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2016年11月30日

「人情」のこと ―現代日本社会と私―

井嶋 悠

 

「生兵法は大怪我のもと」
人生71年、教師生活33年、死に到らず怪我で済んだことで善しとしている私。老子が言う「不言の教・無為の益」「無為自然」は憧憬だけで彷徨(さまよ)い、「無用の用」の境地にはほど遠く、折々に出会う人に恵まれ救われ今日まで生きて来られた。そんな私とは言え、娘の死に向き合うことで沸々と湧き上がる自と他への、社会への忿(いか)り止み難く、愚者はいつも後塵後覚よろしく人・親・教師からの自照自省。
妻は先月心臓手術で九死に一生を得る。妻と優れた医師や看護師との出会い。これほどの粛然たるべき時間にあっても、私の表現・人物の空疎さは、怠惰な半生が日毎に露わになり、立ちはだかる「文は人なり」。天意の私への酷(むご)いまでの厳罰、断罪……。
「七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を越えず」との孔子の述懐とは裏腹に、憫笑ものの牽強付会。粗悪文。それでも親愛の微笑を信じての得意な我田引水。書くことでそこはかとなく自己浄化(カタルシス)を感じ、2004年にNPOに認証された『日韓・アジア教育文化センター』の【ブログ】に性懲りもなく生兵法の投稿を続けている。老いだからこそできる恥を死語化しての遊(すさ)び……。しかし私なりの必然からのこと。と言ってもこれは私事。
それに引き替え、「国際」での大怪我は戦争に、日本の、地球の壊滅につながる。

例えば日本のアメリカ姿勢。大統領選挙戦から連日連夜報道され、喧々囂々(けんけんごうごう)(当事者たちは侃々諤々(かんかんがくがく)?)のマスコミ。マスコミを奥義知悉、免許皆伝の集まりとは思っていないからなおのこと、反戦ではない、非戦の日本の大怪我に、反米国の標的に、ならなきゃいいが、と小人小心な私は不安に駆られる。
アメリカを最大の同盟国にして世界最大(この大の意味には触れない。肝心要なことだが)国との偏愛がもたらす生兵法の危惧。
週1回定期的に放送される1時間のテレビ報道番組で、こんな場面に出くわした。アメリカ大統領選挙中の現地から「アメリカのあの良識はどこに行ったのでしょう!?」と憂えを浮かべ知り顔で締めくくった某大手新聞社記者(論説員?)。両候補が言っていた「Great」の意味が同じなのかどうかの説明もなく。その語り手に見たことは尊大と独善の選良(エリート)意識で、アメリカはそれほどまでに良識溢れる理想の国なのでしょうか、と難癖をつけたくなる私がいた。

我が国首相は、一番!?(だけ)を名誉勲章に、就任前大統領に「夢を語り合いたい」と何と夫人同伴で出掛け、TPP問題でアメリカなしでは意味がないと断言した記者会見直後に、その大統領が脱退を明言。私は結果的に!この人を首相に選んだ一人であることの、日本人としての恥ずかしさを再自覚。
その後ロシア大統領との会談等々、何十回目かの今回の外遊でも数千万円(海外援助の約束を含めれば一億数千万円?)の国税が使われた。そして22日、復興途上の福島で強い地震。その時その人は外遊中。なぜ直ぐに帰るとの姿勢を示さないのか。高度情報時代、現地からの指示で十分と考えたのかもしれないが、あなたがいなくとも何ら問題ないとも取れる。
世界のリーダーを果たす日本と公言してやまないこのような人物を、カネ以外の理由で支持するのは世界のどういう人たちなのだろう。カネあってこその平和であり、幸福であるというのが「国際」倫理であり、その実践者という矜持への拍手喝采なのだろうか。「夢を語り合いたい」の夢を想像すると身の毛がよだつ。そして大怪我をするのはいつも平民。中でも次代を担う青少年たち、老人たち。させた大人たちは恒例の儀式陳謝会見で一件落着。「水に流す」のあってはならない醜悪さの一面。

ところで、私は中国政治支持者でもなんでもないが、中国主席のほぼ同時期にアメリカ現大統領と会う深謀遠慮。したたかさ。“義理”堅さ。

更には、第1回「駆けつけ警護」(このネーミングを考えた人は凄い?人だと思う)に出発した自衛隊員。その出陣式での、首相隷従者にしてネオナチの日本代表?日本人男性とのツーショットで物議をかもした、防衛大臣の意味深長な式辞の怖しき権力者意識の露呈。これも小人小心者の杞憂?
こういう人たちは、ベトナム戦争のドキュメンタリー映画『HEARTS & MINDS』(1974年・アメリカ制作・アカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞)の内容とタイトルをどうとらえるのだろうか
閑話休題。

 

「今の世の中って人情みたいなものを軽んじていないかって思うんです。少し恥ずかしいものみたいにね。でも人情がなくなってしまったら、社会は崩壊してしまう。」

これは、映画『深夜食堂』[原作:安倍夜郎(やろう)(1963年~)の漫画。2006年から連載され、2009年からテレビドラマ化。2015年劇場映画化]の監督・松岡 錠司(1961年生、現55歳)氏のインタビューでの言葉である。

尚、原作者の安倍氏は、影響を受けた漫画家としてつげ義春氏(1937年~)と滝田ゆう(1931~1990)を挙げている。なるほどと思う。

舞台は、東京・新宿裏通りの大衆食堂。私にとっても懐かしい場所の一つ。と言っても、裏通りが表通りのような脚光を浴び、一方で国際的!に益々“怖い”場所と化しつつある今日、単に郷愁に過ぎないのだろうが。しかし変移のあまりの急激さだからこそ作品に老若を越えて魅かれるのではないか。近代化、都市化が猛進する日々にあって、ふと心の隙間を埋める、人であることの自照自問の時間。明日の自身への慰め、生きる力へ。という私もその一人。
政財界では「これからはアジアの時代」と喧伝されているが、この作品は韓国、中国、台湾の東アジアでも共感され、今年世界190ヶ国に配信されたとのこと。

何に共感するのか。人が人であろうとすればするほど己が生きて来たこと、今在ることに思い駆られるが、それを合理・(自身の)言葉で説明できない。心に襲い掛かる孤独。ふと情(じょう・なさけ)という言葉が駆け巡る。行間の情に想像を巡らせるときのあの陶然に通ずる心持ち。それを日本的ヒューマニズムと言う人もあるが、190ヶ国への配信者には、世界に通ずる日本文化発信と同時に、母国日本への警鐘にも似た呼び掛けの意図があるようにも思えて来る。
これは山田洋次氏と渥美清の二人三脚が為し得た『男はつらいよ』にも通ずることであろう。

因みに『日韓・アジア教育文化センター』では、古今の精神文化から東アジアを再考したいと考えたが、日本語教育に終始して今日かろうじて生き続けている。その意味では、2006年、韓国の池(ち) 明観(みょんがん)先生をお招きしての、上海での『第3回日韓・アジア教育国際会議』は私たちなりの活動の頂(いただき)だったかもしれない。にもかかわらずの停滞は、ひとえに私の諸限界ではあるが、韓国・中国・台湾との出会いを通して日本・日本人・日本文化を再考再認識する時間ともなっている。

近代化、都市化、工業化、技術化…「文明」化の「化」は人の所為で、その人が、或いは創り上げた人工物が人を圧し、時に死に追い込んでいる現代。「死ぬまで働け」「ヒトはカネへの歯車だ」「お前が辞めても代わりはいくらでもいる」等々、罵声を浴びせ掛ける上司への追及はそこそこに、時に評価さえもされ、繰り返される過労また鬱々とした自責による自殺者、またその潜在者の、外国人労働者を含めた増加。つぎはぎ療法としか言いようのない対症療法で得心する行政、立法関係者。そこに視える言葉の力の意図的計算的悪用。そして麻痺。
ふと、中国の映画監督ジャ・ジャンクー氏(1970年~)の作品、『長江哀歌』(2006年)『罪の手ざわり』(2013年)が思い出される。
学校は人生のほんの一端との功利的「通過点」指向に徹し得ない不器用者と重々承知していても、学校教育は次代の礎との言葉の虚しさを思う人は少なくない。私も妻も娘もその一人で、私は元教師。

学校は児童生徒学生・保護者・教師(正しくは教職員)の三位一体あってこそと言われるが、現実には、公立は校長・教育長・文科相を、私立は校長・理事長を頂点に、教師が構築するピラミッド世界がほとんど。(もっともそうならざるを得ない現状、環境があることは経験上重々了解しているが、これについては別の機会にする。)
大学の遊園地化、社交場化との嘆きの言葉は何年も前からだが、その要因を子どもに、安易に求めれば先に挙げた憂い顔のジャーナリストと同じ穴のムジナに過ぎない。社会を映し出す子どもたち、社会の下部構造としての学校。

先日公表された福島から横浜への小学校転校生のいじめも然り。対応する学校、教育委員会、文科省の、権威を背にした善処善導と言う自己弁護と責任転嫁の上での達成感。それぞれの優越意識。言葉を弄していることへの無感覚。もちろんこれも自省。
横浜のことは氷山の一角と断言して言える。そこに公私立の区別はない。今回の一件、何度も投稿している教師の児童生徒学生へのいじめにつながることで、教師そして親の自照自省、その時だと思う。

私は感傷的(センチメンタル)人間だと自認しているから、他者から揶揄的にそれを指摘されまいと気構えて過ごして来た。思いもかけない幸いを得て、隠棲的生活に入って10年を経た今、「人間(じんかん)」を離れ、清閑に自照する日々にあるからなのだろう、時代(社会)の行き詰まりを直覚、思考する人が増えている。ただ、「昭和」を郷愁とかロマンに、「下町」を人情の篤さに一面的に結びつけるような感傷に耽溺しないようには注意している。これも人生過程での「生兵法は大怪我のもと」から得たこと。

政治に確かな姿勢を持たないにもかかわらず憤慨することの多い私は、国際的有為な人材育成としての教育は理解し、実践もして来た。しかし、例えば自己(自我)を主張する大切さに、私自身子ども時代からその要因はなく、教師になってもそれは変わることなく、時に違和感や恥じらいを持つ、その後ろめたさがある。
だから、アメリカに留学した日本人大学生の体験から、「自我を主張する文化」西欧文化と「共感の文化」日本文化に思い巡らせたり、江戸時代の儒学者で、孔子の言う「仁義礼智」の最高善「仁」から「愛」に高め「和合の世界」を説いた伊藤仁斎(1627~1705)について、彼が生きた時代は「政治の時代」で「材、能力が何よりも重んじられ」、「ヒューマニズムの思想の儒教世界における発達はとまり、…国学者・本居宣長(1730~1801)によって近世社会におけるヒューマニズムの思想的立場ははじめて確立した」といった表現に接すると己が心を慰撫し、得心する尊大な私がいる。
この「  」は、日本近世・近代思想史研究者・源 了圓(りょうえん)氏(1920年~)著の『義理と人情』(1969年刊)からの引用で、刊行されて半世紀経つ。

人情について著作から少し引用する。
71歳の私の引用箇所について、96歳の氏はどのように思われ、10代後半の高校生は何を感ずるのだろう。

 

「……情はものに感じて慨歎するものなり。……」との本居宣長の言葉を引いて、「この「情」が日本のヒューマニズムの中心的位置を占めるのである。人間が人間らしくあることを、情を知ることのうちにわれわれは求めたのであり、そしてそれは、王朝文化の歌や物語の中に体現された人間の理想的な生き方であった。……」

(注:「慨歎」との言葉に魅入られる。ただ、「そしてそれは」以下については、全的に共感できない私がいる。これは学校教育を考える時に、どのような学校、児童生徒学生を思い描いて語るのか、とも通ずることである。)

 

(本居宣長が唱える)「「物のあはれ」とは、(1)物や事の心をわきまえ知る、(2)わきまえ知って、それぞれの物や事に応じて感ずる、という二つの心的作用から成り立っている。分析的に言えば、知ること、さらにそれを知性や理性の層から感性の層に沈殿させることを意味する。」

(注:すべての人に公平に与えられている沈殿に必要なものこそ時間であろう。だとすれば、現代の世も学校もあまりにも忙し過ぎる。子ども大人も一緒になって忙しくさせている。)

 

「情が物や事に触れて感動することによって生まれたのが「物のあはれ」であるとすれば、情は他者に向かって発動することにおいて「情け」となる。そこでは情は人や物への共感となる。……「物のあはれ」という美的理念を生み出したとき、西欧ヒューマニズムとはちがった仕方ではあるが、そこには個人の完成への志向があったと言ってよいであろう。しかし個性の尊重という点については、われわれは日本のヒューマニズムが不十分であったことを認めざるを得ない。」

(注:氏は、明治時代の詩人・思想家北村透谷(1868~1894)を挙げ、近代的自我の主導者である“浪漫派”の彼の、自我の没却への転向と自殺について,日本人の「甘え」も視野に述べている。 ところで、同時代の夏目漱石(1867~1916)は“高踏派”と言われているが、高踏派の生き方を思う時、漱石の代表作の一つ『草枕』の冒頭「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」は、意味だけでなく自身の在りよう、自我或いは個性に思い到れるかもしれない。)
私・個の在りようとしての情・情けを説いた後、氏は公・社会の在りようとしての「義理」について述べているが、私の場合「情」の場合と違って「義理」について「「知性や理性の層から感性の層に沈殿させる」には、かなりの時間を要する。しかし、政治的時代の、非政治的な一人の人間の生きよう、在りようが視えて来るようにも思える。

 

先日こんな歌、歌人を知った。[歌人・林 和清氏(1962年~)編『日本の涙の名歌100選』所収の100首目の歌]

「終止符を打ちましょう
そう、ゆっくりとゆめのすべてを消さないように」

2009年26歳、心臓麻痺で他界した歌人笹井 宏之の歌。

林氏の鑑賞に次のような言葉が書かれていた。

「…なぜか生きることの苦手なわかもののかなしさやさびしさ、くるしさが、かろやかな言葉にのって歌われている…」と。
この歌を、歌人をもっと前に知り、2012年に他界した娘に伝えることができていれば、と自責的に想う。

『深夜食堂』の原作者安倍夜郎氏が影響を受けた漫画家つげ義春氏の作品集の解説[映画研究者・佐藤 忠男氏(1930年~)執筆]に、かつての文学少年・青年と現代の漫画少年・青年の同意性のことが書かれていた。私が4コマ漫画(例えば、サザエさん、フジ三太郎等)以外、漫画・劇画が苦手な理由に、はたと気づかされ、そこから我が身をかえりみることにつながっている。
私は中高校国語科教師であったが、文学少年でも青年でもなかった。だから「国語教育は、畢竟言語の教育である」との言葉に、「目からうろこが落ちる」驚きを持ったのかもしれない。

 

2016年11月7日

中国たより (2016年11月)  『番外編』―再会―

井上 邦久

フランチェスコ・ビセーニャ氏はネズミ歳です。
奥さんもフィレンチェ大学の同窓で、自宅アパートもフィレンチェ市内にあります。階段を歩いて三階までは直ぐですが、セピア色の映画に出てきそうな手動式ドアの三人乗りのエレベーターで昇って自宅を訪ねるのが好きでした。
2009年7月から中国に駐在してから、ASEANと韓国への短期出張はあっても、欧米へ出かけることは皆無になっていました。2006年からは機械や車両事業の主幹も兼務していたので、ライフサイエンスの仕事でイタリアへ赴くことが減っていましたし、その間にビセーニャ氏はさっさと医薬原料メーカーを退職していたので、かれこれ10年余りお好みのエレベーターに乗る機会がありませんでした。

口にすると身体に重篤な問題を起こす毒劇物も含めた無機化学品の担当者から、ヒトや動物の口にして貰うことで売上が伸びるライフサイエンス部の主管者になったのが1998年。異例の人事でした。不良在庫と履行能力の怪しい契約残をそれぞれ5億円も抱えた、末期症状の部に未経験者をパラシュート降下させたのは、敗戦処理投手としての措置であると明言する幹部もいましたし、火中の栗を拾うことはないと助言してくれる先輩もいました。天邪鬼気質と此れ以上は悪くなることがないという或る意味での気楽さでライフサイエンスの学習をしました。1989年6月の事件で、中国貿易が一気に冷え込んだ時期に青島事務所長と北京の化学品担当の兼務駐在をした時も、今は最悪だからやっただけプラスだと考えて、行動した経験も思い出しました。
資金や資産を圧縮し、取引先数を三分の一・取引品目を半分に減らし、新規開発と利益率最優先・・・という当たり前の手法で基盤強化を行った上で、全社からヒト・家畜・魚の口を通過する商品を全てライフサイエンス部に集約してもらいました。中国比率を20%以下に抑えるという、当時としては時流や社風に反した方針を立てました。
ライフサイエンスというFDAを始めとする国際ルールを遵守する商品特性を考慮して、高付加価値で独占寡占が可能な商品開発をするには、製造業としての独自性を持つメーカー、農業牧畜の伝統産業の進化系事業を追求すべきだ・・・となると中国よりも欧米のユニークなメーカーに眼を向けることが大切だと考えたからです。

牛の胆汁を出発原料とする医薬品メーカーがミラノとジェノバの間のノヴィリグレ村にあります。その会社の貿易部長としてビセーニャ氏は時々来日来社しているとのことで名刺交換をしました。商談や会食は担当者たちに任せて、会食の場に遅れて参加したのは、ちょうど週末の東京観光リストをビセーニャ氏に渡しているところでした。取引が僅少だからでしょうが、遠来の客人にリストを渡すだけで事足れりというのは一寸冷たいなあ、という感想が生まれ、併せて20平米足らずの川崎の単身赴任者社宅で週末を過ごす生活に嫌気が差していた個人的な理由もあって、御節介にも土曜日をご一緒しましょうと言ったら、三方良しの反応となり乾杯をしました。

根津美術館ではちょうど光琳の「燕子花図」が展示されていました。研究熱心なビセーニャ氏に伊勢物語のかなりいい加減な筋書きを伝え、「在原業平はドンファンか?カサノバか?」といった色の道に不案内な人間には即応しにくい難問をぶつけられました。
近くの太田美術館で浮世絵を眺めながら、江戸庶民の豊かさと粋がどこまで伝わったかは別として、ビセーニャ氏と様々な交流ができました。成り行きで日曜日も大仏や八幡宮以外の鎌倉を見たいとの要望に従い、鎌倉通の知人から教わった観光客の少ない穴場を歩きました。土光敏夫さんのお墓のある安国論寺で、経団連会長がメザシを食べながら日本の合理化を考えたなどという話で盛り上がりました。

ビセーニャ氏をフランコと呼ばせてもらうようになった日曜日の夕方、「明後日からは関西で仕事をするが、関西の観光名所は大きな駐車場の横の寺とか、エレベーター付きのコンクリートの城とか、イタリアでは考えにくい状態だ」との辛口コメントがありました。
それは聴き捨てならぬと「奈良を歩いたのか?」と問うと知らないという返事。ならば、祝日を使って奈良に行きましょうという自然な流れになり、鹿に迎えられて興福寺の五重塔のエリアに入った段階で「君の言いたいことは分かった」と握手になりました。東大寺で干支に因んでネズミのお守りを贈りました。

それから数年、実に幸運なことにイタリアの小さなメーカーと日本の大メーカーを、中くらいの商社が仲介する合作提携が始まり、毎月のようにイタリア出張や日本での受け入れが続きました。復帰して頂いた薬剤師の資格を持つ先輩に医薬GMP管理体制を整備してもらったり、フランコの奥さんや上司とのささやかな直接交流の為に日伊協会でのイタリア語講座に通ったりもしました。取引拡大の過程で、好事多魔とも言うべき事態も発生しました。
2001年9月10日に千葉県で狂牛病(BSE)が見つかり、その翌日のニューヨークでの大事件とともに、一生忘れられない二日間となりました。それからしばらくは狂牛病対策に奔走しました。米国中心のルールを日本側が間違いなく咀嚼し、それをイタリアに履行を求めるという容易でない業務の結節点を、薬剤師の先輩とともに何とか務めたつもりです。

色々な局面でイタリア人の好い加減さにぶつかりました。中国の戦術的ないい加減さとは異なりましたから、初歩からイタリアのスタイルを学んで行きました。

毎年の大晦日の電話で「いつまで待たせるのか?早く遊びに来い」と言われ続けて、今回ようやく再会できました。前回の訪問時は、ご夫婦二人だけとの交流でしたが、今回は娘と旦那と孫娘二人、息子とナポリ出身の魅力的なフィアンセと総勢8人で出迎えて貰い、手作りのトスカーナ料理にキャンティワインが進みました。日本土産のなかで、三島食品の「ゆかり」(紫蘇・シソのふりかけ。英語では何というのか?ハーブの一種だと好い加減な説明)はライスやパスタに合わせて東洋的な味わいだったと好評でした。今も研究熱心なフランコは、この食品は有名な作家と縁があるのか?と日本通の片鱗を家族の前で見せていました。

小一時間のドライブでピサに着きます。大理石の産地として名高いピエトロサンタのアトリエで制作を続け、イタリア各地の街中に展示される安田侃さんの作品。今年は幸運にもピサが舞台でした。かつてジェノバの本社からフィレンチェへの道中で回り道をしてもらい、安田さんの工房を探し当てたことを思い出したのか、フランコも御縁を喜んでいました。
次回来日時に、安田さんの出身地のアルテピアッツァ美唄を案内するのは難しいでしょうが、今では北海道まで行かなくても東京のミッドタウンの通路にある巨大な卵のような作品、三菱商事の前にある代表作などを案内できます。

ピサの斜塔はずっと修理中だったので上までは見ずの状態でした。今回は上まで登りました。エレベーターはないのか?とフランコに問うと、大阪城とは違うと笑っていました。