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2015年8月13日

暴力  思案 ~敗戦から70年古稀・同年生まれの、娘を亡くした一人から~

井嶋 悠

初めに言い訳(開き直り?)を。
暴力とか、性といったテーマは、人間の根源、本質に係ることで、軽々に物言うことではない。
物言うからには古今東西先人の言葉を渉猟して言え、と読書家にして“教養人”は言うであろう。
しかし、天上天下唯我独尊、70年生き、33年間中高校教員(国語科)を務め、娘の死で、人・親・教師についてものの見事に自省を促された私。
天の心配りか、「自身の言葉」が、わずかな水量とは言え間欠泉そのままに湧き出始めた。ほどなく枯渇するであろうが、それでも今は、苦も併せての快を直感している。
教師生活後半で、生徒に対してやっと「生(活)きた言葉」について、彼ら彼女らの表現から具体的に言えるようになった(このことに不遜、独善との批判は当然あろうが、この言葉の私見について、ここではこれ以上触れない)、そのことと同じことを、今、自身に言っている。
ただ、表現(雑感)でのささやかな引用は、老いての恥じ隠し、無知の知など未来永劫ほど遠く、小人の虚栄そのままで、引用範囲の狭小さは如何ともし難い。

1945年(昭和20年)8月15日。敗戦をもっての終戦の日。
私の生年は、1945年8月23日。生地は、長崎市郊外。
教師稼業のいろいろが咀嚼されて来た後半期、最初のクラスで、自己紹介と称してしていたこと。
黒板に、生年月日と生地を書き、何でもいいから気づいたことを話してもらう試み。
「広島被爆から17日後、長崎被爆から14日後、敗戦から8日後、それも長崎市郊外」との、かすかに期待している発言は皆無だった。
多くあったのは、「けっこう年齢(とし)とってんだ(くってんだ)」。
(私は今もいささかそうだが、年齢不相応に若く見られることが多く、この年齢ともなると有り難さ、ご利益(りやく)はあまりない。)

戦争は、それぞれが絶対正義を掲げての最大の暴力であることは、古今東西言われ続けて来ていることである。しかし、暴力を肯定(或いは積極的に肯定)する人は、稀である。
私のような人間からすると、これが人間であるように思える。
愛すべきか、哀しむべきか、恐るべきか……。
そう言う私は、「暴力」を言下に否定する論理もなく、だからと言って肯定するわけでもなく、ことある毎に“私の暴力”について頭をもたげ、しかし今もって明快にいずれとも言えない。
マスコミ等で、「原理主義(者)」「過激派」を悪の権化として一切の疑問もなく暴力集団と糾弾する表現に出会うと、そこに或る作為のようなものを思ってしまう人間である。

「正しい目的のために暴力的手段を用いることを自明のこととみなす」考え方を、「自然法」というそうだが、私の感覚はそれに近いかとは思う。しかし広島・長崎への「原爆」投下はアメリカが言う正義で、これも「自然法」であるとするならば、私は自然法信奉者ではないと思う。

こんな私の、最後の勤務校での体験事例を一つ挙げる。当時、年功序列?で教頭だった。
私はこの事例から、教育の、教師の在りようの一端を見ている。もっとも、当時の校長の姿勢・言葉の方が、一般論として正統であろうが。

授業を終えて部屋に戻る途次に遭遇した、喧嘩中の血だらけの二人の男子高校生。両者を分けて「言いたいことがあるか」との私の問いに、両者ほぼ同時に「あるっ!」。そこで、校長室での両者の言い分聴取。要は常日頃の不仲の会話が発展しての、一方のくどい口(攻)撃に、相手側の堪忍袋の緒が切れて相手の顔面を殴打したのが始まりとのこと。
その後、校長の指示で臨時の学年集会を開くことになり、先ず校長(私より少し若年)からの暴力非難とそのことの哀しみの講話。
そして私から。要点は「人間には限界がある。それを越えた時、手を出してしまうことがある。しかしそこで襲い来るものは後悔と反省の哀しみだけである。」これは、私が観念的概念的になることを意図的に避けたい願いが背後にあってのことである。
その日の帰宅後夜、初めに殴られた方の父親から、教頭たるものが暴力を肯定するとは何事ぞ、との旨の問答無用の非難電話が1時間ほどある。
当然?校長にも私の非難が行き、翌日、やはり校長の指示で、私の謝罪のための新たな学年集会(10分ほど)が持たれ、私は「誤解を生じさせ申し訳ない」と謝罪。
生徒たちが教室に戻る時、私の背後から数人が「先生が昨日言われたことは、私たちよく理解していましたよ。でも何で今日また学年集会?」と声を掛けて来た。私は「誤解を生じさせた」との繰り返し。
初めに殴打した生徒は、その日、登校していなかったが、数日の自宅謹慎後、自身の意志で転校した。

極端な飛躍を承知で、戦争も同じではないか。
慈悲の宗教仏教も、愛の宗教キリスト教も、暴力を拒否し、否定するが、その宗教も人が編み出し、創り出した世界で、キリスト教の数多の殺戮の歴史……。

新約聖書『マタイによる福音書』第5章38節以降では、次のように言われている。

―あなたがたも聞いてのとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。―と。

理念と生身、理想と現実。歴史を思い返せば一層、非常に意味深長な言葉だと思う。

原爆開発(「マンハッタン計画」)に直接従事してはいないが、アインシュタインの日本での言行に見る姿は、大きな光明であり、恒久の平和への可能性を、当時世界の多くの人々が直覚したはずだ。
しかし、現在、9か国(アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエル)が核保有国で「核クラブ」と称され、それぞれの正義からその会員が増える可能性もあるという、その現実が提示することは何なのか。
言葉を繰り返すことの虚しさに“限界”を痛覚し始めているひたすら平和を希う私たち、唯一の被爆国日本は、どうしようとしているのだろうか。
アメリカの核の傘を自明としての「集団的自衛権」行使こそ、政府の言う「積極的平和構築・貢献」ということなのだろうか。

今の私の至福の時の一つは、愛犬と共有の寝床(ベッド)での独り(+一匹)DVD鑑賞で、先日、中国映画『罪の手ざわり』(2013年・監督:ジャン・ジャクー、原題『天注定』・英語題『A Touch of Sin』)を観た。

中国映画には、懸命に生きる市井の人々、地方の人々の、それも女性に焦点を合わせた「愛」と「哀」を主題にした私の好きな作品が多い。(例えば、同じくジャン・ジャクー監督の『長江哀歌』や、『三姉妹~雲南の子~』『小さな中国のお針子』など)
『罪の手ざわり』もその一つで、同時に人間の他への、自への暴力を考えさせる、実際にあった事件を下敷きに創られたオムニバス映画である。
急速な近代化が進む中国社会にあって、その裂け目とも言える狭間で、感受し、もがき苦しみ、或る時思いを爆発させる市井の、別の表現で言えば底辺に生きる4人の男女の、それぞれの物語である。
近代化の正負については、私たちは日本に在って既に身をもって知らされ、知っている。
私は、「同情ほど愛情より遠いものはない」との、大学卒業論文で採り上げた、昭和10年代の癩病作家・北條民雄の叫びに痛撃されたにもかかわらず、今もってそれを己が言葉に為し得ていない貧相な人間であるが、この映画の4人の心と行動に共感し、思考を再び促された一人である。

ジャン・ジャクー氏のインタビューでの言葉を引用する。

―(中国国内での公開機会が与えられないことについて)もう10年以上映画を作り続けているので、それについてはとても穏やかになりました(笑)。今作(『罪の手ざわり』)に関しては、これまでのものを打ち破って作ったテーマで、暴力そのものが中国では容認されない題材です。外国の皆さんは、まず中国当局の圧力を考えると思いますが、保守的なのは社会の問題。観客もまたしかりなのです。受け入れられるかどうかというのは、国だけの問題ではありません。ですから、そういう中で僕はこの題材、方法を選んだので、忍耐強くいたいと思っています。―

ところで、私の限られた鑑賞体験での管見に過ぎないが、韓国映画にも職業(プロ)意識溢れる巧みさ(例えば『猟奇的な彼女』と『シュリ』)に魅了される中にあって、中国映画にはヨーロッパ映画の、韓国映画にはアメリカ映画の香りを感じたりしている。
そして残念ながら、最近、沁(し)み入る日本映画との出会いがない。

皇帝専制史、革命史、一党独裁史……、と日本とは、その国土の巨大さ、多民族等々と併せて、同じ東アジアと言っても日本とはずいぶん感覚は違うが、日本文化の源流に中国文化が影響を与えていることは、誰しも認めることである。もちろん、中国文化の複製でしかない日本文化、といった上下視線からの中国文化・日本文化のもの言いではなく、である。
その中国の、日本での印象は、現在すこぶる良くない。
多くの報道視点には、下品で、良識の無い、金の亡者国家中国、との政治的操作が働いていて、私たち“一般人”はそれを導く政治家、学者等知識人、そしてマスコミ人の術中、思惑に嵌り込んでいるようにさえ思ったりする。
韓国(北朝鮮については、ここで並列することは避ける)報道と併せて、「共生」は欧米圏とのそれで、第2の「脱亜入欧・米」と言うことなのだろうか。

一方で、中国内陸部を中心とした農村部での女性の自殺の多さ(中国政府から公表されていないので、国際機関等からの報告から)に見る、貧困、男女差別の深刻さはほとんど知らされない。
この10有余年にわたり先進国中自殺者第1位である日本が、日本を考えるためにも、もっと問題を共有して然るべきではないかと思うのだが、これも国際社会での危機意識の乏しい能天気日本人ということなのだろうか。

「暴」という漢字をぼんやり眺めていると、どろどろした情念の激しい力のようなものが浮かんで来る。
「暴力」。昼は白日下の、夜は漆黒下の、怖れとおののき。
それに「火」を偏に加えると「爆発」。「水」を加えると「瀑布」。やはり「水」は「上善」……。

因みに、白川静著『常用字解』には、次のように書かれている。

―会意。日と獣の死骸の形とを組み合わせた形。獣の死骸が太陽にさらされている形で、「さらす」の意味となり、さらけだすことから「あばく」の意味となる。(中略)。暴が暴虐、乱暴のように、「あらい」の意味に用いられるようになって、「さらす」の意味の字としてさらに日を加えた曝が使われるようになった。―

本人の意識、自覚の有無は多種多様、いずれにせよ、人は人生の多くで暴力を働いている、と私は思うし、私自身その一人である。だから、70の手習いよろしく自己表現を試み、時に仏教でいう人間の「業(ごう)」の無気味な深さに思い及んだりしている。
このことは、保守性と閉鎖性と権威性が複雑に重なった人間集団の学校[教育]世界での、教師と生徒間で、他世界との比較がないので多いとは言い切れないが、体験から少なくとも少ないとは思えない。
そのあからさまな醜態が体罰だが、「言葉の暴力」は、教師の対生徒、生徒の対教師で、確実にある。
要は、教師の生徒イジメであり、生徒の教師イジメである。
ただ、前者は我がままで、後者は反抗、との決定的違いがあるが。
教師の、教師内で発せられる生徒への、自信に満ちた罵詈雑言など日常茶飯事で、その酷評はいつしかその生徒の耳に届く。ただ、生徒も、保護者も黙って、耐え聞き流しているだけである。学校は人生の通過点の一コマ。楽しいこともあれば、辛いこともある。人生の辛さと較べれば、と。

このブログへの投稿契機の重要素の一つは、23歳で早逝した娘への供養、無念を晴らすことで、その死への原初は、娘・中学2年次でのクラス担任の娘への無視、女子生徒を取り込んでの排斥と言う、身体と言葉の暴力である。その真偽は、卒業直後、3年次の担任からの娘への呼び出しと謝罪で明らかである。
その教師の言葉。「知らなかった。すまなかった。」
この教師の良心をうれしく思う一方で、これが学校組織(教師集団)の現実、限界であるとも思う。

娘が、死の少し前、母(妻)に、父親も含め絶対に他言しないことを約束して初めて打ち明けた旨、妻(母)から聞いた。
私の激しい憤り、悲哀は、母(妻)の淡々さには到底かなわないことを全霊で知り、私は母(妻)の心を推し量るだけである。
娘と母の思いを尊び、事実確認調査とか訴訟といった直接行動は取っていない。ただ、ひたすら理不尽の怒りを伏流水にして、自身を、人々を、社会の過去と現在を、そして願いを書いている。
投稿内容に共感共振する教育関係者もいれば、異論無視する教育関係者もいる。もちろん!後者が多数である。そして、後者の教師たちを、私は徹底的に軽侮する。

私は、親として、元教師として、厳しく自省し、共感共振くださる方々(方でいい)の眼差しを力に、もう少し寄稿を続け、教師が、大人が、率先して謙虚に自問自答せずして、学校は、教育は、その背後にある社会は変わりようがない、との娘と自省から得た確信を伝えたいと願っている。
私の気質、生き様を感知、熟知し、長短すべてを受け容れていた娘は、父親への叱責を横に置き、この投稿を苦笑しながら容認してくれていることと、私は時折遠くにぼんやりと視線を送っていた生前の娘を思い浮かべ、信じている。

それにしても、娘が、「魔」の中学体験後、更に高校1年次で出会った教師不信(先ず教師不信で、そののちのこととしての学校不信)、元教師としてひしひしと得心できるだけに、あまりにも酷(むご)いと思う。これが特殊でなく、稀少でもないことを聞き及んでいる現実。
なぜこのようなことが起こるのか、局所的に、同時に大局的に考えて然るべきではないのか。日本が、文明国で、先進国で、一等国の、伝統ある国との自尊を持っているならば。

2015年8月10日

中国たより(2015年8月)  『暑假日記』

井上 邦久

猛烈に暑い日々、小難しい文章を読んで頂くのも、綴るのも回避したい本音を優先して、小学生のように何日分かの「夏休み日記」をお届けすることで楽をさせて頂きます。

中国語では、夏休みは「暑假」と表現すると随分以前に書きました。中国では「閑」という言葉は良く見かけますが(休閑=カジュアル。閑人免進=立入禁止)、「暇」は見かけません。この場合の「假」はJiaの4声で開放的に発音し、仮とか真実でないと言う場合の「假」は陰に篭った3声です(假幣=ニセ貨幣、假薬=ニセ薬、假的日本料理など色々あります)。

7月11日(晴);
入社したばかりの頃に巡り逢えた上司、とてもお世話になった安田課長を「偲ぶ会」に47名が集いました。4名の幹事役による猛烈に気合の入った準備のお蔭で、会場設営から会の進行まで淀みなく、追想録も充実。日本橋生まれ、小伝馬町育ちの安田さんに相応しい小林清親の朝顔の図を表紙にした追想録には、多くの仲間の文章が盛り込まれていました。
零歳児保育の壁を理解して頂き、急な欠勤を大らかに容認して貰ったこと、小林秀雄の本や六大学野球の面白さを教わったことを綴りました。受付の手伝いをして追想録を手渡したりしました。大声でワシがワシがと熱弁を奮うワシ族とは異なり、安田さんは良い意味での口下手で、爪を顕示しないタカ族でした。多くの参加者が40年前に接した安田さんの姿勢を大切に思っている、そのことを再認識させられた心温まる会でした。

7月16日(台風前夜);
「明日は飛ばないよ。その切子の猪口でもっと飲みましょう」と20年ぶりの方との席で言われました。鉱業会社の要職を勇退されてから、同級生仲間とのハワイアンバンドで活躍。誰でも知っている会場と出演日を教えて貰いました。再会記念に頂戴した切子硝子は奥さんの作品。ご夫婦揃ってのセカンドライフ技に啓発を受けました。

7月17日(台風直撃);
駄目でもともとの気分で羽田空港へ。台風が倉敷あたりに上陸した時分に「羽田への折り返しか、福岡空港への緊急回避の条件で飛びます」とのアナウンスがありました。臆することなく搭乗し、読みどおり無事に目的地の北九州空港に到着。
座り心地の良い椅子のようだった伯父の七回忌が過ぎ、此の度は伯母の49日法要と納骨法要。予想外に早く到着したので、諦めかかっていた田川市石炭・歴史博物館に直行し、筑豊炭田の多くの史料と山本作兵衛コレクションを通じて、地の底に生きてきた人たちのことを想像しました。ユネスコ世界記憶遺産に登録された頃にも放映された、炭鉱の暮らしを描いた作兵衛さんの絵にインパクトがありました。
しかし今回は絵の周りにぎっしり書かれた文章を丁寧に読んで、これこそが実体験に基づく記憶遺産だと感動しました。

7月17日(台風一過);
夕方に中津入り。祇園祭を前に鐘太鼓の稽古の音が、町内ごとにフーガのように流れる古い城下町。
父方の菩提寺の合元寺(黒田官兵衛父子に侵略謀殺された宇都宮氏ゆかりの赤壁の寺)にて、ご住職夫妻にご母堂逝去のお悔やみ「私が子供の頃からオバアサンでしたから大往生でしたね」という本音は不謹慎だったと反省。
鐘の音、寺での語らいに触発されたのか、小さく近くなったように見える寺町、福沢通り、古博多町、京町そして南部小学校へと彷徨いました。生家のあった辺りは、隣家の幼馴染が家業を隆盛にして建てた豪邸になっています。
隣家の兄弟姉妹たちとは、普段は何のわだかまりもなく遊んでいましたが、家に行った時に見つけた軍服写真を金日成将軍だと教えてもらい、三日に及ぶ葬式の鐘や泣き声を聴いて、民族風習の違いを子供ながらに知りました。

7月18日(晴・猛暑襲来);
朝から宇佐へ。伯母の実家の寺で四十九日法要。中津の海沿いの禅寺へ移動して納骨法要。ともに旧知の立派な住職が立派に先導してくれました。ふと自分の故郷はお寺の皆さんだけが繋ぎ留めてくれている、ということに気付かされました。
小学四年の三学期、ある日突然(夜逃げとは本来そういうものですが)馴染んだ世界がなくなり、その後も実に長い時間と距離を置くことになりました。仮に家業が健在であったなら、井上茶舗・春芳園主人として、大阪も東京も知らず、まして上海や北京は無縁の街だったでしょう。隣の従弟が呆れるほど刺身や鱧(ハモ)を食べました。故郷の味でした。

「父祖の地に骨を納めて鱧を喰う」最近のメール句会で何人かの方に拾って頂きました。

7月20日(晴);
早朝、京都からの新幹線、名古屋からは名鉄特急で中部国際空港へ。
天津行きの直行便は順調。空港まで地下鉄が繋がり、途中一回乗り換えで事務所の最寄り駅まで、傘なしで行けるようになりました。
地下鉄駅からオフィスビルや日航ホテルへの通路の雰囲気が何故か暗い理由を駐在員から教わりました。大型デパートが閉店となり、周辺のレストランなども連鎖して転居する人出減少の悪循環の由。
中国各地でデパートや商業ビルが大苦戦と伝えられていますが、どんよりした消費後退と、はっきりしたネット通販の伸張が背景にあるのでしょう。今後は官民一体となっての都市再開発、商業ビルの乱立、それに伴う立退き料の高騰にも変調が起きるかも知れません。

7月23日(雨);
上海では驟雨が続いていました。花屋の譚さんから晩飯を一緒にしようよと誘われました。美味しい上海庶民料理の店かなと思いきや、讃岐うどんが評判の『田屋』を予約したとのこと、聞けば『田屋』のオーナーに長年可愛がられて、色々と助言を貰う関係。門松の初発注者もそのオーナーであり、こちらは二番手だったことを知りました。
折り入っての話はいつもの長男の針路のこと。留学先はどうしても日本にしたいと息子が言う、花好きで勉強嫌いだった息子が家の近くの日本語学校に通い始めたとのこと。東京・大阪・福岡の何処が良いと思うか?と問われても、野球チームの好みで決めるような問題ではないので困りましたが、先ずは上海で日本語の基礎をしっかり作るようにと助言し、翌日には、大連理工大学の蔡教授編纂の日本語教科書を届けました。息子の針路話の次は、花屋経営の将来についての話でしたが、いつもとは趣が違いました。
譚さんは、日本人酔客相手の夜の花束商売は終わったことも、倹約奨励・腐敗撲滅政策で大宴会場や開業式などの需要も当面戻らないことも承知していました。
個人客を待つやり方(請進来)では、少々店をキレイにしても大きくは伸びないだろう、やはり自ら外に出て安定客を掴みにいくやり方(走出去)が大事ではないか、と常識的なコメントをしたところ、譚さんはニヤリと笑って携帯電話の写真集を見せてくれました。
そこには若い女性に囲まれて、満面の笑みを浮かべている譚さんが写っていました。銀行や工場が福祉活動の一環として生け花(挿花)やフラワーアレンジメントの教室を開き、その講師として出向いているとのこと、もちろん助手や材料は店から帯同。皆が同じエプロン姿なのを発見し、問い詰めたところ、自らデザインした黒地に「小譚花店」の白抜き文字の洒落た品でした。
理性消費時代に対応し、サービスと機能で顧客を開拓する姿勢に共感しました。翌日、息子への日本語教科書のお返しとして、エプロンを笑いながら手渡してくれました。

7月25日(曇りのち雷雨);
瞿麦先生を紹介して欲しいとの邦字紙支局長からの要請を実行すべく、ご自宅に同道。1949年に台湾から大陸へ決死の脱出をしてから、日中国交正常化前後の活躍までのことを中心にした話題からでした。
今回は台湾駐在経験もある支局長が台湾語を交えて闊達な雰囲気を作ってくれたので、色々と新しい知見や深い解釈が増えました。近くの喫茶店に席を移しての茶のみ話も愉しく、ついには男三人ながら別れ辛くなって、晩御飯もご一緒しましょうと車に乗った直後に大雨が降り始め、フロントガラスのワイパーが能力超過となるくらいの豪雨でした。何とか(假的でなく真的)日本料理屋に入ったあとも屋根を打つ雨音と雷声が豪快でありました。会話も豪快で、90歳に近い先生の記憶力の素晴らしさと分析洞察力に若い(?)二人も押され気味の愉しい夜でした。

7月26日(快晴);
プノンペンでの開業式に出席する為、香港経由でカンボジアへ向かうべく早朝に浦東空港に到着。ところが、香港行きの機材が昨夜の雷雨のため、到着遅れとなり規定に基づきパイロットは休息中、午後に飛ぶフライトに乗れればギリギリで香港からプノンペンへの乗り継ぎが可能(かもしれない)とのこと。急遽、夜の直行便に切り替えてもらい、一先ず社宅へ。
お蔭で、高校野球の西東京大会、千葉大会の決勝戦を確認できました。更には、前日支局長から贈呈された『還ってきた台湾人日本兵』(河崎眞澄 文春新書)を猛烈な勢いで読了しました。夜間飛行も遅れに遅れ、プノンペンには午前三時の到着でした。

7月27日(快晴);
China +1 with Chineseという方針の結実の一つである専用ラインの開業式。技術指導の大連グループ、工場運営の上海グループそして日本の顧客が結集して日程が進行しました。
移動車中で聞いた上海企業代表の言葉は切実でありました。この歳になって何故に他国の厳しい条件下で苦労しなければならないのか?人民元高、労働法などの政策加速と民間現場の実態との間にミスマッチがあり、我々は外地に「走出去」せざるを得ない。余裕をもって余生を海外で過ごしている富裕層とは混同しないで欲しい・・・                                   (了)

2015年8月3日

2015年:「節目」の八月 ―戦争を知らない、敗戦後第1世代から怒り一寸(いっすん)―

井嶋 悠

七月の不順気候が終わって八月になった。2015年8月。
私が、東北地域と関東地域の境目の地に、“江戸っ子”妻の勇断で移住して10年が経つが、初めて経験する見事なまでの酷暑の日々だ。
“  ”をつけて言うのは、私の知る限りの、その地の風土を醸し出す人物への敬愛表現からである。多くは女性なのだが、理由は分かるようで分からない。そして6歳年上の従姉妹の一人に典型的“京女”を思っていて、やはり敬愛している。

そんな私は、暑中と言うより熱中にあって、高齢の枯淡、閑雅などどこの世界の話?そのままに、いつにも増しての「沸点・短絡」、厭世?感募り、作家・宮尾登美子の代表作、『鬼龍院花子の生涯』の映画化(1982年・監督:五社英雄)で、花子を演じ、急性白血病から27歳で夭折した、かの妖艶にして清華な女優・夏目雅子の、“キレ”セリフを借用すれば、「なめたらいかんぜよ!」の情動の日々。

誰が、誰をなめるのか。一部の?、政治家が、官僚が、学者が、マスコミが、多くの国民を、である。

全共闘世代とは、1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代とのことで、私が学部から大学院に進学した1969年はその中期で、彼ら彼女らの志しに敬意の衝動を感受したが、ただ眺めていた非政治的気質の「ノンセクト」人間であった。 ただ、なぜか新左翼先鋭派に属する先輩後輩をはじめとして、左右両翼の俊秀との出会いを持った一人である。
もっとも、一方で『枕草子』研究の第1人者からは、研究室出入り禁止を言い渡されもしたが。

今、その無政府的(アナーキーな)心は、「老人優待パス」をもらえる年齢になって揺らぎ始めている。
と言うのは、年金生活者、地方移住との環境変化から都鄙を含めた自他への客観的視野を持ち得たこと、
同業の中高校教師が起因の重要素となっての苦闘の7年後の4年前、23歳で天上に旅立った娘のこと、
それを契機に彼女の鎮魂と供養、また無念を晴らすことをも意図して始めた、中高校学校教育体験からの己が整理と学習への衝動、
『日韓・アジア教育文化センター』の[ブログ]への投稿は、ごく自然に、日本社会に、文化に私を導き、日本の現在に、時にはほとんど絶望感さえ襲いかかる。
かてて加えて、33年間の教師世界(私学)で出会った、権威・権力志向の権化にして実践者が、猛暑が一層そうさせるのか、しきりに脳裏を過ぎり、その実践者の同じ人であることを全く忘れた感性が改めて思い起こされ、そこまで人を愚弄するのか、と切歯扼腕(せっしやくわん)することしばしばである。

2015年になって、巷間では日毎に「70年の節目」との言葉が、走り回っている。
私など、先ずそこにいかにも官僚的、観念的臭いを直覚する。
現首相の、「寄らば大樹の陰」の隷属を拠り所にした独善的好戦的志向と他者軽侮、人の生・命への非情(これについては、かの集団的自衛権に限らず、国会等での表情、態度、言葉遣いから明らかで、人間性との原初への疑問、いわんや国の代表者としての不適格に同意する人はいや増している)からの思考と発言が露わになり、それは現天皇の、父・昭和天皇の意を受け止めた哀しみの顧慮との乖離まで囁かれるに到っている。

「集団的自衛権」と「憲法」の問題に関して、異議を唱え、行動している大学生らのグループ「SEALDs(シールズ)」と、さまざまな分野の研究者でつくる「安全保障関連法案に反対する学者の会」に対して、一部の政治家が、官僚が、陰で罵声発言をしているとの由。やはり、と思う。その人たちの行動に参加できないもどかしさ、後ろめたさと重ねながら。

そんな矢先での、首相側近代議士の妄言騒動。
「東大文Ⅰ」卒業の元エリート官僚って、そのレヴェルなんだの再確認と、親族、教師時代、その後で東大卒を何人か知っているからより思い、そういった人たちが日本の針路を決める漆黒の恐怖。
今、テレビにしばしば登場する東大卒予備校国語教師と対談していた或る“自由人”曰く、「要は、文Ⅰ(法学部)、理Ⅲ(医学部)の話なんでしょっ。」の痛烈さと、それに何も反応できなかった「文Ⅲ(文学部)」卒のその教師。

ひょっとして「節目」表現は、どんどん広がる風化への危機感からの意図的警世表現なのだろうか。

私は、以前から「精神文化としての天皇」と「天皇制」を別にして考えていて、しかし今もって自身の言葉を持ち得ていない一日本人であるが、「節目」表現が警世の愛などとは到底思えない。

本籍地京都の私は、1945年(昭和20年)8月23日、長崎市郊外で出生した。大正6年生まれの父が、海軍軍医として長崎に従軍していたことによる。
その父から、当時の軍医を含めた一部軍上層部の「御国のため」!の陰に隠れての放逸や被爆者治療の実態をしばしば聞かされ、世情とは違う“教科書が教えない歴史”から自己照射することで、人間を考えさせられ、また大江健三郎氏の子息・光さんが、父に導かれて広島の原爆資料館を見学し終えた直後に発した言葉「すべてだめです」に、激しく揺さぶられた一人として。

私が、55年前、高校で(某国立大学付属高校)で学んだ、中国大陸での、韓国朝鮮での、東南アジアでの日本軍の暴虐とそれを示す写真は、その時の先生方は何を目的に指導されたのだろうか。
沖縄の本土防衛「捨て石作戦」とは、一体何だったのか。辺野古問題に際して、私たちは何を思っているのだろうか。
各地への米軍大空襲は、そして広島・長崎の原爆投下は、「勝てば官軍」の戦争倫理、正義なのだろうか。
1941年12月8日、小中高校の国語や社会の教科書にしばしば採り上げられ、それぞれの世界の歴史に名を刻んでいる作家・詩人また思想家・学者の「感嘆」表現について、私たちはそれらをしっかりと受け止め、思考を深める作業をしているだろうか。
東京裁判等で絞首刑を宣告された一部戦犯の、例えば辞世の歌に見るその身勝手、独善について、私たちはどれほど厳しく、自身の事として、とらえているだろうか。
多くは、その事実の知識だけではないのか。やはり「生きた言葉」に思いが及ぶ。

人間が“人間的”!?に生きて在る限り戦争が無くなることはないと言う。
今も地球の各地で戦争が繰り広げられ、それぞれの当事者・国が、また支援者・国が、絶対正義を声高に叫ぶ。戦争という公認大量殺人が、狂気とはならない、それどころか正義とさえ賞讃される不条理が、永遠の正義なのか。
そろそろ世界が揃って「限界」の悲鳴を挙げ、人間の醜悪さから脱出できないのだろうか。
文明の進歩、文化の発達は、途方もない勢いで前に進んでいるように思えるが、一歩内に立ち入った時、気づかされる違和感、後退の自覚はないのだろうか。

現首相やそれを支える官僚、学者(曲学阿世)、マスコミ人は、中国、北朝鮮、ロシア更にはアラブ地域からの日本攻撃の可能性を(暗に?)言い、アメリカへの隷属なくして日本の存立なしを説く。
そのアメリカ軍基地が、日本国内、沖縄を筆頭に、青森、東京、神奈川、山口、長崎にある。
隷属はそれら基地への攻撃誘導、と考えるのは、世界情勢を知らない甘い感傷なのだろうか。

オリンピックのゴタゴタも然り。(そもそも何で日本《東京》招致?は、以前投稿した。)
地球規模での自然保護、自然との共生、そのための人の心掛け、決意が言われているにもかかわらず、金に物言わす下卑、ていたらく、とそれを推進し、影響力を誇示する「何であの人が」とほとんどが思う不可解な人物に見るあまりの時代錯誤。世界への恥発信。
にもかかわらず、日本は、世界のリーダー、を繰り返す厚顔。

幾つかの私学を経験しての行き着いた一つの実感。「伝統は金では買えない。その伝統を活かすも殺すもそこにいる人間。」
日本の伝統とは何で、それが人の、地域の、国の生にどう有効なのか、小中高校学校教育でどれほど大局的、継続的に考えられ、実践されているだろうか。断続的知識の教え込みで終始していないだろうか。
そして教師は、時に子どもも保護者も異口同音に言う。「そんな時間はない」
伝統とは直接結びつかないとは思うが、現在32歳の息子が小学校時代、学校内行事の一環で、野坂昭如氏原作『火垂るの墓』のアニメを3回か4回見せられ、感慨が薄らいだとぼやいていた。

以前、ブログで、私を教師に導いてくださった高校時代の恩師のことを書いた。
その中で紹介した教師赴任にあたっての師の言葉の一つ。「教室では、廊下側に視線を向けて始めよ。終わりころには外窓の方に向いていて、結果、全体を見渡せる。人間は向日性の動物だからな。」
これを、微笑みの好感を持って受け容れてくださった読者があった。
政治家は、官僚は、学者・教師は、生活も、福祉も、教育も、陽の当たる所・人から始めているように、自省を込めて、思えてならない。
そして、アメリカは、欧米はその光源のようにとらえられ、憧憬の限りなき対象となる。

何度も繰り返される、「忙しい」の[忄(心 ]+[亡]の真理と警鐘。
子どもたちは、あまりに忙しい。忙しくない子どもは、取り残される? 山岳・森林60%、居住地40%の、島国日本での、大学の大衆化の目指すところとは裏腹の都鄙による様々な格差。
少青年期だからこその鋭敏で瑞々しい感性、想像力を削ぐ忙しい日々刻々。地域、経済格差。知識の多寡が優秀を決める暗記万能がなおも生き続ける。
大学の序列化の加速への教師、大人の無責任。
「中高大、塾なくしては進学なし」の、地域、家庭の経済格差が、進学実績につながることが当然とする麻痺。

2015年、敗戦後第1期生、戦争を知らない第1世代の、1945年(昭和20年)生まれは、古稀の「節目」を迎える。
出発世代としてもっと声高に怒っても良いのではないか。
そのことに定年、引退などあろうはずがない。

薄氷の張り付いたジョッキで、ギンギンに冷えた生ビールが呑みたい。
(現住地は、豊饒な自然が当たり前にある車社会で、妻の送迎なくしてはこの願いは叶わない。何事も一長一短……。)
居酒屋のカウンターで独り、天候不順の先月七月に眼にし、耳にした二つの光景[ぼろぼろになった翅を閉じ、微動だにせず休んでいたアオスジアゲハ]と「明け方雨中の4時過ぎに10年かけて地上に現われ、ひたすら鳴き続けていたヒグラシ」を思い起こし、
40年ほど前、「打ち震えるほどの感動」に襲われた、村上鬼城の「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」の句を噛みしめながら。
映画のワンシーンの、セリフのない、横姿だけの一人になったつもりで………。