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2015年10月31日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅱ  恐山

井嶋 悠

恐山は、青森県下北半島のほぼ中央に連なる外輪山の一つ釜臥山(標高879m)にある、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場、霊場である。戦後、死者の霊を呼び戻すイタコの口寄せが行われ、全国的に有名になったが、寺(菩提寺)とは無関係で、イタコが常住しているわけでもない。

このイタコがもたらすこととは関係なく、そこに足を踏み入れた瞬時から、覆い漂う霊気の神秘と幻想が、多くの人々を寡黙にする。私たちのように、死者を想って参詣する者には、寡黙を一層強く迫る。
その一人私は、己が知識と知恵を棚に置いてのことながら、33年間の職業(中高校教員)も手伝ってか、近代合理主義の疲弊と疑問を直覚すること多く、とりわけこの数年人間の原初性と知に関心が向きつつあるからなおのことである。

その菩提寺の本坊は、むつ市にある、不立文字、以心伝心を旨とする禅宗・曹洞宗の円通寺との由。因みに井嶋家の菩提寺は、京都市中の曹洞宗寺である。

恐山を開山したのは、9世紀の高僧で、禅宗の祖と言われる達磨(だるま)大師を尊敬する慈覚大師円仁で、中国・唐で研鑽修業中に夢で告げられた霊場として帰国後苦難を経てこの地を見い出したとのこと。
これは、あくまでも伝説で、円仁は下野の国(私たちが今居住する栃木県)出身ということもあってか、天台宗の東北地方浸透に伴って、大師が開基また中興したと言う寺は162寺に上ると専門家は指摘する。後で引用する松尾芭蕉の『奥の細道』での名句「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」を生んだ地、山形県・立石寺もその一つと言われている。

前日泊まった青森市の東10㎞ほどの浅虫温泉から、左に陸奥湾の海や本州最北端のJR大湊線を、右にかの六ヶ所村を観ながら、広々とした地を走ること120㎞ほど、むつ市の田名部という町を過ぎると間もなく林道に入り15分ほど紅葉頻(しき)りの山間(やまあい)を行く。すると、忽然との言葉そのままに、硫黄の臭いに覆われ、草木や生き物の姿のない白石の積み重なった一帯が、片寄せあって並ぶ山門と社務所、一軒の土産物屋と蕎麦屋の木造の建物とともに現われる。恐山である。 山門をくぐって一帯に入れば、本堂とお守りなどを扱う小屋、板塀とわら葺だけの温泉小屋がある。

昨年と同じく、否、年々突出的に強まって行く、娘(3年前に23歳で逝った娘と、37年前、病の母に命を託して水子となった娘)の、妹の、父母の面影が、凛とした安らぎに包まれた私の心を過(よぎ)って行く。
事前に購入しておいた華やかな彩りの風車を持って、石灰岩の白石の道を、地蔵尊、観音像に向かって、死者への冒涜を承知の表現をするが、あたかも火葬後の骨々を踏むかのような乾いた音を聴きながら、上って行く。清澄に晴れ渡った空、秋の風が吹き抜け、幾つもの風車がからからと回っている。
今朝、浅虫温泉で浸かった温泉から見えた海から下北半島に掛かる虹といい、自然の、天の私たちへの心遣いに深く感謝しながら。
私たちも像の前に風車を挿し込み、幾つかの小さな白石で抑え、手を合わせ、静かに死者を追慕する。

山上から見下ろす白石と先の建物群、そして水脈に火山ガス(亜硫酸ガス)が溶け込み、酸性値が高いため生物の命を育まないがゆえの透明極まりないカルデラ湖宇曾(うそ)利(り)(アイヌ語で窪地の意味)湖と碧空が醸し出す、無機的であるにもかかわらず有機的な温もりの風景。

このような場所は××地獄(谷)といった言い方がされる。
この恐山の栞も次のよう記す。「……火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞえられ、……」

私がそこに、「地獄」の言葉が浮かばず黒白(こくびゃく)の深(しん)玄(げん)とした極楽に在る、そんな安らぎにただただ沁(し)み入るのは、老齢による要らぬものを削ぎ取って行く道筋にあるからなのか、それとも生者の、しかも人為と虚飾に溢れた、都市消費文明に浸り続けて来た老人の驕りの為せることなのだろうか。

今日(こんにち)、「古稀」はかつての「還暦」の感覚の時代を迎えているが、心身そのものは科学等々で容易に変容しないものとみえ、私はふと老いを実感し、死について、或いは死への道程と臨終の己が姿を、時に激しい不安と恐怖で思い描くことが増えている。
そんな私は、玄としての極楽を描きながら、7年間の心身の苦闘から解放された3年前の4月11日、娘の静穏(せいおん)そのものの微笑み漂う死に顔を思い起こしながら、恐山の白石を踏みしめる。通り抜ける風と乾いた踏み音。

この恐山と同じ風景の地が、私たちが10年前から居住する栃木県にある。
今から300年余り前江戸時代、俳諧の完成者・松尾 芭蕉が、46歳の時、弟子の曽良を伴っての東北(陸奥(みちのく))の旅で立ち寄った地でもある。これを基に、5年後、俳文旅行記『奥の細道』が出版される。尚、芭蕉はその年、51歳で他界した。
23歳で亡き人となった娘も好きな場所の一つで、自宅から車で20分余りの地である。

『奥の細道』のその個所を引用する。

――是より殺生(せっしょう)石(せき)に行く。(中略) 殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。――

 

付近一帯には硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒ガスがたえず噴出しており、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古くから知られている。

私は子供のころから理数系科目とは関わりたくない一人で、科学についても非常に疎いが、上記の科学的説明になるほどと思いつつも、「殺生石」誕生秘話伝説に想像が広がる。曰く、

平安時代、帝(鳥羽上皇)の寵愛する妃に「玉(たま)藻(も)の前」という美女がいた。彼女は、インド(天竺)、中国(震旦・唐)から飛来した9つの尾を持つ、白面金毛の狐の化身だった。彼女の本朝(日本)を滅ぼす野望も知らず、帝は一途な愛を捧げ、病にふせるようになる。その時、陰陽師が彼女の正体を見破り、那須野原(栃木県)で滅ぼされる。彼女の怨霊は巨大な石となり、毒気を発し、辺りの生き物の命を奪い続けた。やがて、高僧が教化し、石を砕き、石は各地に飛び散り、その本となったのが、芭蕉も訪れた那須の殺生石である、と。

狐は、古来、人を化かす悪いイメージで、例えば英語圏では、狡猾、偽善、腹黒いものとして言われる。(『英語 イメージ辞典』三省堂 より) しかし、日本では英語圏同様人を化かす、騙す一面と同時に、田(稲作)の守り神でもあり、また稲荷神社が示すように神的な、畏敬の対象でもある。そして、その狐伝説では、メス狐がほとんどで、それがあって私を妖艶な世界に誘う。
もうはるか昔のこと、旧知の萬葉集研究者と、「私は狐顔の女性に魅かれる。これもマザコンの証し(母親は狐顔だった)なのかもしれない」、その旧知の人物の「僕は狸顔に魅かれる」といった会話をした私ゆえ、艶麗(えんれい)、妖艶さがより強くなるのかもしれない。

先の「九尾の狐」について言えば、中国の史書では、鳥羽上皇を悩ましたように、絶世の美女へ化身した悪い狐として扱われるが、一方で、しばしば瑞(ずい)獣(じゅう)として登場し、一部の伝承では天天界より遣わされた神獣であると語られ、平安な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴として描かれているとのこと。

火山地帯の同じような風景の、青森・恐山と栃木・殺生石。
前者の信仰文化と後者の説話文化、また前者の本州最北端と後者の北関東の自然風土の違い、それを前にした人のそのときどきの心映えの違いから、自然は人に無常、無限の暗示を与え続ける。
或る表現を試みれば、静謐の生としての恐山、激越の生としての殺生石。静と動の生、人生。

そして今、私は昨年と同様、否いや増しに、恐山に想像がかきたてられる。
下北半島の冬は凄まじい。豪雪と海からの嵐が襲う、私などの軟弱な都会人の想像を絶した冷厳の世界。待ち焦がれる春。限られた夏の謳歌。秋から冬への慌ただしい移行。何かの縁でそこに居住することになった老若男女の、苦汁が圧倒する日々。
にもかかわらず、恐山への道すがら、生きるに必要な私の最小限のモノと以心伝心の人だけに整理し、途次に点在する民家の一つの住人になる喜悦を思う私がいた。
妻にそのことをほのめかした時の、私を知悉する妻の深謀遠慮の言葉。「私はいいわ」
まだまだと言いつつ終わるのも人間らしい……、と言う不遜、罰当たり……。
恐山には三途の川も用意されていた。

 

 

2015年10月23日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅰ

今回の構成

 

前 置 き

その1:遠野・花巻

 

 

前 置 き

井嶋 悠

昨年に続いて今年も、下北半島・恐山に、車一台、妻と愛犬と共に行った。
娘への、恐山の神秘と自然の下での追慕と鎮魂のためである。今年も突き抜ける青空が広がっていた。ひたすら天に向かい、娘と姉(長女)また妹を、更には父と実母の面影を追い、感謝した。
娘が天上に旅立って3年余り、長女は37年、妹は18年、そして父は17年、実母は10年が経つ。

私は、今夏、古稀を迎えた。
孔子曰く「……70にして心の欲するところに従いて矩(のり)を越えず(常軌を逸しない)。」因みにその10年前、60歳は「耳順」。
貝塚 茂樹は、「矩(のり)を越えず」を次のように説明する。

[自己とは意見を異にする人がいることを認め、その人たちの考えをすなおにきいてみる心境に達した。]と。(『世界の名著「孔子・孟子」1966年』)
氏の説明の鍵は「すなおに」であろうと思う。老人は、憂き世を生き抜いて来た矜持がよほど強いのか、なかなか他者の言葉を聴き入れない。老いの面従腹背。
様々な縁(えにし)で今私たちが住む地は、首都圏からの“リタイア”組が多いのだが、その人たちの首都圏人生の自負が一層そうさせるのか、移住組だけでの領域(テリトリー)墨守も多く、土地の老若の、そのことへの感受性鋭く、堆積された理不尽な屈折も加わり、静かに憤慨させている。先の面従腹背を裏返したそれ。

そう言う私も移住組と同じ穴のムジナ。大都市圏での、いわんや元私学有名!?中学高校国語!教師!
だからこそ、可能な限り言葉(話し言葉)を慎み、己が尊大の空虚さに今更ながら苛まれるくだらなさに陥ることのないよう自重している。改めて知る言葉の力、怖ろしさ。
確かな“孤独愛”への、私なりの理知から感への途次。はてさて意識確かな内に間に合うのやら。

かように今もって「無」の絶対にほど遠い小人の身ながら、親として、教師として、自省内省すること甚だしく、勢いは幽かな間欠泉とは言え、60数年間とは違った肌触りで言葉(その質は不問)が湧き出して来る。娘の23歳の死がそうさせているとしか思えない。
そして、書き言葉、と言うよりただ文字を、「美は寡黙な老人にあり」を承知しつつも、いたずらに重ね始めて2年余りが経つ。

内容に「異」を言う人も当然あるが、共感し、共振する人もある。棄てる人あれば拾う人あり。
それを書く力に、「人たちの考えをすなおにきいてみる心境」などどこ吹く風、と言うより議論を忌避することますます強い一方通行を、老いの厚顔と我田引水を、続けている。

こんな人もいる。

今も現役で夫君共々、東京都内で会社経営をする小学校同窓生は、共振と励ましの一人で、現実の過酷さと向き合って醸し出された言葉だけに、“深窓”的別世界の元住人には一層の励みともなっている。

或る時、「異」に係る他者との交わりの寂しさを言う私に妻が言った。(妻は娘の一件以降、教師不信と嫌悪を決定的にした中高校美術科教員有資格者である。)

「いくら旧交ある人でも、異ならさっさと自分から離れなさい。そんな暇がある歳?馬鹿馬鹿しい。」

然り。妻は2歳年下である。

そして、私の中で、もう会うことのない人が増えている。しかし、私に会うことにやぶさかでない、私が会いたいと思う人があることを願う私がいる。勝手なものだ。妻には言えない。道、半ばの証し?

以下、そんな私に、秋の“みちのく旅”の道すがら、過ぎった幾つかの覚え書きである。
いつか、この覚え書きが、覚え書きのままでいいと言ってくれると当て込んで、桃源郷籍となって時間を超え飛び交う肉親たちへの心ばかりの土産になれば、と思ったりしている。
心身双方で無理かな?

 

その1:遠野・花巻
【柳田 国男(1875~1962)・遠野物語・佐々木 喜(き)善(ぜん)(1886~1933)・宮沢 賢治(1896  ~1933)
そして高村光太郎(1883~1956)】
この話題での中心は、『遠野物語』の源泉者・佐々木喜善で、彼を伝える小さな記念館との偶然の出会いが、すべての端緒となっている。

私は、資料館、博物館の類を訪ねるのが、非常に限られたもの(例えば、原爆資料館は、大江光さんの言葉や原民喜の作品に深く心揺さぶられているが、海軍軍医として長崎に赴任し多くの被爆者の治療に当たった父から、医師や軍人等一部上層部の非人道的行為を聴いた者として訪ねることに非常に抵抗がある。)以外関心が向かず、中でも作家や詩人といった文学者また学者・思想家といった人々のそこには足を踏み入れようとする気持ちが全く起こらない。
それは、作品から想像の愉しみを享受した者として、あまりに整理された展示等にある人為性への反発なのかもしれない。
しかし、佐々木喜善については、柳田国男著(聞き書き)説話集『遠野物語』制作の礎者(いしずえしゃ)で、後に柳田国男と対立、決別した理由に共感したということで、作家等々とはいささか事情が違っている。

花巻のコンビニで、こんなものを見た。これほどに立派なそれは初めてで壮観でもあったが。
それは、駐車場にあった、高さ10m、幅20cmほどの案内搭で、そこに記されていた言葉。

[萬鉄五郎記念館・宮沢賢治記念館・高村光太郎晩年居宅記念館・柳田国男記念館、の方角と距離。]
(萬鉄五郎〈1885~1927〉は、一般的には特別知名度は高くはないかもしれないが、フランスに端を発する美術運動「フォービズム(野獣派)」の、日本での中心的働きをした洋画家。青年時代、高村光太郎とも交流を深めている。花巻・東和出身)
その多少は別に、4人とも私の中にある人たちで、思わず苦笑した。

ところで、いつもの横道。
4人中、宮沢賢治と妹トシ、高村光太郎と長沼智恵子。やはり女性あっての男性の創作を改めて思う。何を今更との叱声を承知で。

 

資料館関連で、昨年、貴重な体験をした。

法隆寺を訪ねた際、資料館内の百済観音像を前に、周囲へ気遣いの視線を送りながらも毅然と独り手を合わせていた地方からの中学修学旅行生男子との出会い。その姿に圧倒され、瞬時に敬服した。
きっとあたたかい生徒たち、教師たちに恵まれて、奈良の旅を楽しんでいたに違いない。
この想像は、他人の勝手に過ぎないのだが、娘の一事があっただけになおのこと、彼が、周りの同窓生たち(生徒たちはグループ行動)が、更には心温かい先生方が想像され、輝いて見えた。

 

娘の一事については、このブログで、何度か触れているので繰り返さない。娘は母親譲りの、終始一貫、嫌にして反・しつこさゆえ、なおのことである。
しかし、哀しみと憤りが消えることはない(あり得ない)。時には一層の激しさで襲い来ることもある。

本題に戻る。

柳田国男は、中学高校(時には小学校も)の国語や社会で、また時には音楽で、採り入れられることの多い日本の民俗学の祖であり、同時に高級官僚で、明治、大正、昭和の3代にわたり大きな足跡を残した人である。
確かに、私の中で、古代日本女性の存在感を著した『妹の力』や、広く愛唱されている『椰子の実』につながる『海上の道』、はたまた日本の国語教育への提言等、幾つか心に刻まれているが、冒頭に記したようにここで彼の業績を解説することが目的ではない。もっとも、そんな器量はないが。

ここで記すことは、佐々木喜善の記念館(河童伝説の発祥地と言う今ではあるかないかのような小さな小川、保存建物としてある一軒の曲屋(まがりや)、それに物産館等合せて600㎡ほどの、遠野の中心街から少し離れた地の一角にあった60㎡あまりの実にささやかな記念館)に出会えた幸いについてである。
これを幸いと思わしめるきっかけは、『遠野物語』読後に出会った、五木 寛之氏の「『遠野物語』に秘められたもの」(『日本人のこころ 2』2001年所収)である。 2か所、引用する。

――遠野の冬は長い。おそらく遠野の山村の人たちは、深い雪に包まれる厳しい冬を生きていくなかで、みなでゲラゲラと笑ったり、華やぐために、そういう面白い話、 (これは、この記述の少し前に書かれている「あそこのおじいさんはちょっと変わった死にかたをしたらしい、というような話。あるいは、男女の恋愛関係のどろどろした話。そして、エロティックな話。」を指すと考えられる。〈井嶋〉)
色っぽい話、エロティックな話を大事にしているのだろう。
私が知っている遠野以外の東北各地の伝承のなかにも、その種のあからさまな話がたくさんある。
しかし、『遠野物語』のなかには、なぜかそういう話はあまりでてこない。(略)
ところが、そういうエロ話をしはじめると、メモを取っている柳田の表情が曇る。眉間にはさっとしわが寄る。それを見た佐々木は、「柳田先生はこういう話がお好きじゃないんだな」と察したに違いない。あわてて話を適当なところで端折る。――

――(保存されている、佐々木の口述を聞き取ったりする滞在旅館の一室の豪華さに関して) なるほど、民俗学者であると同時に高級官僚だった柳田が、遠野にたびたび来て泊まったのはこういう部屋だったのか、と思ったものである。――

前者の引用について、
佐々木 喜善著『遠野奇談』(2009年刊)の、編者・石井 正己;1958年生、『遠野物語』等研究者の解説から引用、補足する。

――……柳田を中心とした民俗学が確立し、…そのようにしてアカデミズムに向かうことが最優先されると、佐々木は民俗学の先駆者として評価されても、次第に忘れられてゆきます。それに伴って、佐々木が柳田に反発するかのように書き残した文章は異端視され、切り捨てられてしまったのです。

《注》(井嶋):
この『遠野奇談』では、「悲惨極まる餓死村の話」など、『遠野物語』では採り上げられていない物語が集められている。  また、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視した、同じ民俗学者・宮本 常一(1909~1981)は、柳田の学閥からは無視・冷遇された。しかし、1980年に刊行された『忘れられた日本人』は、非常に多くの人々から激賞された。

その佐々木喜善は、晩年に、居住地が近くにあった宮沢賢治とも交流があったが、同じく貧窮の中、47歳で、賢治と同年に没した。

どうであろうか。

故郷(ふるさと)の人々の、佐々木喜善への、優しさ、温もりが迫り来る。
と同時に、 私学中高校の一教師体験からの内省、自省から、ここでの強く激しい、しかし静かな反骨を表わす言葉は、「アカデミズム」であり、「官僚(的)」であると思う。

字義を国語辞典で確認する。[新明解国語辞典〈第5版〉三省堂]

「アカデミズム」:官学における講壇的な学風や芸術活動における伝統的、高踏的作風。

「官僚的」:官僚一般に見られる、事に臨んでの独善的な考え方や行動の傾向。具体的には、形式主義・ 事なかれ主義・責任逃れの態度。

例えば「性」の問題。
人間が等しく持つ根源的普遍的な問題。しかし、それを言葉にすることを下劣、野卑、淫靡、無恥とする、言葉=理知との“近代知”の考え方、感性への浸潤。
と言う私は、間(はざま)で蠢(うごめ)き、幼少からの家庭、学校、社会での教育から、あっけらかんとした自然体指向を羨む一人で、だからと言って明日から豹変?すれば単なる「エロ爺」。やはり“近代人”?

五木氏も恐らく同じかと思っているから氏に共感する私がいるのだろう。

尚、五木氏の文章には、保存された柳田常宿のその一室の写真が掲載されていて、やはり五木氏と同様「ひなびた粗末な宿を想像していた」私は、「なるほど」と得心すると同時に、一層足は遠のく。

しばしば話題になる「人と業績」ということなのだろう。そして、私は「最後は人柄よ」に、かすかな望みを託しているが、そもそも託すること自体が下卑……。
先を急ごう。

佐々木喜善と親交を結んでいた花巻出身の宮沢 賢治。
街にある、ありとあらゆるものすべてが宮沢賢治、の様相を呈していて、その人が哀しみに溢れた人生と創造に命を賭した偉大な人だけに、観光商業化云々の前になるほどと思ったりする。
その中の一つに、小高い山の斜面の一角を切り開き、宮沢賢治を愛する国内外の人々の拠点にもなっている現代風(モダン)な記念館施設があり、その近くには宮沢賢治が憧れていた英国風の庭園が設けられている。 紅葉期ということもあってか草花の彩り、種類は限られていたが、ガーデニングという言葉が日本語のように使われ、ホームセンターでは草花や樹々の、また野菜の苗が、多種多様に売られている今日、彼が今在れば嬉々として光り輝いていたに違いないだろう、と花壇や菜園生活に生きる力を得ている私は想像をめぐらせていた。

その私も宮沢賢治に魅かれる一人で、20代後半に、高校時代の恩師の高配から、半年間(9月から翌年3月まで)の、しかしそれが33年間の正業になるのだが、或る伝統私立中学高校教員に就くこととなり、校長を訪問した際、次のような荒唐無稽の発言をしたことを思い出す。

校長「すまんね。半年間だけで。その後はどうするんだ?」

私「宮沢賢治が勤めていた学校のような地で、教室入退時には窓から出入りしたりして、そんな学校、それも木造の、教師になれたらどんなにか幸せかな、と思っています。」

(因みに、その伝統校で専任教員として採用された数年後、高校への外国人留学生(毎年2,3人が留学) の日本語指導を担当したとき、窓からの入退時を実行したことがある。ささやかな有言実行。 その場に居た留学生の表情は今も覚えている。)

最後に、高村光太郎。

彼の出身地は東京で、戦中の創作活動での戦争責任を自覚し、戦後、花巻で7年間自炊独居生活をする。
その4年後に亡くなるのだが、彼の父(彫刻家にして東京芸大教授・光雲)との葛藤、欧米遊学での挫折的体験、長沼智恵子との運命的出会いと彼女の精神変容と死、生と愛を賭した詩群創作、そして太平洋戦争時の文学報国会詩部会長……、の人生を振り返り終焉に語った言葉は、切々と胸に響いて来る。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯 というものは苦しみの連続だ。」

 

付記

遠野には「でんでら野」という場所がある。
2011年公開の映画・天願 大介監督『でんでら』(主演:浅丘 ルリ子、倍賞 美津子、山本 陽子等々、そうそうたる女優陣)という、「姥捨山」に捨てられた老女たちの復讐を描いた、やはり日本各地に伝わる「でんでら」伝説を題材とした、摩訶不思議な映画を観た一人として、遠野のそこが舞台地・ロケ地ではないが、訪ねた。
しかし、これも五木氏が、初めて遠野の地を訪ねた時の感想として、「……物語のイメージで、「遠野」という空想都市をこちらが勝手につくりあげてしまっていた」と言うのと同様、幻想性を感じさせない、低い山並みを背にした住居が散在する里であった。


参考

詩『椰子の実』 (作者・島崎 藤村。柳田国男が、渥美半島伊良湖で療養中、友人の島崎藤村に、流れ着いた椰子の実  の話をしたのを基にして創られた詩)

名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷(ふるさと)の 岸を離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる 枝はなお 影をやなせる 我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば 新たなり流離の憂 海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ 異郷の涙思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 故国(くに)に帰らん

この詩と言い、『古事記』に登場する心優しき貴公子にして美男子・大国主(おおくにぬしの)命(みこと)と因幡の白兎と南洋動物ワニの物語と言い、どれほどに少年時代、遠い地への浪漫をかき鳴らしたことだろう。 地球交通網の発達、地球温暖化と言う科学と現状から、このような浪漫も過去のものなのだろうか。

2015年10月11日

中国たより (2,015年10月)     『分水嶺』

井上 邦久

諸々の事情、趣向そして偶然と洒落っ気が重なり、横浜に住むことになりました。

9月中旬の社宅物件の下見には、上海駐在から横浜に戻った商社OB、現在は著名なコンサルタント会社に籍を置き、講演や執筆などシニアコンサルタントとして活躍されているM氏が水先案内役をしてくれました。不動産屋の店長は、熱心に物件を品評するM氏と、キッチンと買物環境に注目する当方のどちらが真の借り手なのか?当初は訝しそうにしていました。

M氏とは1980年前後の北京崇文門の新僑飯店(日本企業の多くの駐在員や出張者が利用。溜まり場)で同じ空気を吸った者同士というご縁で親しくなりました。しかも学生時代に国交のない中国を訪れた経験も同じでした。但し1971年に先行した関西組は周恩来首相と面談会食。1972年訪中の関東組のM氏は廖承志氏(早稲田出身で江戸っ子と称された中国人)と面会。学生の分際で一国の宰相や日中友好活動の重鎮である廖承志さんと交流できただけで凄いことなのですが、上海の社宅(満足のいくキッチン付き)に男の手料理を食べに来てくれた時などに、M氏は初訪中が一足遅かったと残念がっていました。

当時は北京や上海への直行便は無く、香港の羅湖から橋を歩いて渡った深圳から入境しました。深圳駅の周りは一面の水田で水牛が活躍していた時代のことです。一緒に橋を渡った20人前後の関西組の一人から、この夏に突然の連絡をもらい驚きました。西安を基地として、日中共同の環境事業(トキ保護活動?)をされてきたとのこと。十代の終わりから連絡が途絶えていた人が、大陸の背中側から肩を叩いてくれた感じがして感慨無量でした。

因みに、1972年初めにニクソン大統領・キッシンジャー国務長官が訪中。同年秋には田中角栄首相・大平外相らが北京・上海を訪ね、国交正常化を果たします。1972年は周首相も多事多用な年であったでしょう。

その田中首相一行が北京から上海へ移動した時のことです。「周さんの専用機に一緒に乗って、じっくり話をしたい」と外交規範や安全上・儀礼上有り得ない要求をした田中首相は、中国側専用機の離陸後、少し白酒召されたか、赤いお顔ですぐに熟睡状態になったとのこと。大平外相はまったく論外の非礼として恐縮しましたが、周首相は「没関係、不要緊(気にしないで)」と笑って、出自と性格が正反対の田中・大平両氏の入れ子細工のような補完関係の妙を語った、とのこと。数年前、尖閣列島問題で緊張が高まった頃に、対日姿勢が過激と言われる新聞「環球時報」に掲載された日本語通訳OBへの取材記事で知りました。

その専用機が上海虹橋空港に到着してからの日本語対応の一人は、司馬遼太郎が『街道をゆく 中国・閩の道』の冒頭で、「呼吸をするように日本語を話す」と表現した瞿麦さんでした。本名は名刺にも毛筆二文字で書かれている朱實先生と思っていました。縁あって朱實先生のご自宅を訪ねるようになってから教えてもらったエピソードがあります。空港から馬陸人民公社へ田中首相一行を案内してから、周首相は一行の見学接待は上海側(張春橋が代表)に委ねて一人距離をおいて歩いていたが、人民公社の人たちに囲まれて大歓迎されていたとのこと。文化大革時代、四人組の跳梁跋扈が続いていた頃のことです。

朱實先生は、大正14年生まれとご自分で仰います。9月30日が誕生日より少し早めでしたが、馴染みの花屋で昨年同様に準備してもらった蘭の鉢植えを持参しました。例年9月恒例の集中講座の際に、同学のS教授から託された台湾で出版されたばかりの書籍(1945年~1949年の台湾学生運動に関する本)を一緒にお届けしました。

目次から頁を選んでご覧になっていた先生は、よく知っている仲間の名前をあげていきました。そして「朱商彝、これは私だ。私の本名だ」と淡々と語られました。瞿麦さんが朱實さんであり、さらに朱商彝さんも同一人物でした。2.28事件のあと粘り強く続けられた台湾学生運動にも、1949年4月6日から国民党による弾圧が暴風のように吹き荒れました。朱先生は決死の脱出行で大陸を目指し、奇しくも誕生日の1949年9月30日に天津上陸、そしてその翌日の10月1日には、北京で中華人民共和国の建国式典が挙行されています。
まさに国民党と共産党の歴史の狭間を行き抜かれた朱先生は実にお元気です。

さて、部屋探しは横浜の中心部の関内地区に絞り込んだこともあり、当日下見に準備された物件は3部屋のみに減っていました。一部屋目(築10年)よく出来た間取りと公園近くの静かな環境に恵まれていました。しかしM氏が周囲に駐車場が多いことを発見、案内板には物件を取り囲むようにマンション建設が予定され、しかも10月1日から工事開始とあったので却下。
二部屋目(築5年)は横浜スタジアムの場外ホームランが飛んできそうな交通至便の場所、しかし高速道路の入口でトラックの往来も多かったこと、長屋風で賑やか過ぎることが敬遠理由となりました。
そして最後の三部屋目(築3年)、不動産屋の巧みな比較戦術に乗せられたかと感じる最良の部屋でした。M氏から「ここは中華街の一角ですよ。前の通りは福建路と書いている。向こうにあるのは中華学校、そしてその先には関帝廟まで見えるよ。やはり井上さんは中国世界から逃げられないのかな?」と笑っていました。

入居日を切りのよい10月1日に決めて、東京本社での期首集会に出席してから、横浜の部屋で待機。午後から東京ガス、家電レンタル会社、カーテンやスーツケースなどの宅急便などが陸続と届きました。荷物を解していたら、近くから銅鑼や鐘の音、獅子舞そしてブラスバンドの軽快な音楽が聞こえてきました。中華人民共和国の国慶節を祝う賑やかなパレードでした。
パレードが通る街のあちこちに貼られたポスターには、10月10日の双十節祝賀の文字が大書され、こちらは辛亥革命から中華民国へ続く建国記念日です。嗚呼、ここは確かに中華街だな、と実感しました。横浜市営バスの最寄りの停留所は、「中華街入口」そして英語では「NEXT STOP IS CHINA TOWN」とアナウンスされます。

2009年からの上海での5カ年計画を完了して総経理職をバトンタッチ。2014年から北京に本拠を移しました。この夏、北京所長の仕事も次世代に委ねました。そして、今後は東京本社(品川)から上海そして北京や各地への目配りと必要に応じた往還をする生活になりそうです。

昨年10月、誕生月の人間ドッグ検査でマークされた項目に対して、従来とは異なる熱心さで対症管理や体質改善に努めてきました。ちょうど一年が経過して、第二段階の減量目標を達成し、血糖値など生活習慣病も正常閾値に近づいてきました。その対応過程で眼科、歯科、麻酔科なども含めて、諸々の悪玉を退治してきました。

公私の領域で「断捨離活」を意識した一年でした。自らが選んだだけでは無いと思うのですが、ちょうど一つの分水嶺を通過したような気がしています。

「上海たより」、「北京たより」そして「中国たより」。その時々に生活の中心となった場所に応じた題名にしてきました。じゃあ、これからは「中華街たより」か?と言われそうですが、当面は「中国たより」のままにさせて頂きます。                (了)

 

2015年10月6日

小さな国際人・大きな国際人 そして、おぞましい国際人 ~私のささやかな「国際」体験から~ [その2]

井嶋 悠

《10月のトピックを加えて再整理した》


小さな国際人

 

これは、20年以上前にさかのぼるだろうか、帰国子女の知見を活かして、日本社会、学校社会の活性化への期待を込めてされた表現である。
文科省の統計によれば、一昨年(2015年)の帰国児童生徒は、小学校6,604人・中学校2,408人・高校2,053人、中等教育学校83人の、合計11,146人である。つまり11,146人の「小さな国際人」が帰国した。この数字は毎年ほぼ同じである。
果たして、受け容れる大人、とりわけ学校社会・教員の意識はどう変わっただろうか。 彼ら彼女らが、学校や社会に何を還元することを期待し、それをどう実践しようとして来ただろうか。
これは、33年間、帰国子女教育・外国人子女教育を意識した私学中高校数校に在職し、10年前に退職した私の、一期一会の悔悟を底に置いた、内省からの断片的自問である。

☆英語以外の言語(外国語)への配慮の少なさはなくなっただろうか。

海外で身に着けた英語以外の言語の帰国後保障については、その言語を主軸とする学校以外、ほとんどなかったが、今はどうなのか。 なぜ、保障が難しいのか。
英語が国際最優先語としてある限り、週時間数及び課外活動時間数と講師  と生徒数の比そして人件費からの限界である。公立も同様かと思う。  その点、英語を第1言語とするインター校は余裕がある。
こんな生徒とも出会った。
日本人学校中学校を卒業後、1年だけインター校に在籍し帰国し高校に編入 した男子生徒。日常会話程度の英語力であったにもかかわらず「帰国子女枠」で某有名私学に入学(試 験は、書類と面接のみ)したときの本人の言葉。「こんなんで良いんだろうか。」
その良心溢れる生徒、大学入学後、強い不安定状態に陥った。

☆「隠れ帰国子女」はいなくなっただろうか。

日本人学校出身者は、帰国子女と呼ばれることに抵抗する傾向があった。その背景にある帰国子女=英語ペラペラ風土のため。 「ペラペラ」との軽薄の極み的用語が象徴しているが、地域によって日本人学校生徒の非常に限られた日常への理解は進んだのだろうか。
また英語ができる=優秀、という“日本性”に反発した英語力の非常に高い女子生徒。教師と翻訳業にはなりたくないと心に決めていたが、翻訳業に就くことになり苦笑していた。
ところで、英語圏以外の現地校在籍生徒への理解と対応は進んだのだろうか。 ドイツの現地校に2年間在籍し、爆発寸前までに追い詰められて帰国した高校編入した男子生徒との出会いがあった。

もう一つ。上海の現地校(中学校)国際クラス(英語による教育を主にしたクラス)に在籍した女子生徒。私の在職校に受験したが、日本語・英語・中国すべてにおいて不十分との理由で不合格に。私もその決定の一員ゆえなおのこと、その生徒のことは機会ある毎に辛く思い起こされている。

☆作文評価での国語科と社会科教員の教科意識はどれほど改良されただろうか。

これは、作文テーマの内容によって一概には言えないが、両科教師の内容優先からの評価で良いのかどうかとの問題で、社会科と国語科の評価は、違って然るべきではないのか、との学習指導方法とも関わることである。
またその際、「基礎学力」への学校としての明確な視点が必要となる。(あれも知らない、これも知らない、との教師発言はよく聞かれることである。もっとも、これは大学併設校での、高校への大学教師の苦情としてもよくあることであるが。)
基礎学力がないため目指す教育の実践が難しい、しかし基礎学力に係る学内合意の不十分と入試方法とのジレンマにあった心ある教員たちが在職していた新しい教育を目指す学校は、今どのような教育を展開しているのだろうか。

☆国語(科)教育と日本語教育の連動はどこまで進んだであろうか。

日本語教育を経て国語(科)教育へ、とのタテの連動はしばしば言われるところだが、両教育のヨコの連動はどれほど深められているだろうか。 これは、言葉と学力そして[表現と理解]での、それぞれの学年齢での学力観につながることである。
学力優秀ではない或る私立大学で、日本語教育に係わりのある教員たちが、表現と理解の教材を編集作成し、実践指導を行っていた。

☆積極的、能動的人物を高評価とする視点は今もそうなのだろうか。

私が出会ったアメリカ現地校から帰国女子生徒の次の言葉は、今も心に強く響いている。
「日本に帰ってホッとした。なぜって、アメリカでは常に自身をアピールしなくてはならず、いつも背伸びして疲れ果てたが、日本では自身のペースで静かに在ることで存在感を認められるから。」
尚、その生徒は全米で非常に高いレベルのテニス実績があり、帰国後、テニス名門校に誘われ入学したが、練習方法での違和感とそれによるけがで、私が在職していた高校に途中編入した。

併設のインター校の明るく陽気な典型的アメリカ人と同僚から言われていた社会科の男性教員。シンガポールの名門インター校に異動し、休暇で日本に立ち寄った時の言葉。「日本が良い。なぜなら、あちらはとにかく私が、私は、の世界で疲れる。日本に帰りたい。」であった。

☆企業の要請に応えるのが帰国子女教育との視点は今も有効なのだろうか。

「産学共同」に疑問が提示された時代に学生生活を過ごしたからか、そもそも企業不向きの人間だからなのか、この視点には驚いたが、今はどうなのだろうか。
そもそも企業派遣の実態が、例えば私が係わり始めた1970年代と今では、大きく変化しているが。

☆日本人学校派遣の管理職、一般教員問わず、私自身幾つか見聞した、現地在職中また帰国後の“醜態”は、もう過去のことになったのだろうか。

これは、派遣経験の先生方を問わず、ほとんど不問にする教員が多いが、私学教員であったがゆえか、或る日本人学校を訪問した際、現場教員から秘密裏に相談の夕食会に招かれたことがあった。内容は管理職の横暴といった非常に難しくデリケートな問題で、私が助言できるようなものではなく詫びるしかなかったが、その数か月後、校長と異議申し立てをしていた現場教員何人かに、文科省より任期途中での帰国命令が出された。喧嘩両成敗ということなのだろう。
海外派遣教員は、公・私立学校教員の勤務(待遇)制度の違いもあって、ほとんどが公立の小中学校教員で、文科省からの派遣の形を採っていて、その待遇は非常に恵まれている。旧知の教員で校長として派遣された人が赴任先の立派な住居を見て、この恵まれた環境をしっかりと心に留めて精励したい旨言われていたことが、そうでない居丈高な教員事例を知っていただけに、一層印象に残っている。
まだまだ脳裏に浮上して来るが、思い起こせば起こすほどに、いかに多くのことを学んだか、しかし何もできなかった私がいる。

海外帰国子女教育は日本を映し出す縮図である。 そして国内の学校世界は、国内の政治・社会を見事なまでに映し出す。否、学校社会が、政治・社会を創り出しているのかもしれない。
日本の確かな国際化!と日本の存在感への活きた智恵の担い手たちへの教育、海外帰国子女教育そして二重国籍所有者を含む外国人子女教育の重層的展開を、元教師だからこそ言える傲慢との指弾を十二分に承知しながらも願っている。

 

大きな国際人


これは、先日、南アフリカに歴史的勝利を遂げ、一昨日(10月3日)にサモアに快勝した日本ラグビー代表の試合を見て、先の「小さな国際人」と併称したく、私が勝手に言っている言葉である。
私たち夫婦は、サッカーよりラグビーに強く魅かれているので、以下の内容は妻も同様の思いである。 (因みに、妻は長男が小学生時、ラグビーを薦めたが彼は拒み、中学で軟式テニス、高校で硬式テニスに励み、そこそこの戦績を残した。なぜ、ラグビーを断り、テニスに向かったかは、少年期後半時から鮮明になった彼の個性で、私たちは大いに得心している。)

日本代表メンバーは30人で、内、外国出身選手(日本国籍取得5選手を含む)が過去最多の10人で、主将は、ニュージーランド人の父とフィジー人の母を持ち、日本人女性との結婚後2013年に日本国籍を取得したリーチ マイケル選手(国籍取得に合わせてマイケル リーチを改めている)である。副将は五郎丸選手。
テレビ中継(録画)を観ていて、得点の要になっている多くは外国出身選手で、かつての日本代表ではほとんど見ることができなかった強靭な肉体からの力とスピードの、地響き的闘志に溢れていた。
これは、ヘッド・コーチのエディー・ジョーンズ氏(彼の母は日本人で、夫人も日本人である)による、世界で例を見ないほどの4年間の徹底的鍛練の成果とのことなのだが、コーチや監督の言葉を実現させるのは選手であり、サモア戦で元日本代表の大畑氏と共に解説をしていた元日本代表で、エディー・ジョーンズ氏の下で前半期アシスタントコーチであった薫田氏が言っていた。
「これまでも同じような練習は重ねて来た。」と。
それが、なぜ今回光栄を勝ち得たのか。そこには外国出身選手の存在があったからだと私は思う。
彼らの体力とエネルギーと感性(センス)の日本人選手への影響、相乗効果そして信頼関係。彼ら「大きな国際人」あっての歴史的勝利。 しかし、予想通り!外国出身選手が多過ぎるとの批判が出ているそうだし、そもそもテレビで、彼らがあってこその今回の栄光表現が、極力(意図的?)抑えられているように思えてならない。 中高校教師時代の或る時期、女子サッカーの監督をしていたとはいえ、私の無知なのか、テレビの保守性、閉鎖性、或いはこのような大会があるとしきりに叫ばれる「日の丸を背負う」に見え隠れする国粋性なのか。

ラグビー代表は以下の3条件と実に緩やかで、だからこそ今回の戦績につながったのではないか。

【代表条件】  ・出生地が日本   ・両親、祖父母のうち一人が日本出身  ・日本で3年以上、継続して居住

彼らは、日本、日本文化、日本人との出会いから日本を愛し、日本で生き、鍛練し、代表に選ばれた、日本・日本人が名誉に思い、敬愛すべき人たちではないか。
南アフリカ戦中継でアナウンサーが「大和魂」と一瞬叫んでいたが、あれはどんな思いからなのだろう?未だに根強くある武士(というよりサムライ?)の猛々しさを言いたかったのだろうか。

江戸時代の思想家で日本文学研究者・本居 宣長の多くの人々を引きつけてやまない歌。(本居宣長は「大和心」と言っているが、一応「大和魂」と同意語として扱う。)

「しきしまの やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらばな」

漂う深い静けさ、清澄な美しさ。そこに直覚する大和心(魂)。

ラグビーでのトライをした後の選手の静。 先のアナウンサーはその後言わなかったのは、場違いを自覚したのだろう。

オリンピックや「世界×××」とのスポーツ大会が開かれ、日本人選手も多く参加しているが、無責任な叱咤、期待が多過ぎないか。とりわけ格闘技的要素の強いスポーツの場合。
しばしば聞く敗者日本人選手の言葉。「世界の壁は厚い・厚かった」。 この究明はどれほど行われているのだろうか。
協会や政治家は、相も変わらず国粋的精神論を言い、報奨金を持ち出す、その軽佻浮薄。
若い選手を育てるための学校課外・部活動やクラブ組織の、国際性(広い視野と合理性)を持った指導者の育成とその人たちの生活保障の体制作りはどれほどに進んでいるのだろうか。

英語なくして未来はないような言い方で進められる小学校での英語学習、「主要5(4)科目」が揃ってできて優秀或いは当然視する個性の画一化。塾教育失くして受験なし。そんな日本にあって、体質や気質の遺伝的要素、歴史的要素からアジアでトップであっても世界で通用しない現実に眼を背けたようなメダル狂騒。これって、慢心そのものではないのか。
かてて加えて、熱しやすく冷めやすい国民性と言われて久しい日本人。 例えば「なでしこジャパン」。既に退潮傾向のようにも思えるが、その前の「女子ソフトボール」の熱狂は今どうなのだろう? 選手はマスコミのブーム作りの道具に過ぎないのか。

その日本で、幾つもの大会が、そして再びオリンピックが開かれる。そのための準備、招聘そして実施のための様々な工事、施設建設。そこに動く莫大な経費。 政府等はその経済効果を言うが、高齢化と子どもや働き手の貧困が問題になっている今、それらの大会開催に際し、大都市圏だけでない全国視野で、いつ、どのような効果が表れるのか、具体的説明はどれほど広く行われているだろうか。
その専横的偽善さえ直感する中で、エンブレム問題で見事に露わになった開催主体者・機関の密室性と責任転嫁と恐るべき金銭感覚。これは、2020年東京オリンピック招聘での、当時都知事の、各国理事たちを前にした招聘スピーチでの「私たちはキャッシュで用意できる」と手を振り上げ声高に言った下品に、私の中ではつながっている。

「権力を持つこと」の愉悦に浸り、自身を超人か神かのように自負しているとしか思えない国民(納税者であり、国債購入者)への愚弄、冒涜。 結局は、カネ優先の日本でしかない、と批判されて、真っ当に応えられるのだろうか。まあ、10中8,9弁舌さわやかに応えるのだろうけれど。

このカネ指向は、最近の大相撲にも言える。
国技をしきりに強調する人が多くある中(私は、鍛えられた肉体と髷と浴衣、着物姿に艶(つや)やかな華の美を思う、江戸期感覚での愛好者で、国技などと言う堅苦しさにどうしてこだわるのか全く理解できない一人である。)、現実にはここ何年か外国人力士で優勝が争われ、それを憂える人も多い。
挙句の果てに、あれだけ誉め讃えていた白鵬関(横綱在位中8年余りで、30歳!)を、或る時期から手のひら返したようにそしる人々、マスコミ。そんな人が、己が人をどこかに捨て置いて国技、国技と言う滑稽さ、馬鹿馬鹿しさ。

騎馬民族と農耕民族では、遺伝的資質として上半身、下半身の強さの違いがあるといった学説を読んだことがあるが、仮にそうだとして、では日本人力士の台頭を叶えるならばどうすれば良いのだろうか。

年6場所に加えて途方もないほどに組まれる巡業日程、そしてけが人の多さ。なぜ4場所制に戻そうとしないのか。高い入場料と満員御礼にこだわる協会、NHKの姿勢。 そこに力士をあたかも道具扱いにしたかのようなカネ優先指向を観るのは、あまりに偏った、非国民的なことなのだろうか。
現代日本と若者論にある“ハングリーさ”の喪失はよく言われるところだが、大相撲界の次代を担おうとする若者の減少はやむを得ないのだろうか。

ラグビーは15人での競技だから同列に言えないが、今回の日本代表のような国際人の働きを、かの根性論ではなく日本に向ける視点はないだろうか。 日本人の国際化のためにも。

 


おぞましい国際人

 

これは「国際人」の項に入れること自体に甚だしい疑問を持つが、なんせ世界(彼の言葉で言えば国際?)のリーダーを自負する、一国の貌(かお)?!である首相なのだから並べた。但し、おぞましいである。
英語もしくは外国語堪能=国際人とは思えない私で、歴代の首相で英語力に自信?があったがために、とんでもないことになった事例も聞いたことがあるので、見方によっては矛盾を承知で言う。
国の命運を左右するほどの権力を持った存在で、他国が唖然、冷笑し、一部(と思いたいが)のアメリカ人でさえ苦笑するほどに追従(ついしょう)し、国民の、自衛隊員の命を多数党の暴力で、戦後だけでも朝鮮半島、ベトナム、中近東に、己が絶対正義、世界の警察意識のアメリカに委ねる法案を、憲法改正!を視野に強行突破させた人が、英語の研鑽を全く感じさせない、その神経が怖ろしい。

【余談:元教師として適不適賛否あろうかとは思うが、私の場合「せる・させる」の使役助詞を、生徒・      保護者にどの程度使うかが、私の教師評価基準でもあった。】

そして、税金をまるで私物化するように外遊に、海外諸国・地域に供与し、日本の平安生活と大国振りを顕示し、自身に取り入る一部の国民しか眼中にない厚顔無恥、痛みとか哀しみなど己が辞書にないかのように多くの国民の厳しい現実を見て見ぬふりの非人間性。
ポスターに口髭〈ヒトラー髭〉を書き込んだ初老男性に拍手喝采する人は、私も含め多い。
そんな人間が国際人であろうはずがないが、彼を支持する人が多いのだから致し方ない。 正におぞましい、である。
「学ぶ」は「真似ぶ」から転じた言葉との由。A級戦犯の一人であったが、無罪放免となり、後に首相として日米安保条約を強行採決後辞任した祖父を真似ようとでもしているのだろうか。

尚、A級戦犯の主、東条英機の処刑を前にしての辞世の歌から二首引用する。 現首相、内閣、与党を支持する40%前後の人々にとっては感慨ひとしおなのだろうか。

「明日よりは  たれにはばかる ところなく 彌陀のみもとで  のびのびと寝む」

「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」

更にこんな報道もあった。 首相の最大支え手?の官房長官の、有名芸能人結婚に係る「産めよ、増やせよ、国に貢献せよ」発言。ここまで下卑てしまえば言葉が泣く。
これらについて、また同系の教育世界で仕事を共にした人々のことは、何度も触れたし、これ以上自身を寂しくさせたくないので止める。

安保法案強行採決に際して、それに同意した議員を次回選挙で落選させよう、とのアピールを知ったが、先ず私たち一人一人がこれまでの棄権を内省し、そこからの連帯を、と思う。 私は与党野党支持なしの無党派であるが、政治を変える息吹に加わることは可能だと思っている。

テレビのニュース等で、首相が映ると直ぐにチャンネルを変える人、「もう、日本は終わりよっ。徹底的に叩かれてやり直さない限り無理っ。」と言っている人も周りに多い。私もその一人だが、だからと言ってあさはかな“英雄(ヒーロー)待望”者でもないし、“最終戦争”願望者でもない。

それまで政治への積極的関心者ではなかった私が、今、目覚めつつ?ある。古稀の功?