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2015年9月30日

小さな国際人・大きな国際人 そして、おぞましい国際人 ~私のささやかな「国際」体験から~ [その1]

井嶋 悠

《今月(9月)中に投稿したく整理したが、いささか長くなったので2回に分けることにした。ただ、今月のトピックの引用が[その2]のため、次回、場合によっては違和感をあたえることになるかもしれない。》

 

私は国際人ではない。そのかけらもないと思う。かと言って、狭隘な国粋人でもないと思っている。 後で記すように、英語が、外国語ができないから、との(或る意味単細胞的)理由ではなく、私に「際(きわ)」に生きる意思力、精神力がないからである。しかし、いろいろな巡り合わせから「国際」に縁ある学校世界(3校)や難民センター経験(日本語教師)を重ねた。 今回はそんな人間の「国際」についての私感である。 娘は、そのようなことに考えが及ぶ前に早逝した。生きていたらあれこれ話ができたかと思う。残念だ。

国際(化・社会)は「国」を前提とし、グローバル(化・社会)は「地球全体」を前提とする用語かと思うが、いずれにせよ“絶対”という傲慢に細心の注意を払いながら、その用語の再確認或いは自問(再自問?)を通して、日本の現在を再考する時に迫られている、と重ねて思う。
私の言葉の土壌は、とにもかくにも「国際」を意図した、私学中高校の国語科教師(専任としては3校)を心棒にした多様でスリリングな33年間であり、「子を持って知る親の恩」を、「良妻は夫を良夫にする」(元は英語のことわざのよう)を身をもって知る晩稲(おくて)も甚だしい古稀を終えた70年間の人生である。 とにもかくにも? この言葉には、いささか不穏な響き、私の傲慢が出ているとは思うが、やっと私の「国際」が言えるようになった、その軌跡でもある3校での心に強く刻まれ、考えることを促した体験事例を挙げることにする。

[尚、「帰国生徒」「帰国子女」の二通りの表現について、後者の「子女」の字義から前者を使う傾向が多い が、「子女」の意味には男女あり、前後の文脈から私の単なる感覚で両語を使っている。]

このことは、虚栄と慢心が増幅する世にあって、呻(うめ)く大人や子どもが、静かにしかし激しく内に、内に向かっていると直覚する現代日本での、公教育の限界と、今も続く学校(一部の教師/生徒/保護者)の独善と驕慢への、娘の死に到る発端者である同業の中高校教師の一人としての、痛切な自省ともつながっている。
言い古された言葉「カネ・モノ・ヒト」のヒトとは、どんな“ひと”を言っているのだろう、と。

一つの学校は、名称に「国際」はない伝統と優秀生徒を誇る中高大併設女子校で、英語教育(中でも中学校)では、この100年変わらず日本随一だと、門外漢とは言え私は思っている。 その高校に編入した帰国生徒第1期生(アジア〈日本人学校〉・アメリカ〈現地校〉・ 中米〈日本人学校とインター校〉からの痛罵。「この名門校が、何で国際!?」

【私見】
独善と権威志向(例えば、人を学歴から判断する指向)の生徒に耐えられなかったのだろう。いわんや、高校からの編入ゆえ、中学で難関入試を潜り抜けて来た自負高い生徒から白眼視を受け、一層強くなったことが想像される。
3人の生徒たちは併設の大学に進学し、帰国子女教育に係る卒論に取り組み、指導教授からの依頼もあって、当時、校務で帰国生徒担当をしていた私は協力者となった。
彼女たちは、帰国子女教育で常に問われる変革の期待を込めた課題「学力観」を、自身の海外での生活体験、学校体験から問うたのであり、そこから「なぜ、世界を視野に生きる女性の育成を目指し、明治時代に創設(創設者はアメリカ人女性宣教師)された学校が改めて『帰国生徒受け入れ校』として名乗りを挙げたのか」と提起したと考えている。
それから30年余り経つ。学力観(私の場合、国語学力)はどう変わっただろうか。旧態のままで学力評価が行われている、と言えば言い過ぎだろうか。「AO入試」なるものが採用されて20年以上経つ。当時、心ある大学教員は、既に小論文等での表現の画一化を指摘していたが、塾講師も含め教師指導法での、己が“雛型づくり” は変わったのだろうか。大同小異ならば、なぜなのだろうか。

尚、学園は「高校からの受け入れ」を10年程続けたが、内部改革等々もあって退いた。

 

一つの学校は、創設都市からのイメージと時代様相を読み取った戦略から「国際」を冠していたが、実態は塾との裏提携とも言える“典型的”新興(女子)進学校である。

【私見】
1991年新設期に夢を抱いて異動。しかし、学園組織上副校長(実質は校長)を中心とした閉鎖性、独善性による異常なまでの現実志向!に耐えられず2年で退職。帰国生徒、外国人生徒受け入れを言ってはいたが、あくまでも現実志向からの言葉に過ぎなかった。
尚、その総合学園学校法人理事長で仏教徒の先生とは人間的接点を直覚することがあって、 退職後も交流が続き、理事長最晩年、「遅すぎることだがいろいろなことが明白になった。」と私に悔悟と謝罪を言われ、1年前、還浄(げんじょう)された。
保護者達からも疑問、不信と改革の希望が提示され、私は微妙な立場に立たされたが、既に退職届を提出していて、何ら働きを為し得なかった。
そのことと言い、理事長とのことと言い、《現実》の複雑さを思い知らされたが、それはあくまでも個人的学習であって、家族への犠牲は甚だしく、にもかかわらず家族の献身的支えがあって生き長らえることができた。

 

一つの学校は、「国際」を冠する、1学年75人前後の、帰国生徒と外国人生徒を主対象に、一般生徒(この表現には未だに違和感があるが、他にないのでこのまま使う)を加えた私学中高校と、インターナショナル・スクールとの、1991年に創設された日本で初めての協働校である。
基本的に教科、課外活動は、英語力によって可能な限り両校生徒の合同クラスが作られ、英語によって行われる。また、その逆のインター校生徒の「国語」への参加もある。
インター校は、外国籍(日本との二重国籍も含む)が原則の、英語が第1言語学校社会(幼稚園から高校まで)で、日本語は「JS(JAPANESE AS SECOND LANGUAGE)としてあり、そこに5名ほどの日本人日本語教員が在籍する。
小学校(或いは幼稚園)から国際バカロレア[IB]プログラムを採用している。
この協働体制は、当時、教育界、研究者間では「新国際学校」と称されていた。 私の場合、中学3年次の「国語」に出席していた生徒(日英の二重国籍)とその生徒が高校2・3年次、他の生徒とともに、IB最終課程「日本語」上級クラスを担当。

【私見】
先の退職後、何という幸い!いろいろな人びとの救いを得て2年間の浪人生活の後、最初の専任校の退職時校長の尽力で就職。48歳の阪神淡路大震災の直前である。
そこに到るまでの留学生やインドシナ難民への日本語教育の経験を重ね、その協働校で自覚した「国際」。 得た糧はあまりに多く、多様で、それは際限なく思い起こされるほどで、ここでは教職員・生徒に分けて、1,2の体験(具体的事例)だけに留める。
鮮烈と清新さで胸に迫って来たことは、日本側に所属した帰国子女であり、外国人子女であり、そしてインター校関係である。
ただ、残念なことに、私は、日本側の当時の校長との軋轢、と言うよりは幾つかの限界を痛覚に自覚するに到り、妻の理解を得て、定年1年前59歳で退職し現在がある。
それから10年、私の退職後、某私学法人に統合され、現在「新国際学校」と言われることはない。

〔インター校の教職員との交流〕
○以心伝心から言葉へ? 言葉から以心伝心へ? 初めに人がある? 初めに言葉がある?
バイリンガルであろうとモノリンガルであろうと(私は後者で、英語力は40年余り前の公立中高 校の英語中レベルで、一方インター校で日本語が理解できる人はごく少数)、相互理解は先ず人 があってのことを知る。言葉の前に人であり、そこでの直観力の大きさである。  そして、心割って話せる英語話者の、イギリス人、アメリカ人、オーストラリア人、カナダ人、  またアジア系の人を知る。

二人の英語母語者の言葉を引用する。
「あなたの公立教育英語で十分。後は必要が発達を促す。でしょ!?」

「ここは日本。日本語ができない、学ばない私に責がある。時間的、体力的に厳しい。でもこれは言い訳」(この人はインター校の人望篤い女性校長で、後にアメリカに帰国し、大学院に進学。
私は、一時期、年功序列で教頭職に就き、2週間に1度の両校の管理職会議に出席。常に両校の日英(米)バイリンガルの専門秘書(二人とも日本人女性)が通訳として同席していたが、私が私の英語力を詫びた時の言葉。

 
○契約社会の厳しさ。 教員たちは9月から翌年6月までの契約が基本で、終身雇用制ではない。
あくまでも個人の力量が判断され、且つどのような教員派遣組織から着任したかは、彼ら彼女らの矜持に関わる。
協働校のインター校はIBプログラム採用校でもあり、アメリカに本部を置く信頼の高い組織から派遣されている。 だからこそ教員の評価監察は非常に厳しく、2,3年に一度、学校現場教員からの本部への報告に基づいて、権限を持った人間が来日し、意見を聴取し、面接が行われる。これは、管理職、一般教員区別なく行われ、私の在任中二人の校長が契約解除となり、二人は次の職場探しに奔走していた。
とは言え、日本の終身雇用制を善しとする人はほとんどなかった。
それは、帰国子女なる英語がないことと通ずる。世界を幾つも観て最後母国に還ることが自然という風土が為せることだろう。

ここ何年か、日本国内の一部でIBプログラム採用が、期待をもって語られている。声高に言う人の中に見受けられる西洋偏愛性のことは今触れないが、現在日本の教員意識と小学校(場合によっては幼稚園)から高校までの敬意をもった相互信頼関係の変革なくして採用は至難ではないかと思う。 人あっての理念であり、その実現である。
そもそも小学校入試段階から塾の力なくして入学なしの日本でできようがないと思う。もっとも、既にIB対応の塾が、国内外にできているが。

〔生徒との出会い〕
日米二重国籍生徒と10年余りのヨーロッパ三カ国生活の帰国生徒(共に男子生徒)との出会い。

○日米二重国籍生徒
父がアメリカ人(黒人)で母が日本人。ニューヨーク生まれ。外見は父親。その父親が音楽家(ギタリスト)で、その資質を受け継ぎポップ系のダンス等に関心を抱く。幼少時代の冷やかし、差別的言葉等つらい体験を経て、中学校から入学。少し落ち着く。(このような生徒の親が、日本で子どもが安心して行ける日本の学校はここぐらいしかない、と異口同音に言うのをしばしば聞いた。)
私と彼との出会いは高校生の時。3年次、某私立大学主催の「小論文コンテスト」があり応募を薦め、見事入選。
その表彰式で、某テレビ局が取材に来て、女子アナウンサーが彼にインタビューした時の様子。

――「ニューヨーク生まれですか。カッコイイ!!英語もペラペラ?」とたたみ掛け、彼は 表情を変えることなく、ただ黙って頷くのみ――    このインタビュー、その女子アナウンサーだけのことではないと思う。テレビでの同系の軽薄さは、今も枚挙がないのではないか。しかし、これを軽薄と取るのは、若者の感性についていけない偏屈な大人と言うことなのかもしれない。
ニューヨークで映画修業をした日本人の若い映画作家が言っていた。“まずい状況”に陥っている若い日本人も多い、と。
このことは、海外帰国子女教育に携わった者は、ニューヨークまたアメリカだけでなく、いろいろな地で、親も含め様々な問題を起こし、抱えている日本人があることは周知だと思う。

○ヨーロッパ(スエーデン・ドイツ・イギリス)に10年在留した帰国生徒
彼との出会いは高校2年次。 温厚な表情とは裏腹に批判的洞察力が鋭く、独りで行動することを尊ぶ。海外で日本向け学習に消極的だったこともあり、大学入試では苦労する。 幾つかの私立大学の説明会に積極的に行き、某私学の志に感銘し、帰国生徒枠で受験し入学。
しかし、日々の講義を通して知る、一部教師・学生の志と現実の乖離を体感し失望する。 何とか卒業するも就職はままならず、その過程で精神療法的なことに関心を寄せ、修練を積み、正業とするまでになるが、家庭的にも困難な問題を抱え、生活安定までには行かず、強い批判精神と自己信頼で克服を図ろうとしつつ、現在31歳になる。
彼が在籍中、保護者会と教員との集まりで、彼の母親は強い口調で訴えた。
「私たち大人(親)は良いんです。逃げられる場所があるのですから。子どもたちにはないんです。」
この言葉は、今も私の中で強く響いている。

旧知の教育研究者との会話で、統計を取ったわけではないので単に印象論に過ぎないが、帰国生徒の 心の不安定は、女子より男子の方が多い旨言ったところ、関心を示された。
進学の不安と在籍校の現状、家庭環境、また海外在留体験の相違等、幾つもの要素を吟味しなくては ならないが、ここ数年、母性と父性に関心を寄せる私としては、その研究者の関心視線と重ねて確認できないか、と思ったりする。 その研究者は『異文化教育学会』に所属している。

海外帰国子女教育は日本を映し出す縮図である。そして国内の学校世界は、国内の政治・社会を見事なまでに映し出す。 否、学校社会が、政治・社会を創り出しているのかもしれないが。

体験を幾つか書いた。 そして私の「国際」とは、結局簡単なことに落ち着いてしまう。「際」である。 際に生きることは難しい。或る際と或る際に生きる厳しさ。先の学会の間(はざま)に視点を持つ視座。
イギリスとは違った自然、風土にある島国日本の歴史。意図的に他国との共生を生きようとするならばまだしも、自身の意思とは関係なく生きざるを得ない場合。それも幼少時に。
以前、シンガポールのガイドが言っていた言葉が思い出される。「日本人は羨ましい。日本語だけで生きようとすればそれができる。私たちはマレー語と英語と中国語ができなければ生きて行けない。」

自国と他国での体験、人々との出会いから自身の源泉[最近の用語で言えばアイデンティティ?]を探し求めながら、自己を生き、活きる生。求められる意志強固な強い精神力。それに向かう人が「国際人」。
このことは、国際との大きなことではなく、日々の家庭、学校、職場、地域に在っても同じだと思う。 民族、人種、文化等、何の偏見もない自然な対面があってこその異言語、異文化への理解であろう。志が高ければ高いほど必要な高い研鑽。
だから私はそのような老若男女に接する度に畏敬する。そして私の知る限り、そのような人は国際人であることを誇示しない。そもそも自身を国際人とは思っていない。古来、東西そうであろう。

2015年9月18日

2015年・敬老の日/お彼岸の“シルバーウイーク” ――母性と父性に再び思い巡らす――

井嶋 悠

「親に先立つは不孝」
先立たれた親は多い。私もその一人である。娘が3年前、23歳の時に天上に旅立った。私が67歳、妻が65歳の時である。既にその経緯やそこからの教師観、学校観は書いたのでことさら立ち入らないが、娘の死は「非業の死」であり、だからこそ私を襲う。

「孝」

白川 静『常用字解』での解説(要約)。
――長髪の老人を横から見た形「老」に、子どもが老人によく仕える意味。孔子に始まる儒家は、礼教(儀礼と教化)の基本の徳目として最も重んじる。――

その孔子は次のように言っている。
――孝悌(こうてい)(弟)はそれ仁を為すの根本なるか。――『論語・第一巻・学而篇』
(孝行で従順だなと言われること、それが仁の徳を完成する根本といってもよかろうね。)
〈貝塚 茂樹訳〉

道徳(倫理)に乏しい私ではあるが、娘の一事を以ってして三つの疑問が湧く。罵詈雑言を受けることを承知で記す。
一つは、子の、孝行したくともできずに死を迎えたことの苦しみはどうなのか。
一つは、死を迎えたことで得た安らぎ(永久(とわ)の眠り)との見方は生きて在る者の驕りなのか。
一つは、孝行される親・老人はどれほどのその対象となっているだろうか。

私は今も自問する。
孝行されておかしくない父親であったかと。娘の最晩年の、私と母への感謝の言葉を知るとはいえ。

これは、中でも上記三つ目は、教師・生徒についてもそのまま言い得ると思う。
人の世に“絶対”などあろうはずもなく、大の大人が「みんな」と言う軽薄さを思い知るから、すべてから尊敬・敬愛を受ける教師はいないとのこととして、である。
だから、私を教師生活に導いた、高校時代の恩師の、私への次の助言は大きな支えとなった。もっとも、師の言葉を十全に自身のものとするまでには相当の時間がかかったが。

「授業終了時に、お前の顔を見ている生徒が、3分の1以上あれば大成功と思え。」

ただ、娘とは違って、今では自問することはほとんどない。それは、尽きせぬ後悔は私の中を廻り続けるが、それでも私なりにやり遂げたとの幽かな自尊があるからかもしれない。

そんな折、「釈迦は慈父、弥陀は悲母なり」という、親鸞の先輩である聖覚法印なる高僧の言葉に触れた。
子に喜びを与えたいと願う父のこころと子の苦しみを除きたいと願う母のこころを言っているとのこと。
慈悲の宗教仏教にあってなるほどとは思う一方で、どこか自然に沁み入らない私がいる。

そこには、幼少時の体験がどこかで影響し、私の一部分になっている中で、
鈴木大拙(1870~1966・禅を核とした仏教学者)の説く「欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。(中略)父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。」(『東洋的な見方』)に直覚的に心揺さぶられた私が、
教師生活の初め17年間奉職した学校が明治時代にアメリカ人女性プロテスタント宣教師によって新しい時代の女性育成を掲げ創設された学校での毎日の礼拝や校務等から学んだ私が、
明治維新以降の近代化の落伍者の私が、
そしてそれらの複合の私があるからなのか、と思ったりする。

礼拝で必ず生徒たちと共に歌った讃美歌に、そのメロディの甘美さも手伝って私も愛唱する曲『讃美歌312番 いつくしみ深き[What a Friend We Have in Jesus]』がある。その歌詞は以下である。

いつくしみ深き 友なるイェスは / 罪科(つみとが)憂いを 取り去り給う / 心の嘆きを 包まず述べて / などかは下ろさぬ 負える重荷を

いつくしみ深き 友なるイェスは / 我らの弱きを 知りて憐れむ / 悩み悲しみに 沈めるときも / 祈りに応えて 慰め給わん

いつくしみ深き 友なるイェスは / 変わらぬ愛もて 導き給う / 世の友我らを 捨て去るときも / 祈りに応えて 労(いたわ)り給わん

イェスは父であり、その父はひとり、私たちの重荷を、悩み悲しみを慰め、労わる、いつくしみ(慈しみ)深い存在と言う。
母マリアは、少なくともプロテスタントではほとんど登場しない。
キリスト教は人としての原罪、罪を言い、先の讃美歌にあるように、生きることの苦しみの自覚は仏教と同じであるが、仏教は母を、すべてを受け容れる存在として積極的に言う。そしてそれは生きることへの大きく、不可欠な支えとなる。

釈迦の柔和な表情とイェスの柔和な表情はどこかちがう。釈迦は同時に母であるが、イェスはどこまでも父であるように私には映る。父には慈父と厳父との言葉があるが、母は慈母だけである。

人は、命あるものはすべて母から生まれ、大地・大海、母の元に戻る。その死は、キリスト教では神の下への旅立ちであり、仏教では成仏(仏となる)への旅立ちである。
そこにキリスト教の父性と仏教の母性を観る。男性/女性とイコールに結び付けるのではなく、思う。

そして、日本は母性の国だと思う。だから私が如きは明治維新以降の、戦後の高速欧米化について行けないのかもしれない。これは落伍者の言い訳であり、ごまめの歯ぎしりである。それでも、江戸時代・文化への共感者の増大は、私のような心の持ち主がいるのではとも思ったりする。

聖覚法印は「悲母」と言う。「悲」心を引き裂く。母は子のその苦しみを除く。しかし、すべてを受け容れることで守ることの積極性を私は思い、そこに母の「哀しみ」と「愛(かな)しみ」を見、美を直覚する。
古稀を迎えたこともあるのか、最近、乳児を胸に抱いた或いは背にに負うた母子の姿は、一切の例外なく美しいと思う私がいる。
私は直接に度々あった「教育ママ」は否定するが、母性の極度の異常な変形と見られなくもない。ただ、父母に区別なくある「モンスターペアレンツ」は、母性とか父性とは何ら関係のない、虚飾日本の或る象徴のように思える。

最初に孔子の言葉を引用した。『論語』には心引きつけ、自省を促す言葉が多い。孔子は理知の、合理の人であると思う。
それに引き替え、老子は直覚(直感)の人と思う。
老子は「無為」を唱える。無為にして有為、有為にして無為ほど強い意志力・心の力を求めるものはない。だから老子から永遠、自由の心象が広がる。Aのゼロ乗が1になる不思議さのように。更に老子は「上善は水のごとし」「柔弱は剛強に勝つ」……と言い、「大道廃れて仁義有り。慧(けい)智(ち)出でて、大偽有り。六親和せずして孝子有り。国家昏乱して忠臣あり。」と。
「玄のまた玄(黒、すべての色が混ぜ合わされた色・黒、奥深い神秘性、玄人(くろうと)の世界)、衆妙(あらゆる妙(たえ))の門」と第1章で言い、第6章で「玄牝の門、是れを天地の根と謂う」と言う。

老子は母性の人で、孔子は父性の人だと思う。
更に駄弁を加えれば、内面は風貌に表われる。老子は母で、孔子は父で、老子の姿は私の愛する動物・森の哲人オランウータンの母子の風体に相通ずる。

昔、中国では家の外に出れば儒教、家に帰れば道教と言われていたそうだし、文化大革命で儒教は否定され孔子廟など破壊されたが、近年、儒教の再興が進んでいると言う。進み過ぎると再び老子の出番になるのではないか。

人と合理と非合理に思い及び、合理が不得手の私は、そこから「ことばとこころ」のことを考え、例えば「以心伝心」といった表現に愛着を持つ。ここでも現代コミュニケーションの周回遅れの指摘を受けるとは思うが、時代に合わせば自身の寂しさが募るばかりであろう。
教職最後の10年間務めた、日本唯一のインターナショナルスクールとの協働校での、イギリス人の「私(たち)はアメリカ人ではない。人との対話ではいつもどきどきしている。」との言葉は、「転がる石に苔むさず」と同様、安堵させられた一人ではある。
因みに、キリスト教ではことばは神(唯一絶対の神)であり、その神は父性・男性である。

今年の敬老の日とお彼岸がある週はシルバーウイークと名付けられ、それはいぶし銀の銀であり、娘が好んだ銀でもあり拙文を重ねた。

私の卒業小学校は、東京都大田区内の公立校で、幾つかの懐かしい思い出の一つに音楽の鑑賞がある。音楽教師はいつも三つ揃いを着た40歳代の、今で言う“おネエ系” の紳士で(60年ほど前のことなので記憶違いかもしれないが)、鑑賞中、うっとりして机に伏せている私の頭を軽く叩き、仰ぎ見る私に頭を横に振って注意された。
その音楽室に何人かの作曲家の肖像絵が貼ってあり、音楽の父・バッハ、母・ヘンデルと書いてあったのだが、何年か前、映画『アマデウス』を観て、その子がモーツアルトとすればなるほど、と音楽上のことは楽譜も読めない私で分からないが、人間的なことで妙に得心した。

私は、クラシック音楽の古典派(クラシック)とバラード系ロックを好んで聞くが、その中でヘンデルのアダージオやラールゴはことのほか心の琴線を揺さぶる。
いつかそんな私の音楽体験から、母性と父性と私と日本といったことで(いささか大仰にして誇大妄想も甚だしいが)投稿できればと思ったりもしながらシルバーウイークを迎える。

2015年9月4日

中国たより(2015年9月)   『済州島』

井上 邦久

この6年上海から、或る時は東京と、或る時は関西との往還を繰り返して来ました。日本からの復路はおおむね瀬戸内上空から九州へ、国東半島を左に見て中津・行橋を真下に、博多湾、唐津湊を経て、福江島上空を通過後に上海へ向かいます。フライトマップの画像では、上海に向かって右手に済州島が示されていますが、残念ながら目視できません。

関西での学生時代、在日コリアンの友人から教わった済州島のこと、金達寿や金石範の済州島を題材にした『玄界灘』や『万徳幽霊奇譚』などの小説から知ったことは、ときどき記憶の奥から甦ることがあります。

また劇場では見逃した韓国映画『国際市場で会いましょう』を、最近になって飛行機内で二回観ることもできました。大戦後の南北離散、経済困窮時代、西ドイツへの炭鉱労働者や看護師としての出稼ぎ、ベトナム戦争軍役参加など韓国戦後史を行き抜いた男とその妻の話です。昨年、韓国で大ヒットしたというこの作品には日本の影は出てきませんが、この映画を通して同時代の日本、そして在日コリアンのことを思い出しました。

この春、平凡社ライブラリーの一冊として増補出版された『なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島4・3事件の記憶と文学』(金石範・金時鐘著 文京洙編)を読んで、改めて1948年4月3日の済州島での武装蜂起、それに対する徹底した弾圧粛清や予備検束について系統だって知ることができました。とりわけ、済州島脱出と日本への密入国を経て、きわどく生き延びた金時鐘氏の長い沈黙の重さが印象的でした。

済州島での事件についての詳細は省きますが、巻末資料に掲載されている盧武鉉大統領の済州4・3事件58周年記念慰霊祭でのスピーチ(2006年4月3日 済州4・3平和公園)を一部引用して、当時の韓国政府の姿勢をお伝えします。
「国民の皆様。誇らしい歴史であれ、恥ずかしい歴史であれ、歴史はあるがままに残し、整理しなければなりません。とりわけ、国家権力によって恣に行われた過ちは必ず整理して、乗り越えていかなければなりません。国家権力はいかなる場合においても、合法的に行使されなければならず、法から逸脱した責任は特別に重く問われなければなりません。同時に、赦しと和解を口にする前に、やりきれない苦痛を被った方々の傷を治癒し、名誉回復をなさねばなりません。これは国家がしなければならない最小限の道理です。そうしてからこそ、国家権力に対する国民の信頼も確保でき、相生と統合を言うことができると思います。」 (同上書307頁)
自らの言葉で、自らも内容を信じて、簡潔に述べられた談話だと思います。

 
対北朝鮮国境に貿易地区=大橋開通目指す?

【北京時事】新華社電によると、中国遼寧省政府は7月13日、対北朝鮮国境都市の丹東市に両国の国境地域住民が商品を取引できる貿易地区を設置する方針を明らかにした。既に承認されており、10月から運営するという。

鴨緑江を臨む丹東市の国門湾に設置され、約4万平方キロの土地に交易や物流、検査などのための施設を建設する。丹東は中朝貿易の最大の経由地。国境から20キロ以内に居住する住民だけに貿易地区での交易が許され、北朝鮮の国境住民と商品の取引が可能となる。1日8000元(約16万円)以内なら関税などが免除される。

貿易地区が設置されるのは中国が新たに鴨緑江に建設した「新鴨緑江大橋」の中国側起点。大橋はほぼ完成しており、昨年に開通する予定だったが、北朝鮮側の事情で開通していない。中国側には貿易地区の運営開始とともに、大橋の開通を目指し、中朝の国境貿易を活発化させる狙いがあるとみられる。

数年前から定期的に遼寧省丹東市を訪問して、丹東の提携工場との打ち合わせとともに、北朝鮮の動きを色々と教わってきました。特別区の設置や労働者派遣の話が観測気球のように上げられては、その都度「北朝鮮側の事情で」頓挫してきました。その間に丹東の工場の競争力が下がり、一部をカンボジアの工場へ移管することにもなりました。上記記事の動きが具体化するかどうか、中国から30年遅れた対外経済開放政策に北朝鮮がハンドルを切るか?そして丹東が「東北部の深圳」として変貌できるか?

過去の経緯からみると、楽観的にはなれません。しかし、板門店で神経戦をするよりは、丹東と新義州の間を流れる鴨緑江を脱北ルートの川ではなく、溝通(コミュニケーション)のカテーテル(パイプというには、8000元/日という免税対象の規模からして憚られます)にしてもらいたいと考えています。

7月末にカンボジアから上海に移動、二日に及ぶ会議に出席してから31日の深夜に関西空港に移動しました。8月1日午後、茨木市土曜倶楽部の拡大セミナーで会員講師を務めました。幸いにも定員一杯となった会場で、熱心な眼差しを受けながら話しに熱中しました。猛暑日の昼下がりにもかかわらず熱中症気味の方はいなかったと思います。

同じ8月1日から、同人三人による文音歌仙(かつては手紙やファックス、今はメール活用による連句)が始まりました。先達のお二人に指導を受けながらですが、何とか36句を繋いでいます。最初の句を発句といい、終わりの36句目を挙句といいます。

ことほど左様に、7月は過密日程、8月はその反動でゆっくり。

高校野球と昨秋からのオーバーホールの仕上げ、その他は静かに過ごしました。

印象に残った書物は、矢野久美子『ハンナ・アーレント』(中公新書)、三浦しおん『舟を編む』、武田泰淳『司馬遷 史記の世界』(講談社文庫)そして『火花』でした。                                             (了)

2015年9月4日

老いの繰り言? 義憤? 或いは 結晶性知能[crystallized intelligence]を自戒に

井嶋 悠

9月1日は「防災の日」、とのことを私70歳・妻68歳「へー、そうなんだ」と顔を見合わせて3日経つ。

「災」、例によって白川静著『常用字解』で字義を確認する。
もちろん、私の或る魂胆があってのことで、[…巛は水災、洪水の災難(わざわい)をいい、それに火を加えて火災をいう。のちに災は水災・火災だけでなく、すべての「わざわい」をいう。]とある。
期待に当たらずとも遠からずながら、「すべての」との表現に救い?を得る。

自然災害突き詰めて見れば人災、とさえ思うほどの明治維新以降の近代化、人間の前に天は、自然は跪く(ひざまず)との人間絶対志向の世、日本、地球に過ごす老一人の牽強付会……。
私は、自身を、物心ついて以来1970年前後の「全共闘」時代も含め非政治的であることを善(よ)しとし快として来たが、ここに到って「反」政治的な自身に開眼?しつつある。
もちろん、「老いの繰り言」との苦笑また時には冷笑は重々承知しているが、私の中では悲憤慷慨、義憤にも似たものが沸々としている。
こう決定的に思うに到ったのは、先日の総裁・首相無投票再選の報に接した時である。

人間営為による終末的様相をこれほどまでに突きつけられれば、この憤りを人の人たる哀しみに溢れた自然な発露と誰が否めようとさえ、思っている。
これは、教師経験からの言葉で言えば「絶対評価」としてであって「相対評価」ではない。
1993年以降、日本を源流に、韓国の、中国の、台湾の、日本語を学ぶ人、教える人を核にして、『日韓・アジア教育文化センター』なる活動を、時と共に必ず生ずるそれぞれの言い分あっての離合集散の人間関係を経ながらも、何人かの熱意の賜物、今も何とか続けている。
その過程で、「母国愛から母国批判はするが、他国の賞讃はすれど批判はしない」との信を自得している。

あまりに酷(ひど)過ぎて、馬鹿馬鹿し過ぎて、哀し過ぎる。
それに若い人たちが、無気味なほどにおとなし過ぎる。なんでそこまでして大人に、追従し、挙句の果てに政治家にやりたい放題させるのか。仮に生きるための面従腹背としても、過ぎたるは及ばざるではないのか。

形容語はそれを使う人の価値観の投影。だから現政府の施策、その哲学を支持する人々40%の真逆に私はある。
もっとも、そういう人たちからすれば、「政治とは非情冷酷なもの、おまえがごとき文学部出の芸術好きなボンボンのおセンチになど付き合ってられない」と言うことなのだろうけれども、私は私。
無惨を実感する事象を、多くは既に投稿しているので、重複承知で敢えて列挙する。

永 六輔氏の次の言葉を我が身に引き寄せて。

――「若いんだからしかたがないって、怒るのをやめちゃっちゃ、何のための年寄りだかわからないよ。怒ってなきゃダメだよ、年寄りは」

(その職人の言葉への永氏の一言。
「最近、年寄りがほんとに怒らなくなりました。もうあきらめちゃったんでしょうかね。」)――

[『職人』岩波書店・1996年刊より]

ところで、この書で永氏は「職人」と「芸人」を並列して書いている。
大して話術力もなく、白々しい作為的表情で、ただただ騒々(わわ)しくはしゃいでいるだけの芸人が、都心の高級マンションで生活し、そしてそれを認めている観客、その双方に、終末的怖ろしさを直感している私としては、永氏の自然な良識を見る。さすがだ。

 

○現首相は、己が名前を冠した「アベノミックス」や「三本の矢」を「津々浦々に」と意気軒昂、得々とまくし立てていたが、地方は、多くの国民は実感していると思っているのだろうか。

――実感している人は、少なくとも私の周辺には誰一人いない。そもそも自身の名を冠する傲慢。
この構想をお膳立てし、支えた学者たち(曲学阿世)は、今、何をしているのだろうか。多くは大学教員だが、意気揚々と学生に持論と功績を講義しているのだろう。
少し前のことだが、私の好きな落語家三遊亭小遊三さんが、寄席落語の枕で、「この節、寄席に来て下さる方はお金持ち」と話し掛け場内微妙な空気が流れた時、師匠の戸惑った表情が忘れられない。と同時にますます好き(ファン)になった。――

○女性の社会参画の数値目標提示要求に見る相も変らぬ男社会観。

――量より質。女性も男性も自問自答、謙虚にあるべきではないか。私の無理な!?人生からの自省。
ネオナチズムの日本人リーダーとツーショットに及んだ二人の女性の、政治権力を持つ党・内閣の要職者の、本人を含めた事後説明とうやむやに見る薄気味悪さ。
それとも現内閣及び与党は、ネオナチズムを公認しているということなのだろうか。
その延長上に、アメリカ絶対正義の安保法制があるのだろう。――

○先進国中第1位を10年以上続ける自殺王国日本。「子どもの貧困」が6人に1人。沖縄等米軍や発展途上国世界への予算編成、資金援助(時に無償供与)での億単位の支出。その契約のための首相直々の1回平均数千万円使っての歴代第1位の外遊数。にもかかわらず財源不足を社会福祉に重ね増税等の国民負担の強要。更には国民一人一人の金融資産を含めた管理統制の強化。

――この感覚って、国民をコケにした虚飾と傲慢の最低の品性、精神的貧困ではないのか。そのような人たちが国を動かす危うさ、空怖ろしさ――

○塾あっての小中高大進学が当然、必然そしてそのための教育費の高騰。西洋社会の学校教育への未だに続く偏愛。そして大学進学率が50%を越え(2人に1人が大学生)、大学格差は以前にも増して確定的。それぞれの関門(入試)の個性重視を謳う方法でさえ画一化。学力テストと入試。不登校。生徒間、生徒教師間、はたまた教師間のいじめ。自殺。

――予算補助、カウンセラー等の加配で事足れり、では収拾つかない現状。学校教育・社会からも「国の在り方」が問われている。にもか
かわらず、自己体験ゆえの自省と自己嫌悪から明確な、今も聖職世界を矜持しての学校社会=教師の閉鎖性、保守性、権威性、独善性。
子どもを実験台にした、机上遊び(官僚性)改革。子どもは大人の自慰的駒ではない。
フランスに起源を持つ「国際バカロレア」教育を、高校での上級日本語指導を直接に、また通信で経験した者として、例えば、日本の「横断的総合的」教育の頓挫とその原因究明もなく、実践も研究も、また運営も未経験で夢と理想を語る人がいるが、軽薄で劣等感の日本人を思わずにはおれない。(ダジャレを一つ。語るは騙る?)
有名学校(主に中高校大学)に入学したその一事だけで、自己研鑽意識もなく卒業し、その学校名を笠にした一部(?)の独善と自信、とそれがまかり通る人生、社会への甘え。
海外在留子女保護者の、国内インターナショナルスクールの日本人保護者の、一部(?)の傲慢。――

○2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けての途上でのほころび。世界陸上等での、謙虚さを完全に外に遣った余りの井の中蛙的礼
賛と自己満足的応援。

――ここにも露わになっている言葉の弄び。責任の所在をうやむやにする説明と責任回避。結果が出るまでの独善と傲慢と、結果が出てからの評論と予算請求と選手育成と言う名の統制管理。――
やはり、繰り言、愚痴でしかないのだろうか。義憤と言うにはおこがましいのだろうか。

 

養老 孟司さんと玄侑 宗久さんの、現代日本・日本人を斬る的な対談『脳と魂』(筑摩書房・2005年刊)の中で、養老さんは、結晶性知能[crystallized intelligence]と老人の明智について触れている。
クリスタルのようなインテリジェンス。何と美しい響きと内容の世界だろう。

[結晶性知能について、書では次のような注が書かれている。

加齢によって発達する知能。計算力は暗記力など、ほとんどの知能能力は20歳ころをピークに衰える。これを流動性知能というが、それに対して、一般的知識や経験を総合した判断力、理解力など、状況に対処する能力は高齢になるほど発達するとされる。]

ただ、老人の言葉=結晶的知能ではない。当たり前のことだが。世には老人を御旗、楯にした傍若無人を知っているし、それを他山の石としてのことである。

この注を押し広げて考えれば、高齢になる前に様々な理由で死を迎えた人々も、その個の尊い歴史から時間の長短とは関係なく結晶性知能があるはずで、その感知は受け手の感性と想像力の問題ではないかと思う。

元教師として、教師は「教える・育てる」は言うが、「教えられる・育てられる」を言う人は少ない、とこれも自省を込めて思う。
教師は、それぞれの校風、方針等で営まれている学校の、眼前の多様な生徒によって創られる。
抽象的語法での、学校と教師と生徒で語られることではない。
「25人学級3クラス1学年」でも不平不満をこぼす教師は多い。それは、多忙な教師時間の中で、具体的個別的に教育に取り組もうとしているからなのか、それとも教師の傲慢からなのか。

 
私には一切の気配りや分別なく、心静かに、心委ね、話せる老若男女が、既に天上に在る人も多いが、幸いにも今も何人かいる。
その中の或る方(今年傘寿を迎えられた私の今も良き理解者で、現在も教育世界で要職にある女性)と、わずかな時間であったが、古稀を迎えた今夏、再会することができた。深い喜びを心に刻んでいる。