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2016年3月31日

発心と私と日本と因縁 ―娘の死から4年、先日の愛犬の死―

井嶋 悠

我が家の愛犬「ひな子」が、血液の病で死んだ。
一旦快復していたが、急変し、急遽入院した医院で。10歳になる2日前の早朝のこと。
私たちのもとに来て9年半。主人は4年前の4月11日に憂き世を23年間で通り過ぎて行った娘である。たぐい稀な程に謙虚で賢明な、娘の死の際、「クーン」と泣いたその犬である。そのことは以前投稿した。
娘の死後は私の寝床を暮らしの拠点に、昼夜共に私たちと過ごしていたので家族そのものであった。
栃木に移住して10年、その間この地で、私の母と娘、関西から連れて来た愛犬2匹(〝匹“と言うのは、「匹夫」との言葉も重なって違和感があるが)の死に会った。すべて居宅でのことである。
ひな子の我が家へ来る経緯と娘、その娘の死、それらと加齢が手伝っての途方もない試練の心境変化が重なり、妻共々ことのほか哀しみが強い。
このような時、運命(さだめ)との言葉がよく使われるが、私たちと同じ体験をした多くの人たちと同様、頭と心がかけ離れた言葉である。「言葉は身の文」を、更には、言葉は生きている中でこそ、と思い知らされる。

晩年の孔子が、弟子の子路の、死に係る問いに対して「未だ生を知らず、いずくんぞ(どうして)死を知らん(知るはずもない)。」と応えた由。
専門家の説明によると、孔子の、死後の世界を問題としない現実主義、非宗教性が表われている云々、とのことだがそれはそうとして、私が如き凡俗が言うと単なる開き直りにしか響かない言葉が、孔子のような人物が言うと、どこかほくそ笑み的安堵感を持つ、そんな私がいる。
私にとって、死は怖れであり、死後は不安である。今もって無とか自然とかゼロとの語群は語群の中に留まっているだけである。
鎌倉時代初期の禅僧で、曹洞宗の開祖道元は、そんな俗人の自分本位の貪欲な性(さが)を言い、「(その)自分中心の考え方を離れるにはどうしたらよいかと言えば無常を感ずること、これが第一になさなくてはならない心構えである。」と、言っている。(古田 紹欽(しょうきん)の現代語訳『正法眼蔵随聞記』から引用)
古稀を過ぎ、身内のまた近しい人たちの死に会い、これでも以前より少しは「眼は人間のマナコである」「以心伝心」の真意が分かって来て、これらの言葉の心に銘ずる度合いは強くなりつつはあるが、一方でまだまだ隔靴掻痒で、そんな自身に苛立つ言葉でもある。

この一か月の間に曹洞宗の三つの寺とつながった。仏教でいう「因縁」(内的要因の「因」と外的要因の「縁」)を思う。
一つは、井嶋家菩提寺「無学寺」(京都)。4月の供養をお願いしていた、娘の永遠の拠点となっている寺。
一つは、現居住地から車で1時間ほどに在る「大雄寺」。娘とも訪ねた寺で、娘の4回忌供養に無学寺に行けなくなったためあらためて詣でた寺。
一つは、現居住地から車で30分ほどに在る「宗源(そうげん)寺」。ひな子を荼毘に付し、供養くださった寺。

愛する者の死は、人を己が生き方に目覚めさせ、「発心(ほっしん)」に向かわせる。
慈母の死が発心に向かわせ、後に高僧になった人は多く、道元もその一人である、と何かで読んだことがある。「悲・哀」しみを自己修練に導き「愛(かな)」しみに昇華し得た人たち。宗教関係者に多いのがうなずけるが、そこに限定しなくとも“無宗教”の日本では、広くそういう人たちがいる。
(左記の無宗教の無とは「ない」の意ではなく「限り無く」の無である。これについては、以前に投稿したのでここでは立ち入らない。)
そして私もその末席に加わろうとして3年が経つ。その私は仏教系ではあるが、帰依するほどの学習も座禅(道元の説く「只管打座」など遠い世界)もない薄っぺらな「無宗教」者である。
多くは「慈母」で、「慈父」ではないだろう。そこに仏教を想い、日本を想うのは他のアジア仏教圏の国々・地域の人々に独善の不快を与えるだろうか。

『日韓・アジア教育文化センター』の活動を介して日韓中台の様々な人たちに出会った。多くの共有を体感したが、違いを知ることも当然あった。その一つが、心の在りようの違いである。
それぞれに生の、個の強さがある中で、日本のそれは“柳の強さ”のように思える。一見なよなよしているが、「柳に風」の、「柳に雪折れなし」の強靭さ。私の好きな日本語で言えば「たおやか」である。そして日本では「たおやめ(手弱女)」と言う。女性の、更に言えば母性の強さである。
それに比して韓国や中国のそれは“鋼(はがね)の強さ”である。父性の強さである。
ことさらに言うほどのことではないが、母性、父性と性としての女、男は、等記号でつながるものではなく、母性の強い男性、父性の強い女性との表現が成立すると直覚している。

昔、聖徳太子は、当時の中国王朝隋の皇帝煬帝に「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」との書簡を送り物議をかもしたそうだが、東は日の出の地に違いなく、蓬莱の国は東海に在ると信じられていたし、海は「母」を表わし、日本の神の祖は天照大神、女神で、倭の国の王(おおきみ)は卑弥呼である。
聖徳太子の偉業の一つ『17条憲法』の第1条・根幹は「和を以って貴しと為す」で、日本の古称は大和の国である。
あまりに乱暴な言い草は承知のことだが、日本が母性の国である背景が揃い過ぎるほどに揃っている。

現代日本の根底「大和魂」は「武家文化」で父性、との指摘はよく耳にするが、その武家性が確立された江戸期の、後世また現在も大きな影響力を持つ、古典文学・思想研究者本居宣長の大和魂に係る人口に膾炙(かいしゃ)している歌は次である。

「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」

日本も永い歴史にあって何度か発心を持った。
その中で、現代(現在)を考える最も至近の発心は、1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争での敗戦であると思う。その私は8日後、長崎市郊外で出生した。海軍軍医として赴任していた父から被爆前後の軍等一部上層階層の人々の自分本位の貪欲な執着の実態を聴いて育ったこともあって、近代化を考えるもう一つの指標、明治維新より実感に近い。
唯一の被爆国でなおのこと、私たちは非戦の誓い、また民主主義が私たちにまばゆい未来を与え、それらの内的要因に、朝鮮戦争、ベトナム戦争等による戦争特需の外的要因が重なることから、奇跡の経済復興と発展を遂げ、今日在る。

しかし、私を含め首を傾(かし)げる人が確実に増えている。これが、日本が目指す或いは本来の姿なのだろうか、と。
その具体的根拠は、私の教師体験と人々との出会いを糸口に、「対症療法施策の限界」を根底に、政府の発する厚顔無恥の、国民を愚弄しているとしか思えない標語について、言語への冒涜と嫌悪と併せ何度か投稿したので、繰り返さない。それに我執今もって強い身ゆえ、繰り返すことでの寂しさに陥りたくない私もある。
ただ、選挙権を持つ大人たちすべての問題であることを承知で、国を地域を主導する政治家、その政治家を支え誘導する官僚、有識者、またそれらに追従し広報するマスコミの人々に以下の二つは是非聞きたい。具体的根拠の根底に係ることと思うので。すでに意思表明されているのかもしれないが。

・道元は、自己中心の哀しみから離れるためには無常の自覚の必要を説き、別の場所で、「無常は極めて速い」と言う。国、地域を動かす立場にある人たちは、そのことをどう受け止め、己が行動にどう反映しているのか。

・「経済」の語源は中国古典の「経世済民」(世を経「おさめる;統治する」め、民を済「すくう;救済」)と言われる。資本主義社会にあっては、後者の意味は希薄になったとのことだが、殖産・貨殖との関係をどう考え、また「知るを足る」の「足る」の具体的像をどう考えているのか。

ノーベル文学賞を受けた川端康成は、ストックホルムでの授賞式で、道元の次の歌を引用して日本を語った。

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

日本と自然、日本人の自然観を語るのだが、この歌の要諦(ようてい)は「すずし」ではないかと思う。
『古語辞典』(旺文社版)から語義を引用する。

① 涼しい ② 澄んで清い ③心がさわやかである ④潔白だ、とあり、その後に「涼しき方:極楽」が、併記されている。

私の拙い言葉で説明する必要などないだろう。

もう一つ、『正法眼蔵随聞記』から引用し(同じく古田紹欽の現代語訳)終える。

「たとえ仏祖の言語であっても多方面にわたることを好んで学してはならないのであり、一事でさえ専(もっぱ)ら修学することは愚鈍、劣等のものにはできないことなのであり、まして多事を兼学して心の操(みさお)をととのえるであろうことは不可能なことである。」

これは仏教[禅]修業での心構えとして言っているので、私のような者が言うことは敷衍(ふえん)し過ぎとの咎(とが)を受けるかとは思うが、「あれもこれも」ではなく、せいぜいで「あれとこれ」とすることの大事を思う。
「博識・博学」は賞讃とは思うが、単なる知識の、それも生実感の響きのない、集積多は虚栄と思う。
いささかの飛躍から、日本にあって「八方美人」は誉め言葉ではない。
このことは私の今日の学校教育への疑問に通ずることなのだが、このことも既に投稿したので省略する。
ここでは、日本は「どこに行こうとしているのか」との文脈で付け加えた。

「寄らば大樹の陰」? それとも「鶏口となるも牛後となるなかれ」?

明日は4月1日。当地はこれからだが、西の各地の桜花満開の報せが伝えられている。
娘が心魅かれていた「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の 如月のころ」(西行)を心に刻み、春を過ごし、夏を、秋を、そして歳毎に厳しさを実感する冬を迎えたい。

2016年3月22日

中国たより(2016年3月)  『焔の中』

井上 邦久

春節気分が少しだけ残る上海から大阪へ。大阪では二つの会合に出席し、映画『母と暮らせば』を観ました。北京そして天津を巡り、横浜に戻るとずいぶん春めいていました。

上海では正月十五日の元宵節前だったので「新年好!」の挨拶は有効であり、毎晩公私の新年会が続きました。ただ、空気汚染防止が目的とのことで「爆竹花火厳禁」の紅い幕が至る処に張り巡らされ、携帯電話にも規則を守るようにとの通知が届いていたようです。全く静かな春節でした。ある弁護士の「上海人がここまで徹底して通達を守ることにビックリした」というコメントが印象的でした。昨夏まで住んでいた社宅の隣人から新年会によばれ、例年の白酒応酬を覚悟してお邪魔しました。隣人は「山東に里帰りして少し太ったので、今日はテニスで汗を流して来た。今夜は紅酒(赤葡萄酒)にしよう」と理性的な提案でした。
併せて、奥さんとそのお母さんからは桜の頃に日本へ行き、人の少ない処で趣味の写真をたくさん撮りたいから助言を宜しく、との要請もありました。最近は中国の友人から「中国人が居ない静かな日本の町を教えて」という問合せがよくあります。

大阪で長年続いている研究会で、毎年この時期に「中国この一年」という定点観測のようなお話しをさせてもらっています。とても熱心な常連の皆さんから、継続したテーマでの質問を受けたりしますので、報告内容や資料の準備を真面目にしています。
「言うほど悪くない実態経済」、「景気よりも腐敗撲滅」、「解放軍史上で最大の組織改革」「集団指導制から個人『核心』化傾向」などについて、歴史的な考察と直近の動きに基づいた卑見をお伝えしました。

もう一つの会合は、越境電子取引についての報告会でした。喧伝されるわりに実態が分かりにくい「個人購買者による輸入」について実地調査に基づく報告書は労作でありました。最後に質問をして「日本人はルールがあいまいなので躊躇するが、中国人はルールが整備されれば商売の旨みがなくなると考える」「投資促進には繋がらないと思うが、先ず実態を調査した」という本音を聴かせて貰ったことが収穫でした。

北京と天津では監査役監査の前後に複数の金融関係や製造業の皆さん方の貴重な時間を頂いて「辺喫辺談」(食べながらお話しする)が出来ました。上海と同じ話題でも北方では異なる見方があるのを知ることができます。新聞記事に登場する要路の人の友達とか知人である皆さんのコメントはいつも斬新です。「言うほど悪くない実態経済」については裏付けを再確認できました。ただ「言うほど」の「言う」は誰が「言って」いるのか?の検証は大切であります。
北京のある公開の場で「悲観的な報道に偏り過ぎではないか」という苦言に対して、「北京の空気がきれいでは新聞記事にならない。空気が汚い時にこそ読者の関心が高まる」という喩えで答えたと教えてもらいました。(未確認情報ではありますが、実際の喩えはもっと格調の高くないものだったようです)

・・・業種や地域により全く違う姿を見せるのが中国経済の現状だ。その点を踏まえると最も危険なのは、悲観論一色、あるいは楽観論一色で中国ビジネスに望むことだろう。・・・日本企業にとっては、自社で取れるリスクの大きさを見極めながら果実をもぎ取るための戦略と戦術の精度を磨くしかない。(日本経済新聞・上海/小高記者)

今年になって印象に残った記事からの抜粋です。昨年上海に着任されたばかり、清新な印象を与える若手記者の文章です。

春節以降、PM2.5が20~30という清新な空気でしたが、人も車も工場も動き始めて,風向きも変わってきた3月2日の早暁に北京空港に向かいました。空港高速に入ったところで事故渋滞6㎞の表示、タクシー運転手と相談して第二空港高速道路への迂回を選択。距離が伸びて料金加算、時間は短縮、渋滞による空気汚染回避という「三方よし」で間に合いました。席が混んでいないとのことで、隣の空いた最後列窓側に変更して貰いました。
壁を背中にして全体を見渡せる席を選ぶスナイパー『ゴルゴ13』に因んで、勝手に「ゴルゴ13席」と称している席です。さいとうたかを(斎藤隆夫)が1968年から80歳の今も『ゴルゴ13』の連載を継続している小学館の「ビッグコミック」誌には、『沈黙の艦隊』の作者かわぐちかいじの新作『空母いぶき』が連載されています。単行本化された第1巻第2巻はともに第4刷と書かれています。現在進行形の中国解放軍の再編、陸軍主体からの転換などの動きを背景にした想定を実にリアルに追っています。

後ろに誰も居ない席で,吉行淳之介『焔の中』をほぼ40数年ぶりに読みました。小学館からP+D BOOKSシリーズとして刊行されたもので、絶版名作が安価で手に入ります。ペーパーバックとデジタル電子書籍が同価格。『焔の中』は450円でした。
「どうもみんな狂ってきたようだ、と呟きながら僕は部屋に戻り、久しく会わぬ友人たちの顔を思い浮かべた。その友人たちは、学徒の徴兵延期が廃止になったため入営してしまったり、あるいは入営延期が認められる理科系大学へ進んで地方の都市に移住したりして、僕の身辺には一人もいなくなってしまった。僕自身も、入営を指示する赤色の令状が明日舞いこむかもしれぬ状況に置かれていた。(77頁)」

1945年春、吉行は文系の東大英文科在籍中であり、理科系に転籍していった中に長崎医科大学へ進んだ親友がいたことを別の文章で読んだことがあります。
東京に居残り空襲の焔の中でも生き残った人間と長崎へ転籍して一瞬にして被爆死した人間の運命の分岐点を感じました。山田洋次監督作品の『母と暮らせば』の主人公も長崎医科大学での授業中にこの世から居なくなっています。
広島の原爆をテーマにした『父と暮らせば』と同じく何度か観ることになりそうです。吉永小百合演じる独りぼっちになった未亡人を支え、密かに慕う「上海(帰り)のおじさん」を演じる加藤健一の存在感が印象に残りました。そして、戦前の長崎と上海が実に近い距離にあったことを思い起こしました。                                               (了)

2016年3月19日

「眼は人間のマナコである」から “言葉”の極点 「噺家は喋っちゃアいけない」へ……

井嶋 悠

1年ほど前から眼科に月1回通院している。医師曰く「白内障です。歳相応の自然な病です。酷(ひど)くなったら手術しましょう。手術は簡単です。」数年前に開院したその医院、女医2人と老男医1人と10数名の助手、事務(すべて手際秀でた快活な女性)で構成され、1階が診療室で2階は手術室等、40人は入る1階待合室は明るく広く、連日千客(?)万来、ほぼ7割は高齢者で、私などまだまだ若輩で末席を汚している。
先日、左目の急な視力低下から検査を受けに行ったときのこと、待合室で心洗われる光景を目の当たりにし、改めて70年間生きて来た時間を思った。不意に訪れた自照自省への導き。

2歳くらいの女の子を抱いた、二十歳を過ぎたばかりであろうか、健康と若さが造り出す瑞々しく弾けんばかりの女性。母娘であることは一目瞭然。二人の日々の幸いを映し出すかのような愛くるしさ。時折、立ち上がっては壁の医療関係掲示を、その真剣な眼差しはきっと娘を思ってのことだろう、一つ一つ見入る母。助手から呼ばれ、診療室に移動して数分後のこと、二人は老医師と助手に連れられて待合室に戻って来た。

「ここなら大丈夫。泣いたのは誰かな~。ほら見せて~。」老医師の加齢が醸し出す太く優しい声の響き。周囲の老人たちの微笑み。

(微笑みの見守りを投げ掛けるのはほとんど女性。爺さんたちはどうしてああも仏頂面しかできないのだろう。それが齢(よわい)を重ねた日本男児?の意地ということなのだろうか。いやはや。もっともっと私の心に素直になろう、とここ数年、思いが強くなる私)

ことの進行が呑み込めない娘、心配げな母。娘は、老医師の手が頬に触れようものなら瞬時に母の胸に顔を寄せ、曇り顔へ。
「分かった、分かった。うーーん、どうかなあ~。」、触れる触れない薄皮一枚の距離感で診察した老医師「お母さん、大丈夫だよ」と、その理由を丁寧に説明する。一言一句聞き逃さない母の美しい眼差し。「泣いたのは誰かな~」、今度は頬を瞬間つまんで立ち去る老医師。娘は目と口一体に呆然と、立ち去る医師と助手を追っている。真と善と美のかけがえのない気の一瞬、和み。

関西都市圏生活から北関東の地方都市に移住して10年。このような出会いは、都会生活時よりはるかに多いと思う。このけたたましく乾いた現代日本での都(と)鄙(ひ)の人の情の美しさを言う人もあるかもしれない。しかし私にはまだそこまで言い得る言葉はない。今言い得るのは、加齢ゆえの琴線の顫動(せんどう)なのだろう、だけである。
少し前に読んだ稀代の落語家(噺家)・5代目古今亭志ん生(1890~1973)の随筆が思い起こされる。

「人間も六十の坂をこすと、色々な事を考へるやうになる。」と言う書き出しで始まる情味豊かな一文。『眼は人間のマナコである』。

志ん生は、或る時、或る大学の総長から「きみは哲学を知ってるね」と言われ、きょとんとしたとか。私は哲学の意味が分かって分からない一人だが、少なくとも知識量とか学歴とは無縁だと思っている。そして志ん生のこの一文が、それを証明している。志ん生の学歴は小学校卒。
その学長の自然なそしてどこまでも静かで、優しさ滲み出る“凄さ”が浮かぶ。

思考飛躍を承知で言うが、大学教員は教職世界で唯一資格要件なしと思っていたのだが、超高学歴専一の昨今を不思議と思っている。もっとも、幼稚園から高校までの要資格教員制度に時折得心が行かないこともあったが。これまた大学院修士課程中退者の自省の話。

私は60歳を越えること6年、娘の死に向き合い、自照厳しく迫られ、今在る。
先の眼科医は医師、志ん生は師匠、私は教師。「師」!
先の老医師の相手を慮っての絶妙の間合いと短く的確な言葉。私はついついしゃべり過ぎ傾向大の教師で、しかも国語担当。
志ん生は「私達の声の出し方には一つの順序がある。先ず稽古したハナシを大声で喋る。つぎに早口に これをミッチリやって、人物の表現に苦心し、仕種(しぐさ)の勉強に次いで、最後に間(マ)と取り組んで一生を費やす。この間は魔といはれるほどに中々その正体を摑み得ないもの……」と言い、
「盲目に成った柳家小せん(1883~1919)師が“噺家は喋っちゃアいけない……”といった。この言葉の意味はこの道に入ってツイ最近意味がわかってきた。」に続けて、「兎に角六十を幾つか越してやっと行く道がわかって来た。人生は六十からとはうまい言葉だ。」と言う。

私は、昨年夏古稀を迎えかろうじてわかって来た。遅過ぎるとも言えるが、ありがたいことに妻が揶揄する「病は気から」!?の体調不良だけで生きているのだからわかった時が吉日で、遅い速い或いは歳相応など気持ちの持ちよう、人それぞれと思っている。
娘の死が私に迫って以来、自照自省の証しと言わんばかりに拙悪文を書き始めて4年目の今年、自身を、私の言葉で、表わすその苦に襲われながらも悦の一瞬もあって、きっと娘は喜んでくれているだろうと霊感よろしく独り善がりになっている。
これまでに出会った人々には、当然とは言え直接に間接に口さがない人々も多いが、孔子が自身の体験から言う「耳順」の意味での馬耳東風が少しは自然にできるようになり、娘への感謝も日毎に強くある。娘に酷(むご)い話である。

「眼は人間のマナコである」は落語界での鉄則的言葉とのこと、そして「噺家は喋っちゃアいけない」。
何と怖ろしいほどに魅惑的官能的な二つの言葉。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』は、教師が創り出した団体で、だからこそこの二つの言葉は激しく私たちそれぞれに迫る、と私は思う。
そして医師も落語家も教師も、それぞれの理由で望み、然るべき金銭を支払って来た老若と向き合い、何がしらの充足を与え、時に憤慨と哀しみを与え、それをもって生計を立て、家族を養う。概念化して言えば正に「師」の生き様……と、厚顔無恥そのままに言う、私は元中高校国語科教師。

日本近代詩の最高峰と文学史で讃えられ、私もそれを得心している詩人が、私たち日本人に、近代化の日本について気づかせ、再考を促した作家で日本研究者の小泉 八雲(ラフカディオ ハーン・1850~1904・父はアイルランド人、母はギリシャ人)について、その妻(松江の士族の娘・節子〈セツ〉)の、内助の功を得てこその八雲のこと、また二人の至福な関係を書いた文章に次のような一節がある。

「元来人間の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。……目をちょっと見合すとかいうだけで、相互の意志が完全に疎通するのに、人間は廻りくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得ない。(中略)単に眼を見合すだけで、一切の意味が了解される恋人同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。」

高校時代の恩師が、私の教師着任に際してのはなむけの言葉の一つが、悪戦苦闘の教師の日々であった33年間の苦笑とともに浮かぶ。

「授業の終わりに生徒の3分の1がお前を見ていたら大正解と思え。」

そんな私の、公私人生を厳しく責め立てるがゆえに大好きな詩をまたまた引用する。茨木 のり子(1926~2006)の「こどもたち」

こどもたちの視るものはいつも断片
それだけではなんの意味もなさない断片
たとえ視られても
おとなたちは安心している
なんにもわかりはしないさ あれだけじゃ

しかし
それら一つ一つのとの出会いは
すばらしく新鮮なので
こどもたちは永く記憶にとどめている
よろこびであったもの 驚いたもの
神秘なもの 醜いものなどを

青春が嵐のようにどっと襲ってくると
こどもたちはなぎ倒されながら
ふいにすべての記憶を紡ぎはじめる
かれらはかれらのゴブラン織を織りはじめる

その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇や毒草 こわれた甕 ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それはやはり哀しいことではないのか

おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまず まわりを走るこどもたち
今はお菓子ばかりをねらいにかかっている
この栗鼠どもなのである

「こどもたち」とは、最終連から小学生のような印象を持つが、中・高校生でも確実に私の心象に浮かぶ。大学生はどうだろう? 今の世、十分成立するのではないか。もちろん大学生の幼稚化といった類の大人風(おとなかぜ)を吹かした驕(おご)りの発想ではなく、である。
或る者たちは「ゴブラン織り」を始め、「哀しみ」に心覆われ、思い煩い、悶え、しかし時間は無色透明飄々淡々と過ぎ去り、周囲は、社会は、憐れみと言う同情を愛情のように言い、或る者は自身で自身の命に終止符を打つ。
この世に生を得、祝福され、わずか10数年にあって、「疲れた」と呟く子どもたち、そんな若者たちに私はどれほど出会って来たことだろう。
日本は世に言う“文明国”“先進国”で、自身で自身の命に終止符を打つ数が、この10年先進国第1位である。
日本の原型とはこれほどまでに非情なのか。政治家の言葉の虚しさ、言葉の偽善が、益々際立ってくる。大人たちが、教師たちが「眼は人間のマナコである」を自身の内奥に確(しか)と持ち、その自然な発露ができる自己修練時間を持っていれば、この不名誉で哀しい順位は疾うに返上していたのではないか、と自責をもって重ねて思う。

「忙しい」が言い訳の御旗(みはた)となり、そう言えることが真正「現代人」であり、選ばれた人である名誉・勲章との優位意識となり、更にはそこに自己陶酔することが“陽(ひなた)”の人生かのような世にあって、人間(じんかん)への志ん生の思いはどれほどに通ずるのだろう。
「忙しい」と言うことで、対話を封じ込め、相手の想像(力)を削(そ)ぎ、己が正当、善、真を覆いかぶせようとする傲岸極まりない意識が無意識に働いているように、現職中忙しくしていた私には思える。
心が亡くなる「忙」。いつまで繰り返される「忙」の哀しみ。死に際しての常套表現「ゆっくりお休みください」。

学校は教師も子どもも大忙しの世界である。教科(正しくは担当者の多くの?大人)それぞれが、矜持まばゆいばかりに基礎基本を言い、課外活動等々すべてが人生の基礎素と諭し、かてて加えて子どもたちは塾に、稽古ごとに……。
それに克(か)ってこその、「勝者」現代人との光輝?その道程で落後した子どもと親の悲哀に幾つも出会った。
彼らは、日本での、(更には欧米での?)競争原理世界での敗者であり、憐憫、同情は無用、「眼は人間のマナコである」? そんな“ゆとり”が次代を担う若者をひ弱にする、と指摘するほどの知勇は私にはない。
教師体験だけではなく、私の児童生徒学生時の体験からも、現行の学校在籍期間の自由選択を入れた延長等々、制度・内容の大胆な改革を思う一人だからなおさらである。

私は己が生徒・教師体験から私の言葉で教育を語ろうとするが、その限界にいつも苛(さいな)まれている。
癌をはじめとする難病との闘いを強いられている子どもたち、「特別支援」「養護」との言葉が付せられる学校世界にある子どもたちの教育について、私は概念的観念的でしか言葉を紡げない。
それでも、子どもたちの状況、環境を越えてすべての生の根底に置くべきことは、大人の、社会の受容力、包容力こそが、科学の発達と長寿化、その中での少子化日本を考える要諦ではないかと思っている。
現実を肌で知っている多くの国民を愚弄し、せせら笑っているとしか思えない「一億総活躍社会」との傲慢が、一部で誉めそやされている現代日本。

この批判は「私が」のそれではなく、マスコミ=情報、事実、との時代錯誤そのままに安住していない人たちにとっては何を今更、のことである。 当然、先日の「保育園落ちた日本死ね」発信には、私の周囲の人々を含め大いに快哉(かいさい)の雄叫びを上げた一人である。

言葉は道具である……。
言葉は生を鼓舞する、と同時に剥奪もする。教師はその言葉を生業(なりわい)の基本にしている。とりわけ国語科教師は。(ここでは音楽や美術や体育の言語……については触れない。)
教室での「眼は人間のマナコである」、生徒たちの無言の授業評価はそのときどきに明示される。そのとき終了の音(音楽)が鳴った瞬間に「えっ!もう終わった?」との生徒同士の言葉を耳にすることは、教師冥利に尽きるのではないか。私の場合、33年間で数えるほどしかないが、ある。。
40分なり50分が、彼ら彼女らの内で一瞬に凝縮された快感。恍惚。言葉は道具を超える。言葉が音楽に昇華された瞬間。神の微笑みの直覚。法悦(エクスタシー)。

「噺家は喋っちゃアいけない」
以心伝心、魂・霊性の自覚。不立文字。“ゼロ”を創り出したインドに端を発し、中国・朝鮮を経て日本で大きく開花した禅。
無為自然を説く老子の言う「玄のまた玄」。母胎の無限に思い馳せる永遠、宇宙の心象の魅惑。「玄(げん)牝(ぴん)」。
東洋的見方、考え方……。
しかし、私の薄さゆえの、言葉を重ねる矛盾と限界、そして諦め、だからこそ湧き上がる一層の憧れ。小津安二郎監督『東京物語』の、名画の名画たる由縁、私を惹きつけてやまない理由、また画中原節子と香川京子さん演ずる姉妹の会話にどこか違和感を持った私とも重なる。

国語教科書の常連、中島 敦(1909~1942)の『名人伝』(中国の、弓の名人を主題にした小説)の一節。

――至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。――

この名人の域に達し得た主人公(紀昌)の風貌について、作者は次のよう書く。

「……なんの表情も無い、木偶(でく)のごとく愚者のごとき容貌」と言い、紀昌の旧師に「これでこそ初めて天下の名人だ。」と言わせる。

志ん生をはじめ、6代目圓生(1900~1979)や3代目金馬(1894~1964)など一時代を画した落語家たちに落語を教え、「噺家は喋っちゃアいけない」と言った初代柳家小せんは、過度の廓通いから脳脊髄梅毒症を患い、更に後に白内障で失明し、1919年、36歳で世を去った。
なるほどと思う。
ふと「狂気」との言葉が過ぎりもするが、私が如き人間が人の域にあって思い巡らせる限り、「狂気なくしては生も生活も展開しない」は、甚だ不得要領で、ただ常識に囚われている自身を見るだけである。
そんな私がよくぞ33年間教師が勤まったことだ、とつまるところ家族や多くの他者の恩愛に行き着く。

ほのかな微笑みを浮かべていた娘の死に顔は、どこまでも安らかで、私たち親の前にあった。
そこには一切の言葉は昇華し、ひたすら永遠があった、と私たちには刻まれている。

因みに、5代目古今亭志ん生の次男、63歳で世を去った3代目古今亭志ん朝(1938~2001)が、後10年20年と齢(よわい)を重ねていたら、父とはまた違った意味での他に追従を許さない粋(いき)な噺家になっただろう、と惜しみ愛でる人は、京都人の私もその一人で、多い。
40代で既にその片鱗を見せてはいたが、父志ん生が60歳になって分かって来た「噺家は喋っちゃアいけない」の、絶妙の“間”のある流麗さを極めた噺家に、きっとなったことだろう。本人の眉間のしわが浮かぶ。
その氏の没後10年に刊行された語りと対談集の書名は『ついでに生きてたい』。

江戸、市井人々の生活に係る読み物を読んでいたら「虫売りは 一荷に秋の 野をかつぎ」との川柳が引用されていた。哀しくなるほどの感動が走る。
小さな籠に入れられデパートやスーパー等で陳列され売られている今の世にあって、江戸の昔の天秤棒に載せ売り歩く姿自体に風情を掻き立てられるとは言え、今、私たちに、その虫売りを見て野山に思いを馳せる心の広がりをどれほどに持てるだろう。[五・七・五]に写す技術以前のこととして。
現代人にとっては、引退隠居して初めて持てるほどに遠い郷愁でしかないのかもしれない。文明と生と人に想いが行くが、すでに世界の多くの人々の「マナコ」が語っていることである。
教師在職中以来の久しぶりに、川柳を少し紐解(ひもと)いた。
「花の雨 ねりま(練馬)のあとに 干し大根」「かみなりを まねて腹がけ やつとさせ」等々に印をつけている、そのことが、かろうじて記憶の底にあるようなないような私を見た。
ただ齢を重ねただけの野暮な私が、一層身に沁(し)み入る。

2016年3月11日

香港と日本のアジア小学生交流  その4(最終回)

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校 講師
森本 幸一

CIMG2359 (1024x768)   コルベ神父とコルベ講堂(仁川学院小学校内)

CIMG2358 (1024x768) 再見!二日間の交流を終えたSFA児童と両校の先生方

今回の香港のSt.Francis of Assisi’s Engrish Primary School (SFA)と日本の私立仁川学院小学校との交流は、実際に他国の同世代の子どもたち同士が交流するという大変意義深いことであることを実感した。両国の子どもたちは、活動を通してたがいに片言の英語やアイコンタクト、 身ぶり手ぶりをつかって意思の疎通をはかろうした。
(後に境先生からうかがった話だが、仁川学院のある児童が、この交流を通して英語力の必要性を感じたのだろうか、「先生、英検2級とったほうがいいかな。」と言ったそうだ。)

 この交流が子どもたちの心にどんな影響をもたらしたのか私には定かではないが(ぜひ、両校の先生方にそのようなお話をうかがいたいと思うが…)、しかし、私がこの交流を直に見させていただき、仁川学院の先生方やマギー先生との会話の中で確かな手ごたえを感じたことは確かである。

また、学校教育の現場で、見える学力、数字として見える成果を子どもたちに養うことは大変重要なことではあるが、それをややもすると偏重しがちな昨今である。しかし、学校内ではいじめや不登校、社会では残忍な殺人、ISによるテロ、国家間の紛争、核武装などの信頼を築けないがための武力の誇示など、子どもたちが全ての人たちへの愛の心やまなざしを培っていくことに影を落とす出来事は数え上げればきりがない。私も一教師として悩みの多い一人ではあるが、しかし、こんな時代だからこそ子どもたちの心に信頼し合う大切さを実感し、それに向けて進んでいこうとする意志を育てていくことは大変重要なことであると思う。そういう意味でも、この香港と日本の子どもたちの交流は、アジアの子どもたちが互いに心を通わすことのできる仲間だと実感できる貴重な交流であったと思う。

仁川学院、SFA両校の共通の聖人フランシスコは、太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」と呼び、その自然の中で神の愛に気づき、そして小鳥に向かって説教したという話もあるが、これら地球上の自然の中で生きるわれわれ、とりわけ教育に携わる者としては特に子どもたちが、人を含めたこの地球上のさまざまなものからの愛に気づき、たがいに愛と信頼の心で結ばれることを願ってやまない。

仁川学院とSFAの交流がこれからも続いていくよう、北宋の蘇軾が「水調歌頭」で仲秋の名月を観て歌っているように(「但願人長久 千里共嬋娟」)、私も今夜は寒月を愛で、両校の絆が深まるよう願いたいと思う。

井嶋先生を中心とした十数年に及ぶ日韓・アジア教育文化センターの繋がりがこの交流を実現させたことは大変喜ばしいことで、私もその一役を担えて、大変光栄に思っている。

 

 

2016年3月3日

香港と日本のアジア小学生交流  その3

日韓・アジア教育文化センター
小林聖心女子学院小学校 講師
森本 幸一

 CIMG2370 (1024x768)     柔道着に着替えて「はい! ポーズ」

詩の説明をするマギー先生 (1024x768)     詞の説明をするマギー先生

送られたカードをみる香港児童 (1024x768)     プレゼントされたカードを見るSFA児童

 

 

11月27日金曜日。2日目も北風の吹くとても寒い日でしたが晴天。SFA児童、先生方全員が健康で交流開始。

まず始めは、小学校がちょうど避難訓練のため中学高等学校図書館の茶室で、SFA児童全員が順番に柔道着に着替え、模造の日本刀や木刀をさし、侍(さむらい)のようないでたちで記念撮影をするという奇抜なアイディアを考えてくださっていた。
立派な「書」が飾られている図書館を通り、二階の畳敷きの茶室へ靴をぬいで入った。そこでまず最初に前川先生から、茶室の由来や、茶室の入り口である「躙(にじ)り口」は、わざと狭くして刀を差して入れなくしていることなどの茶室の歴史や、日本刀の話など日本の歴史、文化に触れていただいた。

その後茶室で襖(ふすま)を隔てて男女に分かれ、男子は前川先生と奥野先生が、女子は境先生が一人ひとり柔道着に着替えていくお手伝いをしてくださった。私の予想以上に子ども達はとても興味深そうで、真剣そのもの。写真撮影の時は模造の日本刀や木刀を持って構え、侍になり、映画俳優のようにポーズをとっていた。さらに劉校長先生や黎主任、翁先生も侍のいで立ちで記念撮影をして大いに盛り上がった。
一方、マギー先生は、茶室での行儀作法を子どもたちに教えていただいていたようで、時々興奮気味のみんなを落ち着かせてくださった。さすが、マギー先生だ。

次は体育館へ移動し、仁川学院5年生の児童とSFA児童全員で日本人なら誰でも知っているであろう「ラジオ体操第一」をするという企画。まず、最初に仁川学院の児童にお手本を見せてもらった。体操隊形に開くその行動や掛け声は溌剌とし、きびきびとしていて素晴らしかった。そして、仁川学院の児童がグループごとにSFAの児童に教えてあげ、最後に全員でラジオ体操第一をした。

その後、5年生の教室(オープンスペース)で香港の児童が広東語で「詞」の暗誦を披露し、それをマギー先生が解説。(その「詞」について後日、マギー先生にうかがったところ北宋時代の蘇軾が11世紀後半に仲秋の名月を歌った詞「水調歌頭」だそうだ。日本文化とのつながりを感じた。)

最後に両校の児童が互いのプレゼントやカードを交換した。二日間という短い交流だったが、昨日、最初に出会った時と比べると随分と打ち解け合い、互いに言葉を交わし、仁川学院とSFAの交流、いや日本と香港の児童の交流が終わりをつげた。

思うに、仁川学院が今回SFAとの交流で考えてくださった交流のプログラムは、はっきり言って今様のものではないが、どれ一つをとっても日本の小学校教育で大切にしてきた重要な伝統的要素を含んでいて、私にとって改めて小学校教育を考える指針をしめしていただいた、と感じた。また、SFAの児童、先生方も異文化をものともせず、旺盛な好奇心で体験していただいたことによって、この交流がより一層充実したものとなったと確信した。