たちのイメージの中では、瞽女は全く疎外された暗黒に生を得ていた敗残者のように見られていたかも知れないが、私には少なくともむしろ彼女たちに一つのある光明とも思える実に純粋な芸人としての生活のあり方を見たのだ。(中略)
人の目は、いつの時代にも燦然と輝いた華麗な美しさにあこがれまどわされるものだ。要は美しさが外に向かうか、内に向かうかの違いであって、いずれに軍配があげられるのかの問題ではない。いわば両者に魂のあるかなしかの問題である。―

斎藤が直覚した情感は叙事と叙情の重なった厳しい眼差しで、私が直覚した情感は感傷かもしれない。
斎藤には描画の卓越した技術があるが、私には描画はもちろんそのような才はない。
しかし言葉と人、そして風土(国民性・地域性)と時代について私の中で少しでも鮮明になれば、私の心の中での私の描画ができるかもしれない。

 

2015年6月17日

生きて在ることの情感 ―ささやかな映画好きから―

井嶋 悠

【夢】

辞書で確認すると4項説明がある。『現代国語例解辞典』(小学館)から要点を引用する。

1、睡眠中の現象
2、ぼんやりしたことの比喩的表現。(例:夢か現か)
3、将来の希望。
4、現実の厳しさから隔絶した環境、雰囲気。(例:夢を与える仕事)

ここでは、3、の意味を主に、いささかの1、の意味も視野に入れて使う。

映画は夢工場と言われる。
私はその映画好きの一人である。ただ、世の自他とも認める狂的なまでの博識ではない。
そもそも夜の思索は正負紙一重で、69歳ともなると、昼寝はさほどでもないが、これまでの生への天の戒めか、己が過去の醜悪を曝け出すような夢、悪夢をしばしば見る。
それを没却に向けるのではなく自省整理し老いの生での夢を描きたく、昔とは違う心模様での映画鑑賞が増えている。
心の浄化、カタルシス。

その度合いが強いほど、その映画は私の名画である。だから若い時と今では私の名画は時に変わる。
ただ、共通することは、そこには美と真に激しく私を引き込む内容と技術がある。芸術としての映画。芸術映画・商業映画といった表現があるが、その定義は確定的ではないと思っている。
娯楽、趣味。生へのエネルギー源としての芸術。

暗闇の中で独り光と影・映像に吸い取られる愉悦は、“中毒”症状とはこのようなものだろう。
鈴木忠志さん(1939~:1960年代以降の現代演劇界を代表する劇作家・演出家の一人)が言う、

「演劇を観ることは立ち会うことで、映画は鑑賞する」と。

ささやかな体験ながらなるほどと思う。

「鑑賞する」。
どこか理性を働かす自分がいる。だから、つまらなければさっさと退出する。前に生きた人はいない。
「立ち会う」。
劇場空間の一体化は映画の比ではない。つまらなくともとにかくそこに居ようとする。眼前の演者のへの無礼が過るから退出しにくいこともあるが、視線を変えることで時には思わぬ発見もする。疲労感も映画の比ではない。

私は、「鑑賞する」人間なのだと今再確認している。
分析心理学者で精神分析医の河合隼雄(1928~2007)は、「暗さに耐える人にのみ、シンボルはその真の姿を開示してくれる(19世紀の合理主義に対して、シンボルの再生へと決意する現代人の在り方)」と言う。そんな言説に自身を重ねるこじつけをして、自己得心をしている。

小学校1年生前後に校庭の仮設スクリーン(白い大きな布が風に揺れ動く光景が今も甦る)以来、国内外のさまざまな映画に出会って60年余りが経つ。
心揺り動かされた初めは、単身赴任した父が夏冬の帰省時に連れて行ってくれたウオルト・ディズニーのアニメで、それが2年程続いた。
その後、“大人の事情”で東京の伯父伯母宅に預けられ、20代まで空白である。
そして、私にとって“凄い?恐るべき?”時代の20代後半に、二つの映画に打ちのめされる。出会ったのは1970年前後。
池袋・文芸座終夜上映での“健さん”興奮に馴染めない、どこか違う私を探していた、要は怠惰なだけなのだが、日々で。

一つは、『薔薇の葬列』(1969年・松本 俊夫監督)。
一つは。『かくも長き不在』(1961年・フランス映画、アンリ・コルピ監督)

その時、既に生の寂寥を直覚していたのかもしれない……。頭でっかちにして薄っぺらな理知?性で。

生々流転、気づけば今夏古稀を迎える、
その不可思議な心持ちを大切に観続けている。ただ、或る時期以降、ひたすら通信レンタルで。
そこには、今の地方在住とは関係なく、私の芸術体験環境嗜好と無精が、そうさせているのだが、映画の終日自由席、同一料金の観放題(時に喫煙放題も)で映画体験をした者の追憶と感傷(センチメンタル)がある。現行方式一回性で且つ高価となればなおさら、である。
座席、設備の高級化など私からすれば本末転倒で、だから非現代人、それも高齢者群、なのだろう。
映画に限らず芸術享受は自由に解放された“私”があってこそで、私は“晴れ”が入ることを嫌う。

私に残された時間の有効利用の知らず識らずがなせることなのか、借り出すときは、あれこれ手引書(例えば、『日本映画ベスト150』とか『洋画ベスト150』(文春文庫)や2000年以降、最新作品情報等)を羅針盤に、昔心揺さぶられた作品ももちろんのこと、鑑賞している。

そんな私が、今行き着いた最高傑作は、小津安二郎監督『東京物語』(1953年封切)。
そこには、小津・野田高悟作品に見られる私には少々抵抗感のある“プチブル”性は影をひそめ、片意地張ったセリフもなく(かの香川京子さんのセリフがどこかとってつけた感さえ)、少なくとも私の命の律動に合った間があり、演者も、スタッフも、すべてが確かな信念と技量に裏打ちされた粛然(しゅくぜん)さ、飄然(ひょうぜん)さに溢れている。
監督、脚本家、カメラマン、照明、美術、音楽担当者をはじめとする数十人のスタッフ、演者(笠智衆・東山千栄子・原節子・杉村春子・中村伸郎等々挙げれば数限りないそうそうたる顔ぶれ)の厚い紐帯。
それぞれの“プロ”たちと小津安二郎の巨人格の調和(ハーモニー)。総合芸術の醍醐味。
だからこそ、今、私が私を顧み、切々と直覚する人生が伝わって来る。
叙事があっての叙情。感傷ではない、叙情。

親子、兄弟姉妹。老若。心つつましく生きることと今日(きょう)生きることの懸命、切実。にもかかわらず新旧世代の行き違い。色濃く反映する時代様相。未来永劫のテーマ、時代と人の関わり。しかし、底流のどこかで直覚するつながり。伏流水のように。
ふと過(よぎ)る寂しさと哀しみと、それらを濾過し得たこその安らぎと幸いの感触。
日本(的)と限定しない共有性を思う。人生の重さ、深さに異文化があろうはずもないから、当たり前のことだけれど。
とは言え一方で、「日本的」「アジア的・東アジア的」「欧米的」……なるものもどこか感じながら。

その日本的に関して。
小学校等での音楽教育で日本の童謡(唱歌)授業が無いに等しいと聞く。
フランスの音楽家ジャン・フランソワ・パイヤール(1928~2013)が1959年に創設し、世界に大きな感銘を与えたパイヤール室内管弦楽団は、どんな心で日本のうた(例えば『浜辺の歌』『椰子の実』『夕やけ小やけ』等)を演奏したのだろうか。
ドボルザークの交響曲『新世界』の第2楽章は、常に演奏され、愛聴されるが。
練達な外国語能力とはほど遠いにもかかわらず、人と人の心の逢着、その響きをわずかながら体験した私は、だからこそ「日本的」「アジア的・東アジア的」……の再確認の必要を思うし、そこからそれぞれの独自性、個性と普遍性を確認できるのではないか、にこだわっている一人である。

一つ、アメリカ映画から採り上げる。

1981年制作の『黄昏』(マーク・ライデル監督)[主人公(父親役)のヘンリー・フォンダの遺作。実の娘ジェーン・フォンダが映画化権を買い取り、軋轢の多くあった父、ヘンリー・フォンダに捧げた映画。この映画の後、彼は、子どもたち、家族に見守られながら静かに旅立ったとのこと。母親役はキャサリン・ヘプバーン]
前半は、いかにも西洋らしくセリフ劇要素が強いのだが、後半の、田舎の美しく静かな自然を背景に紡がれる限られた会話と間。
そして親子のわだかまりの氷解と安らぎの共有。言葉(論理)を越えた直覚・感性。非論理の世界へ。以心伝心。

ささやかな映画好きの暴言の無礼を承知で、山田洋次監督の『東京家族』は、足元にも及ばない。
映画理論家としての松本俊夫氏の難解極まる文章を、また博識博学の映画研究者、評論家、制作者たちの、あの得々とした表情に戸惑いながらも、機関銃のごとく紡ぎ出される言葉に立ち会っていた私を、今思い起こし苦笑する。因みに、その1970年前後の出された雑誌(例えば『ユリイカ』とか『カイエ』等)の映画・映像特集の散文、座談を読み返したが、多くは1ページ続けるのも精一杯だった。

そんな私に、映画の醍醐味、面白さに目覚めさせた人物が二人いる。30代になってからである。
一人は、集団芸術での創造の快とそれを観る楽しさを教えてくれた淀川長治(1909~1998)。
一人は、難しい映画理論とか思想でなく、一市井の眼差しで映画芸術を観る快を教えてくれた佐藤忠男さん(1930年生まれ)。尚、佐藤さんは上記雑誌『ユリイカ』の常連寄稿者でもある
その佐藤氏の映画制作者の視点からの『東京物語』論を読んだとき、私はひたすら感嘆、尊敬し、私の最高傑作の思いへの後押しともなった。

世は、「国際」から「グローバル」が自明となりつつある。
それぞれの自問自答もなく他者(国)攻撃を“愛国心”としたかのような独善と傲慢、そこからの協力?体制指向がもたらす意思疎通の至難。にもかかわらず、その責を他・外に求め、一足飛びに地球規模へ、の発想。否、だからこそ地球規模なのだ、と言うのだろうけれど。
世を映し出す学校教育は、その人材育成をしきりに打ち出す。裏付けに必須が如き有名!?大学進学と組み合わせて。それに掛かる教育費の高額化。その大学の大衆化の負の側面とますますの大学格差はどこ吹く風。

一方で、すべての価値の中心の観さえ漂わせる東京でさえ厳として在る、子ども6人に1人が貧困家庭の象徴する歪み。「地方創生」との言葉が、傲慢にしか聞こえない地方切り捨て。
それも含めて現実は現実、との冷徹なまでの弱肉強食観を自明とするかのような多くの私たち。
長寿化は、医療技術の自負と福祉財源不足の他に、何をもたらしているのだろうか、と思ったりする。
やはり、歴史の発展、その歴史を創造する人間の幸せについて思いが行く。
しばしば出される大人からの「内向き」化の若者批判、嘆きは、一面的過ぎないか、と思う私。

この考え方に共感の意思表示をした一人が、4年前、23歳で天上の霊(霊の人?)となった娘で、彼女の持論の一つは、義務教育段階での「音楽」「書道」「技術家庭」の充実だった。
娘は、太平洋戦争前後と東京裁判に強い関心を持って自学していた。
彼女は、敬愛する三島由紀夫の監督・主演映画『憂国』や若松孝二監督『11,25自決の日 三島由紀夫と青年たち』を見ずして旅立ったが、再会の折には是非そのことも聞きたいと思っている。
もっとも、天空フィルムライブラリーで観た、と言うかもしれないが。楽しみだ。

娘の死と学校と教師については、何度も記したので繰り返さないが、私の自省と、母親の学校、教師への決定的不信の原点である。

日本の教育を批判し、相も変わらず一方的に欧米教育に範を求め、“ヒーロー願望”の具現者「我は」、よろしく振る舞う教師、それを支持する同じ教育関係者、保護者等大人たちと職場を同じくし、今それを他山の石としている私は思う。

年々、日韓、日中関係は感情的ナショナリズムの罵り合いである。
中国での、台湾での、韓国での、『東京物語』に通ずる《生きて在ることの情感》に思いを馳せる映画を、私たちはどれほど観、相互にどんな発信と啓発をしているだろうか。
これは、私が知らないだけで、いろいろな場でなされていることは断片的情報から推察できる。
『日韓・アジア教育文化センター』が、これまでの経験と培った思いを活かし、その人たちからの智恵を借り、何かできないかと思ったりしている。
「跳びながら考える」ことも無くなって何年経つだろう。
このままでは「跳ぶ前に考える」だけで終わる。

2015年6月11日

中国たより(2015年6月)    『港町旅情』

井上 邦久

今年の春の話題の一つに金沢への新幹線開通に伴う、北陸ブームがあります。昨年の夏、東京から長野まで新幹線で移動して信州めぐりをした折に、利便性を実感できました。
その長野からトンネルを何度か抜ければ日本海、糸魚川でちらりと海の色を見て、富山でうとうとしていると直ぐに金沢に到着するのですから驚きます。
外国人旅行者の増加もあって、空前の来訪者を迎える金沢はホテルも予約が難しく、タクシー乗務員も「水揚げが二割は増えたかなあ!」と控えめにご機嫌で、「ホテルの清掃パート職の知り合いが、休日を取らせて貰えないらしい」などといった街角情報を教えてくれました。

毎年恒例の北陸蝶理会が盛況裡に終わり、翌朝の地元紙の報道も写真入りで好意的でした。祖業の地の京都に代わって、戦前から続く企業基盤、事業基盤、人的基盤である北陸産地の方々のご支援の賜物であります。
朝から金沢在住の先輩に暖かく迎えていただき、企業卒業後の生活のヒントを教えてもらいながら、卒業論文の書き残しのような仕事を、留年して仕上げることを報告しました。
福井の先輩には、おろし蕎麦に天麩羅をつけて貰って滑らかなお喋りにして頂きました。昨年は、改築されたご自宅の巨大な仏間とお茶席を見せてもらい、猫の間だけでも苦心している我が家には真似のできるようなヒントは有りませんでした。今年は燕が巣作りに「襲来」して大変だ、とも仰っていました。
先輩は明るい表情と地声の強さを印象に残しつつ、逆に年少者を労ってくれて、燕返しの様に厳しいビジネスの現場へ車を走らせました。

要件が早く終わった福井から大阪へと移動する途中、乗り換えの敦賀駅で下車しました。敦賀始発大阪行きの新快速電車の時刻を確認してから、観光案内コーナーで地図と自転車を借りました。センバツ優勝の敦賀気比高校を訪ねる時間も気分もありませんでした。
越前一ノ宮の気比神社の近くを通って、ユダヤ難民上陸に纏わる記念館を訪ねようとママチャリ(婦人用自転車。英語の「ママ」と韓国語の「自転車」を繋いだ言葉?)を走らせました。
旧敦賀港駅舎(欧亜国際連絡列車時代の重要駅。現在は鉄道資料館になり、大阪から巴黎・倫敦行きの切符やハイカラなポスターなどに戦前の華やかな国際色を感じました)から赤レンガ倉庫を眺めながら埠頭に近づくと、目指す「敦賀ムゼウム」がありました。記念館は地元の海運会社が目立たない形で運営しているのか、入場料は「お志し」方式でした。

上海のユダヤ難民記念館に杉原千畝を顕彰するコーナーがあり、戦後外務省を「クビになった」杉原千畝のことを、案内人が「処刑された」と説明していた時期があります。
外務省を卒業したあと、杉原千畝が日ソ貿易名門の川上貿易を経て、蝶理モスクワ支店長として活躍されたことを証明する社内資料を、上海の記念館に何度も届けて、何度も誤りを正して貰ったエピソードは何度も綴りました。
「敦賀ムゼウム」を訪ねて、今度は自分の誤りを正して貰うことになりました。
事前の調べ通り、記念館には確かに杉原千畝コーナーがあり、通過ビザ発給記録・敦賀上陸難民記録、杉原千畝の略歴、ビザ署名を決断した背景などの資料・映像が展示されています。1977年に萱場道之輔フジテレビ・モスクワ支局長の取材に応じた、杉原千畝の肉声が室内に流されていました。ソ連時代の取材でもあり、盗聴を意識して音楽を流しながらの対話ということで、聴き取りにくい部分もありました。(活字になったインタビュー記録を貰いました)

しかし、杉原千畝関係の資料以上に、ユダヤ難民への敦賀市民の温かい対応についての資料が多く残されていました。
それらは記録や記憶を風化させない、敦賀は単なる通過点では無かった、という市民の矜持と綿密な調査(2006年3月から1年間)に裏打ちされた地域文化の基盤を感じさせるものでした。
1940年9月29日の天草丸から翌年6月14日の河南丸までのユダヤ難民の上陸。(総計は、3,832人から5,855人と新聞報道に差)。
苛酷な状況の中で、日本の少年が果物を配ってくれたという伝説的美談、リンゴを一齧りしては後ろの列の子供に回すユダヤ人を目撃したという複数の記憶、
そして何十年も過ぎて、その少年は自分の兄に違いないという生家が青果商だった人の証言。
港近くの朝日湯の大将は一日無料開放してユダヤ人を入浴させた、時計屋の主人は腕時計の買取りに応じた上で食べ物も渡し続けた・・・怖くて店を閉めたという酒屋の店主、朝日湯の汚れを嫌って遠くの銭湯に通った人・・・市井の記録が一冊の本になっています。『人道の港 敦賀』(井上 修・古江孝治;日本海地誌調査研究会)。

「ツルガの町が天国に見えた」「私たちは、何百年経とうと決して敦賀を忘れない」とユダヤ人が発したという言葉が、それより20年前に筑前丸や台北丸で敦賀港に上陸したポーランド孤児からも発せられたであろうと、もう一つのコーナーで感じました。
1918年から1922年にかけてのロシア革命への干渉戦争、いわゆるシベリア出兵の動乱の中で孤立無援となっていたポーランド孤児を日本政府・日本赤十字社が救援に乗り出しました。ウラジオストックからの孤児達を迎えるに当り、敦賀関係者が具体的な救護に努め、1920年7月以降に5回に分けて合計375名が上陸、東京で体力恢復後に横浜から米国へ。
第二陣は1922年8月7日から3回に分けて児童388名、付添39名の上陸受け入れ、神戸港から南回りの航路で祖国ダンツィヒ(グダニスク)へ送り届けられています。

見学帰りに記念館の方から、「人道の港 敦賀港」という理念で運営している、杉原千畝の行いも人道の一例であるが、決して杉原個人だけに焦点を当てていないことを明解そして明快に教えてもらいました。また上海のユダヤ記念館との連繋はしていないとのことでしたので、英語資料を一式揃えてもらい、上海に持ち帰りました。

地元で作られているユダヤ菓子(クッキー風の中身にはリンゴが挟まれ、箱には杉原千畝のおなじみの写真)も買い求め、句会の仲間への土産にしましたが、駄句作への評点は甘くなかったです。
上海に戻った翌週末、第73回「上海歴史散歩の会」の寧波散歩に参加しました。
会の顧問の東華大学教授の陳祖恩先生、夫人の袁雅瓊女史は、事務局と一年前から企画・下見に参加され、寧波料理のレストランやメニュー選定まで率先垂範して頂いたと聴きました。日中交流史の泰斗であり、しかも寧波人の陳先生に案内して頂けるのは、とても贅沢なこととバス1台分の定員の内に入れたことを嬉しく思っていました。

上海地下鉄2号線の駅に集合、バスで松江・平湖・嘉興から杭州湾大橋を渡り、紹興そして寧波地区へ。先ず、道元が修行したことで名高い天童禅寺の奥まった高台へ登りました。金沢市大乗寺との交流碑横の亭で、陳教授は日本と中国との深遠なる交わりを語られ、友好とか親善とかの言挙げをするまでもなく、静かな松の風が何処からともなく届くような清涼な関係を伝えようとされました。
まさにそれは『正法眼蔵随聞記』に記された、道元が入宋時に天童禅寺で、如浄師が弟子を鍛錬する言葉を思い起こさせました。道元(1200-1253)は宋から帰国して、越前に隠棲し、永平寺を開創。忠実な弟子の孤雲懐奘(1198-1280)が折に触れて接した道元の教えをメモにし、整理されたのが『正法眼蔵随聞記』です。
メモといっても読みづらく、四半世紀前に買った岩波文庫が綺麗なままです。処々に○印をしていますが、若い頃に何故その一節にマークしたかのか思い出せません。ただ今回の訪問で、道元の思想や哲学はともかく、この文庫本の中の道元もメモ魔の懐奘(年下の道元に心服し、長生きして道元の教えの伝達をした?)も少しだけ身近な存在になりました。

夕方にお邪魔した阿育王寺では、陳先生に随いて聞き歩きました。
鑑真が最後の日本渡航を試みるまで滞在した場所であることを記念する場所で、その使命感について教わりました。また二代前の北京の指導者の書が山門に掲げられ、歴史的価値のある扁額が片隅に追いやられていることを遺憾とされ、その書の品格の違いを解説されました。また、お坊さんも退勤は「下班」と我々と同様の言い方をし、「和尚」とは呼びかけず「師傅」(今では調理師、整体師、運転士もこの呼称)で良いなどという中国語も傍らで学びました。

翌朝は最近の習慣になりかかっている早起きをして、散歩と体操。公園に集う愛好家たちが小枝に下げた鳥篭を覗きながら、鳴き声の聞き比べをしました。朝食を済ませてバスに乗り、道元上陸の地から外灘の旧租界地へ。教会、英国領事館跡などが並ぶエリアを散策。
最後に寧波博物館。2012年プリッカー賞を受賞した王氏設計の見事な建物も然る事ながら、日中交流の展示は熱の入った陳先生の解説と相俟って印象深いものになりました。

倭寇についても、その構成員は多様であり日本人比率は低い集団なのに、何故にわざわざ倭寇(Japanese Pirates)と名乗りを上げたのか?の疑問も半ば解けました。
日宋貿易で博多、敦賀と寧波がそれぞれの窓口となっていた頃、平清盛は敦賀から琵琶湖を経て京都まで水運で繋ぎ、敦賀から寧波を経て運河で杭州や蘇州と結ぶ構想を持っていたと、上述の『人道の港 敦賀』の35頁に書いています。二都を結ぶ二港構想です。
北陸と水運への意識が強くなっていたせいか、5月28日付けの日経新聞文化欄に掲載された「陽明丸のロシアの子を救う」という石川県能美市の北室南苑さんの文章を見逃しませんでした。ロシア革命混乱期の1920年の史実をもとに、茅原基治船長や陽明丸船主の人道的な行動を伝える活動について綴られていました。

「グローバル」という日本語に訳されていない言葉があります(中国語では「全球的」)。古代から今に続く北陸人の姿勢や行動には、マスコミやビジネスシーンで多用される「グローバル」という言葉よりも、ずっと奥深く、壁の低い人道に沿った底力を感じました。

6月4日、敦賀で頂いた英文資料を携えて上海ユダヤ人難民記念館へ行きました。今回は二階の応接間で渉外責任者に接遇されました。以前の責任者の高女史はオーストラリアに移民されたとのことで、若返った責任者の周さんが真摯に対応してくれました。
敦賀の資料説明と杉原千畝の戦後生活、そこに蝶理がからむことを改めて理解してもらいました。敦賀の記念館、岐阜県八百津町の「杉原千畝記念館」との連繋はしていないことを確認できました。

周さんからの宿題として、敦賀に上陸したユダヤ難民の正確な人数、その中から日本を通過して上海に向かったユダヤ人の乗船港と人数を調べて欲しいと頼まれました。

容易ではない宿題の回答をしてから卒業したいものです。                                  (了)

2015年6月7日

「このまま死ぬのならむごいものだねえ」 そして ―有識者会議曰く「首都圏の高齢者は首都圏から出て行け」、とさ―

井嶋 悠

「このまま死ぬのならむごいものだねえ」は、作家・尾崎 翠(1896~1971)が、75歳、故郷・鳥取の病院で高血圧と老衰で全身不随の中、肺炎を併発し、亡くなる直前に大粒の涙を流して言った言葉である。 彼女は、生涯独身で、病を抱えながら身内、親族のために作家活動を横に置いて献身した。

私が彼女を知ったのは、元中高校国語科教師だからこそなおのこと一層の無知・無恥をさらけ出すが、つい3年程前、エッセー『悲しみを求める心』に感銘を受けた時である。 娘が、7年間の苦闘の末23歳で憂き世から旅立って間もなくである。
無知・無恥を更に加えれば、それを機に彼女30代に発表され高い評価を受けた幾つかの作品を読んだが、己れの想像力、感性力、理解力の無さを思い知らされるばかりであった。
にもかかわらず、私は、そのエッセーと年譜から彼女の優しさと哀しみに心揺さぶられ、私の中で、神々しいまでに輝く美しい女性の一人となった。 エッセーから何か所かを書き写す。

(父の死に出会った時)
「私の頬に涙が止め度なく流れた。七年以前のその時から今日まで私はたびたびその時の心に返った。けれどそれは  追憶のかなしみであった。……それは人の死の悲しみではなくてたゞ父の死にむかってのひととほりの悲しみであ  ったのだと私は思った。私は父の死によって真の死を見ることは出来なかった。」

「私は死の姿を直視したい。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすがたが包まれてゐる  のではないだろうか。」

母に「私もこれから先十年のあひだだよ」と言われた時。
「私の頬には父の死にむかった時よりももっと深い悲しみの涙が伝はった。それは瞬間のものであったけれど真の涙  であった。母の心と私の心とはその時真に接触してゐた。私の願ふのはその心の永続である。絶えず死の悲しみに  心をうちつけて居たいのである。……私の路を見つけるための悲しみである。」

私はこれまでに、妹の、父の、生母の、そして娘の死に向かい合った。
エッセーを読んだとき、彼女の言う「母」を、私の「娘」と無意識下に重ねている自分がいた。その自身を確かめたくて2年余り私の言葉を続けている。その文章の優劣とは一切関わりなく。
その営みは、私の教師としての、自身としての人生から、生きることの[真・善・美]が、「悲・哀・愛(しみ)」であると確信するようになっている。
更には、その心映え、霊性こそ日本ではないか、とも思いだしている。
そこに【日韓・アジア教育文化センター】の一つの原点があり、一つの背景があるのでは、と個人的に思っている。

それは、浅学を忘れた厚かましさで言えば、日本の伝統美「もののあはれ」に通ずることとして得心している。
その得心を私に与えた一人、日本文学研究家・山本健吉(1907~1988)の『もののあはれ』では、詩人西脇順三郎(1894~1982)の「詩は存在自身の淋しさである」を引用している。 その西脇は、ヨーロッパ体験を踏まえて「人間が本来の性質にある哀愁感にもどることが一つの大切な文化的精神と思う。」と他のところで言っている。

このことは、奈良時代には稀有な長命(660年ごろの生まれ~733年没)で、今日伝えられる作品が、様々な人生苦を経ての60代後半の作である官僚で歌人(当時、職業として歌人というのはなく、職業化したのは江戸時代以降)・山上憶良の歌、中高校の教科書にもしばしば採用される『貧窮問答歌』の志しにもつながることである。
尚、人々の貧窮を歌った作品は、萬葉集中唯一とのこと。
人々と自身の貧窮の実状を述べた長歌の後の短歌は以下である。

―世間(よのなか)を 憂しと恥(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば―
(注:恥し・仏教でいう自身を反省し、恥ずかしく思う心)

ただ、憶良に共感する私だが、 彼の辞世の歌『士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろづよ)に 語りつぐべき 名は立てずして』(男たるもの、語り継がれる名を立てずに生涯を過ごすことがあってよいものか、の意)のような意思、気概は私にはない。

この賢人たちの生への思いは、生きること・生死一如の葛藤に打ち克ちながら、自然と共に、また人間界に在って、謙虚に生きることの重さ、深さであり、そこに日本(人)を見ようとする意思ではないかと思う。
しかし、今の日本はどうだろう?
これまで何度も具体的に書いて来たので繰り返さないが、私たちの心に巣食っているのは、傲慢であり、独善であり、差別の無意識化で、且つそれに馴致されている怖ろしさであるように思えて仕方がない。
国家予算がアメリカに次いで2位(3位は中国)で、超借金大国で、モノ・カネ物質文明と消費文明を最善とするかのような社会風潮の現代日本。
これは、私の学校教育世界での33年間を、今高齢者となって地方に在住し69年間の己が人生を、顧み・省みることからの私の言葉なのだが、例えば教育と福祉の領域で私と同意見者は周りに多い。
中には、日本をもう一度徹底的に打ち壊し、組立て直すべきだ、と激烈(ラジカル)な言葉を発する人もいる。

そんな折、先日、産業界や研究者でつくる有識者団体「日本創成会議・首都圏問題検討分科会」(座長・元総務大臣)が、以下の事由から高齢者の地方移住促進を提言した。
曰く、
・首都圏の介護需要が、他地域と比べて突出している。
・首都圏の医療、介護の受け入れ能力が全国平均より低い。
・2025年には75歳以上人口が現在より175万人増え、全国の増加数の3分の1となる。
・その2025年に医療や介護の人材が80万人~90万人不足する。

慄然とし、唖然呆然とする。それが副題である。

これは、現状からの将来懸念が数値という客観性で示されているのだが、過去での施策の深謀遠慮と実行経緯の不備、失態の省みがなく、あたかも首都圏在住者の責任のような響きさえ感じられ、同時に地方の人々への温もりもない。
「有識者」とは、この場合政府の諮問的会議ではあるが、一体どういう「識」を「有」する人を言うのだろうか。
また団体名に「日本創成」としたことに、どのような意図が働いているのだろうか。
これは、他のことでも言えることで、「対症療法」は多く提案されるが、根源的(ラジカル)にとらえ直す発想がない。
だから、先の激烈な言葉を、少なくとも私は否定しない。

蛇足かとは思うが、先に書いた「地方の人々」については、地方人=善人といった単純(或いは自虐的優越意識)な発想ではなく、私の今の居住地(栃木県)で聞いた、都会からの移住家族の子ども(小学生)が在地の子どもをいじめるという過去とは真逆の事例が象徴する、現代の差別意識の根底、背景にあることへの疑問から言っている。
と同時に、今もって「同情」と「愛情」の間を彷徨っていて、つくづく愛情の稀薄である私を自覚しているのだが。

立法・行政を担う政治家たちは「私たちは選挙で選ばれた、言わば国民総意の体現者ですよ」と言うのであろう。
しかし、その言葉は、どういう国民を頭に描いてのものなのだろうか。
それは教師が、親が、人々が、「児童生徒学生」を言うときと同様に、そこに発言者の生の価値観、人格が見えない。例えば「グローバル人材育成と海外帰国子女教育」と言われた時と「企業が求めるグローバル人材育成と海外帰国子女教育」と言われた時の違いのように。

18歳選挙権が確定した。
飼い馴らされた20歳以上の一部?大学生・社会人の若者より、厳しさと激しさを未だ秘めている高校生が選挙権を持つことに、私は期待を寄せている。
教科によってはその授業との関連で、或いはホームルーム活動で、課外活動で、思想と現実の政治(政党ではない!)について、結論をせっかちに求めることなく、しかし生徒の時機を逸することなく、各生徒の生の問題として、時に教師が問題提起者となり、大いに議論したら良いと思う。
それは「国民のために」と当然過ぎることを正義派よろしく声高に言う政治家を選ばないことになるし、これも繰り返しの自省として、教師の独善、傲慢の自覚と反省、意識改革にもつながるであろう。
一部で、高校生の政治活動への懸念が言われているそうだが、そのこと自体、理と知だけから人を見ようとする大人の独善、傲慢である。
1918年(大正7年)、詩人・西條八十(1892~1970)が、童謡(唱歌)『歌を忘れたカナリヤ』を作詞した。 その一番の歌詞。

歌を忘れたカナリヤは うしろの山に捨てましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは 背戸の小藪に埋けましょうか
いえいえ、それはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょうか
いえいえ、それはかわいそう
歌を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀のかい 月夜の海に浮かべれば、忘れた歌を思い出す

詩、「うた・歌」。
私自身全くと言っていいほど無縁であるが、先人は31音の和歌に、自然への、人への思いを託した。
つい70年前、太平洋戦争で、日本のために命を散らした学徒兵たちも辞世に際して和歌をしたためた。
そう思って、西條八十(当時、西條は生活苦にあったとのこと)の詞、とりわけ最後の2行を読むと、子どものための歌を越えた大人への警鐘とも取れるのは、あまりに私の取り過ぎだろうか。
その漢字「海」は、1画少なくなって(合理化?)「母」が消えた。

私の中で、やはり「母性」「父性」そして「親性」が、それも日本(人)の、気にかかる。
そんな折、根ヶ山光一編著・氏を含め10人の大学教員執筆による『母性と父性の人間科学』(2001年刊)という書に出会った。学術的予備のない私だが、教えられることの多い書なので各章の表題を抜き出しておく。

1、生物学からみた母性と父性
2、霊長類としての人の母性と父性
3、日本史における母性・父性観念の変遷 ―中世を中心に―
4、母親と父親についての文化的役割観の歴史
5、江戸の胞衣納めと乳幼児の葬法
6、ポスト近代的ジェンダーと共同育
7、発達心理学からみた母性・父性
8、教育関係のエロス性と教育者の両性具有 ―教育学における母性・父性問題
9、同性愛の親における母性・父性

付記すれば、8章は、在職時いろいろと考えさせられることも多く、この問題についてこれまでより踏み込んだ研究があまりない、との筆者の言葉と併せて、より身近な説得力があった。