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2016年9月11日

中国たより(2016年9月)  『後日談』

井上 邦久

 

昨年の8月は、上海・北京での6年に渡る駐在生活を手仕舞いし、帰国した翌日に茨木土曜クラブで中国レポートの務めを果たし、夏の甲子園の開幕式に立ち会ってから、8日に関西医大枚方病院に入院しました。生まれて初めての病院生活、全身麻酔などを体験しました。医師と看護師の皆さんのチーム力と、温かい見舞いと、高校野球の熱闘甲子園の全試合TV観戦という愉しみのお蔭で下旬には「ダヴィンチで命拾いし夏も往く」という状態で退院しました。

今年の8月は、集中講座15コマの授業から始まりました。一昨年まで5日間の夏季休暇は一時帰国して、3日間を授業に充て、残り2日を甲子園詣でという日割りが定着していました。来年からは余裕をもったプログラムに改善して「顧客満足度=CS」の向上に努めたいと思います。8月1日午後、授業最中に台湾原住民文学研究者から届いた連絡で促され、急ぎスマートフォンで台湾からの動画を見ました。蔡総統が原住民への400年に渡る差別収奪に対する謝罪をしていました。発言の中で「我代表政府、対○○道歉」(私は政府を代表して、○○に対してお詫びを申し上げます)を繰り返していたのが印象的でした。

今年の茨木土曜クラブ8月例会の案内(8月6日2時~)です。

1. タイトル:今なお残る戦争の跡
2. 語り部 :角中 徳義(土曜クラブ会員)
3. 内 容:いまわしいあの戦争が終結してから71年が経過しました。茨木市で小学生・中学生として体験した戦争の事実とその後の混乱期をいかに生き抜いたかを語り伝え、併せて今の平和の尊さがいつまでも続くようにとの思いを語ります。

角中さんは会長を勇退された後もクラブをサポートされている方です。今回は旧制の茨木中学時代に音楽や英語の教師から米国事情を聴かされ「愛国必勝」一辺倒ではなくなったことを訥々と語られました。学徒動員先は大阪造幣局。硬貨を製造しなくなった設備で特殊金属を加工して武器弾薬を造らされたこと、毎日の退勤時に全裸で溝を跳び越える持ち物検査を強いられた屈辱感を常にない強い口調で語られたことが印象的でした。桜の通り抜けで知られる、本来は平和産業であるべき造幣局に関する戦時秘話を学びました。
翌日、角中さんから電話があり「会のあとに貰った中国たより文集に載っていた『松村翁』の松村昇君は母方の従弟やがな。驚いた!」とのこと。土曜クラブでは殊更に勤め先や仕事の話をすることはなく、20年来ご指導を頂いている角中さんにも松村産業の松村社長の話をすることはありませんでした。そういえば松村さんも軍事教練を抜け出して人形浄瑠璃に通っていた事を自慢されていました。戦時下でもこの従兄弟同士の中学生は一味違っていたようです

二年ぶりの8月15日の甲子園アルプススタンド。何とか宮崎県代表日南学園の応援席に潜り込んで席を確保しました。名物「かちわり」で頭を冷やして、名物甲子園カレーで腹を満たした正午。サイレンの合図で全員黙祷、球場全体が静まり返る1分間でした。持参していた日経新聞朝刊、伊集院静による連載小説『琥珀の夢』は、主人公鳥井信治郎が小西儀助商店へ丁稚奉公に出る辺りの素描でした。会社の先輩に小西課長が居られ、野球部そして小西儀助商店(現コニシ株式会社・大阪道修町)のご出身で、筆も立ち社内報に「船場今昔」の文章を連載されていました。残念なことに病魔に襲われ、ご自宅での葬儀に参列したのが、ちょうど夏の大会の最中であったことをアルプススタンドで思い出しました。そして平和と健康のありがたさを改めて感じました。

平岡昭利氏の労作『アホウドリと「帝国」日本の拡大』が、尖閣「国有化」問題が先鋭化した渦中であった2012年11月出版の為、際物(キワモノ)扱いされては平岡教授も迷惑だなと思いました。また当時の「上海たより」で発信するのを控えたい気持ちもありました。その後、NHKがラジオ・テレビで熱心に取材報道を続けていますが、その行為目的にも注意を払って来ました。・・・今まで眼にしたこともない異様な鳥の群であった。全身が白く、翼の先端が黒い。巨鳥と言ってもよいほどの大きな鳥で、それらが、ひしめき合うように地表をおおっている。・・・平坦地そのものが大きく揺れ動いているように、地面は鳥に埋もれていた。(吉村昭『漂流』新潮文庫116頁)
米国駐在も経験された山男の方から「アメリカリョコウバト」がその肉が美味である故に、米国民たちに狙われ、ついには絶滅種になったことを教えてもらいました。毛ざわりが良いとか肉が美味いというのも考えものです。

上海東亜同文書院の後継として、戦後に愛知大学が豊橋市に創立され、「中日大辞典」編纂など多くの業績を上げていることは知られています。長年、愛知大学で教鞭を執っている荒川清秀教授には、二十歳の頃から兄事し様々な啓発を頂いています。豊橋市美術館でのアンドリューワイエス展の特別企画として、高橋秀治氏(春まで愛知県美術館副館長。現在は多治見現代陶芸美術館館長)によるレクチャーを荒川教授夫妻と一緒に聴きに行きました。帰宅後、東亜同文書院から愛知大学への足跡を綴った学内説明書を郵送して頂きました。その書中に陸鞨南の名前が頻出している事が印象に残り、陸鞨南の新聞『日本』と東亜同文会に共通する支柱である近衛家にも思いを馳せました。
北京駐在中の陸鞨南研究会の高木宏治さんにそれらを伝えたら、すぐに多くの調査報告文献の存在を教えてくれました。且つ、その多くが高木さんの業余での編集によることを知りました。「汗顔の至り」と謙遜されていましたが・・・

ビッグコミック・オリジナル誌に連載が続く、ジョージ秋山の作品『浮浪雲』の舞台は東海道品川宿。時代は幕末、坂本竜馬らも登場しますが、魅力は主人公の飄々とした生き方、そして時々洩らす何気ない言葉です。色々ある中で、ずいぶん昔に印象に残った「下駄ばきで富士山に登った人はいない」という言葉が今になってまた身に染みてくるようになりました。

この8月、物事に集中されている方々の姿勢に触れることが多くあり、「余技」だからと自らを甘やかせる態度との違いを感じ続けました。

台湾文学・原住民文学の翻訳に昼夜集中している合間を縫い、大学の休憩時間に会いに来てくれて「集中しているのは、文章で飯を喰っているのだから当然のこと」という言葉を残して帰って行った文学者。

若き日に接したアンドリューワイエスの絵画を研究テーマと定め、来年米国での開催準備が進んでいる生誕100年記念展の解説書に「日本人とアンドリューワイエス」というテーマでの執筆依頼が届くまで集中されてきた館長。

二十歳の頃から継続して生きた中国語を貪欲に吸収し、整理して、教科書や辞書を執筆編纂され、NHKの中国語講座の講師を何度も務めた教授。

そして、
実業の世界に身を置きながらも、陸鞨南研究を軸にして新聞学や関連する日中間の資料の収集整理を継続されている北京駐在員。

術後一年の検診結果も順調であるとは言え、富士の山に登ることまでは考えていません。しかし下駄ばきで歩ける範囲は知れたものであります。しっかりした履物に換えるか、基礎体力を鍛えるか、遅まきながら「どうしたもんじゃろの~」と旧東海道品川宿のそば処「いってつ」の片隅で思案する日々です。                                               (了)