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2016年4月18日

現代日本社会の「文明」に想いを巡らせてみたい……[序] ~東北地震・福島原発そして熊本・大分地震から~

井嶋 悠

分不相応を越えた表題で我ながら気恥ずかしいが、日本近世文化研究者・田中優子さんの『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』を読んでいたら、「隠居してこそ、わが人生」との1章に出会った。日本文化史に燦然と輝く江戸時代の著名人(氏が採り上げた人物は、歌川広重、平賀源内、井原西鶴、松尾芭蕉)、伊能忠敬、小田宅(いえ)子)は、隠居して豊かな業績へと邁進した旨のことが書かれてあった。何か志のある人はそのためにまず働き、老若年齢関係なく或る時期に隠居し、隠居は新たな人生の出発で、人々にとって憧れだった、と。
現代のどこか消極的、他律的印象ではない、積極的、自律的な隠居像が浮かぶ。

私は10年前に隠居!し、豊かな自然の下で多くの人が憧れる生活を始めた。しかし、4年前に娘の死に遭うと言う途方もない試練を受け、公私両方から自照自省を始めている。このブログ投稿はその都度の拙劣な集成の試みであるのだが、私の場合は「小人閑居して不善を為す」とわきまえている。
ただ、愚鈍なこの私でも、隠居することで心との対話が繁くなり、“生”と“世”が見えて来る。ましてや田舎生活だからこその都鄙格差が体感できるのだから、上記の著名人なら何をかいわんやであろう。
そして今回の表題である。

娘の4回忌(4月11日)を、娘も納得する急な事情で、彼女の永遠の根拠地・井嶋家の菩提寺(京都)で過ごせなかったため、心ばかりの供養と私の心の再構成から久しぶりに上京した。上京して彼女を偲ぶ場所の一つは、娘が強い関心を寄せ自学していた太平洋戦争の、旧址「巣鴨プリズン跡」である。何度か一緒に行っていたが、4年の時間は、その時のことも以前とは違った激しい心象で甦らせる。
(因みに、A級戦犯として絞首刑に処せられた七人の内、彼女が心酔していたのは、広田弘毅と板垣征四郎であった。)
東京の或いは大都会の魅惑と嫌悪を新たに追確認して帰宅したその夜、熊本地震が起きた。

以下は、一昨日16日の新聞報道である。

――気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象について「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と述べ、観測史上、例がない事象である可能性を示唆。「今後の活動の推移は、少し分からないことがある」と戸惑いを見せた。――

地震津波監視課長と言う立場にあっての発言の難しさがあろうかと思う一方で、氏の豊かな人格を直覚し、触発され、私の思いに重ねたことを今回書く。

私が、現地を訪ねて支援(ボランティア)の何かができるわけでもない。できることは義援金を送るか、何か発言することぐらいである。そこで拙い言葉を綴る。
この同じ葛藤を、娘の場合は東北大震災時、心身の病にあって苦悶と言っていいほどに歯噛みしていた姿が思い出される。

自然を征服してこその人類との西洋文明観に、その西洋が痛切に反省し始め一世紀ほど経つ現代、日本は今、どれほどに自然に謙虚であるだろうかと思う。人為の限界などどこ吹く風、絶対、完全との言葉を神為よろしく豪語、煽動的に言う様々な領域の人の何と多いことか。
災害時に備えての注意事項がしきりに伝えられ、地域の危険個所が指摘されてはいるが、各家庭等に、危険個所等に事前配慮、整備がなされているだろうか。また災害後の復旧と再生で、災害者にどれほどの安心を与えているだろうか。東北大震災と福島原発災害の現在をどう見ればよいのだろうか。

時に災害にほとんど無力でさえある私たち人間は、長短はあっても一切の例外なく訪れる死について、或いは死と生について、どのような心構えを持ち得ているだろうか。もし自身のより深い所で持ち得てないとすれば、それはなぜだろうか。若いからは理由にならないのではないか。文明は常に前進するものとの、陽性の先入観に侵され続けているのではないだろうか。
宗教教育といった特定領域の教育のことではなく、また年に1,2回行われる講師を招聘してのセミナー的なものでもなく、どれほどに学び得ているだろうか。

政府等行政は財政不足を言い、増税の大義名分に立て、かてて加えて少子化、長寿化で、年金、医療の将来危機さえ言い出す。

[ここで、国都道府県市町村政治家(議員)の、時に世界への虚飾的矜持かと見まがうかのような国民の税金の濫費やそのことへの言い訳《言葉》の寂しさのことは言うまい。古人曰く「過ぎたるはなお及ばざるが如し」で、何度も言う寂しさはあまりに酷(むご)いので。]

この国の在り方に本末転倒を見るのは、社会を主導する人々からすればそう言う見方こそが本末転倒なのだろうか。それとも日本が世界の先進国たるためにはやむを得ない犠牲であり、文明の発展は都市化であり、近代化で、その恩恵をどれほどに受けているのか自身の胸に手を当てなさい、とのことなのだろうか。
明治ご一新の「文明開化」に始まり、西洋に追いつけ追い越せと勤勉な国民性をしゃにむに発揮し、1945年8月15日の歴史的敗戦にもかかわらず、今日では追いつかれ、追い越される対象国となるほどの文明国日本。しかし一方で、西洋社会の心ある人々による文明の自照自省、そこから爛熟化複雑化と叡智の狭間での幾つかの兆候、現状を採り上げ、「文明の崩壊」を言う人たちがいる。

九州には、玄海原発(佐賀県)と川内原発(鹿児島県)があり、熊本県はその間である。東北大震災と福島原発と同列に言えないかとは思うが、それでも原発がなぜ必要なのか、そこに疑問を持つ専門家の言葉をマスコミはどれほどに伝えているだろうか。(近くの公立図書館には原発関係の、とりわけ反原発、非原発関係の、図書が数十冊まとめて並べられている。)
一説によれば、東京で、東海で、大地震が極近時にあるとのこと。
対症療法の限界を疾うに越えたおぞましさとおそろしさがそこにあるように思えてならない。

保育園建設が地域住民の反対でできなくなったとのこと。誰しもえっ!と思うが、子どもの声を騒音とする感覚と子どもの保護者の送迎に係るマナーによる危険との理由を聞いて、その驚愕をはたして持ち続けられるかどうか。あまりにも根が深いと思う。
東京等大都会で当然のごとく横行している歩行者道路での自転車の、人との、自転車同士の一触即発の行き交い。自動車の路上駐停車なくして営業のかなわない業務実態社会。狭い道路を人すれすれに、殿様気分を誇示したいのか、すり抜ける大型自家用車群……。
高齢者、幼児たちへの、また都会暮らし不適応者への無言の退去圧力……?

教育はすべての人間が係わることであり、教育が家庭、学校、地域、社会を映し出す鏡であることを、誰しも承知していることであるが、その教育社会、とりわけ学校教育社会も対症療法の限界に来ている。
ここ何年かフィンランドの教育の素晴らしさを言う人が増えているが、その人たちの中でフィンランドが一時自殺大国であったがゆえに国の在りようを変革した結果であることをどれほどの人が言っているだろうか。
社会が、その社会を動かす政治家や官僚やそれを支え誘導する専門家が、思いつき的?に出した提案でどれほど学校は、教師は振り回されて来たことだろう。「(横断的)総合学習」然り、「センター入試」然り、「偏差値教育」然り、「英語教育」然り……。学校社会構造は聖域としてそのままに繰り返されるとかげの尻尾切りがごとき対症療法。

最後に、中高校国語科教育の私事体験から拙付記を。
海外・帰国子女教育は日本社会を見事に映し出す鏡であることを痛感したが、先年の「(横断的)総合学習」の本質的反省もないままに、ヨーロッパに起源を持ち、インターナショナルスクールや欧米の現地校で多く採用されている「国際バカロレア教育」に向かうあさはかさは一体どこに由来するのだろう。
これが日本の文明観また文化観なのだろうか、と日本で初めてのインターナショナル・スクールとの協働校勤務から、国際バカロレアを直接に、間接に(海外在留子女への通信)指導した私は自分に問うている。

2016年4月8日

中国たより(2016年4月) 『渡海人』

井上 邦久

この一ヶ月も色々な方とお会いし、お話を聴かせてもらいました。

上海静安区の朱實老師のお宅をまたまた訪問しました。そして漢俳(漢字だけで五七五、十七字、季語に当る言葉を使い俳句的な世界を醸し出します)の作品をお預かりしました。

一雷驚百蟲 万象更新春意濃 耕種微雨中  瞿麦(朱實)

(拙訳:啓蟄や万象めざめる微雨のなか)

冬を乗り越え啓蟄を迎えたことを歓び、春気が濃くなる微雨のなかで土を耕し、新たな種を植えていこう、という明るい内容の作品でした。卒寿の春を迎えて、なお一層創作に意欲的な句意を喜ばしく思いました。
この漢俳に朱實老師からの献辞を添えた色紙は、三月末に山田洋次監督にお渡しできました。
翌日の2015年度大連日本商工会文化事業イベントで「ぼくと大連と寅さん」と題する講演をされる予定の山田監督と同じフライト、しかも機内では近くの席に座る巡り合わせの良さがありました。「朱さん、お幾つになった? 90歳!」と気さくに対応いただいたので、漢俳の大意は『母と暮らせば』『家族はつらいよ』を仕上げたばかりの山田監督への、朱老師からの激励のようですとお伝えできました。

大佛次郎賞受賞記念講演会が満員札止めの横浜市開港記念会館で行われました。第42回目の本年度は、詩人金時鐘氏の回想記『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』(岩波新書)が受賞対象でした。昨年9月の「中国たより」に、金時鐘氏の済州島脱出について少しだけ触れた拙文『済州島』を綴りました。受賞作の回想記を通じて、1948年4月3日から1954年まで続いた(完全終息は1957年?)「四・三事件」について、よりリアルに知ることができました。その流れに沿って、実体験をご本人の肉声で聴きたいと思い、講演会への申し込みをしました。

淡々とした関西なまりの金氏は、文章では表現し尽くせない臭いや粘り気を我々に伝えようとされていると思いました。知的好奇心とか歴史への興味からの姿勢だけでは吸収しにくい精神のオリ(澱・滓)の塊(=魂?)を伝えようとしているのかとも思いました。
金氏は21世紀になって、ようやく済州島に戻ることができました。故郷で金氏は両親や事件で亡くなった人たちの「魂(霊)寄せ」の祭祀を主宰したとのことです。もともと自分は唯物論的な発想をする人間ですと断りながら、金氏は祈ることで救いを得たと最後に語りました。

台湾と朝鮮の若い詩人が、同じ1949年に密かに海を渡っていることに気付きます。

一人は日中戦争終息後の国民党による台湾支配のなかで、2.28事件のあとも民主文化運動の挺身。ついには身分証明書を偽造して基隆港から脱出し、英国船籍の貨物船で大陸に渡った朱實老師。

一人は朝鮮半島で南北政権が対峙するなか、済州島での民主化運動に参画。4・3事件の緊張下で身を潜め、父親が極秘裏に手配した漁船で済州島を夜陰にまぎれて脱出し、神戸市の須磨海岸あたりにたどり着き、大阪市の猪飼野に棲みついた金時鐘氏。

お二人が同じ年に両親や故郷と別れて、海を渡った背景には国民党・中華民国と共産党・中華人民共和国の対立や大韓民国と朝鮮民主人民共和国の対峙があり、更には米国とソ連を盟主とする冷戦構造の亀裂が鋭角化する朝鮮戦争のまさに前夜のことでした。

朱老師、金氏と同じく海を渡った人の肉声を聴く機会が3月にもう一度ありました。

台湾原住民作家シャマン・ラポガン氏を挟んで作家の高樹のぶ子さん、台湾文学者の魚住悦子さんによる公開鼎談が東京虎の門の日本財団ビルでありました。シャマン・ラポガン氏は1957年台東県蘭嶼という離島の生まれ。台湾原住民16族のなかで唯一の海洋民族であるタオ(ヤミ)族の漁民。国立清華大学修了。人類学修士。台北でタクシー運転手などの就業をしたあと蘭嶼島に戻り、伝統的な漁をしつつ作家活動を続けている由。

新作の下村作次郎訳『空の目』(草風館)を訳者自身から届けてもらい、その夜の公開鼎談のあとも下村さんからシャマン・ラポガン氏について色々と教わりました。核廃棄物の貯蔵施設設置に対する反対運動家でもあること、翌日は同氏夫妻の希望に沿って三浦半島の漁港を案内すること・・・「読む前に知る」のは場合によっては、先入観が強くなることもありますが、この夜のシャマン・ラポガン氏の中国語による発言はウィットに富み、知的で論理的でありながら原初的で荒削りな魅力に溢れていました。無駄のない直裁な表現内容をシャマン・ラポカン氏は短いセンテンスで区切り、卓抜な女性通訳者との相乗効果を生み出していました。

英語圏でも翻訳本が出版されているというシャマン・ラポカン氏は流暢な英語も口にしていたようでしたが、日本語はできないようです。氏の父親世代たちは逆に中国語を学びきれなかったものの、日本語は話せるとのこと。朱老師や金時鐘氏世代に当るのでしょう。

新作『海洋文学――父の物語』の一節に、漁場での印象的な箇所がありました。

・・・わしらはマグロやロウニンアジを何匹か釣り上げた。叔父がわれらの漁獲はこれで充分だ。十匹以上とってはいけないと言った。海に魚が「いつまでも」いるというわしらの信仰は貪欲さを受け入れないというのだ。わしらはその信念を受け入れ、帰るために舟を漕ぎはじめた・・・

同じ時期に、BS画像で台湾の対岸である浙江省の漁業関係者の生活を見ました。つい数年前までの鮮魚需要拡大に上滑りした感じの好景気、御殿のような家並みが続く町。
若いやり手の船長のニヒルな言葉を曖昧に記憶しています。

「乱獲競争のため漁獲は減り、収入は減るばかり。そして網の目は益々小さくなり、水揚げされるのは小ぶりの魚ばかり。小魚の段階で獲ってしまい、成魚になるまで待つ自己規制が機能していない。他の漁船に根こそぎ獲られてしまうから」

浙江省の船長が、台湾蘭嶼島の漁民作家の小説を手にすることは当面ないでしょう。                      (了)